2010年12月27日月曜日

素晴らしい哉,カウンセラー

エレイソン・コメンツ 第180回 (2010年12月25日)

クリスマス・デー(キリスト御降誕の祝日)は,なぜ私たちの主イエズス・キリストの到来を私たちが喜べるかまた喜ぶべきなのかを思い起こすのにふさわしい一時です.唯一キリストのみが,私たち人間が抱えるあらゆる現実の問題を解決することがお出来になります.私たちの直面する問題は人類の起源にまで遡(さかのぼ)るもので,今日(その程度,内容は)かつてないほど深刻です.

(なぜキリストのみに解決可能なのかというと)それは,人間のあらゆる現実問題が罪と関わっているからです.純粋に物質的な障害,不調はどんなものでも,それが何らかの意味で精神的なものである場合に限り深刻な問題となるに過ぎません.たとえば身体的な病が原因で人が呪ったり祝福したりするような場合です.そして私の中で起るいかなる精神的な心の動きも,それが何らかの意味で罪となる場合にだけ障害となるのです.たとえばヨブは自分の身体的な苦痛を深く嘆きましたが,それは罪深い行いではありませんでした.罪に関して言えば,それは何よりもまず第一に神への,第二に自分自身への,そして第三に隣人への無秩序行為あるいは不法行為です.(訳注後記…「ヨブ」について.)

したがって,単に物質的な問題にとどまらない現実の問題はすべて,神の怒りに触れるような行いをした人たちの問題ということになります.極端な例は堕胎の罪を犯した女性の場合です.堕胎によって彼女の問題は表面上解決されたかのように見えます.お腹の赤ちゃんはいなくなり,彼女の人生は「平常に戻って」います.だが心の底では,彼女は心を鬼にして「クリスマスを嫌い,やめさせるような世界に」加わるか,それとも自分がひどく恐ろしい過ちを犯してしまったことを理解してそれを自認するかのどちらかです.どちらにしても,彼女の内には多かれ少なかれ,その後の人生でなにかしら不正確で歪(ゆが)んだものが残るでしょう.そして同じ経験をした女性の多くは,たとえカトリック教徒であって信仰により神が罪の赦しの秘蹟を通して自分たちをお赦しになっているとわかりながらも苦悩を心にとどめることでしょう.罪が心に与える傷はそれほど深いものです.堕胎が最悪の罪というわけではありません.神に直接背(そむ)いて犯す罪のほうがはるかに重い罪です.

クリスマスにしてはなんとも恐ろしい話でしょうか?どちらとも言えません.罪の問題は恐ろしいものですが,実際の解決が可能なことを知れば,その恐ろしさに相応して素晴らしく大きな喜びとなります.もし哀れな少女が告解に訪れれば,たいていの司祭は彼女のために出来るだけの力を尽くし,もし犯した罪を(キリストの弟子ユダ・イスカリオトのではなく使徒ペトロの悲しみをもって)心から悔やむなら,司祭の与える罪の赦しの秘蹟を通して神がその罪をお赦しになっていることを疑う必要はないと彼女を説得するでしょう.どれほど多くの悔悟(かいご)者が,ほかでは得られない安堵(あんど)と喜びを心に抱いて告解場から外へ出てくることでしょうか.それは神に背いて罪を犯してしまったという気持ちが彼らの苦悩の中心を占めていたからであり,(告解により)神がその罪を赦して下さったことを彼らが知るからなのです.(訳注・ユダはキリストを直接裏切って死に渡し,後悔の末絶望して自殺した.ペトロは捕われる恐怖からキリストを知らないと言い,後悔して激しく泣き悲しんだ.)

そしてこの喜びはどこから始まったのでしょうか?それは神が疑いもなく一人のユダヤ人の乙女をへて人性を帯び,(訳注・キリストとして人の姿で)地上に生き,あまたの秘蹟の中でもとりわけ赦しの秘蹟を私たちに与えて下さったことから始まっているのです.その赦しの秘蹟が持つ力は,彼(訳注・キリスト)が,御母となった同じ乙女の助力だけを頼りに耐え抜いた受難と十字架上の死の功徳から導き出されているのです.だが,キリストは生れていなければ死ぬことができたでしょうか?すべては彼が祝福された乙女マリアから人間として生れたことに始まったのです - これがクリスマスです.

こういうわけで,私の同胞や私自身が抱える世界中で最もひどい問題にもその解決策が得られるのです.クリスマスにカトリック教徒が喜ぶのに不思議はありません.また信者でない人たちでさえ特別の喜びに与(あずか)れるのも不思議ではないのです - 彼らが心を鬼にし冷やかな態度で構えていない限りは.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

(第2パラグラフの訳注)
・「ヨブ」…英語で “Job”.旧約聖書「ヨブの書」に出てくる,神への信心深い義人.神により信仰を試され,全ての財産と家族を取り去られ全身の不治の病に襲われても神に信頼し,神を呪うことをしなかった.正しい人もまた苦しむことがある〈例えばキリストの受難〉こと,神による救いの約束〈救世主キリスト待望の信仰〉に信頼すべきことを教える.最後にヨブは大きな不幸に耐えた報いを神から豊かに受けた.取り去られた財産や家族などは元の2倍以上増やされ祝福された.)

・「正しい人の苦しみ」について.
以下は,バルバロ神父訳旧約聖書「ヨブの書解説」からの抜粋.

…正しい幸せな生活をおくっていたヨブの上に突如として大きな不幸が襲いかかった.
「正義の神がなぜ正しい人を苦しめられるのか」という疑問に対し,…(神が)宇宙の不思議を語って神の偉大さを示し,人間には無限の知恵である神と相対する権利のないことを教える.
…本書の作者がいおうとするのは,「正しい人の苦しみ」である.ヨブは「正しい生活をしていても災難を受ける」という.読者は序文によって,ヨブの災難が神からではなくサタン(悪魔)からのもので,神への忠実に対する試練であることを知っている.しかしヨブも(ヨブを慰めに来た友人も)このことは知らない.
ヨブは苦しみの中にあっても,神は慈悲であり正義であるという希望にすがりついている.
…この本の宗教的な教えとは,『霊魂はどんなやみ(闇)の中にあっても,神への信頼と信仰を持ち続けよ.』ということである。「罪のない者が苦しむ」という神秘を照らすには来世の賞罰の確証がいる.そしてまたキリストの苦しみと合わせて苦しむ,人間の苦しみの価値を知る必要もある.
…ヨブの切なる疑問に答えるのは聖パウロの書であろう.
「今のときの苦しみはわれわれに現れる光栄とは比較にならないと私は思う」(新約聖書・ローマ人への手紙・第8章18節)
「私は今,あなたたちのために受けた苦しみを喜び,キリストの体なる教会のために私の体をもってキリストの御苦しみの欠けたところを満たそうとする」(新約聖書・コロサイ人への手紙・第1章24節)

・神の知恵は苦しみと死という事実にも,人間の考え及ばぬ意味をもたせうることをヨブは悟った.(ヨブの書・第42章5節の注釈より)

・人間の罪の赦しの秘蹟は,正しい神であると同時に罪なき人たるキリストの受けた「受難と十字架の死」の苦しみを通してもたらされた.その秘蹟の力はキリストへの信仰によって永遠のものである.

2010年12月23日木曜日

資本主義の展開

エレイソン・コメンツ 第179回 (2010年12月18日)

社会は利己主義によっては成り立ちません.今は誰かが社会で自分の要求を通したいときには基本的にその人の持つ金銭にものを言わせる時代です.仮に経済用語以上の意味で,資本主義をすべての国民が望み通りに可能な限りの資本すなわち金銭を作れるような社会を組織する一手段であると定義するなら,資本主義は矛盾(むじゅん)に満ちたものとなります.その場合の資本主義は,誰もがみな利己的になるよう仕向けることで利己主義を要求する社会を作ろうとしていることになるからです.

こういうわけで資本主義は,その資本主義者社会の構成員たちが前資本主義者的価値観,たとえば常識,金銭追求にあたっての節度,公益の尊重などを持ち続ける限りにおいてだけ存続できます.そうでなければ,(上に定義したような利己的な)資本主義は構成員個々にとって不利に働きます.利己主義は無私無欲に反する働きをするからです.その場合,資本主義は寄生生物であり,前資本主義者的価値観の働く社会的身体に寄生して徐々に母体を蝕(むしば)み弱体化させていくのです.

金銭追求の上に築き上げられた社会に内在する矛盾は,世界金融,世界経済の現況の下で壊滅(かいめつ)的な結果に至っています.とくに第二次世界大戦が終わっていらい世界の人々は,かつて生きる目的を与えてくれた精神的な充足より今では物質的な充足を優先させ,ますます金銭追求を強めています.金銭を称賛し追求する人々は,投資家たちが自分たちの社会で権力を振るうことを喜んで許してきました.称賛され引っ張りだこになった投資家たちはますます金銭,権力の追求に熱中してきました.結局のところ,金銭,権力がさらに多くを得ようとするとき,それを抑制するどのような歯止めがそこに内在しているでしょうか?そんなものは何もありません.銀行家たちは紛れもない悪党へと変貌(へんぼう)してしまっているのです.

そういうわけで,たとえば,10年か15年前に考案された「デリバティブ」は,それを提供する銀行屋たちに手数料でひと財産築かせることはあっても,大量破壊兵器のように世界金融の精巧なメカニズムを壊す作用をする金融商品です.なぜならこの金融商品は巨額で返済不能な負債をいとも簡単に造り上げるからです.返済不能な負債で安定を失った詐欺(さぎ)的な世界では,各国政府が次々にどこからともなく大量の「金銭」をひねり出し,その負債を「支払う」ことで見せかけの秩序を維持しています.だが,このような処理の仕方は当該通貨のあらゆる有用性を空にしてしまうインフレに終わるだけです.かくして世界のあらゆる紙幣と電子マネーは - もう長年もの間それ以外にない状態ですが - 今や終焉(しゅうえん)を迎えています.

だが,通貨と社会の関係は潤滑油(じゅんかつゆ)とエンジンの関係に似ています.潤滑油なしでは,エンジンは故障し使い物にならなくなってしまいます.社会で通貨がなければ(物資・サービスの)交換はずっと困難になり商業は減速し行き詰まってしまうでしょう.もしこのような理由で食糧運搬トラックが走れなくなり食料不足が起きたら,とりわけ大都市で,政治家たちはどうやって食糧暴動を回避し農民たちが熊手を手に追いかけてくるのを食い止めることができるでしょうか?戦争を始めるしかありません!

第三次世界大戦もさほど遠くないことかもしれません.主よ,憐れみ給え!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年12月13日月曜日

真理は人を自由にする

エレイソン・コメンツ 第178回 (2010年12月11日)

先週までの三回の 「エレイソン・コメンツ」 (第175-177回) での議論はただ単にフランス人画家ポール・ゴーギャン “Paul Gauguin” (1848-1903年) によって触発されたにすぎません.なぜなら彼は並みいる近代芸術家たちの中でも決して最悪ではないからです.私の論点は,神は存在する,したがって近代芸術は 「くだらない」 “bosh” (イブリン・ウォーの 「ブライズヘッド再訪」 “Evelyn Waugh’s “Brideshead Revisited” I, 6 をご覧ください) ということではありません.むしろ,近代芸術はくだらない,したがって神は存在する,ということです.原因から結果に降りることと結果から原因に昇ることの間には重要な相違があるのです.

仮に私が,神の存在を前提として始め,たとえば近代芸術,近代音楽,近代オペラ演出などが誤りだと結論づけるなら,まず第一に,神とその存在はそれによって証明されません.そして第二に,神の宗教は私たちの自由を束縛する車輪止め(駐車違反車に取り付けるクランプ)みたいに私たちを急襲するもののように受け止められるでしょう.ところで,私は私であり,どんなものであろうと好きな芸術を自由に選びたいのはこの私なのです.だが,そこへ天国から舞い降りたとおぼしき駐車違反監視員が自由を取り締まりに来たとします.余計なお世話です!

一方,もし私が近代芸術についての私自身の体験から取り掛かれば,私はまず私が直に知っていることから始めます.そしてもしそれについての私の体験が,正直なところ,不満足なものであれば - ここでは必ずしも当てはまりませんが,もし当てはまるとすれば - その時,私は高く称賛されている近代芸術家たちの作品を前になぜこのように不安を感じるのか不思議に思い始めるかもしれません.私はもう一度その称賛に耳を傾けてみます.それでも私は確信できません.なぜでしょう?近代芸術が見苦しいからです.見苦しさのどこがいけないのでしょうか?それは美を欠いているからです.もし私が,たとえば絵に描かれた風景や女性の美しさを通して,それが持つ自然な本来の美,作品にみなぎる各部分の調和へと上昇し続けるなら,私の思考は私自身の個人的な体験から出発して万物の創造主に向けかなりの道のりを上昇することになるでしょう.

この後者の場合,神はもはや車輪止めを手に持つ駐車違反監視員のように映らなくなります.逆に,神は私たちの自由を抑圧するどころか,醜(みにく)さ (訳注・=見苦しさ. “ugliness” ) は世界を吹き抜けるカオス(混沌,こんとん.“chaos” )を造り出すものだと宣言する自由意思を人間に残してくれるかのように思えるのです.神はおそらく,醜さが不快を極めるあまり,私たちの思考を真理と善に向かわせるのではないかと望まれているのかもしれません.この時点では,神の宗教はもはや私たちの内なる自由に対する外からの車輪止めとは似つかぬものとなり,むしろ私の内にある最悪のものを退け最良のものを引きだす手助け,解放者となります.なぜなら,私が高慢でないかぎり,私は自分の内にあるものすべてが必ずしも秩序づけられ調和したものではないことを認めざるをえないからです.

その時点で,神の愛 ( “supernatural grace” .超自然の恩寵.) は,ある種の警官のように私の生来の性分に背後から乗り移って私のすることを何でも力ずくで制御しようとするものではないのだと思えるようになります.むしろそれはとてもよい友人で,もし私が願えば,私の内にある最悪なものから最良のものを解放するか,少なくともそうなるよう努めてくれるものなのです.

第二バチカン公会議と公会議の宗教の背後にある一つの原動力は,カトリックの伝統とはあたかもすべての人間生来の衝動を悪と決めつける鼻持ちならない警察官のような存在だという共有感覚でしたし,それは今でも変わっていません.確かに,私の堕落した性質から出る衝動は悪です ( “…the impulses of my fallen nature are bad,…” ). だが人間の性分には悪と裏腹に善良なものが隠れており ( “…there is good in our nature underneath the bad,” ),その善良な部分が息つくようにしてあげなければなりません.なぜなら私たちの内にあるその善は外からくる神の真実な宗教と完全に同調するからです.そうでなければ,私は自分の内なる悪の衝動から偽の宗教をねつ造しているということになるのです - まるで第二バチカン公会議のように.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年12月8日水曜日

六ペニーの芸術

エレイソン・コメンツ 第177回 (2010年12月4日)

フランスの画家ポール・ゴーギャン “Paul Gauguin” (1848-1903年)は芸術のために社会と絶縁しましたが,(訳注・家庭を捨てるまでして)自由の身になって創作した芸術は彼に心の安らぎをもたらさなかったようです(EC175).英国の作家サマセット・モーム “Somerset Maugham” (1874-1965年)はゴーギャンの没後数年を経て彼の生涯を小説にしました.彼はその中で,ゴーギャンの(訳注・社会との)絶縁と心の安らぎの欠如の双方を確認しているように思えます(EC176). だが,この近代芸術家は,自分が向き合い,自分を支えてくれる社会となぜ折り合いがつかなくなったのでしょうか?また彼の生み出した近代芸術が概(がい)して見苦しいのはなぜなのでしょうか?そしてなぜ人々は見苦しい芸術を支持し続けるのでしょうか?

反逆的な芸術家はロマン派に遡(さかのぼ)ります.ロマン主義はフランス革命とともに繁栄しました.革命そのものは単に1789年に起きただけですが,その影響は今日までずっと玉座と祭壇 “throne and altar” (訳注・ローマ教皇聖座(司教座)とカトリック教会の祭壇(さいだん))をその地位から引きずりおろし続けてきました.近代芸術家たちは自ら住む社会を映し出すものですが(一般に芸術家とはそうせずにはいられないのでしょう),彼らは神の否定を着実に強めながら生きようとします.神が存在しなければ,有史以前から人の心を支配してきた神という錯覚から解き放たれ,新しい自由のもとで芸術が穏(おだ)やかに繁栄するはずだというわけです.だが近代芸術は果たして穏やかなものでしょうか?むしろ自滅的ではないでしょうか?

一方,もし神が存在し,そしてこれまでに数知れない芸術家たちが公言してきたように芸術家の才能は神の栄光のために使うべき天賦のものだとするなら,神を信じない芸術家は自身の持つ天資と折り合えなくなり,彼の天資は彼の属する社会と,社会は彼の天資と敵対するようになるでしょう.こうしたことはむしろ私たちの周りの至る所で目にする光景ではないでしょうか?例えば,現代の物質(唯物)主義者が表面で敬意を装いながらも,陰(かげ)ではあらゆる芸術を深く軽蔑しているというようなことです.

もし神が存在するなら,とにかく上の疑問に答えるのは簡単です.まず第一に,芸術家が社会に反目するのは,自らの内にある神の息吹すなわち自身の天分が神のない社会など卑(いや)しむべきものだと知っているからです.自分が軽蔑する社会が自分を支えてくれているとなると,彼は社会をますます卑しむべきものと捉(とら)えるでしょう.ワーグナー “Wagner” がかつて自分のオーケストラが拡大したため劇場の客席を一列取り除く事態となったとき「聴衆が少なくなる?なお結構!」と言ったのと同じです.第二に,神に敵対する天賦の才能が何か調和のとれた美しいものをどうして生み出せるものでしょうか?近代芸術を美しいと思うためには言葉の意味を逆に解釈しなければならなくなります.「きれいは汚い,汚いはきれい」 "Fair is foul and foul is fair" (マクベス)(訳注・シェークスピアの悲劇「マクベス」 “Macbeth” で登場する三人の魔女の言葉)・・・それにしても,近代芸術家はいつから女性の美を醜さと取り違えるようになったのでしょうか?そして第三に,現代人は神に戦いをいどみ,その手を緩(ゆる)める意思もないため,言葉の意味を逆に取りたがるのでしょう.1453年,コンスタンティノープル*の陥落(かんらく)直前にギリシア人たちは「冠よりトルコ人を」*と言いました.第二次世界大戦後、アメリカの上院議員たちは「カトリシズムよりむしろ共産主義をとる」と言い,その願望を叶えました.(*脚注…訳注後記)

手短にいえば、ワーグナー,ゴーギャン,モーム,その他あらゆる種類の近代芸術家たちが六ペニーの安物になり下がった私たちのキリスト教世界を軽蔑するのは結構ですが,それに対する答えは,近代芸術を用いて神とこれ以上戦うべきでないということです.神との戦いを止め,神本来の栄光を再び神に返し,キリストをキリスト教世界に戻すことです.人間が冠に立ち戻りもう一度カトリシズムを選び取るためには,あとどれだけの醜さが必要なのでしょうか?はたして第三次世界大戦(訳注・という醜さ)ですら(訳注・人間が神に立ち戻るための解決策として)十分たり得るでしょうか?

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第4パラグラフの脚注:

「コンスタンティノープル」 “Constantinople” について:

・現在のイスタンブール(欧州とアジアの境界となるボスポラスBosporus海峡の欧州側に臨(のぞ)むトルコ最大の都市(トルコの現在の首都はアンカラ).)

・古代ギリシア人の植民市ビザンティウムByzantiumとして創建され(紀元前658年),330年コンスタンティヌス1世(大帝)によりローマ帝国の首都コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)となる.その後ローマ帝国が決定的に東西に分裂した際(395年)コンスタンティヌス一世により東ローマ帝国(=ビザンティン帝国)の首都とされた(-1453年).(西ローマ帝国の首都はローマ.)

・ラテン語の他ギリシア語が公用語として用いられ,ギリシア的キリスト教観をもち,ギリシア文化の伝統のうえに立った東方教会(ギリシア正教会)が発展した.国際大都市として栄えた.

(この時,(既に313年コンスタンティヌス帝によりローマ帝国で公認されていた)ローマ・カトリック教会は西方教会として西ローマ帝国の方へ分かれ,公用語でもあったラテン語が用いられた.西ローマ帝国は,476−480年に滅亡したが,ローマ・カトリック教は,弱体化した西ローマ帝国の属州を次々と征服していった蛮族(異民族)たちが次第にローマ化してローマ・カトリック教に改宗していったため,そこから周辺地域の国々や住民たちに広がり後世に引き継がれていった.)

・その後オスマン・トルコに征服されてビザンティン帝国が滅び(1453年),都市名は「イスタンブール」と改称されオスマン・トルコの首都となった.

「冠よりトルコ人を」 “Rather the Turk than the tiara” について:

・もとは,東ローマ帝国(後のビザンティン帝国)のギリシア正教徒たちが言った言葉「ローマ教皇の冠よりトルコ人のターバンを(とる)」"Rather the turban of the Turk than the tiara of the Pope." に由来する.

・「冠」 “the tiara” =カトリック教会のローマ教皇位・教皇職の意味.

・“tiara” =ローマ教皇の三重冠・教皇冠のこと.ローマ教皇が典礼以外の公式の儀式に着用する冠.教皇の司祭権・司教権・教導権を表す三重の円形の冠で,頂上に十字架がはめられている.
(ブリタニカ国際百科事典参照))

2010年11月29日月曜日

六ペニー文明

エレイソン・コメンツ 第176回 (2010年11月27日)

フランスの画家ポール・ゴーギャン “Paul Gauguin” (1848年-1903年)の人生を題材として,映画,テレビドラマシリーズ,オペラのほか少なくとも二つの小説が生まれています.彼の人生が現代人に何かを訴えているに違いありません.株式仲買人をしながら妻と五人の子供たちを養っていたゴーギャンが,革命的芸術家になろうとすべての生活を投げ出して遠く離れた南太平洋の島へ移り住み,西洋文明をすべて拒絶しました.だがゴーギャンの安らぎのない最期は,多くの人々の心(魂)がそこで夢見た解決策を彼が見出せなかったことを暗示しているのではないでしょうか?

ゴーギャンの人生を描いた一篇の小説が彼の死後16年を経て,20世紀前半の有名な英国の作家ウィリアム・サマセット・モーム “W. Somerset Maugham” によって書かれました.モームは「月と六ペンス」 "The Moon and Sixpence" を書く題材を自らの手で収集するため南太平洋を訪れました.ゴーギャンを基にしたこの短編小説の表題は奇妙に思えるかもしれませんが,実際は問題の核心をついています.この短編小説出版に先立つ1915年に,大筋ではモームの自伝小説である名作「人間の絆」 "Of Human Bondage" が世に出ていました.ある評論家がこの本の主人公のことを,「月への渇望が強すぎるあまり自分の足下にある六ペンス(当時の英国の銀色の少額硬貨)が決して目に入らない」と酷評しました.言い換えれば,モームは達成不可能な理想を切望するあまりに,すぐ手の届く所にある小さくても現実的な幸福を逃しているというわけです.モームはすぐさま「もしあなたが地面の六ペンスばかりを見つめていたら,上を見ないで月を見逃してしまうことになります」と反論しました.言い換えれば,人生にはより高邁(こうまい)なものが存在するのだということです.

この月と六ペンスの対照を小説の表題に用いたことはモームがゴーギャンのことをどう思っていたかを明瞭に示しています.中流階級の株式仲買人兼家族の父親としてのありふれた幸福が六ペンスです.その幸福な生活をすべて投げ出し一芸術家となったことが月です.さて誰もここでモームが生活や家族を投げ捨てることを大目に見ているのだと考えてはなりません.モームは小説の中でのゴーギャン像たる芸術家ストリックランド “the artist Strickland” を,恐ろしく身勝手で冷酷無慈悲な人物として描いています.だが同時にモームは,彼を天才であり,六ペンスの幸福の中の自身と周りの人々にとって犠牲がいかに大きかろうと芸術家としての天職を求めたのは基本的に正しかったとも描いています.

言い換えれば,今日の西洋文明における大半の人々の人生は六ペニーの価値しかない人生だとモームは言っています.だが生命そのものは六ペンスよりはるかに価値のあるものです.人間が地上で生かされる短い一生の間,そこにはもっと価値の高い何かが存在しており,人がそれを求めて必要とあればかなり多くの六ペニー硬貨を泥沼(どろぬま)に踏みつけるとしてもその人は基本的に正しいのです.(訳注・「六ペニー」=原語 “sixpenny”.「安い,取るに足らない,無価値な」の意味もある.)

実生活ではゴーギャンは少なくとも死後に有名で満ち足りた芸術家として知られるようになりましたが,人間的には情緒不安定で反抗的なまま死去しました.モームはゴーギャンの立証された天才と挫折した人間性の双方を再現しています.だがモームはゴーギャンの未解決の問題を解決したのでしょうか?どうすれば天才と生活とが互いに対立しながらも共に人間的たりうるのでしょうか?これは誰にとっても存在する根深い問題のようです.果たして解決策はあるのでしょうか?来週の「エレイソン・コメンツ」をご覧下さい.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年11月21日日曜日

絶望的な逃避

エレイソン・コメンツ 第175回 (2010年11月20日)

現在ロンドンのテイト・モダン “Tate Modern” (近代(現代)美術館)で,もう一人の偉大な近代芸術家である - それともそう書くと言葉の矛盾になるでしょうか? - フランス人画家ポール・ゴーギャン “Paul Gauguin” (1848年生-1903年没)の展覧会が開かれています.人間はみな人生とは何かについてのビジョンを必要とするように人生についての絵を必要とします.今日では電子技術が大半の絵を提供してくれますが,ゴーギャンの時代には画家たちがまだ絶大な影響力を持っていました.

1848年,パリに生れたゴーギャンは,あちこち旅をし職業を転々とした後,23歳で株式仲買人になりました.その2年後にデンマーク人の女性と結婚し,10年間で5人の子供に恵まれました.この時期は彼にとって絵を画くことは画才を楽しむ単なる趣味に過ぎませんでした.しかし1884年にデンマークの首都コペンハーゲンで事業を始める試みが失敗に終わると翌年,彼はまだ若い家族を捨て専業芸術家になろうとパリに戻りました.

1888年,彼はヴァン・ゴッホ “Van Gogh” と共に絵を画くため9週間をアルル “Arles” で過ごしましたが,この試みは惨憺(さんたん)たる結果に終わりました.彼はパリに戻りましたが,生活に十分な稼ぎもなくまだ画家としても評価されていなかったので,1891年に熱帯地域へ向けて船出(ふなで)しました.それは「うわべだけで型にはまったものすべてから逃れるため」でした.彼は,一度だけパリに帰りしばらく滞在しましたが,それ以外は当時フランス領ポリネシアの植民地だった南太平洋のタヒチ島とマルキーズ諸島 “Tahiti and the Marquesas Islands” で余生を過ごしました.彼はそこで後に名声を得た絵の大半を生み出したのですが,依然としてカトリック教会や国家と戦い続けていました.彼が3か月の禁固刑を受けながら服役をまぬかれたのは,ひとえに1903年に死去したためでした.

ヴァン・ゴッホ同様,ゴーギャンも19世紀後期特有の重苦しい従来型の美術様式で絵を画き始めました.だが,ほぼ同時期のヴァン・ゴッホがそうであったように,ゴーギャンの絵の色彩(しきさい)はずっと明るくなり,様式も従来型からかなりはずれていきました.事実,ゴーギャンは美術における原始主義運動 “the Primitivist movement in art” の創始者であり,彼の死後まもなく,才気あふれながらも反体制精神旺盛(おうせい)だったピカソ “Picasso” にかなり大きな影響を与えました.原始主義は,欧州文明がまるで燃え尽きてしまったかのように思われたため原始的な根源に回帰しようとしたことを意味しました.芸術家たちがアフリカやアジアに目を向けたのはそのためです.顕著(けんちょ)な例がピカソの描いた「アヴィニョンの娘たち」 “Les Demoiselles d’Avignon” です.同じ流れの中で,ゴーギャンは1891年にポリネシアに向け飛び立ち,そこでカトリック宣教師たちが島々へ侵入してきたことを苦々(にがにが)しく感じ,カトリック布教以前の現地の神話に出てくる多神教の神々について学び,それを自分の絵に取り入れました.その中には疑似(ぎじ)悪魔的な人物像が何点か含まれています.

ゴーギャンがタヒチで描いた絵はどれも疑いなく彼の最高傑作ですが,はたしてその作品のビジョンは自らが突っぱね,捨て去った退廃(たいはい)的な西洋文明社会の諸問題に対する実行可能な解決策となっているでしょうか?そうとも思えません.テート・モダンの展覧会で展示中の絵はいずれも原画で色彩豊かですが,描かれたタヒチの人々は,ほとんどが若い女性で,どことなく無気力でさえない印象です.ゴーギャンにとってタヒチは逃避先とはなり得ても希望の地ではありません.退廃的な西洋社会についての彼の見方は正しかったかもしれませんが,彼がポリネシア芸術の中で描き出した地上の楽園は彼に安らぎを与えることはありませんでした.そして,彼は反逆精神を抱いたまま死にました.そこには彼がまだ解決していない問題がいくつか残されているのです.

興味深いのは,著名な20世紀の英国人作家サマセット・モーム “Somerset Maugham” が書いたゴーギャンの人生のフィクション版です.来週の「エレイソン・コメンツ」をご覧下さい.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年11月15日月曜日

もっと努力を!

エレイソン・コメンツ 第174回 (2010年11月13日)

もう50年以上も交友しているある非カトリックの友人が最近,「あなたの確信に満ちた姿勢(信仰心)“certainty” がつくづくうらやましいと思いますよ!」と私に言いました.私はその言葉から,彼はカトリック信者たちの信じているものを自分も信じることができたらと願いながらそうできないように感じている,という意味に受け取りました.それで私は,「信じられるようになるまでもっと努力してみてください!」 “Try harder!” と答えたい気にかられましたが,その場は沈黙を守りました.

確かに,人が何かを信じるのは心で信じるのであり意志で信じるものではありません.それでもなお,本質的に人心が自然に及ぶ範囲をはるかに超えたカトリック信仰の説く超自然的な諸々の真理を人が心で信じようとするときには,意志による後押しがどうしても必要となります.したがって,超自然的なもの(神の神秘)への信仰は意志による行為でないにしても,意志の働きなしには成り立ちません.「自分の意志に反して信じる者は誰もいない」と聖アウグスティヌスは言っています.だからこそ,心で信じない人に対し自分の意志で「もっと努力してみるように」とアドバイスすることは,不合理に思われるかもしれませんが実際はそれほど不合理なことではないのです.また,意志が向おうとする信仰が客観的に本物である場合は,そうしたアドバイスが希望的観測に終わることもありません.

それでも,もしある人がカトリック信者たちの持つ確信を本気でうらやましく思うなら,彼は先ず第一にカトリック信仰がどれほど合理的で筋の通った教えであるかを学ぶことに専心すべきです.その信仰は人の理性を超えたものかもしれませんが,それに反するものではありません.どうしてそのようなことがあり得ましょうか?私たちの理性の創造主たる神が,理性に対してその理性を嘲(あざけ)るような真実を信じるよう命ぜられることがあるでしょうか?そんなことをすれば神は自己矛盾に陥(おちい)ってしまいます.聖トマス・アクィナス “St Thomas Aquinas” はその著書「神学大全」“Summa Theologiae” で,信仰と理性は全く異なるものでありながらも,いかに完璧に調和しあうものであるかを一貫して示しています.

ですから,人間の理性にできること,私の友人がすべきことは,例えば神の存在,人間イエズス・キリストの神性,そしてキリストによる神授のローマ・カトリック教会の設立について証明する完全に合理的な論拠(ろんきょ)を学ぶことで超自然的なカトリック信仰への自然な入り口を築(きず)くことです.そうした諸々(もろもろ)の論拠はすべて,意志の力が自然理性に逆(さから)わない限り,十分に自然理性の理解できる範囲内にあります.誤(あやま)って作動した心は自然理性の面前(めんぜん)にある真理を決して認識することはありません.意志は現実を求めねばなりません.さもないと心が真理を見出(みいだ)すことは決してありません.私たち人間にとっての真理とは私たちの心と現実が適合(てきごう)するかどうかにかかっているからです.

ある人がカトリック信仰の合理性を理解するため,正しい理性と真直ぐな意志で出来るだけのことを一度やってみたが神の賜物(恵み)である超自然的な信仰を得ることができないでいるとします.だが,神が私たちに信じるよう求めておきながら(そうしないと地獄に落とすという条件を付けて-新約聖書・マルコによる福音書:第16章16節を参照)(訳注後記),自身の持ちそなえた自然能力の及ぶ限りの努力を尽くし - 神を欺かず - 信仰の賜物に与(あずか)る準備をする私たちのうちの一人の霊魂に対してすら,その賜物をお与えになるのを拒むことがあるでしょうか? とりわけ,当たり前のことですが,私ができる限りのことを尽くした後で,謙遜な(へりくだった,慎ましい)心で神に祈り信仰の賜物を与えて下さるよう願い求めたとしたらどうでしょうか? 神は高慢な者を認めようとしませんが,謙虚な者には恵みをお与えになります(ヤコボの手紙第4章6節).そして神は真直ぐな心で神を求める人々に対し御自身を現されます(訳注・「心の真直ぐな人は神を見出す」の意)(「第二法の書」第4章29節;「エレミアの書」第29章13節;「(預言者エレミアの)哀歌」第3章25節;その他にも旧約聖書の多くの箇所から引用できます).(訳注後記)

親愛なる友人よ,(訳注・神の御言葉-「聖書」を)読みかつ問うてみてください.努力に応じてあなたはきっとその確信(信仰)を自分のものとすることができるでしょう.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


(第5パラグラフの訳注)
引用されている聖書の御言葉(バルバロ神父訳聖書)

(新約聖書)
・マルコによる福音書:第16章16節
信じて洗礼を受ける者は救われ,信じない者は滅ぼされる.

・ヤコボの手紙:第4章6節
神はおごる者に逆らい,へりくだる者に恵まれる.

(旧約聖書)
・第二法の書:第4章29節
(不信仰のため神の怒りを買って他国に散らされることになるイスラエルの民に対する神の御言葉)
「(その国々の人間の手によってつくられた神々,見ることも聞くことも食べることもかぐこともしない木や石の神々に,おまえたち(イスラエルの民)は仕えることになる.)そこからでも神なる主を探し求め,心と魂を尽くして求めるなら必ず主を見いだす.

・(預言者)エレミアの書:第29章13節
私(神)をさがし求めれば,見いだす.心をあげて,私をさがし求めるなら.(私は姿を現し・・・)」

・(預言者エレミアの)哀歌:第3章25節
主(神)は希望するものに,さがし求める魂に,恵まれる.

2010年11月8日月曜日

40周年

エレイソン・コメンツ 第173回 (2010年11月6日)

先週月曜日は,大いに感謝に満たされた節目の日であると同時にいくぶん不安の残る日でした.その日(2010年11月1日)は聖ピオ十世会が創立されてから40周年を迎えた日で,40年前(1970年)の同日ジュネーブ,ローザンヌおよびフリブール(Geneva, Lausanne and Fribourg)のシャリエール司教( “Bishop Charriere” )が,ルフェーブル大司教がその数か月前に提出していた聖ピオ十世会の規則を普遍教会 (訳注・原文 “Universal Church” =カトリック教会)に代わって公認した日でした.

今日のたがの緩(ゆる)んだ世界的な背教の真っ只中(まっただなか)でカトリック信仰を持ち続け,その信仰によって生きようと真剣に努力している誰にとっても,この日が感謝すべき機会であることは明らかです.第二バチカン公会議いらい公式のカトリック教会は崩壊状態にあり,その状態は今も依然として続いています.なぜなら,指導的な立場にある聖職者たちが,神のいるべき場所に神ではなく人間を置く同公会議の諸々の目新しい物事に固執し続けているからです.したがってカトリック世界の人々はいまだに間違った方向に導かれ続けており,神のお建てになったカトリック教会のピラミッド構造は上から下まで完全に崩れかけています.

それ故に,敬虔(けいけん)ながらもピラミッド構造型の精神を持ち合わせた一聖職者(訳注・ルフェーブル大司教のこと)が,崩壊に向け転落していく主流ピラミッドの内部に,非主流である反ピラミッド構造を築く必要があると考えたことは最初の奇跡でした.彼がローマ教皇制度の権威の影響下で崩壊しつつある主流ピラミッドの下に非主流のピラミッドを構築するのに成功したのが第二の奇跡でした.そしてさらに,大司教の死後20年近くもの間,彼の後継者たち(訳注・聖ピオ十世会の会員たち)が非主流のピラミッドを守り続けてきたことが第三の奇跡です.現在,聖ピオ十世会はカトリック信仰の擁護(ようご)について独占的に振る舞ってはいません - そのようなことは神がお許しになりません! - だが聖ピオ十世会は今日に至るまで長年カトリック信仰擁護の中心となってきました.私たちは,聖ピオ十世会が(その創立いらい今日に至るまでの40年間にわたり)いかに素晴らしい神の賜物であったかを,私たち一人ひとりに理解させて下さる神の善良さに対し,限りない感謝の気持ちでいっぱいです.

だが私たちは同時に用心しなければなりません.バリエル神父(1897年-1983年)( “Father Barrielle” )は,スイス・エコン( “Econe in Switzerland” )にある聖ピオ十世会の最初の神学校で草創期からの霊的指導者でした.私は,バリエル神父が敬愛する師であり聖イグナチオの霊躁( “Spiritual Exercises of St Ignatius” )の偉大な指導者であったヴァレ神父(1883年-1947年)( “Father Vallet” )の言葉を事あるごとに引用していたのを今でも思い出すことができます.ヴァレ神父の作った(訳注・聖イグナチオによる30日間の)「霊躁」の5日間の凝縮形(ぎょうしゅくけい)は - バリエル神父が聖ピオ十世会の神学生たちへ伝達したことにより - 今日に至るまで世界中の聖ピオ十世会の信奉者たちにとり非常に有意義なものとなっています(訳注後記).ヴァレ神父はこの霊躁とその歴史を深く研究し,ひとつの事に気づきました.それは,いかなる修道会が霊躁を説くために設立され,うまくいったとしても,ある一定期間経つと悪魔がその修道会を横道へそらせ,注意散漫(さんまん)にさせ,破壊させてしまうということでした.バリエル神父が引用したヴァレ神父の言によると,その一定期間とはいったいどれほどの期間だったのでしょうか? なんと,それは40年間だったのです!

現在では,この霊躁を説くだけが聖ピオ十世会の唯一の使徒職(訳注後記)というわけではありません.それだから,聖ピオ十世会は悪魔の集中的な注目から逃れることができるでしょうか?(決してそんなことはなく,それどころか)むしろその逆です!たとえその(聖ピオ十世会の)非主流ピラミッドが依然として,いたるところで崩れかけているカトリック教会の残骸(ざんがい)の中でカトリック信仰擁護の中心でい続けているとしても,(それは相も変わらず)悪魔の超集中的な注視対象( “super-concentrated attention” )となり得るばかりなのです!私たちはみなそのことをわきまえて注意しましょう.とりわけ - カトリシズムのピラミッド構造によって - ピラミッドの頂点にいる人たちは注意しなければなりません.そして,私たちはその人たちのことを心に覚えて静かに祈り続けましょう.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


(第4パラグラフの訳注)

・バリエル神父=“Father Barrielle (Le Père Ludovic-Marie Barrielle) ”.
フランス・マルセイユ出身のカトリック司祭.

・ヴァレ神父=“Father Vallet (Le Père François de Paule Vallet )”.
北スペイン(バルセロナ)出身のカトリック司祭.スペイン・フランスで活動した.聖イグナチオの30日間の霊躁を,近代人がその本質要素の結実を損なうことなく5日間で行うことができる形式に凝縮した.


(第5パラグラフの訳注)

「使徒職」“apostolate” について.

・「使徒的活動」,「宣教活動」,「使徒的使命」などの意味合い.
原英語 “apostolate”.カトリック教会用語.キリストの12使徒の(使徒聖ペトロを中心とした)地位,その職・活動に由来する.→「使徒」= “Apostle”.

・“apostolate” は,(キリスト御自身が建てられた教会の首長として直接キリストに任命された)使徒聖ペトロの後継者であるローマ教皇〔司教〕職またその権威・地位を意味する.
その位の名称を「聖ペトロの使徒座」“Apostolic See” =「聖座」“Holy See” と呼ぶ.

・ここ(EC173第5パラグラフ)では「病院(看護)・学校(教育)などの形をとり,ある一定の使徒的(=福音宣教上の)目的のため信徒会・修道会などが団体単位で組織的に行う活動」という意味で使われている.

・一信徒が個人単位でイエズス・キリストの福音の宣教のため献身し,全生活を尽し使徒的活動に専念・従事して働く場合も「使徒職」の意味に含まれる.

2010年11月1日月曜日

糾弾を先延ばしにすべきか?

エレイソン・コメンツ 第172回 (2010年10月30日)

教義の重要性を強調したここ数回分の「エレイソン・コメンツ」(EC 162, 165-167, 169)を受け,ある読者が,教義の重要性は分かるが,第二バチカン公会議を糾弾(きゅうだん)するのは先延ばしにする方が賢明ではないだろうか,と聞いてきました.この読者の根拠は,ローマ(教皇庁)のカトリック教会当局者たち,一般のカトリック信者たちのいずれもが,公会議のことを教理上ルフェーブル大司教に従う聖ピオ十世会が言うほど悪いと受けとめる心構えが出来ていないからというものです.だが現実には,同公会議ははるかに悪いのです.

第二バチカン公会議の諸々の公文書(訳注・原語 “the documents of Vatican II”.以下,「諸文書」)に関する教理上の問題は,主として,それが公然かつ疑いもないほど明瞭に異端的であるという点にあるのではありません.事実,それらの文書で使われている「文言」は,その「精神」とは逆に,一見してカトリック教に則しているように見えます.同公会議の四回の会合すべてに直接参加したルフェーブル大司教が,諸文書のうち最悪だった最後の2点「 現代世界憲章」“Gaudium et Spes” と「信教の自由に関する宣言」“Dignitatis Humanae” を除く全ての文書に署名し承諾してしまったほどです.だが,その「文言」は,公会議主義の神父たちが傾倒していた新しい人間中心の宗教の「精神」によって微妙に汚染されており,それによって当時から今日に至るまでカトリック教会を堕落させ続けているのです.もし,ルフェーブル大司教がこれら当時の16点の文書について今日再び投票をすることができたら,今となっては後の祭りですが,そのうちの1点の文書にさえ賛成票を投じたかどうか疑いたくなるほどです.

第二バチカン公会議の諸文書は曖昧(あいまい)で,外見上,大部分はカトリック教的と解釈できますが,中身は近代主義 “modernism” の毒で汚染されており,カトリック教会内のあらゆる異端の中でも最も致命的な悪影響を及ぼすものであると,教皇聖ピオ十世が回勅「パッシェンディ」 “Pascendi” の中で指摘しています.例えば「保守的な」カトリック信者たちが,カトリック教会への忠実心から同公会議の諸文書を擁護(ようご)しようとするとき,彼らはいったい何を保守しようとしているのでしょうか?それら諸文書が持つ毒,そして何百万人にも及ぶ無数の人々の霊魂のカトリック信仰を堕落させ永遠の地獄へ至る破滅の道に導き続けるその毒が持つ力を保守しようというのでしょうか.このことはまさしく,私に第二次世界大戦中の連合諸国に必需品を届けるため大西洋を横断した連合船団を思い起こさせます.ドイツ軍の潜水艦が一隻(いっせき),船団の防御水域の真っただ中に浮上することに成功し,船を手当たり次第に魚雷で撃沈したのです.船団の護衛にあたった連合軍の駆逐艦(くちくかん)は防御水域の外側で潜水艦を追尾していて,よもや潜水艦が自分たちのど真ん中にいるとは想像もしなかったからです!悪魔は第二バチカン公会議の諸文書の真ん中にいて,何百万もの人々の霊魂の永遠の救いを魚雷攻撃しています.なぜなら悪魔はそれら諸文書の中で実に巧みに変装しているからです.

さて,その船団の中の商船の一隻に目敏(めざと)い水夫が一人乗っていて,潜水艦の吸排気装置(シュノーケル)が残すかすかな航跡に気づいたと想像してください.彼は「潜水艦が内側にいるぞ!」と叫びますが,誰一人本気にしません.その水夫はそのまま待機して黙っているでしょうか?それとも「やられるぞ!」と声を張り上げ,船長が致命的な危機を認めるまで叫び続けるでしょうか?

聖ピオ十世会は第二バチカン公会議について警告の叫びを止むことなく上げ続けねばなりません.なぜなら,何百万もの人々の霊魂が致命的かつ絶え間のない危機にさらされているからです.その危機がいかに重大かを認識するには,理論的には難解だと認めざるを得ませんが,アルバロ・カルデロン神父 “Fr. Alvaro Calderon” の第二バチカン公会議の諸文書についての深遠な著書 “Prometeo: la Religion del Hombre” (訳注・「プロメテウス:人間の宗教」の意)を原著か自国語の翻訳でぜひ読んでみてください.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年10月26日火曜日

心の内なる洞窟

エレイソン・コメンツ 第171回 (2010年10月23日)

スビアコ訪問は私に,カトリック教会における偉大な修道会の創始者四人を相次いで位置づける2行のラテン語の詩を思い起こさせてくれました.その二行詩は教会史の4分の3を俯瞰(ふかん)するものですが,それに加えなぜこれほど多くのカトリック信者たちが今日カトリック信仰にほんの指先だけでしがみついている状態なのかについても暗示しています.

その二行詩とは次の通りです.

Bernardus valles, colles Benedictus amabat,
Oppida Franciscus, magnas Ignatius urbes.

意訳すると、以下のようになります.

ベルナルドは谷間を愛し,ベネディクトは丘に出向いた.
フランチェスコは町へ出て活動し,イグナチオは都会へ出向いて活動した.

Bernard loved valleys, Benedict took to the hills.
Francis worked towns, cities Ignatius tills.

年代順に(ラテン語の6歩格によるため少し順序が逆になるかもしれません),聖ベネディクト(480年-547年)は山中(スビアコ,モンテ・カッシーノ “Monte Cassino” =カッシーノ山)に神を求め,聖ベルナルド(1090年-1153年)により活気づいたシトー修道会は谷間に降りてきました(とりわけクレルボー “Clairvaux” にです).聖フランチェスコ(1181年-1226年)は当時の小さな町々を転々と歩き回り,イエズス会の聖イグナチオ(1491年-1556年)は近代都市の使徒団を指導しました.イエズス会がドミニコ会とともに第二バチカン公会議の崩壊を主導したとき(たとえば,イエズス会士のドゥリュバック,ラーナーおよびドミニコ会士のコンガル,スヒレベークス),近代都市が復讐を果たしたと言えるかもしれません.(訳注後記)

なぜなら,丘陵地から都市への進行は,独り神と向かい合うことから人と向かい合うことへの進行ではないのでしょうか?産業主義と自動車は近代都市における快適な生活を可能にしましたが,その過程で着実に,より人為的でますます神の自然界から切り離された日常生活環境を生み出しています.物質的な快適さが精神的な困難さを増大させているのです.事実,大都市生活はますます人間味を失い,リベラルな死の願望は間もなく第三次世界大戦を招いて,今日私たちが知る都市生活と郊外の生活を壊滅状態に陥れてしまうでしょう.そうなったとき,様々な理由で丘陵地へ逃れることができないカトリック信者は,精神病院に入らず済ますにはどうしたらよいのでしょうか?

一つの答えは理に適(かな)ったものです.彼は自らの心の中の洞窟に籠(こも)り,周囲で慌ただしく動き回る世間を離れて独り神と共に生きるべきです.彼は,自分の心を隠遁(いんとん)生活の場に移し,できれば少なくとも自分の家を,家庭が自然に必要とするあらゆるものを尊重しながらも,ちょっとした避難場所( “something of a sanctuary” ) のようなものに変えるべきです.このことは,非現実的な自分だけの世界に生きることを意味するものではありません.四囲からの圧迫がある中で,心の外にある悪魔の幻想的な世界に生きるのではなく,心の内にある神の現実的な世界に生きるということを意味するものです.

同じように,(第二バチカン公会議指揮下の)新教会は第二バチカン公会議いらい,無数の男子修道院や女子修道院を閉鎖してきました.第二バチカン公会議は,神からの心の内への呼びかけを聞いていると思っているかもしれない人々にさえ神と向き合う機会を与えず閉ざしたままです.神は人々を袋小路に追い詰めたのでしょうか,それとも見捨てたのでしょうか?それとも神はもしかして,大都市にある彼らの小さなアパートを隠遁生活の場に変え,神のない事務所を使徒たちの活動場に変えて,祈りや愛徳とその模範という手段を用いることによって,彼らがそこで心の内なる信仰生活を送るよう呼びかけているのでしょうか?私たちの世界は,神への信頼により持てる心の中の平和と落ち着きを外部へあふれ出させ周囲を安らぎで満たすようなカトリック信者たちを深刻なまでに必要としているのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

(第2パラグラフ最後の訳注)

(訳注1・第二バチカン公会議を主導した神学者たち)
イエズス会所属の
・ドゥ・リュバック “Henri de Lubac, S. J.” (フランス人枢機卿・神学者)および
・ラーナー “Karl Rahner, S. J.” (ドイツ人司祭,神学者).
ドミニコ会所属の
・コンガル “Yves Marie Joseph Congar, O. P.” (フランス人司祭,神学者.後に枢機卿となる)および
・スヒレベークス“Edward Schillebeeckx, O. P.”(ベルギー人司祭,神学者).

(訳注2・修道会の略号について)
“S. J.” … Societas Iesu = Society of Jesus=イエズス会の略号.
“O. P.” … Ordo (Fratrum) Prædicatorum = Order of Preachers=ドミニコ会の略号.
所属修道会の略号を,各会員の氏名の後につけることになっている.

2010年10月18日月曜日

祝福された洞窟

エレイソン・コメンツ 第170回 (2010年10月16日)

神の慈愛( “grace” 「恩寵(おんちょう),恩恵」)を人間性( “nature” )から切り離して区別してしまうことはなんと不条理なことでしょうか!この二つは互いのために作られているのです!(訳注・原文 “The two are made for one another!” 「恩寵と人間性とは親密な関係にある」.)恩寵について,それがあたかも人間性そのものに戦いをいどむものであるかのように考えることは,それにもましてなんと不条理なことでしょうか!恩寵は,私たちの堕落した人間性( “fallen nature” )について,その堕落の状態そのもの( “fallen-ness” 「堕落状態」)(訳注・「原罪」あるいは「原罪をもっている状態」を指す.初めの人アダムとエワが神に背いて堕落したことにより,それ以後に生まれたすべての人間は生来(=生まれつき,生まれながらに)「原罪」をもつ運命に陥った.)と戦うことはあっても,その堕落状態の根底にある( “underlies that fallen-ness” ),神に由来する人間性と戦うものではありません.それとは逆に,恩寵は,かかる堕落状態の根底にある人間性を,その原罪による生来の堕落状態と(生れた後で犯す)罪の汚れから救って( “…to heal that underlying nature from its fallen-ness and falls,” )神の高みにまで引き上げ,神の本質にあずからせるために存在するのです(使徒ペトロの第二の手紙・第1章4節を参照.)(訳注・バルバロ神父訳による新約聖書の該当箇所…「(キリストの神としての力は…命と敬虔を助けるすべてのものをくださり,)またそれによって私たちに尊い偉大な約束を与えられた.それは,欲情が世の中に生んだ腐敗からあなたたちを救い上げ,神の本性にあずからせるためであった.」).

さて,恩寵なしの人間性は革命に通じ得ますが,人間性を軽視した恩寵は,たとえば同様に革命に通じるジャンセニズム “Jansenism” (訳注後記・1)のように誤った「霊性(精神性)」につながります.この誤ったプロテスタント化の過ちの重大性は,恩寵を,罪の代わりに人間性と対立するものとして配置しているところにあります.私は七日間のイタリア旅行で四つの山岳域を訪れ,神に近づくため自然界に逃れた(原文 “fled…in Nature” )四人の偉大な中世の聖人たちのことを思い出していました.彼らについては四人とも聖務日課書とミサ典書の中に記されています.それらの四人の聖人とは,年代順に挙げると,聖ベネディクト “St. Benedict” (祝日3月21日,聖地:スビアコ “Subiaco” ),聖ロムアルド “St. Romuald” (祝日2月7日,聖地:カマルドリ “Camaldoli” ),聖ヨハネ・グアルベルト “St. John Gualbert” (祝日7月12日,聖地:ヴァッロンブローザ “Vallumbrosa” ),そしてアッシジの聖フランチェスコ “St. Francis of Assisi” (祝日10月4日,聖地:ラ・ヴェルナ “la Verna” )です.

カマルドリとヴァッロンブローザは,フィレンツェ “Florence (Firenze) ” を囲む丘陵地帯の高地にある地域の地名で,11世紀にそれらの地からそれぞれの地名をとった二つの修道会が起こりました.トスカーナ州のアペニン山脈 “Tuscan Apennines” の高地の山奥にあるラ・ヴェルナは,聖フランチェスコが1224年に聖痕(訳注後記・2)を受けた場所です.これらの三つの場所へはすべて,現在ではバスか自動車で比較的容易にたどり着くことができますが,今でも依然として山深い森林地に取り囲まれており標高も十分に高いので,冬季にはきっと身を切るような厳しい寒さで凍えてしまうことでしょう.この地がこれらの聖人たちが,比較的小さい町々においてさえ十分に狂気に浸りきった俗世間(浮世の人々)と一体となっていた,その当時の町々を遠く離れ,神と心を通い合わせ親しく語り合うため出かけて行った場所なのです.

多分,私が最も感銘を受けた場所は,ローマから車で一時間ほど東に向かったスビアコでした.そこは聖ベネディクトが若い頃,山腹の洞窟(どうくつ)で三年間を過ごしたところです.紀元580年に生れ,若い学生だったとき,彼は崩壊したローマ帝国を脱出しその丘陵へと逃れたのです.その時彼は20才,あるいは人によっては14才だったと言う人もいます! - もしそうだとしたら,なんというティーンエイジャー(十代)でしょうか!紀元1200年頃から,その場所の周囲の山腹に本格的な男子修道会が形成され始め,スビアコはこの若い男性によって神聖な場所となったのですが,神を探し求めた彼がそこで何を見出したのか,誰でも(その場所を訪れてみれば)今もなお想像することができるでしょう.見上げれば上には雲々と空があり,はるか下方の渓谷(けいこく)では急流が音を立ててほとばしり,向こう側の山の斜面には荒れた森林のほか何もなく,道連れ(みちづれ)はただ切り立った断崖(だんがい)を行き来する鳥たちだけで,ただ独りで自然界とともに・・・神の自然界と・・・ただ独りで神と向き合えるのです!

三年間,ただ独り神と向き合う・・・その三年間は一人の若いカトリック信者に,(創造主たる神が創造された)自然の中で自分の霊魂をキリストと共有することを可能にしたのです.そして彼の著(あらわ)した有名なベネディクトの戒律が,崩壊したローマ帝国を高邁(こうまい)なキリスト教世界へと新しく形を変えたのです.その世界はいまや「西洋文明」として崩壊しつつあります.キリストと共に自らの人間性を取り戻すことで己の霊魂を取り戻し,そうしてキリスト教世界を救済し得る若いカトリック信者たちは今日どこにいるのでしょうか?

神の御母よ,若者たちに霊感を与え給え!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


(第2パラグラフの訳注・1)

“Jansenism” 「ジャンセニズム」 (「ヤンセニズム」「ヤンセン主義」ともいう.仏語で “Jansénisme” 「ジャンセニスム」.)について.

1640年に,オランダのローマカトリック司教で神学者コルネリス・ヤンセン “Cornelis Jansen” (1585-1638) が著した大書「アウグスティヌス」が出版された(彼の死後,遺作として).17-18世紀に,その著書の中の「恩恵論」を巡りフランスを中心として欧州各地のカトリック教会で宗教論争・運動が展開された.ジャンセン主義者たちは当時のイエズス会,フランス王権,ローマ教皇と激しく対立した.拠点となったポール・ロワイヤル(Port-Royal. シトー会)女子修道院の破壊(1711年)やイエズス会の一時解散(1773年)など,長年にわたる争いの激化で信徒たちを混乱させ,ローマ教皇による弾圧や断罪が続く中で,争いは教会内にとどまらず政治の世界にまで大きな影響を及ぼしたため,後にローマ教皇により禁圧された.厳格な考え方が特徴.人間の原罪の重さと,それに対する恩寵の必要性を過度に強調し,人間性や人間の意思を軽視した.

* * *

(第3パラグラフの訳注・2)

“…St Francis received the stigmata in 1224.”の “stigmata” 「聖痕」について.

「聖痕」(せいこん)…キリストの受難の傷痕を身体に受けること.アッシジの聖フランチェスコ(1181-1226)はキリストと同じ五つの傷痕(手足と脇腹)を受けたことが伝えられている.身体の外部に現れず,内的な苦痛の場合もある.

2010年10月12日火曜日

教理は不可欠

エレイソン・コメンツ 第169回 (2010年10月9日)

1986年イタリアのアッシジで開催された諸宗教同士のうわべだけの和合(訳注・原英文 “the all-religion love-fest at Assisi”.1986年に前教皇ヨハネ・パウロ二世が,世界の諸宗教の指導者たちを呼び集めて開催した世界平和を祈る合同祈祷集会のこと)が測り知れないほどの悪影響を及ぼしたことを認識しているカトリック伝統派の信徒たちがいかに少ないかについてルフェーブル大司教が驚いていたのを私は覚えています.だが,これが私たちの生きている現代社会の堕落の度合いを示すものです.今日,思想や真実はどうでもよいことになっています.なぜなら,「愛こそがすべて」(訳注・原英文 “All you need is love”.英ロックバンド The Beatles の歌のタイトル) だからです.だが実際には,私たちはみな教理と愛の双方を絶対的に必要としているのです.

教理とは単なる常套句(じょうとうく)の羅列ではありません.私たちのような計り知れないほど貴重な価値のあるカトリックの信仰の賜物を神から与えられたカトリック信者たちは,現世の短い人生の後に来世での想像を絶するような永遠の至福か恐怖が待ち受けていることを知っています.そして,私たちカトリック信者はカトリック信仰の有無にかかわらず,それがあらゆる人間の宿命であることを知っています.洗礼を受けていない罪のない者の霊魂が古聖所(原英語 “Limbo”.キリストの死によるあがないの前に死んだ義人の霊魂がとどまっていたところ)に入るのが唯一の例外です.だとすれば、神が無慈悲でない限り ― 多くの哀れな霊魂が神に対する自らの反抗を正当化しようとするのは理にかなっています! ― (現世での死後に)天国を勝ち取り地獄に墜ちるのを何としても避けたいと願うすべての人々に対し,神はいつでも,そのために(彼らの霊魂にとって)必要な光と力とを与えて下さるのです.だが,カトリック信仰をもたない人の場合,その光や力はどのような形を取りうるでしょうか?

その答えを二人の非カトリック教徒に求めてみましょう.18世紀の英国の良識を代表する偉人サミュエル・ジョンソン博士は「ロンドンが嫌いな者は人生が嫌いなのだ」と言いました.これは言い換えれば,日常生活の細々(こまごま)した日課に埋もれ慌ただしく過ごしながら,人は日々人生に対する一般的な態度を構築していると言うことです.またレオ・トルストイ伯爵は大作「戦争と平和」の中で,ある登場人物に「人生を愛する者は神を愛す」と言わせています.言い換えれば,人間の人生に対する一般的態度は実際にはその人の神に対する態度を示すものだということです.もちろん,現代人の多くは,自分の人生に対する姿勢が「存在もしない」神と関係があることなど強く否定するでしょう.にもかかわらず,神はそういう人を,彼個人のみならず日常的に彼を取り巻くその他の彼の周囲の人たちまでも一緒に含めて,その双方の存在をともに支えておられる方なのです.そしてなおかつ,神は常に彼個人に対して,こうした彼の全人生に内在されかつ彼の全人生において万事を背後から支えておられる神御自身を(個人的に)愛するか嫌うかを彼自ら決める自由意思( “the free-will” )を,お与えになっておられるのです.かくして,共産主義者は無神論者になる宿命にあり,しかもレーニンはかつて「神はわが敵なり」と言っています.(訳注・原英文は “God is my personal enemy”.つまり,レーニンは〈神との一対一の個人的な関係において,自らの生命の源であるはずの〉神御自身を自ら憎み拒否したということになる.) そうした共産主義者たちは人生も神も愛しません.

では,人生や神に対する正しい態度とはどういうものでしょうか?モーゼの十戒の第一戒で神は,あらゆる知性,精神(感情),魂を尽くして神を愛せよ,と命じておられます.(訳注後記・1).だが,まだあまりよく知らない人をどうして愛することができるでしょうか?人生と神に対する正しい態度は,人生と神,あるいはそのいずれかがもつ善良さに多少なりとも信仰もしくは信頼を置けなければ生まれません.そういうわけで,四つの聖福音書において,無学な人々が奇蹟を願って私たちの主イエズス・キリストの下に来ると,主は奇跡をお許しになる際にしばしば彼らの心に「信仰」があるかどうかをお試しになったり,あるいは彼らが持つ信仰をお褒(ほ)めになり,その信仰に対して報いられます.ここでいう信仰とは何に対する信仰でしょうか?それは神への信仰です.だが神とはいったい誰なのでしょうか?

それは学識ある人々が教理の中で明確に説明すべき事柄です.この神の教理は時代の流れとともに洗練されるかもしれませんが,神を変えることができないのと同様,決して変えることのできないものです.その教理は私たちが,永遠に想像を絶するほどに幸福になりたいとか不幸になりたくないと願う限り,私たちの生命・人生に対する姿勢また神への姿勢を継続的に矯正してくれるものです.カトリック教理は真理です.神は(そのカトリック教理が示す)真理です.真理は不可欠なものなのです.(訳注後記・2).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

(第4パラグラフの訳注・1)

モーゼの十戒の第一戒について
(バルバロ神父訳聖書から引用)

旧約聖書・第二法の書:第6章4-5節

イスラエルよ聞け,われらの神なる主こそ唯一の主である.心を尽くし,魂を尽くし,力を尽くして,神なる主を愛せよ.」

(注記・キリストの御復活以降の新約の時代においては,聖書における「イスラエル」という言葉は,ユダヤ民族に限らず,「キリストによって唯一の真の神を信じる世界のすべての人に対してあてはめられる.)

(注釈)

神への愛は(モーゼの)十戒(脱出の書・第20章6節)ですでに語られたけれども,第二法の書は律法五書の中でも特に神への愛を人間の働きの土台として扱っている.愛は神の恵みに対する人間の答えであり,神への畏れ(=恐れ)と敬いとおきての遵守をも含むものである.キリストは4節と5節(上に引用した部分)とレビの書の19章18節を新約の律法の第一のおきてとした.(①新約聖書・マルコ聖福音:第12章28-34節と②聖パウロによるローマ人への手紙:第13章8-10節を以下に引用).

(マルコ聖福音12,28-34)

『…イエズスのみごとな答えを聞いた一人の律法学士はそばに来て,「すべてのおきての中でどれが第一のものですか」とイエズスに尋(たず)ねた.イエズスは答えられた,「*¹第一のおきてはこれである,〈イスラエルよ聞け.われわれの主なる神は唯一の主である.すべての心,すべての霊,すべての知恵,すべての力をあげて,主なる神を愛せよ〉.また第二は,これである,*²〈隣人を自分と同じように愛せよ〉.これより重大なおきてはない」.すると律法学士は,「先生,〈神は唯一のもので他に神はない〉とは実に仰せのとおりです.〈すべての心,すべての知恵,すべての力をあげて神を愛し,また自分と同じように隣人を愛すること〉これはどんな燔祭(はんさい)にも,いけにえにもまさるものです」と言った.その答えを聞かれたイエズスは,「あなたは神の国から遠くない人だ」と言われた.』

(脚注)

*¹ 旧約聖書・第二法の書6:4-5.
*² 旧約聖書・レビの書19:18.


(ローマ人への手紙13,8-14)

『互いに,*¹愛を負う以外にはだれにも負い目をもつな.人を愛する者は律法を果すからである.「*²姦通するな,殺すな,盗むな,偽証(ぎしょう)するな,貪(むさぼ)るな」,その他のすべてのおきては,「隣人を自分と同じように愛せよ」ということばに要約される.愛は隣人を損なわぬ.したがって,愛は律法の完成である
時を知っているあなたたちは,ますますそうせねばならぬ.今は眠りから目覚める時である.いま私たちの救いは,私たちが信じはじめた時よりも近い.*³夜はふけて日が近づいた.だからやみに行われる業を捨てて,光のよろいをつけよう.昼のように慎んで行動しよう.酒盛り,酔い,淫乱,好色,争い,ねたみを行わず,主イエズス・キリストを着よ.よこしまな肉の欲を満たすために心を傾けることはするな.』

(注釈)

*¹ 隣人への愛の負債は,十分に支払きれない.

*² 旧約聖書・レビの書:19章18節参照.

*³ 「夜」は罪と死の支配下にある世をさす(新約聖書・コリント人への第一の手紙:7章26,29-31節).

*「日」はキリストの来臨のこと(新約聖書・聖パウロのコリント人への第一の手紙:7章29節,聖パウロのテサロニケ人への第一の手紙:4章15節).(注記:キリストはこの世の終わりの際に再びこの世(地上)に来臨される)

* * *

(第5パラグラフ最後の訳注・2)

① 詳解すると,「神とは真理」であり,その「真理」はカトリック教理〈=公教要理〉によって明確に説明される.この「真理」を抜きにして,「神への信仰」を持ち得ることはあり得ない.

② 真に神を信仰するためには,「愛こそがすべて」にいう「愛」のみでは足りない.「愛」が「真の愛(=神の愛)」たりうる所以・根拠としての「真理」を知り,かつその真理を自分の心に受け入れていることもまた前提条件として必要不可欠である.なぜなら,「神は愛」であると同時に「神は真理」だからである.

③したがって,かかる「真理」について説明する「神の(=カトリック)教理」は,人の霊魂が唯一の真の神への信仰により救われて永遠の天国に至るためには絶対になくてはならないものである.

④ 故に「教理は不可欠」であるとの結論に至ると思われる.原英文では “Catholic doctrine is truth. God is Truth. Truth is indispensable”.とある.)

2010年10月3日日曜日

職業 - どこから?

エレイソン・コメンツ 第168回 (2010年10月2日)

ある西欧「先進」国の主要都市にある二つの大学で,数十年ものあいだ人文科学系のさまざまな定時制,全日制の課程を修めた後,彼(私は単にロバートと呼ぶことにします)は,最近の「エレイソン・コメンツ」(EC158)で私が触れた現代の諸大学についての批評にかなり共鳴している自分に気付いたそうです.だが彼は,一歩も二歩も先を行く興味深い反対意見の持ち主でもあります.今回は,今日の大学システムについての彼の生々しい体験談から始めましょう.

いつ終わるか分からないように思えた学業を終え,ロバートは数年前,ようやく歴史学博士号を取得しました.だが,大学教授の職につく資格は認められない学位ということでした.彼が言うには,このことは政治的に正当な制度なのですが,同時にそれによって,彼の「あまりにも道義的に正しすぎる」考え方がうまく遠ざけられたのです.「(伝統的)カトリック原理主義者(integrist) は口を封じられ,民主主義の面目は保たれたというわけです.能なしの愚か者は威圧的な力の前に身を投げ出し,ジョージ・オーウェルの1984年の有名な小説に出てくるウィンストンのように,いとも簡単に押し潰(つぶ)されました.」

ロバートは次にように書いています,「私自身の体験から言えば,私は若者に大学へ行くのを勧めません.私の子供たちに対してはなおさらです.若者にはむしろある種の手仕事か上級の技術研修を受けることを選ばせます.それが,田舎かせいぜい小さな町で自分の生活のために働くには理想的な職業であり,現代の給料の奴隷にならずに済むからです.」もし自分の人生をもう一度やり直すことができたら,そういう選択をするだろう,と彼は言います.なぜなら,彼は一人のカトリック教を信奉する知識人としては,自分の活動は(神についての)証言をするだけに限られてきたように感じるからだというのです.

だが,ロバートには手仕事や上級技術研修を選ぶという解決法について大いに異議があるそうです.一言で言えば,技術者は哲学者よりも高収入が得られるでしょうが,上書き消去して書き換えるだけという性質の彼らの仕事 - オンかオフだけ,ゼロかワン(一(いち))だけ - は,宗教や政治についての人間的な,あまりにも人間的すぎる複雑な問題への関心を失わせることになるでしょう.昼間は技術者,夜は詩人となれれば理想的でしょうが,現実にはそのような両極端に分かれた生活を送るのは困難なので,普通はどちらかへの関心を失ってしまうものでしょう,とロバートは言います.

彼は,自分の住んでいる地域の聖ピオ十世会の学校内でも同じような葛藤があると言っています.理論的には,校内では人文科学系が最高位とされていますが,実際は,男子生徒や先生たちは求人数の多い理科学系を選ぶ傾向があります.そのため,卒業する青少年たちに公会議主義体制の教会や現代世界の諸問題の根深さを理解する能力が備わっていないようにロバートには映るそうです.彼の証言はこれで終わりです.

この問題は深刻です.例えば,聖ピオ十世会の学校では理科学への傾斜(けいしゃ)を強めるよう圧力がかかっていますが,将来の司祭たちはむしろ人文科学系学問においてうまく形成される必要があるのは間違いないところです.それは人々の霊魂が,切り取って消去し,一(いち)かゼロ,オンかオフで機能するものではないからです.それにしても,仮に職業が聖ピオ十世会自身の学校から生まれないとすれば,どこで生まれるでしょうか?物質万能の世界で,どうやって人々の霊魂や精神が守られるでしょうか?男の子たちの霊魂をどうやって司祭職に向かわせることができるでしょうか?私はこれまでに,多くの場合に決定的なのは、男の子たちの父親が自身の宗教をどれほど真剣に受け止めているかによることを見てきました.神が息子を通して父親にどれほど報いをお与えになる御方であられるかを知るために,旧約聖書のトビアの書を読んでみてください.この書は理解するのに長過ぎることも難し過ぎることもありません.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年9月26日日曜日

教理の過小評価

エレイソン・コメンツ 第167回 (2010年9月25日)

概して思慮深い雑誌といえる「カルチャーウォーズ」( “Culture Wars” )の編集長が最近,聖ピオ十世会とならんで私個人について,カトリック教会の主流派との関係を意図的に断ち切っていると切り込んできました.ここではE・マイケル・ジョーンズ編集長の見解をなるべく簡潔かつ公平にご紹介したいと思います.私の回答を容易にするため主な議論点ごとにアルファベット文字を付しました:--

第二バチカン公会議の問題は教理上の事柄に関するものではない,というのが彼の主要論点です.彼によれば,「(A) 公会議の諸文書そのものは,公会議後にその「精神」の名の下にはびこる狂気じみた状況にいささかも責任はない.文書自体に関しては,内容が曖昧(あいまい)な場合もあるが,(B) 神は常に御自身の(カトリック)教会と共にある( “with His Church” )としており,その理由から,(C) わずかでもカトリック教的なものは,第二バチカン公会議で行われたように,全世界から集まる司教たちの賛同を得ることができる.(D) したがって,ルフェーブル大司教がかつて提案されたように,その文書の曖昧さをカトリック教会の伝統( “Tradition” ) の視点に基づいて解釈すれば十分であり,かつそうすべきである.」

「したがって(E) 第二バチカン公会議はカトリック教会の伝統に則(のっと)っており( “is Traditional” ),ローマ教皇庁と聖ピオ十世会との間のいかなる問題も教理上のものたり得ない.(F) ゆえに,聖ピオ十世会の真の問題は同会が(霊魂の)汚染・堕落を恐れて(教会主流派側との)交わりを拒否していることであって,その姿勢は(G) 教会分離論者ゆえの寛容・愛徳( “charity” )の欠如から生じているのである.(H) 同会は結果として犯している罪を,第二バチカン公会議の反教理的姿勢のためにカトリック教会史上類を見ない緊急事態が起きているかのごとく見せかけることで覆(おお)い隠している.(I) そのために,聖ピオ十世会は,カトリック教会はその使命遂行に失敗しており,聖ピオ十世会こそがカトリック教会である,と言っているのである.これはばかげている!聖ピオ十世会の司教たちよ,(合意文書に)署名して(すべてを)ローマ教皇庁に譲渡せよ!」

回答:第二バチカン公会議の問題は本質的に教理にかかわる問題です.(A) 悲しいかな,第二バチカン公会議の「精神」とその常軌を逸した余波はまさしく同会議の諸文書のなせるわざです.E・M・J 編集長が認める文書の曖昧さこそが,その狂気の沙汰を野放図にしてきたのです.(B) 確かに神は御自身の(カトリック)教会と共にあります.だが同時に神は,その教会の聖職者たちの思いのままにお任せになり,教会に対して甚大ではあっても決して致命的でない程度の害をもたらすような選択を彼らが為(な)すことをお許しになっておられるのです(新約聖書・ルカ聖福音書:第18章8節を参照.)(訳注後記)(C) かくして,神は4世紀に多くのカトリック司教たちが恐るべきアリウス主義者による危機に陥ることをもお許しになったのです.かつて起きたことは再び起きます.ただ事態はさらに悪化するだけです.(D) 第二バチカン公会議後のカトリック伝統派の闘いの初期には,同公会議にカトリック伝統の視点から解釈するよう訴えるのは穏当(おんとう)だったかもしれませんが,その段階はとうの昔に過ぎています.公会議の諸文書の曖昧さが生んだ苦い果実によって,微妙に毒の入った諸文書が救い難いと証明されてからすでに相当の時が経過しています.

こういうわけで(E) 第二バチカン公会議はカトリック伝統的ではなく( “is not Traditional” ),ローマ教皇庁と聖ピオ十世会との対立は本質的に教理上の問題に起因するものです.したがって(F) 第二バチカン公会議の誤った教理による(霊魂の)汚染・堕落を恐れる理由が十分に存在しているのです - 同公会議の教理は霊魂を地獄に導くものです.(G) さらに伝統主義者たち(非教皇空位主義者)の間には教会分離主義的思考は何ら存在しません.たとえ (H) カトリック教会がその全歴史上最悪の緊急事態の真っただ中にあるとしても,です.(I) だが,ちょうどアリウス主義による危機のときと同じように,カトリック信仰( “the Faith” )を持ち続ける少数の司教たちはカトリック教会が決して失敗していないことを証明しています.それ故,聖ピオ十世会は,カトリック教会に取って代わるふりをしたり,あるいはカトリック教会そのものになりすましたりすることなく,カトリック教会に所属してその信仰を持ち続けているのです.

マイケルにお尋(たず)ねしますが,カトリック教会の全歴史の中で,いつ司教たちが意図的に曖昧な態度をとったことがあったでしょうか?あなたは第二バチカン公会議の曖昧さを認めています.過去においていつ,教会聖職者たちが,異端に道を開く以外の目的のために,曖昧さという手段を用いたことがあったでしょうか?私たちの主イエズス・キリストの(カトリック)教会( “In Our Lord’s Church” )では,然(しか)りは然り,否(いな)は否たるべきなのです(新約聖書・マテオ聖福音書:第5章37節).(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

・第4パラグラフ(B)で引用された〈新約聖書・ルカ聖福音書:第18章8節〉の訳注:

ルカ聖福音書・第18章1-8節(太字部分が8節)
またイエズスはうまずたゆまず祈れと教えて,たとえを話された,「*¹ある町に神を恐れず人を人とも思わぬ裁判官があった.またその町に一人のやもめがいて,その裁判官に〈私の敵手(あいて)に対して正邪をつけてください〉と頼みに来た.彼は久しい間その願いを聞き入れなかったが,とうとうこう考えた,〈私は神も恐れず人を人とも思わぬが,あのやもめはわずらわしいからさばいてやろう.そうすればもうわずらわしに来ることはあるまい〉」.主は,「不正な裁判官の言ったことを聞いたか.*²神が昼夜ご自分に向かって叫ぶ選ばれた人々のために,正邪をさばかれぬことがあろうか,その日を遅れさすであろうか.私は言う.神はすみやかに正邪をさばかれる.とはいえ,人の子(救世主イエズス・キリスト)の来る時,地上に信仰を見いだすだろうか・・・」と言われた.

(注釈)
*¹2-8節…このたとえは,特に世の終わりの苦しみにあたって不断に祈れと教える.
*²7節…神は選ばれた人々を忘れておられるようにみえても,けっしてそうではない.ただ待たれる.彼らの正義はやがて証明されるだろう.


・第6パラグラフ最後に引用されている〈新約聖書・マテオ聖福音書:第5章37節〉の訳注:

マテオ聖福音書・第5章37節
〈はい〉なら〈はい〉,〈いいえ〉なら〈いいえ〉とだけ言え.それ以上のことは悪魔から出る.」(イエズス・キリストの御言葉)

2010年9月20日月曜日

なぜ 教理なのか? その2

エレイソン・コメンツ 第166回 (2010年9月18日)

教理,すなわち教育は,まさしくカトリック教会の根幹です.人々の霊魂は先(ま)ず最初にどうすれば天国に入れるのかを教えられる必要があり,さもなければ決して天国に入ることはできません.「出かけて行って,諸国の民を教えよ」は,最後の最後まで私たちの主(イエズス・キリスト)が弟子たちに与えておられた数々の指示のひとつです(新約聖書・マテオ聖福音:第28章19節)(訳注・EC164の「訳注後記」参照).だからこそルフェーブル大司教のカトリック伝統を守るための英雄的な闘い(1970-1991年)では,何よりもまず教義を第一にしてきたのです.

まただからこそ,EC165で引用したように,フェレー司教は昨年5月ブライアン・マーション氏に対し,聖ピオ十世会はローマ教皇庁との間でたとえ魅力的であろうと実務協定に達する目的で両者間の教理上の相違を棚上げにすることはできない,と話したのです.聖ピオ十世会が教会法規的もしくは実務的な解決策を拒否するのは,「頑固さあるいは悪意を示す証し」とならないかと聞かれ,同司教は次のように答えました(彼の言葉は「レムナント」紙 “The Remnant” のウェブサイト上で入手することができます)(訳注→インタビュー記事へのアクセスはこちらから).「・・・どのようなものであれ,理にかなった正しい教義上の根拠を欠いたままの実務的解決策が災難に直結し得るのは極めてはっきりしています・・・私たちはそれを証明するあらゆる実例を持っています - 聖ペトロ会( “the Fraternity of St. Peter” ),王たるキリスト会( “the Institute of Christ the King” )やその他あらゆる会が教義レベルで完全に行き詰まっているのは最初に実務協定を受け入れたからです. 」

カトリック教義がいかなる実務協定によっても「妨害」される理由は世間の常識です.今日のローマ教皇庁は依然としてその公会議(第二バチカン公会議)に強いこだわりを持ち続けています.公会議は本質的には神の宗教たるカトリック伝統から逸脱し,新しい人間の宗教へと堕落してしまっているのです.ですからもし彼らがカトリック伝統に対して,たとえば聖ピオ十世会の正則化といった大きな譲歩をするときは,当然カトリック伝統の側からも譲歩を要求するでしょう.今や彼らローマ教皇庁の者たちは,聖ピオ十世会が先に述べたあらゆる理由からカトリック教義に固執していることを知っています.したがって,彼らが要求できる最低限のことは教理上の相違については当分のあいだ避けて通ることくらいです.

だが,ローマ教皇庁にとって目的を果たすには,それで十分なのです!「当分のあいだ」という点について言えば,ひとたび(ローマ教皇庁と聖ピオ十世会との間で)実務的な再結合が成立すれば,カトリック伝統派の者たちはみな,もはや主流から外されてローマによる不承認の冷たい空気(彼らがそう感じている)にこれ以上さらされないですむという,いわばカトリック教理とは無関係の幸福感に酔いしれてしまい,それでもし - もちろん,偶然にですが - 「当分のあいだ」が無限の時間へと変わるようなことになってしまったら,聖ピオ十世会が後戻りするのはかなり難しくなってしまうでしょう.そのような罠(わな)は聖ピオ十世会に徐々に忍び寄ることになるでしょう.

そして「避けて通る」点については,教理,特に,神の宗教と人間の宗教との間の根本的な教理上の相違を後回しにするということは,神御自身を後回しあるいは棚上げするに等しいことです.だが,神の僕(しもべ)が神を棚上げにし,あるいは後回しにしながら,どうやって神に仕えることができるでしょうか?もしそのようなことを考えるなら,それは背教に向かって第一歩を踏み出すということです!

フェレー司教が指摘しておられる通り,40年間の経験がこうした原理原則の裏付けとなっています - カトリック伝統の戦場には,はじめは立派に活動を開始しながらも,ローマ教皇庁の古典的な交渉術を見抜けなかった諸々の組織が死体となってあちこちに散乱しています.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年9月13日月曜日

なぜ 教理なのか?

エレイソン・コメンツ 第165回 (2010年9月11日)

カトリック教徒にとって教理一般(訳注・以下,原文 “doctrine” のまま記す)がそれほど重要なのはなぜでしょうか?そして,かつてはルフェーブル大司教に,今日ではフェレー司教に従う聖ピオ十世会が,公会議主義下のローマ教皇庁との間で,とりわけ教理上の合意が他のあらゆる種類の合意に先行すべきと主張するのはなぜでしょうか?聖ピオ十世会が,まずローマ教皇庁から正規に認めてもらい後で互いの教理上の相違点を詰めるやり方を受け入れられないのはなぜでしょうか?ここでは,互いに関連しながらもそれぞれ異なる疑問を二つ取り上げたいと思います.まず,一般的な疑問から始めましょう.

“doctrine”という言葉はラテン語で「教える」を意味する “doceo” ,“docere” に由来しています.つまり “doctrine” は教育です.人間各人が考えたいように考え,話したいように話す私たちの自由主義世界では, “indoctrination” (洗脳,教化)という言葉は禁句となっています.しかしこの “indoctrination” を終わらせるには,すべての学校を閉鎖しなければならないでしょう.なぜなら,学校が一つでもある限り “indoctrination” が継続するからです.仮にある教師があらゆる “doctrine” はナンセンスだと教えるとしても,その教え自体が “doctrine” なのです!

しかしながら,実際は誰もが “doctrine” の必要性を認めています.例えば,設計者が空気力学の古典原理(=理論.原語は “the classic doctrine of aerodynamics” )に逆らって両翼を逆に作った飛行機だとあらかじめ聞かされたとしたら,はたしてその飛行機に乗り込む人はいるでしょうか?誰一人乗らないでしょう!正しい空気力学理論とは例えば,両翼は機体の後方に後ろ向きに先細りで取り付けられなければならず前向きではだめですが,その理論は天から降って湧(わ)いたように出てきて話されたり書かれたりしているわけではありません.それは生死にかかわる現実( “life and death reality” )なのです.飛行機が飛び立ち墜落しないためには,細部にわたって正確な空気力学理論がその設計に不可欠です.

同様に,もし霊魂が天国に向って飛び立ち地獄に墜ちないためには,何を信じどう行動すべきかを教えるカトリック教義が不可欠です.「神は存在しておられる」,「すべての人間は不死の霊魂を持っている」,「天国と地獄は永遠に存在する」,「私は救われるために洗礼を受けなければならない」などの教義は,人々に信じるよう押しつけられている言葉ではなく,(訳注・上述した空気力学理論と同様)生死を分ける現実( “life and death realities” )として実際に存在するものであり,永遠の生命と永遠の死のことを指したものなのです.聖パウロはティモテオに救霊に必要なこうした真理を常に人々に教えるよう説き(ティモテオへの第二の手紙:第4章2節),自身には,「私が福音を説かないときは,禍(わざわい)を与えたまえ」(コリント人への第一の手紙:第9章16節)と述べています.カトリック教会の無謬(むびゅう)の教義を人々に説かないカトリック司祭に禍あれ!(訳注後記)

だが疑問は残ります.はたして聖ピオ十世会は貴重な正規化についての許可を,唯一許諾権を持つローマ教皇庁から取得するため,カトリック教義が否定されることなしではあっても,ローマ教皇庁と聖ピオ十世会との間の教理上の相違を単に当分の間まとめて棚上げにする実務協定に達することができるでしょうか?その場合,上に述べたような救霊のための偉大な真理に対する裏切りが一切ないことが必要ではないでしょうか?フェレー司教自身はこの疑問に対し,今年5月「レムナント」紙(訳注・原語 “The Remnant”.米国の聖伝(伝統)カトリック情報紙.1967年に第二バチカン公会議体制が推進する新典礼や近代・自由・世俗各主義に抵抗する主目的で立ち上げられた.)で発表されたインタビューの中でブライアン・マーション氏( Brian Mershon )に簡潔に答えています.以下が彼の言葉です.「どのようなものであれ,理にかなった正しい教義上の根拠を欠いたままの実務的解決策が災難に直結し得るのは極めてはっきりしています・・・私たちはそれを証明するあらゆる実例を持っています - 聖ペトロ会( “the Fraternity of St. Peter” ),王たるキリスト会( “the Institute of Christ the King” )やその他あらゆる会が教義レベルで完全に行き詰まっているのは最初に実務協定を受け入れたからです.」 だが何故(なぜ)そうする必要があるのでしょうか?興味深い疑問です・・・

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

(第4パラグラフ終り部分の訳注)

(バルバロ神父訳・新約聖書の引用)
〈使徒聖パウロによる〉ティモテオへの第二の手紙:第4章2節
「みことばを宣教せよ.よい折があろうとなかろうと繰り返し論じ,反駁(はんばく)し,とがめ,すべての知識と寛容をもって勧めよ.」

〈使徒聖パウロによる〉コリント人への第一の手紙:第9章16節
「私が福音をのべていても,それは誇りではなく,そうしなければならぬことだからである.ああ,私が福音をのべないなら,禍(わざわい)なことだ.」

2010年9月5日日曜日

まん延する現実

エレイソン・コメンツ 第164回 (2010年9月4日)

「しかし司教閣下,あなたはどうして,三週間前あなたのご友人が自分の住む都市であなたにお見せしたような大都市の抱えるあらゆる社会問題に対する唯一の真の解決策は主なる神お一人のみだと言い切ることがおできになるのでしょうか(EC163)?神は政治や社会の諸問題とどういう関係があるのでしょうか?神は宗教や霊魂や精神の世界といった事柄だけに関わると私はいつも考えてきました!」

ああ,私の親愛なる友よ,神とはどなたでしょうか?神はただ私たち一人ひとりの霊魂を創造され,その霊魂を私たちの両親から生まれてくる身体と合体させるだけでなく,人類が存在し将来も存在し続けるため人類創造の業をたゆまず続けておられるのです.そういうわけで,神は私たちが自分自身に対する以上に私たち人類の一人ひとりと近しい関係にあられるのです.だからカトリック教会( “the Church” )は,私たちが隣人に対しておかすいかなる罪も,まず神に対する罪であると教えるのです.なぜなら神は,私たちが私たち自身の中にいるよりもずっと深くかつ親密に,私たちの中におられるからです.したがって,隣人を傷つける者は誰でも隣人以上に神を深く傷つけているのであり,また神に逆らうことのない者は誰でも隣人を傷つけることはしません.だとすれば,聖ピオ十世会の教区,学校で(EC163)神と神の十戒を第一に置くことを学んでいる教区民や子供たちは,大都市のあらゆる問題を,彼らの根源である隣人と隣人との間で解決することを学んでいることにならないでしょうか?

私の友人が住む大都市の社会問題を振り返ってみましょう.都心から離れた郊外の住民は大半が白人で,彼らは見かけだけの豪邸で収入にそぐわない身分不相応な暮らしをしています.彼らは金持ちのように見えたいと願っており,金持ちになるのを夢見ています.彼らは,物質主義とマンモンつまり富を崇拝しているのではないでしょうか?それとは逆に,聖ピオ十世会の教区では何を教えているでしょうか?「あなたは神とマンモンを同時に崇拝することはできません.どちらか一方だけです」(新約聖書・マテオによる福音書:第6章24節「人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ.一人を憎んでもう一人を愛するか,一人に従ってもう一人をうとんずるかである.神とマンモンとにともに仕えることはできぬ.」(注釈・マンモンとはカルダイ語で富のこと)).都心に近い場所では住民の多くが非白人で,彼らはほとんど自分たちの住居をなおざりにしたままで,都市計画者たちは明らかにお手上げの状態です.だが,住居を維持管理することで良い生活や霊魂の善良さを量ろうとするのは物質主義のある種の類似形態ということにならないでしょうか?俗にことわざで,きれい好きは敬神に近い,といいますが,聖ピオ十世会の教区民は何を学んでいるでしょうか? ― 「まず神の国とその正義を求めよ,そうすれば,それらのもの(訳注・飲食物や衣服等生活用品のこと)も加えて与えられる」(マテオ聖福音書:第6章33節).言い換えれば,まず敬神を求めなさい,そうすれば清潔は後からついてくる,ということです.

最後に,都心では産業の血流は失われつつあります.何故でしょうか?産業を金融に従属させ,より大きな利益を追求する中で米国の産業を外注に委ねてしまったのは資本主義そのものではないでしょうか?人間より金銭を優先させたことが,悪化一途の失業,都心部の過疎化,金融業者への全権委譲を引き起こしてしまったのではないでしょうか?彼ら金融業者はその権力を用いて,かつての誇り高き合衆国を彼らの世界警察国家の単なる屈辱的な一部分へと加速的に変容させているのです.

このような事がどうやって起きるのでしょうか?それは,白人たちが神に背を向け,(私の友人が暗にほのめかしたように) 彼らに委ねられた,世界を神の下に導くという神授の使命を放棄し(訳注後記),富を至高の現実として崇拝していることによって起きるのです.願わくば,私が訪れた都市の郊外にある聖ピオ十世会のささやかな教区と学校とによって,神の至上性,私たちの主イエズス・キリストの至上性がいつまでも行きわたらんことを!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

(最後のパラグラフの訳注)

「(白人たちに委ねられた)世界を神の下に導くという神授の使命」について

マテオ聖福音書・第28章18-20節
『(イエズスの御復活後)ガリラヤに行った十一人の弟子は,イエズスがご命令になった山に登り,イエズスに出会ってひれ伏した.しかし中には疑う人もあった.イエズスは,かれらに近づいて,おおせられた.
私には,天と地との一切の権力が与えられている.だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき(=諸国の民に教え),聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊とのみ名によって洗礼をさずけ,*私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ.私は,世の終わりまで,常にあなたたちとともにいる」.』
(*注釈・キリスト紀元以後の歴史家が,すでに実現したと認めている尊い約束である.キリスト教会において生き,行い,勝利を得るのは,キリスト・イエズスである.)

マルコ聖福音書・第16章15-20節
『そして(イエズスは),「あなたたちは,全世界に行って,すべての人々に福音をのべ伝えよ.信じて洗礼をうける人は救われ,信じない人は亡(滅)ぼされる.信じる人々は,私の名によって悪魔をおい出し,新しいことばを話し,へびを握り,毒をのんでも害をうけず,病人に手をおいてなおすなどのしるしを見せるだろう」とお話しになった.
そう話しおえて,主イエズスは天にあげられ,神の右におすわりになった.弟子たちは,いたるところに福音をのべつたえに出発した.*主はかれらとともにはたらかれ,みことばを,それにともなう奇跡をもって,確認された
(*注釈・使徒らが宣教する教えの真実性の証明は,彼らの学問や雄弁にあるのではなく,イエズスからの超自然的確認すなわち奇跡にある.)

「福音」についての福音書の一個所:
ヨハネ聖福音書・第3章1-21節
『さて,ファリザイ人の中に,ニコデモというユダヤ人の貴人がいた.この人は,ある夜イエズスのところにきて,「ラビ,私たちは,あなたこそ,天主からおいでになった先生だと知っています.天主がともにおいでにならないかぎり,あなたのなさっているような奇跡のできる人はないからです」といった.
イエズスが,「まことにまことに,私はいう.人は,上から(新たに)生まれないと,天主の国を見ることができない」とお答えになった.ニコデモは,「すでに年とっている人が,どうして生まれることができましょう.もう一度,母の胎内にはいって生まれることができるのですか?」といった.イエズスは,「まことにまことに,私はいう.水と霊とによって(=超自然の生活に生まれるために受ける必要がある「洗礼」を指す)生まれない人は,天の一国(=神の国)には,はいれない.肉から生まれた人は肉で,霊から生まれた人は霊である.上から生まれなければならないといってもおどろいてはいけない.*¹風は自分の思いのままに吹いているが,あなたはその声をきいても風がどこから来てどこへ行くかを知るまい.霊から生まれた人もそれと同じである」とおおせられた.そこでニコデモが,「どうしてそんなことができるのですか?」ときくと,イエズスはお答えになった.「あなたは,イスラエルの教師でありながら,そんなことを知らないのか.まことにまことに,私はいう.私たちは知っていることを話し,見たことを証明しているのに,あなたたちは私たちの証明をうけいれない.私が,地上のことを話してあなたたちが信じなかったのなら,天のことを話して信じるだろうか.
天から下った人(=天にまします人の子)のほか,天に昇ったものはない,それが人の子(=キリスト)である.*²モイゼが荒れ野で蛇を上げたように,人の子もあげられなければならない.それは,信じるすべての人が,かれによって永遠の命をえるためである.
天主はおん独子(キリスト)をお与えになるほど,この世を愛された.それは,かれを信じる人々がみな亡びることなく,永遠の命をうけるためである.天主がみ子を世におくられたのは,世をさばくためではなくて,それによって世を救うためである.み子を信じる人は裁かれないが,信じない人は,天主の*³おん独り子の名を信じなかったがために,すでに裁かれている.その審判というのは,次のようなことである.光(=天主なるキリスト)は世に来たが,人々は,その悪いおこないのために,光よりも闇を好んだ.悪をおこなう人は,光を憎み,そのおこないがあらわれることをおそれて光の方に来ないが,*⁴真理をおこなう人は,天主によってそのことがおこなわれていることをあらわすために,光のほうに来る」.』

(注釈)
*¹霊的な事柄は,風のように,人間の目で見ることのできないものである.しかし風が確かに存在していると同様に,天主の現される奥義も確かに存在する.

*²荒野の書21・4-9.ヘブライ人はモイゼがたてさせた青銅のへびを見て救われた〈上げられたへびを仰いだ者は死ななかった.〉同様に,十字架に上げられるイエズスによって,人に救いがもたらされた.

*³セム風の言い方で,「名」とはその人のことである.

*⁴光を捨てるのは,真理の要求を生活に生かそうとしないからである.真理を行う人は,恐れなく光に近寄る

* * *
(イエズス・キリストの福音によって証された神の正義と神の愛は,イエズスの弟子(使徒)たちによりまず当時のユダヤ・パレスチナ地方を支配していたローマ帝国から入って全西洋世界へと宣べ伝えられた.そこから東洋世界やアフリカ大陸等の諸国の民への宣教は,西洋人(白人)たちに委ねられた神授の使命であったはずである.)

2010年8月30日月曜日

まん延する非現実性

エレイソン・コメンツ 第163回 (2010年8月28日)

先週、私は2008年以来初めて私的目的でアメリカを訪れました.私は,問題なく出入国できましたが,友人の誘いで最近のアメリカ経済の低迷により荒廃した主要都市のひとつを2時間かけて周るツアーに出かけたとき,圧倒されるような難問をいくつか目の当たりにしました:--

私たちは車でその都市に向う途中,郊外の小ぎれいな住宅街を通過しました.以下は友人の話です.「いかにも値の張りそうな高級住宅に見えるでしょう?でも実際は,どれも安普請の家ばかりです.似たり寄ったりの家ばかりで,実際の価値をはるかに上回る価格で売り出されたものです.こうした住宅は,クリントン大統領時代(1992年-2000年)の物質主義,膨張したクレジット,過度の浪費の上に築かれた偽の楽園で給料ぎりぎりの生活をしながらも夢を見ていた人たちが,どこからともなく調達したお金で購入したものです.彼らは失職すると,いま実際多くの人がそうなっていますが,買った家の価格の半分でも取り戻せれば幸運なほうです.こうした人たちは実際に役立つ能力も商売も持ち合わせていません.彼らの住む世界は口先滑らかな無意味なたわごとしか存在しない世界なのです・・・」

「彼らの多くは,私たちが今到着したこの場所,すなわち都心に近い住宅地から逃げ出した白人たちです.ご覧の通り,板で打ち付けられたり,放棄されたり,荒廃した家々の間に取り壊された家の後にできた空き地があり,あたかも繁栄を錯覚させるようです.しかし,失われた雇用は回復しませんから,繁栄に復帰する現実的な基盤は何もないのです.ご覧になっている小ぎれいな家並みは,財政破綻した市が住宅計画に従って連邦政府から借り入れた資金で修繕あるいは再築したものです.それがなされる理由は,小ぎれいにしておけばあまり手入れの必要がないからですが,それでもこうした家はじきに再び老朽化するでしょう.政府助成の中には,対象となる人々にとり害あって益なしというものがあります.人々を支援するかのように思われて実は助成に依存しなければ生きていけない状況に彼らを追い込むからです・・・」

「いよいよ私たちは下町に入ってきました.ご覧の通り立派な高層ビルがいくつも並んでいますが,人通りはほとんど途絶えています.これらの高層ビル街は,この都市がかつて巨大な産業中心地だった1920年代に建てられたものです.第二次世界大戦後,アメリカ合衆国は産業界での優位な地位を失い始めました.私が見るところ,レーガン大統領時代(1980年-1988年)の頃,一般市民がクレジットカードを使えるようになったことによる誤った景気刺激策が始まりました.1990年代には,この都市で非白人の市長が選出され,彼は景気回復に全力で取り組みました.この立派なビル街のいくつかのビルは彼の業績で建てられたものです.しかし彼は落選してしまいました.その理由は彼が有権者たちとは異質だったからです・・・」

「経済は危機一髪の状態ですが,人々は一年もすれば万事がうまく解決し良くなると思っています.彼らは,政府がもっと多くの紙幣を印刷するかデジタル化しさえすればうまく行くと考えています.国の事態がいかに深刻で重大な局面に陥っているかを理解している人々は5パーセントかそれ以下で,自国の破綻の局面で宗教が何らかの役割を果たすと考える人々は1パーセント以下です.人々は問題の根本的あるいは現実的な解決方法ではなく,ただ応急処置としてのバンドエイドを探し求めるだけです.白人は大きな後ろめたさを感じており,そのことを認めないまま没落しています.巨大な問題が存在しており,誰もが気づきかつ承知しているのに誰一人そのことを語ろうとしません・・・」

それでも,この都市から50マイルの範囲内では聖ピオ十世会の教区と学校とが,その荒廃から立ち直る一つの解決策を具現するように力強く育っています.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年8月24日火曜日

協議の盲点

エレイソン・コメンツ 第162回 (2010年8月21日)

ローマ教皇庁と聖ピオ十世会の間で行われている協議(訳注・「教理上の論議」“Doctrinal Discussions” を指す)は双方どちらの話を聞いても,教理上の理由から行き詰っていますが,フランスやドイツから入ってくる情報とローマから流れてくる噂を考え合わせると,カトリック教徒は危険に直面していると言わざるを得ません.その危険とは,協議を行き詰らせている教理上の閉塞状況をあっさりと迂回するある種の政治的取引です.

数週間前,フランス,ドイツからの報告で私は,聖ピオ十世会のミサに与(あずか)るカトリック教徒の多くがローマ教皇庁と聖ピオ十世会の協議から何らかの合意が得られることをひたすら待望していると聞かされました.もし - 繰り返しますが,もし - これが事実だとすれば,それは大変深刻な問題です.そのようなカトリック教徒は,ローマ教皇庁らしきものから絶縁されたくないという点については満点を得られるかもしれません.だが,この協議があくまで教理上の論議である限り,第二バチカン公会議下のネオ・モダニスト(新現代主義者)の教えが真の教会(訳注・“Church”.カトリック教会を指す)のカトリック教義と調和しえないことを理解していない,という点については落第点しか取れません.そのようなカトリック教徒は,ルフェーブル大司教の人となりを見て,彼を尊敬し敬愛するかもしれませんが,大司教にとって最も大切なことについてはまるで理解していません.彼らカトリック教徒は,まず自分たちがローマ教皇庁のネオ・モダニストの術中に陥っているのではないかと目覚めるべきです.

教義をさて置く合意とは,宗教より政治を優先すること,真理より(人間の間の意見や利害の)一致を優先すること,神より人間を優位に置くことを意味します.人間より神を優位に置くことは,一致より真理,政治より宗教を優先し,教義が他のいかなる非教義的合意より重要であることを意味します.夢想家たちだけが,ローマ教皇庁と聖ピオ十世会の協議が行き詰まることを見越せなかったにすぎません.この協議から何らかの非教義的合意が生まれることを願い得るのは政治屋たちだけです.

悲しいかな,外から見る限りでは,教皇ベネディクト16世はカトリック信仰の唯一の真の教義への信仰を問わず,あらゆる人々を第二バチカン公会議の “Newchurch” (訳注・第二バチカン公会議体制下の新教会のこと)の懐の下に一体化するのが正しいと心から信じているようです.したがって,教皇は聖ピオ十世会をも取り込みたいと心から願っています.普通なら教皇もこの先それほど長くは生き続けられないでしょう!ですから,彼は教理上の論議の閉塞状況を必要以上に心配することもないわけです.彼は聖ピオ十世会を他の “Newchurch” の構成員と合体させる政治的合意を聖ピオ十世会との間で取り付けようと目指しているに違いありません.このことが意味するのは次のようなことです.教皇は聖ピオ十世会に過度の要求を出さないでしょう.もしそうすれば,聖ピオ十世会は政治的合意を拒否するでしょうから.同じように教皇は聖ピオ十世会への要求を過小にとどめないでしょう.なぜなら,その場合,“Newchurch” の残りの者たちが抗議して決起するからです.

ローマからの噂は,まさしく教皇が「モトゥ・プロプリオ」(訳注・“Motu Proprio”「自発教令」)を念頭に置いているというものです.この自発教令とは,聖ピオ十世会が第二バチカン公会議もしくは同公会議下の新典礼(新しいミサ “New Mass” )を明確に受け入れる必要はないが,ただ,たとえば,静かな目立たない方法であっても実質的にモダニスト(現代主義的)である教皇ヨハネ・パウロ2世が1992年に発表した「カトリック教会のカテキズム(公教要理)」を受け入れさえすれば,今回に限り聖ピオ十世会の「教会(現ローマ教皇庁体制のカトリック教会)復帰」を認めることを意味するものです.このやり方だと,聖ピオ十世会が,その信奉者の目に,同公会議やその新典礼を受け入れたかのように映ることはないでしょう.しかしそのやり方により,聖ピオ十世会は静かに,静かに,ネオ・モダニズムの本質に同調し始めることになるでしょう.

こうして,すべての統一追求者は満足するでしょう.だが,カトリック教義の信者だけは満足することはないでしょう.

危険なことです!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年8月15日日曜日

荒地の救済方法 その2

エレイソン・コメンツ 第161回 (2010年8月14日)

なぜ現代における『大学』はみな揃って紛れもない「民主主義」のごみ箱かくず入れと化しているのでしょうか? その理由は,「民主主義」では誰でもみな平等でなければならず,誰かが他よりも優位に立ってはならないからです.だが,学位を持つ者は持たない者より優位に立つことになります.それで誰もが学位を持つ必要が出てきます.だが,すべての男の子が学位を取得できるほど頭脳明晰で勉強好きというわけではありません.したがって,『大学』はレベルを下げ,すべての男の子が最終的に『学位』を取得できるよう『学位』の対象をあらゆる種類のばかげた科目にまで広げなければならなくなるでしょう.なかにはほとんど証書の紙代にも値しない学位も出てくるでしょう.今日の『大学』システムは「まったくいんちきな偽物である」と,内部事情を知るアメリカ人の大学教授の友人は言っています.

この現代の愚行の根底にあるものは何でしょうか? 重ねて繰り返しますが,そこにあるのは神の存在を認めないということ,すなわち無神論です.人はすべて永遠に神の御前では平等で,死後に立つ神の審判の御座の前でも全く平等なのですが,大事なのはそのことだけで他はどうでもいいことです.然るに,人間社会では人はすべて短い一生の間,人の前では,あらゆる点において不平等なのです.何故かといえば,神は賜物を極めて不平等に人に分配することで,すべてが相互に依存し合い,互いに気を配り合わなければならないように仕向けているからです.そういうわけで,単なる人間社会の『学位』が人を他人より優位に見せかけるのは,神の御前ではなく,神を無視する愚かな人間の前だけでのことにすぎないのです.したがって,神を考慮に入れる両親であれば,『民主主義』,『平等』,『大学』,『学位』などに関心を払うことはないでしょう.

彼ら親たちにとっての第一の関心事は,周囲の至る所で荒廃している非現実的な世界にほとんど注意を払うことなく,自分たちの男の子が,現実に存在する真の神の真の天国にたどり着けるように現実の世界で育てることです.ここで親御さん達に最初の質問です.神は私たちのこの男の子に,他の息子たちとさえ全く異なるような,どんな天資をお与えになったのでしょうか?その息子はどんなことをしたがる傾向があるでしょうか? 神がその子にお与えになっている天資は,彼に対する神の御心を指し示しているのです.明らかに,多くの男の子たちは勉強よりも実務をこなす天資に恵まれています.それに,かつてG・K・チェスタートン “Chesterton” は興味深いことに,たとえば木材であれ金属であれ素材を扱う分野で専門的技能を身につけようと努力することは,現実世界における一定の見習い期間になると言いました.それならば,なんとしてでも男の子を技術専門学校(テクニカル・カレッジ)に通わせ,たとえば腕の良い大工,配管工,電気技師,機械工,整備士などになれるよう本物の技術を習得させましょう.あるいは,男の子に農場経営をする叔父(または伯父)がいるでしょうか? それなら,その子をそこへ送りなさい.動物を扱うことは現実世界で大事な学校へ通うのと等しいことです!

その現実世界を学ぶためは,男の子に『学位』を遠ざけさせましょう.今日の雇用者たちは依然として『学位』を求めるかもしれませんが,明日の雇用者たちはまもなく「あなたは,3年間の学生生活を,ただ酒を飲み,フリスビーを飛ばし,女の子たちと遊び回って無駄に過ごすだけのためにご両親のお金を浪費し,あるいはご両親の借金を大きく増やしたのでなはないですか? あなたには興味がわきません!」と言うでしょう.逆に,もし男の子が実用的な技術に加えて,家庭の中で地道に暮らしかつ勤勉に働くという習慣を身につけておけば,彼は地道な暮らし以上の生活ができるようになるでしょう.彼が提供する役務は非現実的な価値の崩壊で破綻して行く世界において引く手あまたとなるでしょう.

女の子に関しては,いつの世でも変わらない,家庭内のもろもろの実務,たとえば,裁縫,料理,缶詰保存作業,音楽,いろいろな芸術,手短にいえば家庭生活に楽しみや喜びを添えるすべての物事ですが,中でもとりわけ料理を身につけさせましょう.たとえ世の中が荒廃し,何でも好き勝手になるように変わるとしても,男性の心に通じる道は胃袋から,という現実に変わりはないでしょう.これは男性が話していることです!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年8月10日火曜日

荒地の救済方法 その1

エレイソン・コメンツ 第160回 (2010年8月7日)

「わかりました,司教閣下」親たちが言っているのが私に聞こえます.「要するに『大学』はみな荒廃しているわけですね.でも司教閣下がそうおっしゃるなら,そこら中の学校はみな荒廃しているとお認めにならなければなりません.それでは私たちは子供たちをどうすればよいのでしょうか? 神の法(掟)はそれに背く避妊方法を禁じています.それで子供たちは生まれてくるわけです.ではどうすればよいのでしょうか? 」

かつてないほどに悪くなっている世の中では,天国に入りたいと望む霊魂は,これまでにないほどに勇敢にならなければならないでしょうが,与えられる報いはその努力に応じて,かつてないほどに大きなものになる,というのが私の即答です.

教皇ピオ十二世は在位当時の世界がソドマとゴモラ(訳注後記その1)の時代よりも悪い状態だったと仰せられましたが,その彼は1958年に亡くなられています! 教皇が生きておられたら,今日の世界のことを何と仰る(おっしゃる)でしょうか? 同じ問題に直面して,彼の後を継いだ歴代の教皇たちは,第二バチカン公会議で「(カトリック教会が目指すべき)ゴールポストの位置を変えてしまった」のです.そうすることで,悪くなった世の中を糾弾(きゅうだん)し続ける,糾弾し続ける,糾弾し続けることなしに済ませるためです.だが、それは安易な抜け道を通ってお茶を濁(にご)したに過ぎなかったのです.非常ベルを止めるのは,火を消し止めるのと同じではありません.カトリック教会と世界は陽気に燃え盛っています.このようなとき,両親がまず第一にしなければならないことは問題に向き合うことです.その問題とは,子供たちの霊魂の永遠の救済を脅(おびや)かす過度の危険が迫(せま)っているという現実です.

ひとたびその危険が何なのか把握(はあく)してしまえば,親たちは,公会議主義体制の陰険なやり方やその種の他のいかなるやり方も採(と)ってはいけないこと,ただ勇敢で英雄的な王道のみを採るべきことを,自身のカトリック信仰によって教えられるでしょう.「私たちは羽毛ベッドに横たわって天国に入ることはできません」と聖トマス・モアは言いました.私たちの主は,「誰でも私の弟子となろうと思う者は、進んで自分の十字架を負い,その上で私に従いなさい」(新約聖書・マテオによる福音書:第16章24節より)と,また「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マテオ聖福音:第24章13節)と仰せられました.親たちは,子供たちの霊魂を救うためには自らが英雄になる必要があると決意しなければなりせん.そうすれば,その決意通りに英雄となれるでしょう.この点について,「志(こころざし)あるところに道あり(精神一到何事かならざらん)」のことわざ通り,ひとたび親の愛情が志を持ちさえすれば,家庭の内外いずれにおいても,自(おの)ずから最良の道を見出(みいだ)せるでしょう.

家庭外でのことについては,来週の「エレイソン・コメンツ」で『大学』進学の以外の選択肢について述べるつもりです.家庭内のことについては,まともなカトリック司祭なら誰でも次のように指導するでしょう.すなわち,まず家庭で家族全員が揃(そろ)ってロザリオの祈りを唱える習慣を堅実に確立することから始めること,また悪魔と世俗の快楽の世界の神殿であるテレビを家庭から追放したうえで,さらにロザリオの祈りを家族で唱え続けることです.小さいうちから子供たちの心と精神とを,家庭の中での生きた交流とあらゆる物事についての陽の下での生き生きとした会話で満たすべきです.なぜなら,子供たちが『大学』に行く年頃になるまでには,ふつうは善かれ悪しかれ,賽(さい→「さいころ」のこと)は投げられてしまっているからです.もしある男の子が,真に生き生きした家庭で,祈りによって心が天国に向かうように育てられていれば,最悪の『大学』へ進学しても,あまり害を受けることはないでしょう.これに反して,もし彼がテレビばかり見てばかな若者に育ち上がってしまった場合は,最良の大学へ通わせても天国に向わせるにはあまり役立たないでしょう.

EC158(エレイソン・コメンツ第158回)で私は,両親は男の子を大学へ進学させる費用を決して出してはならないとは述べていない点にご留意下さい.学費を支払う前に熟考するように,と述べたのです.両親が自分たちの男の子がまだ小さいうちによく考えておけば,あまりにも手遅れにならないうちに,自らの信仰によって家庭内での生活をいかに変えるべきかを学ぶに違いありません.聖パウロがイザヤの書(第64章4節)(訳注・バルバロ神父訳(日本語)の聖書では第64章3節)を引用して述べているように(コリント人への第一の手紙・第2章9節)(訳注後記その2),天国はあらゆる努力を払ってでも入る価値が無限にあり,人間のいかなる想像をもはるかに凌駕(りょうが)するものなのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教



* * *

(第3パラグラフの訳注その1)

ソドマとゴモラ
ソドマとゴモラは悪行を極めた罪深い町々の名.人々の重い罪は神の怒りを買い,これらの町は天からの硫黄と火の雨で焼き滅ぼし尽された.
「創世の書」(旧約聖書)の第18章-19章29節を参照.

以下は,聖書の引用箇所からの簡単なあらすじと注釈(バルバロ神父訳聖書より).

ソドマは,アブラハムの甥ロトとその家族がその近くに幕屋を張って住みついた町である.

①『…現に,私(神)が彼(アブラハム)を選んだのは,主が約束されたことを,アブラハムを通じて実現するためであり,また彼が自分の子らとその家族に主の道を行わせ,正義と法を守らせるためである.』(旧約聖書・創世の書:第18章19節)
(18章17-19節の注釈)
神がアブラハムに,ソドマの全滅を前もって知らせるその理由である.アブラハムは子孫に,「主の道を守る」ことを教え,子孫は「堕落した町の全滅」を永久の教訓としてとらなければならない.神は天使の姿をとっていて,その話し方も人間の話し方である.

②ある日,神の天使がアブラハムのもとに遣わされた.
『…主は仰せられた,〈ソドマとゴモラに対する叫びはあまりにはげしく,その罪はあまりに重い.私にまでとどいた叫びの,そういう悪をみな,ほんとうに彼らがやったかどうか,私は見たいから,下ってみよう.…〉』(18章20節)
(18章20節の注釈)
ソドマとゴモラの罪は,自然にもとる罪で,神の罰を呼んだ.自然の法則によって表現される神のおきてにそむくことは,人間自身の損害としてはね返ってくる.

③(19章1-29節の「ソドマの滅び」の注釈)
前章で準備された神の計画がここで満たされた.この話の倫理的なねらいは,西洋で「ソドミア」といわれる男色(男性間の同性愛)を打つところにある.のちにヘブライ人の法律(レビの書)では男色者を死刑にすることとなったが,このころ近東では男色の罪が広まっていた.ハムラビ法典では,男色の罪を大してとがめていないどころか,氏子の男色を認めてさえいた.イスラエルでも,こういう悪はかなり広まっていた.

④『…二人(天使)がまだ床につかぬうちに,町の人々つまりソドマの人たちは,若い者も,年寄りも,一人残らずその家にむらがり,ロトを呼び出してわめいた,「今夜,おまえの家に入ったあの男たちはどこにいるのか.あいつらを出せ.あいつらを,おれたちにまかせろ」.』
『…「そこをどけ.こいつは他国人のくせに,裁判官のまねをしている.おまえは,あの男らよりも,もっとひどい目にあうぞ」とどなって,ロトにはげしく襲いかかり,扉を打ち破って入ろうとした.』(19章4-5,9節)
(19章4-9節の注釈)
19章4-5節は集合男色の著しい例であり,9節のソドマ人のロト(アブラハムの甥)への返事は,彼らの男色への好みがどれほどであったかをよく証明している.

⑤『われわれ(神の天使)は,この町(ソドマ)を滅ぼそうとして来たのだ.この町の人々に対する叫びの声が,主のみ前にあまりに大きくなったので,主はこの町を滅ぼすために,われわれをおつかわしになったのだ.』(19章13節)
(2人の男の姿をとった神の天使はこのように言い,光を投げてソドマの住人の目をくらまし,正しく生きていたロトとその家族を離れた町へ逃した.その後で,神はソドマとゴモラの町に天から硫黄と火の雨を降らせて滅ぼし尽くした.)
(19章23-25節の注釈)
天からの火と硫黄とは,大地震のことだと思ってよい.神は罪深い町を滅ぼすために,地震という方法を用いた.大地は震え,アスファルトは燃えだし,あふれて雨のように降り,谷間は地の底となった.地質学的に見ても,死海の南の地帯は時代として若く,現代もなお不安定である.


* * *

(最後のパラグラフの訳注その2)

新約聖書・(聖パウロによる)コリント人への第一の手紙:第2章9節

「書き記されているとおり,「目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心にまだ思い浮かばず,神がご自分を愛する人々のために準備された」ことを私たちは告げるのである.…」


旧約聖書・イザヤの書:第64章3節(1-2節から4節まで記載)

「(水が,火でつきはてるように,火は敵を滅ぼし尽くすがよい.そして,敵の間にみ名は知られ,もろもろの民はみ前でおののくのだ.私たちの思いもよらぬ恐ろしいことを主は果たされた.)そのことについては,昔から話を聞いたこともない.あなた以外の神が,自分によりたのむ者のために,これほどのことをされたと,耳に聞いたこともなく,目で見たこともない.(主は正義を行い,道を思い出す人々を迎えられる.)」

2010年8月1日日曜日

協議の有益性 その2

エレイソン・コメンツ 第159回 (2010年7月31日)

「エレイソン・コメンツ(EC)」の筆者が3週間前(EC第156回で),現在ローマ教皇庁と聖ピオ十世会との間で行われている教理上の論議(=協議)を支持するデ・ガラレタ司教の論点を引用したのは,何らかの圧力を受けてのことではないかと案じた読者の方々がおられました.圧力は一切なかったというのがその答えです.ではEC筆者の頭が柔軟に変わったのでしょうか?その答えは,何も変わっていない,ということです.

読者のご不審の理由は当然のことながら,筆者が「EC」の中で,油と水を混ぜることは不可能であることを根拠として,ローマ教皇庁と聖ピオ十世会の協議が合意に至る望みはほとんどないと再三主張してきたからです.油と水が入った瓶(びん)を激しく振れば,瓶を振り続けている間は混ざり合っていても,振るのを止めたとたんに,両者はまた分離してしまいます.それは水と油が混ざり合わない性質で出来ているからです.油は水より軽いので,必ず水の上に浮いてしまいます.

それと同じ性質上の違いから,真のカトリック教会における神授の教義と新近代主義(=ネオ・モダニズム)による人間中心の教義を混ぜ合わせることはできても,融合させることは不可能です.第二バチカン公会議の「文字」すなわち諸文書は両者を混ぜ合わせましたが,その最高傑作ともいえる,例えば信教の自由に関する「信教の自由に関する宣言」(訳注・ラテン語原文“Dignitatis Humanae”,英語で “Declaration on Religious Freedom” )でさえ,両者を融合させることはできませんでした.公会議後の影響は,その「精神」にしたがって,このことを実証しています.その「公会議精神」は依然としてカトリック教会を分裂させています.教皇ベネディクト16世の「(聖書)解釈学的継続性」とは,両者を激しく,というより決然としてというべきでしょうか,混ぜ合わせ続けるための処方箋なのです.だが神の宗教と人間の宗教は依然として混ぜても溶け合うことはないのです.両者はいつまで経ってもバラバラに飛び散ったままです.

では「EC」の筆者がローマ教皇庁と聖ピオ十世会の協議に賛同するデ・ガラレタ司教を引用したのはなぜでしょうか?二つ理由があります.まず第一に,司教は自らの論議のどの部分においても - 彼の主張を注意深く読んでみてください - 油と水を融合できると期待しても願ってもいません.むしろ逆です.司教は来年の春までに協議が終わることを期待すると述べていますが,このことは,瓶を振り続ければ油と水がいずれは融合するのではないかとの期待を人の心に助長させかねないことに特に配慮し,いつまでも瓶を振り続けるべきではないと明確に示唆(しさ)したものです.第二に,司教の主張は全般にわたって,同協議がもたらすいくつかの副作用に言及しています.これは,協議がもたらす両者間の接触が不凍液の役割を果たすことを言っているのです.すなわち,聖ピオ十世会の凍結を望むローマ教皇庁とローマ教皇庁の凍結を望む聖ピオ十世会の双方のラジエータ(冷却器)が凍結するのを防ぐ不凍液とういう意味です.

エレイソン・コメンツの筆者は,聖ピオ十世会が,明日のローマ教皇庁がカトリック信徒としての良識に復帰してくるだろうその時まで,カトリック信仰の保証を今日のローマ教皇庁から護衛するという神意の使命を怠(おこた)るに至るような問題が起きない限りは,ローマ教皇庁と聖ピオ十世会の接触は普遍教会(訳注後記)にとって有益だという点でデ・ガラレタ司教と一致することを光栄に思います.私たちの主は仰せられます.「天地は過ぎ去るが,しかし私のことばは過ぎ去らぬ」(新約聖書・ルカによる福音書:第21章33節).神は聖ピオ十世会が,神である油と人間である水を混ぜようとするローマ公会議体制に参加することを絶対に禁じておられるのです!

神の御母よ,私たちが使命に忠実であり続けられるようお守りください!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

(最後のパラグラフの訳注)

「普遍教会」…原英文 “Universal Church”.“Church”(=カトリック教会)と同意義.

神の御子イエズス・キリストは,使徒ペトロを地上におけるキリストの教会の牧者(代理者)として任命し教会の全権を委ねられた.それにより使徒ペトロは初代のローマ司教(=ローマ教皇)となり,いらい歴代のローマ司教によりその座(「ローマ聖座」“Holy See” )は継承され現ローマ教皇ベネディクト16世に至っている.このように,ローマ教皇の権威は「天地の創造主,全能の父である神」(使徒信経より)の御意思に基づいたものである.

“Church” の定義は,①唯一の②聖なる③普遍(公)の④使徒的(使徒継承の)教会( “…unam, sanctam, catholicam et apostolicam Ecclesiam”〈ラテン語の使徒信経「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」より抜粋〉)である.

神はこのようにして,神を信じる人々に対し,互いに欠点のある不完全な存在ではあっても,御子イエズス・キリストの愛をもとにして一致するということを命じておられる.(「私(キリスト)は新しいおきてを与える.あなたたちは互いに愛し合え.私があなたたちを愛したように,あなたたちも互いに愛し合え.互いに愛し合うなら,それによって人はみな,あなたたちが私の弟子であることを認めるだろう.」〈新約聖書・ヨハネによる福音書:第13章34,35節〉)

イエズス・キリストにおける唯一の真の神を信じる信徒たちは本来,キリストの命じられた隣人愛(=キリストのように,人のために自分を犠牲にする愛)のおきてに従い,その愛において上述のようにキリストの代理者たるローマ教皇の下に「一つの群れ」(すなわち一人の牧者と一つの羊の群れ)たるべきであり,かくあるべき信徒たちの総体を “Church” すなわち「カトリック教会」と呼ぶ.

2010年7月25日日曜日

「大学」の荒廃

エレイソン・コメンツ 第158回 (2010年7月24日)

数年前に私が,女の子は大学に行くべきではないと書いたところ,多くの読者がショックを受けました.だが,ある英国の『大学』(真の意味での大学とは全く同じではありません!)で最近6年間にわたり英文学を教えていた若い教授の話を聴いてみると,私は男の子も大学に行ってはならないと付け加えなければならないようです.彼らは大学に行くかどうか決める前に少なくともよくよく考えるべきです.また彼らの両親も高額な学費を支払う前に熟考を重ねるべきです.教授がどのような問題を観察し,何をその原因と見なし,どのような救済策を考えているかを,順を追ってご紹介したいと思います.

その教授が教えていた『大学』では,彼は真理の追求についても真理を追究するための教育についても観察することがなかったそうです.「言語は現実と無関係なゲームであり,独自の人工物を生み出している」と,教授は言っています.学生はあらゆるものが相対的だと感じるように仕向けられています.そこには一定の基準や価値観は一切なく,道徳的枠組みも道徳に関する言及も一切ありません.理科系の学問は,宗教に通じる『科学』に反対する進化論によって汚染されています.『文科系』は,あらゆるものの中心に性( “s-x” )というものをおいて解釈するフロイト(訳注・「ジーグムント・フロイト」“Sigmund Freud (1856-1939) ” 精神分析学者.オーストリア出身のユダヤ教徒.)理論によって堕落しています.大学教授たちは学生らに対し「彼らのためになる」から s-x life を持つよう話します.こういった『諸大学』では,自分たちの night life (夜の快楽的生活)につき,学生たちに対して同様の過ごし方をするよう公然と宣伝し,自然に逆らう罪を犯すことを大いに賞賛しています.彼らは完全にs-x の虜(とりこ)となっています.( “s-x” …訳注後記.)

教授は続けて言います.「教授陣について言えば,多くが根深い問題の存在を認めていますが,そのままゲームを続けているのです.彼らはマルクス主義者でないにしても,みなマルクス主義化しています.彼らはあたかもあらゆる権威が息苦しいものであって,すべての伝統が抑圧的であるかのように学生たちを指導します.すなわち進化論が全てを支配しているのです.学生たちについて言えば,何かを切望したいと考えている者は一人以上いますが,彼らは真理を見出すのにもはや『大学』を当てにはしていません.もし彼らが『学位』が欲しいとすれば,それは職を得るだけのためであり,もし彼らが優れた『学位』が欲しいとすれば,それはもっと給料の高い職に就くためなのです.彼らはいろいろな考えを話し合うことはめったにありません.」

それでは,大学が現代の確立されたシステムに仕えるだけの単なる功利主義的情報処理機関に変貌(へんぼう)してしまった原因は何なのでしょうか? 教授は次のように述べています.「基本的な原因は神の喪失にあります.これは御言葉の御托身(訳注後記)をめぐっての幾世紀にも及ぶ戦いの結果としてもたらされたものです.この結果,教育はもはや人が生きてゆくのに必要な真実や道徳を与えることを意味するものではなくなり,むしろ自分が他人とは異なり,より優れていると感じるよう個々人の潜在的可能性を発展させることを意味するものとなったのです.真理の追放によって生じた真空状態の中に入ってくるのは,全ての権威からの解放を引き連れたポップカルチャー(=大衆文化)とフランクフルト・スクール(=学派)です.神を追放した後に残された真空状態の中に入ってくるのは,『諸大学』をテクノクラートや技術者の供給源と考える国家です.絶対的なものに対する関心は一切失われています.唯一つ例外がありますが,それは絶対的な無神論です.」

この状態の救済策として,教授は次のように語っています.「現代の『諸大学』が陥ってしまった落とし穴から抜け出ることはほとんど不可能でしょう.男の子が本当に役立つことを学ぶには,家で休んだり(訳注・これはすなわち不品行〔不信心〕な者たちの悪行に巻き込まれるのを避けるため〔休日や休暇を家で過ごせるよう〕家〔下宿ではなく親の家〕から通える大学に入学する=寄宿舎〔学生寮〕に入らない,という意味合いを含んでいる.),教会の司祭たちと話したり,カトリックの黙想会(=静修会)に参加したりする方がよりよいでしょう.信心深いカトリック信徒たちは自分たちのために様々な事柄に着手し,団結して自らの施設を再建すべきです.たとえばサマースクール(夏期学校)から始めるのもよいでしょう.人文科学は健全な状態に回復されなければなりません.なぜなら,それは人間の存在の基礎,すなわち何が正しく善良で真実であるかを扱う学科だからです.自然科学は,特定の科目についてもそこから派生する科目についても,二次的なものにとどまるべきです.自然科学を人文科学に優先させることはできません.両親が男の子をこれらの『諸大学』に送る場合は,彼らが職を得るためで,人生に本当に役立つ事柄を学ぶためではないことを承知してかかるべきです.

「神の喪失」 - 結局はそれがすべての原因なのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教



* * *


〔第2パラグラフの( “s-x” )の訳注〕
新約聖書・(使徒聖パウロによる)ローマ人への手紙:第1章26-27節に「恥ずべき欲」とある,いわゆる「自然に逆らう罪」“the sin against nature” に当てはまる類(たぐい)の行為のことを指すと思われる.
参照として,ローマ人への手紙:第1章16節-第2章16節を以下に引用.

ローマ人への手紙:第1章16-32節
使徒として召され,天主(=神)の福音のために選び分けられた,イエズス・キリストの奴隷パウロ,・・・福音は天主があらかじめ聖書の中でその預言者たちによって約束されたものであって,そのみ子に関するものである.み子は,肉としては(=人間として)ダヴィドの子孫から生まれ,聖い霊としては,死者からの*¹復活によって,力強く,天主のみ子とさだめられたもの,すなわち,私たちの主イエズス・キリストである.私たちは,かれによって,そのみ名の光栄のために,すべての異邦人に信仰への従順をつげるために,恩寵と使徒職(=使徒としての使命)とを受けた.その中にイエズス・キリストに召されたあなたたちもいる・・・天主に愛され,聖徳に召された(=召し出しとして聖なるもの),ローマにいるすべての人に手紙をおくる.私たちの父なる天主と主イエズス・キリストからの恩寵と平安が、あなたたちの上にあるように.

・・・私は,福音を恥としない.福音は,すべての信仰者,まずユダヤ人,そしてギリシア人を救う天主の力だからである.天主の正義は,福音のうちにあらわされ,信仰から信仰へとすすむ.「義人は信仰によって生きる」と書きしるされているとおりである.

実に天主の怒りは,不正によって真理をさまたげる人々のすべての不敬と不正にたいして,天からあらわされる.天主について知りうることは,かれらにとっても明白だからである,天主がそれをかれらにあらわされたからである
天主の不可見性,すなわちその永遠の力と天主性とは,世の創造のとき以来,そのみわざについて考える人にとって,見えるものだからである.したがってかれらは言い逃れができない.かれらは天主を知りながらこれを天主として崇めず,感謝しなかったからである.かれらは愚かな思いにふけり,その無知の心はくらんだ.かれらは,みずから知者と称えておろかな者となり,不朽の天主の光栄を,朽ちる人間,鳥,獣,はうものに似た形にかえた.

そこで天主は,かれらの心の欲にまかせ,たがいにその身をはずかしめる淫乱にわたされた.かれらは,天主の真理を偽りに変え,創造主の代りに被造物を拝み,それを尊んだ.天主は世々に賛美されますように.アメン.
ここにおいて天主は,かれらを恥ずべき欲に打ちまかせられた,すなわち,女は自然の関係を,自然にもとった関係に変え,男もまた,女との自然の関係をすてて,たがいに情欲をもやし,男は男とけがらわしいことをおこなって,その迷いに値する報いを身に受けた.
またかれらは,深く天主を知ろうとしなかったので,天主は,かれらのよこしまな心のままに,不当なことをおこなうにまかせられた.かれらは,すべての不正,罪悪,私通,むさぼり,悪意にみちるもの,憎み,殺害,あらそい,狡猾(こうかつ),悪念にみちるもの,そしる者,悪口する者,天主に憎まれる者,暴力をもちいる者,高ぶる者,自慢する者,悪事に巧みな者,親にさからう者,愚かな者,不誠実な者,情のないもの,あわれみのないものである.これらをおこなう者は死に当るという天主の定めを知りながら,かれらはそれをおこなうばかりでなく,それをおこなう人々に賛成するのである

(注釈)
*¹復活はキリストが神であることの証明である.

*²異邦人はユダヤ人の受けた天の示しを受けなくても,天主の真理を教えられたが,それを実行しようとしなかったから,天主の怒りを買った.

第2章1-16節
*³したがって,他人を是非する者よ,何ものであるにせよ,あなたには弁解する余地がない.他人を是非することによって,あなたは自分をさばいている.他人をさばくあなた自身が,同じことをおこなっているからである.こういうことをおこなう人に対する天主の裁きが,真理にあうものであることを,私たちは知っている.それをおこなう人をさばいて,自分も同じことをおこなっている者よ,あなたは天主の裁きをのがれられると思うのか.あるいは,天主の仁慈があなたをくいあらために導くことを知らないで,その仁慈と忍耐と寛容との富を無視するのか.こうすれば,あなたはかたくなさとくいあらためない心とによって,天主の正しい裁きがあらわれる怒りの日に,自分のために怒りを積み重ねるであろう.天主はおのおのの業にしたがって報い,根気よく善業をおこなって,光栄と名誉と不滅とを求める人々には,永遠の生命をお報いになる.真理にしたがわず不義にしたがう反逆者のためには,怒りといきどおりとを返される.悪をおこなって生きる者にはすべて,まずユダヤ人に,そしてギリシア人にも,患難と苦悶があり,善をおこなう者にはすべて,まずユダヤ人に,そしてギリシア人にも,光栄と名誉と平和とがある.天主は人を区別されないからである.
*⁴律法なしに罪を犯した者は,律法なしに亡(ほろ)び,律法の下に罪を犯した者は,律法によって裁かれる.天主のみまえに義とされるのは,律法を聞く人ではなく,律法をまもった人が義とされる.*⁵律法のない異邦人が,自然に律法の掟を実行するなら,律法がなくても自分自身に律法となる.かれら自身,自分の心にきざまれているこの*⁶法の存在を示している.それを証明するのは,かれらの良心である.またかれら同士が相手に対してもつ非難や賞賛の内部的な判断もそれを証明する.*⁷私が福音にいうように,天主がイエズス・キリストによって人間の秘事を裁かれるとき,それがあらわれるであろう.

(注釈)
*³以下は,直接ユダヤ人に向けることば.ユダヤ人は特権があっても,異邦人をさばく権利がない.律法が禁ずる行いをユダヤ人自身が行っているからである.

*⁴律法と自然法に反するユダヤ人と異邦人は,それぞれのおきてによってさばかれる.

*⁵天主は彼らの心に自然法をきざんだからである.

*⁶「法」とは自然法のこと.

*⁷使徒パウロが異邦人に伝える福音.


* * *


(第4パラグラフの「御言葉の御托身」“Incarnation” の訳注)

「御言葉」=イエズス・キリストを指す.「御托身」=「受肉」ともいう.
「托身」(たくしん)“Incarnation”…三位一体の神の第二の位格たるロゴス(=言葉)が人間の肉体をまとわれた,すなわち,キリストにおいて神が顕現されたということを意味する.

→「御言葉は肉体となって,私たち(=人間)のうちに住まわれた」…新約聖書・ヨハネ福音:第1章14節.
〈注釈〉…人に対する神の「無限の愛の奥義」である.御言葉は神性を保ちながら,人性をとられた.)

「ロゴス」の意味:=ここでは「(神の)御言葉」.神の御子キリストを指す.〈「御言葉は神であった.」…新約聖書・ヨハネ福音:第1章1節.〉)

2010年7月23日金曜日

近代芸術その2

エレイソン・コメンツ 第157回 (2010年7月17日)

近代芸術は,その非常な醜(みにく)さゆえに神の存在と高潔さを示してくれます.エレイソン・コメンツ第144回いらい3か月経ちますが,もう一度この逆説に戻ってみましょう.芸術における美しさと醜さの常識的違いを認識する人は,さらに進んで神の存在なしには美と醜さの違いも存在しないことを理解することになるのではないかと期待するからです.

「芸術」という言葉は技能,もしくは人間の技能による産物を意味します.それは絵画,描画,彫刻,衣服のファッション,音楽,建築,その他いろいろあります.「近代芸術」という表現は通常,特に絵画や彫刻について触れるときに使われるもので,1900年代初期以降に,20世紀以前に理解されていた美に対するあらゆる基準,尺度を故意に拒んだ,また現在も拒み続けている,芸術家たちの運動から生まれました.近代以前の芸術と近代芸術との相違は,ここロンドンのミルバンクにある古典的なテイト美術館と,10年前にテムズ川の対岸にあるその生みの親から少しボートで下流に下ったところに開設された新しい美術館であるテイト近代美術館(「テイト・モダン」“Tate Modern” )との相違と同じくらい現実的かつ明快なものです.それはあたかも近代芸術が近代以前の芸術と同じ屋根の下で静かに座っていることができないかのようです.両者は,ちょうど古い教会建築と新典礼がそうであるように,互いに競い合っています.

この意味での近代芸術とは,その醜さで特徴づけられています.この点では,常識は(旧ソ連の)共産主義指導者フルシチョフ(“Kruschev, Nikita Sergeevich”(1894-1971))と一致します.彼はロシアでの近代芸術展について,「ロバが尻尾で描いた方がずっとましなものができるだろう」と酷評したと伝えられています.ところで,醜さとは何でしょうか?それは不調和のことです.アリアンナ・ハフィングトン (“Arianna Huffington”) は,その賞賛に値する著書「創作者かつ破壊者たるピカソ」(“Picasso, Creator and Destroyer”)の中で,ピカソが6人の(主な)女性たちと恋に落ちる度に描いた絵画のどれもが穏やかで,彼女たちの自然な美しさを反映したものであったが,再び失恋するや否やたちまち彼の激怒がその絵画の美しさを粉々に引き裂いてしまい,その時の作品が近代芸術の「最高傑作」と化した,ということを実証しています.そのパターンはピカソの中で,まるで時計仕掛けのように規則正しく繰り返されているというわけです!

このように,芸術における美は単にこの世の調和であっても,霊魂における調和から生まれます.これに対し,醜さは,憎しみと同じように霊魂における不調和から発生するのです.だが調和は,それが存在するための相手として不調和を必要としません.これに反して,不調和は,その言葉が示唆するように,本質的に競い合う相手たる調和を前提として必要とします.ですから,調和は不調和に先立つものです.そして,あらゆる不調和はなんらかの意味で調和を立証するものとして存在するのです.だが,愛らしい女性たちを描いたどんな絵画にも増して美しく深い調和に満ちあふれているのは聖母を描いた絵画でしょう.なぜなら,神の御母(訳注・神の御母=聖母すなわち神であるイエズス・キリストの御母.)を描いている画家の霊魂における調和は,いかに美しく愛らしかろうと単なる人間の女性モデルを描くときに生じる霊感(ひらめき)をはるかに超える高貴かつ深遠な極みにまで到達することができるからです.なぜそうなるのでしょうか?それは,聖母の美しさが彼女の神との近しい親密さに由来するものだからです.神の調和は - 神聖であり,全く飾り気がなく,完全な純真さと無邪気さ,また統一性に満ちており - 単なる被造物のなかで最も美しいというだけに過ぎない人間的な調和を無限に凌(しの)ぐものです.(訳注後記)

したがって,お粗末な近代芸術はそれ自体が欠いている調和を指し示すものであり,あらゆる調和は神を指し示すものです.そうであるならば,トリエント公会議式ミサ典礼(訳注後記)を格納するのに近代建築の醜さを用いることをするような人が誰も出ないようにしましょう.もしそのような醜さを欲する人があれば,その人は新しい典礼(訳注・“Novus Ordo Mass”.第二バチカン公会議で定められた新典礼のこと.)の不調和を欲しているかそれに仕えていると推測されることになるでしょう!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教



* * *


(下から2つ目のパラグラフ最後の訳注)

被造物=地上の全ての生き物.地上の生物はすべて神の創造により存在する.
「単なる被造物」 (“mere creatures” ) という言い方には「いつかは腐敗して滅びる儚(はかな)い存在(人間と自然界・動植物)」という意味合いが含まれている.神は永遠(無限)であり,被造物は有限である.
原罪の下にある被造物の世界(地上)で人間が決める「美」には(「罪の支払う報酬は死である」との聖書の言葉通り)さまざまな意味で限界があり,人間が傍(はた)から見てどんなに美しいと評価する存在であっても,神との間に調和的な関係にないものの霊魂は,罪に汚れて醜いまま残り,いつかは罪ゆえに地上での姿は腐敗し廃(すた)れて滅びる運命にある.
しかし,神から美しいと評価されるような神の美(=神の調和)をその霊魂の内側に宿(やど)し備えているものは,聖母のように神により原罪を免れ,霊魂の神聖さを保ち永遠に神の国に生き続けることができる.

「神の調和」を示す例として,
新約聖書・(使徒聖パウロによる)ガラツィア人への手紙:第5章13-26節(特に16-23または24節)参照.(以下に引用)

…兄弟たちよ,あなたたちは自由のために召された.ただその自由を肉への刺激として用いてはならない.むしろ愛によって互いに奴隷となれ.全律法は「自分と同じように隣人を愛せよ」という一言に含まれているからである.互いにかみ合い食い合って,ともに食い尽くされぬように注意せよ.
私は言う.霊によって歩め.そうすれば肉の欲を遂げさせることはない.*¹実に肉の望むことは霊に反し,霊の望むことは肉に反する.あなたたちが望みのままに行わぬように,それらは相反している.もしあなたたちが霊に導かれているのなら,律法の下(もと)にはいない.
*²〈肉の行いは明白である.すなわち,淫行(いんこう),不潔,猥褻(わいせつ),偶像崇拝,魔術,憎悪,紛争,嫉妬,憤怒(ふんぬ),徒党(ととう),分離,異端(いたん),羨望(せんぼう),泥酔(でいすい),遊蕩(ゆうとう),そしてそれらに似たことなどである.
私は前にも言ったように,またあらかじめ注意する.上のようなことを行う者は神の国を継がない.〉
それに反して,霊の実は,愛,喜び,平和,寛容(かんよう),仁慈(じんじ),善良,誠実,柔和(にゅうわ),節制(せっせい)であって,*³これらのことに反対する律法はない
*⁴キリスト・イエズスにある者は,肉をその欲と望みとともに十字架につけた.
私たちが霊によって生きているのなら,また霊によって歩もう.いどみ合い,ねたみ合って,虚栄(きょえい)を求めることのないようにしよう.


(注釈)

「律法」=神が人間を死の滅びから救うために預言者モーゼを通して人間にお与えになった掟(おきて)のこと.神の十戒.しかし,「律法」はかえって人間を罪に定める根拠となり,罪の罰である「死」に定める原罪から人間を解放することができなかった.人間は,「律法(を行うこと)による義」によってではなく,人間の罪の贖(あがな)いとしての十字架上の死から復活された罪のない神の御独り子イエズス・キリストに対する「信仰による義(キリストを通じて注がれる神の恵み)」によって原罪から解放され,神からの聖寵を回復することにより死から救われる.
(ヨハネによる福音書・第1章1-18節参照)

*¹肉が選ぶと霊はそれに反対する.霊が選ぶと肉がそれに反対する.すなわち,コリント人への第一の手紙・第2章14節,ローマ人への手紙・第8章1節以下にあるように,自然の人間と恩寵(おんちょう=神の恵み)に生きる人間との対立が述べられている.

(新約聖書・コリント人への第一の手紙:第2章14節)…*動物的な人間は神の霊のことを受け入れぬ.その人にとっては愚かなことに思えるので理解することができぬ.なぜなら霊のことは霊によって判断すべきものだからである.〈注釈:*「動物的な人間」=原文は「プシケ」の人とある.これは「プネウマ」(の人と対立するもので,自然の能力に従って生きる人のことである.〉

(新約聖書・ローマ人への手紙:第8章1節以下と,下記の注釈の中で引用されている聖書の箇所については,後で追加するか用語集の方に記載します.)

*²〈 〉内…ローマ人への手紙・第1章19-31節,コリント人への第一の手紙・第6章9-10節参照.

*³「こういう生活の人に対して」という訳もある.これらのことを行う人は律法の罰を受けない

*⁴ローマ人への手紙・第6章2-6節,第8章13節参照.



* * *


(最後のパラグラフの訳注)

トリエント公会議式ミサ典礼
英語で“Tridentine Mass”.北イタリアの都市トレント(“Trento”=トリエント(ドイツ語))で開催された公会議(1545-63)で定められた形式のミサ典礼.伝統(聖伝)のミサ典礼とも呼ばれる.トレント公会議では,当時の宗教改革の危機を克服するためカトリックの正統教義を確認するとともにその教義の強化とそれに則った教会の改革がなされた.

2010年7月17日土曜日

協議の有益性

エレイソン・コメンツ 第156回 (2010年7月10日) 

カトリック信徒の多くは現在行われているローマ教皇庁(訳注・日本社会一般には「ローマ法王庁」.)と聖ピオ十世会(略称 “SSPX” )の協議(訳注・「教理上の論議」のことを指す.)について不安をお持ちのようですが,次の話をお聞きになればいくらか気持ちが落ち着くのではないでしょうか.私が2か月前に聞いたことですが,デ・ガラレタ司教(訳注・“Bishop Alfonso de Galarreta”. 聖ピオ十世会の4人の司教のうちの一人.「教理上の論議」に関わる聖ピオ十世会側の代表団の一人.)は,いくつかの理由を挙げてこの両者間の協議を所期の目的(それ以上先は別)に達するまで継続すべきだと説明したそうです.その中で,司教は協議継続は若干の危険を伴うが,いくつかの利点もあると述べています.

両者の間では昨年10月の予備的会合の後,今年になって1月,3月,5月に正式な協議が行われました.協議は毎回,事前準備,討論(討議),事後処理の3つで構成されます.事前準備では,聖ピオ十世会の代表4名が当該問題にかかわるカトリック教義の宣言文をまとめ,第二バチカン公会議提唱の反対教義がもたらす諸問題と合わせて,ローマ教皇庁を代表する4名の神学者に提出します.討議では,ローマ教皇庁代表がこれに答え,その後に続く口頭(口述)による言葉のやり取りが記録されます.事後処理としては,記録された討議内容の要旨を聖ピオ十世会側が文書にします.これまで話し合われた問題は典礼と信教の自由に関することだけです.ただし,デ・ガラレタ司教は,さらに必要な話し合いを続け,来年2011年の春までに協議を終えたい意向のようです.

司教はこれらの協議を,協議開催としての単なる事実とその内容とに分けて評価しています.内容について司教は,聖ピオ十世会代表団が協議席上での口頭でのやり取りに失望していると述べています.この点について,代表団の一人は私に次のように語ってくれました.「口頭でのやり取りでは理論的正確さが欠けています.交わることのない二つの異なる考え方から生まれるのは,対話というよりむしろ独白です.ただし,ローマ教皇庁代表は私たちにとてもよくしてくれます.だから,会合は酢を飲まされるようなものではなく,まるでマヨネーズをご馳走されているようなものです.私たちは自分たちの考えをそのとおりに口頭で述べます.私たちはまさしく明鏡止水(めいきょうしすい)の心境です.」 だが,デ・ガラレタ司教は実に,会合の前後に出される協議に関する文書が,カトリック真理と第二バチカン公会議の誤りとの間に一線を画(かく)し,その誤りがこれまでどのように変わってきたかを,当初から最近の誤りに至るまで追跡するのに役立つ貴重な記録になるとし,「教皇ヨハネ・パウロ2世いらい,その差はより微妙なものになってきている」と,述べています.

協議が行われていることの単なる事実については,司教はいくつかの利点を挙げています.第一に,ローマ教皇庁の人たちが聖ピオ十世会の代表団と知り合いになることは良いことだし,その逆もまた然りであるということ - すなわち,そのような接触が悪魔の好む煙幕,鏡を取り除くのに役立つという点です.司教はそうした接触が大きな危険をもたらすとは考えていません.というのも,ローマ教皇庁の代表者はひねくれ者ではありませんし,自分たちがどこから来てどこへ行きたいと願っているかを明らかにわきまえていると見ているからです.第二の利点は,ローマ教皇庁が最高レベルで真剣に聖ピオ十世会の示す教義教理を検討するということの単なる事実だけで,善意を持ちながらも,かかる事実無しにはカトリック伝統に近づけないでいる多くの主流派司祭たちの間に,聖ピオ十世会への信頼感を与えることになる点です.そして第三点目は,ローマ教皇庁の最高幹部たちの中に,古い議論から時折解放され,聖ピオ十世会によって新たに前向きな姿勢に変わる人たちが現れるという点です.言いかえれば,カトリック真理がもう一度根を下ろし始めたということではないでしょうか.

親愛なる読者の皆様,私たちは辛抱し,忍耐強く神の摂理(=神の御心・御意思)に限りなく信頼しましょう - 結局のところ,神の摂理とは神がお創りになられた神御自身の教会のことなのです!私たち一人ひとりのうちにカトリック真理への愛がとどまり続けるよう神の御母(=聖母)に祈りましょう.私たちの霊魂を救い,カトリックの権威を回復できるのはまさにただカトリック真理だけなのですから.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年7月5日月曜日

人間的には,終焉した.

エレイソン・コメンツ 第155回 (2010年7月3日)

「司教閣下,私には理解できません! 最初に(エレイソン・コメンツ 第153回(以下,「EC153」),あなたは「教皇空位主義者」を非常によく見せて,聖ピオ十世会がすべて誤っているかのように仕向けました.その後,あなたは聖ピオ十世会のもう一人の反対者であるカスパー枢機卿を,さもバラの香りでもするかのように仕立て上げました.そのうえで,あなたは続けて,同枢機卿が教会の終焉(しゅうえん)を示す証しだと示唆(しさ)されたのです! 締(し)めくくりとして(EC154),あなたは結局のところ聖ピオ十世会が全く正しいと言われるのです! 私の頭は振り回されて混乱しています!」

「分かりました,まあ落ち着いてください! その答えの簡単な部分から始めて,だんだんと興味深い部分に移っていくことにしましょう.先週(EC154)私が述べたのは次のとおりです.すなわち,第二バチカン公会議がカトリック教の真理とカトリック教の権威を分離してしまったということ,そして,「教皇空位主義者」のように行き過ぎた「カトリック真理派」と、カスパー枢機卿のように行き過ぎた「教会権威主義者」の間にあって,聖ピオ十世会はカトリック真理の完全さとその真理と両立する範囲内の教会権威を共に擁護(ようご)する正しい解決策をとっているということです.当然ながら,この聖ピオ十世会のとる中庸(ちゅうよう)の立場は,「真理派」と「権威派」の双方から攻撃されます.だが,相容(あいい)れないそれら二つの誤りのいずれにも耳を傾けることは,両者の間の真の解決策が何なのかを理解する手助けになるでしょうし,またそうあるべきでしょう.」

「分かりました,閣下.でもどうしてあなたは,カスパー枢機卿が微笑んだだけで,カトリック教会は人間的には終焉したと,仰った(おっしゃった)のですか?」

「それは,カトリック教会に自(おの)ずから備わっているカトリックの真理を棄(す)てることは,教会の権威を棄てることよりもはるかに重大で深刻なことだからです.なぜなら,権威は真理に仕えるために存在するに過ぎず,したがって,カトリック真理こそが主たる存在で権威はそこから派生するだけにすぎないのです.「教皇空位主義者」はカトリック信仰を持っており(誤り導かれたキリストの代理者(=歴代教皇)が彼らのことを気にする理由がこれ以外にあるでしょうか?),彼らの良心は今なお正しいままにとどまっています(彼らの議論は非常に論理的で道理にかなっているように思えます).ところがそれに反し,カトリック信者が権威を理由に第二バチカン公会議とそれが提唱する人間の宗教を受け入れれば,その瞬間から彼は唯一の真の神の宗教であるカトリック信仰を失い始めることになり,自分の心にその矛盾を受け入れるよう強要することにより,心そのものを破壊し始めます.なせなら,これら二つの宗教,すなわち神の宗教と人間の宗教とは,その原理においても実践においても,まったく相矛盾するものだからです.あなたの周りを見てごらんなさい!

カスパー枢機卿の微笑はまさしく,最高位の聖職者たちがどれほどカトリック信仰を失ってしまったか(少なくとも人間の前に),そして第二バチカン公会議による「エキュメニカルな(=教会一致運動の)対話」の追求によって彼らの心がいかに破壊されてしまったかを示しました.神の完全性とは唯一の教会であるカトリック教会を創立されたイエズス・キリストのうちにあり,この点については必然的に,他のどの「教会」(訳注・英原語…小文字で始まる “church” - カトリック教会以外の「教会」を指す.カトリック教会は大文字で始まる “Church” で表示される.),宗教,非宗教も多かれ少なかれ異を唱えます.そうであるなら,どうしてカトリック教会の聖職者たちが,非カトリック教徒たちをカトリック信徒へと改宗させるという主目的以外のことで,彼らと話をすることができるのでしょうか? カトリック教に改宗させる以外の目的で「対話」することは,暗にイエズス・キリストが神であることを否定することになるのです.カスパー枢機卿が,聖ピオ十世会は自分のことを異端者と見なしていると考えても不思議ではありません.そこで彼はただ微笑むだけなのです.

というのも,同枢機卿は,カトリック教会の権威のために,一カトリック信徒が信じるすべてのことを自分も信じていると,依然として考えているからです.これは,同枢機卿が矛盾についてのあらゆる概念(がいねん)を失っていること,彼のカトリック信仰および心がなくなっていることを意味するのです.人の最高の能力がなくなってしまったとき,その人を救うものが心をおいて他にあるでしょうか? ただ奇跡が起こるのを待つほかありません.カスパー枢機卿は今日の聖職者たちの典型です.神からの奇跡が起こらない限り,今日の公的なカトリック教会は終焉しているのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年6月29日火曜日

カトリックのバランス

エレイソン・コメンツ 第154回 (2010年6月26日)

先週の「エレイソン・コメンツ」で私は,教皇ヨハネ23世以後の教皇はみな全く教皇ではなかったと信じている「教皇空位主義者」に共感しているかのように思われる論評で始め,権威のない聖ピオ十世会を物笑いの種にしてからかったカスパー枢機卿に共感するかのような論評で終わりました.私は,その論評を読んで混乱した女性読者が少なくとも一人はいたと承知しています.おそらく混乱したのは彼女だけではなかったのではないでしょうか.だが,こうしたことはすべて,第二バチカン公会議いらいカトリック教の真理がカトリック教会権威から分離してしまっているという前提に立てば,誰にとってもつじつまの合う話なのです.

今日(こんにち),教会聖職者たちのカトリック教会権威は,私たちの主イエズス・キリストのカトリック真理と一つにまとまるべきです.なぜなら,人間の権威はひとえに神の真理を擁護しかつ指導するためにだけ存在しているからです.だが,あの忌むべき公会議(1962年-1965年)で,何世紀も続いたプロテスタント教の異端とリベラリズム(自由主義)による真理の崩壊が大半の公会議主義の神父たちの心にひっそりと入り込んでしまったため,彼らはカトリック教の真理の純正さを保つことを諦(あきら)めてしまい,この日にいたるまで,公会議の新しくかつ誤った人間の宗教をカトリック教徒たちに押し付けるためカトリック教会の全権威を利用し続けているのです.

その結果,カトリック信徒たちは必然的に,信徒同士のみならず自身の内面でもバラバラに引き裂かれてしまいました.それは,次の二つの場合を見れば明らかです.一部のカトリック信徒はカトリック教の真理に固執し,多かれ少なかれカトリック教会の権威を棄(す)てざるを得ませんでした.これが「教皇空位主義者」の見出(みいだ)した解決策です.カトリック教の真理に主眼を置けば,「教皇空位主義者」に十分共感できます.というのも,第二バチカン公会議が始まっていらい今日までの,最高位の聖職者たちによるカトリック教の真理に対する裏切り行為は,あまりにもひどいものだからです.

もう一方のカトリック信徒はカトリック教会の権威に固執し,多かれ少なかれカトリック教の真理を棄てるという選択をしました.こちらはカスパー枢機卿の解決策です.カトリック教会の権威に主眼を置くなら,同枢機卿が教皇ベネディクト16世に忠誠心を持つことに共感できます.同時に,枢機卿が,まったく権威のない,依然として事実上破門されたままの聖ピオ十世会からカトリック信徒でないと非難されて微笑みを浮かべたのも理解できるのです.

だが,ルフェーブル大司教(訳注・ “Archbishop Marcel Lefebvre” (1905-1991) フランス人.「聖ピオ十世会」の創立者.)は,カトリック教の真理と教会権威の両極の間で,第3の道を選んだのです.聖ピオ十世会は,その第3の道に従っているのですが,それは,カトリック教の真理に固執しながらも,同時にカトリック教会の権威を軽視することはせず,またその当局関係者たちの地位や立場を全体的として懐疑的に見ることもしない,という道です.それは,必ずしも常にたやすく保持できるバランスではありませんが,これまでに世界中でカトリック教の実を結んできており,公会議の砂漠(1970年-2010年)の中で今まで過ごしてきた40年もの間,真実かつ唯一のカトリック教義と真実なカトリック教の諸秘跡の上に立つカトリック信徒の忠実なカトリック信心の名残を維持してきました.

そして,私たちカトリックの羊たちは,ローマの牧者が打たれている間は,その公会議の砂漠に散り散りに置かれたままでいなければならないでしょう(旧約聖書・ザカリアの書:13章7節参照,ゲッセマニの園で私たちの主イエズス・キリストが引用された-新約聖書・マテオによる福音書26章31節参照.)(訳注・引用された聖書の箇所…後記参照).このカトリック教会のゲッセマニにおいて,私たちはともかく仲間の羊たちに深い哀れみをかけなければなりません.私が「教皇空位主義者」たちに,そしてある程度までリベラル派(自由主義者)にすら共感できるのはそのためです.しかし,このことは,決してルフェーブル大司教の第3の道が正道でなくなったことを意味するものではありません.たとえ第3の道が,しばらくのあいだ恐竜に飽きているように見えるとしてもです.たとえそうだとしても,私にはそのことさえも理解できるのです!

偉大なる神の御母がこの小さな修道会(聖ピオ十世会)をいつまでもお守りくださいますように!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教



* * *


第6パラグラフの聖書の引用箇所2か所)

1.- 旧約聖書・ザカリアの書:第13章7節 -

剣よ,立って,私の牧者と,私にくみしているものを攻めよ.
―― 万軍の主のお告げ ――
牧者を殺せ,そうすれば,羊は散る.
そのとき,私は,小さなものに向かって,手をのばす.

(注釈)この「牧者」は,11章4-14節に出る「よい牧者」でもなく,11章15-16節に出る「悪い牧者」でもなく,一般に,主の代理者となっている「民のかしら」を指している.彼は,剣に打たれ,全人民は,試練を受けることとなる.羊は,牧者のない群れとなるのだから.このときになれば,民は,新しい契約のために,準備されるものとなる.マテオ福音(26章31節)は,「牧者を殺せ,そうすれば,羊は散る」の一句を,メシア(救世主イエズス・キリスト)にあてはめている.
(11章4-14,15-16節については,後日,別途に追加します.)


2.- 新約聖書・マテオによる福音書26章31節 -

(「最後の晩餐」にてイエズス・キリストは御聖体の秘跡を制定された後,弟子たちと讃美歌を歌ってからオリーブ山に出ていった)「…そのときイエズスは弟子たちに言われた,「今夜,あなたたちはみな私についてつまずくだろう.〈私(=神)は牧者を打ち,そして羊の群れは散る〉と書かれているからだ.…」

(注釈)「ザカリアの書13章7節」参照.弟子たちは,イエズスをメシア(救世主)と信じて勝利の日を待っていた.そのイエズスが,何の抵抗もせず死んで行くことを見ての宗教的つまずき.

2010年6月28日月曜日

枢機卿が微笑む

エレイソン・コメンツ 第153回 (2010年6月19日)

最近のカスパー枢機卿の微笑(ほほえみ,びしょう)は,私の長年にわたる信念を裏付けるものです(訳注・カスパー枢機卿(すうききょう)…“Walter Kasper”(ヴァルター・カスパー),ドイツ人.現在「他のキリスト教会およびユダヤ人との宗教関係」についてのバチカンの関連部門の長(=「キリスト教一致推進評議会」議長兼「ユダヤ人との宗教関係委員会」委員長).).その信念とはすなわち,教皇ヨハネ23世以来,今日までの歴代の公会議主義者の教皇たちが示してきた徹底的なリベラリズム(=自由主義)にもかかわらず,彼らが本当に教皇だったかどうか疑念を抱く必要はないということです.多くの真面目で信心深いカトリック信徒たちは,そのことについて疑問をもっています(解説後記).というのも彼ら信徒には,真のキリストの代理者(訳注・すなわち教皇を指す.)たちがどうして,これらの歴代の教皇たちがこれまでしてきたほどにカトリック信仰とキリストの教会(訳注・カトリック教会のこと.)から遠く逸脱(いつだつ)し得るのかが理解できないからです.実に測り知れないほど深刻で由々しき問題がそこにはあるのです.

こうした人たちは通常「教皇空位主義者」と呼ばれていますが,彼らは,誰でも異端者のように歩き,異端者のように話し,またアメリカ人が言うように,異端者のように騒々しくいんちきを宣伝すれば,それでその者は異端者であると論じます.しかし,異端者とは教会から自身を締め出す人のことです.故にこれら歴代の教皇はカトリック教会から自分たちを締め出してしまったのですから,とうてい教会の長として在位し得るはずがありません.どうして教会の非会員がその長たり得るでしょうか?(解説後記)

私の信念によれば,真実の答えは,唯一の救いの箱を反射的に見捨てるような異端とは極めて深刻なことであり,それを犯す者は,自分がしていることを十分に知り本気でそう行動しなければならない,ということです.その者は神ご自身の権威で神の教会によって定義されたカトリックの真理を否認しているということ,言い換えれば,神に逆らっているのだということを自覚していなければなりません.その自覚がない者は - カトリック教会では「頑固」と呼ばれますが - たとえ数々の神の真理を否認していても,まだ神に逆らっているとか,あるいは教会を見捨てたということにはなりません.

さて,「教皇空位主義者」は,深く教会教育の薫陶(くんとう)を受けた歴代教皇が,多大な影響を与えるような発言をするときに自分が何をしているか分かっていないなどという考え方を,馬鹿げていると一笑に付します.その類(たぐい)の発言の例を多数ある中から唯(ただ)一つ挙げるとすれば,例えば教皇ベネディクト16世が旧約(訳注・神とイスラエル人との間で交わされた旧(ふる)い契約のこと.モーゼの律法.)の正当性についてする発言です.教会が正気だった昔なら,異端者の行動を自覚させるには教皇の異端審問(訳注・原文“the Pope’s Inquisition (or Holy Office)”) に引っ張り出し,自分の犯した間違いに教皇の権威をもって真正面から直面させ,間違いをしないよう促(うなが)したことでしょう.もし,異端者がこれに従うのを拒めば,その時は,その頑固さがだれの目にも明明白白となるわけで,その狼(おおかみ)は羊舎(ようしゃ)から放り出されました.だが,そうした審問には異端者を召喚(しょうかん)することと,犯した間違いを断じることの両方を行える権威が必要です.然(しか)るに,第二バチカン公会議以来,カトリック教会の最高権威とされている同公会議がもはやカトリック教の真実の見極め(みきわめ)ができなくなっているとすれば,一体どうすればよいのでしょうか?(注釈後記)

カスパー枢機卿にご登場いただきましょう.パリで5月4日に行った記者会見で(すでに「エレイソン・コメンツ 第148号」で触れたとおり),彼は自分の担当するカトリック教会と他のキリスト教会との対話に聖ピオ十世会が頑な(かたくな)に反対していると述べたと伝えられます.枢機卿の発言内容は正確です.「彼ら(聖ピオ十世会)は私を異端者だと攻撃しています」と,枢機卿は微笑みながら述べました.

彼が微笑むのはもっともなことです.全キリスト教会間の対話とは,第二バチカン公会議以来の普遍教会(=カトリック教会.“Universal Church”. )の行動指針として実践されてきたことであり,教皇ベネディクト16世がいたるところでその重要性を説き,カスパー枢機卿が教皇の首席代理人を務めてきたわけですが,聖ピオ十世会がいかなる権威によってその対話に異を唱(とな)えているとお考えなのか,差支え(さしつかえ)なければお聞かせください.善良なカスパー枢機卿が記者会見で爆笑するのを慎んだのは,見当違いをしている「伝統主義者」たちへの単なる思いやりだったに違いありません.

人間的な言い方をすれば,教会はもう終焉(しゅうえん)しています.だが,神の見地から言えば,そのようなことはありません.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

(第1,2パラグラフの解説)

「教皇空位主義者」“Sedevacantist”
…“Sede-”=ローマ教皇座(The Holy See (La Santa Sede) = 聖座).“vacant”=空位の.

カトリック信徒を自称しているが,第二バチカン公会議以降のローマ教皇たちは正統な教皇と認めないと主張する人を指す.彼らによれば,現在のローマ教皇座は「空位」であるという結論になる.
教皇空位主義者は,教皇ヨハネ23世および教皇パウロ6世のもとで推し進められた第二バチカン公会議によるカトリック教会の改革を一切認めない立場に立つ.したがって彼らは,伝統的な典礼(ラテン語のみで執り行われる旧来のトリエント・ミサ典礼= “Tridentine Mass”,聖伝のミサ典礼.)のみを認め,第二バチカン公会議で定められた各国語で行う典礼(新しいミサ典礼=“Novus Ordo”)は認めない.


(第4パラグラフの注釈)

つまり,正当にはカトリック教会の最高権威はローマ教皇であるが,もしそのローマ教皇が異端者ということでもはや教会の長たり得ず,しかも現在教会の最高権威とされている第二バチカン公会議にカトリック教に則った真実の見極めをする能力がない場合,いったい誰がどういう権威で「異端者」を召喚しかつ断罪し得るのだろうか?ということ.)

2010年6月14日月曜日

公会議主義の「神学者」その2

エレイソン・コメンツ 第152回 (2010年6月12日)

先週の「エレイソン・コメンツ」で第二バチカン公会議の草分け的な神学者であるマリー=ドミニク・シュニュ神父のおかした6つの誤りを示した際,私は Si Si No No が挙げた6つの誤りの順番を変え,それに関連したお話を改めて別の「エレイソン・コメンツ」でしたいと示唆しました.そのお話とは,現代が人間の心を悲惨なまでに失墜させたことについてのものです.

Si Si No No は,6つの誤りのうち感傷主義を1位に挙げています.そのあとに主観主義,歴史的相対主義(=歴史主義),人間の方を向き人間に頼ること(訳注・=人間に救いを求める,人間を当てにする.)(人間中心主義),進化論そして背徳主義が続きます.感傷主義から始めるということは,今日わたしたちが見かける人間,言い換えれば,人間が様々な感情にどっぷり漬かって溺れている状態から始めるということです.その例は数百,数千ありますが,ここでは2つだけ挙げます:まず宗教について「神はきわめて寛容なので一人の人間の霊魂も地獄に送ることはない」という考え方です.また;政治では「誰が背後で9・11事件を仕組んだかを問うのは愛国的でない」という考えです.

エレイソン・コメンツ」では,6つの誤りをそれぞれの即時性よりむしろ深さの順に並べる選択をしました.その結果,神に背を向けるという意味で人間中心主義を1番目に置きました.なぜなら,神を拒むことがあらゆる罪と過ちの根源だからです.次に来るのは人の心を襲う3つの誤り,すなわち主観主義,歴史的相対主義,そしてその帰結である進化論です.これら4つの誤りはいずれも感傷主義より前に来ます.なぜなら - ここが興味深い点ですが - 正当な王を失脚させ退位させないかぎり強奪者は王位を奪えないからです.同じように,心が無能力にされない限り感情が心に取って代わることはあり得ません.いずれの順位表でも最後に来るのは背徳主義すなわち善悪の否定です.なぜなら,霊魂と心のあらゆる無秩序が最終的には行動の無秩序に行き着くからです.

感情に対する心の自然な優位性 - この優位性は多くの現代人には顕著でありませんが - を理解するため,私たちは航海中の船と比較してみましょう.もし船長が故意に舵(かじ)から手を放し,船が風と波に流され難破するまで操縦を止めてしまったとしても,再び舵を取ることを選択すれば,彼に船の操縦を可能にし,風と波を上手(うま)く活用しながら港にたどり着かせるのは,舵の特質がなせることなのです.同様に,人間が故意に理性を捨て,心を感情や熱情にゆだね,永遠の地獄に向って漂流し続けることになったとしても,再び心を蘇らせる選択をすれば,初めのうちは熱情や感情を抑える理性が心許(こころもと)ないにしても,やがて天国に導かれるようになるのは心の特質によるものなのです.

では,人はどうやって自分の心を取り戻し,それを再び玉座に座らせることができるでしょうか?それは,神に立ち戻る(=神に立ち帰る)ことです.なぜなら,人が心を玉座から退位させてしまったのは,先ず(まず)はじめに神を拒(こば)んだからであり,いったん神を拒むと直(ただ)ちに理性を取り壊し始めなければならなくなったからです.それでは,人が最も容易に神に立ち戻る方法は何でしょうか?まず「アヴェマリア(めでたし,マリア)」(訳注・“Ave, Maria” 祈祷文「天使祝詞」の冒頭のところ)を1度だけ唱えることから始めてみましょう.少し進んで,その言葉をあと数回繰り返して唱えてみましょう.それからさらに進んでロザリオの祈りを1連(アヴェマリアを10回),最終的には毎日5連唱えてみましょう.こうすれば人は誰でも再び思考し始めるでしょう.

神の御母よ,私たちの心をお救いください.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年6月9日水曜日

公会議主義の「神学者」その1

エレイソン・コメンツ 第151回 (2010年6月5日)

第二バチカン公会議は1960年代に多くのカトリック司教たちを崩壊させるという大混乱を起こしましたが,それが世界中の霊魂に及ぼした影響は計り知れません.従って,わたしたちはその本質的な問題についていくら考えても考え過ぎということはありません.なぜなら,問題は依然として,かなりの度合いでまだ私たちの身の回りに存在しており,それによる被害の度合いは過去にもましてますます強まってきているからです.第二バチカン公会議の行ったことは私たちすべての霊魂を地獄へ落とそうとしています.去年,イタリアの隔週刊行誌「シ・シ・ノ・ノ」 “Si Si No No” (訳注:「然り・然り・ 否・否」の意味.→新約聖書・マテオによる福音書第5章37節参照.…「〈はい〉なら〈はい〉,〈いいえ〉なら〈いいえ〉とだけ言え.それ以上のことは悪魔から出る.」…イエズス・キリストの御言葉.)が、第二バチカン公会議の草分け的「神学者」であるドミニコ会(訳注・1215年,聖ドミニコによって設立されたローマ・カトリックの修道会)所属のフランス人神父,マリ-=ドミニク・シュニュ神父 (Fr. Marie-Dominique Chenu ) のおかした主要な誤(あやま)りをまとめた記事を発表しました.以下はそれをさらに簡潔に要約したものです.ここで指摘された同神父の6つの誤りとは,神の場に人間を置くという問題の核心に触れるものです.(私は6つの誤りについて記述の順番を変えました.関連したお話を改めて別の「エレイソン・コメンツ」でしたいと考えたからです.)

1.人間に目を向けること.すなわち,あたかも神が現代人に適合すべきで,現代人が神に適合するのではないというふうに人間に目を向けることです.しかし,カトリック信仰とは常に人間を神に合わせようと努めるものであり,その逆ではありません.

2.神の啓示を現代的な考え方の下に置くこと.現代的な考え方とは,例えば,デカルト,カント,ヘーゲルの考え方です.そこにはもはや絶対的かつ客観的な真理は全く存在しません.あらゆる宗教上の見解は単なる相対的かつ主観的なものにすぎなくなります.

3.神の啓示を歴史的手法の下に置くこと.これは,真理はすべて,単に歴史的な背景から生じたものであり,歴史的な状況はいずれも変化してきたか現在も変化しているのだから,不変の,あるいは変え得ない(=変更不能な)真理など存在しない(訳注・原文 “so no truth is unchanging or unchangeable”. )という意味です.

4.汎神論的な進化を信じること.これが意味するところは,神はもはや地上の生物とは本質的に異なる創造主ではないということです.神は地上の生き物,すなわち動植物や人間となんら異なるものではなく,彼らと同じように進化によって生まれ,進化によって絶えず変化している,という考え方です.

5.宗教のことでは感情を最優先させること.たとえば,心における超自然的なカトリック信仰または意志における超自然的な神の慈愛のいずれよりも,宗教的な感傷体験を上位に置いて重視するということです.

6.善悪の相違を否定すること.すなわち,単なる人の行為の存在だけが世の中を良くすると主張することによって善悪の相違を否定します.今では,実際に行われるあらゆる人間の行為につき,その存在自体は善であるとし,それぞれの行為についてはその最終目的,すなわち究極的には神の御意思にそぐう(=合う)場合だけに限り道徳的な善となり得るにすぎず,神の御意思にそぐわない人間の行為のみが道徳的な悪となるにすぎないとする,とするのが事実です.

この6つの誤りは明らかに相互に関連しています.もし(1)宗教が私中心だとするなら,そのときは(2 と 3),私は神中心の宗教という現実から自分の心を隔てなければなりません.そして心が機能しなくなると,今度は(4)「どうしたってなにもないのだから」ということになり (訳注後記),その結果,すべてのものは進化すると考えるようになり,かくして(5)感情が支配することになります.(すると,宗教は人々が女性化されるという過(あやま)ちによって支配されることになります.なぜなら感情は女性の特権だからです.)こうして最終的には,感情が真理に取って代わり(6)道徳が崩壊するのです.

第二バチカン公会議の文書自体は,こうした誤りを明白に示しておらず,むしろ間接的に曖昧に(あいまいに)ぼかして表現しています.その理由は,同公会議に出席してはいたものの実情を十分に知らされていなかった多くのカトリック司教たちの支持票を得るために彼らの目を誤魔化(ごまか)す必要があったからです.だが,ここに挙(あ)げた誤りは,公会議が目指している最新の「第二バチカン公会議精神」そのものです.そしてそれが理由で過去45年間にもわたり,すなわち1965年から2010年まで,公的なカトリック教会が自壊の道をたどり続けているのです.この状態は今後あと何年続くのでしょうか?

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教



* * *

(下から2番目のパラグラフの(4)の訳注と解説)

(4)… 原文 “nothing is but what is not”. シェイクスピア作悲劇「マクベス」第1幕第3場におけるマクベスの傍白(ぼうはく・観客に向かってしゃべる内心のつぶやきを表すセリフ)より引用されている.
自分の心に抱く欲望を恐ろしいものだと認識しながらも,その感情に支配されてしまい,神からの良心の声は全く封殺され,心はその欲望で一杯に支配されてしまう.
つまり,人間がその心に「神」ではなく「私」を中心に置いて生きるなら,たとえば反道徳的な欲望という感情(激情)にかられたとき,その欲望を抑制する客観的基準(つまり神による勧善懲悪の基準)を自分の中心に行動の判断基準として持たないため,激情に理性や良心が簡単に屈服してしまい,感情の赴(おもむ)くままにその欲望を実行に移そうとし,その際に神という客観的基準を全面否定しようとすることになる.しかし,良心に反して反道徳的な欲望を実行に移すならば,結局は自分自身で欲望に取りつかれ発狂するなどして精神に異常をきたし,社会的にも身の破滅を招き,心身ともにわが身を滅ぼすことになる,ということ.


* * *


(以下は,新訳『マクベス』 シェイクスピア・原作/河合祥一郎・訳 (角川文庫)15-21頁を参照.)

(前提のあらすじ)
(スコットランド国王ダンカンに仕える将軍マクベスに対する3人の魔女の3つの挨拶(①「万歳,マクベス,グラームズの領主!」(マクベスの)現在の名誉に挨拶. ②「…コーダーの領主!」(マクベスの)未来の出世を予言. ③「…やがて王となるお方!」(マクベスの)王になる望みを予言.)の②が実現した時,③の「王となる」という予言に対する野望がマクベスの心に芽生えてしまった.)


(マクベス)
〔傍白〕グラームズ,そしてコーダーの領主.
最大のものがそのあとに控えている
.〔ロスらに〕ご苦労であった.
〔バンクォー(スコットランドの将軍)に〕君の子供も王になるかも知れぬな,
俺をコーダーの領主にしてくれた連中(3人の魔女)は,
君にそう約束したのだから.

(バンクォー)
あまり信じすぎると,
コーダーの領主のみならず,王冠にまで
手を伸ばしたくなるぞ
.〔傍白〕だが,不思議だ.
暗闇の使い手は人を破滅させるために,
しばしば真実を告げ,
つまらぬご利益で信頼させ,土壇場で裏切るという.

〔ロスらに〕お二人に話がある.

(マクベス)
〔傍白〕二つの真実が語られた.
壮大な芝居にはうってつけの幕開けだ.
主題は王になること
.〔ロスらに〕――ありがとう,君たち,――
〔傍白〕この自然ならざる誘い(いざない)は,
悪いはずはない.よいはずもない.
悪いなら,なぜ,まず真実を語り,
成功の手付けをくれるのだ
? 俺はコーダーの領主となった.
よいなら,なぜ,俺は王殺しの誘惑に屈しようとする
その恐ろしい光景を思い描くだけで総毛立ち,
いつもの自分に似合わず,心臓が激しく鼓動し,
肋骨にぶつかるようだ.目の前にある恐怖など,
恐ろしい想像と比べたら大したことはない.

まだ殺人を想像しただけなのに,その思いは
この体をがたつかせる.思っただけで
五感の働きがとまってしまう.あると思えるものは,
実際にはありもしないものだけだ
(注).

(バンクォー)
わが友はすっかり上の空だな.

(マクベス)
〔傍白〕運が俺を王にするなら,運が王冠をくれよう,
自分で動かずとも.

(バンクォー)
新たな名誉を賜ったが,
着慣れぬ服同様,なじまぬうちは,
しっくりこぬ,か.

(マクベス)
〔傍白〕どうなろうとも,
時は過ぎる,どんなひどい日でも.



(注)訳者(河合祥一郎教授)による注釈:
Nothing is, but what is not. 原意は「何も存在しない,ないもの以外は」=「存在するのは実在しないものだけだ」.存在=非存在.
『ジュリアス・シーザー』第二幕第一場で「恐ろしいことを行うことと,それを最初に思いつくことのあいだは,まるで幻か悪夢だ….そのとき人間という小さな国は,小王国のように,叛乱に遭う」というブルータスの台詞で示された想像世界の脅威というテーマが,『ハムレット』を経て『マクベス』に至る.人間の世界は人間の頭から生まれるというシェイクスピアの発想に基づいている.

* * *

(悲劇マクベス・英原文)

MACBETH.
[Aside.] Glamis, and Thane of Cawdor:
The greatest is behind.
----Thanks
for your pains.----
Do you not hope your children
shall be kings,
When those that gave the
Thane of Cawdor to me
Promis’d no less to them?

BANQUO.
That, trusted home,
Might yet enkindle you unto
the crown
,
Besides the Thane of Cawdor.
But ‘tis strange:
And oftentimes to win us to
our harm,

The instruments of darkness tell
us truths;
Win us with honest trifles, to
betray’s
In deepest consequence.
----
Cousins, a word, I pray you.

MACBETH
[Aside.] Two truths are told,
As happy prologues to the swelling act
Of the imperial theme.
----I thank you,
gentlemen.----
[Aside.] This supernatural soliciting
Cannot be ill; cannot be good:
----if ill,
Why hath it given me earnest of success,
Commencing in a truth?
I am Thane of Cawdor:
If good, why do I yield to that suggestion
Whose horrid image doth unfix my hair,
And make my seated heart knock at my ribs,
Against the use of nature? Present fears
Are less than horrible imaginings:

My thought, whose murder yet is but fantastical,
Shakes so my single state of man, that function
Is smother’d in surmise; and
nothing is
But what is not.


BANQUO.
Look, how our partner’s rapt.

MACBETH.
[Aside.] if chance will have me
king, why, chance may crown me
Without my stir.

BANQUO.
New honors come upon him,
Like our strange garments,
cleave not to their mould
But with the aid of use.

MACBETH.
[Aside.] Come what come may,
Time and the hour runs
through the roughest day.


* * *
(この後,マクベスはダンカン王を殺して王位についたが,王位を失うことを恐れるあまり狂気に陥り次々と殺戮を重ね続け,遂にスコットランドの貴族マクダフ(イングランドに逃亡していたダンカン王の長男である王子マルカムの軍に加わった)に殺され,マルカムが正当に王位についた.)

2010年5月31日月曜日

苦闘する男の子たち

エレイソン・コメンツ 第150回 (2010年5月29日)

エレイソン・コメンツ(以下「EC」)第146回では,教師をする修道女たちが今日の女生徒たちを指導する際に経験する難しさについて述べました.EC第147回では、問題の根源を家庭生活に立ち戻って考えました.では,男の子たちの教育はどうすべきか?とお尋(たず)ねになる方もおられるでしょう.カトリック教では,男の子も女の子も,来世で生きるため霊魂の救済が必要である点においては同等と理解していますから,どちらも同様に,何よりもまず天国に入れるよう準備を整えさせる必要があります.だが,男女が平等なのはそこまでです.神は男性と女性が現世において全く異なる役割を果たすよう任命しているのです.その理由で,カトリック教会は今日まで常に男女共学に異を唱えてきたのです.では,男の子たちに具体的に必要とされるのはいったいどんな教育なのでしょうか?

女性が家庭や子供の世話をする心という天賦の才を与えられているように,男性もまた家族を導く理性という天質を与えられ,(訳注・始めの人アダムとエバが)原罪を犯して以来このかた,「額(ひたい)に汗を流して」(旧約聖書・創世の書:第3章19節)労働することによって家族を養わなければなりません.それゆえ,女の子の躾(しつ)けは将来家庭の中で夫と子供に仕えるための準備を軸として成される必要がある一方で,男の子の躾けは家庭外での(1)労働(2)責任を持つことに備えたものでなければなりません.ここで言う家庭外とは,大きな悪い世間のことです.男の子がそこで必要とするのは(3)判断力(4)自制心(5)男らしさです.ここまで述べれば,男の子の躾け計画はほぼ揃い(そろい)ます!

この計画では,父親が男の子に示す手本が極めて重要です!今,現に両親となっている方たちに問います.あなたたちは恐らく20年から30年前,つまり革命的な1960年代以降に躾けを受けたはずです.皆さんはそれが何を意味するかお気づきでしょうか?自分自身が育った時のことを謙虚にふりかえって自覚してください.学校にせよ家庭にせよ,あなたたちが受けた躾けは子供たちを天国に行けるような生きかたをするよう育てるには多分に不向きだったはずです.父たちよ,あなたたち自身の怠惰,無責任,愚かさ,身勝手さ,男らしくない軟弱さの矯正に取り掛かりなさい.それが,あなたたちが息子たちのために出来る最良のことです!

屋外の自然の中での労働が最も男の子の訓練に有益です.男の子には斧を振らせ,木を切り落とさせ,植物を庭に植えさせ,馬に乗らせ,小屋を建てさせなさい.スポーツはよくてもせいぜい男らしい娯楽に過ぎず,その域を超えるものではありません.家族のために本当に必要なことが責任を教えます.責任はまた,男の子が犯した過(あやま)ちを庇う(かばう)より,その結果を悩むように仕向けることによっても教えられます.判断力については,家庭での話し合いや,男の子が自然と英雄視し従う父親の同伴と指導により,自分の心を使って考えるように仕向けることで身につけさせることができるでしょう.このとき,父親は時間をかけて男の子の話を聴き,助言を与えてやらなければいけません.男の子の思春期には特にそうする必要があります.自制心は,朝早く起き,決められた日課を果たし,夜は早寝をして,結婚したいと思う相手と出会うまでは,多かれ少なかれ,女の子とデートをしないことで,身につけることができるでしょう.結婚するつもりのない女の子に気をむけることが少なければ少ないほど,結婚するつもりの女の子ひとりだけにその分多くを与えるようになるでしょう.男らしさは,この計画を最後まで徹底的にやり通した見返りとして男の子の身につくでしょう.

最後に,両親たちよ,電子機器が概して(がいして),いかに男の子を(1)怠惰にし,(2)無責任にし,(3)愚かにし,(4)軟弱にし,(5)駄目(だめ)にさせるかに気づきなさい.

家庭から電子の魔力を取り除け,
もし息子たちを地獄に落としたくなかったら!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年5月26日水曜日

父権の回復

エレイソン・コメンツ 第149回 (2010年5月22日)

子供の育て方が分かっていないと今日の親たちを非難するのは簡単なことです.だが非難するよりましなことは,自分たちと疎遠になってしまった子供たちの問題がどこに原因があるのか理解したいと願っている親たちに救いの手を差し出すことです.子供たちの問題は,ある意味で,神と同じように荘重なものです.なぜなら,問題の根底には神の存在を全く拒み否定する現代世界の風潮があるからです.

人間の家族は小さな社会であり,基本的に父母と子供で構成されています.いかなる人間社会でも,そのリーダーがきちんと機能する必要があることは誰もが常識で知るところです.もし方向性を示し指揮をとるリーダーがいなければ,その社会は方向を見失いバラバラになってしまいます.サッカー・チームには主将が,会社には最高経営責任者が,国には国王もしくは大統領が,町には町長が,消防隊には隊長が,陸軍には将軍が,大学には学長が,裁判所には判事が必要です.そのほか挙げればきりがありません.

とりわけ,家族には父親が必要です.なぜなら家族とは単なる人間社会であるにとどまらず,あらゆる人間社会の中で最も基本的で自然な形だからです.事実,家族は他のあらゆる形の社会の基本モデルです.なぜなら,夫を妻に結びつける絆,両親を子供たちに結びつける絆ほど深く自然な絆は他のいかなる社会にも存在しないからです.また,リーダーが構成員を導き愛を注(そそ)がなければならないことが家族ほどはっきりしている社会は他にないからです.もし父親が愛情に欠けた指揮のとり方をするなら,家族はその厳格さの犠牲になります.もし父親が指揮することなく愛情だけを示すなら - 今日ではこの方がむしろより頻繁に見られるケースですが - 家族はその軟弱さの犠牲になります.このように,家族の父性はあらゆる人間的権威のモデルなのです.だからこそ神の十戒の第四戒(エレイソン・コメンツ(EC)145を参照ください)における父と母を敬うべしとの掟は,社会における人間関係を律する七つの掟の筆頭に置かれているのです.

家族の父権はあらゆる父権もしくは権威と同じように,御父なる神に由来します.聖パウロは次のように述べています.「さて私は(主イエズス・キリストの)父のみ前にひざまずこう ―― 父から天と地のすべての*家族が起こったからである ――.」(新約聖書・(聖パウロによる)エフェゾ人への手紙第3章14,15節.)(訳注・バルバロ神父訳聖書における本節「*家族」の注釈…〈ギリシア語の「パトリア」は,父性のことであるが,ここでは,「父の権威下にある家族」のことである.地上の人間の家族は,天の天使たちの階級に相対する.これらはみな神の子らである.〉)言い換えれば,人間家族における父権,人間社会におけるあらゆるリーダーシップの特質は,御父なる神の父性に由来していると,神の御言葉は告げておられます.なぜなら,父権という「名」あるいは言葉は,それが持つ特質もしくは物を意味するからです.したがって,現に今私たちの世界がしているように,御父なる神を蹴(け)り出すような世界においてはどこでも,父権という名と特質が私たちの心の中から流れ出てしまい,かくしてあらゆる父権,あらゆる権威が私たちの生活から消え去ってしまうというのは理にかなっています.

家庭の父親たちよ,家族一人ひとりを神のもとに導きなさい!あなたたち自身がまず神の下に服従しなさい.そうすれば,妻や子供たちもそれ相応にあなたたちに服従するようになるでしょう.「すべての男のかしらはキリストである.女のかしらは男である.キリストのかしらは神である.」聖パウロはこう述べています(新約聖書・(聖パウロによる)コリント人への第一の手紙11章3節).妻と子供たちに男らしく潔い信心深さの模範を示しなさい.それが「超自然的」であるのと同じくらい自然にそうしなさい.そうすれば私たちの狂った世界がどんなに(あなたたちの家庭生活の中にまで)蔓延って(はびこって)こようと,あなたたちは少なくとも神から自分に委ねられた一家のために最善を尽くすようになるでしょう.

もし神のご意思であれば,男の子がとるべき態度の詳細について別の「エレイソン・コメンツ」で述べることになるでしょう.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年5月18日火曜日

眠れない教皇

エレイソン・コメンツ 第148回 (2010年5月15日)

カトリック伝統主義運動とは何かについて公会議主義下のローマがいかにひどく誤解しているかが,先週水曜日にパリで他のキリスト教会およびユダヤ人との宗教関係についてのバチカンの関連部門の長(訳注・「キリスト教一致推進評議会」議長兼「ユダヤ人との宗教関係委員会」委員長)であるカスパー枢機卿(訳注・Walter Kasper(ヴァルター・カスパー).ドイツ人)が記者会見を行った際に再度明らかになりました.ロイター通信社の記事からできるだけ忠実に,5項目に要約された同枢機卿の考えを引用し,その後で所感を述べさせていただきます.

(1)現在ローマ側の神学者四人と聖ピオ十世会の司教一人ならびに司祭三人との間で二カ月ごとに行われている教理上の論議は難航している. 2)主な問題点は伝統についての概念である.「私たちが求めるのは生きた伝統でしょうか,それとも石化した伝統でしょうか?」と,同枢機卿は(記者会見で)疑問を呈した.3)枢機卿は聖ピオ十世会との対話そのものには賛成だが,対話はローマが提示する条件の下で行われるべきであり,聖ピオ十世会の条件下で行われるべきではないと述べた. 4)仮に両者が合意に達するとすれば,聖ピオ十世会が譲歩しなければならず,同会が公会議の行った改革を受け入れなければならない. 5)もし合意に至らなければ,聖ピオ十世会は何ら公的地位を持たないこととなり,同会の司祭はカトリック司祭として認められず,聖職を執行することも許されないこととなる.

(1)2+2=4(カトリック伝統と聖ピオ十世会のよって立つ命題)と2+2=4または5(第二バチカン公会議と公会議主義のローマのよって立つ命題)を調整して一致させるのはむろん容易ではないでしょう.私たちは二つの極めて異なる算術概念に直面しており,それと同じくらいに相異なる二つのカトリック真理についての観念に直面しているのです.
(2)2+2=4は真理であり,その真理は不変かつ変更不可であり,それゆえに「伝統的」なのです.2+2=4または5というのは新しい算術です.人によっては「生きている」ととらえるでしょうが,それは全く実存しないものであり,したがって伝統的とはまるでかけ離れたものです.
(3)真の算術について議論するなら,議論は真の算術の条件に基づいてなされるはずで,議論しているいずれかの当事者による条件に基づいてなされるものではありません.それは,たとえ当事者のいずれかが条件について一定の立場を持っているとしてもです.
(4)誰が2+2=4または5(第二バチカン公会議による命題)という合意に達することを欲し,あるいは必要としているのでしょうか?真の算術など,もはやどうでもお構いなしという空想上の商人だけです!
(5)もし「公的地位」,「司祭としての承認」そして「聖職執行を許可されること」がすべて2+2=4または5の命題を受け入れるかどうかで決まるのであれば,そのような「地位」,「承認」および「許可」は,すべてカトリック真理という代価を払って買い取られたものだということになります.しかし,もし私がそのカトリック真理を売り払うとすれば,私はどうやってその真理を持ち続け人々にそれを語ることができるでしょうか? そして,もしカトリック真理を語ることができなくなってしまったら,私は(訳注・ローマ側の「司祭としての承認」付きで)どのような司祭になり得,(訳注・その結果)どのような聖職を執行することになるのでしょうか?

従って結論としては,彼らローマ側の者たちと聖ピオ十世会が別々の道を歩むのは,ただ「伝統」のみならず真理の本質そのものについて相違が存在するためなのです.真理の定義を変えることで,彼らローマの者たちはカトリック真理を失ってしまっており,少なくとも客観的に言えば,事実上彼らは,マクベスの「殺された眠り」((訳注・英国の戯作家シェイクスピア(William Shakespeare(1564(受洗礼年.正確な生年月日は不明)-1616)作の悲劇「マクベス」“Macbeth”におけるセリフ(“Methought I heard a voice cry “Sleep no more! Macbeth does murder sleep”,…「叫び声が聞こえた気がした,〈もう眠りは無しだ!マクベスは眠りを殺した〉…」― 《マクベス》第二幕第二場より)から引用.)) のように、カトリック真理を殺しているのです.同じロイターの記事によれば,教皇は,聖ピオ十世会の問題が「彼(教皇)から眠りを奪っている」(訳注・=聖ピオ十世会の問題が気がかりで「夜も眠れない」)と言ったと伝えられています.

教皇聖下,カトリック真理は聖ピオ十世会をはるかに上回って人知を超える高みに臨在(りんざい)しており(訳注・臨在=現存=presence.原文…“…the Truth is far above the SSPX,”),聖ピオ十世会はそれを守ろうとする束の間の小さな存在のひとつにすぎないことをどうか信じてください.私たち聖ピオ十世会会員の誰もが,聖下が万事良好で,とくに熟睡されるよう願っております.聖下を夜の安眠から妨げているのは聖ピオ十世会ではなく,抹殺されたカトリック真理なのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年5月10日月曜日

苦闘する両親たち

エレイソン・コメンツ 第147回 (2010年5月8日)

先週の「エレイソン・コメンツ」でご紹介した一修道女の言葉は依然として私の心に残り気がかりとなっています.「私たちの学校の女生徒たちをとりまく世間の状況は厳しいです.」わずか三年が経過しただけで「彼女たちの精神構造の変化が顕著に現れております.私たちは原則や品行を維持するのに苦闘しています.」それどころか,少女たちに対する世間の圧力は一向に和らぐ気配もありません.では,果たして私たちのカトリック信仰は「この世に対する私たちの勝利」(新約聖書・聖ヨハネの第一の手紙:第5章4節…“神から生まれた者は世に勝つ.世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である.”)に役立たなくなってしまったのか,それともこの修道女の言葉は,私たちすべてのカトリック教徒に対しカトリック信仰をより活性化させる必要があることを警告する赤信号なのか,あるいは私たちはカトリックの伝統を再び転換する必要がある,ということなのでしょうか?

子供の躾け(しつけ)における家庭と学校の関係について,仮に学校側に責任があるとしても,それは七分の二ほどについて言えることであり,少なくとも七分の五については家庭に責任があると言えます.したがって,先週ここで示唆(しさ)した通り,もし両親が子女を信用できる良い学校に入学させ,学校に預けさえすればそれで自分たちの義務は果たしたと考えるなら,それは重大な過ちだということなのです.子供の躾けにおける第一の責任は常に家庭にあります.先週ご紹介したシスターは決して自分自身に責任のあることを子供の家庭に転嫁しようとしているのではありません.そうではなく,彼女の主(おも)な望みは,神の憐れみに次(つ)いで,善良な家庭だということなのです.

今日では道理をわきまえた人なら両親に同情しない人は誰もいません.例えば,父親は通勤,満足感の得られない仕事,カトリックの教えにもとるような職場のためにくたくたに疲れてしまいがちです.一方で,母親は,もし彼女とその夫がカトリック教に則(のっと)った結婚の掟に従っていれば神が授け得る子供たちを次々に持ち,もし外部の学校がどこも堕落しきっていれば家庭の中でその子供たちを躾け、もし堕落していない清廉な学校があれば子供たちをそこに通わせる費用を稼ぐため家の内外で働かなければならず,またもし専業主婦として家に留(とど)まっていれば今度は人々の軽蔑の的になったりして疲れきっています.このような最悪の状況のいずれの場合にも,神は私たちの誰に対しても不可能なことを果たすよう期待してはおられません.しかし神は私たちに対し自らの十字架を背負い出来ることを果たすようにとは期待しておられるのです.

父親たちよ,あなたは家族の長として男らしく - 暴君的でなく!- 振る舞っていますか?あなたは家族を金銭より優先していますか,それとも家族より金銭を重視していますか?あなたは娘たちに母親を愛するよう模範を示していますか?あなたは妻の話によく耳を傾けていますか?あなたは自分自身の満足のため妻に,娘たちに悪い模範を与えかねないような装い,振る舞いをすることを求めていませんか?娘たちは母親の言うことよりずっと多く母親の行うことを見倣(みなら)うものです.あなたは娘たちと過ごす時間を取っていますか?娘たちが強く必要とする父親としての賢明な配慮と保護を彼女たちに与えていますか?母親たちよ,あなたたちへの質問はただ一つだけです.あなたは娘たちに,父親を尊敬し従うよう模範を示していますか(たとえ父親が常にそうされるにふさわしくなくてもです.)それとも娘たちの前で父親がつまらない狭量な人物に見えるようしゃべり倒していませんか?あなたがた夫婦はともに司祭に敬意を払うよう娘たちに模範を示していますか?

父親,母親たちに最後の質問が一つあります.あなたたちは今までに第二バチカン公会議前後のカトリック教徒の両親が,子供たちの躾けをする時期にうっかり任務を怠って眠ってしまい,目覚めてみたら時すでに遅しで,今となってはカトリック信仰の外で生きて死んでゆく子供たちを見てただ涙を流すしかないと話すのを聞いたことがありますか?あなたたちの家庭からテレビを追放しなさい(=追っ払いなさい,捨ててしまいなさい)! 司祭仲間や修道女の皆さん,嫌われ者になることを恐れないようにしましょう!そして私たちはみな,私たち自身のために主なる神が第二バチカン公会議のやり直しを私たちにさせなければならなくなるほどカトリックの伝統が和気あいあいと居心地の良いだけの生温(なまぬる)いものに落ちぶれてしまわないよう用心しましょう!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年5月3日月曜日

苦闘する修道女たち

エレイソン・コメンツ 第146回 (2010年5月1日)

最近,私は同じ女学校で教師をしている二人の修道女から手紙をいただきました.一人の方は自分の抱える問題を前に怯(ひる)んでいる様子でしたが,もう一人の方は前向きな希望に満ちた様子でした.だが,“シスター怯み”さん(訳注・“ Sister daunted ” 悲観的)が同時に前向きな希望も持っているように,“シスター望み”さん(訳注・“ Sister hopeful ”楽観的)も同時に怯んでいるに違いありません.なぜなら,カトリック教徒はみな,自分たちにひそかに忍び寄るほのかな背教に怯むことがないよう自分の目を閉じていなければならないからであり,かといって,カトリック信仰がもたらす希望を失えばカトリック信仰までも失ないかねないことになってしまうからです.

“シスター怯み”さんは「私たちの学校の子供たちをとりまく世間の状況は厳しいです.」と書いています.自分の出身国を離れて三年後,帰国した彼女が目の当たりにしたのは「女生徒たちの精神構造に顕著な変化が現れており,私たちは原則や品行を維持するのに苦闘しています.」という状況でした.念のために書きますが,この学校は伝統的な教義を守るカトリック教徒の両親たちによって支えられていて,入学者は絶えず増加し続けており,多くの両親たちは娘たちがそこで教育を受けられるよう並々ならぬ犠牲を払っています.それなのに,このような学校でも「精神構造」上の問題が増大しつつあるという報告を内部から私たちに伝えてきている一修道女がここにいるのです.

これは,私たちの西洋社会全体が神に対する信仰を棄(す)てつつあるからであり,また,アリストテレスが言った通り,人は社会的動物であり単に個々あるいは家族所属の動物ではないからです.したがって子供たちは,男子でも女子でも良い両親,良い家族また良い学校さえも持てるかもしれませんが,家庭や学校の内部でどれほど懸命にカトリック教育を徹底してみても,外部社会が同じカトリック教の価値を共有しない限り,その状況下に置かれた子供たちは,特に青年期以降,外部社会の反カトリック教的攻勢を感知して「時流に従う」ということに対して多かれ少なかれ厳しい圧力の下に置かれることになるのです.今日その圧力は深刻で,善良な修道女を怖気(おじけ)づけさせるところまで来ています.なぜなら,今日では真の教育者であれば誰もが,あたかも人一人が海岸に立って押し寄せてくる波を止めようとしているばかりのような気がしているからです.だが,少なくともこの修道女は目を見開いて洞察しており,女子教育があらゆる問題を解決してくれるだろうと考えて済ませがちな両親たちとは違って,自分を欺(あざむ)いて都合のよい思い違いをするということはしていません.

しかし,疑いなく彼女は“シスター望み”さんの持つ相対的な楽観主義も共有しています.“シスター望み”さんは,女生徒たちが学校で演劇をする時,それを見に来る世間の人々はみな「女生徒たちがセリフの一行一行を暗唱できていること,また客席の残りの生徒たちが携帯電話で遊んだりせずに劇に耳を傾けて観賞している姿に驚いています.」と,私に書いています.彼女は続けて「あなたがこのような感想をお聞きになれば,私たちが自分たちの活動の場で何とか成し遂げようとしている事を実感され,そのことに感謝したいお気持ちになられるのではないでしょうか」と記しています.

要するに,聖ジャンヌ・ダルクが言った通り,戦うのは私たちで,勝利を与えるのは神です.神は,私たちにいつも気に入るカードをお配りになるとは限りません.だが,与えられたカードを最大限に生かすかどうかは私たち次第です.私はまた,イヴリン・ウォー(訳注・“Evelyn Waugh (1903-1966)”.英国の小説家.1930年にカトリックに改宗.)が,彼のカトリック教徒らしからぬ不快極まる振る舞いを批判した一女性に臆さず返答した話を思い出します.彼はその女性に答えたものです.「マダム,もし私がカトリック教徒でなかったら今よりどれだけ不快な人間になり得たか,あなたは何も分かっておられません.超自然の助け(訳注・“ Supernatural aid ”=神の恵み)がなければ私はとてもまともな人間ではいられないでしょう.」
 
キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年4月26日月曜日

道徳の枠組み

エレイソン・コメンツ 第145回 (2010年4月24日)

その総体的な簡潔さと神授の掟として公布されたという点において,神の十戒(旧約聖書・第二法の書:第5章6-21)は,万人が生来有する良心を通して認識する自然法の極めて優れた提示です.人がこの自然法を否認し違反する場合には,自分に危険が及ぶことを覚悟すべきものです.先週の「エレイソン・コメンツ」で,私はこの自然法が近代芸術の病弊の診断を容易にすると述べました.実際には,この自然法は多くの現代的な問題について診断を下しています.今週はこの(自然法たる)十戒の組み立てについて,聖トマス・アクィナスがその著書「神学大全」第1部第2章100・第6項及び7項でどう分析しているか見てみましょう.

法とは,指導者による社会の秩序化を意味するものです.自然法とは,神による人間社会の秩序化を意味します. ここでの秩序化には二通りあり,ひとつは人間社会を神御自身のおきてに従って秩序立てる(=規律する)こと(訳注・すなわち「人と人との関係=人間関係」…人同士〈横〉の関係を神のおきてのもとに従わせること.),もうひとつは神御自身と人間との間における親しい交わりの関係を秩序立てること(訳注・すなわち「神と個人との間で結ばれる直接的・個人的な相互関係」…主従〈縦〉の関係のもとに人を置くこと.)です(注釈後記).人間社会の中心的な存在かつその主たる目的は神御自身です.したがって,「自然法の表」のうち第一の表が示すのは,神に対する人間の義務(第一戒…偶像崇拝の禁止,第二戒…神に対する冒とくの禁止,第三戒…安息日の順守)であり,それに続き第二の表(第四戒-第十戒)で人間の同胞(隣人)に対する義務が詳細に説かれています.

初めの三つのおきては忠誠,尊重,奉仕の義務を重要な順に示しています.聖トマスの言うところによれば,軍隊における一兵卒の場合,将官に対する不忠義あるいは謀反は無礼よりも悪く,無礼は将官に仕えるのを怠るより悪いとされています.したがって,神と人間との関係では,まず第一に,神以外の神々(訳注・すなわち偶像)を礼拝してはなりません(第一戒).第二に,決して神あるいは神の御名を侮辱(=冒涜(ぼうとく))してはならず(第二戒),第三には,神が要求される礼拝を神に捧げなければなりません(第三戒).

同胞(隣人)に対する人の義務(第四戒-第十戒)についていえば,最も大切なのは自分に命を与えてくれた父と母との関係です.したがって,自然法の第二の表はまず父母を敬う義務から始まります(第四戒).この父母に対する敬意は人間社会の基本ですから,これが欠けると社会はバラバラに崩れてしまいます.それはまさに私たちが「西洋文明」(「西洋崩壊」と呼んだほうがよいでしょう)のいたるところで起きているのを目にしているのと同じ状態です.

十戒のうち残る六つについて,聖トマスは重要な順に分析を続けます.隣人に対する行為による害悪(第五-第六戒)は,単に言葉だけによる害悪(第八戒)よりも悪く,言葉だけによる害悪は思いだけによる害悪よりも悪いのです(第九-十戒).行為による害悪に関していえば,隣人の身体に対する害悪(第五戒,殺すな)は身内に対する害悪(第六戒,姦通を犯すな)より重大であり,身内に対する姦通の害悪は単なる財産に対する害悪(第七戒,盗むな)より重大です.言葉による諸々の害悪(第八戒,偽りの証言をするな)は単に心で思うだけの害悪よりも重大であり,その中では隣人の結婚や家族をうらやむこと(第九戒,隣人の妻を欲しがるな=肉の欲)は,単に彼の財産をうらやむ(第十戒,隣人のものをむさぼるな=目の欲)よりも重大です.

しかし,十戒のいずれの戒律を破ることにも人間の高慢さが関わっています.古代ギリシャ人はそれを「フブリス“hubris”」(訳注・=“arrogance” 思い上がり・不遜・傲慢・自信過剰)と呼びました.高慢さゆえに私は(=人間は)神の命令すなわち神に逆らって立ち上がるのです.ギリシャ人にとって「フブリス」は人の転落のもとでした.今日の私たちにとっては,万人に共通する高慢が現代世界の恐るべき諸問題のもととなっており,その解決は神がおられなければ,つまり神の御顕現(訳注・“Incarnation”.神の御言葉=神の御子イエズス・キリストが人の子として地上にお生まれになった(=肉体を身にまとわれた神=三位一体の神の第二の位格)ということを意味する.)以来,私たちの主イエズス・キリストが仲介されることなしには不可能なのです.イエズスの聖心(みこころ)よ,私たちをお救いください!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

* * *


(第二パラグラフの注釈)

-日本における国家の基礎法「日本国憲法」に見る「自然法(神による人間社会の秩序化)」の実例-

神の支配=法の支配 “Rule of Law” =自然法 “Natural Law” の支配(ここでいう「法」とはすなわち「神の法(おきて)」を指す.)…「自然法」によって万物の創造主たる「神」が人間社会を規律する.

人の支配(人の権力による支配)=国家権力…「実定法(=実証法.自然法の反対概念)」すなわち,人によって(人為的に)経験的事実に基づいて定められる法すなわち「法律」(制定法,慣習法,判例法など)によって被造物たる「人間」が人間社会における個人を規律する

→日本国憲法・前文:2項「日本国民は,恒久の平和を念願し,人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって,平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持しようと決意した.…われらは,全世界の国民が,ひとしく恐怖と欠乏から免かれ,平和のうちに生存する権利を有することを確認する.」“We, the Japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship, and we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.…We recognize that all peoples of the world have the right to live in peace, free from fear and want.”

→第98条1項「この憲法は国の最高法規であって,その条規に反する法律,命令,詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は,その効力を有しない.」

→第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員,裁判官その他の公務員は,この憲法を尊重し擁護する義務を負う.」

・第97条は,日本国憲法が日本国の最高法規であることの実質的な根拠を示す.

→第97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は,人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって,これらの権利は,過去幾多の試練に堪え,現在及び将来の国民に対し,侵すことのできない永久の権利として信託されたものである.」

→「自由」…憲法でいう「自由」とは,「自然法(神の真理・正義=生命,存在 “being” )に適う自由」を意味する.「道理や自分の分(ぶ)をわきまえずにしたいことを何でもできる」という意味ではない(権利は義務を伴う).

→「侵すことのできない永久の権利」…神の真理・正義は永遠(=永久)の存在であり(=永遠の命 “eternal life” ),そこから(神により)創造された人間一人ひとりの価値は,人間の権力によっては絶対不可侵のものである(→個人の尊重=基本的人権の尊重).

→つまり,97条は「生来の自然権(神の真理・正義)に基づいた個人の自由」対「人間による不当な“時の権力”」という戦いの歴史を経て現在の「基本的人権の保障」にまで至っていることを示している.

・第12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は,国民の不断の努力によって,これを保持しなければならない.」

→この「自由(=個人の生来の自然権)」は常に時の権力者による理不尽・恣意的な権力濫用(らんよう)により都合よく曲解され侵害されやすいので,国民は不断の努力によってその保持に努める必要がある.(真の意味の「自由(神の真理・正義に基づいた生来の自然権)」についての知識を学び,社会に生かす義務がある.)

・ここでいう「憲法」は,人による支配(権力)から,国民一人ひとり(の生来の権利(=自然権))を個人として守る(擁護する)ことを理念とする法であるということを意味する(近代立憲主義憲法・法の支配).

・第二パラグラフで述べられる通り,「神と人との関係」に次いで「人と人との関係」も重要な戒めである(→神の十戒で最も重要な戒め:「①あなたは…主なる神を愛せよ.(第一戒-第三戒)②また隣人を自分と同じように愛せよ.(第四戒-第十戒)」(聖ルカ福音書10章25-37参照)).したがって,「個人の人権」は無制限に許されるものではなく,他人に害悪(心の思い・言葉・行い・怠りによる害悪)を加えるほどに(=他人の権利を侵害するほどに)他者に向かって主張したり,社会で押し通したりしてはならない.

・旧約聖書の「十戒」の個所を後日用語集に記載予定.