エレイソン・コメンツ 第197回 (2011年4月23日)
「エレイソン・コメンツ」 の読者の中には,以前ここで取り上げた (3月5日付のエレイソン・コメンツ第190回) 「神学院長からの書簡集」 “Letters from the Rector” のことをご存じない方がおられるかもしれません.書簡は聖ピオ十世会の司祭たちが訓練を受けるアメリカの聖トマス・アクィナス神学院 ( “St. Thomas Aquinas Seminary” ) が発行する月報として1983年から2003年までの間に書かれたものです.4冊のペーパーバックにまとめられ,インターネットの truerestorationpress.com/4volsletters を通じて入手できます.18年前にカトリック教に改宗したあるスコットランド人女性が最近それらの書簡集を読みました.彼女の感想の一部を以下にご紹介します:--
「この書簡集を読んで私はびっくり仰天しました … 私は元ニューエイジ (哲学) 信奉者の 「気が変なヒッピー」 で,ニューエイジ・デビル ( “New Age Devil” ) からカトリック教会に逃れたのですが,そこで教会の聖域にまさにデビル (=悪魔) がいることを発見しただけでした … 公会議主義下の教会 ( “the Conciliar Church” ) の枢機卿,司教,司祭たちはカトリシズム (カトリック教義) を説くにあたって婉曲(えんきょく)で当たり障(さわ)りのないことをいうだけではありません.そこにはカトリック教会のあらゆる伝統や信仰をずたずたに引き裂いてこき下ろすことに積極的かつ悪意ある喜びを感じているように見える人たちが多数います.」 (訳注後記)
それに反して, 「この書簡集はいずれの書簡も驚くほど素晴らしくカトリック的なものばかりです … 書簡集では公会議を批判することなしにカトリック教会の危機を解決しようと試みている保守派とエクレジア・デイ ( “the Conservative and Ecclesia Dei” ) のカトリック信徒たちの愚行について説明しています.そうしたカトリック信徒たちは,例えばカトリック教会の典礼や宗規などについての公会議による改革の外観を熟慮しながらも,その本質すなわち信教の自由とエキュメニズム (世界教会主義) に関する公会議の諸文書が実証しているようなカトリック教理についての考え方の根本的な内部変化を無視しているのではないでしょうか ?
多元主義 “Pluralism” および人間の尊厳についての自由主義的観点に触れた神学院長の書簡集は驚くほど見事にこの変化の特質を説明しています.書簡集が繰り返し例証しているように,私たちは現代ローマ教皇庁 ( “modern Rome” ) の考え方におけるこの急進的な変化を理解しない限り,現代世界やそこに置かれたカトリック教会の状況を理解することはできないでしょう.そして,もしエクレジア・デイの人々が,公会議に対し過激な批判をするのは有効な教皇が存在しないと言うに等しいと反論するのであれば,書簡集は聖ピオ十世会のとる立場が持つ知恵,すなわち左派リベラル(自由主義)派,右派「教皇空位主義者」 “Sedevacantists” のいずれにも針路(しんろ)を取らない知恵を十分に実証する議論を提供しています.(訳注後記)
現代世界への対応についてどうかと言えば,公会議下の教会の人々は役に立つことはほとんど語りません.彼らは自分たちの革命的な夢想にあまりにも深く没頭しているため,それがもたらす悲惨な結果に取り組めずにいます.彼らには神学院長からの書簡集が触れているピンク・フロイド,ユナボマー,オリバー・ストーン,チルドレン・イン・ザ・フォレスト ( “Pink Floyd, the Unabomber, Oliver Stone or the Children in the Forest” ) などの問題について書簡を書くなどできないでしょう.なぜなら主流派教会は今日の物質本位の世界に深い不満を抱く代わりに,常にそれに同調しているように思えるからです.書簡集はもっぱら歴史的記録として読まれるべきでしょうが,その真の価値は後の時代になるまで明らかにならないかもしれません.恐らくそれはマリアの無原罪の御心の勝利 ( “the Triumph of the Immaculate Heart of Mary” ) でカトリック教会の第6の時代 ( “the 6th Age of the Church” ) が始まるときだけでしょう.」(訳注後記)
そして女性にとって決め手となるのが次の彼女の感想です: 「さらに言えば,私がこんなことを言い出すとは思いもしませんでしたが,スラックス(ズボン)について触れた書簡を読んだとき私は自分の 「洋服ダンスの中身」 を考え直さなければと思いました.」 女性がズボンをはくのをやめるとき,カトリック教会は本当に復活するのです!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの訳注:
「ニューエイジ」について
または「ニューサイエンス」という.西洋的価値観を排し,超自然を信じ,宗教・医学・環境などの分野を全体論的視野に立って見直そうとする1980年代後半の哲学運動.
→ “New Age Therapies” = ニューエイジ志向の(精神)療法.
(ジーニアス大和英インデックス参照)
* * *
第4パラグラフはじめの訳注:
「多元主義」の意味と「自由主義」「現代民主主義」との関係について
元来,世界の起源を唯一のものに還元する一元論に対して世界の複数性を認める哲学上の立場を意味していたが,現在では「複合民族社会論」や「政治的多元論」などの基本的な枠組みとして定着している.
とりわけ「政治的多元論」は政治世界を説明するとき「国家対個人」の図式に代えて「国家対集団」の図式を提示した.多元主義は複数の集団による競争によって全体社会の利益の調整をはかることを目的とする.それは国家と個人の間に中間団体を設定することで政府機能の肥大化を防止する自由主義の理念に合致するものであった.アメリカの政治学者ダールは民主化の指標として競争の自由と公開性の原則をあげ,それらの原理に基づく政治体制を「ポリアーキー」と名づけた.その意味で多元主義は現代民主主義の生命線と考えられるのである.
しかし,現代社会では利益集団間の競争が巨大団体の独占によって形骸化し,その巨大利益集団と政府の癒着体制(コーポラティズム)と密室政治が問題化されるようになっているのが実情である.
(ブリタニカ国際大百科事典参照)
* * *
第5パラグラフ最後の訳注:
「カトリック教会の第6の時代」について
聖アウグスティヌスによる時代区分(「六つの時代」 “The Six Ages” - この世のはじめ〈アダムとエバ〉から終わりまでを霊的な六つの節目の時代に分けている)に由来するらしい.
(参考資料: “DE CATECHIZANDIS RUDIBUS, CAP. XXII”, “Catechizing of the Uninstructed”, S. Aurelius AUGUSTINUS )
* * *
2011年4月24日日曜日
2011年3月14日月曜日
今後の協議
エレイソン・コメンツ 第190回 (2011年3月5日)
一部の人たちはほっとし,ほかの人たちはがっかりするかもしれませんが,ローマ教皇庁の神学者たちと聖ピオ十世会の代表者たちとの間で過去一年半にわたって開催されてきた教理上の協議(論議)は,主要論点の検討がすべて終了するため,結局のところ合意への真の展望がなんら開けないままこの春に終結することになりそうです.これが聖ピオ十世会総長フェレイ司教の2月17日のインタビュー発言から暫定(ざんてい)的に引き出される結論です.
失望した人たちは,第二バチカン公会議とカトリック伝統派との間に橋を架ける努力を諦(あきら)めない教皇庁側の人たちと聖ピオ十世会の有力な司祭たちが存在することを信じてください.ただ,あらゆる善意のカトリック信徒を結束(一致)させようとするそのような努力,すなわち,昨日,今日そして明日へと盛衰(せいすい)を重ねる努力がどのようなものであろうと,頼みの綱(つな)(=拠り所〈よりどころ〉)となるのは私たちの主イエズス・キリストの次の御言葉です.「天地は過ぎ去るだろう,しかし私の言葉は過ぎ去らない」(マテオ24・35)(訳注後記).なぜなら,カトリック教会の生命は彼キリストの生涯を模範(もはん)としているのであり,そのキリスト御自身が彼の人生において私たち同様に,最終的に恐ろしい十字架刑に至るほどの数々の人間的な努力や苦悩による盛衰を体験しているからです.だが私たちの主であるイエズス・キリストは,彼の天の御父の御旨(みむね)である十字架刑を避けたいという人間的な衝動(しょうどう)にかられ尻込みするたび「父よ,できることならば,この杯(さかずき)を私から取り去りたまえ…」と神に祈りつつ - 持ち合わせた人間としての理性や心情においてなおも神の御旨を拠り所とし - 次のように祈り続けました,「…けれども,私の思うままではなく,あなたの御旨のままに」(マテオ26・39)(訳注後記).
私たちの主イエズス・キリストの人間的な精神と意志の方向性を導きかつ固く支えた同じ不変の神の御旨は,彼の建てられたカトリック教会の生命を同じように固く支えるに違いありません.したがって,歴代のローマ教皇,公会議,宗教的修道会,信徒会は時とともに去来(きょらい)するでしょうが,彼らがカトリックであるためには,私たちの主が服従した神の御旨に彼らもまた服従しなければならず,私たちの主が御父から彼のカトリック教会へと伝達したのと全く同じあらゆる真理を彼らもまた語らなければなりません.地上に存在する他のいかなる機関とも異なり,カトリック教会はカトリックの真理の上に築(きず)かれており,その存続如何(いかん)はそれがカトリック真理に対してどれだけ忠実かどうかに比例(ひれい)しています.公会議派の教会は神聖なカトリック真理の場に人間の利益を置いているため崩壊(ほうかい)しているのであり,同じことをする他のいかなるカトリック修道会や信徒会もバラバラに崩壊するでしょう.
顕示(けんじ)されたカトリック真理に完全に忠実なものは誰でも事実上 - 原理上ではなく実際上 - カトリック教会の運転席に座っているということになります(「神学校長への手紙」第4巻の164ページをご覧ください).(訳注・原文 “See “Letters from the Rector”, Vol. IV, p.164”. 〈該当箇所を後日記載します〉.)さらに,私たちの主の御言葉によれば,カトリック真理を持ちながらその運転席に座っていないふりをする者は誰でも主イエズス・キリストの敵と同じように「うそつき」(ヨハネ8・55)(訳注後記)ということになります.それは,神から預かった託宣(たくせん)の神聖さについて自分に責任がないとふるまうような使者は誰でも,自分が言うほどに同胞を真に愛しているわけではなく,うその父(悪魔)を自らの父としているからです(ヨハネ8・44).(訳注後記)
カトリック真理は確かに存在します.たとえそう考える人がほとんどいなくてもです.カトリック教会を支配するローマ(教皇庁)の聖職者たちの権利と能力は,そのカトリック真理にいかに忠実かどうかによって成り立つのです.不誠実なローマの聖職者たちに立ち向かう聖ピオ十世会の権利と能力は,同会自身のカトリック真理に対する忠実性にかかっているのです.聖ピオ十世会は忠実であり続けてきているので,当面の間は存続するでしょう.だが願わくば,ローマがカトリック真理に立ち戻ることにより,聖ピオ十世会の存続が不必要なものとなりますように!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
引用されている新約聖書の御言葉:
・第2パラグラフ最初の訳注:
(マテオ聖福音書・第24章35節)
『天地は過ぎ去る,だが私のことばは過ぎ去らぬ…』
“Heaven and earth will pass away, but my words will not pass away” (Matthew XXIV, 35).
・第2パラグラフ最後の訳注:
(マテオ聖福音書・第26章39節)
『(イエズスは)少し進んでひれ伏し,「父よ,できればこの杯を私から取り去りたまえ.けれども私の思うままではなく,み旨のままに」と祈られた.』
“And going a little further, He (Jesus) fell upon His face, praying and saying: My Father, if it be possible, let this chalice pass from me. Nevertheless, not as I will, but as thou wilt” (Mt. XXVI, 39).
* * *
・第4パラグラフの2番目の訳注:
(ヨハネ聖福音書・第8章55節)
『あなたたちはそのお方を知らぬが私は知っている.知っていないと言えば,私もあなたたちのようにうそつきになってしまう.だが私はそのお方を知り,そのみことばを守っている.』
“And you (the Jews) have not known Him (God): but I (Jesus) know Him. And if I shall say that I know Him not, I shall be like you, a liar. But I do know Him and do keep His word” (John VIII, 55).
・第4パラグラフの最後の訳注:
(ヨハネ聖福音書・第8章44節)
『あなたたちは悪魔を父にもち,その父の望みを実行したがっている.彼は始めから人殺しだった.彼は真理において固まっていなかった.彼の中には真理がないからである.彼はうそをつくとき心底からうそを言う.彼はうそつきで,うその父だからである.』(この後に続く御言葉…『私が真理を話すからあなたたちは私を信じないのだ.*だが,私に罪があると確認できる人がいるか.私が真理を知らせているのになぜ信じようとしないのか.神からの者は神のみことばを聞くが,あなたたちは神からの者ではないから,私のことばを聞こうとしない』〈45-47節〉)
“You are of your father the devil: and the desires of your father you will do. He was a murderer from the beginning: and he stood not in the truth, because truth is not in him. When he speaketh a lie, he speaketh of his own: for he is a liar, and the father thereof”.
( “…But if I say the truth, you believe me not. Which of you shall convince me of sin? If I say the truth to you, why do you not believe me: He that is of God heareth the words of God. Therefore you hear them not, because you are not of God”.)
・「あなたたち」=ユダヤ人.
・「そのお方」=(イエズス・キリストの御父なる)神.
・「私」=イエズス・キリスト.
(注釈)
*神から受けた使命に忠実でなかったと証明しうる者があるか.
一部の人たちはほっとし,ほかの人たちはがっかりするかもしれませんが,ローマ教皇庁の神学者たちと聖ピオ十世会の代表者たちとの間で過去一年半にわたって開催されてきた教理上の協議(論議)は,主要論点の検討がすべて終了するため,結局のところ合意への真の展望がなんら開けないままこの春に終結することになりそうです.これが聖ピオ十世会総長フェレイ司教の2月17日のインタビュー発言から暫定(ざんてい)的に引き出される結論です.
失望した人たちは,第二バチカン公会議とカトリック伝統派との間に橋を架ける努力を諦(あきら)めない教皇庁側の人たちと聖ピオ十世会の有力な司祭たちが存在することを信じてください.ただ,あらゆる善意のカトリック信徒を結束(一致)させようとするそのような努力,すなわち,昨日,今日そして明日へと盛衰(せいすい)を重ねる努力がどのようなものであろうと,頼みの綱(つな)(=拠り所〈よりどころ〉)となるのは私たちの主イエズス・キリストの次の御言葉です.「天地は過ぎ去るだろう,しかし私の言葉は過ぎ去らない」(マテオ24・35)(訳注後記).なぜなら,カトリック教会の生命は彼キリストの生涯を模範(もはん)としているのであり,そのキリスト御自身が彼の人生において私たち同様に,最終的に恐ろしい十字架刑に至るほどの数々の人間的な努力や苦悩による盛衰を体験しているからです.だが私たちの主であるイエズス・キリストは,彼の天の御父の御旨(みむね)である十字架刑を避けたいという人間的な衝動(しょうどう)にかられ尻込みするたび「父よ,できることならば,この杯(さかずき)を私から取り去りたまえ…」と神に祈りつつ - 持ち合わせた人間としての理性や心情においてなおも神の御旨を拠り所とし - 次のように祈り続けました,「…けれども,私の思うままではなく,あなたの御旨のままに」(マテオ26・39)(訳注後記).
私たちの主イエズス・キリストの人間的な精神と意志の方向性を導きかつ固く支えた同じ不変の神の御旨は,彼の建てられたカトリック教会の生命を同じように固く支えるに違いありません.したがって,歴代のローマ教皇,公会議,宗教的修道会,信徒会は時とともに去来(きょらい)するでしょうが,彼らがカトリックであるためには,私たちの主が服従した神の御旨に彼らもまた服従しなければならず,私たちの主が御父から彼のカトリック教会へと伝達したのと全く同じあらゆる真理を彼らもまた語らなければなりません.地上に存在する他のいかなる機関とも異なり,カトリック教会はカトリックの真理の上に築(きず)かれており,その存続如何(いかん)はそれがカトリック真理に対してどれだけ忠実かどうかに比例(ひれい)しています.公会議派の教会は神聖なカトリック真理の場に人間の利益を置いているため崩壊(ほうかい)しているのであり,同じことをする他のいかなるカトリック修道会や信徒会もバラバラに崩壊するでしょう.
顕示(けんじ)されたカトリック真理に完全に忠実なものは誰でも事実上 - 原理上ではなく実際上 - カトリック教会の運転席に座っているということになります(「神学校長への手紙」第4巻の164ページをご覧ください).(訳注・原文 “See “Letters from the Rector”, Vol. IV, p.164”. 〈該当箇所を後日記載します〉.)さらに,私たちの主の御言葉によれば,カトリック真理を持ちながらその運転席に座っていないふりをする者は誰でも主イエズス・キリストの敵と同じように「うそつき」(ヨハネ8・55)(訳注後記)ということになります.それは,神から預かった託宣(たくせん)の神聖さについて自分に責任がないとふるまうような使者は誰でも,自分が言うほどに同胞を真に愛しているわけではなく,うその父(悪魔)を自らの父としているからです(ヨハネ8・44).(訳注後記)
カトリック真理は確かに存在します.たとえそう考える人がほとんどいなくてもです.カトリック教会を支配するローマ(教皇庁)の聖職者たちの権利と能力は,そのカトリック真理にいかに忠実かどうかによって成り立つのです.不誠実なローマの聖職者たちに立ち向かう聖ピオ十世会の権利と能力は,同会自身のカトリック真理に対する忠実性にかかっているのです.聖ピオ十世会は忠実であり続けてきているので,当面の間は存続するでしょう.だが願わくば,ローマがカトリック真理に立ち戻ることにより,聖ピオ十世会の存続が不必要なものとなりますように!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
引用されている新約聖書の御言葉:
・第2パラグラフ最初の訳注:
(マテオ聖福音書・第24章35節)
『天地は過ぎ去る,だが私のことばは過ぎ去らぬ…』
“Heaven and earth will pass away, but my words will not pass away” (Matthew XXIV, 35).
・第2パラグラフ最後の訳注:
(マテオ聖福音書・第26章39節)
『(イエズスは)少し進んでひれ伏し,「父よ,できればこの杯を私から取り去りたまえ.けれども私の思うままではなく,み旨のままに」と祈られた.』
“And going a little further, He (Jesus) fell upon His face, praying and saying: My Father, if it be possible, let this chalice pass from me. Nevertheless, not as I will, but as thou wilt” (Mt. XXVI, 39).
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・第4パラグラフの2番目の訳注:
(ヨハネ聖福音書・第8章55節)
『あなたたちはそのお方を知らぬが私は知っている.知っていないと言えば,私もあなたたちのようにうそつきになってしまう.だが私はそのお方を知り,そのみことばを守っている.』
“And you (the Jews) have not known Him (God): but I (Jesus) know Him. And if I shall say that I know Him not, I shall be like you, a liar. But I do know Him and do keep His word” (John VIII, 55).
・第4パラグラフの最後の訳注:
(ヨハネ聖福音書・第8章44節)
『あなたたちは悪魔を父にもち,その父の望みを実行したがっている.彼は始めから人殺しだった.彼は真理において固まっていなかった.彼の中には真理がないからである.彼はうそをつくとき心底からうそを言う.彼はうそつきで,うその父だからである.』(この後に続く御言葉…『私が真理を話すからあなたたちは私を信じないのだ.*だが,私に罪があると確認できる人がいるか.私が真理を知らせているのになぜ信じようとしないのか.神からの者は神のみことばを聞くが,あなたたちは神からの者ではないから,私のことばを聞こうとしない』〈45-47節〉)
“You are of your father the devil: and the desires of your father you will do. He was a murderer from the beginning: and he stood not in the truth, because truth is not in him. When he speaketh a lie, he speaketh of his own: for he is a liar, and the father thereof”.
( “…But if I say the truth, you believe me not. Which of you shall convince me of sin? If I say the truth to you, why do you not believe me: He that is of God heareth the words of God. Therefore you hear them not, because you are not of God”.)
・「あなたたち」=ユダヤ人.
・「そのお方」=(イエズス・キリストの御父なる)神.
・「私」=イエズス・キリスト.
(注釈)
*神から受けた使命に忠実でなかったと証明しうる者があるか.
2009年10月5日月曜日
ミサ聖祭の誤り
エレイソン・コメンツ 第117回 (2009年10月4日)
10日前に, カストリリョン・オヨス枢機卿が南ドイツの新聞とのインタビューの中で聖ピオ十世会に対する興味深い批判をしました. その大部分は事実に反していましたが, わずかに真実な部分もありました(インタビュー記事はインターネット上で閲覧可能). 同枢機卿によれば, 2000年に彼が会った聖ピオ十世会の指導者たちは, 新しい(典礼による)ミサ聖祭がまるで「世界のすべての悪の根源」であるかの如き考えで凝り固まっていたような印象を受けたとのことです.
勿論, 第二バチカン公会議(1962年-1965年)の後で行われたミサ聖祭の伝統ローマ式典礼(トリエント公会議式の典礼)の改革が必ずしも世界のすべての悪について責任があるというわけではありませんが, 現代世界における悪のかなりの部分について責任があります. 第一に, ローマ・カトリック教は, 唯一の真実の神が2000年前に一度, つまりただ一度だけ人の性質を身につけて, 神すなわち人であるイエズス・キリストとして(人類の罪の購いとして)この世に来られた時に, 当の神御自身によって始められた唯一の宗教です. 第二に, イエズス・キリストの流血を伴った十字架上の自己犠牲だけが唯一, 今日の世界的な人類の背信行為によって燃え上がった神の正義の怒りをなだめることができるのであり, かかる懐柔を維持していくことは, ミサ聖祭での真正な犠牲の奉献において, 前述のキリストの血まみれの犠牲を流血無しに更新することによってのみ可能であるということです. 第三に, かかるミサ聖祭の古来ローマ式典礼の本質的な部分は, カトリック教会の初期の時代に遡って以来存続してきたものですが, 教皇パウロ6世指揮下の第二バチカン公会議の後に当教皇自身が友人のジャン・ギトンに語ったように, (キリスト教)プロテスタント会派を満足させるために考案したやり方で大幅に変更されたのです.
しかし, プロテスタント会派はカトリシズムに対して抗議するところからその名称をとっています. 「第二バチカン公会議の精神の下で」改革されたミサ典礼が数々の本質的なカトリックの真理の表現をひどく弱めているのはこのためです. 即ち, 順に挙げれば, (1)パンと葡萄酒を聖変化させ, これが(2)ミサ聖祭の(十字架上のキリストと同じく, 人の罪を購うための)犠牲の捧げ物となり, ついで, 同様に(3)司祭職も聖変化して(犠牲のキリストと一体となって)犠牲の捧げ物となり, これらすべては(4)祝福された神の御母のとりなしによって執り行われる, というものです. 事実は, 完全な古来ローマ式典礼こそが完全なカトリック教理の表現なのです.
もし, 多くのカトリック教徒が本を読んだり講義に出席するのではなく, まずミサ聖祭に与ることによって数々のカトリック教理を吸収し, それを実生活で活かし, 誤りを正す世の光, 堕落を防ぐ世の塩(訳注・聖書の各聖福音書参照のこと. 聖マテオ5.13~, 聖マルコ9.49~, 聖ルカ14.34~)として振る舞うようになるのだとすれば, 世界が今日のような混乱と不道徳に陥っていることはさしたる不思議ではないということになります. 「ミサ聖祭を壊せばカトリック教会を壊すことになる」とルターは言いました. 「世界は太陽の光がなくてもやっていけるが, ミサ聖祭によるキリストの犠牲なしではやっていけないだろう」とピオ神父は言いました.
司祭の養成を目的に聖ピオ十世会を設立するに当たっての急務がミサ聖祭の古来ローマ式典礼の救済だったのは, まさしくこのためです. 神に感謝すべきことに, その典礼は, 徐々にではあっても確実に, 主流派教会に戻りつつあります(反キリスト者の下ではそうはならないでしょう). しかし, ルフェーブル大司教の聖ピオ十世会は, この伝統的典礼に基づくミサ聖祭の完全な教理上の土台を, いまだに頑としてローマに身を潜めている第二バチカン公会議の犠牲者たちおよび加担者たちから救わなければなりません. 私たちはローマと聖ピオ十世会の間で今月開かれる予定の「教理上の論議」のために懸命に祈らなければなりません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教
10日前に, カストリリョン・オヨス枢機卿が南ドイツの新聞とのインタビューの中で聖ピオ十世会に対する興味深い批判をしました. その大部分は事実に反していましたが, わずかに真実な部分もありました(インタビュー記事はインターネット上で閲覧可能). 同枢機卿によれば, 2000年に彼が会った聖ピオ十世会の指導者たちは, 新しい(典礼による)ミサ聖祭がまるで「世界のすべての悪の根源」であるかの如き考えで凝り固まっていたような印象を受けたとのことです.
勿論, 第二バチカン公会議(1962年-1965年)の後で行われたミサ聖祭の伝統ローマ式典礼(トリエント公会議式の典礼)の改革が必ずしも世界のすべての悪について責任があるというわけではありませんが, 現代世界における悪のかなりの部分について責任があります. 第一に, ローマ・カトリック教は, 唯一の真実の神が2000年前に一度, つまりただ一度だけ人の性質を身につけて, 神すなわち人であるイエズス・キリストとして(人類の罪の購いとして)この世に来られた時に, 当の神御自身によって始められた唯一の宗教です. 第二に, イエズス・キリストの流血を伴った十字架上の自己犠牲だけが唯一, 今日の世界的な人類の背信行為によって燃え上がった神の正義の怒りをなだめることができるのであり, かかる懐柔を維持していくことは, ミサ聖祭での真正な犠牲の奉献において, 前述のキリストの血まみれの犠牲を流血無しに更新することによってのみ可能であるということです. 第三に, かかるミサ聖祭の古来ローマ式典礼の本質的な部分は, カトリック教会の初期の時代に遡って以来存続してきたものですが, 教皇パウロ6世指揮下の第二バチカン公会議の後に当教皇自身が友人のジャン・ギトンに語ったように, (キリスト教)プロテスタント会派を満足させるために考案したやり方で大幅に変更されたのです.
しかし, プロテスタント会派はカトリシズムに対して抗議するところからその名称をとっています. 「第二バチカン公会議の精神の下で」改革されたミサ典礼が数々の本質的なカトリックの真理の表現をひどく弱めているのはこのためです. 即ち, 順に挙げれば, (1)パンと葡萄酒を聖変化させ, これが(2)ミサ聖祭の(十字架上のキリストと同じく, 人の罪を購うための)犠牲の捧げ物となり, ついで, 同様に(3)司祭職も聖変化して(犠牲のキリストと一体となって)犠牲の捧げ物となり, これらすべては(4)祝福された神の御母のとりなしによって執り行われる, というものです. 事実は, 完全な古来ローマ式典礼こそが完全なカトリック教理の表現なのです.
もし, 多くのカトリック教徒が本を読んだり講義に出席するのではなく, まずミサ聖祭に与ることによって数々のカトリック教理を吸収し, それを実生活で活かし, 誤りを正す世の光, 堕落を防ぐ世の塩(訳注・聖書の各聖福音書参照のこと. 聖マテオ5.13~, 聖マルコ9.49~, 聖ルカ14.34~)として振る舞うようになるのだとすれば, 世界が今日のような混乱と不道徳に陥っていることはさしたる不思議ではないということになります. 「ミサ聖祭を壊せばカトリック教会を壊すことになる」とルターは言いました. 「世界は太陽の光がなくてもやっていけるが, ミサ聖祭によるキリストの犠牲なしではやっていけないだろう」とピオ神父は言いました.
司祭の養成を目的に聖ピオ十世会を設立するに当たっての急務がミサ聖祭の古来ローマ式典礼の救済だったのは, まさしくこのためです. 神に感謝すべきことに, その典礼は, 徐々にではあっても確実に, 主流派教会に戻りつつあります(反キリスト者の下ではそうはならないでしょう). しかし, ルフェーブル大司教の聖ピオ十世会は, この伝統的典礼に基づくミサ聖祭の完全な教理上の土台を, いまだに頑としてローマに身を潜めている第二バチカン公会議の犠牲者たちおよび加担者たちから救わなければなりません. 私たちはローマと聖ピオ十世会の間で今月開かれる予定の「教理上の論議」のために懸命に祈らなければなりません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教
2009年9月27日日曜日
…そして仮に…とすれば
エレイソン・コメンツ 第116回
…そして仮にローマと聖ピオ十世会の間でいかような論議が行われるとしても, 双方の間で非教理的「実務的な協定」を結ぶという結論に達するように見えたとすれば, その場合には, 救われたいと思うカトリック教徒は全員, その「協定」を綿密に, 特にその細則に至るまで検討し, ローマに承認された聖ピオ十世会における指導者あるいは指導者たち, および彼らの後継者たちを, 将来誰が任命することになるのかを確かめなければならないでしょう.
彼はいずれの当事者も満足させる肩書きを与えられるでしょう. 「総長」か, あるいは「属人区 (訳注・カトリック教会の一組織オプス・デイ (Opus Dei) を意味する)」か, はたまた「死刑執行大臣殿」(身分の高い貴族の階級および称号を持つある登場人物のこと)(訳注・英国の喜歌劇「ミカド(Mikado)」の中の登場人物のことと思われる) か. いずれにせよ名前は重要ではありません. 誰がその決定者だったのか, またその決定者を誰が任命するのか?が極めて重要なのです。教皇によって任命されるのか, 聖職者省によってなのか, またはその他のローマの高官によるのか, あるいは聖ピオ十世会の中から現行のように引き続いて, 12年毎に40人ほどの有力な司祭の中から選挙されて(次回選挙は2018年に行われる), ローマから独立して任命されるのでしょうか?しかし, もしローマが聖ピオ十世会の指導者を任命する支配権を得られなかったら, その「協定」は何をローマに与えるのでしょうか?
カトリック教会の歴史には神の友と敵の間の数々の闘争の例が散見されます. 普通はそれぞれカトリック教会と国家の間で, 教会の司教の任命支配権を争ったのですが, 今ではそれは存在しません!なぜなら、カトリック教会の利口な友または敵なら誰でもよく知っているとおり, 司教たちが教会の未来の鍵を握っているからです. ルフェーブル大司教が今日の民主主義のくだらなさを無視してよく言っておられたように, カトリック教徒を形成するのは司教たちであって, カトリック教徒が司教たちを形成するのではないからです.
この闘争の典型例は1801年のナポレオンによる政教条約です. この条約によって新興のフリーメーソン的国家は, フランス国内のカトリック教会における司教の選出に関してかなり大きな支配力の獲得を確かなものにしました. 相変わらずカトリック色の強すぎるフランス革命以前の司教たちはすべて即座に解雇され, カトリック教会は確実に「第二バチカン公会議」に向かって進んでいきました. 同じように, 1905年にフリーメーソンが, フランス国家とカトリック教会との同盟から縁を切った時 ― 単に同盟と絶縁するだけでなく, それを非難した方がよかったでしょうが ― 英雄的な教皇ピオ10世はそれにより利を得ました. 望んでもいなかった, 国家から独立した新たな任命権を得て, 自ら, わずかですが9人の司教を任命しました. だが, 司教の力強いカトリシズムはフリーメーソンにとって脅威だったため, ピオ10世が亡くなった途端に彼らは, ただフランスの司教任命の支配権を取り戻したいというだけのために, 急いでカトリック教会とフランス国家との間の一定の再同盟を結ぶための再交渉に戻りました. こうして, 第二バチカン公会議が軌道に戻されたのです.
このパターンは1988年に繰り返されました. この時, 英雄的な信仰と勇気を持ったルフェーブル大司教ただ一人が, 公会議主義のローマの露骨な不支持に左右されずに4人の司教を叙階することによって聖ピオ十世会を救ったのです. 今回は, 同じ公会議主義者のキツネたちが聖ピオ十世会の4人の「醜いアヒルの子」とその潜在的な独自の後継者に対する支配権を取り戻すために「大盤振るまい」をするかもしれません. アヒルの子は飢えたキツネにとってはおいしい餌です!ローマがそのカトリックの精神から外れている限り, カトリックの独立を維持していくだろうシュミットバーガー神父とフェレー司教, またそのすべての後継者たちに神の祝福がありますように!
キリエ・エレイソン(主よ憐れみたまえ).
英国ロンドンより
リチャード・ウィリアムソン司教
…そして仮にローマと聖ピオ十世会の間でいかような論議が行われるとしても, 双方の間で非教理的「実務的な協定」を結ぶという結論に達するように見えたとすれば, その場合には, 救われたいと思うカトリック教徒は全員, その「協定」を綿密に, 特にその細則に至るまで検討し, ローマに承認された聖ピオ十世会における指導者あるいは指導者たち, および彼らの後継者たちを, 将来誰が任命することになるのかを確かめなければならないでしょう.
彼はいずれの当事者も満足させる肩書きを与えられるでしょう. 「総長」か, あるいは「属人区 (訳注・カトリック教会の一組織オプス・デイ (Opus Dei) を意味する)」か, はたまた「死刑執行大臣殿」(身分の高い貴族の階級および称号を持つある登場人物のこと)(訳注・英国の喜歌劇「ミカド(Mikado)」の中の登場人物のことと思われる) か. いずれにせよ名前は重要ではありません. 誰がその決定者だったのか, またその決定者を誰が任命するのか?が極めて重要なのです。教皇によって任命されるのか, 聖職者省によってなのか, またはその他のローマの高官によるのか, あるいは聖ピオ十世会の中から現行のように引き続いて, 12年毎に40人ほどの有力な司祭の中から選挙されて(次回選挙は2018年に行われる), ローマから独立して任命されるのでしょうか?しかし, もしローマが聖ピオ十世会の指導者を任命する支配権を得られなかったら, その「協定」は何をローマに与えるのでしょうか?
カトリック教会の歴史には神の友と敵の間の数々の闘争の例が散見されます. 普通はそれぞれカトリック教会と国家の間で, 教会の司教の任命支配権を争ったのですが, 今ではそれは存在しません!なぜなら、カトリック教会の利口な友または敵なら誰でもよく知っているとおり, 司教たちが教会の未来の鍵を握っているからです. ルフェーブル大司教が今日の民主主義のくだらなさを無視してよく言っておられたように, カトリック教徒を形成するのは司教たちであって, カトリック教徒が司教たちを形成するのではないからです.
この闘争の典型例は1801年のナポレオンによる政教条約です. この条約によって新興のフリーメーソン的国家は, フランス国内のカトリック教会における司教の選出に関してかなり大きな支配力の獲得を確かなものにしました. 相変わらずカトリック色の強すぎるフランス革命以前の司教たちはすべて即座に解雇され, カトリック教会は確実に「第二バチカン公会議」に向かって進んでいきました. 同じように, 1905年にフリーメーソンが, フランス国家とカトリック教会との同盟から縁を切った時 ― 単に同盟と絶縁するだけでなく, それを非難した方がよかったでしょうが ― 英雄的な教皇ピオ10世はそれにより利を得ました. 望んでもいなかった, 国家から独立した新たな任命権を得て, 自ら, わずかですが9人の司教を任命しました. だが, 司教の力強いカトリシズムはフリーメーソンにとって脅威だったため, ピオ10世が亡くなった途端に彼らは, ただフランスの司教任命の支配権を取り戻したいというだけのために, 急いでカトリック教会とフランス国家との間の一定の再同盟を結ぶための再交渉に戻りました. こうして, 第二バチカン公会議が軌道に戻されたのです.
このパターンは1988年に繰り返されました. この時, 英雄的な信仰と勇気を持ったルフェーブル大司教ただ一人が, 公会議主義のローマの露骨な不支持に左右されずに4人の司教を叙階することによって聖ピオ十世会を救ったのです. 今回は, 同じ公会議主義者のキツネたちが聖ピオ十世会の4人の「醜いアヒルの子」とその潜在的な独自の後継者に対する支配権を取り戻すために「大盤振るまい」をするかもしれません. アヒルの子は飢えたキツネにとってはおいしい餌です!ローマがそのカトリックの精神から外れている限り, カトリックの独立を維持していくだろうシュミットバーガー神父とフェレー司教, またそのすべての後継者たちに神の祝福がありますように!
キリエ・エレイソン(主よ憐れみたまえ).
英国ロンドンより
リチャード・ウィリアムソン司教
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