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2011年11月29日火曜日

226 トマトの支柱 -2- (11/12)

エレイソン・コメンツ 第226回 (2011年11月12日)

以前「エレイソン・コメンツ」(9月10日付,第217回)で女性と男性の関係をトマトの苗とその苗がよじ登りやがて実を結ぶための支柱になぞらえたロシアのことわざを引用しました.その例えを用いたのは女性の性質と役割を詳しく説明するためでした.その際ある女性読者がその例えが男性にどう当てはまるのか尋(たず)ねてきました.悲しいことに,私たちの住む狂った現代は人間性のあらゆる本質を一掃(いっそう)しようとしています.

神が設計された男性と女性は著(いちじる)しく異なっていながらも崇高(すうこう)なほど相互補完(そうごほかん)的であり,菜園から引き出した単なる例え話などよりはるかに多くを語ってしかるべきものです.いかなるカトリック教会の婚礼ミサ聖祭 “Catholic wedding Mass” でも,そこで読まれる使徒書簡(新約聖書) “the Epistle” は夫と妻の関係( “the relations between husband and wife” )をキリストと彼の(体〈からだ〉たる)教会(=カトリック教会. “ those between Christ and his Church” )の関係に例えています.その書簡の一句(エフェゾ人への手紙,5章22-23節)(訳注後記)で注目に値(あたい)するのは,聖パウロが婚姻(こんいん)の結果生じる夫の責務(せきむ)について長々と記述しているのに対し妻のそれについては手短にしか記していないということです.すでに私たちは,現代の男女関係が健全性を喪失(そうしつ)してしまったのは今日の男性に大きな責任があるのではないかと疑い得るのですが,この超自然的な神秘についての話は別の機会に残すとして菜園の話に戻りましょう.というのも,今日,神と人間にとっての諸々の敵たちが攻撃の対象としているのはまさしく人間性の本質だからです.

トマトの支柱がトマトの苗に役立つためには二つのことが必要です.支柱は高くなければならず “must stand tall”,しかもしっかりと立っていなければなりません “must stand firm”.もし支柱が高くなければ,苗は高くよじ登ることができません.しっかりと揺らがずに立っていなければ,苗はそれにしがみついたり巻きついたりできません.まさしく,男性の堅固(けんこ)さ “The firmness” は彼がどれほど仕事に没頭(ぼっとう)しているかによって決まる( “depends on a man’s wrapping himself around his work” )一方,その高さ “the tallness” は彼がどれほど神の域(いき)に達(たっ)しようとしているか( “depends upon his reaching for God” =より高い理想を見据(す)えているか、目指しているか)によって決まります.

堅固さについて言えば,いつの時代,どの場所にあっても人間性への認識が歪(ゆが)んでいない限り,男性の生活は彼の仕事を中心に展開するのに対し女性の生活は夫をはじめとする家族を中心に展開するものです.もし男性が自分の生活の中心に女性を置くなら,それはちょうど二本のトマトの苗がともにしがみつきあっているようなものです.もし女性が男性の役割を受け入れなければ,二人ともぬかるみにはまって行き詰(ゆきづ)まりに終わるでしょう.それは女性が決してしてはならないことですし,少なくともそうしたいと望むことでもありません.賢(かしこ)い女性は自分の夫が仕事を見つけそれを愛する男性であることを選びます.そうすることで,夫が仕事に没頭している間,妻は夫に巻きついていることができるのです.

高さについて言えば,トマトの支柱が真っ直ぐ(まっすぐ)空に向(むか)っていなければならないように,男性も真っ直ぐ天国を目指していなければなりません.指導者は霊感を与えて元気づけたり先頭に立って導(みちび)くためのビジョン(=先を見通す眼,先見,展望,構想)を持っている必要があります.ルフェーブル大司教は真のカトリック教会の復興というビジョンを持っておられました.同様にピィ枢機卿Cardinal Pie (1815-1880)(訳注・ “Cardinal Louis-Édouard Pie”.フランス・ポワティエの司教.19世紀における聖伝カトリック信仰の熱烈な擁護〈ようご〉者)は,自分を取り巻く19世紀の男性たちの柔弱(にゅうじゃく)さを見たとき,その柔弱さは彼らの信仰の欠如(けつじょ)に起因(きいん)すると考えました.信仰が存在しなければ信念は存在しない,と彼は言いました.信念なしには堅固な人格は存在しません.人格の堅固さなしには男性は男性たり得ません.聖パウロが「すべての男性の頭(かしら)はキリストであり,女性の頭は男性であり,キリストの頭は神である」(コリント人への第一の手紙・第11章3節)(訳注後記)と語ったとき,彼は同じ線に沿(そ)って考えていました.そういうわけですから,男性の男らしさを回復するには男性を神に向かわせ,神の下に従わせることです.そうすれば,妻が夫の下に従い,子供たちが両親の下に従うことがはるかに容易になるでしょう.

だが「下に」という言い方は夫の妻に対する,あるいは両親の子どもたちに対するいかなる種類の暴虐(ぼうぎゃく)とも解(かい)すべきではありません.支柱はトマトのためにこそ存在しているのです.男性がその子供たちのためにできる最良のことは彼らの母親を愛することだと言ったのはある賢明(けんめい)なイエズス会士でした.男性は女性のように愛に走ることはないので,女性がどれほど愛すること,愛されることを必要としているかを簡単に忘れがちです.小さじ一杯分の愛情があれば彼女はさらに百マイル持ちこたえます.聖霊はこのことをもっと優雅(ゆうが)に言い表わしています.「夫たちよ,妻を愛しなさい,妻を苦々しくあしらってはならない」(コロサイ人への手紙・3章19節)(訳注後記).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第2パラグラフの訳注:
新約聖書・使徒聖パウロによるエフェゾ人への手紙:第5章22-23節(太字下線部分)(21-33節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE EPHESIANS, 5:22-23 (21-33)

家族の愛(5・22-33)
『キリストを恐れて互いに従え.

妻よ,主に従うように自分の夫に従え.キリストがその*¹体であり,それを救われた教会のかしらであるように,夫は妻のかしらである.教会がキリストに従うように,妻はすべてにおいて夫に従え.

夫よ,キリストが教会を愛し,そのために命を与えられたように,あなたたちも妻を愛せよ.
キリストが命を捨てられたのは,水を注ぐことと,それに伴(ともな)う*²ことばによって教会を清め聖とするためであり,また汚点(しみ)もしわもすべてそのようなもののない,輝かしく清く汚れのない教会をご自分に差し出させるためであった.
*³(28節)「そのように夫も自分の体のように妻を愛さねばならない.妻を愛する人は自分を愛する人である.(29節)だれも自分の体を憎む者はなく,みなそれを養い育む.
キリストも教会のためにそうされる.(30節)私たちは*⁴キリストの体の肢体だからである.
「*⁵(31節)これがために男は父と母を離れ,妻と合って二人は一体となる」.
*⁶この奥義は偉大なものである.私がそう言うのは,キリストと教会についてである.

あなたたちはおのおの自分の妻を自分のように愛せよ.妻もまたその夫を敬え.』

(注釈)

*¹ この「体」は教会である.

*² 洗礼文.

(28-31節)自然の愛だけではなく,信仰と愛に満ちたキリストの教える超自然の愛.

*³ ブルガタ訳,「その肉と骨で成り立っている」.

*⁴〈旧約〉創世の書2・24参照.

→創世の書からの引用:

『…神はご自分にかたどって,人間をつくりだされた』(1章27節).

2章18節から
『…主なる神は仰せられた,「人間が一人きりでいるのはよくない.私は彼に似合った助け手を与えよう」.
主なる神は,地から野の獣と空の鳥とをつくり,人間のもとに連れてゆかれた.それは,人間がそのものを,どのように呼ぶかを見たいと思われたからだった.その生き物を人間がどう呼ぶか,その呼び方がそれらの名となるはずであった.

さて,人間はすべての家畜と,空の鳥と,野の獣とに名をつけたが,人間に似合った助け手はまだ見つからなかった.
そのとき,主なる神は人間を深い眠りに入らせた.人間は眠りに入った.
神は人間のあばら骨の一本を取りだし,肉をもとのように閉じた.

主なる神は人間から取りだしたあばら骨で女を作って,それを人間のもとに連れてゆかれた.そのとき,人間は言った,
「さて,これこそ,わが骨の骨,わが肉の肉.これを女(ヘブライ語でイシャ)と名づけよう.男(イシュ)から取りだされたものなのだから」.(2章18-23節)
だからこそ,人間は父母を離れて,女とともになり,二人は一体となる(2章24節).

*⁵ 婚姻が「偉大な奥義」なのは,それが教会とキリストの神秘的な関係をかたどるからである.


* * *

第5パラグラフの訳注:
同・使徒聖パウロによるコリント人への第一の手紙:第11章3節(太字部分)(1-16節を掲載)
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE CORINTHIANS. 11:3 (1-16)

『私がキリストに倣(なら)っているように,あなたたちは私に倣え.
あなたたちがすべてのことについて私を思い出し,私の伝えたとおり,*¹伝えを守っていることに喜びを言おう.私はあなたたちに次のことを知ってもらいたい.*²すべての男のかしらはキリストである.女のかしらは男である.キリストのかしらは神である.

頭にかぶり物をして祈りや預言をする男はみな,その*³かしらを辱(はずかし)める.頭にかぶり物をしないで祈りや預言をする女もみなそのかしらを辱める.その女は剃髪(ていはつ)しているのと同じだからである.女がかぶり物をしないなら髪も切ればよい.神を切ったり剃(そ)ったりするのが女の恥であるなら,かぶり物をするがよい.

男は神のすがたであり光栄であるから,頭にかぶり物をしてはならぬ.女は男の光栄である.
男が女から出たのではなく,女が男から出たのであって,*⁴男が女のために造られたのではなく,女が男のために造られたからである.
そのため女は,*⁵天使たちのために,*⁶権威に服するしるしを頭にかぶらねばならぬ.
といっても*⁷主においては,男なしでは女もなく,女なしでは男もない.
女が男から出たように男は女から生まれ,そしてすべては神から出る.

あなたたちは自ら判断せよ.女がかぶり物なしで神に祈るのはよいことであろうか.
自然そのものも教えているではないか.男が長い髪をしているのは恥であって、女が長い髪をしていれば誇りであることを.女の神はかぶり物として与えられたからである.
だれかこれについて抗弁しようとするなら,私たちにはそういう習慣はなく,神の諸教会にも例がないと答えたい.』

(注釈)

*¹ 「伝え」とは初代教会の聖伝の教えのことである.

*² キリスト教的社会における階級.女性の服従の理由は,神の創造にある.しかし,その順序は,徳ではなく単に権威のことだけである.

*³ かしらの意味にも,頭の意味にもとれる.

*⁴ 〈旧約〉創世の書2・22-23参照.

*⁵ 創世の書6・2.ユダヤ系の偽典書に基づけば,昔のある学者は,この「天使」が天から落ちた天使のことだと言っていた.また,信者の集会のかしらの意味にとった人もあった.
しかしこの天使は,信者の集会のとき,祈りを神の座まで運ぶ(〈新約〉黙示録8・3,エフェゾ人への手紙3・10)よい天使のことと思われる.

*⁶ ここでは自分に対する他人の権利のこと.

*⁷男も女も不完全なもので,主のみ前にあっては平等である. 』


* * *

第6パラグラフの訳注:
同・使徒聖パウロによるコロサイ人への手紙:第3章19節(太字下線部分)(18-21節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE COLOSSIANS, 3:19 (3:18-21)

『*¹妻たちよ,主にふさわしいように自分の夫に従え.
夫たちよ,妻を愛せよ,苦々しくあしらうな.
子どもたちよ,すべて両親に従え.それは主に喜ばれることである.
父達よ、子どもを怒らせるな.彼らを落胆させないためである.』

(注釈)

家庭の人たちに(3・18-)
*¹ この節(18節)以下にキリストの愛という見地に立って生きる自然倫理が説かれる(エフェゾ5・22).

(→エフェゾ5章22節)
『妻よ,主に従うように自分の夫に従え.』


* * *

2011年9月22日木曜日

トマトの支柱

エレイソン・コメンツ 第217回 (2011年9月10日)

しばらく前のことですが,ある家庭の妻で母親の女性から夫との意思疎通(そつう)が上手く図れず困っていると打ち明けられました.二人はどこが間違っているのか話し合うのですが,いつもきまってお互いに腹を立て結局は決裂して終わってきたというのです.事の是非はさておき,私は彼女の問題が神の定めた結婚生活における男女の見事なまでに素晴らしい相互補完的な役割を,あちこちの家庭であるように,意図的にひどく否定してしまっていることにその根があると感じました.そこで彼女宛てに私が書き送った手紙の内容を以下にご紹介します.彼女は私の手紙が役立ったと言いました.ほかの方たちにもお役に立てばと思います.ところで,女性の皆さま,私はかならずしも問題がすべて貴方たちにあるとは考えていません!

あなたの結婚生活のご苦労にご同情申し上げます. ルールの第1: 子供たちの前や子供たちに聞こえる所で決してご主人と口論してはいけません.何よりまず子供たちに配慮しなければなりません.あなたが子供たちの前でご主人の足を引っぱったり言い争ったりしても,家族のために何の助けにもなりません.逆に有害です.

ルールの第2: あなたのご主人に敬意を表しなさい.たとえご主人が常にそれに値するわけでなくてもです.女性は愛で動き,男性はエゴ(訳注・=自我・うぬぼれ・自尊心)で動きます.この違いは大きなものです.だからこそ聖パウロ - すなわち神のみことば - は「夫に従い “obey” なさい.夫たちよ,妻を大事に “cherish” しなさい.」と言っています.大きな違いです! (訳注後記) いかなる結婚生活においても,夫が妻に愛情を示し妻が夫を敬うかぎり,普通は満ち足りた結婚の本質がそこにあるのです.そして,もしご主人があなたに愛情を示さないなら,少なくとも愛らしい憎めない妻として振る舞いなさい.ご主人とけんかするとき,あなたがそのように見えることは決してないでしょう.

ご主人を敬うためなら,どんな事や物でも犠牲にしなさい.ご主人はあなたの愛情以上に尊敬を必要とします.あなたはご主人の尊敬以上に愛情を必要とします.ご主人に従いなさい.あなたがご主人に指図していることを決して見せてはいけません.あなたがご主人にしてほしいと望むことをご主人が自分で決心してするようにしなさい.また妻が家庭の外へ働きに出ることは良いことではありません.とくに妻の収入が夫よりも多い場合はなおさらです.もしあなたが稼(かせ)がなければならず,しかもご主人より多く稼いでいる場合は,決してそれを見せてはなりません.その事実を隠(かく)しなさい.男性は,一家の長として,自分が大黒柱なのだと認識している必要があるのです.あなたは一家の心であり,それはちょうど一家の長が欠くことのできない存在であるのと同じくらい,あるいはそれ以上に必要な存在ですが,あなたは一家の長ではないのです.また,もしあなたが一家の長として振る舞わざるを得ないことがあっても,それを面(おもて)に出さず,とにかくその事実を隠しなさい.

もし,これであなたの結婚生活が上手く機能しないとしたら驚きです.結婚生活が上手くいくかどうかは通常,女性がいかに男性に順応するかにかかっているのであり,その逆でありません.ロシアに「トマトの苗が支柱(苗がその回りをよじ昇る)に頼(たよ)るように,女性は男性に頼るものだ」ということわざがあります.もし彼が支柱でないなら,彼を支柱にするためにあなたができるすべてのことをしなさい.そして,もしあなたにそれができないなら,その時はもう一度その現実を隠しなさい.神は女性が連れ合う男性に順応するよう,男性より女性を順応性のある性質に造られています.

あなたは以前子供たちの教育のためにご家庭でお金が必要だと話されました.あなたの娘さんたちにとって最良かつ最も重要な教育は母親の台所でできることに気づかれたことがありますか? 母親が家庭にいると仮定した場合の話です.家庭外のどんな学校で受ける教育よりもずっと多くのことをあなたは自分を手本として示すことで娘たちを教育することができるのです.またあらゆることにかかわらず夫に従い夫を敬う妻として母としての貴重な模範を娘さんたちに示してあげなさい.子供たちは非常によく観察するものです.あなたの示す模範は子供たちが将来結婚して家庭を持ったときに幸福になるために非常に重要なのです.

ご主人との喧嘩(けんか)もいいでしょう.ただし静かに,敬意をもって,子供たちから離れてしてください.そして「私だって一日中外で働いてきたのよ,私だって家庭での思いやりが必要だわ」などと言ってはなりません.なぜなら,母親が外で働くのは正常ではないからで,男性たちはそれが自分の不甲斐無さ(ふがいなさ)のためだとしても,そのことを感じているからです.男性は変えようがありません.この人があなたの結婚相手として神が選ばれた男性なのです.あなたの子供たちにご主人を敬う手本を見せなさい.それが,とりわけあなたの娘さんたちに対する貴重な贈物です.

現代はどこの家庭でも多くの祈りを必要としています.神の御母(聖母マリア)よ,お助けください!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第3パラグラフの訳注:
聖パウロのこのことばに該当する聖書からの引用箇所.

①新約聖書・使徒パウロのエフェゾ人への手紙:第5章22-33節(背景を知るため前後の部分も記載します)

②同・コリント人への第一の手紙:第11章1-16節

③以降…(「父なる神と神のみ子キリスト」・「キリストと教会」・「神・キリストと夫」・「夫と妻」の関係について理解を助ける聖書からの引用を追加します)

* * *

①エフェゾ人への手紙

第4章
教会の一致(4・1-6)
『さて,主の囚人となった私(使徒パウロ)はあなたたちに勧める.

あなたたちは召されたお召しにかなうように生き,すべての謙遜と柔和と寛容をもって愛によって忍び合い,平和の結びによって*¹霊の一致を守るように努めよ.

*²体は一つ,霊は一つである,あなたたちが召し出しによって一つの希望に召されたのと同様に.

*³主は一つ,信仰は一つ,洗礼は一つ,神は一つで,すべてのものの父であり,すべてのものの上にあり,すべてのものの上に働き,すべてのものの内にいます.』

(注釈)

*¹ 信者間の心の一致.

*² 「体」は教会.

*³キリスト(〈新約〉コリント人への手紙〈第一〉8・5-6).

それぞれの役目(4・7-24)
『私たちはキリストの賜の秤(はかり)に従って*¹おのおの恩寵を受けた.だから,「*²高く上って多くの奴隷を引き連れ,人々に贈物をした」と書き記されている.しかし*³上ったと言えば,地の低い所にも下ったわけではないか.下った者はすべてのものを満たすために,天のいと高き所に上ったそのお方である.

ある人を使徒とし,ある人を預言者とし,ある人を*⁴福音者,ある人を牧者と教師とされるのもそのお方である.
それは聖徒たちを,*⁵聖職の働きのためキリストの体を建てるために整え,ついに信仰の一致と神のみ子の深い知識に達し,*⁶満ち満ちるキリストの背丈にまで至る完全な人間をつくるためである.

こうして私たちは子どもではなくなり,人を偽善と誤謬(ごびゅう)に迷いこませるたくらみのままに,いろいろな教えの風に吹きまわされ翻弄(ほんろう)されないようになる.
*⁷むしろ真理を宣言し,*⁸かしらであるキリストによって,すべて愛において成長するだろう.

キリストによって,*⁹それぞれの肢体の働きに従い,身体全体は自分を養い生かすすべての*¹⁰節々を通じて調和と統一を受け,こうして成長をとげ,愛によって自分をつくり上げる
.

私は主においてあなたたちに切に望んで言う.
心のむなしさに従う異邦人のように生活するな.彼らは知恵がくらみ,その中の無知と心のかたくなさによって神の命を離れた者となった.*¹¹彼らの道徳観はうすれ,すべての情欲と汚れを行い,淫乱の生活にふけった.

しかしあなたたちは,キリストからそんなことを習ったのではない.
あなたたちが*¹²イエズスにある真理に従って,イエズスにおいて教えられ,それを聞くなら,*¹³人を欺(あざむ)く欲に腐(くさ)った前の生活の古い人を脱ぎ捨て,霊的な思いによって自分を新たにし,正義と真実の聖徳において,神にかたどってつくられた新しい人を着なければならない.』

徳の実行(4・25-32)
『だから,偽善を捨てて,おのおの隣人に真実を語れ.*¹⁴あなたたちは互いに肢体だからである.*¹⁵怒っても罪を犯すな.日が傾くまで怒りを保つな.*¹⁶悪魔に足がかりを与えるな.盗人はもう盗むな.
むしろ,貧しい人々に施すために,自分の手で何かよい仕事をして働け.悪いことばを決して口から出すな.ただ必要な場合,徳に役だち聞く人に恩寵を与えるよいことばだけを言え.

あなたたちがあがないの日のためにしるしを受けたその神の聖霊を悲しませるな.すべての苦さ,憤(いきどお)り,怒り,叫び,ののしり,つまり悪をすべて捨てよ.
互いに情けとあわれみをもち,キリストにおいて神があなたたちをゆるされたように,互いにゆるし合え.』

(注釈)

*¹ 教会の奉仕を目的とする特別な恩寵のこと.特能ともいう.

*² 〈旧約〉詩篇68・19の引用であるが,原文テキストの忠実な引用ではない.

*³ 託身があったから,昇天もなければならなかった.

*⁴ 四人の福音史家のことではなく,福音を伝える人々,伝道者,福音師のこと.

*⁵ 信者は聖徳に近寄れば近寄るほど,聖職の働きにふさわしい者となる.

*⁶ このキリストは完全な背丈(せたけ)のある人間として考えられている.キリストの神秘体,教会の会員である信者はみな,自分に定められている高さにまで伸びなければならない.それは,よく成長したすべての肢体が集まることによって満ち満ちたキリストを実現するためである.

*⁷ 1・22,5・23,コロサイ人への手紙1・18,2・19参照.

*⁸ 信じるだけでは足りない.キリスト信者は信仰を喜び,信仰を生かさねばならない.

*⁹ 教会内の信者おのおのの活躍と使命.

*¹⁰ 教会に属する者の相互の奉仕.

*¹¹ 〈新約〉ローマ人への手紙1・18以下参照.

*¹² コロサイ人への手紙2・6参照.

*¹³ コロサイ人への手紙3・9,ローマ人への手紙6・6参照.

*¹⁴ コリント人への手紙〈第一〉6・15,ローマ人への手紙12・5参照.

*¹⁵ 〈詩篇〉4・5.心中に怒りが起こっても,それを行いに出して罪を犯すまでになるな.

*¹⁶ 悪魔に誘惑の機会を与えてはならない.


第5章
キリストの模範(5・1-2)
『実に愛される子らとして,神に倣(なら)う者であれ.私たちを愛し,私たちのために芳(かんば)しい香りのいけにえとして神にご自分をわたされたキリストの模範に従って,愛のうちに歩め.』

汚れを棄てよ(5・3-7)
『聖徒にふさわしいように,あなたたちの中では,*¹淫行,いろいろな汚れ,情欲は口にさえもするな.また,汚行(おこう),愚かな話,下品な冗談も言うな.それはよからぬことである.

ただ神に感謝せよ.

*²淫行の者,好色な者,情欲の者はみな―――これは偶像礼拝者と同じである―――,キリストと神の国を継げない.
人のむなしいことばにだまされるな.*³不従順な者の上に神の怒りを呼ぶのはそれらの事柄である.だから彼らと交わるな.』

神の子らの生活(5・8-14)
『元あなたたちはやみであったが,今は主において光である.したがって*⁴光の子として歩め.光の実はすべての善と正しさと真実にある.主に喜ばれることをわきまえ知れ.

*⁵実を結ばぬ闇(やみ)の行いに加わらず,かえってそれを責めよ.彼らがひそかに行っているのは,*⁶口にするのも恥ずかしいことである.

*⁷公に責められることはすべて完全な光の中に現れ,現されたものはみな光である.
これがために,「*⁸眠る者よ,起きよ,死者の中から立ち上がれ.キリストはあなたを照らすだろう」と言われている.』

賢明と節制(5・15-20)
『であるから,愚かな者ではなく,知恵ある者のように慎(つつし)んで歩んでいるかどうかを調べよ.今の時をよく利用せよ,時代は悪いからである.

あなたたちは思慮のない者とならず,主のみ旨を理解せよ.ぶどう酒に酔うな.それは淫乱のもとである.

むしろ霊に満たされよ.ともに詩の歌と賛美の歌と霊の歌をとなえ,心を挙げて主に向かって歌い,そして賛美せよ.主イエズス・キリストのみ名によって,すべてのことについて,絶えず父なる神に感謝せよ.』

家族の愛(5・22-33)
『キリストを恐れて互いに従え.

妻よ,主に従うように自分の夫に従え.

キリストがその*⁹体であり,それを救われた教会のかしらであるように,夫は妻のかしらである.教会がキリストに従うように,妻はすべてにおいて夫に従え.

夫よ,キリストが教会を愛し,そのために命を与えられたように,あなたたちも妻を愛せよ.

キリストが命を捨てられたのは,水を注ぐことと,それに伴(ともな)う*¹⁰ことばによって教会を清め聖とするためであり,また汚点(しみ)もしわもすべてそのようなもののない,輝かしく清く汚れのない教会をご自分に差し出させるためであった.

(28節)「そのように夫も自分の体のように妻を愛さねばならない.妻を愛する人は自分を愛する人である.(29節)だれも自分の体を憎む者はなく,みなそれを養い育む.

キリストも教会のためにそうされる.(30節)*¹¹私たちはキリストの体の肢体だからである.
(31節)「*¹²これがために男は父と母を離れ,妻と合って二人は一体となる」.

*¹³この奥義は偉大なものである.
私がそう言うのは,キリストと教会についてである
.

あなたたちはおのおの自分の妻を自分のように愛せよ.妻もまたその夫を敬え.』

(注釈)

*¹ エフェゾは有名な堕落の町であった.

*² エフェゾのアルテミス女神に属する淫乱の行為を暗示しているようである.

*³ 不道徳は神の罰を呼び下す.

*⁴ 〈新約〉コロサイ人への手紙1・12,コリント人への手紙〈第二〉4・6参照.

*⁵ 淫祀(いんし),邪教のようなものが行われていて,それを光の教会と対照させている.

*⁶ 偶像の秘教の堕落を暗示する.

*⁷ 異教徒が淫行に属することを公に話すのは,もちろんよいことではない.しかし,悪行を正すために,公に責めることはなされてもよい.そうすれば,光はやみを吹きはらうであろう.それはキリストの光である.

*⁸ 初代教会の典礼の賛美歌の一句らしい.

*⁹ この「体」は教会である.

*¹⁰ 洗礼文.

(28-31節)自然の愛だけではなく,信仰と愛に満ちたキリストの教える超自然の愛.

*¹¹ ブルガタ訳,「その肉と骨で成り立っている」.

*¹² 〈旧約〉創世の書2・24参照.
→『…神はご自分にかたどって,人間をつくりだされた(1章27節).

…主なる神は仰せられた,「人間が一人きりでいるのはよくない.私は彼に似合った助け手を与えよう」.
主なる神は,地から野の獣と空の鳥とをつくり,人間のもとに連れてゆかれた.それは,人間がそのものを,どのように呼ぶかを見たいと思われたからだった.その生き物を人間がどう呼ぶか,その呼び方がそれらの名となるはずであった.

さて,人間はすべての家畜と,空の鳥と,野の獣とに名をつけたが,人間に似合った助け手はまだ見つからなかった.
そのとき,主なる神は人間を深い眠りに入らせた.人間は眠りに入った.神は人間のあばら骨の一本を取りだし,肉をもとのように閉じた.

主なる神は人間から取りだしたあばら骨で女を作って,それを人間のもとに連れてゆかれた.そのとき,人間は言った,
「さて,これこそ,わが骨の骨,わが肉の肉.これを女(ヘブライ語でイシャ)と名づけよう.男(イシュ)から取りだされたものなのだから」.(2章18-23節)
だからこそ,人間は父母を離れて,女とともになり,二人は一体となる(2章24節).

*¹³ 婚姻が「偉大な奥義」なのは,それが教会とキリストの神秘的な関係をかたどるからである.』


第6章
親と子の義務(6・1-4)
『子どもたちよ,主において両親に従え.それは正しいことである.(父母を敬え)―――これは*¹約束のついている第一のおきてである―――.そうすれば*²あなたの上によいことがあり,地上において長寿を得ることができる.
両親よ,あなたたちの子どもを怒らせることなく、主に従って規律をもって育て戒めよ.』

主人と奴隷の義務(6・5-9)
『*³奴隷よ,キリストに従うように恐れと尊敬と真心をもってこの世の主人に従え.*⁴目の前だけで仕えるのではなく,人の気に入るためでもなく,心から神のみ旨を果たすキリストの奴隷として働け.人ではなく主に仕えるように快く仕えよ.あなたたちの知るとおり,奴隷も自由民もおのおの主から善業の報いを受ける.
主人よ,*⁵あなたたちもしもべに対して同じようにせよ.脅迫をするな.彼らとあなたたちの主は天に在(あ)って,人を区別されない方であることをあなたたちは知っている.』

キリスト信者の武具(6・10-20)
『兄弟たちよ,主において力を受け,その力によって自分を強めよ.悪魔の企(くわだ)てに刃向かうために,神の武具をすべてつけよ.

私たちが戦うのは*⁶血肉ではなく,*⁷権勢と能力,この世の闇(やみ)の支配者,天界の悪霊だからである.

*⁸神の武具をすべてつけよ.悪の日に抵抗し,すべてを果たしたのちなお立つためである.

では真理を帯にし,正義を胸当てにして立て.平和の福音への熱を足にはき,信仰の盾を取れ.それによって悪者の火矢をすべて消すことができるであろう.さらに,*⁹救いのかぶとと,神のみことばである聖霊の剣をも取れ.

*¹⁰すべての祈りと願いをもって心のうちでいつも祈れ.絶えず目を覚まして,忍耐強くすべての聖徒のために祈れ.

*¹¹また私のためにも祈れ,福音の奥義を恐れなく告げようとして話すとき,適当なことばが下されますように.私は福音の使者として鎖につながれている.私が語らねばならぬことを恐れなく語れるように祈れ.』

ティキコの派遣(6・21-22)
『あなたたちにも,私の様子と私のしていることを知らせたい.愛する兄弟であり,主において忠実なしもべティキコがそのすべてを伝えるだろう.私はそのために彼をあなたたちのもとに送った.彼が私たちのことを知らせ,あなたたちの心を慰(なぐさ)めるだろう.』

あいさつ(6・23-24)
『父なる神と主イエズス・キリストから,兄弟たちに平和と信仰とともに愛が与えられるように.
*¹²朽ちることなき愛をもって,主イエズス・キリストを愛するすべての人に恩寵があるように.』

(注釈)

*¹ 十戒のうち,報いの約束のついている最初のおきて.

*² 〈旧約〉第二法の書5・16参照.

*³ 〈新約〉コロサイ人への手紙3・22-25,ペトロの手紙〈第一〉3・18,ティトへの手紙2・9-10参照.

*⁴ 労働を聖化すること.

*⁵ パウロは社会革命を勧めるのではない.主人が信仰と愛に基づいてことを行えば,社会の正義は自然に行える.

*⁶ 「血肉」は人間の力のこと.

*⁷ 「権勢と能力」は悪霊のこと.

*⁸ 〈旧約〉イザヤの書11・5,52・7,知恵の書5・18参照.

*⁹ イザヤ59・17参照.

*¹⁰ 〈新約〉コロサイ人への手紙4・2-4参照.

*¹¹ パウロは釈放されることを望まない.キリストのために鎖(くさり)につけられることは光栄である.ただ使徒としての使命を果たす力をこい求める.

*¹² パウロの手によるあいさつらしい.

* * *

②コリント人への第一の手紙:第11章1-16節

『私がキリストに倣(なら)っているように,あなたたちは私に倣え.
あなたたちがすべてのことについて私を思い出し,私の伝えたとおり*¹伝えを守っていることに喜びを言おう.私はあなたたちに次のことを知ってもらいたい.

*²すべての男のかしらはキリストである.女のかしらは男である.キリストのかしらは神である.
頭にかぶり物をして祈りや預言をする男はみな,その*³かしらを辱(はずかし)める.頭にかぶり物をしないで祈りや預言をする女もみなそのかしらを辱める.その女は剃髪(ていはつ)しているのと同じだからである.女がかぶり物をしないなら髪も切ればよい.神を切ったり剃(そ)ったりするのが女の恥であるなら,かぶり物をするがよい.

男は神のすがたであり光栄であるから,頭にかぶり物をしてはならぬ.女は男の光栄である.
男が女から出たのではなく,女が男から出たのであって,*⁴男が女のために造られたのではなく,女が男のために造られたからである.
そのため女は,*⁵天使たちのために,*⁶権威に服するしるしを頭にかぶらねばならぬ.
といっても*⁷主においては,男なしでは女もなく,女なしでは男もない.
女が男から出たように男は女から生まれ,そしてすべては神から出る.

あなたたちは自ら判断せよ.女がかぶり物なしで神に祈るのはよいことであろうか.
自然そのものも教えているではないか.男が長い髪をしているのは恥であって、女が長い髪をしていれば誇りであることを.女の神はかぶり物として与えられたからである.
だれかこれについて抗弁しようとするなら,私たちにはそういう習慣はなく,神の諸教会にも例がないと答えたい.』

(注釈)

*¹ 「伝え」とは初代教会の聖伝の教えのことである.

*² キリスト教的社会における階級.女性の服従の理由は,神の創造にある.しかし,その順序は,徳ではなく単に権威のことだけである.

*³ かしらの意味にも,頭の意味にもとれる.

*⁴ 〈旧約〉創世の書2・22-23参照.

*⁵ 創世の書6・2.ユダヤ系の偽典書に基づけば,昔のある学者は,この「天使」が天から落ちた天使のことだと言っていた.また,信者の集会のかしらの意味にとった人もあった.
しかしこの天使は,信者の集会のとき,祈りを神の座まで運ぶ(〈新約〉黙示録8・3,エフェゾ人への手紙3・10)よい天使のことと思われる.

*⁶ ここでは自分に対する他人の権利のこと.

*⁷男も女も不完全なもので,主のみ前にあっては平等である.

* * *

2010年8月15日日曜日

荒地の救済方法 その2

エレイソン・コメンツ 第161回 (2010年8月14日)

なぜ現代における『大学』はみな揃って紛れもない「民主主義」のごみ箱かくず入れと化しているのでしょうか? その理由は,「民主主義」では誰でもみな平等でなければならず,誰かが他よりも優位に立ってはならないからです.だが,学位を持つ者は持たない者より優位に立つことになります.それで誰もが学位を持つ必要が出てきます.だが,すべての男の子が学位を取得できるほど頭脳明晰で勉強好きというわけではありません.したがって,『大学』はレベルを下げ,すべての男の子が最終的に『学位』を取得できるよう『学位』の対象をあらゆる種類のばかげた科目にまで広げなければならなくなるでしょう.なかにはほとんど証書の紙代にも値しない学位も出てくるでしょう.今日の『大学』システムは「まったくいんちきな偽物である」と,内部事情を知るアメリカ人の大学教授の友人は言っています.

この現代の愚行の根底にあるものは何でしょうか? 重ねて繰り返しますが,そこにあるのは神の存在を認めないということ,すなわち無神論です.人はすべて永遠に神の御前では平等で,死後に立つ神の審判の御座の前でも全く平等なのですが,大事なのはそのことだけで他はどうでもいいことです.然るに,人間社会では人はすべて短い一生の間,人の前では,あらゆる点において不平等なのです.何故かといえば,神は賜物を極めて不平等に人に分配することで,すべてが相互に依存し合い,互いに気を配り合わなければならないように仕向けているからです.そういうわけで,単なる人間社会の『学位』が人を他人より優位に見せかけるのは,神の御前ではなく,神を無視する愚かな人間の前だけでのことにすぎないのです.したがって,神を考慮に入れる両親であれば,『民主主義』,『平等』,『大学』,『学位』などに関心を払うことはないでしょう.

彼ら親たちにとっての第一の関心事は,周囲の至る所で荒廃している非現実的な世界にほとんど注意を払うことなく,自分たちの男の子が,現実に存在する真の神の真の天国にたどり着けるように現実の世界で育てることです.ここで親御さん達に最初の質問です.神は私たちのこの男の子に,他の息子たちとさえ全く異なるような,どんな天資をお与えになったのでしょうか?その息子はどんなことをしたがる傾向があるでしょうか? 神がその子にお与えになっている天資は,彼に対する神の御心を指し示しているのです.明らかに,多くの男の子たちは勉強よりも実務をこなす天資に恵まれています.それに,かつてG・K・チェスタートン “Chesterton” は興味深いことに,たとえば木材であれ金属であれ素材を扱う分野で専門的技能を身につけようと努力することは,現実世界における一定の見習い期間になると言いました.それならば,なんとしてでも男の子を技術専門学校(テクニカル・カレッジ)に通わせ,たとえば腕の良い大工,配管工,電気技師,機械工,整備士などになれるよう本物の技術を習得させましょう.あるいは,男の子に農場経営をする叔父(または伯父)がいるでしょうか? それなら,その子をそこへ送りなさい.動物を扱うことは現実世界で大事な学校へ通うのと等しいことです!

その現実世界を学ぶためは,男の子に『学位』を遠ざけさせましょう.今日の雇用者たちは依然として『学位』を求めるかもしれませんが,明日の雇用者たちはまもなく「あなたは,3年間の学生生活を,ただ酒を飲み,フリスビーを飛ばし,女の子たちと遊び回って無駄に過ごすだけのためにご両親のお金を浪費し,あるいはご両親の借金を大きく増やしたのでなはないですか? あなたには興味がわきません!」と言うでしょう.逆に,もし男の子が実用的な技術に加えて,家庭の中で地道に暮らしかつ勤勉に働くという習慣を身につけておけば,彼は地道な暮らし以上の生活ができるようになるでしょう.彼が提供する役務は非現実的な価値の崩壊で破綻して行く世界において引く手あまたとなるでしょう.

女の子に関しては,いつの世でも変わらない,家庭内のもろもろの実務,たとえば,裁縫,料理,缶詰保存作業,音楽,いろいろな芸術,手短にいえば家庭生活に楽しみや喜びを添えるすべての物事ですが,中でもとりわけ料理を身につけさせましょう.たとえ世の中が荒廃し,何でも好き勝手になるように変わるとしても,男性の心に通じる道は胃袋から,という現実に変わりはないでしょう.これは男性が話していることです!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年8月10日火曜日

荒地の救済方法 その1

エレイソン・コメンツ 第160回 (2010年8月7日)

「わかりました,司教閣下」親たちが言っているのが私に聞こえます.「要するに『大学』はみな荒廃しているわけですね.でも司教閣下がそうおっしゃるなら,そこら中の学校はみな荒廃しているとお認めにならなければなりません.それでは私たちは子供たちをどうすればよいのでしょうか? 神の法(掟)はそれに背く避妊方法を禁じています.それで子供たちは生まれてくるわけです.ではどうすればよいのでしょうか? 」

かつてないほどに悪くなっている世の中では,天国に入りたいと望む霊魂は,これまでにないほどに勇敢にならなければならないでしょうが,与えられる報いはその努力に応じて,かつてないほどに大きなものになる,というのが私の即答です.

教皇ピオ十二世は在位当時の世界がソドマとゴモラ(訳注後記その1)の時代よりも悪い状態だったと仰せられましたが,その彼は1958年に亡くなられています! 教皇が生きておられたら,今日の世界のことを何と仰る(おっしゃる)でしょうか? 同じ問題に直面して,彼の後を継いだ歴代の教皇たちは,第二バチカン公会議で「(カトリック教会が目指すべき)ゴールポストの位置を変えてしまった」のです.そうすることで,悪くなった世の中を糾弾(きゅうだん)し続ける,糾弾し続ける,糾弾し続けることなしに済ませるためです.だが、それは安易な抜け道を通ってお茶を濁(にご)したに過ぎなかったのです.非常ベルを止めるのは,火を消し止めるのと同じではありません.カトリック教会と世界は陽気に燃え盛っています.このようなとき,両親がまず第一にしなければならないことは問題に向き合うことです.その問題とは,子供たちの霊魂の永遠の救済を脅(おびや)かす過度の危険が迫(せま)っているという現実です.

ひとたびその危険が何なのか把握(はあく)してしまえば,親たちは,公会議主義体制の陰険なやり方やその種の他のいかなるやり方も採(と)ってはいけないこと,ただ勇敢で英雄的な王道のみを採るべきことを,自身のカトリック信仰によって教えられるでしょう.「私たちは羽毛ベッドに横たわって天国に入ることはできません」と聖トマス・モアは言いました.私たちの主は,「誰でも私の弟子となろうと思う者は、進んで自分の十字架を負い,その上で私に従いなさい」(新約聖書・マテオによる福音書:第16章24節より)と,また「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マテオ聖福音:第24章13節)と仰せられました.親たちは,子供たちの霊魂を救うためには自らが英雄になる必要があると決意しなければなりせん.そうすれば,その決意通りに英雄となれるでしょう.この点について,「志(こころざし)あるところに道あり(精神一到何事かならざらん)」のことわざ通り,ひとたび親の愛情が志を持ちさえすれば,家庭の内外いずれにおいても,自(おの)ずから最良の道を見出(みいだ)せるでしょう.

家庭外でのことについては,来週の「エレイソン・コメンツ」で『大学』進学の以外の選択肢について述べるつもりです.家庭内のことについては,まともなカトリック司祭なら誰でも次のように指導するでしょう.すなわち,まず家庭で家族全員が揃(そろ)ってロザリオの祈りを唱える習慣を堅実に確立することから始めること,また悪魔と世俗の快楽の世界の神殿であるテレビを家庭から追放したうえで,さらにロザリオの祈りを家族で唱え続けることです.小さいうちから子供たちの心と精神とを,家庭の中での生きた交流とあらゆる物事についての陽の下での生き生きとした会話で満たすべきです.なぜなら,子供たちが『大学』に行く年頃になるまでには,ふつうは善かれ悪しかれ,賽(さい→「さいころ」のこと)は投げられてしまっているからです.もしある男の子が,真に生き生きした家庭で,祈りによって心が天国に向かうように育てられていれば,最悪の『大学』へ進学しても,あまり害を受けることはないでしょう.これに反して,もし彼がテレビばかり見てばかな若者に育ち上がってしまった場合は,最良の大学へ通わせても天国に向わせるにはあまり役立たないでしょう.

EC158(エレイソン・コメンツ第158回)で私は,両親は男の子を大学へ進学させる費用を決して出してはならないとは述べていない点にご留意下さい.学費を支払う前に熟考するように,と述べたのです.両親が自分たちの男の子がまだ小さいうちによく考えておけば,あまりにも手遅れにならないうちに,自らの信仰によって家庭内での生活をいかに変えるべきかを学ぶに違いありません.聖パウロがイザヤの書(第64章4節)(訳注・バルバロ神父訳(日本語)の聖書では第64章3節)を引用して述べているように(コリント人への第一の手紙・第2章9節)(訳注後記その2),天国はあらゆる努力を払ってでも入る価値が無限にあり,人間のいかなる想像をもはるかに凌駕(りょうが)するものなのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教



* * *

(第3パラグラフの訳注その1)

ソドマとゴモラ
ソドマとゴモラは悪行を極めた罪深い町々の名.人々の重い罪は神の怒りを買い,これらの町は天からの硫黄と火の雨で焼き滅ぼし尽された.
「創世の書」(旧約聖書)の第18章-19章29節を参照.

以下は,聖書の引用箇所からの簡単なあらすじと注釈(バルバロ神父訳聖書より).

ソドマは,アブラハムの甥ロトとその家族がその近くに幕屋を張って住みついた町である.

①『…現に,私(神)が彼(アブラハム)を選んだのは,主が約束されたことを,アブラハムを通じて実現するためであり,また彼が自分の子らとその家族に主の道を行わせ,正義と法を守らせるためである.』(旧約聖書・創世の書:第18章19節)
(18章17-19節の注釈)
神がアブラハムに,ソドマの全滅を前もって知らせるその理由である.アブラハムは子孫に,「主の道を守る」ことを教え,子孫は「堕落した町の全滅」を永久の教訓としてとらなければならない.神は天使の姿をとっていて,その話し方も人間の話し方である.

②ある日,神の天使がアブラハムのもとに遣わされた.
『…主は仰せられた,〈ソドマとゴモラに対する叫びはあまりにはげしく,その罪はあまりに重い.私にまでとどいた叫びの,そういう悪をみな,ほんとうに彼らがやったかどうか,私は見たいから,下ってみよう.…〉』(18章20節)
(18章20節の注釈)
ソドマとゴモラの罪は,自然にもとる罪で,神の罰を呼んだ.自然の法則によって表現される神のおきてにそむくことは,人間自身の損害としてはね返ってくる.

③(19章1-29節の「ソドマの滅び」の注釈)
前章で準備された神の計画がここで満たされた.この話の倫理的なねらいは,西洋で「ソドミア」といわれる男色(男性間の同性愛)を打つところにある.のちにヘブライ人の法律(レビの書)では男色者を死刑にすることとなったが,このころ近東では男色の罪が広まっていた.ハムラビ法典では,男色の罪を大してとがめていないどころか,氏子の男色を認めてさえいた.イスラエルでも,こういう悪はかなり広まっていた.

④『…二人(天使)がまだ床につかぬうちに,町の人々つまりソドマの人たちは,若い者も,年寄りも,一人残らずその家にむらがり,ロトを呼び出してわめいた,「今夜,おまえの家に入ったあの男たちはどこにいるのか.あいつらを出せ.あいつらを,おれたちにまかせろ」.』
『…「そこをどけ.こいつは他国人のくせに,裁判官のまねをしている.おまえは,あの男らよりも,もっとひどい目にあうぞ」とどなって,ロトにはげしく襲いかかり,扉を打ち破って入ろうとした.』(19章4-5,9節)
(19章4-9節の注釈)
19章4-5節は集合男色の著しい例であり,9節のソドマ人のロト(アブラハムの甥)への返事は,彼らの男色への好みがどれほどであったかをよく証明している.

⑤『われわれ(神の天使)は,この町(ソドマ)を滅ぼそうとして来たのだ.この町の人々に対する叫びの声が,主のみ前にあまりに大きくなったので,主はこの町を滅ぼすために,われわれをおつかわしになったのだ.』(19章13節)
(2人の男の姿をとった神の天使はこのように言い,光を投げてソドマの住人の目をくらまし,正しく生きていたロトとその家族を離れた町へ逃した.その後で,神はソドマとゴモラの町に天から硫黄と火の雨を降らせて滅ぼし尽くした.)
(19章23-25節の注釈)
天からの火と硫黄とは,大地震のことだと思ってよい.神は罪深い町を滅ぼすために,地震という方法を用いた.大地は震え,アスファルトは燃えだし,あふれて雨のように降り,谷間は地の底となった.地質学的に見ても,死海の南の地帯は時代として若く,現代もなお不安定である.


* * *

(最後のパラグラフの訳注その2)

新約聖書・(聖パウロによる)コリント人への第一の手紙:第2章9節

「書き記されているとおり,「目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心にまだ思い浮かばず,神がご自分を愛する人々のために準備された」ことを私たちは告げるのである.…」


旧約聖書・イザヤの書:第64章3節(1-2節から4節まで記載)

「(水が,火でつきはてるように,火は敵を滅ぼし尽くすがよい.そして,敵の間にみ名は知られ,もろもろの民はみ前でおののくのだ.私たちの思いもよらぬ恐ろしいことを主は果たされた.)そのことについては,昔から話を聞いたこともない.あなた以外の神が,自分によりたのむ者のために,これほどのことをされたと,耳に聞いたこともなく,目で見たこともない.(主は正義を行い,道を思い出す人々を迎えられる.)」

2010年5月31日月曜日

苦闘する男の子たち

エレイソン・コメンツ 第150回 (2010年5月29日)

エレイソン・コメンツ(以下「EC」)第146回では,教師をする修道女たちが今日の女生徒たちを指導する際に経験する難しさについて述べました.EC第147回では、問題の根源を家庭生活に立ち戻って考えました.では,男の子たちの教育はどうすべきか?とお尋(たず)ねになる方もおられるでしょう.カトリック教では,男の子も女の子も,来世で生きるため霊魂の救済が必要である点においては同等と理解していますから,どちらも同様に,何よりもまず天国に入れるよう準備を整えさせる必要があります.だが,男女が平等なのはそこまでです.神は男性と女性が現世において全く異なる役割を果たすよう任命しているのです.その理由で,カトリック教会は今日まで常に男女共学に異を唱えてきたのです.では,男の子たちに具体的に必要とされるのはいったいどんな教育なのでしょうか?

女性が家庭や子供の世話をする心という天賦の才を与えられているように,男性もまた家族を導く理性という天質を与えられ,(訳注・始めの人アダムとエバが)原罪を犯して以来このかた,「額(ひたい)に汗を流して」(旧約聖書・創世の書:第3章19節)労働することによって家族を養わなければなりません.それゆえ,女の子の躾(しつ)けは将来家庭の中で夫と子供に仕えるための準備を軸として成される必要がある一方で,男の子の躾けは家庭外での(1)労働(2)責任を持つことに備えたものでなければなりません.ここで言う家庭外とは,大きな悪い世間のことです.男の子がそこで必要とするのは(3)判断力(4)自制心(5)男らしさです.ここまで述べれば,男の子の躾け計画はほぼ揃い(そろい)ます!

この計画では,父親が男の子に示す手本が極めて重要です!今,現に両親となっている方たちに問います.あなたたちは恐らく20年から30年前,つまり革命的な1960年代以降に躾けを受けたはずです.皆さんはそれが何を意味するかお気づきでしょうか?自分自身が育った時のことを謙虚にふりかえって自覚してください.学校にせよ家庭にせよ,あなたたちが受けた躾けは子供たちを天国に行けるような生きかたをするよう育てるには多分に不向きだったはずです.父たちよ,あなたたち自身の怠惰,無責任,愚かさ,身勝手さ,男らしくない軟弱さの矯正に取り掛かりなさい.それが,あなたたちが息子たちのために出来る最良のことです!

屋外の自然の中での労働が最も男の子の訓練に有益です.男の子には斧を振らせ,木を切り落とさせ,植物を庭に植えさせ,馬に乗らせ,小屋を建てさせなさい.スポーツはよくてもせいぜい男らしい娯楽に過ぎず,その域を超えるものではありません.家族のために本当に必要なことが責任を教えます.責任はまた,男の子が犯した過(あやま)ちを庇う(かばう)より,その結果を悩むように仕向けることによっても教えられます.判断力については,家庭での話し合いや,男の子が自然と英雄視し従う父親の同伴と指導により,自分の心を使って考えるように仕向けることで身につけさせることができるでしょう.このとき,父親は時間をかけて男の子の話を聴き,助言を与えてやらなければいけません.男の子の思春期には特にそうする必要があります.自制心は,朝早く起き,決められた日課を果たし,夜は早寝をして,結婚したいと思う相手と出会うまでは,多かれ少なかれ,女の子とデートをしないことで,身につけることができるでしょう.結婚するつもりのない女の子に気をむけることが少なければ少ないほど,結婚するつもりの女の子ひとりだけにその分多くを与えるようになるでしょう.男らしさは,この計画を最後まで徹底的にやり通した見返りとして男の子の身につくでしょう.

最後に,両親たちよ,電子機器が概して(がいして),いかに男の子を(1)怠惰にし,(2)無責任にし,(3)愚かにし,(4)軟弱にし,(5)駄目(だめ)にさせるかに気づきなさい.

家庭から電子の魔力を取り除け,
もし息子たちを地獄に落としたくなかったら!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年5月10日月曜日

苦闘する両親たち

エレイソン・コメンツ 第147回 (2010年5月8日)

先週の「エレイソン・コメンツ」でご紹介した一修道女の言葉は依然として私の心に残り気がかりとなっています.「私たちの学校の女生徒たちをとりまく世間の状況は厳しいです.」わずか三年が経過しただけで「彼女たちの精神構造の変化が顕著に現れております.私たちは原則や品行を維持するのに苦闘しています.」それどころか,少女たちに対する世間の圧力は一向に和らぐ気配もありません.では,果たして私たちのカトリック信仰は「この世に対する私たちの勝利」(新約聖書・聖ヨハネの第一の手紙:第5章4節…“神から生まれた者は世に勝つ.世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である.”)に役立たなくなってしまったのか,それともこの修道女の言葉は,私たちすべてのカトリック教徒に対しカトリック信仰をより活性化させる必要があることを警告する赤信号なのか,あるいは私たちはカトリックの伝統を再び転換する必要がある,ということなのでしょうか?

子供の躾け(しつけ)における家庭と学校の関係について,仮に学校側に責任があるとしても,それは七分の二ほどについて言えることであり,少なくとも七分の五については家庭に責任があると言えます.したがって,先週ここで示唆(しさ)した通り,もし両親が子女を信用できる良い学校に入学させ,学校に預けさえすればそれで自分たちの義務は果たしたと考えるなら,それは重大な過ちだということなのです.子供の躾けにおける第一の責任は常に家庭にあります.先週ご紹介したシスターは決して自分自身に責任のあることを子供の家庭に転嫁しようとしているのではありません.そうではなく,彼女の主(おも)な望みは,神の憐れみに次(つ)いで,善良な家庭だということなのです.

今日では道理をわきまえた人なら両親に同情しない人は誰もいません.例えば,父親は通勤,満足感の得られない仕事,カトリックの教えにもとるような職場のためにくたくたに疲れてしまいがちです.一方で,母親は,もし彼女とその夫がカトリック教に則(のっと)った結婚の掟に従っていれば神が授け得る子供たちを次々に持ち,もし外部の学校がどこも堕落しきっていれば家庭の中でその子供たちを躾け、もし堕落していない清廉な学校があれば子供たちをそこに通わせる費用を稼ぐため家の内外で働かなければならず,またもし専業主婦として家に留(とど)まっていれば今度は人々の軽蔑の的になったりして疲れきっています.このような最悪の状況のいずれの場合にも,神は私たちの誰に対しても不可能なことを果たすよう期待してはおられません.しかし神は私たちに対し自らの十字架を背負い出来ることを果たすようにとは期待しておられるのです.

父親たちよ,あなたは家族の長として男らしく - 暴君的でなく!- 振る舞っていますか?あなたは家族を金銭より優先していますか,それとも家族より金銭を重視していますか?あなたは娘たちに母親を愛するよう模範を示していますか?あなたは妻の話によく耳を傾けていますか?あなたは自分自身の満足のため妻に,娘たちに悪い模範を与えかねないような装い,振る舞いをすることを求めていませんか?娘たちは母親の言うことよりずっと多く母親の行うことを見倣(みなら)うものです.あなたは娘たちと過ごす時間を取っていますか?娘たちが強く必要とする父親としての賢明な配慮と保護を彼女たちに与えていますか?母親たちよ,あなたたちへの質問はただ一つだけです.あなたは娘たちに,父親を尊敬し従うよう模範を示していますか(たとえ父親が常にそうされるにふさわしくなくてもです.)それとも娘たちの前で父親がつまらない狭量な人物に見えるようしゃべり倒していませんか?あなたがた夫婦はともに司祭に敬意を払うよう娘たちに模範を示していますか?

父親,母親たちに最後の質問が一つあります.あなたたちは今までに第二バチカン公会議前後のカトリック教徒の両親が,子供たちの躾けをする時期にうっかり任務を怠って眠ってしまい,目覚めてみたら時すでに遅しで,今となってはカトリック信仰の外で生きて死んでゆく子供たちを見てただ涙を流すしかないと話すのを聞いたことがありますか?あなたたちの家庭からテレビを追放しなさい(=追っ払いなさい,捨ててしまいなさい)! 司祭仲間や修道女の皆さん,嫌われ者になることを恐れないようにしましょう!そして私たちはみな,私たち自身のために主なる神が第二バチカン公会議のやり直しを私たちにさせなければならなくなるほどカトリックの伝統が和気あいあいと居心地の良いだけの生温(なまぬる)いものに落ちぶれてしまわないよう用心しましょう!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教