エレイソン・コメンツ 第175回 (2010年11月20日)
現在ロンドンのテイト・モダン “Tate Modern” (近代(現代)美術館)で,もう一人の偉大な近代芸術家である - それともそう書くと言葉の矛盾になるでしょうか? - フランス人画家ポール・ゴーギャン “Paul Gauguin” (1848年生-1903年没)の展覧会が開かれています.人間はみな人生とは何かについてのビジョンを必要とするように人生についての絵を必要とします.今日では電子技術が大半の絵を提供してくれますが,ゴーギャンの時代には画家たちがまだ絶大な影響力を持っていました.
1848年,パリに生れたゴーギャンは,あちこち旅をし職業を転々とした後,23歳で株式仲買人になりました.その2年後にデンマーク人の女性と結婚し,10年間で5人の子供に恵まれました.この時期は彼にとって絵を画くことは画才を楽しむ単なる趣味に過ぎませんでした.しかし1884年にデンマークの首都コペンハーゲンで事業を始める試みが失敗に終わると翌年,彼はまだ若い家族を捨て専業芸術家になろうとパリに戻りました.
1888年,彼はヴァン・ゴッホ “Van Gogh” と共に絵を画くため9週間をアルル “Arles” で過ごしましたが,この試みは惨憺(さんたん)たる結果に終わりました.彼はパリに戻りましたが,生活に十分な稼ぎもなくまだ画家としても評価されていなかったので,1891年に熱帯地域へ向けて船出(ふなで)しました.それは「うわべだけで型にはまったものすべてから逃れるため」でした.彼は,一度だけパリに帰りしばらく滞在しましたが,それ以外は当時フランス領ポリネシアの植民地だった南太平洋のタヒチ島とマルキーズ諸島 “Tahiti and the Marquesas Islands” で余生を過ごしました.彼はそこで後に名声を得た絵の大半を生み出したのですが,依然としてカトリック教会や国家と戦い続けていました.彼が3か月の禁固刑を受けながら服役をまぬかれたのは,ひとえに1903年に死去したためでした.
ヴァン・ゴッホ同様,ゴーギャンも19世紀後期特有の重苦しい従来型の美術様式で絵を画き始めました.だが,ほぼ同時期のヴァン・ゴッホがそうであったように,ゴーギャンの絵の色彩(しきさい)はずっと明るくなり,様式も従来型からかなりはずれていきました.事実,ゴーギャンは美術における原始主義運動 “the Primitivist movement in art” の創始者であり,彼の死後まもなく,才気あふれながらも反体制精神旺盛(おうせい)だったピカソ “Picasso” にかなり大きな影響を与えました.原始主義は,欧州文明がまるで燃え尽きてしまったかのように思われたため原始的な根源に回帰しようとしたことを意味しました.芸術家たちがアフリカやアジアに目を向けたのはそのためです.顕著(けんちょ)な例がピカソの描いた「アヴィニョンの娘たち」 “Les Demoiselles d’Avignon” です.同じ流れの中で,ゴーギャンは1891年にポリネシアに向け飛び立ち,そこでカトリック宣教師たちが島々へ侵入してきたことを苦々(にがにが)しく感じ,カトリック布教以前の現地の神話に出てくる多神教の神々について学び,それを自分の絵に取り入れました.その中には疑似(ぎじ)悪魔的な人物像が何点か含まれています.
ゴーギャンがタヒチで描いた絵はどれも疑いなく彼の最高傑作ですが,はたしてその作品のビジョンは自らが突っぱね,捨て去った退廃(たいはい)的な西洋文明社会の諸問題に対する実行可能な解決策となっているでしょうか?そうとも思えません.テート・モダンの展覧会で展示中の絵はいずれも原画で色彩豊かですが,描かれたタヒチの人々は,ほとんどが若い女性で,どことなく無気力でさえない印象です.ゴーギャンにとってタヒチは逃避先とはなり得ても希望の地ではありません.退廃的な西洋社会についての彼の見方は正しかったかもしれませんが,彼がポリネシア芸術の中で描き出した地上の楽園は彼に安らぎを与えることはありませんでした.そして,彼は反逆精神を抱いたまま死にました.そこには彼がまだ解決していない問題がいくつか残されているのです.
興味深いのは,著名な20世紀の英国人作家サマセット・モーム “Somerset Maugham” が書いたゴーギャンの人生のフィクション版です.来週の「エレイソン・コメンツ」をご覧下さい.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2010年11月21日日曜日
2010年4月19日月曜日
近代芸術
エレイソン・コメンツ 第144回 (2010年4月17日)
なぜ近代芸術は醜いのでしょうか?近代芸術とは醜いものでなくてはならないのでしょうか?今日の芸術家たちは気分転換に何かより良いものを創りだせないものでしょうか?そしてなぜ,いざ彼らが何かより良いものを創りだしたときに,その作品は大抵が芸術としては二流か三流で,感傷的で,なんとも本物でないのでしょうか?こうした疑問は,先週考察した,近代美術への途上にあったヴァン・ゴッホのような画家たちによって繰り返し提起されているものです.これらの疑問に答えることは,もし神と人間の魂が本当に存在するなら簡単にできることです.もし霊的な神と霊的な魂が自己を欺いている人間の作ったフィクション(作り話)であれば合理的な答えは存在し得ません.
もし神が目で見ることはできなくても実在される「全能の神たる父であり,すべての目に見えるもの,目に見えないものの創造主」であるとすれば,神は,あらゆる人間の存在(=生命.訳注後記 1.)を構成するため,目に見える人間の肉体に最も密接に結合した目に見えない人間の魂を,人類創造の起源の当初から創造されたのです.人間は創造された時からこれまでずっとこの構成にしたがって生まれてきておりあるいは今後もずっとそのようであり続ける存在なのです.神が精神的な理性すなわち自由意思を備えた人間を創造された趣旨は,神御自身が所有される付帯的・外因的(内因性ではない=神に内在するものではない)栄光のためです(訳注後記 2.).その栄光は,個々の人間が現世においてその自由意思を神を愛し神に仕えるために使うならば,来世で限りなく神に栄光を帰すことで想像を絶するほどに幸福になるにふさわしい者となり得るほどに,その人間一人ひとり個別に増していくものなのです.
では,人は人生においてどのようにして神を愛し神に仕えるのでしょうか?それは,神のおきてに従うことによってです(新約聖書・聖ヨハネ福音書・第15章10節参照.… “私(キリスト)が父のおきてを守り,その愛にとどまったように,私のおきてを守るなら,あなたたちは私の愛にとどまるだろう”).この神のおきては,すべての人間の行為の善悪にかかわる道徳上の枠組み,逆らうことはできても逃げることのできない枠組みを成すものです.もし人類がこの枠組みに逆らうならば,彼らは多かれ少なかれ,神,自分自身また隣人と不調和な関係に陥ります.なぜなら,神はこの枠組みを恣意的に創造されたのではなく,神御自身の性質と神に結ばれている範囲内で行動するように定められた人間の性質とが完全に調和するように創造されたからです.
現在,芸術は最も広い意味で,いろいろな素材(例えば,絵具,言葉,音符等々)のあらゆる形の調合と定義されており,それはすなわち,人が他人に対しその心にあるものを伝達するためにとる特別の労ということです.したがって,もしその心が,いかなる瞬間にも人のあらゆる行為について神がお定めになった道徳的枠組みと程度の差はあれ調和している状態になければならない魂に属しているなら,そのような魂から生まれたどんな芸術作品も,その内にある客観的な調和または不調和な状態を反映するはずです.ここで私たちは最初の疑問に答えることができます.
近代芸術がどれを見ても醜いのは,あらゆる近代の魂が日々深く背教に陥っていくばかりの国際社会に属しているからで,多大かつ影響力のあるこれらの魂は故意にせよ無意識にせよ神と敵対状態にあるからです.このような環境に浸された魂を持つ芸術家たちが作った作品はただ,神,自分自身また隣人と彼らとの間における内的な不調和を反映させ得るのみです.彼らの芸術作品が醜いのはそのためです.彼らの魂にまだ本物の調和がいくらかでも残っていれば,本物の美しい芸術作品が生まれ得ます.故意に「よく見えるようにした」芸術作品は調和を装った不調和な願望から生まれます.その効果はいつもどこかしら欺瞞(ぎまん)的あるいは感傷的であり,本物ではなく芸術としては二流か三流なのです.
一方で,もし神と神から生まれて神に帰依するはずの不滅の魂がともに,単なる作り話にすぎないとするならば,そのときにはなぜ美が醜くくてはならず,醜さが美しくてはならないのかについての理由は何もないということになります.それが近代芸術家の物の見方ですが,私が彼らの醜い芸術作品のどれかを醜いと認識すればその瞬間から,私は彼らが自分たち自身のものではないある他の枠組みに反抗しているのだということを暗にほのめかしているということになるのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(第2パラグラフの訳注)
1. 「あらゆる人間の存在(=生命)」…“every human being”について.
・“every human being”…人類創造当時(初めの人アダムの時)から現在までに世界で生まれた全人類を指す.
・神の名(旧約聖書・脱出の書第3章14節)は「在(いま)すもの」=「ヤベ(「主」.「彼は存在する」という意味.)」= “I am being itself.” (私は“存在”そのものである.) これはヘブライ語動詞の異例の読み方で,過去,現在,未来も含めた言い方である.すなわち,「彼はいた,いる,いるだろう」を含む.(バルバロ神父訳・旧約聖書・解説参照)
「〈おまえたちの先祖の神なる主,アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神…〉…これは,永遠なる私(神)の名である.この名をもって,代々にわたって,人々は私にこいねがうであろう.」(同15節)
・神は「無」(何も存在しないところ)から「存在」を創造することができる.この「存在」には,「目に見えるもの」と「目に見えないもの」がある.「人間の生命=人間という存在」“human being”の場合は,「目に見える肉体」という存在と「目に見えない魂」という存在を神が創造され,両者が不可分密接に結合したものという構成をとっているのが「一人の人間」,ということを意味する.
2. 「神御自身が所有される付帯的・外部的(内因性ではない=神に内在するものではない)栄光」“his own extrinsic (not intrinsic) glory” と人間の「自由意思」“free-will” について.
・「神御自身の栄光」とは別に,人間は,神から「目に見えない霊的な魂(=「自由意思」=分別をわきまえ自分で判断し自分で取捨選択することができる能力)」(=「神御自身が所有される付帯的・外因的(内因性ではない=神に内在するものではない)栄光」)を肉体とともに与えられている.したがって,個々の人間は神や他者から強制されてではなく,自分自身の「自由意思」によって,神を愛し神に仕える(すなわち神のおきてを守る)ことを選び取ることができ,そうして神に栄光を帰すことができる.そうすることで,その「神に付帯する外因的な栄光」(=神が人間各人に備えられた栄光)は人間一人ひとり個別に増していき,それぞれ来世で永遠に神に栄光を帰し想像を絶するほどに幸福になるのにふさわしい者となっていくことができる.こうして各人ごとに天国に入っていく,ということを意味している.)
なぜ近代芸術は醜いのでしょうか?近代芸術とは醜いものでなくてはならないのでしょうか?今日の芸術家たちは気分転換に何かより良いものを創りだせないものでしょうか?そしてなぜ,いざ彼らが何かより良いものを創りだしたときに,その作品は大抵が芸術としては二流か三流で,感傷的で,なんとも本物でないのでしょうか?こうした疑問は,先週考察した,近代美術への途上にあったヴァン・ゴッホのような画家たちによって繰り返し提起されているものです.これらの疑問に答えることは,もし神と人間の魂が本当に存在するなら簡単にできることです.もし霊的な神と霊的な魂が自己を欺いている人間の作ったフィクション(作り話)であれば合理的な答えは存在し得ません.
もし神が目で見ることはできなくても実在される「全能の神たる父であり,すべての目に見えるもの,目に見えないものの創造主」であるとすれば,神は,あらゆる人間の存在(=生命.訳注後記 1.)を構成するため,目に見える人間の肉体に最も密接に結合した目に見えない人間の魂を,人類創造の起源の当初から創造されたのです.人間は創造された時からこれまでずっとこの構成にしたがって生まれてきておりあるいは今後もずっとそのようであり続ける存在なのです.神が精神的な理性すなわち自由意思を備えた人間を創造された趣旨は,神御自身が所有される付帯的・外因的(内因性ではない=神に内在するものではない)栄光のためです(訳注後記 2.).その栄光は,個々の人間が現世においてその自由意思を神を愛し神に仕えるために使うならば,来世で限りなく神に栄光を帰すことで想像を絶するほどに幸福になるにふさわしい者となり得るほどに,その人間一人ひとり個別に増していくものなのです.
では,人は人生においてどのようにして神を愛し神に仕えるのでしょうか?それは,神のおきてに従うことによってです(新約聖書・聖ヨハネ福音書・第15章10節参照.… “私(キリスト)が父のおきてを守り,その愛にとどまったように,私のおきてを守るなら,あなたたちは私の愛にとどまるだろう”).この神のおきては,すべての人間の行為の善悪にかかわる道徳上の枠組み,逆らうことはできても逃げることのできない枠組みを成すものです.もし人類がこの枠組みに逆らうならば,彼らは多かれ少なかれ,神,自分自身また隣人と不調和な関係に陥ります.なぜなら,神はこの枠組みを恣意的に創造されたのではなく,神御自身の性質と神に結ばれている範囲内で行動するように定められた人間の性質とが完全に調和するように創造されたからです.
現在,芸術は最も広い意味で,いろいろな素材(例えば,絵具,言葉,音符等々)のあらゆる形の調合と定義されており,それはすなわち,人が他人に対しその心にあるものを伝達するためにとる特別の労ということです.したがって,もしその心が,いかなる瞬間にも人のあらゆる行為について神がお定めになった道徳的枠組みと程度の差はあれ調和している状態になければならない魂に属しているなら,そのような魂から生まれたどんな芸術作品も,その内にある客観的な調和または不調和な状態を反映するはずです.ここで私たちは最初の疑問に答えることができます.
近代芸術がどれを見ても醜いのは,あらゆる近代の魂が日々深く背教に陥っていくばかりの国際社会に属しているからで,多大かつ影響力のあるこれらの魂は故意にせよ無意識にせよ神と敵対状態にあるからです.このような環境に浸された魂を持つ芸術家たちが作った作品はただ,神,自分自身また隣人と彼らとの間における内的な不調和を反映させ得るのみです.彼らの芸術作品が醜いのはそのためです.彼らの魂にまだ本物の調和がいくらかでも残っていれば,本物の美しい芸術作品が生まれ得ます.故意に「よく見えるようにした」芸術作品は調和を装った不調和な願望から生まれます.その効果はいつもどこかしら欺瞞(ぎまん)的あるいは感傷的であり,本物ではなく芸術としては二流か三流なのです.
一方で,もし神と神から生まれて神に帰依するはずの不滅の魂がともに,単なる作り話にすぎないとするならば,そのときにはなぜ美が醜くくてはならず,醜さが美しくてはならないのかについての理由は何もないということになります.それが近代芸術家の物の見方ですが,私が彼らの醜い芸術作品のどれかを醜いと認識すればその瞬間から,私は彼らが自分たち自身のものではないある他の枠組みに反抗しているのだということを暗にほのめかしているということになるのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(第2パラグラフの訳注)
1. 「あらゆる人間の存在(=生命)」…“every human being”について.
・“every human being”…人類創造当時(初めの人アダムの時)から現在までに世界で生まれた全人類を指す.
・神の名(旧約聖書・脱出の書第3章14節)は「在(いま)すもの」=「ヤベ(「主」.「彼は存在する」という意味.)」= “I am being itself.” (私は“存在”そのものである.) これはヘブライ語動詞の異例の読み方で,過去,現在,未来も含めた言い方である.すなわち,「彼はいた,いる,いるだろう」を含む.(バルバロ神父訳・旧約聖書・解説参照)
「〈おまえたちの先祖の神なる主,アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神…〉…これは,永遠なる私(神)の名である.この名をもって,代々にわたって,人々は私にこいねがうであろう.」(同15節)
・神は「無」(何も存在しないところ)から「存在」を創造することができる.この「存在」には,「目に見えるもの」と「目に見えないもの」がある.「人間の生命=人間という存在」“human being”の場合は,「目に見える肉体」という存在と「目に見えない魂」という存在を神が創造され,両者が不可分密接に結合したものという構成をとっているのが「一人の人間」,ということを意味する.
2. 「神御自身が所有される付帯的・外部的(内因性ではない=神に内在するものではない)栄光」“his own extrinsic (not intrinsic) glory” と人間の「自由意思」“free-will” について.
・「神御自身の栄光」とは別に,人間は,神から「目に見えない霊的な魂(=「自由意思」=分別をわきまえ自分で判断し自分で取捨選択することができる能力)」(=「神御自身が所有される付帯的・外因的(内因性ではない=神に内在するものではない)栄光」)を肉体とともに与えられている.したがって,個々の人間は神や他者から強制されてではなく,自分自身の「自由意思」によって,神を愛し神に仕える(すなわち神のおきてを守る)ことを選び取ることができ,そうして神に栄光を帰すことができる.そうすることで,その「神に付帯する外因的な栄光」(=神が人間各人に備えられた栄光)は人間一人ひとり個別に増していき,それぞれ来世で永遠に神に栄光を帰し想像を絶するほどに幸福になるのにふさわしい者となっていくことができる.こうして各人ごとに天国に入っていく,ということを意味している.)
2010年4月12日月曜日
ヴァン・ゴッホの人気
エレイソン・コメンツ 第143回 (2010年4月10日)
ロンドンの(英国)王立美術院ロイヤル・アカデミー( “Royal Academy of Arts in London” )でまもなく終わるオランダの近代画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ展(訳注: “Vincent van Gogh” - 英語読み.1853-90.後期印象派. )では,連日何時間も入場待ちをしている鑑賞客の列が途絶えません.この人気はどう説明すればよいのでしょうか?確かにヴァン・ゴッホは近代的すぎない近代派であり,この組み合わせが,自分を取り巻く狂った世界をなんとか理解したいと願っている今日の多くの人々の魂に訴えるのでしょう.だが,間違いなく彼にはまたそれ以上の魅力的な組み合わせ - すなわち彼が宗教を持たずして信心を持っているということ - が内在しています.つまり彼は背教者の信心を持っているのです!
彼は1853年オランダでプロテスタント教会の牧師の長男として生まれました.彼が短い生涯の四分の三近くのあいだ考え続けたことは宗教の道に献身することでした.というのも,彼が自身のうちに際立った美術の才能とそれを天職とし得る適性を見出(みいだ)したのはようやく27歳になったときだったからです.しかしその後,彼は宗教的な熱心さをもって描画・絵画力の熟達に一心に励みました.彼が願って目指したことは,外見上の宗教の形式によっては表現し得ないと自ら悟ったものを芸術で表現する能力を身につけることでした.「私にはあらゆる自然の中に,たとえば木々の中に,表現と魂が見える」と,彼は言いました.
ヴァン・ゴッホは王立美術院ロイヤル・アカデミーが展覧会のパンフレットに用いた作品「サン・レミの病院」“ Hospital at St. Remy ” で、その魂をほぼ完璧に具現しています.節くれだった木々の幹が,その向こう側下方に描かれる明るい黄色の病院の建物の上を群がる暗い群葉に向かって伸び,その上の紺青色(こんじょういろ)の空と絡(から)み合っています.わずかな人影は渦巻く自然の力強さの中で取るに足らないちっぽけな存在に見え,ゴッホの典型的な手法であるその鮮明な配色も相まってこの絵画はいっそう劇的に仕上がっています.同じ力強さは,彼の有名な絵画「星月夜(ほしづきよ)」“Starry Night”(今回の展覧会には展示されていません)ではさらにはっきりと見て取ることができます.風景,糸杉の木々,山々,数々の星と空とがすべて一体となって,野性的かつ律動的な黄色とスミレ色の舞踊の中に固定され,あたかも全宇宙の渦の旋回を構成しているかのようです.
この二作品はいずれもヴァン・ゴッホが集中的に創作活動をした晩年の五年間,すなわち1886年初期のパリ移住と1890年夏の彼のフランスでの死の間に描かれたものです.近代美術やヴァン・ゴッホを好まない人もいるでしょう.だが,この時期の彼の作品が,ワーズワース(訳注: “William Wordsworth” - 英国詩人の名.)のいう私たち人類を取りまく自然界に「はるかに深く染み込んだ何か」に対する極めて個人的かつ人間的な反応を描写していることを否定できる人は誰もいないでしょう.ほかの何を「芸術」というべきでしょうか?19世紀初頭,その「染み込んだ何か」がこの英国詩人に「静かな物思い」に耽(ふけ)らせるひらめきを与えました.それとは逆に,同じ背教の世紀の末期にこのオランダ人の芸術家は,あからさまな宗教を棄(す)て去り,その結果,美を見出したものの心の平和をほとんど見出すことなく終わりました.そのことが当時よりさらに不穏な私たち自身の時代において人々の心になおいっそうの共感を呼び起しています.こういったものだけが「芸術」なのでしょう.
悲しいかな,ヴァン・ゴッホは自然界の原動力を,その原動力の源であられる神と同一のものと見なさない認識をしたために重い代価を支払いました.微動だにしない原動力の源であられる神を欠いた動力,平和の王(訳注:神の御子キリストのこと)を欠いた荒々しい活力は,彼を圧倒し打ちのめす形で終わりました.彼は自傷行為による銃創がもとで死にました.神なる主よ,あなたの存在を感じあなたを必要としながらもあなたを見出すことができない,あるいは見出そうとしない何百万にもおよぶおびただしい数の霊魂を憐れみたまえ,憐れみたまえ.あなたを欠いた,宗教心のない信心がいかに危険なものであるか,ただあなただけがご存じなのですから!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
ロンドンの(英国)王立美術院ロイヤル・アカデミー( “Royal Academy of Arts in London” )でまもなく終わるオランダの近代画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ展(訳注: “Vincent van Gogh” - 英語読み.1853-90.後期印象派. )では,連日何時間も入場待ちをしている鑑賞客の列が途絶えません.この人気はどう説明すればよいのでしょうか?確かにヴァン・ゴッホは近代的すぎない近代派であり,この組み合わせが,自分を取り巻く狂った世界をなんとか理解したいと願っている今日の多くの人々の魂に訴えるのでしょう.だが,間違いなく彼にはまたそれ以上の魅力的な組み合わせ - すなわち彼が宗教を持たずして信心を持っているということ - が内在しています.つまり彼は背教者の信心を持っているのです!
彼は1853年オランダでプロテスタント教会の牧師の長男として生まれました.彼が短い生涯の四分の三近くのあいだ考え続けたことは宗教の道に献身することでした.というのも,彼が自身のうちに際立った美術の才能とそれを天職とし得る適性を見出(みいだ)したのはようやく27歳になったときだったからです.しかしその後,彼は宗教的な熱心さをもって描画・絵画力の熟達に一心に励みました.彼が願って目指したことは,外見上の宗教の形式によっては表現し得ないと自ら悟ったものを芸術で表現する能力を身につけることでした.「私にはあらゆる自然の中に,たとえば木々の中に,表現と魂が見える」と,彼は言いました.
ヴァン・ゴッホは王立美術院ロイヤル・アカデミーが展覧会のパンフレットに用いた作品「サン・レミの病院」“ Hospital at St. Remy ” で、その魂をほぼ完璧に具現しています.節くれだった木々の幹が,その向こう側下方に描かれる明るい黄色の病院の建物の上を群がる暗い群葉に向かって伸び,その上の紺青色(こんじょういろ)の空と絡(から)み合っています.わずかな人影は渦巻く自然の力強さの中で取るに足らないちっぽけな存在に見え,ゴッホの典型的な手法であるその鮮明な配色も相まってこの絵画はいっそう劇的に仕上がっています.同じ力強さは,彼の有名な絵画「星月夜(ほしづきよ)」“Starry Night”(今回の展覧会には展示されていません)ではさらにはっきりと見て取ることができます.風景,糸杉の木々,山々,数々の星と空とがすべて一体となって,野性的かつ律動的な黄色とスミレ色の舞踊の中に固定され,あたかも全宇宙の渦の旋回を構成しているかのようです.
この二作品はいずれもヴァン・ゴッホが集中的に創作活動をした晩年の五年間,すなわち1886年初期のパリ移住と1890年夏の彼のフランスでの死の間に描かれたものです.近代美術やヴァン・ゴッホを好まない人もいるでしょう.だが,この時期の彼の作品が,ワーズワース(訳注: “William Wordsworth” - 英国詩人の名.)のいう私たち人類を取りまく自然界に「はるかに深く染み込んだ何か」に対する極めて個人的かつ人間的な反応を描写していることを否定できる人は誰もいないでしょう.ほかの何を「芸術」というべきでしょうか?19世紀初頭,その「染み込んだ何か」がこの英国詩人に「静かな物思い」に耽(ふけ)らせるひらめきを与えました.それとは逆に,同じ背教の世紀の末期にこのオランダ人の芸術家は,あからさまな宗教を棄(す)て去り,その結果,美を見出したものの心の平和をほとんど見出すことなく終わりました.そのことが当時よりさらに不穏な私たち自身の時代において人々の心になおいっそうの共感を呼び起しています.こういったものだけが「芸術」なのでしょう.
悲しいかな,ヴァン・ゴッホは自然界の原動力を,その原動力の源であられる神と同一のものと見なさない認識をしたために重い代価を支払いました.微動だにしない原動力の源であられる神を欠いた動力,平和の王(訳注:神の御子キリストのこと)を欠いた荒々しい活力は,彼を圧倒し打ちのめす形で終わりました.彼は自傷行為による銃創がもとで死にました.神なる主よ,あなたの存在を感じあなたを必要としながらもあなたを見出すことができない,あるいは見出そうとしない何百万にもおよぶおびただしい数の霊魂を憐れみたまえ,憐れみたまえ.あなたを欠いた,宗教心のない信心がいかに危険なものであるか,ただあなただけがご存じなのですから!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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