エレイソン・コメンツ 第229回 (2011年12月3日)
リベラリズム “liberalism” (=自由主義)は恐ろしい病で,何億もの霊魂を地獄に落とします.それは人の精神を客観的な真実から,心(意思や情愛)を客観的な善から「解放し」ます.そこでは主観が君臨します.リベラルな考えでは,神の場にいるのは人間であり,その人間は自分が決めただけ神に重きを置きます.(訳注後記)そして,その度合いはあまり大きくないのが普通です.言ってみれば,全能の神は忠実な子犬のように鎖(くさり)に繋(つな)がれた状態です! 事実,リベラル主義者(=リベラリスト)の「神」は真の神のまがい物です.だが,「神は似せて作るものにあらず」(ガラテア人への手紙6章7節)(訳注後記)です.リベラル主義者は現世ではにせ(偽)の活動家,本物の専制君主,弱々しい(=女性的な)人間になることによって罰を受けます.
ルフェーブル大司教によると,にせ活動家の典型的な例はラテンアメリカに見られる革命的神父たちです.同大司教がよく言われたことですが,教会の近代化運動の影響でカトリック信仰を失った神父が最も恐ろしい革命家になります.というのも,彼らは人々の霊魂の救済のため真の活動 “true crusade” の持つあらゆる力を共産主義に向けてしまうからです.しかも彼らは真の活動のための訓練を受けてきたにもかかわらず,自らのやってきたこと(訳注・真の活動のこと)をもはや信じなくなっているのです.
真実の聖戦 “crusade” (訳注後記)は神,イエズス・キリスト,永遠の救いのためにあるものです.そして,そのような真の意味での聖戦をもはや信じられなくなると,人々の生活にはそれに見合うだけの大きな隙間(すきま)が生じます.そういった人々は他のありとあらゆるものに対する改革を進めることでその隙間を埋めようとします.例えば,タバコの禁止(だがマリファナやヘロインは自由),死刑の廃止(だが有能な右翼主義者の処刑は自由),圧制者〈=暴君〉には反対(だが「民主主義」をもたらすためならいかなる国を爆撃するのも自由),人間の神聖さを強調(だが母の胎内の赤ん坊〈=胎児〉を堕胎〈=人工妊娠中絶〉するのは自由)といった具合で,例を挙げればきりがありません.ここで特に挙げたこうした矛盾の数々は,キリスト教の世界秩序 “Christian world order” に代わるべき新世界秩序を全面的に推(お)し進めようとする “…crusade for a total new world order” リベラル主義者たちにとってはまったく辻(つじ)つまの合うことです.彼らはキリストと戦っていないように装(よそお)っていますが,その化けの皮は剥(は)がれかかっています.
理論的に言えばリベラル主義者たちはまた本物の専制君主にもなります.彼らは自身の上の存在である神,真理,法から自らを「解放」しているので,残るのは自分たちの心,意思の権威だけで,それを誰彼かまわず他の人たちに押し付けます.例えば,教皇パウロ6世です.彼はカトリック教の伝統が自分の権威を制限していることなど忘れてしまって自分の説く新しいミサ典礼の新秩序を1969年にカトリック教会に押しつけました.しかも,そのわずか2年前に相当な数の司教たちが似たようなミサ典礼の試みを拒んだにもかかわらずです.教皇パウロ6世は部下が自分のようにリベラル主義者でなければ,その意見を尊重したでしょうか? 部下たちは自分たちにとって何が良いことなのか分かりませんでした.だが同教皇は分かっていました.
再び理論的に言えば,リベラル主義者は弱々しく(女々しく=感傷的に)なります.なぜなら彼らは何事も個人的なことと受け止めざるを得ない(受け止めずにはいられない)からです.けれども彼らの権威主義に対するどの良識ある反対も彼らが軽蔑(けいべつ)する真理ないし法 “Truth or Law” すなわち全人類の上に君臨するカトリック真理,神の法(十戒)に基づいています.だからこそルフェーブル大司教は教皇パウロ6世の進めたリベラリズムに抵抗したのですが,教皇パウロ6世は単に同大司教が自分に取って代わって教皇になろうとしていると考えました.パウロ6世は自分の権威よりはるかに高い真の神の権威が存在していること,そしてルフェーブル大司教はそのより高い権威に冷静に心を寄せていたのだということを理解できなかったのです.はたして主なる神もいつかは間違いをするのではないかなどと心配する必要があるでしょうか? まったくありません.
イエズスの聖心(みこころ)よ,私たちがあなただけから生まれ得る良き指導者たちに恵まれますように.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第1パラグラフの訳注:
新約聖書・ガラテア人への手紙:第6章7節(1-10節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL TO THE GALATIANS, 6:7 (6:1-10)
愛の実践(6・1-10)
『兄弟たちよ,もしある人に過失があったら,*¹霊の人であるあなたたちは柔和な心をもってその人を改めさせよ.そして,自分も誘われぬよう気をつけよ.
互いに重荷を負え.そうすれば,あなたたちはキリストの法をまっとうできる.
何者でもないのに,何者であるかのように思うのは,自分を欺(あざ)むくことである.
おのおの自分の行いを調べよ.*²そうすれば,他人についてでなく,自分についてだけ誇る理由を見いだすだろう.おのおの自分の荷を負っているからである.
*³みことばを教えてもらう人は,教えてくれる人に自分の持ち物を分け与えよ.
自分を欺むいてはならない.神を侮(あなど)ってはならない.人はまくものを収穫するからである.すなわち自分の肉にまく人は肉から腐敗を刈り取り,霊にまく人は霊から永遠の命を刈り取る.
善を行ない続けて倦(う)んではならない.たゆまず続けているなら,時が来て刈り取れる.
だから,まだ時のある間に,すべての人に,特に信仰における兄弟である人々に善を行え.
(注釈)
*¹ 〈新約〉コリント人への手紙(第1)3・1以下参照.
→(第3章1-23節を後から追加します)
*² 他人の欠点と自分の行いを比べて,誇りたくなる時がある.しかし非難するのは,自分のことだけでなければならない.
パウロの言葉は皮肉であって,真実に自分をかえりみる人は,自分を誇る理由を見つけるはずがない.
*³ 信徒は宣教師の生活を保証せねばならない.
* * *
第3パラグラフの訳注:
真実の聖戦 “The true crusade” について.
(説明)
・救世主たる神の御子イエズス・キリストの教えを地上の人間社会に宣教し,人々を永遠の救霊に導き入れるための戦い.「改革(運動)」はこの意味で,悪に傾きがちな人間に「真理において善に従う人生を送ることが真の生命へと生き延びることだ」と教えることである.
・霊である神はキリストにおいて人間となられ,十字架上の死から復活されたことにより悪(=肉欲・原罪)の力を征服された.したがって神・カトリック真理(救世主たる神の御子キリストへの信仰)・神の法の勝利は決定的であり,それを否定する悪(リベラリズムすなわち利己主義)は滅亡の一途をたどる一方に終わる.
・したがって真実の聖戦とは,厳密には,肉眼で見える世界での人間や人間社会との戦いというより,目に見えない霊的な世界での悪の霊との戦いを指している.
・現世は悪の霊の支配下にあり,悪は「肉欲・我欲」によって人間を堕落させ,その霊魂を永遠の滅びに落とそうとしている.
・「肉欲・我欲」は人間に,人間の五感(視覚,聴覚,触覚,味覚,嗅覚)に触れるあらゆる良いものについて,その創造主たる神に感謝することをさせず,かえってあらゆる良いものによって自らを傲慢(ごうまん)に誇ったり,他者を妬(ねた)んだり貶(おとし)めたりさせる.
・現世は果敢無(はかな)く有限であるが,来世は永遠であり,しかも来世での永福は現世でいかに「我欲を抑(おさ)え・他者を助ける犠牲的精神・他者の幸福を願う善意」などを心がけて過ごしたかにかかっている.
・以上の観点から,「リベラリズム」とは「自由に我欲を追求して生きることを〈人権〉と呼んで正当化し,そのためとあらば平然と他者を否定したりふみつけにすることも許される」ということを意味し,それに基づき現世の人間社会で起こされている様々な不和な現象から,「リベラリズム」がいかに人の霊魂・人の真の幸福を損なわせる危険なものであるかを観察することができる.
(続きを追加いたします)
* * *
2011年12月14日水曜日
2011年1月30日日曜日
伝統派の感染
エレイソン・コメンツ 第185回 (2011年1月29日)
リベラリズム( “liberalism” 自由主義)は信じ難い病気です.それは最良の心と精神をぼろぼろに腐らせて駄目にします.もしリベラリズムを最も簡潔に,人を神から解放することだと定義するなら,それは山と同じくらい古いからあることです.(訳注・「山」の原語 “hills.” イングランド地方の山は低く,たいてい “hills”(丘・丘陵)と呼ばれる.)だが,そのことが今日ほど深くさらに広くまん延し,一見正常であるように思われたことはかつてありませんでした.現在では信教の自由がリベラリズムの核心です - もし私が神から自由でなければ,たとえその他のすべての事や人から自由であったとしても何の役に立つでしょうか?だから,教皇ベネディクト16世が三週間前「信教の自由が世界中で脅(おびや)かされている」と嘆いたとすれば,教皇は確かにリベラリズムという病に感染しています.それどころか,伝統的なカトリック教を信奉する信徒たちでも,自分はこの病気に対して免疫があるなどと自信を持たないでほしいと思います.ここにご紹介するのは,欧州大陸のある平信徒から数日前に私が受け取った電子メールです:--
「ずいぶん長い間,およそ20年ほど,私はリベラリズムの型にはめられていました.私が聖ピオ十世会へと転籍したのは神の恩寵によるものです.私は,カトリック伝統派の中にさえリベラルな振る舞いをする人がいるのを見てショックを受けました.人々は相変わらず,世の中の情勢がひどいことをあまり誇張すべきではないと言い合っています.フリーメーソンの組織がカトリック教会の敵であると人が話すことはほとんどありません.なぜならそれをすれば個人的利益を損なう恐れがあるので,人々はあたかも全体的に見れば世の中はうまくいっているかのように対処し続けています.
伝統派カトリック教徒たちの中には伝統派カトリックであることから来るストレスに対処するため向精神薬の服用を勧める者たちもいます.そして彼らは,幸福を求めるあなたに,医者へ行ってもう少し気楽な生き方をすべきだ,と言います.
このような振る舞いがたどり着くところは,リベラリズムの温床である宗教無差別主義(訳注・原語 “an indifferentism.” =宗教的無関心主義.宗教間の教義などの違いはとるに足らないことだという考え.)です.そうなると,ある日突然なんの前触れもなしに,ノブス・オルド・ミサ(訳注・ “the Novus Ordo Mass” =新しい典礼によるミサ聖祭)に参列する(与る)こと,モダニスト( “modernists” =近現代主義者)たちと共通の理念を持つこと,自分の信念を日毎(ひごと)に変えること,国立大学で学ぶこと,国を当てにすること,そして人は誰でもみな結局のところ善意の持ち主だとの前提で行動することは、どれも大して悪い事ではないことになります。
私たちの主イエズス・キリストは,この種の宗教無差別主義を手厳しい言葉で叱責されます.生ぬるさについては「彼の口から吐き出し始める」(黙示録:第3章16節)でしょう(訳注後記).逆説的に聞えるかもしれませんが,カトリック教会の最たる敵たちはリベラルなカトリック教徒たちなのです.なんとリベラル伝統主義なるものさえあるほどです!!!」(この信徒からの引用の終り)
では私たちの一人ひとりを脅かすこの毒に効く解毒剤とは何でしょうか?それは疑いなく神の恩寵です(ローマ・第7章25節)(訳注後記).それは精神の混乱を晴らし,精神が正しいと考えることを為そうとする意思を強固なものとすることができるのです.では私は神の恩寵を受けることをどうやって確かなものにするのでしょうか?それは,どうやって最後まで堅忍することを私が保証できますか?と問うのにいくぶん似ています.カトリック教会の教えによれば,人には神の恩寵を保証することなどできません.なぜなら,それは神からの贈り物 - すなわち最高に素晴らしい神の賜(たまもの) - だからです.だが私に常にできることは聖なるロザリオの祈りを捧げること,すなわち毎日平均して五つの玄義 - 無理をせずにできるなら十五すべての玄義 - を唱えることです.ロザリオの祈りを毎日唱える人は誰でも,神の御母(聖母)が私たちすべてに果たすようお求めになっていることを果たしていることになります.そして聖母は私たちの主また神であられる御子イエズス・キリストに事実上無限の力を持っておられるのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
- 第5パラグラフの引用聖書の訳注:
新約聖書・ヨハネの黙示録:第3章16節(太字の部分)
『*¹ラオディキアの*教会の天使に書け,〈*²アメンである者,忠実な真実な証人、天主(=神)の創造の本源であるお方(=キリスト)は,こういわれる.私はあなたの行いを知っている.
あなたは冷たくもなく,熱くもないが,私はむしろあなたが冷たいかそれとも熱くあることを望む.
だがあなたは熱くもなく冷たくもなく,なまぬるいから,私はあなたを口から吐き出す.
自分は金持だ,豊かになった,足りないものがないとあなたは言って,*³自分が不幸な者,哀れな者,貧しい者,盲人,裸の者であることを知らぬ.
私はあなたに,精練された金を私から買って富め,白い服を買ってまとい裸の恥を見せるな,目に*⁴目薬をぬって見えるようになれと勧める.
私は,*⁵愛するすべての者を責めて罰するから,あなたも熱心に悔い改めよ.
私は門の外に立ってたたいている.私の声を聞いて戸を開くなら,*⁶私はその人のところに入って彼とともに食事し,彼も私とともに食事するであろう.
勝つ者は私とともに王座に座らせよう.私が勝って父とともにその王座に座ったのと同様に.
耳ある者は霊が諸教会にいわれることを開け〉』
(バルバロ神父による注釈)
*¹フィラデルフィアの南東65キロにある.
*²「キリストは真理である」の意味.→〈旧約〉イザヤ65・16,格言の書8.22,知恵の書9・1,〈新約〉ヨハネ福音1・3,コロサイ書簡1・16.
*³商都として栄えていたラオディキアは,精神的に貧しいものである.
*⁴ラオディキアの目薬は有名だった.
*⁵〈旧約〉格言3・12参照 →「(わが子よ,神のこらしめをあなどらず,神のこらしめを受けて,悪意を抱くな.)なぜなら,神は愛するものをこらしめ,いちばん愛する子を苦しめたもうからである.(バルバロ神父による注釈:神は善人をこらしめるが,それは,欠点をなおすためである.苦しみこそは最良の教師である.)
*⁶(後で追加します)
***
- 第6(最後の)パラグラフはじめの引用聖書の訳注:
新約聖書・聖パウロによるローマ人への手紙・第7章25節(太字の部分)
『私たちは律法が霊的なものであることを知っている.
しかし私は肉体の人であって罪の下に売られたものである.*¹私は自分のしていることが分からない.私は自分の望むことをせず,むしろ自分の憎むことをするからである.私が自分の望まぬことをするとすれば,律法に同意して,律法が善いものであることを認めることになる.それなら,*²こうするのは私ではなく私の内に住む罪である.
また,*³私の肉に,善が住んでいないことも知っている.善を望むことは私の内にあるが,それを行うことは私の内にないからである.私は自分の望む善をせず,むしろ望まぬ悪をしているのだから.もし望まぬことをするなら,それをするのは私ではなく,私の内に住む罪である.
そこで,善をしたいとき悪が私のそばにいるという,*⁴法則を私は見つけた.*⁵内の人に従えば私は天主の法を喜ぶが,私の肢体に他の法則があってそれが理性の法則に対して戦い,肢体にある罪の法の下に私を縛りつける.
私はなんと不幸な人間であろう.この死の体から私を解き放つのはだれだろう.
主イエズス・キリストによって天主に感謝せよ.
こうして私は理性によって天主の法に仕え,肉によって罪の法に仕える.』
(→English version: “…Unhappy man that I am, who shall deliver me from the body of this death? The grace of God, by Jesus Christ our Lord. Therefore, I myself, with the mind serve the law of God: but with the flesh, the law of sin.)
(バルバロ神父による注釈)
罪に対して律法は無力である.
*¹キリスト教前の哲学者がすでに言っているとおり,判断と行為,論理と実際との間の矛盾.
*²悪に対する人間の責任を否定するわけではなく,欲望の強さを認める.
*³「私」とは新約の下にはなく,モーゼの律法の下にある人間.
*⁴法律あるいはモーゼの律法などの意味ではなく,一つの状態である.これは後節に出てくる「罪の法」のこと.
*⁵「内の人」は人間の理性的な高尚なものを指す.外の人(新約聖書・コリント人への第二の手紙:4・16)に相対する. → 『したがって,私たちは落胆しない.私たちの外の人は衰えても,内の人は日々に新たになっている.』
(「外の人」とは,はかない体のこと〈バルバロ神父による注釈〉).
***
- 第6パラグラフの「神の恩寵」についての訳注:
原語 “Sanctifying grace.”
上述の「ローマ人への手紙・第7章25節」主イエズス・キリストによって天主に感謝せよ.The grace of God, by Jesus Christ our Lord. による意味. → 人間を罪の汚れ=死の体=から清め聖別し,霊的な永遠の生命に生かすことができる「神の恩寵」という意味.
リベラリズム( “liberalism” 自由主義)は信じ難い病気です.それは最良の心と精神をぼろぼろに腐らせて駄目にします.もしリベラリズムを最も簡潔に,人を神から解放することだと定義するなら,それは山と同じくらい古いからあることです.(訳注・「山」の原語 “hills.” イングランド地方の山は低く,たいてい “hills”(丘・丘陵)と呼ばれる.)だが,そのことが今日ほど深くさらに広くまん延し,一見正常であるように思われたことはかつてありませんでした.現在では信教の自由がリベラリズムの核心です - もし私が神から自由でなければ,たとえその他のすべての事や人から自由であったとしても何の役に立つでしょうか?だから,教皇ベネディクト16世が三週間前「信教の自由が世界中で脅(おびや)かされている」と嘆いたとすれば,教皇は確かにリベラリズムという病に感染しています.それどころか,伝統的なカトリック教を信奉する信徒たちでも,自分はこの病気に対して免疫があるなどと自信を持たないでほしいと思います.ここにご紹介するのは,欧州大陸のある平信徒から数日前に私が受け取った電子メールです:--
「ずいぶん長い間,およそ20年ほど,私はリベラリズムの型にはめられていました.私が聖ピオ十世会へと転籍したのは神の恩寵によるものです.私は,カトリック伝統派の中にさえリベラルな振る舞いをする人がいるのを見てショックを受けました.人々は相変わらず,世の中の情勢がひどいことをあまり誇張すべきではないと言い合っています.フリーメーソンの組織がカトリック教会の敵であると人が話すことはほとんどありません.なぜならそれをすれば個人的利益を損なう恐れがあるので,人々はあたかも全体的に見れば世の中はうまくいっているかのように対処し続けています.
伝統派カトリック教徒たちの中には伝統派カトリックであることから来るストレスに対処するため向精神薬の服用を勧める者たちもいます.そして彼らは,幸福を求めるあなたに,医者へ行ってもう少し気楽な生き方をすべきだ,と言います.
このような振る舞いがたどり着くところは,リベラリズムの温床である宗教無差別主義(訳注・原語 “an indifferentism.” =宗教的無関心主義.宗教間の教義などの違いはとるに足らないことだという考え.)です.そうなると,ある日突然なんの前触れもなしに,ノブス・オルド・ミサ(訳注・ “the Novus Ordo Mass” =新しい典礼によるミサ聖祭)に参列する(与る)こと,モダニスト( “modernists” =近現代主義者)たちと共通の理念を持つこと,自分の信念を日毎(ひごと)に変えること,国立大学で学ぶこと,国を当てにすること,そして人は誰でもみな結局のところ善意の持ち主だとの前提で行動することは、どれも大して悪い事ではないことになります。
私たちの主イエズス・キリストは,この種の宗教無差別主義を手厳しい言葉で叱責されます.生ぬるさについては「彼の口から吐き出し始める」(黙示録:第3章16節)でしょう(訳注後記).逆説的に聞えるかもしれませんが,カトリック教会の最たる敵たちはリベラルなカトリック教徒たちなのです.なんとリベラル伝統主義なるものさえあるほどです!!!」(この信徒からの引用の終り)
では私たちの一人ひとりを脅かすこの毒に効く解毒剤とは何でしょうか?それは疑いなく神の恩寵です(ローマ・第7章25節)(訳注後記).それは精神の混乱を晴らし,精神が正しいと考えることを為そうとする意思を強固なものとすることができるのです.では私は神の恩寵を受けることをどうやって確かなものにするのでしょうか?それは,どうやって最後まで堅忍することを私が保証できますか?と問うのにいくぶん似ています.カトリック教会の教えによれば,人には神の恩寵を保証することなどできません.なぜなら,それは神からの贈り物 - すなわち最高に素晴らしい神の賜(たまもの) - だからです.だが私に常にできることは聖なるロザリオの祈りを捧げること,すなわち毎日平均して五つの玄義 - 無理をせずにできるなら十五すべての玄義 - を唱えることです.ロザリオの祈りを毎日唱える人は誰でも,神の御母(聖母)が私たちすべてに果たすようお求めになっていることを果たしていることになります.そして聖母は私たちの主また神であられる御子イエズス・キリストに事実上無限の力を持っておられるのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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- 第5パラグラフの引用聖書の訳注:
新約聖書・ヨハネの黙示録:第3章16節(太字の部分)
『*¹ラオディキアの*教会の天使に書け,〈*²アメンである者,忠実な真実な証人、天主(=神)の創造の本源であるお方(=キリスト)は,こういわれる.私はあなたの行いを知っている.
あなたは冷たくもなく,熱くもないが,私はむしろあなたが冷たいかそれとも熱くあることを望む.
だがあなたは熱くもなく冷たくもなく,なまぬるいから,私はあなたを口から吐き出す.
自分は金持だ,豊かになった,足りないものがないとあなたは言って,*³自分が不幸な者,哀れな者,貧しい者,盲人,裸の者であることを知らぬ.
私はあなたに,精練された金を私から買って富め,白い服を買ってまとい裸の恥を見せるな,目に*⁴目薬をぬって見えるようになれと勧める.
私は,*⁵愛するすべての者を責めて罰するから,あなたも熱心に悔い改めよ.
私は門の外に立ってたたいている.私の声を聞いて戸を開くなら,*⁶私はその人のところに入って彼とともに食事し,彼も私とともに食事するであろう.
勝つ者は私とともに王座に座らせよう.私が勝って父とともにその王座に座ったのと同様に.
耳ある者は霊が諸教会にいわれることを開け〉』
(バルバロ神父による注釈)
*¹フィラデルフィアの南東65キロにある.
*²「キリストは真理である」の意味.→〈旧約〉イザヤ65・16,格言の書8.22,知恵の書9・1,〈新約〉ヨハネ福音1・3,コロサイ書簡1・16.
*³商都として栄えていたラオディキアは,精神的に貧しいものである.
*⁴ラオディキアの目薬は有名だった.
*⁵〈旧約〉格言3・12参照 →「(わが子よ,神のこらしめをあなどらず,神のこらしめを受けて,悪意を抱くな.)なぜなら,神は愛するものをこらしめ,いちばん愛する子を苦しめたもうからである.(バルバロ神父による注釈:神は善人をこらしめるが,それは,欠点をなおすためである.苦しみこそは最良の教師である.)
*⁶(後で追加します)
***
- 第6(最後の)パラグラフはじめの引用聖書の訳注:
新約聖書・聖パウロによるローマ人への手紙・第7章25節(太字の部分)
『私たちは律法が霊的なものであることを知っている.
しかし私は肉体の人であって罪の下に売られたものである.*¹私は自分のしていることが分からない.私は自分の望むことをせず,むしろ自分の憎むことをするからである.私が自分の望まぬことをするとすれば,律法に同意して,律法が善いものであることを認めることになる.それなら,*²こうするのは私ではなく私の内に住む罪である.
また,*³私の肉に,善が住んでいないことも知っている.善を望むことは私の内にあるが,それを行うことは私の内にないからである.私は自分の望む善をせず,むしろ望まぬ悪をしているのだから.もし望まぬことをするなら,それをするのは私ではなく,私の内に住む罪である.
そこで,善をしたいとき悪が私のそばにいるという,*⁴法則を私は見つけた.*⁵内の人に従えば私は天主の法を喜ぶが,私の肢体に他の法則があってそれが理性の法則に対して戦い,肢体にある罪の法の下に私を縛りつける.
私はなんと不幸な人間であろう.この死の体から私を解き放つのはだれだろう.
主イエズス・キリストによって天主に感謝せよ.
こうして私は理性によって天主の法に仕え,肉によって罪の法に仕える.』
(→English version: “…Unhappy man that I am, who shall deliver me from the body of this death? The grace of God, by Jesus Christ our Lord. Therefore, I myself, with the mind serve the law of God: but with the flesh, the law of sin.)
(バルバロ神父による注釈)
罪に対して律法は無力である.
*¹キリスト教前の哲学者がすでに言っているとおり,判断と行為,論理と実際との間の矛盾.
*²悪に対する人間の責任を否定するわけではなく,欲望の強さを認める.
*³「私」とは新約の下にはなく,モーゼの律法の下にある人間.
*⁴法律あるいはモーゼの律法などの意味ではなく,一つの状態である.これは後節に出てくる「罪の法」のこと.
*⁵「内の人」は人間の理性的な高尚なものを指す.外の人(新約聖書・コリント人への第二の手紙:4・16)に相対する. → 『したがって,私たちは落胆しない.私たちの外の人は衰えても,内の人は日々に新たになっている.』
(「外の人」とは,はかない体のこと〈バルバロ神父による注釈〉).
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- 第6パラグラフの「神の恩寵」についての訳注:
原語 “Sanctifying grace.”
上述の「ローマ人への手紙・第7章25節」主イエズス・キリストによって天主に感謝せよ.The grace of God, by Jesus Christ our Lord. による意味. → 人間を罪の汚れ=死の体=から清め聖別し,霊的な永遠の生命に生かすことができる「神の恩寵」という意味.
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