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2016年7月30日土曜日

472 トマス主義の本質 7/30

エレイソン・コメンツ 第472回 (2016年7月30日)

(解説無し)

本物の真実はいかなる矛盾も含みません.
誤りを認める「真実」はまがいものの真実です.
Truth which is true excludes all contradiction.
“Truth” which admits of error, is truth-fiction.

モダニズム(近現代主義)は見かけの誠意や誠実さを真実の崩壊に結びつけがちですが,そのやり方はカトリック教の真の信仰にとって極めて危険なため,詳述したり分析したりする対象としてはあまり適しません.だが,最近これについて伝統派の一平信徒が疑問を提起したので,もう一度説明,分析をしてみたいと思います.この信徒は聖ピオ十世会 "SSPX" の司祭が公会議派によるトマス主義者(訳注:「神学大全」の著者,聖トマス・アクィナスの思想ないし教説を信奉する学派)に関する評論を定期的に読むことが果たして賢明かどうか疑問を投げかけています.彼はその根拠として,SSPX が教会の偉大な哲学者で神学者である聖トマス・アクィナスの思想,信条についての定期的出版物をこれまで一切出していない点を指摘しています.SSPX の司祭はそのような評論を読む際に,少なくとも十分に慎重な心構えで臨むべきだというのが,この疑問に対する答えです.なぜなら,公会議派の唱えるトマス主義は真実の観点から見ると矛盾しているのに,モダニズム(=モダニスト)(=近現代主義者)の観点では矛盾していないように容易に見せかけることが可能であり,この点がまさしく問題だからです.
The way in which modernism can combine apparent sincerity and good faith with dissolution of the truth is so dangerous for the real faith of Catholics that it can hardly be described or analysed too often. The recent question of a Traditional layman provides another opportunity to do so. He asks whether a priest of the Society of St Pius X is wise who reads regularly a Conciliar Thomist review, on the grounds that the SSPX has not provided as of yet any such regular reading matter on the thought and doctrine of the Church's great philosopher and theologian, St Thomas Aquinas. The answer is that this priest had better, at the least, be very careful, because Conciliar Thomism is a contradiction in real terms which can, in modernist terms, easily be made to seem – and here is the problem – non-contradictory.

公会議派のトマス主義がなぜ真実の観点から矛盾しているかといえば,聖トマスの教えは私たちの心(諸々の思惑)の外(=外部)( "outside our minds" )に在る(=有る・位置している)真実の物事の中に現存しておられる唯一無二の(=正真正銘の)真実の神で在られる御方( "the one and only real God" )によって唯一無二の存在として植えつけられた(正真正銘の・真〈実〉の)秩序そのもの( "the one and only order planted in real things outside our minds" )に合致するよう懸命に努力し,そしてそれが大いに成功しているからです.これに反し,第二バチカン公会議は現代人がこの神中心で不変の秩序を危うくさせた(=弱体化させた・不安定化させた)との想定から出発し( 第二バチカン公会議公文書「現代世界憲章」“Gaudium et Spes”〈=「喜びと希望」〉 の冒頭部分を参照),(したがって)神の宗教を現代人にとって意味あるものとするためには,それを人間中心で活力に満ちたものに作り直さなければならず,トマス主義はもはやひとえに現実に忠実とはいえず,むしろ時代遅れになっているとの立場をとります.
Conciliar Thomism is a contradiction in real terms because the teaching of St Thomas strives, and in huge measure succeeds, to conform to the one and only order planted in real things outside our minds by the one and only real God. On the contrary, Vatican II proceded from the supposition that modern man has destabilised this God-centred and static order in things (see the opening section of “Gaudium et Spes”), and therefore for God's religion to make any sense to modern man, it must be re-cast in man-centred and dynamic terms which make Thomism no longer uniquely faithful to reality, but somewhat out of date.

モダニズム(=モダニスト)の観点では,トマス主義は人間の思想のなかの歴史的業績,最高の知的システムであり続け,その論理と一貫性は全面的に賞賛に値するということなのでしょう.したがって,SSPX の神学生たちはそれをあたかも電話帳のように学ぶのも結構でしょうが,彼らはひとたび第二バチカン公会議の魔力の影響下に置かれると,トマス主義を現代の誤りを正す唯一の方法とは見なくなり,世界についての他の多くの「最新の」考え方にいとも容易に魅せられ,たぶらかされてしまいます.手短に言えば,モダニストたちはトマス主義そのものを否定せず,その根底には全面的に 賛同すると言います.彼らは単に現代ではトマス主義の根底が変わったのであり,したがって,それはもはや唯一有効なものないしは,真実に到達する唯一無二の道(=真実に至る正真正銘の道そのもの)ではなくなったと主張するでしょう.このため,第二バチカン公会議の信奉者たちはトマス主義に賛同できると考えることはできるでしょうが,実際にはそれに少しも賛同していません.
In modernist terms Thomism may remain a historic monument of human thinking, a superb intellectual system, whose logic and consistency are wholly admirable. Thus SSPX seminarians, for instance, can learn it like a telephone directory, but if SSPX seminaries are being brought under the spell of Vatican II, the seminarians will no longer see Thomism as the one and only way to combat modern errors, and they will easily be charmed and seduced by many other more “up-to-date” ways of thinking about the world. In brief, modernists will not challenge Thomism on its own ground, indeed they can claim to agree with it entirely on its own ground. They will merely claim that in modern times the ground has shifted, and so Thomism is no longer uniquely valid, or is no longer the one and only way of getting at truth. Thus followers of Vatican II can really think that they agree with Thomism, but they do not agree with it at all.

初歩的な算術を使ってもう一度要点を示します.二と二の和は四(二足す二は四)です.(訳注・以下,「2プラス2は4」の様に記します.) 実生活でも,現実に,正解は4以外でありえず,3(三)でも5(五)でもありません.だが,モダニストの算術家は「2プラス2は絶対に4以外ではないというのはあまりにもしゃくし定規すぎる.2プラス2は5か6(六)になりうるという方がもっと独創的で進歩的であり,心をもっと広げれば,答えは6百万にもなりうる!」と言うかもしれません.そして,モダニストの算術家は2プラス2が4であることを排除せず,広い心でそれを喜んで受け入れるのだから,自分の計算は古い計算と矛盾しないと素直に信じられるのでしょう.だが,彼が実際には「古い」算術を台無しにしていることを見抜けない者が果たしているでしょうか?私たちの心の外にある唯一の真実に合致する古い算術は,2プラス2が4であることを包含するだけでなく,それ以外を絶対的に排除するものです.そして,この算術だけが唯一の真実に合致するものであり,言い換えれば,それだけが真実なのです.言うまでもなく,それだけが神の造られた自然および超自然的真実の秩序に合致すると信じ,考えることは聖トマス・アクィナス(1225-1274年)以前の多世紀にわたり存在しました.アクィナスは単にそのことを他に類を見ないシステムにまとめ上げただけです.それを真実にしているのは,システム自体ではありません.だが,そのシステムを真実にしているのは,それがシステムとして唯一現実に合致しているからです.
Let elementary arithmetic once more illustrate the point. Two and two are four, and in real life, in reality, they can be nothing else, neither three nor five. But a modern arithmetician might say, “To say that two and two are uniquely or exclusively four, is too narrow-minded. It is much more creative and progressive to say that they can also be five or six or – let us be open-minded – Six Million !” And because this modern arithmetician does not exclude two and two being four, but gladly includes it in his broad-mindedness, he can sincerely believe that his arithmetic does not contradict the old arithmetic. But who cannot see that in reality he is totally undermining the “old” and true arithmetic ? That arithmetic which corresponds to the one reality outside our minds not only includes two and two being four, but also absolutely excludes their being anything else. And this arithmetic alone corresponds to that one reality, or, is true. Thus the believing and thinking which alone correspond to God's one order of natural and supernatural reality existed of course for many centuries before St Thomas Aquinas (1225-1274). He merely put it all together in an incomparable system. But it is not the system that makes it true. What makes it uniquely true as a system is its unique correspondence as a system to reality.

したがって,もし先に述べたトマス主義に関する評論の著者たちが第二バチカン公会議の信奉者だと自認するなら,彼らはトマス主義がここでいう意味での比類のないものだとは決して思わないでしょう.その場合,彼らは電話帳的「トマス主義者」と呼べるとしても,決して本物のトマス主義者ではありません.上に述べた SSPX の司祭はこの違いを常に理解できるのでしょうか?彼がたった今(現在),第二バチカン公会議の方向へ導かれるまま身を委ねているなら,答えはノーです.
Therefore if the writers in this Thomistic review are also professed followers of Vatican II, they will surely not believe that Thomism is, in the sense presented here, unique. In which case they might be called telephone-book “Thomists”, but they are certainly not true Thomists. Will the priest mentioned above always be able to distinguish ? Not if he is letting himself right now be led towards Vatican II.
Kyrie eleison.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教




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本投稿記事・第472回エレイソン・コメンツ「トマス主義の本質」(2016年7月30日付)/ELEISON COMMENTS CDLXXII (July 30, 2016) : "AUTHENTIC THOMISM" (解説無し)は2016年8月28日午後23時38分に掲載されました.
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2011年6月13日月曜日

多神教文学を読む

エレイソン・コメンツ 第203回 (2011年6月4日)

少し前に「エレイソン・コメンツ」(第188回)は宇宙の道徳の枠組みを理解するため多神教のギリシア人が書いたものを読むよう勧めました.これに驚(おどろ)いて眉(まゆ)をつり上げたカトリック信徒がいたかもしれません.なぜカトリック教作家の作品ではいけないのですか? と.だが,ギリシアの悲劇作家たちもカトリック教の博士たちと同じように人生,苦難,死という偉大な現実に直面し自問(じもん)したのです:-- なぜ私たちはこの地球上に生まれ,ただ苦しみ死んでいくのか,なぜ死によって愛する(ことを学んだ)すべてのものから切り離されてしまうのかと.この疑問は根本的で,苦悩に満ちたものとなり得ます.

これに対するカトリック教の答えは明快で完全です.すなわち,限りなく善良な神がおられ,その摂理( “Providence” )(マテオ10・29-31)(訳注後記)が与える苦難を私たちが正しく用いるなら,神は私たち一人ひとりに永遠の行く末を神のない地獄でなく神と共に天国で過ごす選択をするのに十分な生命,自由意志,時間を与えて下さるということです.古代ギリシア人の答えは不完全ですが,的外れなものではありません.彼らは御父なる神( “God the Father” )の代わりにゼウスという主神( “Father-God, Zeus” )を,神の摂理の代わりに運命の女神( “Fate” )(モイラ)を信じます.

さて,カトリック教徒にとって神と神の摂理は不可分であるのに対し,古代ギリシア人はゼウスを運命の女神と切り離すため,時には両者が相いれないことがあります.これはギリシア人が自分たちの神々についてあまりにも人間的な観念を抱くことから生じます.にもかかわらず,彼らは主神ゼウスが多かれ少なかれ宇宙を慈悲深く導くものであり,運命の女神は不可変のものであると考えます.これは真の神の内なる摂理(“Providence within the true God)(神学大全〈スンマ・テオロジエ・Summa Theologiae 〉第1部,第23問題・第8項;第116問題・第3項)(訳注後記)と同じ考え方であり,彼らの考え方は必ずしも間違っていません.むしろ,いかなる神への畏敬の念も全く持たず,風紀のかけらさえも否定しようとする多くの現代作家たちに比べれば,ギリシア人たちの方がはるかに自分たちの神々とそれらに守られた風紀を重んじています.

だが古代ギリシア人作家たちはカトリック教作家たちさえしのぐ強みをひとつ持っています.彼らは諸々の偉大なる真理を述べるとき,それを - あえて言うならいわゆる - カテキズム(問答体の書物)からでなく,赤裸々な人生から引き出します.同じことは,教会が教える諸々の真理について非カトリック教が与えるいかなる証言にも当てはまります.今日のタルムード(訳注後記)を信じるユダヤ人が,まさにイエズス・キリストを受け入れないが故に,初めから終わりまで私たちの主(イエズス・キリスト)について語る旧約聖書のヘブライ語版を礼拝堂で用心深く守ることでキリストに特別の証言を与えるように,古代ギリシア人は世界の道徳的秩序を行動で示すに当たって,カテキズムに頼らず,神とその摂理に特別の証言を与えます.この方法で,ギリシア人は大自然の真理がそれを信じる者にとって身近なものになるだけでなく,正しく理解さえすれば,それが万人の生活構造の中に根付くものであることを立証しています.

もうひとつ古代ギリシア人の持つ強みは,彼らがキリスト以前に生まれているだけに,中世以降のキリスト教世界に出現した敬虔な作家たちさえも多かれ少なかれ傷つける背教のかけらさえ持ち合わせていないということです.彼ら古代人たちは,今では取り戻しようのない純真さと新鮮さをもって大自然の真理を語っています.現代では水があまりにも濁りきっています.

実を言えば,古代ギリシア作家たちが書いた原稿の存続を確かなものにしたのは中世カトリック教会のいくつかの男子修道院でした.現代では,それらをリベラル(自由主義者)と称する新野蛮人たち( “the new barbarians” )から救うため真のカトリック教会に期待をかけましょう! 今日,リベラル派のいう「学問」がはびこるところではどこでも,古代ギリシア人たちの残した古典はすべてゴミ屑(くず)にされてしまいます.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第2パラグラフの訳注:

新約聖書・マテオによる聖福音書:第10章29-31節

『二羽のすずめは一*アサリオンで売っているではないか.しかもその一羽さえ,天の父のゆるしがなければ地に落ちぬ.あなたたちは頭の髪の毛までもすべて数えられている.恐れることはない.あなたたちは多くのすずめよりも値打がある.』
(キリストのみことば)

(注釈)

*ローマの最低貨幣の一つ.

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第3パラグラフの訳注:

原文 “(Summa Ia, 23, 8; 116,3)”

「神学大全」 “Summa Theologiae” について.
(著者…聖トマス・アクィナス〈アクィノ(南イタリア)の聖トマス〉( Sanctus Thomas Aquinas 〈ラ〉, San Tommaso d'Aquino 〈伊〉).カトリック教会・ドミニコ修道会会員,教会博士.)

第1部

・第23問題…「予定」について “De prædestinatione” (英語 “Predestination” )
第8項…「予定」(神の摂理による)とそれに対する聖徒たちの祈りによる助力の効果についての問答.

・第116問題…「運命(宿命)」について “De fato” (英語 “Fate” )
第3項…「運命(宿命)は変えられないものか」についての問答.

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第4パラグラフの訳注:

「タルムード」について

・ヘブライ語で教訓,教義の意.前2世紀から5世紀までのユダヤ教ラビたちがおもにモーセの律法を中心に行なった口伝,解説を集成したもので,ユダヤ教においては旧約聖書に続く聖典とされる.
・多くの編集が行なわれたが,現在では4世紀末の『パレスチナ・タルムード』と5世紀末の『バビロニア・タルムード』が残っている.
・ラビの口伝を収録する「ミシュナ」(反復(はんぷく)の意)およびそれへの注解,解説を集めた「ゲマラ」(「補遺(ほい)」の意)の2部より構成され,前者はヘブライ語,後者は当時の口語であるアラム語で書かれている.「ミシュナ」の部分は両タルムードとも同一で,「ゲマラ」の部分だけ異なっている.
・ユダヤ教における法律,社会的慣習,医学,天文学から詩,説話にいたるまで社会百般に及ぶ口伝,解説を収め,歴史的にもユダヤ精神,ユダヤ文化の精華(せいか)であり,その生活の規範となり創造力の根源となっている.
(ブリタニカ国際大百科事典より)

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2011年1月26日水曜日

神は少数しかお選びにならないか?

エレイソン・コメンツ 第184回 (2011年1月22日)

人の霊魂の救済が一見難しいように見えるのはなぜでしょうか? なぜ - 私たちがよく聞くように - 地獄に堕(お)ちる霊魂の数に比べ救われて天国に至る霊魂がほんの少数しかいないのでしょうか? 神は全ての霊魂の救いを願っておられるわけですから(ティモテオへの第一の手紙・第2章4節参照)(訳注後記),それをいくぶん容易にすることがお出来になるはずなのに,なぜそうされないのでしょうか?

簡単に即答すれば霊魂の救済はさほど難しくないのです.地獄に堕ちる霊魂にとっての苦悶のひとつは,地獄に堕ちるのを容易(たやす)く防ぐ術(すべ)をはっきりと知っていたのに(訳注・つまり永遠の破滅は簡単に避けられるとわかっていたのに),という後悔の念です.非カトリック教徒で地獄に堕ちた人たちは「カトリシズム(カトリック教義)に一理あるのは知っていたが,カトリック教徒になると生き方を変えなければならないのが分かっていたのでその選択をしなかった」と言うでしょう.(ウィンストン・チャーチルはかつて,人は誰しも一生のある時期に真実に遭遇(そうぐう)するが,たいていの人はそれから目を背(そむ)けてしまう,と言いました.)カトリック教徒で地獄に堕ちた人たちは「神は私にカトリック信仰を与えて下さり,私がなすべきことはきちんと告解をすること(訳注・=「告解(告白)の秘蹟」.カトリック司祭に自分の罪を告白し罪の赦しの秘蹟を受けること.)だと知っていました.だが私は告解を先延ばしにした方がより好都合だと考え,そのため自分の犯した数々の罪のうちに死ぬはめになったのです…」と言うでしょう.地獄に堕ちた霊魂はみな,そのような結果になったのは自らの過(あやま)ち,選択によるものだと分かっています.責められるべきは神ではないのです.事実,彼らは現世での人生を振り返り,自分たちが地獄に堕ちずに済むよう神がどれほど懸命に努められたかをはっきり理解しています.にもかかわらず,彼らは自らの自由意志で自らの宿命を選び,神はその選択を尊重されたわけです….だが,このことをもう少し深く掘り下げて考えてみましょう.

限りなく善良で,限りなく寛大で,限りなく幸福な神は,その幸福を分かち合える生き物を義務ではなく進んで創造されました.神は純粋な霊ですから(ヨハネ聖福音書・第4章23節参照)(訳注後記),その生き物もまた動植物や鉱物のようにただ物質的な存在たるのみにとどまらず,霊的な存在でもあるべきです.それ故に,物質的なものをいっさい持たない天使と物質的な肉体に霊的な魂を宿(やど)す人類が創造されたのです.だが天使や人間が神の幸福を分かち合うための霊魂そのものには必然的に理性と自由意志がそなわっています.実際のところ,霊魂が神の幸福を分かち合うのにふさわしいのは自由意志が自由に働いて神を選択するときです.だが,もし神に背を向けうるような別の選択肢が何もないとすれば,その神の選択が真に自由だとどうして言えるでしょうか? シェイクスピアの著作物しか売っていない書店で,ある少年がシェイクスピアの本をたくさん買う選択をしたとしても褒(ほ)めるに値(あたい)するでしょうか? そして,もし悪い選択肢が存在し,自由意志がただの見せかけでなく本物だとしたら,その良からぬ選択をする天使や人間があり得ないとどうして言い切れるでしょうか?

大多数の霊魂(マテオ聖福音書・第7章13-14節,20章16節参照)が神の愛を拒んで恐ろしい罰を被(こうむ)ることになると神はどうやって予見したのだろうかという疑問が残るかもしれません(訳注後記).その答えは,地獄が恐ろしければ恐ろしいほど,神が生きている人間一人ひとりにそれを避けるのに必要な恩寵と光と力を与えて下さっていることがますます確かだということです.だが,聖トマス・アクィナスが説明している通り,大多数の人間は五感のなかでも将来天国で味わえる未知の喜びよりも現在既に知っている喜びの方を好むものです.ではなぜ神はそのような強い喜びを五感に加えられたのでしょうか? 一つには疑いなく親たちが子供を天国に行けるように育てることを確実なものとするためですが,同様に確かなことは,現世での喜びの追求を来世での真の歓喜よりも下に置く人間を,より一層称賛に値するものとするためです.来世で味わえるあらゆる真の歓喜は(天国に入ることを)望むすべての人たちにとって自分たちのものなのです! (天国に入るために)私たちにただ必要なことは十二分に激しくそれ(来世での真の歓喜)を望むことだけです(マテオ聖福音書・第11章12節参照)! (訳注後記)

神は決して凡庸(ぼんよう)な神ではありません.そして神を愛する霊魂たちには凡庸でない最良の素晴らしい天国を与えたいと願っておられるのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第1パラグラフ最初の訳注:

新約聖書・(聖パウロによる)ティモテオへの第一の手紙:第2章4節
-『すべての人が救われて真理を深く知ることを神は望まれる.』

(注釈)
(聖パウロによる)ローマ人への手紙〈9章18,21節〉の解釈を助ける神学的に重要なことば.

→新約聖書・ローマ人への手紙:第9章18節,21節
-『であるから神は望みの者にあわれみを垂れ,*望みの者をかたくな(頑な)にされる.』
…
-『つぼ造りは同じ土くれをもって,尊いことに用いる器(うつわ)と卑(いや)しいことに用いる器を造る権利をもっているではないか.』

(*神が人間を頑固にするというのは,人間が自由に神に逆らうから,神の元の計画を踏みはずすような状態になることである.しかし,前もって知られている人間のこの逆らいは,それすらも,神のひろい計画に入っている.すなわち,人間の逆らいすら摂理に協力するのである.(これはメシアを認めようとしなかったイスラエル人の場合である.)

(同章19節と20節)
-『あなたはこう言うかもしれない,「なぜ神は人をなおとがめるのか.だれが神のみ旨(むね)に逆らえるのか」と.』
-『だが人間よ,神に口答えするあなたは何者か.造られた者が造ったものに向って,「どうしてあなたは私をこのように造ったのか」と言えようか.』

***
 
第3パラグラフの訳注:

新約聖書・ヨハネ聖福音書:第4章23節
-『まことの礼拝者が霊と真理をもって御父を拝む時が来る,いやもう来ている.御父はそういう礼拝者を望まれる.』
24節→『神は霊であるから,礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ.』

(解説)
主イエズス・キリストが,(ユダヤ人と交流のない)サマリアの町に入り,サマリア人の女に飲み水(井戸の水)を所望されて言われた御言葉.そのサマリア人の女は町で村八分にされていたため,誰も来ない真昼間の暑い最中に独りで水を汲みに来ていた.この女に向ってキリストは「救いはユダヤ人から来るが,サマリア人の拝む山でもユダヤ人の拝むエルサレムでもなく(ユダヤ人の礼拝も,サマリア人の礼拝も,ともに廃止されるであろう〈バルバロ神父による注釈〉),まことの礼拝者が霊と真理をもって神を拝む時が来る」,と言われた.キリストはまずこの村八分の女に宣教され,女は走って行って町の人々にメシア(救世主)の到来を知らせる(宣教する)こととなった.(神〈キリスト〉は異邦人をもまことの救いに招かれている).

***

第4パラグラフ最初の訳注:

新約聖書・マテオ聖福音書:第7章13-14節,20章16節
-『狭い門から入れ,滅びに行く*道は広く大きく,そこを通る人は多い.しかし,命に至る門は狭く,その道は細く,それを見つける人も少ない.』
(*ブルガタ訳その他のいくつかの写本の訳…「門は大きく,道は広い…」とある.)

-『このように後の人が先になり,先の人が後になるであろう.*』
(*「なぜなら,呼ばれる者は多いが,選ばれる者は少ない」ということばを入れた写本がある)

***

第4パラグラフ最後の訳注:

新約聖書・マテオ聖福音書:第11章12節
-『洗者ヨハネのころから今に至るまで,天の国は暴力で攻められ,暴力の者がそれを奪う.』〈キリストの御言葉〉)

(バルバロ神父訳「合併版聖福音書」における注釈より)
「さきに洗者ヨハネの宣教があったので,それからイエズスを聞いた多くの人人は,熱心に神の国に入りそれを奪う.」

(解説)
つまり,暴力で天国を攻める者たちが天国を奪い取っている.我先を争って熱心に天国に入りたいと望む霊魂たちが大勢増えている.

2010年11月15日月曜日

もっと努力を!

エレイソン・コメンツ 第174回 (2010年11月13日)

もう50年以上も交友しているある非カトリックの友人が最近,「あなたの確信に満ちた姿勢(信仰心)“certainty” がつくづくうらやましいと思いますよ!」と私に言いました.私はその言葉から,彼はカトリック信者たちの信じているものを自分も信じることができたらと願いながらそうできないように感じている,という意味に受け取りました.それで私は,「信じられるようになるまでもっと努力してみてください!」 “Try harder!” と答えたい気にかられましたが,その場は沈黙を守りました.

確かに,人が何かを信じるのは心で信じるのであり意志で信じるものではありません.それでもなお,本質的に人心が自然に及ぶ範囲をはるかに超えたカトリック信仰の説く超自然的な諸々の真理を人が心で信じようとするときには,意志による後押しがどうしても必要となります.したがって,超自然的なもの(神の神秘)への信仰は意志による行為でないにしても,意志の働きなしには成り立ちません.「自分の意志に反して信じる者は誰もいない」と聖アウグスティヌスは言っています.だからこそ,心で信じない人に対し自分の意志で「もっと努力してみるように」とアドバイスすることは,不合理に思われるかもしれませんが実際はそれほど不合理なことではないのです.また,意志が向おうとする信仰が客観的に本物である場合は,そうしたアドバイスが希望的観測に終わることもありません.

それでも,もしある人がカトリック信者たちの持つ確信を本気でうらやましく思うなら,彼は先ず第一にカトリック信仰がどれほど合理的で筋の通った教えであるかを学ぶことに専心すべきです.その信仰は人の理性を超えたものかもしれませんが,それに反するものではありません.どうしてそのようなことがあり得ましょうか?私たちの理性の創造主たる神が,理性に対してその理性を嘲(あざけ)るような真実を信じるよう命ぜられることがあるでしょうか?そんなことをすれば神は自己矛盾に陥(おちい)ってしまいます.聖トマス・アクィナス “St Thomas Aquinas” はその著書「神学大全」“Summa Theologiae” で,信仰と理性は全く異なるものでありながらも,いかに完璧に調和しあうものであるかを一貫して示しています.

ですから,人間の理性にできること,私の友人がすべきことは,例えば神の存在,人間イエズス・キリストの神性,そしてキリストによる神授のローマ・カトリック教会の設立について証明する完全に合理的な論拠(ろんきょ)を学ぶことで超自然的なカトリック信仰への自然な入り口を築(きず)くことです.そうした諸々(もろもろ)の論拠はすべて,意志の力が自然理性に逆(さから)わない限り,十分に自然理性の理解できる範囲内にあります.誤(あやま)って作動した心は自然理性の面前(めんぜん)にある真理を決して認識することはありません.意志は現実を求めねばなりません.さもないと心が真理を見出(みいだ)すことは決してありません.私たち人間にとっての真理とは私たちの心と現実が適合(てきごう)するかどうかにかかっているからです.

ある人がカトリック信仰の合理性を理解するため,正しい理性と真直ぐな意志で出来るだけのことを一度やってみたが神の賜物(恵み)である超自然的な信仰を得ることができないでいるとします.だが,神が私たちに信じるよう求めておきながら(そうしないと地獄に落とすという条件を付けて-新約聖書・マルコによる福音書:第16章16節を参照)(訳注後記),自身の持ちそなえた自然能力の及ぶ限りの努力を尽くし - 神を欺かず - 信仰の賜物に与(あずか)る準備をする私たちのうちの一人の霊魂に対してすら,その賜物をお与えになるのを拒むことがあるでしょうか? とりわけ,当たり前のことですが,私ができる限りのことを尽くした後で,謙遜な(へりくだった,慎ましい)心で神に祈り信仰の賜物を与えて下さるよう願い求めたとしたらどうでしょうか? 神は高慢な者を認めようとしませんが,謙虚な者には恵みをお与えになります(ヤコボの手紙第4章6節).そして神は真直ぐな心で神を求める人々に対し御自身を現されます(訳注・「心の真直ぐな人は神を見出す」の意)(「第二法の書」第4章29節;「エレミアの書」第29章13節;「(預言者エレミアの)哀歌」第3章25節;その他にも旧約聖書の多くの箇所から引用できます).(訳注後記)

親愛なる友人よ,(訳注・神の御言葉-「聖書」を)読みかつ問うてみてください.努力に応じてあなたはきっとその確信(信仰)を自分のものとすることができるでしょう.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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(第5パラグラフの訳注)
引用されている聖書の御言葉(バルバロ神父訳聖書)

(新約聖書)
・マルコによる福音書:第16章16節
「信じて洗礼を受ける者は救われ,信じない者は滅ぼされる.」

・ヤコボの手紙:第4章6節
「神はおごる者に逆らい,へりくだる者に恵まれる.」

(旧約聖書)
・第二法の書:第4章29節
(不信仰のため神の怒りを買って他国に散らされることになるイスラエルの民に対する神の御言葉)
「(その国々の人間の手によってつくられた神々,見ることも聞くことも食べることもかぐこともしない木や石の神々に,おまえたち(イスラエルの民)は仕えることになる.)そこからでも神なる主を探し求め,心と魂を尽くして求めるなら必ず主を見いだす.」

・(預言者)エレミアの書:第29章13節
「私(神)をさがし求めれば,見いだす.心をあげて,私をさがし求めるなら.(私は姿を現し・・・)」

・(預言者エレミアの)哀歌:第3章25節
「主(神)は希望するものに,さがし求める魂に,恵まれる.」