ラベル 永遠の天罰 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 永遠の天罰 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年9月27日土曜日

376 天罰が来る 9/27

エレイソン・コメンツ 第376回 (2014年9月27日)

     コンスタン・ルイ・マリー・ペル神父(1876-1966年)( “Constant Louis Marie PEL (1876-1966) ” )は神が今日の世界をどう正そうとされるかについて神から知識を与えられた人々の間で広く知られた人物ではありませんが(こんすたん・るい・まりー・ぺるしんぷは かみが こんにちの せかいを どう ただそうと されるか について かみ から ちしきを あたえられた ひとびとの あいだで ひろく しられた じんぶつ では ありません が)( "Father Constant Louis Marie PEL (1876-1966) is not a name well-known among the souls gifted by God with a knowledge of how God is going to set today's world straight, …" ),彼を良く知る人々にとっては,彼は神にとても近い存在の神父でした(かれを よく しる ひとびとに とっては,かれは かみに とても ちかい そんざいの しんぷ でした)( "… but for those who knew him he was a priest very close to God. " ).神学博士で神学校教授を務めた彼は女子修道会,男子神学校をそれぞれ一校ずつ創設しました(しんがく はかせで しんがっこう きょうじゅを つとめた かれは じょし しゅうどうかい,だんし しんがっこうを それぞれ いっこう ずつ そうせつ しました)( "Doctor in theology, seminary professor, founder of a convent for women and of a seminary for men, …" ).イエズスの聖心( "The Sacred Heart of Jesus" ),マリアの汚れなき御心( "the Immaculate Heart of Mary" )に深く献身した彼はピオ神父( “Padre Pio” )の個人的に親しい友人でした(いえずすの みこころ,まりあの けがれなき みこころに ふかく けんしんした かれは ぴおしんぷの こじんてきに したしい ゆうじん でした)( "… with a great devotion to the Sacred Heart of Jesus and to the Immaculate Heart of Mary, he was a personal friend of Padre Pio" ).ピオ神父はかつてサン・ジョヴァンニ・ロトンド( “San Giovanni Rotondo” )を訪れたフランス人巡礼者の一団を前に「フランスには(ペル神父のように)偉大な聖人がいるのに,なぜあなた方はわざわざ私に会いにくるのですか?」と尋(たず)ねたそうです(ぴおしんぷ は かつて さん じょゔぁんに ろとんど を おとずれた ふらんす じん じゅんれいしゃ の いちだん を まえに「ふらんす には〈ぺるしんぷの ように〉いだいな せいじんが いるのに,なぜ あなたがたは わざわざ わたくし に あいに くる のですか?」とたずねた そうです)( "… who said of him to some French pilgrims in San Giovanni Rotondo, “Why do you come to see me when you have so great a Saint in France ?” " ).

     ペル神父は生前よく,教会内で聖櫃に額を寄せ立ったまま,幾晩も続けて夢中で神との対話に浸っておられました(ぺるしんぷは せいぜん よく,きょうかい ないで せいひつに ひたいを よせ たったまま,いくばんも つづけて むちゅうで かみとの たいわに ひたって おられました)( "Fr Pel would spend nights on his feet in church with his forehead leaning against the Tabernacle, conversing with God in a permanent ecstasy." ).彼は第二バチカン公会議直後に交通事故で亡くなりました(かれ は だいにばちかん こういかいぎ ちょくごに こうつうじこで なくなりました)( "He died in a car accident just after Vatican II, …" ).だが,神父の霊的な(=宗教・信仰上の)息子たち(訳注後記 2-1 「霊的な息子」について)( "spiritual sons" )の一人である一神学生が,特にフランスを襲うであろう天罰について神父が1945年以降に語り始めた予言(預言)を書き遺しています(しんぷの れいてきな〈=しゅうきょう・しんこう じょうの〉むすこたちの ひとりである いち しんがくせいが,とくに ふらんすを おそう であろう てんばつに ついて しんぷが せんきゅうひゃく よんじゅうごねん いこうに かたりはじめた よげんを かきのこして います))( "… but not before a seminarian, one of his spiritual sons, had been able to note down a prophecy of his, dating from 1945, concerning the chastisement which will strike France in particular." ).以下にその一部を引用と要約でご紹介します(いかに その いちぶを いんようと ようやくで ごしょうかい します):-- ( "Here it is, quoted or abbreviated:-- " )(訳注後記 2-2 「天罰」について)

     ペル神父は次のように言われました.「私の息子よ,世界中の諸々の罪が時の経過とともに恐ろしい程増え続けており(ぺるしんぷは つぎのように いわれました.「わたくしの むすこよ,せかいじゅうの もろもろの つみが ときの けいかと ともに おそろしい ほど ふえつづけて おり」)( " “My son,” said Fr Pel, “know that with the sins of the world increasing in horror as this age wears on, …" ),やがて神の大きな罰が下されることになるだろうが(やがて かみの おおきな ばつが くだされる ことに なる だろうが)( "… great punishments from God will come down on the world …" ),世界中でこの神の怒りを免れる大陸はどこにもないことを知りなさい(せかいじゅうで この かみの いかりを まぬがれる たいりくは どこにも ないことを しりなさい)( "… and no continent will be spared by the Wrath of God." ).背教の罪を犯し,聖職を否定したフランスはとりわけ厳しい罰を受けるでしょう(はいきょうの つみを おかし,せいしょくを ひてい した ふらんすは とりわけ きびしい ばつを うけるでしょう)( "France being guilty of apostasy and denying its vocation will be severely chastised." ).南東部のボルドー "Bordeaux" と北東部のリーユ "Lille" を結ぶ線の東側では特に(なんとうぶの ぼるどーと ほくとうぶの りーゆを むすぶ せんの ひがしがわ では とくに)( "East of a line stretching from Bordeaux in the south-west to Lille in the north-east, …" ),東部から侵入する人々や地球全土に火の雨のように落下する大隕石群によって,あらゆる物が荒らされ,燃やし尽くされるでしょう(とうぶ から しんにゅう するひとびと や ちきゅう ぜんどに ひのあめの ように らっか する だい いんせき ぐん に よって,あらゆる ものが あらされ,もやし つくされる でしょう)( "… everything will be laid waste and set on fire by peoples invading from the east, and also by great flaming meteorites falling in a rain of fire upon all the earth and upon these regions especially." ).革命,戦争,疫病蔓延,化学毒ガス,大地震,フランス中の死火山復活であらゆる物が破壊されるでしょう(かくめい,せんそう,えきびょう まんえん,かがく どく がす,だい じしん,ふらんす じゅうの しかざん ふっかつで あらゆる ものが はかい される でしょう)( "Revolution, war, epidemics, plagues, chemical poison gases, violent earthquakes and the re-awakening of France's extinct volcanoes will destroy everything...” " ).」

     「ボルドーとリーユを結ぶ線より西側のフランスでは影響は東側ほど大きくないでしょう…(ぼるどーと りーゆを むすぶ せん より にしがわの ふらんす では えいきょうは ひがし がわ ほど おおきく ない でしょう…)( " “France to the west of that line will be less affected..." )…それはバンデー "Vendée" とブリタニー "Brittany" に信仰が根差しているからです…(…それはばんでーと ぶりたにーに しんこうが ねざしている から です…)( "… because of the faith rooted in the Vendée and in Brittany ..." ) …だが,世界的な大変動を逃れ,そこに避難しようとする神の最悪の敵たちは,どこへ隠れようとしても見つけ出され,悪魔どもによって処刑されるでしょう(だが,せかいてきな だいへんどうを のがれ,そこに ひなんしようと する かみの さいあくの てきたちは,どこへ かくれようと しても みつけだされ,あくまどもに よって しょけいされる でしょう)( "… but any of God's worst enemies seeking refuge there from the worldwide cataclysm will be found out, wherever they hide, and put to death by devils, …" ).何故なら,主の御怒り( “the Wrath of the Lord” )は正当かつ神聖なるものだからです(なぜ なら,しゅの おん いかりは せいとう かつ しんせい なる もの だから です)( "… because the Wrath of the Lord is just and holy." ).戦争の引き起こす厚い暗闇(せんそうの ひきおこす あつい くらやみ)( "Thick darkness caused by the war …" ),三日三晩落下し続ける隕石の破片による大火は太陽光を遮り(みっか みばん らっか しつづける いんせきの はへん による たいかは たいようこうを さえぎり)( "… gigantic fires and fragments of burning stars falling for three days and nights will cause the sun to disappear, …" ),聖燭節(せいそくせつ)( “Candlemas” )に灯される蝋燭の灯りだけが神を信じる者たちの手に光を与えるでしょう(に ともされる ろうそくの あかり だけが かみを しんじる ものたちの てに ひかりを あたえる でしょう)( "… and only candles blessed on Candlemas (February 2) will give light in the hands of believers, …" )(訳注後記 4-1 「聖燭節」について).だが,神を信じない者たちは心の中(=自分の霊魂 "souls" )に闇を抱いているため,この奇跡的な灯りを見ることはないでしょう(だが,かみを しんじない もの たちは こころの なか〈=じぶんのれいこん〉に やみを いだいて いるため,この きせき てきな あかりを みる ことは ないでしょう)( "… but the godless will not see this miraculous light because they have darkness in their souls.” " ).」

     「私の息子よ,このようにして人類の3分の2は滅ぼされ(わたくしの むすこよ,このようにして じんるいの さんぶんのに は ほろぼされ)( " “In this way, my son, three quarters of mankind will be destroyed, …" ),フランス国内の一部の土地では,生き延びた者は60マイルも移動しないとほかの生存者に会えないほどになるでしょう(ふらんす こくないの いちぶの とち では,いきのびた ものは ろくじゅう まいるも いどう しないと ほかの せいぞんしゃに あえない ほどに なるでしょう)( "… and in certain parts of France survivors will have to go 60 miles to find another live human being..." ).いくつかの国家は世界地図から消えてしまうでしょう(いくつかの こっかは せかいちず から きえてしまう でしょう)( "… Several nations will disappear off the face of the map ... " ).このようにして浄化されたフランスは『教会の長女』( “Eldest Daughter of the Church” )として復活するでしょう(このように して じょうか された ふらんすは『きょうかいのちょうじょ』として ふっかつする でしょう)( "A France thus purified will become the renewed “Eldest Daughter of the Church”, …" ).何故なら,この『(地上の)諸々の国家に下される最後の審判』( “Judgment upon the Nations” )の過程であらゆるカインたちやユダたちはいなくなってしまっているはずだからです.」(なぜなら,この『(ちじょうの)もろもろの こっかに くだされる さいごの しんぱん』の かていで あらゆる かいんたちや ゆだたちは いなくなって  しまうはず だからです.)( "… because all the Cains and Judases will have disappeared in this 'Judgment upon the Nations'”." )『(地上の)諸国家に下される最後の審判』で時代が終わるわけではないでしょう(『ちじょうの しょこっかに くだされる さいごの しんぱん』で じだいが おわる わけでは ないでしょう)( "This Judgment is not yet the end of times, …" ).だが,国々が犯した諸々の罪に対する罰は極めて重いため(だが,くにぐにが おかした もろもろの つみに たいする ばつは きわめて おもいため)( "… but so great is the punishment due to the sins of the nations …" ),私たちの主イエズス・キリストはペル神父に対し,世界が終焉を迎えるころの荒廃はさほどひどくないだろうと告げられました(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすとは ぺる しんぷに たいし,せかいが しゅうえんを むかえる ころの こうはいは さほど ひどくは ないだろうと つげられました)( "… that Our Lord told Fr Pel that the desolation at world's end will be lesser. " ).(訳注後記 5-1『(地上の)諸国家に下される最後の審判』について) (訳注後記 5-2「あらゆるカインたちやユダたち」について)

     親愛なる読者の皆さん.私たちはここでどのような結論を出したらよろしいでしょうか?(しんあいなる どくしゃの みなさん.わたくしたちは ここで どのような けつろんを だしたら よろしい でしょうか?)( "Dear readers, what do we conclude ? " )一人一人が神から与えられたカトリック教の秘蹟の助けを借りて,罪を犯したままの状態でなく神の恩寵の下で生きるよう精一杯努力しましょう(ひとり ひとりが かみ から あたえられた かとりっくきょうの ひせきの たすけを かりて,つみを おかした ままの じょうたい でなく かみの おんちょうの もとで いきるよう せいいっぱい どりょく しましょう)( "Let each of us strive with might and main, and with the help of the Catholic sacraments given to us by God for that purpose, to live in God's grace and not in the state of sin, …" ).そして,現在と神の正義が下される時との間に神が私たちに与えて下さった時間を最大限活用して(そして,げんざいと かみの せいぎが くだされる とき との あいだに かみが わたくしたちに あたえて くださった じかんを さいだいげん かつようして)( "… let us make full use of the time he gives us between now and the Hour of his Justice …" ),出来る限り多くの罪びとが悔い改め天罰 "Chastisement" が近づいた時その霊魂が永遠に救われるよう祈願しましょう(できるかぎり おおくの つみびとが くいあらため てんばつが ちかづいた とき その れいこんが えいえんに すくわれる よう きがん しましょう)( "… to pray for the largest possible number of sinners to repent and save their souls for eternity when the Chastisement closes in." ).神よ,お慈悲をお与えください.マリアさま,どうぞお助けください.(神よ憐れみ給え.マリアよ助け給え.)(かみよ,おじひをおあたえください.まりあさま,どうぞおたすけください.〈かみよ あわれみ たまえ.まりあよ たすけ たまえ.〉)( "… to pray for the largest possible number of sinners to repent and save their souls for eternity when the Chastisement closes in. God, have mercy. Mary, help." )(訳注後記 6-1 )

     キリエ・エレイソン.

     神による恐ろしい懲罰が近づいている.
     (かみに よる おそろしい ちょうばつが ちかづいて いる)
     ( "A frightful punishment from God is closing in." )

     罪を犯した状態のままで留まるのではなく,
     神の恩寵の下に生きよう.
     (つみを おかした じょうたいの ままで
     とどまる のではなく,
     かみの おんちょうの もとに いきよう)
     ( "Let us live in his grace, and not in sin." )

     リチャード・ウィリアムソン司教




* * *



訳注 2-1

宗教上の息子(=霊的息子)について

・カトリック信仰を共有する司教・司祭と男子修道士が
師弟関係において結ぶ義理の父子関係.

⇒「不滅の霊魂において」=「カトリック信仰において」
・師匠〈司祭・司教など〉が,信仰上の生みの親・育ての親となり,
その弟子が信仰上の養子となる.


* * *

訳注 2-2

「天罰 "Chastisement"」について

懲罰(ちょうばつ)
=悪人を懲らしめて戒める.

折檻(せっかん)
=良くし治すために懲らしめること.
厳しく戒めること.
戒めのため,たたいたりして懲らしめること.

・「諸々の霊魂」と「カトリック信仰」は不滅
=地上での死後も永遠に生きる.

・善に属す霊魂は後の世で天国へ,
悪に属す霊魂は後の世で地獄へ入る.
(大罪を犯していない霊魂は,煉獄(れんごく)へ入り
霊魂を清める)

・地上の人生は,
神が各々(おのおの)の霊魂に
相応(ふさわ)しい試練を
与(あた)え,鍛(きた)え,
霊魂の善性・悪性を見極める
神の試験場のようなもの. 
各々の人生のあらゆる場面で,
善悪のいずれを選び取るかを
神はことごとくご覧になられ,各々に相応しく
正確かつ正当な報いを確かにお与えになる.

・唯一・真実・全能・全き善・憐れみ深い
神の御目に適えば, 天国に入るが,

・全ての創造主たる神の被造物にすぎない
にもかかわらず,
全能の創造主たる真の神に挑む
傲慢・嫉妬・我欲に満ちた
悪魔に属する霊魂は,
堕落して地獄に落とされ,
永劫の罰を受ける.

・完全無欠の全能の神の御前に
罪のない人は一人もいない.
が,
兄弟・隣人を憐れみ,
兄弟の罪,過ち(あやまち),
落ち度,負い目を
憐れんで,赦してやる
慈悲深い人(憐れみ深い人)は,
慈悲深い神から憐れみを受ける.

慈愛は多くの罪を覆(おお)う

・人間が神を無視してみても,
神は御旨のままに
世に存在する全ての事物を動かされる.
唯一の全能の神の正義・公平・御慈悲に満ちた,
偏り見られることのない御目から免れることは
人間には絶対に不可能である.


* * *

訳注 4-1

「聖燭節」(せいそくせつ)について

=公教会〈カトリック教会〉ミサ聖祭典礼歴
2月2日の「聖マリアの御潔め」の大祝日

IN PURIFICATIONE BEATÆ MARIÆ VIRGINIS
「童貞聖マリアの御潔(おんきよ)め」の大祝日(祭服の色・白)

DE BENEDICTIONE CANDELARUM
「蝋燭の祝別式と行列」(紫)


* * *

ローマ・ミサ典書(原典はラテン語)
(以下は,バルバロ神父による日本語訳版1955からの抜粋)

聖燭節

解説

〈聖福音〉にその内容が語られるこの祝日は,
エルザレムにおいては, すでに四世紀のころから
行われていた.

六世紀には,ローマでも行われるようになったが
そのころから,この祝日が,
特に聖マリアの祝日の色彩を強めてきた.

東方教会では,この祝日によって,
御民にはじめて逢うために,
主が神殿に行き給うたことを祝っていたのである.

故に,本日のミサの下には,
キリストと民との出逢いという思想が流れている.

この日には,ろうそくの祝別が行われる.
本日の行列は,ローマにおいて,
七世紀のころからのことである.


***

1.ろうそくの祝別式と行列

御潔めの日が,七旬節,六旬節,五旬節の 主日に当れば,
この祝日を他の日に行う.
そうすると,ろうそくの祝別は,その主日のミサの前に行う.

〈祈願〉

V(司式司祭)/. 主よ,聖なる父,全能永遠の神よ,
御身は万物を無よりつくり出し
蜜蜂のはたらきによって
ろうそくが出来るようにと 思召し給うた.

御身が,義人シメオンののぞみを満し給うたこの日,
われらは,いと聖なる御名にこい願い,
敬虔(けいけん)に祝い奉る終世童貞女なる
聖マリアのとりつぎと,諸聖人の祈りとにより,
へり下ってこい願い奉る.

陸上でも海上でも,身体と霊魂との健康のために
人間の用いるこのろうそくを,
✠祝し,✠聖別し給わんことを
御光栄のために,このろうそくを手にして
主を讃美するをのぞむ御民の叫びを,
主の神殿なる天より,みいずの王座より,
ききいれ給わんことを.主に向かって叫ぶ,
御子のとうとき御血をもってあがない給うた人々に,
御慈悲を示し給え.

御身とともに神として,
聖霊との一致において,
生き且つ治め給う主よ,
R(助祭・侍者)/. アメン.

〈祈願〉
全能永遠の神よ,御身は,今日,
御独子(おんひとりご)を, 聖なる神殿で,
義人シメオンのうでに抱かせるようにと思召した.
われらは,本日,へり下って,御慈悲をこい奉る.
主のしもべなるわれらが,御名の光栄のために,
手にとってはこぼうとするこのろうそくを,
✠祝し,✠聖別し,天の祝福の火をもって,
火を点(とも)し給わんことを.
ふさわしい心をもち,主のいと甘美な愛の火にもえて,
最高の主なる御身にこのろうそくをささげるわれらを,
御光栄の聖なる神殿に奉献し給わんことを.

その同じわれらの主イエズス・キリスト,
神として,聖霊との一致において,
御身と共に世々に生き且つ治め給う聖子(おんこ)によりて,
R/. アメン.

〈祈願〉
主イエズス・キリスト
この世に来(きた)る
すべての人を照らすまことの光に在(ましま)す主よ
ねがわくは,✠祝福をこのろうそくにそそぎ,
聖寵の光によって,これを✠聖別し給え.
このあかりが,見える火のかがやきによって
夜の闇をはらうごとく,
慈悲なる神よ,見えざる火,
すなわち聖霊のかがやきによって,
われらの心を照し,悪の闇をはらい給え.
そして,われらの心の目をひらき,
御身によみせられる事と,
われらの救いに役立つ事とをわきまえさせ,
いつか,この世の 危険な闇を去って,
消える事なき光明に達せしめ給わんことを.
世の救主,イエズス・キリスト
御身は神であり,完全な三位一体において
世々に生きかつ治め給う
R/. アメン.

〈交誦〉(ルカ聖福音2:32)
*異邦人を照らす光,御民イスラエルの光栄.*
(シメオンの讃歌の一句切れごとに, この交誦をくりかえす)

〈讃歌〉(ルカ聖福音2:29-31)
御言葉のままに,主よ
今こそ御身のしもべを 安らかに逝(ゆ)かせ給え
異邦人をてらす光,御民イスラエルの光栄
私の目は,もはや主の救いを見たゆえに
*交誦・異邦人を…*
これは,万民の前にそなえ給うた御者である
*交誦・異邦人を…*
願わくは,聖父と聖子と聖霊とに光栄あれ,
*交誦・異邦人を…*
はじめとおなじく,今もいつも,世々に,アメン.
*交誦・異邦人を…*

〈交誦〉(詩篇43:26)
主よ,起って,われらを助け給え.
御名のために,われらを救い給え.
(詩篇43:2)神よ,われらは,この耳で聞いた,
父らが,これをわれらに語った.


〈祈願〉 主よ,願わくは,御民の願いをききいれ,
聖寵の光によって,年ごとに外部的に行うこの式を,
内部的にもあずからせ給え.
われらの主キリストによりて,
R/. アメン.

(行列)
V/. 平安に進もう.
R/. キリストの御名によって,アメン.
(行列の間,火を点じたろうそくをもって,次の交誦をうたう)

〔第一〕交誦
シオンよ,あなたの祝いの床をかざれ,
王たるキリストをむかえ奉れ,
天の門なるマリアを,愛をもってうけよ.
彼女は,新しい光の,光栄の王を
うでにいだき給う
あかつきの前に生れ給うた御子を
童貞女は,立ってささげ給う
シメオンはこれをうでにいだき,人々に,
かれが生命と死の主,世の救主であると告げた.

〔第二〕交誦(ルカ聖福音2:26, 27, 28-29)

シメオンは,聖霊によって,主のキリストを見るまで
死なないと示されていた
両親がその子をつれて神殿に来ると
シメオンは幼子を抱き,神を讃美していった
「御言葉のままに,主よ,今こそ御身の下僕(しもべ)を
安らかに逝(ゆ)かせ給え」と
V/. 両親がその子イエズスをつれ
律法のならわし通り行おうとして来たとき
シメオンは幼児を抱いた
(行列は聖堂に入る)

〈答誦〉
V/. かれらは,幼児のために,
山鳩一つがいか,はとのひな二羽かを,
主にささげた.
R/. 神の律法に記されている通り
V/. モイゼの律法にしたがって
マリアのきよめの日数がみちた時
両親は,主にささげるために
幼児を,エルザレムにつれていった
R/. 神の律法に記されている通り.
V/. 願わくは,
聖父と聖子と聖霊(ちちと こと せいれい)
とに光栄(さかえ)あれ.
R/. 神の律法に記されている通り.
(祭壇にかえり,司式司祭は紫の祭服から白い祭服に着替える)

大祝日のミサ聖祭「聖マリアの御潔め」

イエズスとシメオンとの幸せな出逢いに感謝しよう
〈入祭文,昇階誦〉なぜなら,遂に,新約の天使なる主が,
神殿に入り給い〈書簡〉,マリアとヨゼフとによる
象徴的な供者によって〈聖福音〉,
御民のきよめと成聖とを
もたらし給うたからである.〈書簡〉
この奥義,特に
イエズスと密にむすびついているマリアのとりつぎ
〈聖体拝領後の祈〉,
死のときにわれらを天にみちびき給うように.〈聖体拝領誦〉
……

* * *

(注)
*ミサ聖祭全体をウェブサイト
(毎日の聖人と祈り)に追って掲載いたします.

* * *

訳注 5-1

『(地上の)諸国家に下される最後の審判』について

後述

* * *

訳注 5-2

「あらゆるカインたちやユダたち」の意味:

「カイン」
=「真の神の正義・良識に従って
真面目に生きる善良な人を
妬み(ねたみ,嫉妬心)の為に
殺して社会的に亡き者にする
殺人者を指す.

「ユダ」
=神や恩人(=隣人)を
我欲の為に
金銭と引き換えに
悪人に引き渡す
裏切り者を指す.


* * *

訳注 5-1, 2

聖書からの引用:

1. 「地上の諸国家に下される最後の審判」
…新約聖書・ヨハネの黙示録

2. 「カインとアベル」
=最初の兄弟(最初の人アダムとその妻エバの長男と次男)
…旧約聖書・創世の書:第2-4章

からの引用を掲載予定.

* * *








(注:本投稿記事〈第376回エレイソン・コメンツ〉は2014年10月7日22:30に公開されました.)

2014年7月6日日曜日

364 ピィ枢機卿 II 7/5

エレイソン・コメンツ 第364回 (2014年7月5日)

     先週のピィ枢機卿の言葉の引用(せんしゅうの ぴぃすうききょうの ことばの いんよう)(EC 363参照)には以下の続き(いかの つづき)があります:-- ( "The quote last week from Cardinal Pie (cf. EC 362) continued directly as follows:-- " ).

     「やがて,炎の中で破壊される世界(ほのおの なかで はかい される せかい)を悪魔が乗っ取って(あくまが のっとって)しまったような,極限状態(きょくげん じょうたい),絶望的な状況下(ぜつぼうてきな じょうきょうか)で,すべての真のキリスト教徒(すべての まことの きりすと きょうと),すべての善人(ぜんにん),信仰と勇気を持ち続けるすべての人たち(しんこうと ゆうきを もちつづける すべての ひとたち)は果たして何が出来る(はたして なにが できる)でしょうか? ( " “In such an extremity, in such a desperate state of affairs, where evil has taken over a world soon to be consumed in flames, what are all the true Christians to do, all good men, all Saints, all men with any faith and courage ? " ) 彼ら(かれら)はかつてなかったほどの状況に立ち向かい(じょうきょうに たちむかい),熱心な祈り(ねっしんな いのり),積極的な行動(せっきょくてきな こうどう),恐れ知らずの奮闘(おそれしらずの ふんとう)をもって力を倍にして言う(ちからを ばいにして いう)でしょう,( "Grappling with a situation more clearly impossible than ever, with a redoubled energy by their ardent prayer, by their active works and by their fearless struggles they will say, …" )おお神よ,天に在す(座す)御父よ(おお かみよ,てんに まします おんちちよ),願わくは汝の御名の天に於けるが如く地上でとされ尊まれんことを(ねがわくは なんじの みなの てんに おけるが ごとく ちじょうで せいとされ とうとまれん ことを),汝の王国( "thy kingdom" )の天の御国に於けるが如く地上に来らんことを(なんじの おうこくの てんのみくにに おけるが ごとく ちじょうに きたらん ことを),汝の御旨の天に於けるが如く地上に行われんことを(なんじの みむねの てんに おけるが ごとく ちじょうに おこなわれん ことを).地上に天にある通り!(ちじょうに てんに ある とおり!)( "O God, O Father in Heaven, hallowed be thy name on earth as it is in Heaven, thy kingdom come on earth as it is in Heaven, thy will be done on earth as it is in Heaven. On earth as it is in Heaven ! " )(訳注後記1). そして,地が足元で崩れて行く間(ちが あしもとで くずれていく あいだ)も,彼ら(かれら)はその言葉をつぶやき続ける(そのことばを つぶやき つづける)でしょう.」( "And they will still be murmuring these words while the very earth is giving way beneath their feet." )


     「そして,昔々(むかし むかし)( " “And just as once upon a time, …" ),凄惨(せいさん)な軍事的大惨事の後(ぐんじてき だいさんじの あと)で( "… following upon an appalling military disaster …" ),あらゆる階級のローマ元老院と政府の役人が揃って敗れ去った執政官の前に現れ(あらゆる かいきゅうの ろーま げんろういんと せいふの やくにんが そろって やぶれさった しっせいかんの まえに あらわれ),ローマ共和国(ろーま きょうわこく)を諦める(あきらめる)ことなく戦いを終わらせた(たたかいを おわらせた)ことに祝意を述べたと同じように(しゅくいを のべたと おなじように)( "… the whole Roman Senate and State officials of all ranks could be seen going out to meet the defeated consul and to congratulate him on not having despaired of the Roman Republic; …" ),天国の元老院議員(てんごくの げんろういん ぎいん),諸天使の聖歌隊全員(しょてんしの せいかたい ぜんいん),神の祝福を受けたあらゆる階級の福者(かみの しゅくふくを うけた あらゆる かいきゅうの ふくしゃ)たちが見込みのない希望を抱き(みこみの ない きぼうを いだき)ながら最後まで戦う(さいごまで たたかう)度量の広い(=寛大・寛容な)信仰擁護者たち(訳注・=競技者たち)(どりょうの ひろい〈=かんだい・かんような〉しんこう ようごしゃ たち〈=きょうぎしゃ たち〉)( "the generous athletes of the Faith" )を迎え出る(むかえ でる)でしょう( "… so likewise the senate of Heaven, all the Choirs of angels, all ranks of the Blessed will come out to meet the generous athletes of the Faith who will have fought to the bitter end, hoping against hope itself." ).」

     「そして,あらゆる時代の選民(じだいの せんみん)たちがかたくなに追い求め(おい もとめ)てきたその不可能な理想(ふかのうな りそう)が現実(げんじつ)のものとなるでしょう( " “And then that impossible ideal that the elect of all ages had obstinately pursued will become a reality." ).彼(=神の御独り子イエズス・キリスト)の二度目にして最終の御来臨(かれ〈=かみの おんひとりご いえずす・きりすと〉の にどめ にして さいしゅうの ごらいりん)では,御独り子( "the Son" )はこの世(=地上・現世)の王国を御父たる神に引き渡し(このよ〈=ちじょう・げんせ〉の おうこくを おんちちたる かみに ひきわたし),悪魔の力は永遠に地獄のどん底まで突き落とされる(あくまの ちからは えいえんに じごくの どんぞこ まで つき おとされる)でしょう( "In his Second and final Coming the Son will hand over the Kingdom of this world to God his Father, the power of evil will have been cast out for ever into the depths of the abyss; …" ).信仰,愛,律法の順守(しんこう・あい・りっぽうの じゅんしゅ)によりイエズス・キリストを経て神へ同化,吸収(いえずす・きりすとを へて かみへ どうか,きゅうしゅう)されるのを拒み続け(こばみ つづけ)てきたものはすべて永遠の汚物排水溝(えいえんの おぶつ はいすいこう)に投げ捨て(なげすて)られるでしょう( "… whatever has refused to be assimilated and incorporated into God through Jesus Christ by faith, love and observance of the law will be flung into the sewer of everlasting filth." ).そして,神はその特質の一体性(とくしつの いったいせい)( "the oneness of his nature" )および三位の神的位格の交わり(=交流)(さんみの しんてき いかくの まじわり〈=こうりゅう〉)(訳注後記その2)( "the society of the three divine Persons" )のみならず( "not only in the oneness of his nature and in the society of the three divine Persons, " ),人間の姿をお取りになった神の御独り子の神秘的な御体の完全性(にんげんの すがたを おとりになった かみの おんひとりごの しんぴてきな おんからだの かんぜんせい)においても( "in the fullness of the Mystical Body of his Incarnate Son" )諸聖人の交わりの成就(しょせいじんの まじわりの じょうじゅ)においても( "in the fulfilment of the Communion of Saints" ),永遠に生き,君臨(えいえんに いき,くんりん)するでしょう!」 (訳注2・=「三位一体の神格」〈さんみ いったいの しんかくの こと〉 (訳注・聖霊によって〈人間と同じく〉肉の身体に宿られ〈にんげんとおなじく〉せいれいに よって にくの からだに やどられ〉) ( "And God will live and reign for ever and ever, not only in the oneness of his nature and in the society of the three divine Persons, but also in the fullness of the Mystical Body of his Incarnate Son and in the fulfilment of the Communion of Saints !” " )

     親愛なる読者(しんあいなる どくしゃ)の皆(みな)さん,この引用(いんよう)から,ピィ枢機卿(ぴぃすうききょう)は将来に暗いビジョンを抱き(しょうらいに くらい びじょんを いだき)ながらも,決(けっ)して敗北主義者(はいぼく しゅぎしゃ)でなかったことがお分(わ)かりになったのではないでしょうか( "Dear readers, it should be obvious by now that Cardinal Pie, for all the darkness of his vision of the future, was no defeatist." ).人類(じんるい)が人間的に見れば(にんげんてきに みれば)絶望的な状況(ぜつぼうてきな じょうきょう)に向(む)かっていることをはっきり見てとりながらも,彼は人類(じんるい)と神の見る視点(かみの みる してん)を同(おな)じようにはっきりと見分(みわ)けていました( " Even while seeing with an absolute clarity the humanly hopeless situation into which mankind was getting itself, with an equal clarity he distinguished the human from the divine point of view: …" ).神の視点とは,人類は19世紀(じゅうきゅう せいき)に全能の神に挑戦(ぜんのうの かみに ちょうせん)し,悪魔の人質(あくまの ひとじち)や恐ろしい地獄(おそろしい じごく)に散(ち)らばる餌(えさ)に成り果て(なりはて)るかもしれないが,それでも諸々の選民の霊魂(もろもろの せんみんの れいこん)が神を愛し神に仕える(かみを あいし かみに つかえる)ことを選び取る(えらび とる)という神の崇高な御意図(かみの すうこうな ごいと)が神の天の御国(かみの てんの みくに)のために達成(たっせい)されるだろうということです( "… a mass of men might in the 19th century have been defying Almighty God and turning themselves into pawns of Satan and fodder for his horrible Hell, nevertheless God's sublime purpose for the souls of the elect who would choose to love and serve him was at the same time being achieved for God's Heaven." ).まさしく「神を愛する人々(かみを あいする ひとびと)すなわちみ旨によって召し出された人々(みむね によって めしだされた ひとびと)のためには,神がすべてをその善に役立たせ(ぜんに やくだたせ)たもうことを私たちは知って(わたくしたちは しって)いる.」(聖パウロのローマ人への書簡:第8章28節)というわけです( "Truly, “to them that love God, all things work together unto good” (Rom. VIII, 28). " ).(訳注後記2)

     2014年の今日(にせん じゅうよねんの こんにち),私たちは悪魔が私たちの身の回り(あくまが わたくしたちの みの まわり)で蔓延る(はびこる)のをあまりにも世俗的な見方で考える(せぞくてきな みかたで かんがえる)ことによって神の御意図(かみの ごいと)( “God’s purpose” )を見失(みうしな)いがちです( "In 2014 we can easily lose sight of God's purpose by thinking in too human a way of the evil advancing all around us. " ).しかし,神の御意図は人類が文明を破壊(じんるいが ぶんめいを はかい)しようと望(のぞ)むとき,その文明を救う(ぶんめいを すくう)ことではありません( "But God's purpose is not to save civilisation if men wish to destroy it." ).神の御意図は御子イエズス・キリスト(おんこ いえずす・きりすと)を通(とお)して人々の霊魂を天の御国(=天国)へ導く(ひとびとの れいこんを てんの みくに〈=てんごく〉へみちびく)ことです( "His purpose is to bring souls to Heaven through his Son Jesus Christ, …).そして文明の崩壊(ぶんめいの ほうかい),あらゆる現世の野望(げんせの やぼう)や希望の失墜(きぼうの しっつい)は,人間の心(にんげんのこころ)をこの世で得られる報酬(このよで えられる ほうしゅう)をはるかに超(こ)えたところまで高(たか)めることになり,神の御意図実現に役立ち(かみの ごいと じつげんに やくだち)ます( "… and for this purpose the collapse of civilisation and of all earthly ambitions and hopes may well serve to force men's minds and hearts to rise above worldly considerations. ).神が私たちを創造(かみが わたくしたちを そうぞう)されたのは,現世の短い人生(げんせの みじかい じんせい)だけのためでも,この腐敗した世界(ふはいした せかい)のためでもありません( "God did not create us only for this short life, nor for this corrupt world." ).「私(わたくし)たちは永く続く都(ながく つづく みやこ)を今ここ(=地上・現世)で持たない(いま ここ〈=ちじょう・げんせ〉で もたない)が,やがて(=これから)来る都を探し求めて(きたる みやこを さがしもとめて)います」(訳注・「来る都(きたる みやこ)」=「天の御国(てんの みくに)=天国(てんごく)=霊魂の故郷(れいこんの こきょう・ふるさと)(使徒聖パウロのヘブライ人への書簡:第13章14節)( " “We have not here a lasting city, but we seek one that is to come” (Heb. XIII, 14)." ).(訳注後記3)

     キリエ・エレイソン.

     枢機卿は邪悪な(地上の)世界を見ても希望を失わなかった.
     (すうききょうは じゃあくな 〈ちじょうの〉せかいを みても きぼうを うしなわなかった.)
     ( "The Cardinal lost no hope from an evil world." )

     彼は信仰を得て天の御国の勝利が広がるのを見た.
     (かれは しんこうを えて てんの みくにの しょうりが ひろがるのを みた.)
     ( "With faith he saw the triumph of Heaven unfurled." )

     リチャード・ウィリアムソン司教



* * *



第2パラグラフの訳注その1:

「おお神よ,天に在す(座す)御父よ(おおかみよ,てんに まします おんちちよ), 願わくは汝の御名の天に於けるが如く地上で聖と尊まれんことを (ねがわくは なんじの みなの てんに おけるが ごとく ちじょうで せいと とうとまれん ことを), 汝の王国( "thy kingdom" )の天の御国に於けるが如く地上に来らんことを (なんじの おうこくの てんの みくにに おけるが ごとく ちじょうに きたらん ことを), 汝の御旨の天に於けるが如く地上に行われんことを (なんじの みむねの てんに おけるが ごとく ちじょうに おこなわれん ことを). 地上に天にある通り!(ちじょうに てんに ある とおり!)」
( "O God, O Father in Heaven, hallowed be thy name on earth as it is in Heaven, thy kingdom come on earth as it is in Heaven, thy will be done on earth as it is in Heaven. On earth as it is in Heaven ! " )
について…


⇒ “PATER NOSTER” /「主祷文(しゅとうぶん)」

SIGNUM CRUCIS / 十字架の印〈じゅうじかのしるし〉/ THE SIGN OF THE CROSS / SIGNE DE LA CROIX

IN NÓMINE PATRIS, ET FÍLII, ✠ ET SPIRITUS SANCTI. AMEN.

『聖父と聖子と✠聖霊との御名によりて.アーメン.
(ちちと こと ✠せいれいとの みなによりて.あーめん.)』

“IN THE NAME OF THE FATHER, AND OF THE SON, ✠ AND OF THE HOLY GHOST. AMEN."

“AU NOM DU PÈRE, ET DU FILS, ✠ ET DU SAINT-ESPRIT. AINSI SOIT-IL."



(於ミサ聖祭〈みさせいさいに おいて〉…

V/. ORÉMUS : Præcéptis salutáribus móniti, et divína institutióne formáti, audémus dícere :

祭主司祭 /. 祈願.救いに益ある戒めに勧められ,神の制定に教えられ,われらは,敢て祈り奉る.
〈さいしゅしさい /. きがん.すくいに えきある いましめに すすめられ,かみの せいていに おしえられ,われらは,あえて いのり たてまつる.〉

V/. LET US PRAY. Taught by the precepts of salvation, and following the Divine commandment, we make bold to say :

V/. PRIONS: Avertis par le précepte du Sauveur, et instruits par la leçon divine, nous osons dire:



PATER NOSTER, QUI ES IN CÆLIS :

天に在す,われらの父よ,願わくは
(てんに まします われらの ちちよ,ねがわくは)

OUR FATHER, WHO ART IN HEAVEN,

NOTRE PÈRE, QUI ÊTES AUX CIEUX,




SANCTIFICÉTUR NOMEN TUUM : ADVÉNIAT REGNUM TUUM :

御名の聖とされんことを,御国の来らんことを,
(みなの せいと されんことを,みくにの きたらん ことを,)

HALLOWED BE THY NAME. THY KINGDOM COME.

QUE VOTRE NOM SOIT SANCTIFIÉ, QUE VOTRE RÈGNE ARRIVE ;




FIAT VOLÚNTAS TUA, SICUT IN CÆLO, ET IN TERRA.

御旨が天に於いて行われるように,地上でも行われんことを
(みむねが てんに おいて おこなわれる ように,ちじょうでも おこなわれん ことを.)

THY WILL BE DONE ON EARTH, AS IT IS IN HEAVEN.

QUE VOTRE VOLONTÉ SOIT FAITE SUR LA TERRE COMME AU CIEL.




PANEM NOSTRUM QUOTIDIÁNUM DA NOBIS HÓDIE :

今日も,われらに,日々のパンを与え給え,
(こんにちも,われらに,ひびの ぱんを,あたえ たまえ.)

▴GIVE US THIS DAY OUR DAILY BREAD.

DONNEZ-NOUS AUJOURD’HUI NOTRE PAIN QUOTIDIEN ;




ET DIMÍTTE NOBIS DÉBITA NOSTRA, SICUT ET NOS DIMÍTTIMUS DEBITÓRIBUS NOSTRIS.

われらが人を赦すように,われらの負いめを赦し給え.
(われらが ひとを ゆるす ように,われらの おいめを ゆるしたまえ.)

AND FORGIVE US OUR TRESPASSES, AS WE FORGIVE THOSE WHO TRESPASS AGAINST US.

ET PARDONNEZ-NOUS NOS OFFENSES, COMME NOUS PARDONNONS À CEUX QUI NOUS ONT OFFENSÉS ;




ET NE NOS INDÚCAS IN TENTATIÓNEM. R/. SED LÍBERA NOS A MALO.

われらを試みに引き給わぬよう. 助祭 /. われらを悪より救い給え.
(われらを こころみに ひきたまわぬよう. じょさい/.われらを あくより すくいたまえ.)

AND LEAD US NOT INTO TEMPTATION. R/. BUT DELIVER US FROM EVIL.

ET NE NOUS LAISSEZ PAS SUCCOMBER À LA TENTATION, R/. MAIS DÉLIVREZ-NOUS DU MAL.



AMEN.
アーメン. (あーめん)』



* * *


第5パラグラフの訳注その3:

「神を愛する人々 (すなわちみ旨によって召し出された人々) のためには,神がすべてをその善に役立たせたもうことを私たちは知っている.」(使徒聖パウロのローマ人への書簡:第8章28節)というわけです.」
"Truly, “to them that love God, all things work together unto good” (Rom. VIII, 28). "
について:


使徒聖パウロのローマ人への書簡 第8章28節
(しと せいぱうろの ろーまじん への しょかん  だい はっしょう にじゅうはちせつ)

EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE ROMANS VIII, 28

ÉPÎTRE DE SAINT PAUL AUX ROMAINS VIII, 28

EPISTOLA AD ROMANOS VIII, 28

God predestined us to be conformed to the image of His Son
Prædestinavit nos Deus conformes fieri imagini Filii sui



『神を愛する人々すなわちみ旨によって召し出された人々のためには,神がすべてをその善に役立たせたもうことを私たちは知っている.』
(かみを あいする ひとびと すなわち みむねに よって めしだされた ひとびとの ためには,かみが すべてを その ぜんに やくだたせたもう ことを わたしたちは しっている.)

"And we know that to them that love God, all things work together unto good, to such as, according to his purpose, are called to be saints."

"Or nous savons que tout coopère au bien pour ceux qui aiment Dieu, pour ceux qui, selon son décret, sont appelés à être saints."

"Scimus autem quoniam diligentibus Deum omnia cooperantur in bonum, iis, qui secundum propositum vocati sunt sancti."



* * *

第6パラグラフの訳注その4

「私たちは永く続く都を今ここ(=地上・現世)で持たないが,やがて(=これから)来る都を探し求めています」(使徒聖パウロのヘブライ人への書簡:第13章14節)
"“We have not here a lasting city, but we seek one that is to come” (Heb. XIII, 14)."
について:


使徒聖パウロのヘブライ人への書簡 第13章14節
(しと せいぱうろの へぶらいじん への しょかん 
だい じゅうさん しょう じゅうよんせつ)

THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE HEBREWS XIII, 14

ÉPÎTRE DE SAINT PAUL L'APOSTOLAT AUX HÉBREUX XIII, 14

EPISTOLA BEATI PAULI APOSTOLI AD HEBRÆOS XIII, 14


私たちはここに不変の都をもたず,*未来の都を探している.』
(わたしたちは ここに ふへんの みやこを もたず,みらいの みやこを さがしている.)

"For we have not here a lasting city, but we seek one that is to come."

"Car nous n'avons point ici de cité permanente, mais nous cherchons la cité future."

"Non enim habemus hic manentem civitatem, sed futuram inquirimus."


(注釈)
*天のエルサレム.

(訳注・天のエルサレムは,天の御国の永遠の都)
〈てんの えるされむは てんの みくにの えいえんの みやこ〉




* * *

(注:本投稿記事〈エレイソン・コメンツ第364回〉は2014年8月25日10:07に公開されました.)

2013年5月31日金曜日

306 永遠の天罰? - II 5/25

エレイソン・コメンツ 第306回 (2013年5月25日)

    人間の霊魂(れいこん)が受ける天罰(てんばつ)の神秘(しんぴ,謎〈なぞ〉,"mystery" ).私たちの誰しもが,一人の霊魂についてさえその神秘を解き明かす(ときあかす)ことなど難(むずか)しいのに,ましてこの世に生きて死んでゆく大多数の霊魂についてその神秘を探(さぐ)ることができるなどと考えるのは浅(あさ)はかなことです( "It is idle to pretend that any of us human beings can fathom the mystery of one single soul’s damnation, let alone that of the majority of human beings that live and die, …" ).だが,この世には確かなことがあり,人知(じんち)を超えた神秘が存在することを私たちが受け入れやすいようにしてくれます( "…but there are certain things that can be said which make it easier to accept that there is a mystery beyond our human possibility of knowing." ). (訳注・「神秘」 = 人間の知恵では,はかり知ることのできない・こと〈さま〉. "mystery" = 1. Something that is difficult or impossible to understand or explain.)2. (Christian Theology) A religious belief based on divine revelation, especially one regarded as beyond human understanding. )

    その神秘を理解する鍵(かぎ)となるのは間違いなく神の果(は)てしない( "infinite" )偉大さ,すなわち神の無限性(むげんせい,"limitlessness" )です( "The key to the mystery is surely the infinite greatness, or the limitlessness, of God." ).神が無限であるなら,その神に背(そむ)くことはある意味で無限の罪を犯すということです( "If he is infinite, then to offend him is to commit an offence which is in a certain way limitless." ).だが,無限でない人間( "a finite human" )が果てしない苦しみを受けるのは,その苦しみに時間的な限度か終わりがない場合だけです( "But the only way for a finite human being to suffer infinitely is for the suffering to have no limit or end in time." ).それゆえ,神に対する重大な犯罪と永遠の天罰との間には一定の均衡(きんこう)があります( "Therefore there is a certain proportion between any grave offence committed against God, and an eternal punishment." ).

    神の無限性について,私たち人間の理性がそれを理論的に理解するのはさほど難しいことではありません( "As for the infinity or limitlessness of God, it is not too difficult for our reason to grasp it in the abstract." ).私たちの周りにはあらゆる因果関係(いんがかんけい)が存在します( "Effects exist all around us which require a cause." ).だが,原因の鎖(くさり)( "a chain of causes" )が果てしなく続くことはありません.鎖を果てしなくつなげる輪のつながりは鳶口(とびぐち,とびくち,"a ceiling-hook" )がないとすっぽ抜けます( "But a chain of causes can no more go on for ever than an endless series of links in a chain can hang without a ceiling-hook." ). したがって,ます第一の原因が存在しなければなりません( "So there must exist a First Cause, …" ).私たちはそれを神と呼びます( "… which we call God." ).だが,この第一の原因が合成物(ごうせいぶつ)( "composite" )すなわち複数の部品をまとめてできたものであるとしたら,それを作り上げた人や物は第一の原因以前に存在していなければならないということになります.これは不可能なことです( "But if this First Cause were composite, or put together out of parts, then whoever or whatever put it together would have to have been prior to the First Cause – impossible." ).それゆえ,神は決して合成物ではありません.純然(じゅんぜん)たる存在( "simple and pure Existence" )以外の何物でもありません( "Therefore God is in no way composite, he can only be simple and pure Existence." ).だが,その存在自体,存在というからには,限度のあるものです( "But existence is not by itself, as such, limited." ).神の存在に限度があるとすれば,それ以前にそれを制限する者がいたことになります.これもまたあり得ないことです( "Any limits on God’s being would have to have been put on him by a prior limiter, again impossible." ).したがって,第一の原因は神の存在に何らの制限も持ちません.神は無限の存在なのです( "Therefore the First Cause has no limits to his being, God is infinite existence." ).

    だが,具体的なことになると,私たちが神の無限に心を置くのはさほど容易(ようい)なことではありません( "In the concrete however, it is not so easy to get our minds around the infinity of God." ).私達人間の心は一日中,限りある生き物と接し働き続けます( "Our human minds are working all day long on, with and from limited or finite creatures." ).私たちが無限のものを考えるのは心を神に向ける時だけです( "Only when we turn our hearts and minds to God are we thinking of the infinite." ).だから,誰にとっても祈ることが難しいということになります( "Hence the common difficulty of prayer, …" ).なぜなら,私たちは身の回りの限りある善良( "some limited goodness" )のことを考え,その制限を頭の中で取り払うことによってのみ無限の善良( "what is limitless goodness" )について考えることができるからです( "… because we can only think of what is limitless goodness by thinking of some limited goodness around us and then thinking away the limits." ).例えば,神は夕日(ゆうひ)( "a sunset" )のように美しいが,夕日の美しさには限りがあるのに,神の美しさには限りがないという様にです( "For instance God is as beautiful as a sunset, only infinitely more so." ).

    したがって,私たちが日常生活にどっぷりと身を委(ゆだ)ねれば委ねるほど( "It follows that the more we allow ourselves to be immersed in daily living, …" ),私たちの心が日常生活を構成する,あらゆる(=すべての)限りあるものの背後(はいご)に存在する神の姿( "the God behind all the limited beings" )を理解する機会が少なくなります( "… the less chance have our minds and hearts of grasping who or what is the God behind all the limited beings that make up our daily living." ).逆に,日常生活の中のあるあらゆる限度ある物事の背後にある無限の善良を知り愛することに心を向ければむけるほど( "Contrariwise, the more we turn our minds and hearts to the knowing and loving of the unlimited Goodness necessarily behind all the limited good things of our daily lives, …" ),神の無限の良さの神秘( "the mystery of God's infinite goodness" )と,それに付随(ふずい)する多くの人間の忘恩(ぼうおん)の神秘に近づくのが容易になります( "… the better the access we will have to the mystery of God’s infinite goodness and to the corresponding mystery of the ingratitude of so many of his human creatures." ).

    したがって,諸々の人の霊魂が受ける永遠の天罰の神秘について憶測(おくそく)をめぐらすことなど止め(とめ,やめ),天罰を軽減(けいげん)するためには,私は聖ドミニク( "St Dominic" ,聖ドミニコ)の模範(もはん)にならい,また祈りをする必要があります( "Therefore to lessen – without remotely fathoming – the mystery of souls’ eternal damnation, I need to follow St Dominic’s example, and to pray." ).(訳注・心をせわしない日常の思い煩い〈わずら〉いから引き離し,目を閉(と)じて静かに瞑想〈めいそう〉し,自分の生命・存在の永遠の神秘〈=「無限・万能の神」由来の存在〉について思いを馳〈は〉せるということ.) このことは神が本当は間違っているのに正しいと,自分に偽(いつわ)って言い聞かせることを意味しません.それが意味することは,私があの真実に辿り着(たどりつ)くということ,すなわち神は正しいという真実,そして私 ―― は間違っている! という真実に,辿り着くということなのです! ( "That does not mean fooling myself that God is right when he is in reality wrong. It means my getting to the truth, namely that he is right, and that I -- am wrong ! " )

    聖イグナティウス(=聖イグナシオ〈スペイン語〉,"St Ignatius" )の霊操(れいそう)( "Spiritual Exercises" )は人の心を神に向けるのに大いに役立ちます( "St Ignatius’ Spiritual Exercises greatly help to turn heart and mind to God." ).聖人は以下のような言葉に則(のっと)って祈りました( "A Saint prayed along these lines:" ).「おお愛よ,そなたは愛されていないのです.愛よ,もしそなたが愛されていたなら! 愛よ,そなたをふさわしく愛する愛を私にお与え下さいますよう,そして,御旨(みむね)のままにこの身に行われますように.」( " “O love, thou art not loved. Would that thou wert loved. Give me only to love thee as thou needest to be loved, and then do with me what thou wilt.” " ).

    キリエ・エレイソン.

    リチャード・ウィリアムソン司教



* * *

2013年5月18日土曜日

305 永遠の天罰? - I 5/18

エレイソン・コメンツ 第305回 (2013年5月18日)

    これまでエレイソン・コメンツが直接的ないし間接的に何度か取り上げてきた古典的な問題を一読者が再び提起してきました.これはとても深刻な問題ですから,それだけ切り離して再度取り扱う価値があります( "A reader has raised once more a classic problem that has arisen a few times, directly or indirectly, in these “Comments”, but it is so serious that it deserves to be treated again on its own." ). 彼は次のように書いてきました.「私は永遠の天罰(えいえんのてんばつ)という教理( "the doctrine of eternal damnation" )があるため,自分が望むようなカトリック信徒になるのが難しいと感じています.私には一人の人間の霊魂( "a soul" )が絶え間(たえま)なく永遠に苦しめられるという考えを受け入れられそうにありません.この考えはあまりにも恐ろしすぎます.これほど型にはまったものでないカトリック教理があってもいいはずです.」( "He writes: “I find it difficult to be the Catholic I want to be because of the doctrine of eternal damnation. I cannot seem to accept the idea that a soul could be tormented ceaselessly for all eternity. It’s just too horrible. There has to be some Catholic doctrine that it’s not so cut and dried.” " ) つまり,どうして霊魂が永遠に恐ろしい苦悩を受けるのが当然ということになるのでしょうか( "In brief, how can even one soul be justly condemned to an eternity of frightful torment ? " )?

    スペインのセゴビア( "Segovia in Spain" )に今でも訪(おとず)れることができる洞窟(どうくつ,"a cave" )がありますが,ここで聖ドミニク( "St Dominic"〈セント・ドミニク〉.=聖ドミニコ)ほどの偉大な聖人でさえ同じ疑問を抱(いだ)き,祈りの中で苦しみもだえながら一夜(いちや)を過ごしたという事実に気づいてください( "Notice that in a cave one can still visit in Segovia in Spain, a great Saint like St Dominic spent a night agonising in prayer over this question." ).だが,全能の神でも罰を受けるに値(あたい)するとか無罪放免する必要があるから裁(さば)きにかけるなどといった問題はありえないという考はさし当(あた)り横におきましょう( "But let us lay down immediately that there can be no question of putting Almighty God in the dock, as though he either deserves to be condemned or needs to be acquitted." ).もし神の教会が,事実教えているとおり,一つの大罪(たいざい)を犯せば霊魂は永遠の天罰を受けると教えているとして,私がこれに同意しないとすれば,間違っているのは私であり神の教会ではありません( "If his Church teaches, as it does, that one mortal sin can condemn a soul to eternal hellfire, and if I disagree, then it is I that am wrong, and not his Church." ).なぜ私が間違っているのでしょうか( "Why am I wrong ? " )? 二つ関連し合う理由があり,その一つか両方があてはまります( "For either or both of two connected reasons. " ).一つは,よくありがちなことですが,私の小さな心には限りがあるのに神の心は無限であるため,私が神の偉大さ,善良さをつかみきれないとうことです( "Either I do not grasp the greatness and goodness of God, which it is easy to do, because my little mind is finite and God is infinite. " ).もう一つは,これもありがちなことですが,罪はまず最初に神を怒らせ(いからせ,おこらせ),ついで自分自身を怒らせ,3番目に隣人を怒らせるため,私自身が罪の重大さをつかんでいないということです( "Or I do not grasp the seriousness of sin, which it is also easy to do, because sin primarily offends God, only secondarily myself and only in third place my neighbour. " ).したがって,もし私が,罪を怒る神の偉大さを理解しないとすれば,私は罪の重大さを理解しません( "So if I fail to grasp the greatness of the God offended by sin, naturally I will not grasp the seriousness of sin." ).

    だとすると,次の疑問が浮かびます( "The question then becomes, …" ).偉大で善良な神は生きてきたすべての人間が現世(げんせ)の短(みじか)い人生のあいだに,神が存在すること,神が怒ることがあること,神を怒らせることとは基本的に何(なん)なのか,神を怒らせるとはいかに重大なことなのかを知る十分な手段を与えてくださっただろうか( "… has the great and good God given to every human being that ever lived sufficient means during its short life on earth of knowing that he exists, that he can be offended, what basically offends him and how serious it is to offend him ? " )? 答えは,その4つのいずれについてもイエスです( "The answer can only be affirmative on all four headings." ).

    * 私は神の存在を知るのに超自然的な信仰を必要としません( "* I do not need supernatural faith to know the existence of God." ).真っ直ぐな理性は人生のあらゆる良い出来事の陰に神( "a Supremely Good Being" )が存在することを教えてくれます( "Upright reason alone tells that behind all the good things in a man’s life is a Supremely Good Being." ). 自尊心(じそんしん,"pride" )で曲がったり,罪で暗くなった理性( "Reason" )は神の存在を教えてくれません( "Reason twisted out of true by pride or darkened by sin may not tell of this Being, …" ).だが,理性を曲げたり暗くしたりするのは私の誤(あやま)りであって,神の誤りではりません( "…but any twisting and darkening are my fault, not God’s, …" ).そのため,私は人生で経験したあらゆる良い出来事に見合った罰(ばつ)を受けるに値(あたい)します( "… and they deserve a punishment proportionate to all of the goodness which I have experienced in this life." ).そして私はそれについて「言い訳できません」( "inexcusable" )し(新約聖書・ローマ人への手紙:第1章20節を参照),神のせいにすることもできません( "… and which it was “inexcusable” of me (Rom. I, 20) not to ascribe to God." ).(訳注後記)

    * 自由意志(=自由意思)という現実( "the reality of free-will" )は日常経験することです( "* The reality of free-will is an everyday experience, …" ).私たちはだれでも生来(せいらい)の良心(りょうしん)の光( "the natural light of conscience" )を持っており,それが私たちに神を崇拝(すうはい)するよう教え( "… and every one of us has the natural light of conscience to tell us that we owe worship to the Supreme Being, …" ),崇拝を拒(こば)めば神を怒らせると教えてくれます( "… and that to refuse that worship is to offend him. " ).それが,第1の戒め( "the First Commandment" )であり,それを守るのに信仰を知る必要はありません( "Such is the First Commandment, and it does not need faith to be known." ).

    * 生まれつきの良心は私に,単に自然の法則を説くほかの9つの戒(いまし)めについても教えてくれます( "* Natural conscience also tells me of the other nine Commandments, which merely spell out the natural law, …" ).また,私がそれを破(やぶ)れば,私の隣人(りんじん)だけでなく,まず初めに神を怒らせることを教えてくれます( "… and it also tells me that to break them offends not only my neighbour but also, and even primarily, the Supreme Being." ).

    * そして最後に,私の良心が正しければ正しいほど,神を怒らせるのがどれほど重大なことかをよりはっきりと私に教えてくれます( "* And lastly, the cleaner my conscience is, the more clearly it tells me how serious it is to offend Him." ). 問題は私たちすべてが罪びとであること,そしていかなる罪も私たちの良心を暗くするということです( "The problem is that we are all sinners, and any sin helps to darken our conscience." ).だが,私たちの罪は私たち自(みずか)らの過(あやま)ちであり,神の過ちではありません( "But our sin is our own fault, not God’s, …" ).私たちが心を暗くしたことに神が罰を与えるのは正しいことです( "… and he is entirely just to punish us for how we darken our minds." ).

    確かに次のように異論(いろん)を唱(とな)える人もいるでしょう( "Alright, one may object, …" ).人はみな現世(げんせ)で神のことを十分知るよう仕向(しむ)けられており,神を怒らせた度合(どあ)いに応じて死後に罰を受けるのが当然だとしても( "… then all men are given in this life to know enough of God to deserve punishment after this life in proportion to how much they have offended him." ),誰しもが想像を絶(ぜっ)するような罰を永遠に受けて当然なほど神を怒らせうるものでしょうか( "But how can any mere man offend him so seriously that a punishment eternal and unimaginable is just ? " )? 神の深さと同じくらい奥深いこの謎(なぞ)について来週のエレイソン・コメンツで解明(かいめい)を試(こころ)みましょう( "Let next week’s “Comments” attempt to plumb a mystery which is as deep as God is deep." ).

    キリエ・エレイソン.

    リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


第5パラグラフの最初の訳注:
「神」"a Supremely Good Being" について:

・「神」とは「善そのもの」.

・直訳は,「(世に存在するあらゆる)善の至上位〈最高位〉権威者そのものである存在,あらゆる善の本源〈ほんげん〉であられる存在」.
それがすなわち,「神」である.

・原罪があり,罪深い人間同士の間では誰でも,罪の束縛から解放されるためには,自分の罪を神が憐(あわ)れんで下さるように,罪を犯した他人を憐れみ,自分に罪を犯した人を赦す義務がある. さもなければ,神もまた他人を赦さない人をお赦しになることはできない.
(主祷文より 「われらが人に赦(ゆる)す如(ごと)く,われらの罪を赦し給え」)

・しかし,神と人間の関係では別である.神は絶対的な存在であられ,人間は神の絶対性の御前に服従するほかない.

・この真実の神が地上において「悪」を大目に見られるということは不可能であり,絶対にあり得ない.
「悪」は,神の本質である「善」と全(まった)く相容(あいい)れないものであり,善そのものであられる神の摂理(せつり)から成(な)り立つ「大宇宙・大自然の摂理(せつり)」に真っ向(まっこ)うから逆(さか)らう原理」だからである.

・「罪を犯した人間を,神が罰する」というのは,実際的には,「人間が自ら犯した罪によって神の完全無欠(かんぜんむけつ)な善の摂理から外(はず)れてしまい,善そのものであられる神の完全な真理の世界から堕(お)ちてしまい,結果として,神の永遠の生命を失ってしまう」ということを意味する.

・もし罪を犯しても,自分の罪を悔(く)いて,自分の罪深さが,罪のない神の御独子(ひとりご)イエズス・キリストの犠牲〈十字架上の死〉なくして贖〈あがな〉われないということを認め,懺悔〈ざんげ〉して神に立ち返るなら,罪は赦〈ゆる〉されて,ふたたび神の完全性との交わりにうちに入り,永遠の生命を回復できる.)

・新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第12章12-50節(特に44-50節)を参照(以下に掲載).

新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第12章44-50節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN XII, 44-50
EVANGELIUM SECUNDUM IOANNEM XII, 44-50


『44 さて,イエズスは大声でこう叫ばれた,「私を信じる人は,私を信じるのではなく,私を遣(つかわ)わされたお方を信じ,
"44 But Jesus cried, and said: He that believeth in me, doth not believe in me, but in him that sent me.
"44 Iesus autem clamavit, et dixit : Qui credit in me, non credit in me, sed in eum qui misit me.

45 私を見る人は,私を遣わされたお方を見ている.
45 And he that seeth me, seeth him that sent me.
45 Et qui videt me, videt eum qui misit me.

46 私を信じる人が闇(やみ)にとどまらぬように,私はこの世に光として来た.
46 I am come a light into the world; that whosoever believeth in me, may not remain in darkness.
46 Ego lux in mundum veni, ut omnis qui credit in me, in tenebris non maneat.

47 私のことばを聞いて,それを守らぬ人がいても,私はそれをさばきはしない,私は世をさばくためではなく世を救うために来た.
47 And if any man hear my words, and keep them not, I do not judge him: for I came not to judge the world, but to save the world.
47 Et si quis audierit verba mea, et non custodierit, ego non iudico eum ; non enim veni ut iudicem mundum, sed ut salvificem mundum.

48 私を捨て,私のことばを受け入れぬ人をさばくものは別にいる.私の語ったことばこそ終わりの日にその人をさばくだろう.
48 He that despiseth me, and receiveth not my words, hath one that judgeth him; the word that I have spoken, the same shall judge him in the last day.
48 Qui spernit me et non accipit verba mea, habet qui iudicet eum. Sermo quem locutus sum, ille iudicabit eum in novissimo die.

49 私は自分から語ったのではなく,私を遣わされた父が,語るべきことを私に命じられた.
49 For I have not spoken of myself; but the Father who sent me, he gave me commandment what I should say, and what I should speak.
49 Quia ego ex meipso non sum locutus, sed qui misit me, Pater, ipse mihi mandatum dedit quid dicam et quid loquar.

50 私はその命令が永遠の命であることを知り,私の父の仰(おお)せられたままを語っている」.』
50 And I know that his commandment is life everlasting. The things therefore that I speak, even as the Father said unto me, so do I speak."
50 Et scio quia mandatum eius vita æterna est : quæ ergo ego loquor, sicut dixit mihi Pater, sic loquor."


* * *

第5パラグラフの2つ目の最初の訳注:
聖書の引用箇所の掲載

新約聖書・ローマ人への手紙:第1章20節(第1章16節-第2章16節を参照)
EPISTOL OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE ROMANS I, 20 (I, 16 – II, 16)
EPISTOLA BEATI PAULI APOSTOLI AD ROMANOS I, 20 (I, 16 – II, 16)

『神の不可見(ふかけん)性すなわちその永遠の力と神性は,世の創造の時以来,そのみ業(わざ)について考える人にとって見えるものである.したがって彼らは言い逃(のが)れができない.』

"For the invisible things of him, from the creation of the world, are clearly seen, being understood by the things that are made; his eternal power also, and divinity: so that they are inexcusable."

"Invisibilia enim ipsius, a creatura mundi, per ea quæ facta sunt, intellecta, conspiciuntur : sempiterna quoque eius virtus, et divinitas : ita ut sint inexcusabiles."


* * *
訳注を追補・追加掲載いたします.
* * *