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2014年4月12日土曜日

352 フランス旅行 4/12

エレイソン・コメンツ 第352回 (2014年4月12日)

     再び朗報(ふたたび ろうほう)をお届(とど)けします( "Good news again, …" ).今回(こんかい)はフランスからです( "… this time from France, …" ).今度(こんど)も分量(ぶんりょう)こそ少(すく)ないながら質の高い朗報(しつの たかい ろうほう)です( "… once more small in quantity but high in quality. " ).少数の(=一握りの〈ひとにぎりの〉,わずかの)善良な司祭(しょうすうの ぜんりょうな しさい)たちが共に集い(ともに つどい)( "A handful of good priests are gathering together…" ),信仰(しんこう)がルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)の示された方針に沿って守られる(しめされた ほうしんに そって まもられる)よう行動を起こして(こうどうを おこして)います( "… and taking action to make sure that the Faith will continue to be defended along the lines laid down by Archbishop Lefebvre, …" ).つまり,極右からの教皇空位論(きょくう からの きょうこう くういろん)と上からの公会議主義(うえからの こうかいぎ しゅぎ)との(=意訳・教皇空位主義の攻撃を右側から公会議主義の攻撃を ―― 〈左側ではなく〉上側から迎〈むか〉えその)隙間を縫って進む(すきまを ぬって すすむ)ということです( "… steering between sedevacantism on the right and conciliarism -- from above." ).会員を置き去り(かいいんを おきざり)にする聖ピオ十世会(せい ぴお じゅっせい かい)( SSPX )本部(ほんぶ)は好(す)きなようにさせておき( "SSPX HQ will be left to bury its followers, …" ),残(のこ)りの幸運な司祭(こううんな しさい)たちは迫害の迫撃を受ける(はくがいの はくげきを うける)次の段階に備えて(つぎの だんかいに そなえて)真の宗教(まことの しゅうきょう)で自らの立場(みずからの たちば)を強くする努力(つよくする どりょく)を続(つづ)けています( "… while a remainder of happy priests will continue to fortify themselves with the true religion for the next stage in their persecution." ).

     これは私(わたくし)が昨年秋(さくねん あき)から4回(よんかい)にわたり説教(せっきょう)のために訪(おとず)れたフランス国内各地(ふらんす こくない かくち)の施設(しせつ)で観察した状況(かんさつした じょうきょう)です( "This is what I observed on a fourth lecture tour since last autumn of centres in France …" ).どの施設(しせつ)でも,一般信徒(いっぱん しんと)たちはピオ6世(1717-1799年)からピオ12世(1876-1958年)までの間(あいだ)の歴代(れきだい)カトリック教教皇(かとりっく きょう きょうこう)が説(と)いた反自由主義教理(はん じゆうしゅぎ きょうり)に関心を示して(かんしんを しめして)います( "… where the laity are interested in the anti-liberal doctrine of the Catholic Popes between Pius VI (1717-1799) and Pius XII (1876-1958)." ).この教理はとくに新(あたら)しいものではなく,この1世紀半の期間(いっせいきはんの きかん)の初めの頃(はじめの ころ)でさえ詳しく説かれて(くわしく とかれて)いたものでした( "That doctrine was not new, even at the beginning of the century and a half over which it was elaborated." ).教会が絶えず教えて(きょうかいが たえず おしえて)きたことの中で,特定の部分(とくていの ぶぶん)に注目を新たに(ちゅうもくを あらたに)する必要が生じた(ひつようが しょうじた)のは( "It was merely that particular part of the Church's timeless teaching which needed to be refreshed from the moment …" ),15世紀に及ぶ(じゅうごせいきに およぶ)キリスト教の社会秩序(きりすと きょうの しゃかい ちつじょ)が1789年のフランス革命(ふらんす かくめい)により破壊(はかい)され奪い去られた瞬間(うばい さられた しゅんかん)からでした( "… when the Christian social order of 15 centuries was undermined and supplanted by the French Revolution of 1789. " ).

     フランス革命はフリーメーソン的自由主義(ふりーめーそんてき じゆうしゅぎ)が教会の玉座(きょうかいの ぎょくざ)(訳注1)と祭壇(きょうかいの ぎょくざと さいだん)をその地位から引きずりおろし転覆させようと狙って神に戦いを挑んだ(ちい から ひきずりおろし てんぷく させようと ねらって かみに たたかいを いどんだ)ものでした( "That Revolution was Freemasonic liberalism making war on God by seeking to overthrow throne and altar." ).

     それ以来(いらい),神の公教(=カトリック教)の諸々の玉座(かとりっく きょうの もろもろの ぎょくざ)は「民主主義( "democracy" )」(みんしゅ しゅぎ)により事実上覆(じじつじょう くつがえ)され( "Since then the Catholic thrones have been virtually overthrown by "democracy", …" ),諸カトリック教会の諸々の祭壇(しょ かとりっく きょうかいの もろもろの さいだん)は第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)( "Vatican II" )で公会議が人間の宗教(にんげんの しゅうきょう)に転向(てんこう)したことにより事実上壊された(じじつじょう こわされた)ままになってきました( "… while the Catholic altars were virtually overthrown at Vatican II by that Council's conversion to the religion of man. " ).だが,神の宗教に忠実な(かみの しゅうきょうに ちゅうじつな)ルフェーブル大司教は( "Archbishop Lefebvre however, cleaving to the religion of God, …" ),自分(じぶん)の弟子(でし)たちが自由主義世界の中(じゆうしゅぎ せかいの なか)でカトリック教の立場(たちば)をどう守(まも)るかを知(し)るため教会の反革命的教理(きょうかいの はんかくめいてき きょうり)を完全に理解(かんぜんに りかい)するよう望(のぞ)まれました( "… wished that his seminarians would be thoroughly familiar with the Church's anti-Revolutionary doctrine in order to know how to take their Catholic stand in the midst of a liberal world. " ).大司教の設立(せつりつ)した SSPX が巧(たく)みに新社会(しん しゃかい)( "the Newsociety" )に変えられる様子(かえられる ようす)を理解(りかい)する一般信徒(いっぱん しんと)たちが( "It follows that Catholic lay-folk who can see how the Archbishop's Society of St Pius X is being cunningly transformed into the Newsociety, …" ),第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)の150年前(ひゃくごじゅう ねん まえ)に出(だ)された歴代教皇の回勅(れきだい きょうこうの かいちょく)に関心を示す(かんしんを しめす)のはこのためです( "… are interested in the Popes' Encyclical Letters of those 150 years before Vatican II." ).私は4回のフランス旅行の最初の旅行期間中(さいしょの りょこう きかん ちゅう)に5か所を訪れ(ごかしょを おとずれ)ました( "On the first of my four lecture tours there were five stops." ).直近の,3月末から4月初め(ちょっきんの,さんがつ すえ から しがつ はじめ)にかけての今回の旅行(こんかいの りょこう)では9か所を訪れ(きゅうかしょを おとずれ)ました( "On the latest, between end March and early April, there were nine, …" ).これからさらにお呼(よ)びがかかりそうです( "… and there risk being more invitations." ).訪れた先々(おとずれた さきざき)で,SSPX が誤った方向(あやまった ほうこう)へ導(みちび)かれていることに目を覚ま(めを さま)されているフランスの一般信徒たちが増(ふ)えているのを知(し)りました( "There are, all the time, more French lay-folk waking up to how the Society is being misled." ) .

     悲(かな)しいかな,あまりにも多くの聖ピオ十世会の司祭はまだ誘惑の達人の魔法(ゆうわくの たつじんの まほう)にかかったまま,俗世界の夢に魅せられて我を見失っている状態(ぞく せかいの ゆめに みせられて われを みうしなっている じょうたい)です( "Alas, all too many SSPX priests are still spellbound by a master of seduction, lost in his worldly dream." ).私は今回の旅行(こんかいの りょこう)で,そのうちの何人(なんにん)かにお会(あ)いしました( "I met a few of them on this latest tour." ).彼(かれ)らは間違(まちが)いなく善良(ぜんりょう)で,司祭として立派(りっぱ)にふるまってきた人たちです( "They are no doubt good men, they have been good priests, …" ).彼らは目を開き(めを ひらき)多(おお)くのことを見(み)ます( "… they have their eyes open and see many things, …" ).だが,一度(ひとたび)その誘惑者に触れる(ゆうわくしゃに ふれる)と,その視覚が曇り(しかくが くもり),気持ち惑わされて(きもち まどわされて)しまうのです( "… but when they are exposed once more to that seducer, their vision clouds over and their will is puzzled." ).ギリシア語の動詞(ぎりしあごの どうし)「 diaballein 」は英語(えいご)の「 diabolical(ひどい)」,「 devil(悪魔〈あくま〉)」の語源(ごげん)ですが( "The Greek verb "diaballein" from which come the English words "diabolical" and "devil", …" ),「ひっくり返(かえ)す」,「混乱に陥れる(こんらんに おとし いれる)」ことを意味(いみ)します( "… means to turn upside down, to throw into confusion." ).

     私が上に述べた(うえに のべた)6名の司祭(ろくめいの しさい)たちは,このように混乱させられた司祭(こんらん させられた しさい)たちとはまったく違(ちが)います( "These confused priests contrast with the half dozen mentioned above who have seen clear and are taking action on what they see." ).彼らは長(なが)いあいだ自分(じぶん)たちのひどい指導者(しどうしゃ)たちに忠実(ちゅうじつ)であろうと努(つと)める緊張感を味わって(きんちょうかんを あじわって)きましたが,これはいまや過去(かこ)のことになっています( "The tension by which they were tortured for as long as they tried to remain loyal to diabolical leaders is a thing of the past." ).彼らは心穏やか(こころ おだやか)で,嬉々(きき)としてルフェーブル大司教の作業を続ける(さぎょうを つづける)ための計画作り(けいかく づくり)に携(たずさ)わっています( "They are serene, and happily making plans for the continuation of the Archbishop's work." ).その中(なか)の一人(ひとり)ドゥムロード神父( "Fr. de Merode" )は何年も前(なんねんも まえ)に叙階(じょかい)叙任?を受けた方ですが,自分の意志(じぶんの いし)で SSPX を離(はな)れ,すでにルルド(るるど)( "Lourdes" )に家を一軒購入(いえを いっけん こうにゅう)し,フランス南西部(なん せいぶ)にもう一軒購入(いっけん こうにゅう)しようとしています( "Fr. de Mérode, ordained many years ago, has left the SSPX of his own accord, has bought one house in Lourdes and is buying another in the Southwest of France." ).彼が購入した家(いえ)は,関心を持つ地元の人々(かんしんを もつ じもとの ひとびと)のための使徒会(しとかい)の場(ば)として,また立ち直り(たち なおり)たい場所(ばしょ)を必要(ひつよう)としている司祭たちの避難所(しさいたちの ひなんばしょ)として役立つ(やくだつ)ことでしょう( "These will act both as bases for an apostolate to many interested souls in the region, and as refuges for priests needing somewhere to recover." ).付け加える(つけくわえる)なら,私はリヨン(りよん)( "Lyon" )で自分が市内に持つスタジオ(じぶんが しないに もつ すたじお)を同(おな)じように避難場所(ひなん ばしょ)を求(もと)める司祭たちのために提供(ていきょう)している尊敬すべき女性(そんけい すべき じょせい)にお会(あ)いしました( "I can add that I met a venerable soul in Lyon who is offering a studio of hers in that city to any priest similarly looking for a roof." ).また,イングランド(いんぐらんど)のブロードステアズ(ケント州)(ぶろーどすてあず〈けんとしゅう〉)( "Broadstairs, England" )にある「抵抗( "Resistance" )」の家(「ていこう」の いえ)はすでに開設(かいせつ)され,聖職に携わる訪問者の受け入れ(せいしょくに たずさわる ほうもんしゃの うけいれ)が可能な状態(かのうな じょうたい)です( "Also the "Resistance" House in Broadstairs, England, is now open and can receive priestly visitors. " ).すでに一人(ひとり)がここに入(はい)りましたOne has already come by." ).この家(いえ)では行動の自由が保証(こうどうの じゆうが ほしょう)されています( "Discretion guaranteed. " ).

     大司教(だいしきょう)さま,捻じ曲げられた組織(ねじまげられた そしき)( SSPX )の外(そと)では
( "Outside, Archbishop, of its structure bent …" )

     あなたが意図(いと)されたように,あなたの壮大な作業(そうだいな さぎょう)が続(つづ)いています
( "… Your noble work continues, as you meant." ).


     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教




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第3パラグラフの訳注1

「"throne and altar"」 「教会の玉座と祭壇」

「フランス革命は …… 教会の王座と祭壇の転覆を狙って神に戦いを挑んだもの……」の

"throne and altar" 「教会の玉座と祭壇」の「教会の玉座」"throne" について:

→ "throne" ="Sancta Sedes 〈ラテン語〉/ Holy See 〈英語〉"

***

イエズス・キリスト(=天地の王君・牧者たる神の御独り子の教会の王座

ローマ教皇(=王君であり牧者である神の御独り子キリストの代理者)の聖座
(おうくん・ぼくしゃ たる きりすとの だいりしゃ たる ろーま きょうこう の せいざ)

= Sancta Sedes / Holy See

ローマ司教座Episcopalis Sedes = Episcopal See of the Bishop of Rome = Holy See )
(ろーま しきょうざ)

Cathedra (ラテン語)/ καρέκλα (ギリシア語)

***

・一般に,「大聖堂=カテドラル」とは,

=司教( επίσκοπος 〈ギリシア〉/ episcopus〈ラテン〉/ évêque 〈仏〉/ bishop〈英〉)が

①司教区に所属する信徒に対し教導権を行使し,また,

②種々の真の神の公教(カトリック教)の秘跡を授けるミサ聖祭を

司式する際に

着任する座(=席)のある聖堂のこと.

使徒座 Apostolic See

司教座( cathedra )が置かれている聖堂を,「司教座聖堂」「大聖堂」「バジリカ」と呼ぶ.

司教座聖堂 / 大聖堂
Ecclesia cathedralis〈ラテン〉 / καθεδρικό ναό〈ギリシャ〉 / Cathedral〈英〉

***

・ローマ司教(=ローマ教皇)の司教座聖堂:

→ローマ・バチカンにある.

ローマ司教(ローマ教皇)の司教座( cathedra )はラテラノ大聖堂に置かれている.

→『至聖なる救世主の大聖堂』

=『ラテラノ大聖堂』

『〈ラテラノの洗者〉聖ヨハネの大聖堂)』 (日本語)

Archibasilica Sanctissimi Salvatoris et Sanctorum Ioannis Baptistae et Ioannis Evangelistae in Laterano (ラテン語・正式名称)

Papale di San Giovanni in Laterano〈伊〉

 La Basilique Saint-Jean-de-Latran 〈仏〉

Papal Archbasilica of St. John Lateran〈英〉



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2012年11月25日日曜日

280 迫りくる独裁 11/24

エレイソン・コメンツ 第280回 (2012年11月24日)

数週間前,インターネットのウェブサイト「321gold」に私たちがいま住む世界についての素晴らしい描写(びょうしゃ)が掲載(けいさい)されました( "A marvellous portrait of our contemporary world appeared a few weeks ago on the Internet website, 321gold." ).その一文のタイトルは「低落(ていらく),腐敗(ふはい),否認(ひにん),妄想(もうそう),絶望(ぜつぼう)( "Decline, Decay, Denial, Delusion and Despair" )という恐ろしいものですが,中身はいたって現実に即(そく)したものです( "The title is daunting: “Decline, Decay, Denial, Delusion and Despair”, but the content is surely true to life." ).サイトの著者は,アメリカ東部のいたるところで見られる街の光景から話し始めたあと ( "Starting from a street scene to be found no doubt all over the eastern United States, …" ),今後15年以内に,私たちが望んだ理念から派生(はせい)した望みもしない副産物として,ジョージ・オーウェル風の独裁(どくさい) ( "Orwellian dictatorship" ) が同国を襲(おそ)うだろうと結論づけています ( "… he concludes that within 15 years an Orwellian dictatorship will descend upon his country as the unwanted effect of wanted causes." ) 今やアメリカは全世界の典型となっているのではないでしょうか ( "But the USA is not typical of the whole world ? " )? 世界中の人々がアメリカの生活様式に不本意ながら従っています.「皆さんくれぐれも用心しましょう!」と著者は警告しています( "The whole world is buying into the American way of life. “Let the buyer beware” ! " ).

著者はこの秋,ニュージャージー州のワイルドウッドという町を訪れ,通りのいたるところで年齢50歳以下のぶくぶくに太った男女が大勢,政府の補助金で支給された電動カートに乗って動き回っている光景を目にしたそうです( "This autumn in the streets of Wildwood, New Jersey, the author observed pavements encumbered with a host of heavily overweight men and women under 50 years of age rolling around town on government-subsidized mobility scooters …" ).連中はファストフード店をはしごしながら砂糖のたっぷり入ったうまいもの( "sugar-laden goodies" )を食べ歩き,その結果さらに太り,乗っているカートが重さに耐えかねて悲鳴をあげているというのです( "… to visit one fast-food joint after another in order to gorge on sugar-laden goodies which would give their latest model scooters more work than ever." ).彼が連中につけたおかしな名前を想像できますか? ( "His amusing name for them ? " ) ― 「強力な移動度増強カートに乗っている太った身障者」というのです( " “The weight-challenged disabled on their powered mobility enhancement vehicles.” " ). これはまさしく差別語禁止からの逃げです( "Such is the flight from reality of “political correctness” and its language. " ).

著者はこの笑えない喜劇がどうやって生まれたのかを考え次のように述べています( "The author seeks causes for this tragic-comic effect : … " ).「かつて所得の12パーセントを貯蓄していたアメリカ人は誰に説き伏せられて借金まみれ,砂糖づけの生活スタイルに陥り,肥満度統計の上限からはみ出るほどになり,貯金は底をつき,子供や孫に耐えられないほどの借金の重荷を残すようになったのだろうか?」( "… how can the American people that once saved 12% of their income have been persuaded to frighten the obesity statistics off the end of the charts with a debt-laden, sugar-sodden way of life, with no more savings for themselves and with an unbearable burden of debt being bequeathed to their children and grand-children ? " )むろん彼らに自制心が欠けていたためだが,ほかにもっと邪悪な要因,つまり,これほど愚かな光景の裏にひそむ何らかの心理状況があるのではないか,と彼は言います( "Of course there is a lack of self-control on their part, he says, but there must be something more sinister, some mind behind such a mindless scene." ).現代の大衆操作術をマスターした目に見えない政府によって市民全体が操られていると言うのです( "He says the mass of citizens are being manipulated by an invisible government that has mastered the modern techniques of mass manipulation." ).

著者は1920年代に現れたそのようなマスターたちの先駆者(せんくしゃ)であるエドワード・バーネーズ( "Edward Barnays" )の次の言葉を引用しています( "He quotes a pioneer of these masters from the 1920’s, Edward Bernays: " ): 「意識的かつ賢明な大衆操作は民主主義社会における重要な要素である…( " “The conscious and intelligent manipulation of the masses is an important element in democratic society…" )… 膨大(ぼうだい)な数の人間がスムーズに機能する社会で共に生きるためには、彼らはそのような方法で協力しあわなければならない…( "…Vast numbers of human beings must cooperate in this manner if they are to live together as a smoothly functioning society…" )… 政治,ビジネス,社会的行動,倫理的思考のいずれにおいても,我々は比較的少数の人間によって支配される…( "… Whether in politics, business, social conduct or ethical thinking, we are dominated by the relatively small number of persons…" )… そして,その連中は大衆の心理的プロセス,社会的パターンをよくわきまえている( "…who understand the mental processes and social patterns of the masses.” " ).」彼らは「国の真の統治者」であり,「大衆心理を陰(かげ)で操(あやつ)る」と,バーネーズは言っています( " “ They are “the true ruling power of the country,” and they “pull the wires which control the public mind.” " ).連中の目的は何でしょうか? 自身の富と権力のためです( "For what purpose ? For their own wealth and power." ).

今日の財政,経済危機を自らの利益になるように仕組んだのはほかならぬ彼らです( "It is they who have organized today’s financial and economic crisis for their own benefit. " ).サイトの著者は次のように言っています.「彼らは世界経済を破綻(はたん)させ … ( "…They have “wrecked the world economy …" ) … 彼ら自身にとっては無価値の負債を納税者とまだ生まれていない世代に押し付け( "…shifted their worthless debt onto the backs of taxpayers and unborn generations, …" ),高齢者や貯蓄者から毎年4千億ドルの利子負担をかすめ取ってバスの下に放り出し( "…thrown senior citizens and savers under the bus by stealing $400 billion per year of interest from them, …" ),自らはバブル期のような利益とボーナスを得て懐(ふところ)を肥(こ)やしているのです( "…and enriched themselves with bubble-level profits and bonus payments.” " ).」そして,このような持続(じぞく)不可能な生活様式に終止符(しゅうしふ)を打たなければならなくなったとたんに,目に見えない支配者たちが私たちに用意したものは何かと言えば( "…And when the plug has to be pulled on this unsustainable way of life, then our invisible masters have prepared for us…" ),何百万発の銃弾で武装された警察を使った1984年の「涙の独裁」( "…a 1984 “dictatorship of tears” with militarized police with millions of bullets, …" ),いたるところに配備された監視カメラ,無人飛行機( "…surveillance cameras and drones everywhere, …" ),罪状のないままの投獄,等々だというのです( "…imprisonment without charges and so on and so on." ).だが,著者はこうした事態を招いた原因は,真実より無知を,健康より病(やまい)を,批判的な考え方よりマスメディアの嘘(うそ)を,自由より安全を選択した市民自身の間違いにあると言っています( "Yet, says the author, it is the citizens’ own fault who have preferred ignorance to truth, sickness to health, media lies to critical thinking, security to liberty." ).

彼の称賛に値する分析にただ一つ欠けているものがあります( "There is only one thing lacking to this admirable analysis: " ): 十戒にあるように,私たちすべてが死に際して審判(しんぱん)を受ける神の存在を少しでも心にとどめていれば,支配するエリートがこれほど横暴(おうぼう)になり,支配される大衆がこれほど口をつぐんできただろうかという疑問です( "could our governing elite have run so wild, or our masses have turned so dumb, if either had retained the least sense of a God who judges us all at death, according to Ten Commandments ? " ). 答えはもちろんノーです( "Of course not. " ).カトリック信徒の皆さん,目を覚ましましょう!( "Catholics, wake up ! " )

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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2011年12月31日土曜日

233 新年 (12/31)

エレイソン・コメンツ 第233回 (2011年12月31日)

そしてまた空が地に落ちることなく1年が終ります.私はもう数十年もの間,たとえば最近では5年か7年ほど前にフランスのある小グループの人たちに空が落ちつつあると話してきました.彼らの中には聖ピオ十世会の司祭で1970年代後半と1980年代初期に私がエコン( “Econe” ,スイス)にある同会の神学院で教授をしていたとき神学生だった人がいました.その彼が,「司教閣下,あなたは25年前にそのことを言っておられませんでしたか?」と言いました.彼はそれを微笑(ほほえ)みながら言っていたので,おそらくいつかは私が正しかったということになるのではないかと考えたのかもしれません.

それでは果(は)たして2012年は空が落ちる年となるでしょうか? 世の多数の評論家たちは2012年は世界経済が崩壊(ほうかい)する年になるかもしれないと考えています.確かに借金は過去数十年と同じように増やし続けることはできません.例えば福祉給付金は多くの西欧民主主義国の予算にとり耐え難い負担なのですが,ほぼ当然のこととはいえ民主主義体制下の政治家は財政の健全性を回復するために必要な厳(きび)しい決定を行う能力を備えていません.なぜなら,再選を望む限り彼は福祉給付金に手をつけられないからです.よく言われる通り,民主主義が続くのは国民が国の現金は結局は自分たちのものだと気づいていない間だけです.

そこで2012年は西欧民主主義国が終局的に崩壊する年となるのでしょうか? そうなるかもしれませんし,そうならないかもしれません.今日多くの人々がなんらかの大災難が迫りつつあるという実感を持っています.その日が到来(とうらい)するのにまだあと30年かかるなどということは到底(とうてい)ありえない,と言う人もいます.だが,これまでそのことは何年も言い続けられてきました.もしかすると人々はリベラリズム(自由主義)にあまりにも深く酔いしれていて深まる一方の混乱の度合いに無関心となっているのでしょう.だが,神の御業(みわざ)はゆっくりでも仕業(しわざ)は完璧,という格言があります.言い換えれば,神が出される請求書はすべて支払われなければならず,計算する日がいつか必ず訪れるでしょう.そして,その支払い額はどう見ても単なる福祉給付金よりはるかに膨大(ぼうだい)なものとなるでしょう.

今年,来年,いつか,それともそんな年は決して来ないのでしょうか? その年は間違いなく来ます.それは神が良しとされる時に来るでしょう.( “It will come in God’s good time.” )その年がいつかはさほど重要ではありません.ハムレット(第5幕第2場)が言うように,「一羽の雀(すずめ)が地に落ちる時機のうちに神の摂理(せつり)( “a Providence”,=神の御心〈御意思,配慮,計らい,導き〉)が在(あ)る.神がその時機の到来を今とお計らいになれば,それは後(のち)に到来することはない.もしその時機が後に到来しないなら,今到来し得る.たとえ今到来しなくても,いつか神が良しと思召(おぼしめ)される時機に必ず到来する.(それがいつであろうと)必ず到来するその時機を常に覚悟し,警戒して弛(たゆ)まず人生を過ごすことに自分の存在のすべてがかかっている).」(訳注・意訳.原文… “As Hamlet says (Act V, 2), “There is a providence in the fall of a sparrow. If it be now, ‘tis not to come; if it be not to come, it will be now; if it be not now, yet it will come: the readiness is all.” ” )(訳注後記・1)どんなことにも神の摂理が存在します.どんなときにも唯一の神が常にそこに関わっておられるのであり,その神の思し召(おぼしめ)されるタイミングが最良なのです.「神の時は最良の時である,」 “Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit” と,ドイツのことわざは言っています.(訳注後記・2)

神が易々(やすやす)と私たちの多くに対し現在破滅(はめつ)へ向かっているカトリック教会と世界を食い止めるべく行動するよう求められることもないでしょう.私は世界の公的指導者たちの多くが内心ではひそかに何もすることができないと無力に感じているに違いないと思っています.また私は,がむしゃらに世界支配を目指(めざ)している世界の秘密の管理者たちでさえ,自分たちに勝算(しょうさん)があると常に確信しているわけではないと思います.「私だけが今のあなたがたを助けられます,」と神の御母( “the Mother of God” ,聖母)は仰(おお)せられます.

神が私たちにお求めになるのは神の恩寵(おんちょう)のうちに生きることと神を信頼することです.崩壊(ほうかい)の起きるのが2012年あるいはそれ以外のいつであっても,人間的な観点からはそれはきっと不愉快(ふゆかい)なものに映(うつ)るでしょう.だが神の観点からは神の懲罰(ちょうばつ,“chastisements” )は慈悲(じひ)行為 “acts of mercy” なのです.聖パウロは格言の書( “Proverbs” 〈旧約聖書〉,3章11–12節)を次のように引用しています.「わが子よ,神の懲(こ)らしめをあなどらず,神の懲らしめを受けて,悪意を抱くな.なぜなら,神は愛する者を懲らしめ,いちばん愛する子を苦しめたもうからである.」( “My son, reject not the correction of the Lord, and do not faint when thou art chastised by him. For whom the Lord loveth, he chastiseth.” )聖パウロはさらに次のように続けます(〈新約聖書〉,ヘブライ人への手紙12章7–8節).「あなたたちが試練を受けるのは懲らしめのためであって,神はあなたたちを子のように扱(あつか)われる.父から懲らしめられない子があろうか.誰にも与えられる懲らしめを受けなかったなら,あなたたちは私生児であって,真実の子ではない.」 ( Heb.XII, 7-8, “Persevere under discipline. God dealeth with you as with his sons. For what son is there whom the father doth not correct ? But if you be without chastisement, whereof all are made partakers, then are you bastards and not sons.” )

すべてはカトリック教に則(のっと)った覚悟(=警戒,準備)のいかんにかかっています,賢い乙女たちのした警戒のように(マテオ聖福音・25章13節)(訳注後記).( “The Catholic readiness is all, as of the wise virgins. (Mt, XXV, 13)” ) 

新年おめでとう.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第4パラグラフの第1の訳注:
英国の劇作家シェイクスピアの悲劇「ハムレット」(第5幕・第2場)

“There is a providence in the fall of a sparrow. If it be now, ‘tis not to come; if it be not to come, it will be now; if it be not now, yet it will come: the readiness is all.” について.

他の邦訳参照:
(河合祥一郎教授訳「新訳 ハムレット」〈角川文庫〉より引用)
「雀一羽落ちるのにも神の摂理がある.無常の風は,いずれ吹く.今吹くなら,あとでは吹かぬ.あとで吹かぬのなら,今吹く.今でなくとも,いずれは吹く.覚悟がすべてだ.」

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第4パラグラフの第2の訳注:
「ハムレット」の悲劇について.

(悲劇「ハムレット」のあらすじ…「父王を毒殺された王子ハムレットは犯人である叔父と,共謀した母に復讐を遂げ,自らも毒刃に倒れる.「生きるべきか,死ぬべきか,それが問題だ.」四大悲劇のひとつであるシェイクスピアの不朽の名作.」〈洋書ペンギン・ブックス-ペンギン・シェイクスピア「ハムレット」の帯・裏面より引用〉)

(補足説明)

・「ハムレット」がなぜ悲劇かといえば,全能の神の愛と正義に全幅(ぜんぷく)の信頼を置くことができなかった人間の行末(ゆくすえ)の悲惨な結末を描いているからである.神の愛と正義は人間のそれらよりもはるかに偉大で完全であり,ハムレットはその神を信頼しすべての裁きを神に委ねるべきだった.それが真の気高い心の持ち方であるはずだった.すなわち,気高さとは神の摂理に信頼しきる心の潔(いさぎよ)さをいう.

・人間の霊魂の幸福のメイン・ステージは来世にあり,そこには完全な愛,光,正義,善しか存在し得ない,そこでの真の生活を目指して生きることが現世での真の人生目標であり,そのように生きるのが真の気高さである.人間はそう生きるべく創造主たる神に命じられている.
その道を踏み外(はず)せば,来世では罰が待ち受け,その罰がどのようなものかは,すでに現世において,自責の念から解放されない苦しみのようなものとも予想し得る.

・その観点においては,現世で遭遇した災難が必ず来世での不幸につながるのではない.人間の真価はその霊魂の良心の正しさにあり,それにより来世において神の祝福のもとで幸福に生きることにある.

・それに比べれば,現世は不正にまみれた者たちが支配する世界である.自分の欲に負け,弱肉強食のような生き方を通すなら,目先の物質と引き換えに,良心という名の自らの霊魂の生命をどんどん失っていくということを警戒すべきである.

・だが,現世で被った損害はすべて神が来世において完全に埋め合わせて下さり,現世において理不尽な不正を耐え忍んだ者には,最終的に神がそれを数倍にも報い返してくださるのである.
生命は本来,祝福に他ならないのであるから,そのように神に祝福された存在である人間は,自(おの)ずからこのような神の善に対する希望をも信じることができるはずである.

・立派な父王の王子だったハムレットはその父王を不正行為により失ったことで気も動転し逆上して,現世で苦難を雄々しく耐えて気高く生きるべきだ→だが復讐(ふくしゅう)により独りよがりの正義を果たして死んでしまえば気が済んで楽になる→しかしその結果,神の掟に背いた罪深い自分に下されるかもしれない漠然とした死後の裁きの恐怖を覚悟せねばならない→それを思うとつらくても我慢して現世に生き続ける方がましかもしれない→それでも被(こうむ)っている不正は耐え難く,報復せずにはいられない…と最期まで葛藤を繰り返しながら堕ちて行った.

・始めから現世とはあからさまに不正のまかる通る場所であり,不正に逐一取り合うことは愚かなことと覚悟を決めて,警戒を怠らずに一生を過ごすなら,このような結末は避け得る,と考えることも一つの教訓になる.

まとめ…「万物の創造主たる神は愛であり,その被造物たる人間は,神に愛されている.」

・全能の神は完全な善であられ,一寸たりとも不正を見逃して済まされることはない.

・神は公平・公正であり,万物を偏(かたよ)り見られることは全くない.

・「不正」とは完全な義であられる神の無限の生命において神が創造された被造物の存在を傷つけ,また滅ぼすことを意味する.

・目に見える被造物を傷つけることにより,人間は自らの行ったその「不正」行為により同時に自らの霊魂をも傷つけることになる.神の完全な生命の法則から自分を排除したのは他ならぬ自分自身なのであり,神ではない.

・こうして被造物たる不完全な人間による復讐は不正でしかないのであり,復讐・報復は万物の創造主たる神のみが行使し得る権限であってそれは人間には許されないことである.

・不正に手を染めることで自らの命を傷つければ,神の無限の生命との祝福に満ちた交わりの関係から自らを断ってしまうことになり,それは神が最もお望みにならない,ぜひとも避けたい事態なのである.だから神は人間が生き永らえるように,その掟(おきて.=神の十戒)によって人間に罪を犯すことを禁じられるのである.

・神は祝福をもって人間を創造されたのであり,人間にお与えになった生命がいかなる理由・方法によっても滅ぼされることを望まれない.復讐に手を染めた人間を罰して滅ぼすのは神ではない.その人間が自分の行った不正により罪の負い目を負い,自らを滅ぼしてしまうのである.

・人間は御父なる神から自分に注がれている愛と生命の祝福に全面的に信頼し,不正な仕打ちを受けたら,それに対する報復はすべて神に委(ゆだ)ね,自分の霊魂を滅ぼしかねない不正の誘惑から護(まも)って下さるよう神に祈願することで,自らの生命(霊魂=良心)を守るべきである.

・光であられる神のうちに一寸の闇(やみ)もないように,(たとえどのような理屈があろうと)少しでも不正に手を染めれば,完全な光,完全な義,完全な善であられる神の無限の生命から,人間は道を外れ,もはや完全な光のうちにはとどまれなくなる.

・旧約聖書の参照(格言の書・第16章32節):
PROVERB XVI, 32

『忍耐ある人は英雄にまさり,怒りをおさえる人は町の征服者にまさる.』
“The patient man is better than the valiant: and he that ruleth his spirit than he that taketh cities. ”

・聖福音書の参照(ヨハネによる聖福音書:第4章 -5章15節):
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. JOHN, 4:1-5:15

偽預言者
『愛する者よ,無差別に霊を信じるな.霊が神から出ているかどうかを試せ.多くの偽預言者が世に出たからである.次のことによって神の霊を認めよ.すなわち,イエズスが肉体をとって下られたキリストであることを宣言する霊はみな神からである.またこのイエズスを宣言しない霊はみな神から出たものではなく,来るだろうと聞いている反キリストの霊である.それはもう世に来ている.

小さな子らよ,あなたたちは神から出たものであって,もはや彼らに打ち勝った.あなたたちにましますのは,この世にいる者より偉大なお方である.
彼らは世の者であるから世について語り,世は彼らの言うことを聞く.
しかし私たちは神からの者である.神を知る者は私たちのことばを聞き,神からでない者は聞かない.これによって真理の霊と誤謬(ごびゅう)の霊とが区別される.

愛する者よ,互いに愛せよ.愛は神よりのものである.愛する者は神から生まれ,神を知るが,愛のない者は神を知らない.神は愛だからである.
私たちに対する神の愛はここに現れた.すなわち,神はその御独り子を世に遣(つか)わされた.それは私たちをみ子によって生かすためである.
私たちが神を愛したのではなく,神が(先に)私たちを愛し,み子を私たちの罪のあがないのために遣わされた,ここに愛がある.
愛する者よ,神がこれほどに愛されたのなら,私たちもまた互いに愛さねばならない.だれも神を見た者はいないが,私たちが互いに愛するなら,神は私たちの中に住まわれ,その愛も私たちの中に完成される.
私たちが神にとどまり神が私たちにとどまられることは,神がご自分の霊に私たちをあずからせたもうたことによって分かる.私たちは御父がみ子を救世主として送られたことを見て,これを証明する.
イエズスが神のみ子であると宣言する者には,神がその中にとどまられ,彼は神にとどまる.

私たちは神の愛を知り,それを信じた.神は愛である.
愛をもつ者は神にとどまり,神は彼にとどまられる.
愛が私たちの内に完成されるのは,審判の日に私たちに信頼をもたせるためである.私たちは地上において,主と同じものだからである.

愛には恐れがない.完全な愛は恐れを取り除く.恐れは罰を予想する(恐れには罰が含まれている)からである.恐れる者は完全な愛をもつ者ではない.

私たちが愛するのは,神が先に私たちを愛したもうたからである
「私は神を愛する」と言いながら兄弟を憎む者は,偽り者である.目で見ている兄弟を愛さない者には,見えない神を愛することができない.
神を愛する者は自分の兄弟も愛せよ.これは私たちが神から受けた掟である.』

第5章

イエズス・キリストへの信仰) 
『イエズスがキリストであることを信じる者は,神から生まれた者である.生んだお方(神)を愛する人々は,また神から生まれた者(神の子ら)をも愛する.神を愛してその掟を行なえば,それによって私たちが神の子らを愛していることがわかる.
神への愛はその掟を守ることにあるが,その掟はむずかしいものではない.
神から生まれた者は,世に勝つ.世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である.イエズスが神の子であると信じる者のほかにだれが世に勝てるであろうか.

水と血によって来られたのはイエズス・キリストである.ただ水だけではなく,水と血によってである.それを証明するのは霊である.霊は真理だからである.実に証明するものは三つある.(天においては御父とみことばと聖霊であり,この三つは一致する.地において証明するのは三つ),霊と水と血である.この三つは一致する.

私たちが人間の証明を受け入れるなら,神の証明はそれにまさっている.神の証明とはそのみ子についてのことである.神の子を信じる者は,自分の内に神の証明をもち,神を信じない者は神を偽り者とする.神がそのみ子についてされた証明を信じないからである.その証明とは神が私たちに永遠の命を与えられたこと,その命がみ子にあることである.み子をもつ者は命を有し,み子をもたぬ者は命をもたぬ.

私が以上のことを神の子の名を信じるあなたたちに書いたのは,あなたたちに永遠の命があることを知らせるためであった
私たちは(神の)み旨に従って願うことを神が必ず聞き入れたもうと確信している.そして,神がすべての願いを聞き入れたもうことを知るなら,また願ったことが受け入れられることもわかる.』


* * *


最後のパラグラフの訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第25章13節(1-13節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. MATTHEW, 25:13 (1-13)

十人の乙女のたとえ(25・1-13)
『*¹天の国は,各自のともしびを持って,*²花婿(はなむこ)を迎えに出る十人の乙女(おとめ)にたとえてよい.そのうちの五人は愚(おろ)か者で,五人は賢(かしこ)い.愚か者はともしび(灯火)を持ったが油を持たず,賢いほうはともしびと一緒に器に入れた油も持っていた.
花婿が遅かったので,一同は居眠りをし,やがて眠りこんでしまった.夜半に,〈さあ,花婿だ.出迎えよ〉と声がかかった.
乙女たちはみな起きて,ともしびをつけたが,愚かな方は賢い方に,〈油を分けてください.火が消えかかっていますので〉と言った.賢い方は,〈私たちとあなたたちとのためには,おそらく足りません.商人のところへ行って買っていらっしゃい〉と答えた.
彼女たちの買いに行っている間に花婿が来たので,用意していた乙女たちは一緒に宴席(えんせき)に入り,そして戸は閉ざされた.やがてほかの乙女たちは帰ってきて,〈主よ,主よ,どうぞ開けてください〉と言ったけれど,〈まことに私は言う.私はおまえたちを知らぬ〉と答えられた.
警戒(けいかい)せよ,あなたたちはその日その時を知らない.』

(注釈)

*¹ 1-13節 花婿(はなむこ)はイエズス,乙女らは信者,ともしびは信仰,油は愛と善業,眠りはイエズス来臨までの期間,婚宴の席は天国である.
その席からは信仰をもっていても愛と善業を行わなかった者が遠ざけられる.

*² ある写本(ブルガタ〈ラテン語〉訳)には「花婿,花嫁」とある.のちの書き入れである.

花婿のキリストが遅くなることはあっても,信者の霊魂はこの世の生活の試練の夜において,いつも警戒し続けなければならぬ.あるいは,弱さのために居眠りすることがあっても,警戒のともしびをすぐともせるように準備していなくてはならぬ(ルカ聖福音12・35−38,13・25).


* * * * * *


旧約聖書・コヘレットの書:第1-5章,11-12章を追加掲載いたします.
ECCLESIASTES I-V, XI-XII.

This Book is called Ecclesiastes, or The Preacher, (in Hebrew, Coheleth,) because in it, Solomon, as an excellent preacher, setteth forth the vanity of the things of this world:
to withdraw the hearts and affections of men from such empty toys
.

第1章
CHAPTER I
The vanity of all temporal things.

『エルサレムの王,ダビドの子,*¹コヘレットのことば.
*²空(むな)しいことの空しさ,とコレヘットはいう,空しいことの空しさ,すべては空しい.この世の労苦から,人はどんな利益を受けるのだろう.

新しいものはない
一代が去り,また一代がくる.しかし,地は永遠に変わらない.日は昇り,日は沈み,そして,また元のところにかえっていく.風は南に吹き,また北に移り,めぐりにめぐり,その往来を続ける.川はみな海に流れ入るが,海は満ちることがない,川は一たん入ったところに,また立ちもどっていく.
*³すべてが物憂(ものう)い.目は飽(あ)きるほど物を見,耳は飽きるほど聞いた,という人はあるまい.すでに起こったことはまた起こるだろうし,すでに行われたことはまた行われるだろう,太陽の下に新しいものはない.これは新しいものだ,ごらん,といえる何かがあったとする.ところが,それも,先の代にすでにあったものだ.ただ,昔のことは記憶に残っていない,私たちののちの人々のすることも,それよりのちの人々の記憶に残らないだろう.

学問の空しさ
*⁴私,コヘレットはエルサレムでイスラエルの王だった.
私は天下に行われることをすべて,知恵で一心に探ろうと努力した.それは,神が人間に与えられたつらい仕事である.私はこの世で行われることをじっと見きわめたが,すべては空しいことで,風を追うに似ていた.

曲がったものをまっすぐにはできない,
足りぬものは数えられない.

私は心のなかでこう言った,「私は私より先にエルサレムに入った人よりも知恵を蓄(たくわ)え,知恵を積んだ.そして,多くの知恵と学問を身につけた.
私は一心に知識と学問,愚かなこと,ばからしいことを調べた.そして,これも風を追うようなものだと悟(さと)った.

なぜなら,知恵のあるところには苦悩も多く,
知識がふえると,苦痛も多くなると知ったからだ.』


(注釈)

*¹ コヘレットは集会の人,それは司会者だったかもしれないし,講演者だったかもしれない.また,集会の代表者だったかもしれない.
ダビドの子といえばソロモンのことだが,これはフィクションらしい.ソロモンは知恵者中の知恵者といわれた.

*² ヘブライ語では湯気のこと,あるいは吐息のことらしい.かげ,煙,水泡のように,この世の空しさを表す形容である.

新しいものはない(1・4-11)
*³「口で表現する以上に,すべては退屈だ,目は,飽きるほど物を見ず,耳は,飽きるほど聞いたことがない」とも訳する.

学問の空しさ(1・12-18)
*⁴ 栄華のきわみにあったソロモン(列王上10・4以下)は,すぐれた知恵をもっていたにもかかわらず,幸福を知らなかった.

* * *

第2章
CHAPTER II
The vanity of pleasures, riches, and worldly labours.

快楽の空しさ
『私は心のなかでこう言った,「さあ,快楽を味わうがよい,幸福を味わうがよい」,だが,これは空しいことだ.笑いについては、「愚かなことだ」と私は言った.快楽については,「それが何の役に立つのか」と言った.*¹私は心を知恵に向けながら,身体を酔いにまかせようとした.人間の幸福を知り,また,生きている間,この世で人間がどんなことをするかを知るために,愚かさを味わってみようと思った.
私は大事業に手をつけた,自分の住む大邸宅を造り,ぶどう畑を植えつけた.庭園と果樹園を作り,あらゆる種類の果樹を植えた,木の生い茂る森をうるおすために,大きな池をつくった.*²また下男下女を買った.私より先にエルサレムに住んだどんな人よりも,私は多くの雇い人,家畜群,牛,羊を持った.銀と金,また王たちと各州の財宝を集めた.歌い男と歌い女,そして,人間のもつあらゆる贅沢なものと,*³数多い姫君たちを手に入れた.

私は偉大な人間になり,私より先にエルサレムに住んだどんな人よりも偉大になった.しかも,私は自分の知恵を保った.私は目の望みをすべて満足させ,心にどんな快楽も拒絶しなかった.私の心は自分のするあらゆる苦労によって喜ばされていた.それが私の苦労の報いだった.
さて,自分がしたあらゆる事業と,それをするために忍んだあらゆる苦労をふりかえった.ところがどうだ.すべては空しいこと,風を追うようなことだった.この世には何一つ利益になるものはない.


知恵の空しさ
私は知恵と愚かさと無知に思いをめぐらした.*⁴王の後継者は何をするのだろう.すでにされていることを彼もするにすぎない.昼が夜にまさるように,知恵は愚かさにまさると私は知った.

知恵者は自分の前を見る,
愚か者は手探りで歩く.

それは事実だ,しかしその二人とも,同じ運命に会うのだということも知った.そして,心のなかで言った,「私も愚か者と同じ運命に至るのだ,とすると,私の知恵が何の役に立つのだろう」.また,自分にいい聞かせた,「それも空しいことだ」.
つまり,知恵者も愚か者も,人の記憶に長くは残らない.ある日二人とも忘れられてしまう.そして,知恵者も愚か者と同じように死んでしまう.だから,私は生きることがいやになった.この世で行われることがいやになった.すべては空しいことだ,風を追うに似ている.

私は自分がこの世でしたこと,後継者に残すそのことがいやだ.その後継者が知恵者か,愚か者かだれにわかろう.それにしても彼は私が生きている間に苦労と知恵で積み重ねたあらゆるものを支配するようになるのだ.ああ,それもばからしいことだ.私はこの世でしたすべての仕事について,がっかりしてしまった.

どんなに知恵と知識と才能をもって働いても,少しも苦労しなかっただれかにそれを残さなくてはならぬ.これも空しいことだ,非常に悪いことだ.この世でした自分の労苦と努力が,その人に何を残すのだろう.
その毎日は苦しみの連続で,その努力はつらく,夜の間もその心は休まらない.これもまた空しいことだ.*⁵

飲み食いして,自分の仕事を楽しみにする以外,よいことは人間にはない.それらが神の手からくるものだと私は知った.だれが神なしに飲み食いすることができよう.*⁶神は自分でよいと思われる人間に,知恵と知識と楽しみをお与えになる.そして,罪人には,神に喜ばれる人のために,拾い集める仕事をさせられる.これも空しいことだ,風を追うに似ている.』

(注釈)

快楽の空しさ(2・1-11)
*¹ コヘレットは知恵の範囲内で(幸福がこの世のどこにあるかを探ろうとする.しかし,その空しさを知るだけだ.

*²「自分の家で生まれた下男下女」と訳する人もある.
*³「数多い姫君」の原文はわかりにくい.「宝箱に宝箱を積み重ねて」という訳もある.また,「ぶどう酒の杯と器」という訳もある.

知恵の空しさ(2・12-26)
*⁴「王の後継者として,すでに定まっているのはだれだろう」という訳もある.

*⁵ エピキュリアン的な表現法であるが,これはコヘレットの考えではない.彼は行動の最終目的を快楽においてはいない.
コヘレットが目的にしているのは,常に「神」である.真の喜びは神から与えられる恵みである

*⁶ 知恵者(ヨブ27・16,格言11・8,13・22)は,罪人が財宝を集めても,いつかそれは正しい人のものになると教えている.しかし,コヘレットは正しい人も死んで財宝をあとに残すという.

* * *

第3章
CHAPTER III
All human things are liable to perpetual changes.
We are to rest on God's providence, and cast away fruitless cares
.


すべてに時がある
『*¹この世には,すべてに時があり,それぞれ時期がある

*²生まれる時,死ぬ時がある,
植える時,抜く時がある.
殺す時,治す時がある.
倒す時,建てる時がある.
泣く時,笑う時がある,
嘆く時,踊る時がある.
*³石を投げる時,拾う時がある,
抱擁(ほうよう)する時,抱擁をやめる時がある.
さがす時,失う時がある,
守る時,捨てる時がある.
裂く時,縫(ぬ)い合わせる時がある,
黙る時,話す時がある.
愛する時,憎む時がある,
戦う時,和睦する時がある.

将来はわからない
働く人の耐えしのぶ労苦が,その人にとって何の役に立とう.私は神が人間の子らに与えて,骨折らせる仕事をながめた.*⁴神のなさることはすべて時に適(かな)っている
神は人の心に,時をすべて見渡せる力を与えられた.だが人間は神のなさることの始終を知ることはできない.

生きている間,*⁵楽しんで安楽に過ごすこと以外,人間にはよいことがないと私は知った.人間が食べ,飲み,仕事を楽しむことは神の恵みである

神のなさることは,永遠に変わらないことを知った.神のなさることには,加えることも切りとることもない.神がそうなさるのは,人間に神を恐れさすためである

今あることは,すでにあったことである,また将来あることは,いますでにあることである.神は追われる者を愛される.


社会の不秩序
私はまた,この世にある他のことに気づいた,正義の席に不正がついており,正しい人の席に罪人がいるのを見た.
私は心のなかで言った,「神は正しい人と罪人をさばかれる.どんなことにも時がありさばきがある」.

私はまた心でいった,「人間の子らとはそんなものだ,神はそれをありのままに見せ,本当に自分は獣(けもの)だと彼らに悟らせるのだ」.

*⁶人間の行末(ゆくすえ)と獣の行末とは同じものだ,人間も死に,獣も死ぬ.二つとも同じ息をしている,人間が獣にまさるというのも空しいことだ.二つとも同じところに行く.二つともちりから出でちりに帰る.

*⁷人間の子らの息が上に上がり,獣の息が地の下に下るのだと知っている者があろうか.そして私は,自分の仕事を楽しむこと以外人の幸福はないと知った.それが人の状態である.後に起こることを見る力を,人に与えるのはだれだろうか.』

(注釈)

すべてに時がある(3・1-8)

人の行いの半ばはつらいことだけで,生命の初めから人は死におびえる

*² ヘブライ語本は「生む時」.しかし,ヘブライ語では他動詞を自動詞の意味でつかうことがある.さらに,次の「死ぬ時」と対照させると,「生まれる時」の方がよいように思わる.

*³ 意味はわかりにくい,敵の畑に石を投げこんで,収穫をふいにさせる意味らしい(列王下3・19,25).石を拾うのは畑の石をとり除くことらしい.

将来はわからない(3・9-15) 

*⁴神はすべてをうまくはからわれる
しかし,人間は時のなかで生きているから,神のみ業(わざ)のすべてを理解することができない.
とはいえ,人の心には神の計画を精神の目でながめようとする傾向がある.
しかしこの努力も空しい,神の計画は結局人間にはわからない

*⁵神の目の下で正しい生活を営むこと.

社会の不秩序(3・16-4・3)

*⁶表面的にはその通りだが,コヘレットは唯物論者ではない.

*⁷「息」(ヘブライ語のルアフ)とは,神が生物をつくる時に入れられる生命の息吹きで(創世2・7,詩篇104・30),霊魂(ネフェシュ)とは違うもの.コヘレットは死の時,霊魂が黄泉(よみ)に下ると考える.
彼は霊魂の不滅を疑ってはいないが,人間と獣との命の息吹きについて疑問をもっている.

* * *

第4章
CHAPTER IV
Other instances of human miseries.

社会の不秩序
『私はまた,この世で行われるしいたげのことを思った.しいたげられている人々は涙にくれ,慰めてくれる人もない.しいたげる人の手は彼らに暴力を加える.彼らを慰める人は一人もいない.そこで私はすでに死んでしまった人の方が,まだ生きている人より幸せだといった.そして,まだ生まれない人,この世の悪行を見ていない人の方がさきの二人よりも幸せだといった.

節度
私はあらゆる努力,あらゆる労苦が人間同士のねたみにすぎないのを知った.これも空しいことだ,風を追うに似ている.

愚か者は手を組んで,
*¹自分の肉を食う.
*²一握りの安楽は,
両手で苦労し,風を追うよりもましだ.

また,私はこの世に空しいことのあるのを見た.ある人がいる,たった一人で仲間もない,彼には兄弟も子もない.それなのに,彼は働き続け,その目は富に飽くことがない.「私はだれのために働き,何のために自分の喜びを犠牲にし続けているのか」ともいわない.これも空しいこと,みじめなことだ.

社会生活のとりえ
一人っ切りより,二人でいるほうがよい.働く場合も能率が上がる.どちらかが倒れれば,片方がそれを助け上げる,だが,一人っ切りで倒れたら不幸なことだ,助け上げてくれる人がいないのだから.*³また,二人いっしょに寝るとどちらも暖(あたた)かいが,一人っ切りで,どうして暖かくなろう.一人の場合は倒(たお)されても,二人でなら抵抗できるし,三本よりの綱は簡単には切れない.

*⁴人の意見を受けつけない年とった愚かな王よりも,貧しいが賢い若者の方がまさっている.たとえ,若者が牢(ろう)から出て王になったとしても,若者が貧しい身分に生まれたとしても.私はこの世のすべての人が,その王位を奪った若者の味方に立つのを見た.
*⁵彼は数知れない人々の先頭に立ったが,後にくる人々は彼を喜び迎えないだろう,これも空しいこと,風を追うようなことだ.

神に対する義務
神の家へいく時には足どりに用心せよ.素直な心で近づくがよい.あなたのいけにえは愚か者の供え物より値打があろう.愚か者が,自分で悪事をしているのだとは知らないにしても.』

(注釈)

社会の不秩序(3・16-4・3)
節度(4・4-8)
*¹ 働かないから今まで蓄えたものを食いこんでいく.

*² この世の悪は節度のない労働に心身を消耗することだ.どんな事をしても節度を守ること,これがコヘレットの考えである.

社会生活のとりえ(4・9-16)
*³ 今でもパレスチナでは,冬になると小さい宿で二人が一枚の毛布にくるまって寝ているのを見かける.

*⁴13-14節 ロボアム,あるいはエジプトのヨゼフのことではないかという人もある.しかし,これが歴史上の人物を暗示しているとは思えない.

*⁵ 民は王座についた若い君主を喜び迎える.しかし,その歓迎も永久的なものではない.
この世の声望の空しさを教えている.

神に対する義務(4・17-5・6)

* * *

第5章
CHAPTER V
Caution in words. Vows are to be paid. Riches are often pernicious:
the moderate use of them is the gift of God
.

神に対する義務
『*¹軽々しく口を開くな,神のみ前でものをいうときには,心であせるな.神は天にあり,あなたはこの世にいる.だからことばを少なくせよ.

*²夢はせわしない生活からくるものだ.
ことばが多いと愚かなことをいってしまう.

あなたが神に願を立てたら,急いでそれを実行するように.神は愚か者を喜ばれない.あなたは願を果たすように.願を立ててそれを実行しないよりは,願を立てない方がましだ.*³口の罪をゆるせば,あなた全体が罪人になるのだ,だからそれをゆるすな.

また,*⁴神の聖職者の前で,「あれは故意でしたことではない」というな.そんなことをしたら,神はあなたに怒り,あなたの手の仕事を滅ぼされる.

夢が多いと幻滅も多い.
ことばが多いと失う時間も多い.

だから神を恐れよ.

社会の不正
*⁵ある国で貧しい人がしいたげられ,権利と正義が無視されているのを見ても驚くな.一人の上役の上には,それも見張っているもう一人の上役がいる.またその上には,もっと高い役の人がある.*⁶それは公益のため,王への奉仕のためだといいわけするかも知れない.

*⁷銀の好きな人は銀をどんなに集めても飽きず,
富を好む人は富で得をすることがない.

それも空しいことだ.

財産がふえると,
寄食者もふえる.

その持ち主は財産を自分の目でながめるだけだ,それが何の得になろう.*⁸働く人は,食事が少なくても多くても,ぐっすり眠るが,満腹した金持ちは寝つかれない.

無駄な苦労
私はこの世に悲惨なことがあるのを見た.財産を守っているその持ち主が,自分の身に害を受けていることだ.
不幸な出来事があると,彼は富を失う,そのとき子どもが生まれる,しかも彼は無一文だ.母の胎内から出てきたときのままの裸にかえって,彼は去ってしまう.働いて得九ものを何一つもっていけない.出てきたときのままで去ってしまうというのもつらいことだ.
自分のもうけを風の中に散じてどんな利益があったろう.その一生はくらやみと,悲哀と,労苦と,病気と,憤(いきどお)りのうちに終わる.

よいこと
私が見たよいこととは,神に与えられた一生の間,この世でする仕事によって安楽に暮らし,食べて飲むことだ,それが彼の行く道である.
神は人間に富と財宝を与え,それを味わい,その分け前をとらせ,自分の仕事によって楽しむようにさせる,それは神の恵みである.
*⁸こういう人はもう,自分の生涯の日々のことをあまり考えなくなる.神が彼の心を喜びで満たされるからである.』

(注釈)

神に対する義務(4・17-5・6)
*¹ 神に喜ばれるのは長い祈りではなく,心の真実とうやまいである(マテオ6・7).

*² 悪夢はせわしない生活や,思いわずらいからくるものだ.

*³「口の罪」とは,祭司のつかっていたことばで,「不注意からの罪」をいう(レビ4・2,22,24,荒野15・22,29).

*⁴七十人訳では「神」とある.「天使」と訳する人もある.

社会の不正(5・7-11)
*⁵ 国家の役人には目下の割前をはねる人が多かった.

*⁶ 解釈はいろいろある.「園家の利益は国民みなのためのもの,王は一州の人々を家来にもっている」というのが原文である.「盛大な国の王はみなに利益を与える」の意味らしい.

*⁷ 当時の財宝には銀が多かったからであろう.

無駄な苦労(5・12-16)

よいこと(5・17-19)
*⁸ 彼の仕事は忙しくて,みじめなこの世のことを考える暇がない.それが,この世における最大の幸福である

* * *

~~~

第11章
CHAPTER XI
Exhortation to works of mercy, while we have time, to diligence in good,
and to the remembrance of death and judgement
.

賢明と節制
『*¹パンを水の上に投げよ.しばらくすると,またそれを見つけるだろう.
財産の一部を七人か八人に分けよ.あなたはこの世にどんな不幸が起こるかを知らないのだ.

雲が雨に満ちると大地に注がれる.木が南か北かに倒れると,倒れたところに横たわる.

風に気をつけている人は種がまけない.
雲を見ている人は刈り入れをしない.

あなたは母の胎内で,骨の中にどうして生命の息吹が入るかを知るまい.同様に,すべてをつかさどる神のみ業を知ることはできない

*²朝から種をまき,
夕方も手を休めるな.

なぜならあなたは,これか,あれか,そのどちらが実るかを知らないからだ,二つともよいかもしれない.

この世の生活法
*³光は快く,目で太陽を見ることは楽しい.
人は長年生きて,すべてを楽しむがよい.だが,暗い日も数多くあることを思い出せ.起こることはみな,空しいものである.

若者よ,若さを楽しめ.
若い日々に,心で幸福を味わえ.
心の望むまま,
目の望むままに従え.

だがそれらすべてについて,あなたは神のさばきを受けることを忘れるな

心から悲しみを遠ざけよ.
体から苦痛を取り除け.

だが,若さも,髪の黒い年も,空しいものだ.』

(注釈)

賢明と節制(10・16-11・6)
*¹「施し」についての話らしく思われるが,4節を見るとそうではないらしい.作者が教えるのは,賢明と大胆の両立である.

「パン」を「魚のえさ」の意味にとる人もある.また「海運業」の意味にとる人もある.しかし,最初にいった解釈の方が正しいように思われる.パンを水に投げるのは無駄な仕事を表す.

だがこの世には運不運があるにしろ,ことをしようとする時には,勇気と大胆がいることを教える.

*² 朝まいた種か,夕べまいた種か,そのどちらが実るかを人は知らない.

この世の生活法(11・7-10)
*³ 7-10節 これから話すのは長寿についてである.知恵ある人はいつも,「徳の報いは長寿だ」といっている.
だがコへレットはれに賛成しない.老いることは幸せなことではなく死への恐怖であり,若さへの哀惜であり,ただ,死を待つことだという.

* * *

第12章
CHAPTER XII
The Creator is to be remembered in the days of our youth:
all worldly things are vain: we should fear God and keep his commandments
.

老いること
『若い内に創造主を記憶するがよい,悪い日がくる前に,
そして,年をとって,「おもしろくない毎日だ」という前に.*¹また,太陽と光,月と星が暗み,雨降ってのちまた雲が広がる前に.

*²そのときになると、家の番人はふるえ,
力持ちは、かがみこみ,
窓に太陽がかげって,
臼(うす)ひき女は仕事を休む.
その時、二つの扉は道を閉ざし,
粉つき場の声は静まり,
小鳥はさえずりをやめ,
歌声はやむ.
*³その時彼らは坂道を恐れ,
道を歩けば息が切れる.
はたんきょうは花をつけ,
いなごは飽きるほど食べ,
風鳥草は実をつける.

だが,人は永遠の家へと歩をすすめ,泣き女は近づく.

そのとき銀の糸は切れ,
黄金のともしびは割れ,
水がめは泉で砕(くだ)け,
滑車(かっしゃ)は井戸で壊(こわ)れる.

*⁴そのとき,塵(ちり)はもとの土(つち)にもどり,生命はそれを下された神にかえる

「空しいことの空しさ,すべては空しいとコヘレットは言った.

作者について
コヘレットは知恵者で人々に知識を授けた.彼は多くの格言を調べ,比較し,整理し,味わいのあることばを書き残し,真理のことばをよく記そうと努めた.

*⁵知恵者のことばは刺し針のようだ,固く打ちつけた杭のようだ.牧者がそれを利用するのは,羊の群れを導くためである.

また,わが子よ,本をつくる仕事というのはきりがないことだと教えたい.それに,勉強しすぎると体は疲れる.

結局のところ,こうだ.

思い合わせて見るに,神を恐れ,そのおきてを守ることだ.これは,人間すべての義務なのだから.
神はすべての行為をさばき,隠されたことの善悪をすべて見ておられる
.』

(注釈)

老いること(12・1-8)
*¹ 暗い光,雨が降る,これは老年の象徴である.

*² 3節,4節は老年の比喩(ひゆ)として解釈されている.「番人」は腕のこと,「力持ち」は腰やひざ,「臼ひき女」は歯,「扉」はくちびるなどである.
しかし,これは,正しい解釈ではなさそうだ.比喩として解釈する理由がないからである.むしろ,文字通りとった方がよい.

老年になるとどんなに強い番人も中風のようにふるえ,どんな力持ちも腰がかがむようになる.老人になると社会活動ができなくなり,家の門が閉じる.耳が遠くなると物音も歌声も聞こえなくなる.

老人は死の世界へと急ぐが,自然界はそれとかかわりなく,楽しい世界をくりひろげる

*⁴この本は,始めたことばで今閉じられようとしている(8節).
コヘレットは,人間のみじめさを思い知らせたが,同時に,この世が人間にふさわしくないこと,人間はかくも偉大なものであると教えた.
利己的でない宗教,礼拝である祈り,神の前に自分の空しさを知ること,それを作者は教えた.

作者について(12・9-14)
*⁵ 原文では,特にこの節の後半(「牧者が…」など)がわかりにくい.この訳では,刺し針や杭をつかうのは羊の群れの善のためだ.
知恵者のことばは,人間への愛から出たものである.


* * * * * *


旧約聖書・詩篇:第139篇すべてを知るもの〈=〉)を追加掲載いたします.
PSALM 138 "Domine, probasti"
-God's special providence over his servants.-


第139篇(138)

『歌の指揮者に.ダビドの詩.
*¹主よ,あなたは私をさぐり,
私を知りたもう.

私が座るのも,立つのも知られるあなたは,
遠くから私を見通され,

私が歩むのも,伏すのも見られる.
私の道はすべてあなたに近い.

私の舌にことばが上らずとも,
主よ,あなたはそのすべてを知られ,

後ろから,前から,私を包み,
私の上に御手を置かれた.

あなたの知識は私には驚異で,
あまりに高く,およびもつかない.

主の霊を遠く離れられようか.
み顔からどこに逃げられようか.

天にかけ上っても,主はそこにおられ,
黄泉(よみ)を床にしても,主はおられる.

私が暁の翼を駆(か)って,
海のはてに住もうとも,

御手は私に置かれ,
御右は私をとらえる.

「やみよ私をおおえ,
私を囲む光が夜となれ」と言っても,

やみさえも,あなたには暗くなく,
夜は昼のように輝く.

あなたは私の腎をつくり,
母の胎内に織りこまれた.

恐るべき驚異のあなたを,
私はたたえる.
そのみ業は不思議で,
あなたは私の魂を知りつくされる.

私の骨はあなたに隠されていない,
私がひそかにつくられ,地の深みでぬいとりされたとき.

あなたの御目はすでに私の行いを見,
それらはあなたの*²書の中にあって,
日々が記され,集められた,
一日さえもまだなかったのに.

神よ,あなたの思いは私には計りがたく,
その総計は数えきれない.

それを数えれば砂よりも多く,
終わるときもまたあなたに出会う.

ああ,主よ,悪人を殺し,
血を好む者を私から遠ざけたまえ.

彼らは敵意をもって背き,
むなしく主に手をのばそうとする.

私は主を憎む者を憎み,
主の敵をきらっているではないか.

私は彼らをまったく憎む,
彼らは私の敵でもある.

主よ,私を探り,心を知り,
私を試し,秘密を見ぬき,

悪の道に走っていないかを見て,
私をもとの道に導きたまえ.』

(注釈)

すべてを知るもの(詩篇・第139篇)
◎〈詩篇139の注釈〉*¹〈旧約〉ヨブの書7・17-20をこの歌と比較すると興味がある.

『(〈苦難に遭遇したヨブの嘆き〉…この苦しみよりも死を望む…)
**¹あなた(=神)がそれほど値打を買われ,
それにみ心を配られる人間とは何者か.

あなたは朝ごとに彼を訪れ,
絶えまなく彼を試される.

いつまであなたは私から目を反(そ)らされないのか.
せめて,私がつばを飲み込むしばしの間許したまえ.

私が罪を犯したにしても,
人の番人であるあなたに何をしたのだろう.
**²なぜ,私をあなたの標的とし,
これほどの重荷を負わされたのか.』

〈ヨブ書の注釈〉**¹詩篇8のことばを皮肉にくり返しているようだ.詩篇139の作者にとって,神が人を見守ってくださることが神への信頼の理由となっていた.ところが,ヨブは自分を看視される神から,自分が敵視されていると感じる.彼は手探りして厳しい神ではなくあわれみの神をさがし求めている.
**¹詩篇8→
創造主の偉大さ(詩篇・第8篇)

『歌の指揮者に.***¹ガトに合わせる,ダビドの詩.

われらの主,神よ,地に満ち満ちるみ名のその偉大さ.
天上にある威光を,

***²子どもと乳のみ児の口がうたう.
あなたは刃向かう者を***³砦(とりで)に迎え撃ち,
敵と謀叛者を鎮められる.

御指(おんゆび)でつくられた天と,
あなたの配られた月と星を眺めるにつけ,

私は思う,あなたがみ心にとめられるこの人間とは何者か.
あなたが心を配られるこの人の子とは何者か


あなたは人を***⁴神よりもやや劣るものとし,
光栄と威厳をきせ,

御手の業をつかさどらせ,
万物をその足の下におかれた,

羊も牛もみな,
野の獣も,

空の鳥,海の魚,
海のみちを走るものも***⁵.

神よ,私の主よ,み名は全地に広まる,その偉大さ.』

(注釈**¹〈詩篇8〉の注釈)
創造主の偉大さ(詩篇・第8篇)
***¹「ジッティト」ともある.竪琴のことか,それともペリシテ人がうたっていた曲のことか.

***² マテオ21・16でイエズスはこの一節を引用する.

***³ これは空のこと,その上に神の住居がある.

***⁴「神」,神の王宮を形づくるもの(天使)のこと(詩篇29・1以下).ギリシア語訳とブルガタでは「天使」となっている.

***⁵ 弱い,だが神に形どってつくられた人間,霊界と物質界の境界に立つ人間が自然界をつかさどる.

* * *

〈ヨブ書の注釈〉**²他の訳では「なぜ,私はあなたの重荷となったのか」.

* * *

◎〈詩篇139篇の注釈〉*² 黙示20・12以下参照.

『****¹私はまた,白い厳(おごそ)かな座とそこに座したもうお方(=神)を見た.天も地もそのみ前からあとを残さぬほど遠くに逃れた.
私はまた,****²小さい者も偉大な者もすべての死者が玉座の前に立つのを見た.
あまたの書が開かれ,またもう一つの書が開かれた.それは命の書であり,死者はこれらの書の内容に従い,おのおのの行いによってさばかれた
そして海はそこにいた死者たちを返し,死も黄泉もそこにいた死者たちを出した.彼らはその行いに従ってさばかれた.
****³すると死と黄泉は火の池に投げこまれた,****⁴火の池は第二の死である.命の書に記されなかった者はみな火の池に投げこまれた.』

(注釈)

最後の審判(ヨハネの黙示録20・11-15)
****¹ 地上の悲劇の最後の場面.「白」は神の正義と慈悲が勝つしるしである.

****² 小さな者も大きな者もみな一人残らず.

****³ 大審判の後には,死もなくなるであろう(〈新約〉コリント人への手紙〈第一〉15・26).

****⁴ 悪の象徴(〈旧約〉ヨブの書7・12)である池は,エジプトから逃れるヘブライ人の目の前で閉じた紅海のように,新しいイスラエル人である聖人たちの前に永遠に閉ざされるであろう.


* * * * * *


使徒聖パウロのローマ人への手紙:第12章,13章1-7節を追加掲載いたします.
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE ROMANS XII; XIII, 1-7.

第12章
CHAPTER XII
Lessons of Christian virtues.

『それでは兄弟たちよ,あなたたちの体を生きた清い神に嘉(よみ)せられるいけにえとしてささげるように,私は神のあわれみによってあなたたちに勧める.*¹それは道理にかなった崇敬である.この世にならわず,かえって神のみ旨は何か,神のみ前に,善いこと,嘉せられること,完全なことは何かをわきまえ知るために,考え方を改めて自分を変えよ.

私は受けた恩寵(おんちょう)によって,あなたたちおのおのに実際以上に自分を評価するなと言いたい.神がおのおのに与えられた信仰のはかりに従ってよろしく評価せよ.
*²一つの体にはいくつもの肢体があるが,すべての肢体は同じ働きをしていない.それと同じように,私たちは数多いがキリストにおける一つの体であって,おのおのは互いに肢体である.
*³そして私たちは与えられた恩寵によって異なる賜(たまもの)をもっている.預言の賜であれば信仰の程度に応じてそれを行い,*⁴奉仕であれば奉仕をし,教師であれば教え,勧めるもの者は勧め,分配者は寛大に与え,上に立つ者は熱心につかさどり,あわれむ人は喜びをもって行え.

*⁵愛には偽りのないようにせよ.悪を憎み善に親しめ.兄弟愛をもって愛し合い,互いにきそって尊敬し合え.
勤(つと)めのことはゆるがせにせず,熱い心をもって主の奴隷となれ.希望の喜びをもち,患難(かんなん)に耐え,祈りに倦(う)まず,聖徒の必要を補(おぎな)い,旅人への愛はねんごろであるように努めよ.

*⁶あなたたちを虐(しいた)げる人を祝福せよ.祝福してのろうな.*⁷喜ぶ人とともに喜び,泣く人とともに泣け.互いに心を一つにせよ.高ぶったことを望まず,低いことに甘んじ,自分を知者だと思うな.
*⁸だれに対しても悪に悪を返すな.すべての人の前で善いことを行おうと努めよ.できればすべての人と平和を保て.愛する者よ,自分で復讐(ふくしゅう)するな,かえって神の怒りにゆずれ.「*⁹主は言われる.仇(あだ)は私がとる,報いるのは私である」と記されている.むしろ「敵が飢えているなら食べさせ,渇(かわ)いているなら飲ませよ.こうしてあなたは*¹⁰彼の頭の上に燃える炭火を積む」.悪に勝たれるままにせず,善をもって悪に勝て.』

(注釈)

まことの宗教(12・1-2)
*¹ 身体は主のためのものだからである(コリント人への手紙〈第一〉6・13).

みなのための善(12・3-8)
*² 4-5節 キリストの神秘体の教理(コリント〈第一〉12・12,27).

*³ 6-8節 これらは特能のすべてではない(コリント〈第一〉12・8-10,28-30,エフェゾ人への手紙4・11)

*⁴7-8節 「奉仕」の役と「上に立つ者」は,意味がはっきりしないが,教会に階級が定まる以前,信者の一団体を指導する任務のあった人のことらしい.

兄弟愛(12・9-21)
*⁵ 愛は特能にまさるものであって,愛がなければ,特能さえも無価値である(コリント〈第一〉13・1以下).

*⁶ マテオ5・44参照.

*⁷ コリント〈第一〉12・25-27参照.

*⁸ この節以下は,キリスト者以外の人々との交わりについて.

*⁹〈旧約〉第二法の書32・35参照.

*¹⁰〈旧約〉格言の書25・21.セム人の言い方である.悪に対して善で報いるのを見て,悪人の良心は呵責(かしゃく)を感じ,たぶん改心するであろう.


* * * * * *

第13章
CHAPTER XIII, 1-7.
Lessons of obedience to superiors.

すべての人は上の権威者に服従せよ.*¹なぜなら,神から出ない権威はなく,存在する権威者は神によって立てられたからである.それゆえ*²権威に背(そむ)く者は神の定めに背く.背く者は神のさばきを招(まね)く.

上に立つ者は善い行いのためではなく,悪い行いのために恐れねばならぬ.あなたは権威を恐れないことを望むか.それなら善を行え.そうすれば彼から賞(ほ)められる.彼はあなたを善に導くために神に仕える者である.

もしあなたが悪を行うなら恐れよ.彼はいたずらに剣を帯(お)びているのではないからである.彼は神に仕える者であって,悪をする者に怒りをもって報いる.

ただ怒りを恐れるためだけではなく,良心のためにも服従しなければならぬ.そのためにあなたたちは貢(みつ)ぎを納(おさ)めている.彼らはその役目に絶えず従事する神の奉仕者だからである.

*³すべての人に与えねばならぬものを与えよ.貢ぎを払うべき人には貢ぎを,税を払うべき人には税を,恐れるべき人には恐れを,尊(とうと)ぶべき人には尊敬を与えよ.

(注釈)

権威者への服従(13・1-7)
*¹ 権威者に服従することの神学上の理由.教会法の基礎はこれである.

*² 権威者の命令が神法に背いていない場合のこと.

*³ 社会も神の定めたことであるから,その理由のために,社会を重んじなければならない.


* * *

2011年8月9日火曜日

ベネディクト教皇の考え方 その4

エレイソン・コメンツ 第211回 (2011年7月30日)

ティシエ司教は自著作小論文「理性に脅かされるカトリック信仰」 “Bishop Tissier’s Faith Imperilled by Reason” の最終第4部で,教皇ベネディクト16世が現代人に親しみやすようにと考え出したカトリック教の再解釈体系に対する自身の判断を明らかにしています.ベネディクト教皇の擁護(ようご)者たちはティシエ司教が教皇の考え方の一側面だけを示していると非難するかもしれませんが,教皇の考え方にはそうした側面があるのは事実であり,ティシエ司教がそれを公表しそれが一貫した誤りの体系であるとを示したのは正しいことです.なぜなら,真理がその体系に混ざれば混ざるほど,ますます巧みに偽装され,霊魂の救いにますます被害を及ぼしうるからです.

ティシエ司教は小論文の第9章でベネディクト教皇がカトリック教徒の信仰するもの(対象)をどのように変え,なぜそうするのかを示しています.真のカトリック教徒はカトリック教会が定義した信仰箇条 “the Articles of Faith” (訳注・たとえば「使徒信経」 “Credo” 他)を信じます.彼らがそれを受け入れるのは,それが客観的権威たる神の啓示だからです.だがベネディクト教皇にはその信仰箇条は暖か味(あたたかみ)のない定義に満ちた抽象的宗教に映るようです.したがって教皇はそれに代わるものとして 「カトリック信仰とは神の御臨在,愛の臨在たるイエズスという人間との出会いである」 と仰(おっしゃ)るでしょう.このように変えられた信条は,より温かく個人的に感じられるかもしれませんが,それは同時に頼りない主観的感情に基づいた個人的体験という曖昧(あいまい)な果実となりかねない危険をはらんでいます.だが,気分的に心地よいというだけで,天国へ行くのにグラグラ揺れる橋を渡ろうなどと誰が本気で望むでしょうか?

さらに第10章でティシエ司教はこの変更から生じる信条システム全体がいかにグラグラ揺れ動くものであるかを示し,それは,ベネディクト教皇のフェルト製カトリック教 “felt Catholicism” のレシピが非本質的な過去の教義を浄化し,現在から引き出されるより理解しやすい認識をベースに改良するからだと言っています.だが,現代の認識の第一形成者はベネディクト教皇が信奉する哲学者のカントです.カントは神の存在は証明不能で,客観的な諸々の実在に取って代わる人間の必要に応じて仮定され造り出されたものにすぎないと考えます.彼が考えるような世界で,いったい何人の人々が神を前提として受け止めるでしょうか? 1996年にラッツィンガー枢機卿 “Cardinal Ratzinger” がカトリック教会の将来は暗いと予見したとしても驚くにはあたりません.

ティシエ司教は後書きで,ベネディクト教皇は持論(じろん)とするカトリックの心と現代の頭を調和させることが緊急の課題とし,そのために主観的に模索(もさく)している現代的なものとカトリック教 “Catholicism” とを合体させようとしているが,これは不可能なことだと結論づけています.例えば,教皇は今日すべての民主主義国が傾倒(けいとう,“idolized” )している人間の諸権利 “the Rights of Man” (=人権)は単にキリスト教信仰の改訂 “the up-dating of Christianity” にすぎないと信じたいのです.だが,そうした権利は実際にはキリスト教の死を意味するものなのです.権利主張の論理に内在するのは神からの独立宣言であり,神授(しんじゅ)の人間性が持つあらゆる締(し)め付けからの解放宣言です(原文… “Implicit in their logic is a declaration of independence from God, and of liberation from all constriction by any God-given human nature” ). 権利主張は実のところ現代人が神に仕掛(しか)ける戦いの要石(かなめいし)(原文… “a keystone in modern man’s war on God” ) なのです.

したがってベネディクト教皇は,宗教と理性の「相互改良」を勘案(かんあん)した両者間の「相互浄化と再生」に世界の持続を託するなどということに望みを置くべきではない,とティシエ司教は述べています.こと宗教に関する限り,世俗化された理性が価値あるものを提供することなどまったくといっていいほどありませんし,それと折り合いをつけようとするカトリック神学者たちのあらゆる試みはトランプカードで建てた家のように倒壊(とうかい)するでしょう.ちょうど彼らが仕えたいと望んでいる新世界秩序 “the New World Order” 同様にです.そしてティシエ司教は最後の言葉を聖パウロに譲(ゆず)っています - 「すでに置かれているイエズス・キリスト以外のほかの土台を,だれも置くことはできぬ.」(〈使徒パウロによる〉コリント人への第一の手紙・第3章11節)(原文… “For other foundations no man can lay, but that which is laid: which is Christ Jesus” (I Cor.III, 11).

ティシエ司教の小論文の全文は以前はフランス語版で入手できましたが,現在は絶版となっています.英語にも翻訳されましたが,一般に入手可能となっていません.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

* * *

2010年8月15日日曜日

荒地の救済方法 その2

エレイソン・コメンツ 第161回 (2010年8月14日)

なぜ現代における『大学』はみな揃って紛れもない「民主主義」のごみ箱かくず入れと化しているのでしょうか? その理由は,「民主主義」では誰でもみな平等でなければならず,誰かが他よりも優位に立ってはならないからです.だが,学位を持つ者は持たない者より優位に立つことになります.それで誰もが学位を持つ必要が出てきます.だが,すべての男の子が学位を取得できるほど頭脳明晰で勉強好きというわけではありません.したがって,『大学』はレベルを下げ,すべての男の子が最終的に『学位』を取得できるよう『学位』の対象をあらゆる種類のばかげた科目にまで広げなければならなくなるでしょう.なかにはほとんど証書の紙代にも値しない学位も出てくるでしょう.今日の『大学』システムは「まったくいんちきな偽物である」と,内部事情を知るアメリカ人の大学教授の友人は言っています.

この現代の愚行の根底にあるものは何でしょうか? 重ねて繰り返しますが,そこにあるのは神の存在を認めないということ,すなわち無神論です.人はすべて永遠に神の御前では平等で,死後に立つ神の審判の御座の前でも全く平等なのですが,大事なのはそのことだけで他はどうでもいいことです.然るに,人間社会では人はすべて短い一生の間,人の前では,あらゆる点において不平等なのです.何故かといえば,神は賜物を極めて不平等に人に分配することで,すべてが相互に依存し合い,互いに気を配り合わなければならないように仕向けているからです.そういうわけで,単なる人間社会の『学位』が人を他人より優位に見せかけるのは,神の御前ではなく,神を無視する愚かな人間の前だけでのことにすぎないのです.したがって,神を考慮に入れる両親であれば,『民主主義』,『平等』,『大学』,『学位』などに関心を払うことはないでしょう.

彼ら親たちにとっての第一の関心事は,周囲の至る所で荒廃している非現実的な世界にほとんど注意を払うことなく,自分たちの男の子が,現実に存在する真の神の真の天国にたどり着けるように現実の世界で育てることです.ここで親御さん達に最初の質問です.神は私たちのこの男の子に,他の息子たちとさえ全く異なるような,どんな天資をお与えになったのでしょうか?その息子はどんなことをしたがる傾向があるでしょうか? 神がその子にお与えになっている天資は,彼に対する神の御心を指し示しているのです.明らかに,多くの男の子たちは勉強よりも実務をこなす天資に恵まれています.それに,かつてG・K・チェスタートン “Chesterton” は興味深いことに,たとえば木材であれ金属であれ素材を扱う分野で専門的技能を身につけようと努力することは,現実世界における一定の見習い期間になると言いました.それならば,なんとしてでも男の子を技術専門学校(テクニカル・カレッジ)に通わせ,たとえば腕の良い大工,配管工,電気技師,機械工,整備士などになれるよう本物の技術を習得させましょう.あるいは,男の子に農場経営をする叔父(または伯父)がいるでしょうか? それなら,その子をそこへ送りなさい.動物を扱うことは現実世界で大事な学校へ通うのと等しいことです!

その現実世界を学ぶためは,男の子に『学位』を遠ざけさせましょう.今日の雇用者たちは依然として『学位』を求めるかもしれませんが,明日の雇用者たちはまもなく「あなたは,3年間の学生生活を,ただ酒を飲み,フリスビーを飛ばし,女の子たちと遊び回って無駄に過ごすだけのためにご両親のお金を浪費し,あるいはご両親の借金を大きく増やしたのでなはないですか? あなたには興味がわきません!」と言うでしょう.逆に,もし男の子が実用的な技術に加えて,家庭の中で地道に暮らしかつ勤勉に働くという習慣を身につけておけば,彼は地道な暮らし以上の生活ができるようになるでしょう.彼が提供する役務は非現実的な価値の崩壊で破綻して行く世界において引く手あまたとなるでしょう.

女の子に関しては,いつの世でも変わらない,家庭内のもろもろの実務,たとえば,裁縫,料理,缶詰保存作業,音楽,いろいろな芸術,手短にいえば家庭生活に楽しみや喜びを添えるすべての物事ですが,中でもとりわけ料理を身につけさせましょう.たとえ世の中が荒廃し,何でも好き勝手になるように変わるとしても,男性の心に通じる道は胃袋から,という現実に変わりはないでしょう.これは男性が話していることです!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教