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2014年6月28日土曜日

363 ピィ枢機卿 I 6/28

エレイソン・コメンツ 第363回 (2014年6月28日)

    ピィ枢機卿(ぴぃ すうききょう)( "Cardinal Pie" )(1815-1880年)は19世紀フランスの偉大な聖職者(じゅうきゅうせいき ふらんすの いだいな せいしょくしゃ)で( "Cardinal Pie (1815-1880) was a great churchman of 19th century France, …" ),フランス革命(1789年)以来,世界を悩ませ続けてきた(ふらんす かくめい いらい せかいを なやませ つづけてきた)リベラリズム(=自由主義)から信仰を守ろう(りべらりずむ〈じゆうしゅぎ〉から しんこうを まもろう)とした偉大な擁護者(いだいな ようごしゃ)のひとりです( "… one of the great defenders of the Faith against that liberalism which was eating up the world from the French Revolution (1789) onwards." ).ピオ10世(ぴお じゅっせい)は枢機卿の著作をベッドサイドに置き(ちょさくを べっど さいどに おき),それを繰り返し読んで(くりかえし よんで)いました( "Pope Pius X kept his works by his bedside and read them constantly." ).ピオ10世は絶望的なカトリック教会(=公教会)(ぜつぼうてきな かとりっく〈こう〉きょうかい)に1907年から1958年まで50年間(ごじゅう ねんかん)の一時的救済期間(いちじてき きゅうさい きかん)をもたらしましたが,それを可能(かのう)にするのに,近代世界を動かしてきた主要な考え方(きんだい せかいを うごかして きた しゅような かんがえかた)についての枢機卿の深い理解(ふかい りかい)が重要な役割を果たした(じゅうような やくわりを はたした)ことは疑い(うたがい)のないところです( "No doubt the Cardinal's profound grasp of the key ideas driving the modern world played a major part in enabling Pius X to obtain a 50-year reprieve, say from 1907 to 1958, for the doomed Catholic Church." ).

    絶望的(ぜつぼうてき)とは? 公教会(=カトリック教会)(こうきょうかい〈かとりっくきょうかい〉)が絶望的だなどありえないことです!( "Doomed ? But the Catholic Church cannot be doomed ! " ) 確(たし)かに,教会は神の御保護(かみの ごほご)によってこの世の終わり(このよの おわり)まで続(つづ)くでしょう(新約聖書・マテオ聖福音書:第28章20節)( "True, by God's protection it will last to the end of the world (Mt. XXVIII, 20), …" ).だが,同時に私たちは神の御言葉から(どうじに わたくしたちは かみの おことば から),末世までに信仰がこの世に(まっせ までに しんこうが このよに)ほとんどなくなっているであろうこと(新約聖書・ルカ聖福音書:第18章8節)( "… but at the same time by God's Word we know that by then the Faith will scarcely be found on earth (Lk. XVIII, 8), …" ),信仰が聖人を打ち負かす悪魔軍団に屈服(しんこうが せいじんを うちまかす あくま ぐんだんに くっぷく)してしまっているであろうこと(Apoc. XIII, 7)を知って(しって)います( "… and that it will have been given to the forces of evil to defeat the Saints (Apoc. XIII, 7)." ).この二つの重要な引用(ふたつの じゅうような いんよう)は2014年の今日(にせん じゅうよねんの こんにち),胸に深く刻んで(むねに ふかく きざんで)おかなければなりません( "These are two important quotes to bear in mind in 2014, …" ).なぜなら,キリスト信奉者(きりすと しんぽう しゃ)は聖ピオ十世会( "SSPX" )の堕落(せいぴお じゅっせいかいの だらく)のような見かけの敗北(みかけの はいぼく)に次々に襲われる(つぎつぎに おそわれる)ことへの心の準備(こころの じゅんび)をしておかなければならないことを,私たちの身の回りのあらゆる事(わたくしたちの みのまわりの あらゆること)が私たちに告(つ)げているからです( "… because everything around us today tells us that the followers of Christ must be prepared for one seeming defeat after another, e.g. the fall of the Society of St Pius X." ).ピィ枢機卿はこのことについて次(つぎ)のように述(の)べています.今(いま)からおよそ150年も前(ひゃく ごじゅうねんも まえ)にです!-- ( "Here is what Cardinal Pie had to say on the matter, some 150 years ago ! --" )(訳注後記1)

    「私たちは戦(たたか)いましょう.見込みのない希望を抱き(みこみの ない きぼうをいだき)ながら戦いましょう( " “Let us fight, hoping against hope itself, …" )(訳注後記2).私がこのことを伝えたい相手(つたえたい あいて)は,弱気のキリスト教徒(よわきの きりすと きょうと)たち,人気の奴隷(にんきの どれい)( "slaves to popularity" )となっている人(ひと)たち,成功信奉者(せいこう しんぽう しゃ)たち( "worshippers of successes" ),悪魔(あくま)が少(すこ)しでもはびこると動揺(どうよう)してしまう人たちです( "… which is what I wish to tell faint-hearted Christians, slaves to popularity, worshippers of success and shaken by the least advance of evil." ).こういう人たちがどのように感(かん)じようと,神の思し召し(かみの おぼしめし)さえあれば,彼らはこの世の最後の審判の苦しみ(このよの さいごの しんぱんの くるしみ)を免(まぬが)れるでしょう( "Given how they feel, please God they will be spared the agonies of the world's final trial." ).その審判は間(ま)もないことなのでしょうか,それともまだ先(さき)のことなのでしょうか?( "Is that trial close or is it still far off ? " ) それは誰(だれ)にも分(わ)かりません.私はその時期(じき)についてあえて推測(すいそく)しないことにします( "Nobody knows, and I will not dare to make a guess." ).だが,ひとつだけ確(たし)かなことがあります( "But one thing is certain, …" ).それは,この世の終わり(よの おわり)が近(ちか)づけば近づくほど,この世は益々(ますます)ひどい状態(じょうたい)になり,嘘(うそ)つきが優位に立つ(ゆうい にたつ)ということです( "… namely that the closer we come to the end of the world, the more and more it is wicked and deceitful men who will gain the upper hand." ).信仰(しんこう)はこの世(よ)にほとんど見(み)られなくなるでしょう( "The Faith will hardly be found on earth, …" ).つまり,信仰はこの世の諸々の団体(もろもろの だんたい),組織(そしき)からほぼ姿を消して(すがたを けして)しまうということです( "… meaning that it will almost have disappeared from earthly institutions." ).信者(しんじゃ)は人前や社会の中(ひとまえや しゃかいの なか)で自らの信仰(みずからの しんこう)をあえて告白(こくはく)することはほとんどなくなるでしょう.」( "Believers themselves will hardly dare to profess their belief in public, or in society." )

    「聖パウロ(せい ぱうろ)にとって,この世の終わりを告げる兆候(このよの おわりをつげる ちょうこう)だった国家と神の分裂,分離,絶縁は日増しに進行(こっかと かみの ぶんれつ,ぶんり,ぜつえんは ひましに しんこう)するでしょう( "The splitting, separating and divorcing of States from God which was for St Paul a sign foretelling the end, will advance day by day." ).常に目に見える社会(つねに めに みえる しゃかい)であり続(つづ)けてきた教会(きょうかい)は,その次元(じげん)が個々人や家庭に矮小化(ここじんや かていに わいしょうか)されて行くでしょう( "The Church, while remaining always a visible society, will be reduced more and more to dimensions of the individual and the home." ).教会の開設当初(かいせつ とうしょ),教会は外へ出(そとへ で)しゃばらないと言(い)っていました( "When she started out she said she was being shut in, …" ).それから教会は息をする隙間(いきを する すきま)がもっと欲(ほ)しいと求(もと)めるようになりました( "… and she called for more room to breathe, …" ).だが,教会はこの世の終わり(よの おわり)が近(ちか)づくにつれ,周囲を取り囲まれ(しゅういを とりかこまれ)てしまい,一寸刻みの延命工作(いっすん きざみの えんめい こうさく)をしなければならなくなるでしょう( "… but as she approaches her end on earth, so she will have to fight a rearguard action every inch of the way, being surrounded and hemmed in on all sides." ).過去に規模を広げた教会(かこに きぼを ひろげた きょうかい)ほど,身の程を思い知らされる強い作用(みのほどを おもいしらされる つよい さよう)に晒(さら)されることになるでしょう( "The more widely she spread out in previous ages, the greater the effort will now be made to cut her down to size." ).しまいに教会は紛れもないような敗北を喫し(まぎれも ない ような はいぼくを きっし)( "Finally the Church will undergo what looks like a veritable defeat, …" ),野獣が聖人たちに戦いを挑み打ち負かすことになるでしょう( "… and the Beast will be given to make war on the Saints and to overwhelm them." ).悪魔の横暴は頂点に達するでしょう.」( "The insolence of evil will be at its peak.” " )

    こうした言葉は預言的(ことばは よげんてき)で,日が経つ(ひが たつ)につれ真実味を帯び(しんじつみを おび)ますが,いささかたりとも認めたくない内容(みとめたくない ないよう)です( "These are prophetic words, coming truer by the day, not at all pleasant to admit, …" ).だが,それは聖書に明記(せいしょに めいき)された言葉(ことば)です( "… but anchored in Scripture." ).ある賢明な英国国教会司教(バトラー)(けんめいな えいこく こっきょうかい しきょう〈ばとらー〉)は18世紀(せいき)に( "A wise Anglican Bishop (Butler) said in the 18th century, …" )「物事(ものごと)はあるがまま,その結末(けつまつ)はなるがままにしかならない.それなのに,なぜ私たちは(そんなことはないと)自らを欺こう(みずからを あざむこう)とするのか?」と,述(の)べています( "Things are what they are. Their consequences will be what they will be. Why then should we seek to deceive ourselves ?" ).ピィ枢機卿が信仰を家庭以上の規模で守る(しんこうを かてい いじょうの きぼで まもる)ことがいかに難(むずか)しいかを予見した点(よけんした てん)にとくに注目(ちゅうもく)してください( "Notice especially how the Cardinal foresees the impossibility of defending the Faith on any larger scale than just the home." ).2014年の今日(こんにち),私たちがすでに枢機卿の予期(すうききょうの よき)したところまできていると誰(だれ)もが認(みと)めるわけではないでしょう( "Not everybody agrees that we have already reached that point in 2014." ).私はそれで正しいと信じたい気持ち(ただしいと しんじたい きもち)です( "I might wish they were right, …" ).だが,そのためには,私はばらばらになった人々(ひとびと)がまとまった社会(しゃかい)を作り出せると得心(つくりだせると とくしん)させられなければなりません( "… but I have yet to be persuaded that with disintegrated people one can make an integrated society." ).今日の私たち民主的市民(こんにちの わたくしたち みんしゅてき しみん)を福音書に出てくる(ふくいんしょに でてくる))ローマ時代の百人隊長と対比(ろーまじだいの ひゃくにん たいちょうと たいひ)してみてください( "Contrast with us democratic citizens of today the Roman centurion in the Gospel …" ).彼は指揮系統を正しく理解(かれは しき けいとうを ただしく りかい)し,私たちの主イエズス・キリストの権威(わたくしたち いえずす・きりすとの けんい)を当然(とうぜん)のこととして認(みと)めていました(新約聖書・マテオ聖福音書:第8章5-18節)( "… who understood a chain of command and recognized naturally the authority of Our Lord (Mt. VIII, 5-18) -- …" )―― 私たちの主は彼をいかに称賛(わたくしたちの しゅは かれを いかに しょうさん)したでしょうか!( "… -- how Our Lord praised him ! " )(訳注後記3)

    読者の皆さん(どくしゃの みなさん),我慢(=堅忍,忍耐)(がまん〈けんにん,にんたい〉)してください( "Patience." ).次週のエレイソン・コメンツ(じしゅうの えれいそん・こめんつ)で,ピィ枢機卿が自ら予見(ぴぃ すうききょうが みずから よけん)したことにどのように反論(はんろん)したかをお読(よ)みになってください( "See next week how the Cardinal himself reacted to what he foresaw." ).彼は決(けっ)して敗北主義者(はいぼく しゅぎしゃ)ではありませんでした!( "He was no defeatist ! " )

    キリエ・エレイソン.

    一人の枢機卿が教会はどこまで縮小するかを予見しました.
    (ひとりの すうききょうが きょうかいは どこまで しゅくしょう するかを よけん しました.)
    ( "A Cardinal saw how far the Church must shrink" )

    だが末世に至っても,教会が没落することは決してありません.
    (だが まっせに いたっても,きょうかいが ぼつらく することは けっして ありません.)
    ( "In these end times, yet never will it sink." )


    リチャード・ウィリアムソン司教



* * *


第3パラグラフの訳注2:

「見込みのない(=望み得なくてもなお)希望を抱きながら戦いましょう.」
" Let us fight, hoping against hope itself, …" について.

・“hoping against hope itself”
 →聖書からの引用:

 「信仰の父アブラハム」について.

『望みなきときにもなお望みを捨てず信じた彼は,多くの民の父となった.…』
“Who against hope believed in hope; that he might be made the father of many nations, …” 

『不信仰によって神の約束を疑うことをせず,信仰に強められて神に光栄を帰し,その約束されたことを成し遂げる力があるとまったく信じた.それがために,彼の信仰は義とされた.』
“In the promise also of God he staggered not by distrust; but was strengthened in faith, giving glory to God: Most fully knowing, that whatsoever he has promised, he is able also to perform. And therefore it was reputed to him unto justice. And therefore it was reputed to him unto justice.” 

⇒全能の神は真実な方であり,仰せになった事を必ず成し遂げられると堅く信じて待望する信仰. 自分の存在にかかわる事は,いっさい神の御意思にかかっているから.


使徒聖パウロのローマ人への書簡:第4章18-24節
信仰によって義とされたアブラハム
EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE ROMANS IV, 18-24
Abraham was not justified by works done, as of himself; but by grace, and by faith; and that before he was circumcised. Gentiles, by faith are his children.

『18*望みなきときにもなお望みを捨てず信じた彼は多くの民の父となった.「あなたの子孫はこうであろう」と言われたとおりである.
Who against hope believed in hope; that he might be made the father of many nations, according to that which was said to him: So shall thy seed be.

19そして,もう百歳ほどになって,死んだような自分の体と死んだようなサラの胎を思ったけれども,その信仰は弱らなかった.
And he was not weak in faith; neither did he consider his own body now dead, whereas he was almost an hundred years old, nor the dead womb of Sara.

20不信仰によって神の約束を疑うことをせず,信仰に強められて神に光栄を帰し,
In the promise also of God he staggered not by distrust; but was strengthened in faith, giving glory to God:

21その約束されたことを成し遂げる力があるとまったく信じた.
Most fully knowing, that whatsoever he has promised, he is able also to perform.

22それがために,彼の信仰は義とされた.
And therefore it was reputed to him unto justice.

23「義とされた」と記されたのはアブラハムのためだけではない,
Now it is not written only for him, that it was reputed to him unto justice,

24私たちのためでもある.*主イエズスを死者からよみがえらせたお方を信じる私たちのためでもある.
But also for us, to whom it shall be reputed, if we believe in him, that raised up Jesus Christ, our Lord, from the dead,

25主は私たちの罪のためにわたされ,私たちを義とするためによみがえられた.』
Who was delivered up for our sins, and rose again for our justification.


(バルバロ神父による注釈)

18 アブラハムは老齢で,子をもうける希望がなかったのに,なお神の約束を信じていた.

24 アブラハムの信仰の土台は,死者を生かす神であった.
キリスト信者の信仰の土台は,イエズスをよみがえらせた神である.



* * *
訳注を続けます.

* * *

2011年11月29日火曜日

226 トマトの支柱 -2- (11/12)

エレイソン・コメンツ 第226回 (2011年11月12日)

以前「エレイソン・コメンツ」(9月10日付,第217回)で女性と男性の関係をトマトの苗とその苗がよじ登りやがて実を結ぶための支柱になぞらえたロシアのことわざを引用しました.その例えを用いたのは女性の性質と役割を詳しく説明するためでした.その際ある女性読者がその例えが男性にどう当てはまるのか尋(たず)ねてきました.悲しいことに,私たちの住む狂った現代は人間性のあらゆる本質を一掃(いっそう)しようとしています.

神が設計された男性と女性は著(いちじる)しく異なっていながらも崇高(すうこう)なほど相互補完(そうごほかん)的であり,菜園から引き出した単なる例え話などよりはるかに多くを語ってしかるべきものです.いかなるカトリック教会の婚礼ミサ聖祭 “Catholic wedding Mass” でも,そこで読まれる使徒書簡(新約聖書) “the Epistle” は夫と妻の関係( “the relations between husband and wife” )をキリストと彼の(体〈からだ〉たる)教会(=カトリック教会. “ those between Christ and his Church” )の関係に例えています.その書簡の一句(エフェゾ人への手紙,5章22-23節)(訳注後記)で注目に値(あたい)するのは,聖パウロが婚姻(こんいん)の結果生じる夫の責務(せきむ)について長々と記述しているのに対し妻のそれについては手短にしか記していないということです.すでに私たちは,現代の男女関係が健全性を喪失(そうしつ)してしまったのは今日の男性に大きな責任があるのではないかと疑い得るのですが,この超自然的な神秘についての話は別の機会に残すとして菜園の話に戻りましょう.というのも,今日,神と人間にとっての諸々の敵たちが攻撃の対象としているのはまさしく人間性の本質だからです.

トマトの支柱がトマトの苗に役立つためには二つのことが必要です.支柱は高くなければならず “must stand tall”,しかもしっかりと立っていなければなりません “must stand firm”.もし支柱が高くなければ,苗は高くよじ登ることができません.しっかりと揺らがずに立っていなければ,苗はそれにしがみついたり巻きついたりできません.まさしく,男性の堅固(けんこ)さ “The firmness” は彼がどれほど仕事に没頭(ぼっとう)しているかによって決まる( “depends on a man’s wrapping himself around his work” )一方,その高さ “the tallness” は彼がどれほど神の域(いき)に達(たっ)しようとしているか( “depends upon his reaching for God” =より高い理想を見据(す)えているか、目指しているか)によって決まります.

堅固さについて言えば,いつの時代,どの場所にあっても人間性への認識が歪(ゆが)んでいない限り,男性の生活は彼の仕事を中心に展開するのに対し女性の生活は夫をはじめとする家族を中心に展開するものです.もし男性が自分の生活の中心に女性を置くなら,それはちょうど二本のトマトの苗がともにしがみつきあっているようなものです.もし女性が男性の役割を受け入れなければ,二人ともぬかるみにはまって行き詰(ゆきづ)まりに終わるでしょう.それは女性が決してしてはならないことですし,少なくともそうしたいと望むことでもありません.賢(かしこ)い女性は自分の夫が仕事を見つけそれを愛する男性であることを選びます.そうすることで,夫が仕事に没頭している間,妻は夫に巻きついていることができるのです.

高さについて言えば,トマトの支柱が真っ直ぐ(まっすぐ)空に向(むか)っていなければならないように,男性も真っ直ぐ天国を目指していなければなりません.指導者は霊感を与えて元気づけたり先頭に立って導(みちび)くためのビジョン(=先を見通す眼,先見,展望,構想)を持っている必要があります.ルフェーブル大司教は真のカトリック教会の復興というビジョンを持っておられました.同様にピィ枢機卿Cardinal Pie (1815-1880)(訳注・ “Cardinal Louis-Édouard Pie”.フランス・ポワティエの司教.19世紀における聖伝カトリック信仰の熱烈な擁護〈ようご〉者)は,自分を取り巻く19世紀の男性たちの柔弱(にゅうじゃく)さを見たとき,その柔弱さは彼らの信仰の欠如(けつじょ)に起因(きいん)すると考えました.信仰が存在しなければ信念は存在しない,と彼は言いました.信念なしには堅固な人格は存在しません.人格の堅固さなしには男性は男性たり得ません.聖パウロが「すべての男性の頭(かしら)はキリストであり,女性の頭は男性であり,キリストの頭は神である」(コリント人への第一の手紙・第11章3節)(訳注後記)と語ったとき,彼は同じ線に沿(そ)って考えていました.そういうわけですから,男性の男らしさを回復するには男性を神に向かわせ,神の下に従わせることです.そうすれば,妻が夫の下に従い,子供たちが両親の下に従うことがはるかに容易になるでしょう.

だが「下に」という言い方は夫の妻に対する,あるいは両親の子どもたちに対するいかなる種類の暴虐(ぼうぎゃく)とも解(かい)すべきではありません.支柱はトマトのためにこそ存在しているのです.男性がその子供たちのためにできる最良のことは彼らの母親を愛することだと言ったのはある賢明(けんめい)なイエズス会士でした.男性は女性のように愛に走ることはないので,女性がどれほど愛すること,愛されることを必要としているかを簡単に忘れがちです.小さじ一杯分の愛情があれば彼女はさらに百マイル持ちこたえます.聖霊はこのことをもっと優雅(ゆうが)に言い表わしています.「夫たちよ,妻を愛しなさい,妻を苦々しくあしらってはならない」(コロサイ人への手紙・3章19節)(訳注後記).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第2パラグラフの訳注:
新約聖書・使徒聖パウロによるエフェゾ人への手紙:第5章22-23節(太字下線部分)(21-33節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE EPHESIANS, 5:22-23 (21-33)

家族の愛(5・22-33)
『キリストを恐れて互いに従え.

妻よ,主に従うように自分の夫に従え.キリストがその*¹体であり,それを救われた教会のかしらであるように,夫は妻のかしらである.教会がキリストに従うように,妻はすべてにおいて夫に従え.

夫よ,キリストが教会を愛し,そのために命を与えられたように,あなたたちも妻を愛せよ.
キリストが命を捨てられたのは,水を注ぐことと,それに伴(ともな)う*²ことばによって教会を清め聖とするためであり,また汚点(しみ)もしわもすべてそのようなもののない,輝かしく清く汚れのない教会をご自分に差し出させるためであった.
*³(28節)「そのように夫も自分の体のように妻を愛さねばならない.妻を愛する人は自分を愛する人である.(29節)だれも自分の体を憎む者はなく,みなそれを養い育む.
キリストも教会のためにそうされる.(30節)私たちは*⁴キリストの体の肢体だからである.
「*⁵(31節)これがために男は父と母を離れ,妻と合って二人は一体となる」.
*⁶この奥義は偉大なものである.私がそう言うのは,キリストと教会についてである.

あなたたちはおのおの自分の妻を自分のように愛せよ.妻もまたその夫を敬え.』

(注釈)

この「体」は教会である

*² 洗礼文.

(28-31節)自然の愛だけではなく,信仰と愛に満ちたキリストの教える超自然の愛

*³ ブルガタ訳,「その肉と骨で成り立っている」.

*⁴〈旧約〉創世の書2・24参照.

→創世の書からの引用:

『…神はご自分にかたどって,人間をつくりだされた』(1章27節).

2章18節から
『…主なる神は仰せられた,「人間が一人きりでいるのはよくない.私は彼に似合った助け手を与えよう」.
主なる神は,地から野の獣と空の鳥とをつくり,人間のもとに連れてゆかれた.それは,人間がそのものを,どのように呼ぶかを見たいと思われたからだった.その生き物を人間がどう呼ぶか,その呼び方がそれらの名となるはずであった.

さて,人間はすべての家畜と,空の鳥と,野の獣とに名をつけたが,人間に似合った助け手はまだ見つからなかった.
そのとき,主なる神は人間を深い眠りに入らせた.人間は眠りに入った.
神は人間のあばら骨の一本を取りだし,肉をもとのように閉じた.

主なる神は人間から取りだしたあばら骨で女を作って,それを人間のもとに連れてゆかれた.そのとき,人間は言った,
「さて,これこそ,わが骨の骨,わが肉の肉.これを女(ヘブライ語でイシャ)と名づけよう.男(イシュ)から取りだされたものなのだから」.(2章18-23節)
だからこそ,人間は父母を離れて,女とともになり,二人は一体となる(2章24節).

*⁵ 婚姻が「偉大な奥義」なのは,それが教会とキリストの神秘的な関係をかたどるからである


* * *

第5パラグラフの訳注:
同・使徒聖パウロによるコリント人への第一の手紙:第11章3節(太字部分)(1-16節を掲載)
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE CORINTHIANS. 11:3 (1-16)

『私がキリストに倣(なら)っているように,あなたたちは私に倣え.
あなたたちがすべてのことについて私を思い出し,私の伝えたとおり,*¹伝えを守っていることに喜びを言おう.私はあなたたちに次のことを知ってもらいたい.*²すべての男のかしらはキリストである.女のかしらは男である.キリストのかしらは神である

頭にかぶり物をして祈りや預言をする男はみな,その*³かしらを辱(はずかし)める.頭にかぶり物をしないで祈りや預言をする女もみなそのかしらを辱める.その女は剃髪(ていはつ)しているのと同じだからである.女がかぶり物をしないなら髪も切ればよい.神を切ったり剃(そ)ったりするのが女の恥であるなら,かぶり物をするがよい.

男は神のすがたであり光栄であるから,頭にかぶり物をしてはならぬ.女は男の光栄である.
男が女から出たのではなく,女が男から出たのであって,*⁴男が女のために造られたのではなく,女が男のために造られたからである.
そのため女は,*⁵天使たちのために,*⁶権威に服するしるしを頭にかぶらねばならぬ.
といっても*⁷主においては,男なしでは女もなく,女なしでは男もない.
女が男から出たように男は女から生まれ,そしてすべては神から出る.

あなたたちは自ら判断せよ.女がかぶり物なしで神に祈るのはよいことであろうか.
自然そのものも教えているではないか.男が長い髪をしているのは恥であって、女が長い髪をしていれば誇りであることを.女の神はかぶり物として与えられたからである.
だれかこれについて抗弁しようとするなら,私たちにはそういう習慣はなく,神の諸教会にも例がないと答えたい.』

(注釈)

*¹ 「伝え」とは初代教会の聖伝の教えのことである.

*² キリスト教的社会における階級.女性の服従の理由は,神の創造にある.しかし,その順序は,徳ではなく単に権威のことだけである.

*³ かしらの意味にも,頭の意味にもとれる.

*⁴ 〈旧約〉創世の書2・22-23参照.

*⁵ 創世の書6・2.ユダヤ系の偽典書に基づけば,昔のある学者は,この「天使」が天から落ちた天使のことだと言っていた.また,信者の集会のかしらの意味にとった人もあった.
しかしこの天使は,信者の集会のとき,祈りを神の座まで運ぶ(〈新約〉黙示録8・3,エフェゾ人への手紙3・10)よい天使のことと思われる.

*⁶ ここでは自分に対する他人の権利のこと.

*⁷男も女も不完全なもので,主のみ前にあっては平等である. 』


* * *

第6パラグラフの訳注:
同・使徒聖パウロによるコロサイ人への手紙:第3章19節(太字下線部分)(18-21節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE COLOSSIANS, 3:19 (3:18-21)

『*¹妻たちよ,主にふさわしいように自分の夫に従え.
夫たちよ,妻を愛せよ,苦々しくあしらうな
子どもたちよ,すべて両親に従え.それは主に喜ばれることである.
父達よ、子どもを怒らせるな.彼らを落胆させないためである.』

(注釈)

家庭の人たちに(3・18-)
*¹ この節(18節)以下にキリストの愛という見地に立って生きる自然倫理が説かれる(エフェゾ5・22).

(→エフェゾ5章22節)
『妻よ,主に従うように自分の夫に従え.』


* * *