ラベル ピオ12世 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ピオ12世 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2015年2月7日土曜日

395 新会の考え方 2/7

エレイソン・コメンツ 第395回 (2015年2月7日)

 (解説無し) 

フリューガー神父が話すとき,
私たちはなにに耳を向ければいいのでしょうか? 
公会議が人間のための宗教であることは明瞭です. 
When Father Pfluger speaks, what do we hear? 
The religion of man, the Council, loud and clear.

昨年末(2014年),聖ピオ10世新会( "the Newsociety of St Pius X=XSPX" )副総長ニクラウス・フリューガー神父( "Fr. Niklaus Pfluger" )は同会がドイツで発行している雑誌( "Der Gerade Weg" )とのインタビューで,教会,伝統、「抵抗運動」,XSPX など広範囲にわたる7つの質問に答えました.彼の重要な地位を考えれば,私たちはその考え方にまったく関心がないなどとは言えません.以下にその発言要旨をご紹介し,その後で主な欠陥を指摘します.
Towards the end of last year, the second-in-command of the Newsociety of St Pius X, Fr. Niklaus Pfluger, gave an interview to a Newsociety magazine in Germany, Der Gerade Weg, in which he answered seven questions ranging over the Church, Tradition, the “Resistance” and the XSPX. Given his important position, his thinking cannot be without interest. Its main lines are presented here below, and then its main flaw.

「カトリック教会の幅は広く,単なる伝統派運動に比べるとはるかに幅広いものです.運動が1970年代に第二バチカン公会議革命により家を失ったカトリック教徒たちによる反抗として始まったことは理解できます。しかし、私たちが1950年代や1970年代の考え方にはまり込んだままで居続ける限り,伝統は魅力的で説得力あるものとはならないでしょう.カトリック教の伝統は大きな宝であり,19世紀,20世紀に定例化したような形で、単に近代主義、自由主義、フリーメーソンを糾弾するだけの範囲内にとどまるべきものではありません.聖ピオ十世会(SSPX)は1970年代,1980年代を通して,溺(おぼ)れる人々のための救命ボートの役目を果たしましたが,2014年には『私たちの時代は変わり,なにもしないでじっとしていられなく』なったのです.教会の伝統は一つですが,いわゆる伝統は何種類もあります.近代的なものの多くが必ずしも非道徳的とは限りません.」
The Catholic Church is broad, much broader than just the Traditional movement. This movement began in the 1970’s as an understandable reaction of Catholics rendered homeless by the Conciliar revolution, but we will never make Tradition attractive or convincing if we remain mentally stuck in the 1950’s or 1970’s. Catholic Tradition is a vast treasure, not to be confined within the condemnations, which were routine in the 19th and 20th centuries, of modernism, liberalism and Freemasonry. In the 1970’s and 1980’s the SSPX did act as a lifeboat for souls drowning, but in 2014 “our time is different, we cannot stand still.” Church Tradition is one, but traditions are many, and much that is modern is not immoral.

「したがって,『私たちは絶えず自らの立ち位置を変えなければなりません.』 その位置は,教会内に近代主義の危機などまったく存在しないという考え方と,『抵抗運動』がやっているように教会の現実を否定する考え方の間のどこか適当なところになるでしょう.運動に携わる人々は(立ち位置を変えるという)単なる実務的問題を信仰の問題にすり替えています.だが,彼らの言う『信仰』は自分たちが造りだしたもので,主観的,個人的であり,極端な場合は現実の否定です.ローマ教皇庁はカトリック教でないなどとどうして言えるのでしょうか?フェレー司教はナンバーワンの敵だなどとどうして言えるのでしょうか?馬鹿げています!『抵抗運動』は派閥的で,狭量で,悪意に満ちており,不和を生じさせる存在です.」
So “we must continually re-position ourselves,” somewhere between denying that there is any crisis of modernism at all in the Church, and denying Church reality, as does the “Resistance.” They turn a purely practical problem of re-positioning into a question of faith, but that “faith” is a fabrication of their own, subjective, personal and in extreme denial of reality — how can Rome not be Catholic? How can Bishop Fellay be Enemy Number One? Ridiculous! The “Resistance” is sectarian, narrow-minded, evil-spirited and divisive.

「2012年に SSPX 本部( "SSPXHQ " )が伝統派を裏切ったということについて言えば,本部の取った行動は双方から攻撃されたのですから,本部は妥当な節度をもって行動したと言えるでしょう.本部が出した文書は独断的なものでなく,単に状況に対応しただけでした.文書が2006年の SSPX 総会決定から逸脱したのは事実です.だが,2006年時点でローマ教皇庁が SSPX に対する攻撃的な態度を2012年までに弱めるとだれが想像できたでしょうか?事実,2014年には,私たちの3名の司教全員がルルドのバシリカ聖堂でおこなわれた諸諸の公式ミサ聖祭を祝うことができたのです!」
As for SSPXHQ having betrayed Tradition in 2012, its actions were attacked from both sides, so it acted with reasonable moderation. Its texts were not dogmatic, just responding to circumstances. It did depart from General Chapter decisions of 2006, but who back then could imagine how much less aggressive towards the SSPX Rome would become by 2012? In 2014 our three bishops could all celebrate public Masses in the Basilica of Lourdes!

「要するに, SSPX は聖霊を信奉していますし(=神なる聖霊〈 "the Spirit" 〉に従いますし),真の伝統 "Tradition" を重んじています.SSPX は(伝統的な)典礼(the liturgy)を(ルフェーブル大司教のお蔭で)残しました. SSPX は独占的なものではなく,見た目ほど分裂しているわけでもなく,敗(ま)けて打ちひしがれているわけでもありません.真の教会内部の嵐は今後も確かに続くでしょう.だが,諸諸の陰謀説とか(新約聖書の聖ヨハネ黙示録に預言されているような)黙示録信仰すなわち世界の大惨事・破局・終末論信仰( "Apocalyptism" )など反対!信仰,希望,新たな若者たち賛成!で進みましょう」(ドイツ語原文およびフランス語訳文は "francefidele.org",英語訳文は "abplefebvfreforums" もしくは "cathinfo.com" をご覧ください.)
In brief, the SSPX follows the Spirit, It draws on Tradition. It saved the liturgy (thanks to Archbishop Lefebvre). It is neither monopolistic, nor as disunited or defeated as it may seem. Storms in the Church do continue, but down with conspiracy theories and Apocalypticism, and up with faith, hope and a new youth! (See francefidele.org for the original in German, and a French translation; see abplefebvreforums or cathinfo.com for an English translation)

では,フリューガー神父の考え方のどこが欠陥なのでしょうか?もっとも問題なのは最初の一節です.彼はここで「真の伝統 "Tradition" は『近代主義,自由主義,フリーメーソンに対する19世紀,20世紀的な糾弾』 の枠外でうまくやっていける」と示唆しています.同神父にとっては,あらゆる自由主義者と同じように,そうした糾弾はカトリック信仰に不可欠のものではなく,単に「実体的な投錨地」( substantial anchorages =ラッツィンガー枢機卿自身の表現)にすぎず,教会という船が時代が変わり,新しい状況に対応できなくなったらいつでも離れられるものだというのでしょう.したがって,仮にフリューガー神父がルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" ),教皇ピオ9世( "Pius IX" ),教皇聖ピオ10世( "St Pius X" ),教皇ピオ12世( "Pius XII" )ら諸教皇と異なる信仰を持っていないとしても,信仰についての概念が異なっているに違いありません.その異なった概念は引用したインタビュー記事に出てくる彼のあらゆる発言ににじみ出ています.
So where is the flaw in Fr Pfluger’s thinking? It is most clearly seen in the first paragraph above, where he suggests that Tradition can thrive outside of the “19th and 20th century condemnations of modernism, liberalism and Freemasonry.” For Fr Pfluger, as for all liberals, these condemnations are not integral to the Catholic Faith but merely “substantial anchorages” (Cardinal Ratzinger’s own expression), which in a different age the ship of the Church can leave behind, as corresponding no longer to the different circumstances. Therefore if Fr Pfluger does not have a different faith from that of Archbishop Lefebvre, Pius IX, St Pius X, Pius XII, etc., he certainly has a different concept of that Faith, and that different concept underlies all his remarks in the interview quoted.

こうしてみると,問題は単なる「実務的な立ち位置の変更」よりもっと大きなものです.現在のローマ教皇庁はまさしくカトリック教ではありません.フェレー司教は大いに問題です.2006年総会は独断的なところがありました.伝統は人間にとって魅力的にすべきものではなく,神にとって忠実たるべきものです(このことはインタビューでわずか一回しか触れていません).「抵抗運動」はけっして自分たち固有の「信仰」を造りだそうとしているものではありません.指摘すべき欠陥はまだまだあります.
Thus the problem is much more than just “practical re-positioning.” Today’s Rome is indeed not Catholic. Bishop Fellay is a huge problem. The 2006 General Chapter was implicitly dogmatic. Tradition is not to be made attractive to men, but true to God (mentioned only once, passingly, in the interview). The “Resistance” is far from creating its own “faith.” And so on and so on.

キリエ・エレイソン.
Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教




* * *
解説付版を追補いたします.
* * *







* * *
本投稿記事・第395回エレイソン・コメンツ「新会の考え方」(2015年2月7日付)/ELEISON COMMENTS CCCXCV (Feb. 7, 2015) : "NEWSOCIETY THINKING(解説無し)は2016年7月2日午前07時00分に掲載されました.
* * *

2014年11月29日土曜日

385 現職教皇 11/29

エレイソン・コメンツ 第385回 (2014年11月29日)

    1949年1月29日,教皇ピオ12世は教皇の重要性について次の様に述べました:(せんきゅうひゃく よんじゅうく ねん いちがつ にじゅうく にち,きょうこう ぴお じゅうにせいは きょうこうの じゅうようせい について つぎの ように のべました:)( "On January 29, 1949, Pope Pius XII made the following remarks about the importance of the Pope: …" )全くの仮説ですが,もし何時の日かローマ(教皇庁)が物理的に崩壊し,勝者カトリック教会の唯一の象徴であるバチカン・バシリカ(バジリカ〈英語読み〉)(聖堂)がその歴史的な宝物や聖なる墓石を廃墟の下に埋めてしまう事になったとしても,教会が解体・分断される事は決してないでしょう(まったくの かせつ ですが,もし いつのひか ろーま〈きょうこう ちょう〉が ぶつりてきに ほうかいし,しょうしゃ かとりっく きょうかいの ゆいいつの しょうちょう である ばちかん・ばしりか(せいどう)が その れきしてきな ほうもつや せいなる ぼせきを はいきょの したに うめて しまう ことに なった としても,きょうかいが かいたい・ぶんだん される ことは けっして ないでしょう)( "If ever one day – speaking purely hypothetically – material Rome were to collapse; if ever this Vatican basilica, symbol of the one and only victorious Catholic Church, were to bury beneath its ruins the historic treasures and sacred tombs which it encloses, even then the Church would be in no way demolished or split. " )キリストがペトロに与えた約束は真実のまま残り,教皇職は教会と同じ様に,その時生存する(現職の)教皇の上に築かれた,唯一つの壊される事のないものとして,永遠に存続するでしょう.(きりすとが ぺとろに あたえた やくそくは しんじつの まま のこり,きょうこう しょくは きょうかいと おなじ ように,そのとき せいぞん する(げんしょくの)きょうこうの うえに きずかれた,ただひとつの こわされる ことの ないもの として,えいえんに そんぞく するでしょう.)( "Christ's promise to Peter would still hold true, the Papacy would last for ever, like the Church, one and indestructible, being founded on the Pope then living.” " )

    この言葉は古くからの教会教理(原文に加えたのは下線「その時生存する(現職の」だけ)であり,現存の通り,確かに私たちの主イエズス・キリスト御自身の御言葉に基づくもの(マテオ聖福音書:第16章16-18節)ですから(この ことばは ふるく からの きょうかい きょうり〈げんぶんに くわえた のは かせん「そのとき せいぞん する〈げんしょくの〉」だけ〉であり,げんぞんの とおり,たしかに わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと ごじしんの みことばに もとづく もの〈まてお せい ふくいんしょ:だい じゅうろく しょう じゅうろく-じゅうはち せつ〉ですから)( "Since these words are classic Church doctrine (only the underlining has been added), resting as they do on Our Lord's own words (Mt. XVI, 16-18), …" ),現職の歴代教皇が公会議派になってしまった1962年以来,数億人のカトリック信徒が同じ様に公会議派,リベラル派になってきたのはさほど驚く事もないでしょう(げんしょくの れきだい きょうこうが こうかいぎはに なって しまった せん きゅうひゃく ろくじゅうに ねん いらい,すうおくにんの かとりっく しんとが おなじように こうかいぎは,りべらるはに なってきたのは さほど おどろく ことも ないでしょう)( "… then it is small wonder if, ever since 1962 when the living Popes became Conciliar, millions upon millions of Catholics have been driven to becoming likewise Conciliar and liberal." ).教皇空位論者が見る唯一つの問題解決は歴代の公会議派教皇が教皇だった事を否定することでしょう.これは常識に思えるかも知れませんが(きょうこう くうい ろんじゃが みる ただ ひとつの もんだい かいけつは れきだいの こうかいぎは きょうこうが きょうこう だった ことを ひてい する ことでしょう.これは じょうしきに おもえる かも しれませんが)( "The only way out of the problem that sedevacantists can see is to deny that the Conciliar Popes have been Popes at all, which can seem to be common sense, …" ),多くのカトリック信徒にとっては,神により現職の教皇の上に築かれるよう意図された教会は教皇が一人もいなかったら過去半世紀(1962-2014年)の間存在出来なかったはずだと考える方が,より常識的だと言えるでしょう(おおくの かとりっく しんとに とっては,かみにより げんしょくの きょうこうの うえに きずかれる よう いと された きょうかいは きょうこうが ひとりも いなかったら かこ はんせいき〈せん きゅうひゃく ろくじゅう に - にせん じゅうよねん〉の あいだ そんぞく できなかった はずだ と かんがえる ほうが,より じょうしき てき だと いえる でしょう)( "… but to most Catholics it seems even more to be common sense that the Church designed by God to rest upon the living Pope cannot have existed for the last half century (1962-2014) without one." ).

    中世時代に絶頂を極めたキリスト文明の退潮が歴代の現職教皇たちによってどのようにして現在の堕落へ導かれたかを振り返るのは簡単です(ちゅうせい じだいに ぜっちょうを きわめた きりすと ぶんめいの たいちょうが れきだいの げんしょく きょうこう たちに よって どのように して げんだいの だらくへ みちびかれたかを ふりかえるのは かんたん です)( "It is easy to see how the decline of Christian civilisation since the height of the Middle Ages has led to the present corruption of the living Popes. " ).神がその退潮を罰する為,その驚くべき堕落をお許しになったのであろうと見るのも容易な事です(かみが そのたいちょうを ばっするため,その おどろくべき だらくを おゆるしに なった ので あろうと みる のも よういな こと です)( "It is easy to see how God can have permitted this appalling corruption to punish that appalling decline. " ).だが,容易に理解できないのは,教会の礎である歴代教皇が神への挑戦であるリベラリズム(自由主義)こそがカトリック的だと信じているのに教会が如何に存続できるのか,という点でしょう(だが,よういに りかい できない のは,きょうかいの いしずえ である れきだい きょうこうが かみ への ちょうせん である りべらりずむ こそが かとりっく てき だと しんじて いる のに きょうかいが いかに そんぞく できるのか,という てん でしょう)( "What is less easy to see is how the Church can still live when the living Popes on whom it is founded are convinced that liberalism, war on God, is Catholic. " ).私たちの主の御言葉には 良い木は悪い実を結ばないし悪い木は良い実を結ばない (新約聖書・マテオ聖福音書:第7章18節)とあります(わたくし たちの しゅ いえずす・きりすとの みことば には よい き は わるい み を むすばない し わるい き は よい み を むすばない 〈しんやく せいしょ・まてお せい ふくいん しょ:だい ななしょう じゅうはっせつ〉とあります)( "In Our Lord's own words, A good tree cannot bring forth evil fruit and an evil tree cannot bring forth good fruit (Mt. VII, 18). " ).

    だが,半分良い木,半分悪い木はそれぞれ半分良い実,半分悪い実を結びます(だが,はんぶん よい き,はんぶん わるい き は それぞれ はんぶん よい み,はんぶん わるい み を むすびます)( "But a tree half good, half bad, can produce fruits half good, half bad. " ).全体として見れば,善と悪の混合体は悪ですがぜんたい として みれば,ぜん と あく の こんごう たい は あく ですが)( "Now taken as a whole, a mixture of good and bad is bad, " ),個々に見れば,その混合体の良い部分が悪い分と同じように悪いということではありませんここに みれば,その こんごう たいの よい ぶぶんが わるい ぶぶんと おなじように わるい という ことでは ありません)( "but that does not mean that taken part by part, the mixture's good parts are as bad as its bad parts. " ).肝臓癌は私を殺すでしょうが,それは私が両肺に癌を持っている事を意味しません(かんぞう がん は わたくしを ころす でしょうが,それは わたくしが りょうはいに がんを もっている ことを いみ しません)( "Cancer in the liver will kill me, but that does not mean that I have cancer in the lungs. " ).現職の聖職者たちは,生身の人々と同じ様に,全てが善人あるいは悪人という訳ではありません(げんしょくの せいしょくしゃ たちは,なまみの ひとびとと おなじ ように,すべてが ぜんにん あるいは あくにん という わけ では ありません)( "Now no living churchman, any more than any man alive, is entirely good or entirely bad. " ).私たちは全て死を迎えるまで変わり続ける混合体です(わたくし たちは すべて しを むかえる まで かわり つづける こんごうたい です)( "We are all a fluctuating mixture until the day we die. " ).従って,歴代の教皇の中で,在位期間中に産み出した果実が全く悪だったという教皇が果たしていたでしょうか?(したがって,れきだい きょうこうの なかで,ざいい きかん ちゅうに うみだした かじつが まったく あく だった という きょうこうが はたして いた でしょうか?)( "So can there ever have been a living Pope whose fruits were entirely evil ? " )答えは「ノー」以外 ありません(こたえは「のー」いがいありません).( "The answer can only be, no. " ).その場合,カトリック教会は過去50年の間,公会議派教皇たちが作り出した半分良い果実によって半分だけ存続し(その ばあい,かとりっく きょうかいは かこ ごじゅうねんの あいだ,こうかいぎは きょうこう たちが つくりだした はんぶん よい かじつに よって はんぶん だけ そんぞくし)( "In which case the Catholic Church can have half-lived for the last 50 years on the half-good fruits of the Conciliar Popes, " ),残り半分は教会を浄化すべく神から許されて存続してきた訳です(のこり はんぶんは きょうかいを じょうか すべく かみ から ゆるされて そんぞく してきた わけです)( "with a half-life permitted by God to purify his Church, " ).神は残り半分が教会を潰すことはお許しにならないでしょう(かみは のこり はんぶんが きょうかいを つぶす ことは おゆるしに ならない でしょう)( "but which he would never permit to go so far as to kill his Church. " ).

    これまで,例えば,パウロ6世は聖職者の欠乏( "the lack of vocations" )(訳注5・1 )を嘆きました(これまで,たとえば,ぱうろ ろくせいは せいしょくしゃの けつぼう〈やくちゅう5・1〉を なげき ました)( "Thus for example Paul VI wept for the lack of vocations." ).ベネディクト16世は伝統を切望しました(べねでぃくと じゅうろくせいは でんとうを せつぼう しました)( "Benedict XVI hankered after Tradition." ).教皇フランシスコでさえ神を人間に引き寄せようとしながらも本気で人間を神に導こうとしています(きょうこう ふらんしすこ でさえ かみを にんげんに ひきよせようと しながらも ほんきで にんげんを かみに みちびこうと しています)( "Even Pope Francis surely means to bring men to God when he drags God down to men." ).歴代公会議派教皇たちの考えは酷く間違っています(れきだいこうかいぎは きょうこう たちの かんがえは ひどく まちがって います)( "So, Conciliar Popes are dreadfully mistaken in their ideas, …" ).彼らは決して曖昧であってはならない信仰について致命的に曖昧です(かれらは けっして あいまいで あっては ならない しんこうに ついて ちめいてきに あいまいです)( "… fatally ambiguous in the Faith where they need to be absolutely unambiguous." ).教会は彼らの下で過去も現在も死にかかっています(きょうかいは かれらの もとで〈したで〉かこも げんざいも しにかかって います)( "The Church has been and is dying beneath them, …" ).だが,彼らの中に依然として残っている良い部分が教会を存続させてきました(だが,かれらの なかに いぜんとして のこっている よい ぶぶんが きょうかいを そんぞく させて きました)( "… but whatever parts in them have still been good have enabled the Church to continue, …" ).ピオ12世が述べたように,彼らは現職の長として現存する教会の本体を存続させる為必要とされてきています(ぴお じゅうにせいが のべたように,かれらは げんしょくの おさとして〈=ちょうとして〉げんぞん する きょうかいの ほんたいを そんぞく させる ため ひつようと されて きています)( "… and they have been needed as living heads to continue the body of the living Church, as Pius XII said." ).そうだとすれば,私たちは彼らが教会を全滅させてしまう等と心配せずに(そうだとすれば,わたくしたちは かれらが きょうかいを ぜんめつ させて しまう などと しんぱい せずに)( "Then let us not fear that they will be allowed to kill off the Church, …" ),彼らのリベラリズムと徹底的に戦い,彼らがカトリックの正道に立ち戻るよう祈願しましょう(かれらの りべらりずむと てってい てきに たたかい,かれらが かとりっくの せいどうに たちもどる よう きがん しましょう)( "… but let us for our part fight their liberalism tooth and nail and pray for their return to Catholic sanity, …" ).何故なら,私たちは教会の命を保つ為彼らを必要としているからです(なぜなら,わたくしたちは きょうかいの いのちを たもつ ため かれらを ひつようと している から です),( "… because we do need them for the life of our Church." ).

    キリエ・エレイソン.


    教会は,如何に悪くても
    現職の教皇たちが必要です.
    (きょうかいは,
    いかに わるく ても
    げんしょくの きょうこうたちが
    ひつよう です.)

    ( "The Church needs living Popes,
     however bad." )


    彼らは,如何に気が狂っても
    教会を全滅させる事は
    ないでしょう.
    (かれらは,
    いかに きが くるっても
    きょうかいを
    ぜんめつ させる
    ことは ないでしょう.)

    ( "Kill off the Church they won't,
     however mad." )


    リチャード・ウィリアムソン司教




* * *



第5パラグラフの訳注5・1
聖職者の欠乏( "the lack of vocations" )について:

・vocations
=(教会においては,聖職を)天職(=「職業」・「自分の生涯の使命」)に選ぶことを指す.
「神〈キリスト〉に呼ばれる・召し出される」,「召命を受ける」,等と表現する.

マテオ聖福音書:第4章18-22節(聖福音の御言葉を追って掲載)

(イエズスは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたガリラヤ北部,異邦人の多いヨルダンのかなたペレアのガリラヤ湖畔で,弟子として漁師ペトロ・アンドレア・ヤコブ・ヨハネを呼ばれた.彼らはすぐ父・舟・網をおいてイエズスに従った.)

・この由来で,公教会では一般にいずれの「職業」" vocations" も「神に呼ばれて従事する天職」を意味し,それぞれの職業に特定の保護の聖人(守護聖人)が置かれている.

・霊魂を持たない動物と異なり,霊魂を持つ人間には,地上に生まれ出でて「単に生計を営み,そして死去する」以上の意義が,人生に課せられている.

・人間は本来,自分がこの世に生まれて来た真の意義・目的を正しく認識し確信して生きるべく,真の創造主・真の神に創造されて存在している.

・あらゆる人間は,真の神の普遍の慈愛・正義・憐み・赦し・信仰・希望に立ち,
この世で自分の存在の真の意義についての正しい確信を保ち,
真の神の御心に適った真実の職業に邁進して生涯を生きて終わることが,
真の幸福の秘訣である.

公教会の主祷文・天使祝詞・栄唱は,真の神の御独り子がお教えになった人間の真の幸福を約束する祈りである.(祈祷文を追記いたします)


・公教要理(カトリック要理)
1.人は何のために,この世に生れて来ましたか.
人がこの世に生れて来たのは,天主(=神)を知り,天主を愛し,天主に仕えて,遂に天国の幸福を得るためであります.」

・人間となり,人間を救うために(天より)下られた真の神の御独り子(=唯一の救世主=キリスト)イエズスの聖福音の御言葉:

新約聖書・マテオ聖福音書:第4章4節,第二法の書:第8章3節
人はパンだけで生きるのではない. 神の口から出るすべてのことばによって生きる.』

・「地上のあらゆる生き物の中で人間のみが霊魂を持つ」
=「神の似姿に創造された地上で唯一の生き物」
→人間は,肉体の他に,霊である神に似せて「霊魂をも併(あわ)せ持った唯一の生き物」として,全能の真の神により地上に創造された.

・霊と真理は世に普遍的な存在である.人種や身分・宗教等の別によらない.

→ヨハネ聖福音書:第4章24節(第1-5章…).

『…イエズスは,「婦人(サマリア人のある女)よ,私の言うことを信じなさい.
*この山でもなくエルサレムでもなく,あなたたちが御父を礼拝する時が来る.
あなたたちは知らないものを拝み,私たちは知っているものを拝んでいる.
救いはユダヤ人から来る.
まことの礼拝者が霊と真理をもって御父を拝む時が来る,いやもう来ている.
御父はそういう礼拝者を望まれる.
神は霊であるから,礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ」と言われた.…』
*シケムに近いガリジムの山

・人間の生命の起源たる神は,人生の真の意味そのものである.

・「神」とは,「大宇宙・自然の摂理」と同意義である.世のあらゆる存在は神のお許しのもとに存在している.

・神はあらゆる事を「慈愛・正義・善」の故に行われるのであり,限界ある人間には,全能の神の存在に対する信仰(見ずして信じる事〈=つまり見えなくても神は唯一の全能者・真実

・善良・正義・慈愛・慈悲・謙遜を愛し,悪を憎まれる方であると信じる事〉)なくして神の御意志(=真理)を理解する事は決して出来ない.


* * *

キリストの代理者たる教皇の天職の意義は永遠に変わらない.

→キリストの御言葉:マテオ聖福音書:第24章35節

天地は過ぎ去る,だが私のことばは過ぎ去らぬ.』









* * *
(注:本投稿記事〈第385回エレイソン・コメンツ「現職教皇」 "LIVING POPES" 〉は2015年2月9日22:50時に掲載されました.)

2014年4月12日土曜日

352 フランス旅行 4/12

エレイソン・コメンツ 第352回 (2014年4月12日)

     再び朗報(ふたたび ろうほう)をお届(とど)けします( "Good news again, …" ).今回(こんかい)はフランスからです( "… this time from France, …" ).今度(こんど)も分量(ぶんりょう)こそ少(すく)ないながら質の高い朗報(しつの たかい ろうほう)です( "… once more small in quantity but high in quality. " ).少数の(=一握りの〈ひとにぎりの〉,わずかの)善良な司祭(しょうすうの ぜんりょうな しさい)たちが共に集い(ともに つどい)( "A handful of good priests are gathering together…" ),信仰(しんこう)がルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)の示された方針に沿って守られる(しめされた ほうしんに そって まもられる)よう行動を起こして(こうどうを おこして)います( "… and taking action to make sure that the Faith will continue to be defended along the lines laid down by Archbishop Lefebvre, …" ).つまり,極右からの教皇空位論(きょくう からの きょうこう くういろん)と上からの公会議主義(うえからの こうかいぎ しゅぎ)との(=意訳・教皇空位主義の攻撃を右側から公会議主義の攻撃を ―― 〈左側ではなく〉上側から迎〈むか〉えその)隙間を縫って進む(すきまを ぬって すすむ)ということです( "… steering between sedevacantism on the right and conciliarism -- from above." ).会員を置き去り(かいいんを おきざり)にする聖ピオ十世会(せい ぴお じゅっせい かい)( SSPX )本部(ほんぶ)は好(す)きなようにさせておき( "SSPX HQ will be left to bury its followers, …" ),残(のこ)りの幸運な司祭(こううんな しさい)たちは迫害の迫撃を受ける(はくがいの はくげきを うける)次の段階に備えて(つぎの だんかいに そなえて)真の宗教(まことの しゅうきょう)で自らの立場(みずからの たちば)を強くする努力(つよくする どりょく)を続(つづ)けています( "… while a remainder of happy priests will continue to fortify themselves with the true religion for the next stage in their persecution." ).

     これは私(わたくし)が昨年秋(さくねん あき)から4回(よんかい)にわたり説教(せっきょう)のために訪(おとず)れたフランス国内各地(ふらんす こくない かくち)の施設(しせつ)で観察した状況(かんさつした じょうきょう)です( "This is what I observed on a fourth lecture tour since last autumn of centres in France …" ).どの施設(しせつ)でも,一般信徒(いっぱん しんと)たちはピオ6世(1717-1799年)からピオ12世(1876-1958年)までの間(あいだ)の歴代(れきだい)カトリック教教皇(かとりっく きょう きょうこう)が説(と)いた反自由主義教理(はん じゆうしゅぎ きょうり)に関心を示して(かんしんを しめして)います( "… where the laity are interested in the anti-liberal doctrine of the Catholic Popes between Pius VI (1717-1799) and Pius XII (1876-1958)." ).この教理はとくに新(あたら)しいものではなく,この1世紀半の期間(いっせいきはんの きかん)の初めの頃(はじめの ころ)でさえ詳しく説かれて(くわしく とかれて)いたものでした( "That doctrine was not new, even at the beginning of the century and a half over which it was elaborated." ).教会が絶えず教えて(きょうかいが たえず おしえて)きたことの中で,特定の部分(とくていの ぶぶん)に注目を新たに(ちゅうもくを あらたに)する必要が生じた(ひつようが しょうじた)のは( "It was merely that particular part of the Church's timeless teaching which needed to be refreshed from the moment …" ),15世紀に及ぶ(じゅうごせいきに およぶ)キリスト教の社会秩序(きりすと きょうの しゃかい ちつじょ)が1789年のフランス革命(ふらんす かくめい)により破壊(はかい)され奪い去られた瞬間(うばい さられた しゅんかん)からでした( "… when the Christian social order of 15 centuries was undermined and supplanted by the French Revolution of 1789. " ).

     フランス革命はフリーメーソン的自由主義(ふりーめーそんてき じゆうしゅぎ)が教会の玉座(きょうかいの ぎょくざ)(訳注1)と祭壇(きょうかいの ぎょくざと さいだん)をその地位から引きずりおろし転覆させようと狙って神に戦いを挑んだ(ちい から ひきずりおろし てんぷく させようと ねらって かみに たたかいを いどんだ)ものでした( "That Revolution was Freemasonic liberalism making war on God by seeking to overthrow throne and altar." ).

     それ以来(いらい),神の公教(=カトリック教)の諸々の玉座(かとりっく きょうの もろもろの ぎょくざ)は「民主主義( "democracy" )」(みんしゅ しゅぎ)により事実上覆(じじつじょう くつがえ)され( "Since then the Catholic thrones have been virtually overthrown by "democracy", …" ),諸カトリック教会の諸々の祭壇(しょ かとりっく きょうかいの もろもろの さいだん)は第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)( "Vatican II" )で公会議が人間の宗教(にんげんの しゅうきょう)に転向(てんこう)したことにより事実上壊された(じじつじょう こわされた)ままになってきました( "… while the Catholic altars were virtually overthrown at Vatican II by that Council's conversion to the religion of man. " ).だが,神の宗教に忠実な(かみの しゅうきょうに ちゅうじつな)ルフェーブル大司教は( "Archbishop Lefebvre however, cleaving to the religion of God, …" ),自分(じぶん)の弟子(でし)たちが自由主義世界の中(じゆうしゅぎ せかいの なか)でカトリック教の立場(たちば)をどう守(まも)るかを知(し)るため教会の反革命的教理(きょうかいの はんかくめいてき きょうり)を完全に理解(かんぜんに りかい)するよう望(のぞ)まれました( "… wished that his seminarians would be thoroughly familiar with the Church's anti-Revolutionary doctrine in order to know how to take their Catholic stand in the midst of a liberal world. " ).大司教の設立(せつりつ)した SSPX が巧(たく)みに新社会(しん しゃかい)( "the Newsociety" )に変えられる様子(かえられる ようす)を理解(りかい)する一般信徒(いっぱん しんと)たちが( "It follows that Catholic lay-folk who can see how the Archbishop's Society of St Pius X is being cunningly transformed into the Newsociety, …" ),第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)の150年前(ひゃくごじゅう ねん まえ)に出(だ)された歴代教皇の回勅(れきだい きょうこうの かいちょく)に関心を示す(かんしんを しめす)のはこのためです( "… are interested in the Popes' Encyclical Letters of those 150 years before Vatican II." ).私は4回のフランス旅行の最初の旅行期間中(さいしょの りょこう きかん ちゅう)に5か所を訪れ(ごかしょを おとずれ)ました( "On the first of my four lecture tours there were five stops." ).直近の,3月末から4月初め(ちょっきんの,さんがつ すえ から しがつ はじめ)にかけての今回の旅行(こんかいの りょこう)では9か所を訪れ(きゅうかしょを おとずれ)ました( "On the latest, between end March and early April, there were nine, …" ).これからさらにお呼(よ)びがかかりそうです( "… and there risk being more invitations." ).訪れた先々(おとずれた さきざき)で,SSPX が誤った方向(あやまった ほうこう)へ導(みちび)かれていることに目を覚ま(めを さま)されているフランスの一般信徒たちが増(ふ)えているのを知(し)りました( "There are, all the time, more French lay-folk waking up to how the Society is being misled." ) .

     悲(かな)しいかな,あまりにも多くの聖ピオ十世会の司祭はまだ誘惑の達人の魔法(ゆうわくの たつじんの まほう)にかかったまま,俗世界の夢に魅せられて我を見失っている状態(ぞく せかいの ゆめに みせられて われを みうしなっている じょうたい)です( "Alas, all too many SSPX priests are still spellbound by a master of seduction, lost in his worldly dream." ).私は今回の旅行(こんかいの りょこう)で,そのうちの何人(なんにん)かにお会(あ)いしました( "I met a few of them on this latest tour." ).彼(かれ)らは間違(まちが)いなく善良(ぜんりょう)で,司祭として立派(りっぱ)にふるまってきた人たちです( "They are no doubt good men, they have been good priests, …" ).彼らは目を開き(めを ひらき)多(おお)くのことを見(み)ます( "… they have their eyes open and see many things, …" ).だが,一度(ひとたび)その誘惑者に触れる(ゆうわくしゃに ふれる)と,その視覚が曇り(しかくが くもり),気持ち惑わされて(きもち まどわされて)しまうのです( "… but when they are exposed once more to that seducer, their vision clouds over and their will is puzzled." ).ギリシア語の動詞(ぎりしあごの どうし)「 diaballein 」は英語(えいご)の「 diabolical(ひどい)」,「 devil(悪魔〈あくま〉)」の語源(ごげん)ですが( "The Greek verb "diaballein" from which come the English words "diabolical" and "devil", …" ),「ひっくり返(かえ)す」,「混乱に陥れる(こんらんに おとし いれる)」ことを意味(いみ)します( "… means to turn upside down, to throw into confusion." ).

     私が上に述べた(うえに のべた)6名の司祭(ろくめいの しさい)たちは,このように混乱させられた司祭(こんらん させられた しさい)たちとはまったく違(ちが)います( "These confused priests contrast with the half dozen mentioned above who have seen clear and are taking action on what they see." ).彼らは長(なが)いあいだ自分(じぶん)たちのひどい指導者(しどうしゃ)たちに忠実(ちゅうじつ)であろうと努(つと)める緊張感を味わって(きんちょうかんを あじわって)きましたが,これはいまや過去(かこ)のことになっています( "The tension by which they were tortured for as long as they tried to remain loyal to diabolical leaders is a thing of the past." ).彼らは心穏やか(こころ おだやか)で,嬉々(きき)としてルフェーブル大司教の作業を続ける(さぎょうを つづける)ための計画作り(けいかく づくり)に携(たずさ)わっています( "They are serene, and happily making plans for the continuation of the Archbishop's work." ).その中(なか)の一人(ひとり)ドゥムロード神父( "Fr. de Merode" )は何年も前(なんねんも まえ)に叙階(じょかい)叙任?を受けた方ですが,自分の意志(じぶんの いし)で SSPX を離(はな)れ,すでにルルド(るるど)( "Lourdes" )に家を一軒購入(いえを いっけん こうにゅう)し,フランス南西部(なん せいぶ)にもう一軒購入(いっけん こうにゅう)しようとしています( "Fr. de Mérode, ordained many years ago, has left the SSPX of his own accord, has bought one house in Lourdes and is buying another in the Southwest of France." ).彼が購入した家(いえ)は,関心を持つ地元の人々(かんしんを もつ じもとの ひとびと)のための使徒会(しとかい)の場(ば)として,また立ち直り(たち なおり)たい場所(ばしょ)を必要(ひつよう)としている司祭たちの避難所(しさいたちの ひなんばしょ)として役立つ(やくだつ)ことでしょう( "These will act both as bases for an apostolate to many interested souls in the region, and as refuges for priests needing somewhere to recover." ).付け加える(つけくわえる)なら,私はリヨン(りよん)( "Lyon" )で自分が市内に持つスタジオ(じぶんが しないに もつ すたじお)を同(おな)じように避難場所(ひなん ばしょ)を求(もと)める司祭たちのために提供(ていきょう)している尊敬すべき女性(そんけい すべき じょせい)にお会(あ)いしました( "I can add that I met a venerable soul in Lyon who is offering a studio of hers in that city to any priest similarly looking for a roof." ).また,イングランド(いんぐらんど)のブロードステアズ(ケント州)(ぶろーどすてあず〈けんとしゅう〉)( "Broadstairs, England" )にある「抵抗( "Resistance" )」の家(「ていこう」の いえ)はすでに開設(かいせつ)され,聖職に携わる訪問者の受け入れ(せいしょくに たずさわる ほうもんしゃの うけいれ)が可能な状態(かのうな じょうたい)です( "Also the "Resistance" House in Broadstairs, England, is now open and can receive priestly visitors. " ).すでに一人(ひとり)がここに入(はい)りましたOne has already come by." ).この家(いえ)では行動の自由が保証(こうどうの じゆうが ほしょう)されています( "Discretion guaranteed. " ).

     大司教(だいしきょう)さま,捻じ曲げられた組織(ねじまげられた そしき)( SSPX )の外(そと)では
( "Outside, Archbishop, of its structure bent …" )

     あなたが意図(いと)されたように,あなたの壮大な作業(そうだいな さぎょう)が続(つづ)いています
( "… Your noble work continues, as you meant." ).


     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教




* * *



第3パラグラフの訳注1

「"throne and altar"」 「教会の玉座と祭壇」

「フランス革命は …… 教会の王座と祭壇の転覆を狙って神に戦いを挑んだもの……」の

"throne and altar" 「教会の玉座と祭壇」の「教会の玉座」"throne" について:

→ "throne" ="Sancta Sedes 〈ラテン語〉/ Holy See 〈英語〉"

***

イエズス・キリスト(=天地の王君・牧者たる神の御独り子の教会の王座

ローマ教皇(=王君であり牧者である神の御独り子キリストの代理者)の聖座
(おうくん・ぼくしゃ たる きりすとの だいりしゃ たる ろーま きょうこう の せいざ)

= Sancta Sedes / Holy See

ローマ司教座Episcopalis Sedes = Episcopal See of the Bishop of Rome = Holy See )
(ろーま しきょうざ)

Cathedra (ラテン語)/ καρέκλα (ギリシア語)

***

・一般に,「大聖堂=カテドラル」とは,

=司教( επίσκοπος 〈ギリシア〉/ episcopus〈ラテン〉/ évêque 〈仏〉/ bishop〈英〉)が

①司教区に所属する信徒に対し教導権を行使し,また,

②種々の真の神の公教(カトリック教)の秘跡を授けるミサ聖祭を

司式する際に

着任する座(=席)のある聖堂のこと.

使徒座 Apostolic See

司教座( cathedra )が置かれている聖堂を,「司教座聖堂」「大聖堂」「バジリカ」と呼ぶ.

司教座聖堂 / 大聖堂
Ecclesia cathedralis〈ラテン〉 / καθεδρικό ναό〈ギリシャ〉 / Cathedral〈英〉

***

・ローマ司教(=ローマ教皇)の司教座聖堂:

→ローマ・バチカンにある.

ローマ司教(ローマ教皇)の司教座( cathedra )はラテラノ大聖堂に置かれている.

→『至聖なる救世主の大聖堂』

=『ラテラノ大聖堂』

『〈ラテラノの洗者〉聖ヨハネの大聖堂)』 (日本語)

Archibasilica Sanctissimi Salvatoris et Sanctorum Ioannis Baptistae et Ioannis Evangelistae in Laterano (ラテン語・正式名称)

Papale di San Giovanni in Laterano〈伊〉

 La Basilique Saint-Jean-de-Latran 〈仏〉

Papal Archbasilica of St. John Lateran〈英〉



* * *

2013年11月12日火曜日

330 ファティマ異論 11/9

エレイソン・コメンツ 第330回 (2013年11月9日)

     20世紀初(はじ)めに,神は確(たし)かに二つの大きな光明(こうみょう)を現代世界(げんだい せかい)に与(あた)えられました:( "At the outset of the 20th century surely God gave to the modern world two great lights: " ) すなわち,ひとつは,理論(りろん)に関(かん)するもので,1907年に教皇ピオ10世を通(とお)して主観主義(しゅかん しゅぎ)の主要(しゅよう)な誤(あやま)りを咎(とが)めるために出された Encyclical Pascendi (回勅〈かいちょく〉パッシェンディ)です(訳注・フルタイトル: Pascendi Dominici Gregis 「主の群れを牧(ぼく)せよ」)( "for theory, through Pius X, the Encyclical Pascendi in 1907, to denounce the key error of subjectivism; …" ) (訳注後記1). もうひとつは,実践(じっせん)に関するもので,1917年に神の御母(かみの おんはは)(=聖母マリア)を通(とお)して共産主義(きょうさん しゅぎ)という恐(おそ)ろしい災難(さいなん)に対する治療薬(ちりょうやく)として出された(訳注・聖母マリアの)ファティマ御出現(ごしゅつげん)です ( "… for practice, through his Mother, the apparitions of Fatima in 1917, to provide a remedy for the monstrous plague of Communism." )(訳注後記2). だが,悪魔(あくま)は Pascendi から人々の注意(ちゅうい)を逸(そ)らし,ファティマの信憑性(しんぴょうせい)を貶(おとし)めようと,あれこれ異論(いろん)を持ち出(もちだ)します( "But the Devil deflects attention from Pascendi, and raises a series of objections to discredit Fatima." ).主な異論の中から以下に何点か示します:-- ( "Here are a few of the main objections:-- " )

     * 聖母マリアが20世紀後半に第三次世界大戦が始まると言われたとするファティマ秘密の3番目 (訳注・=「第3の秘密」) についてのオッタビアーニ枢機卿(すうききょう)の解釈(かいしゃく)を私たちはどうして真剣(しんけん)に受け取れるだろうか? 2000年はすでに来て過ぎ去(すぎさ)ってしまったが,第三次世界大戦など起(お)きなかった. ( * How can we take seriously Cardinal Ottaviani’s version of the third part of the Fatima Secret when supposedly Our Lady says there that a third World war will start in the latter part of the 20th century ? The year 2000 has come and gone, and there has been no third World War.)    ファティマ秘密の第2と第3には興味深(きょうみ ぶか)い類似点(るいじてん)があります ( "There is an interesting parallel here between the second and third parts of the Secret of Fatima." ). 第2の部分で聖母マリアは次期(じき)教皇(きょうこう)の時代(じだい)に第一次世界大戦よりひどい戦争(せんそう)が始まると言われました.当時の次期教皇とはピオ11世のことです ( "In the second part Our Lady said that a worse war than WW I would start under the reign of the next Pope, which was Pius XI." ). だが,ピオ11世は1939年春に亡くなられ,第二次世界大戦が布告(ふこく)されたのは同年秋(あき)で,その時点ではピオ12世が教皇でした( "Yet Pius XI died in the spring of 1939 and WW II was only declared in the autumn when Pius XII was Pope. " ). 聖母マリアが暦(こよみ)を間違(まちが)われたのでしょうか? そうではありません.聖母マリアは外見(がいけん)でなく現実(げんじつ)を基準(きじゅん)に話(はな)されただけです ( "Did Our Lady get her calendar wrong ? No, she was simply going by the reality instead of by the appearances." ). 現実に第二次世界大戦が始まったのは1938年です.この年,スターリンはヒトラーとの間(あいだ)に条約(じょうやく)を結(むす)ぶ決定(けってい)をしようとしていました.彼はヒトラーが西部戦線(せいぶ せんせん)で開戦(かいせん)するよう仕向(しむ)けるのが目的(もくてき)でした ( "In reality WW II started in 1938 when Stalin was deciding to make a pact with Hitler so as to liberate Hitler to make war on his western front." ). 2000年5月の神学校長(しんがっこうちょう)の書簡(しょかん)(eleisonkommentar.blogspot,comに掲載〈けいさい〉)に,この第二次世界大戦の本当の始まり(ほんとうの はじまり)についての興味(きょうみ)をそそる話がありますのでお読みください ( "See in the May, 2000, Rector’s Letter (on eleisonkommentar.blogspot,com) the whole fascinating story of this real start to WW II." )(訳注後記3). ところで,オッタビアーニ枢機卿(すうききょう)(訳注後記4) による「第3の秘密」の解釈の真偽(しんぎ)がどうあれ,第三次世界大戦は1991年の最初のイラク侵攻(しんこう)により2000年以前に始まったというのが実態(じったい)ではないでしょうか? ( "Now whether or not the Ottaviani version is or is not the true “Third Secret”, may the reality not be that WW III began in the Middle East before the year 2000, for instance with the first invasion of Iraq in 1991 ? " ) 物事(ものごと)はすべて外見通(がいけんどお)りとは限(かぎ)りません( "Things are not always how they appear." ).

     *第二次世界大戦ではドレスデン,東京,長崎に対しぞっとするような空襲が行われた.ここで新しいこととは何か? ( * In WW II we saw horrific bombings of Dresden, Tokyo, Nagasaki. What will be new here ? )     第二次世界大戦中の死者数合計(ししゃすう ごうけい)は数億(すうおく)という中(なか)から,普通は約6,600万人と見なされています( "Total WW II deaths are reckoned usually at some 66 million, in the tens of millions." ).聖母マリアが,ファティマだけでなく,ほかでも発せられた諸々(もろもろ)の警告(けいこく)を正(ただ)しく読(よ)めば( "If one reads rightly several warnings of Our Lady, and not only in Fatima, …" ),第二次世界大戦と(訳注・人類による「神と神の掟(おきて)に対する反逆(はんぎゃく)」という重い罪〈おもい つみ〉に対する)神の懲罰(ちょうばつ)による犠牲者数(ぎせいしゃ すう)は数千億(すうせんおく)とみられ,百倍(ひゃくばい)を超(こ)えます( "… casualties from WW III and the Chastisement will be reckoned in the thousands of millions. Of the order of 100 times worse." ).

     *だが,私たちの時代に見られる精神的懲罰(せいしんてきちょうばつ)よりひどい物質的懲罰(ぶっしつてきちょうばつ)などあるだろうか? ( * But what material Chastisement could be worse than the spiritual chastisement of our own days? )     まさしく,アダムとイブの原罪(げんざい)以降(いこう)では,第二バチカン公会議が人類史上(じんるい しじょう)で最悪(さいあく)の災難(さいなん)です( "True, next after the Fall of Adam and Eve, Vatican II was the worst disaster in all the history of mankind." ).ただし,多数(たすう)の人々(ひとびと)はそれを大いなる解放(おおいなる かいほう)と見ています ( "Yet the mass of men see it as a great liberation." ). 棒(ぼう)や石(いし)で打(う)たれれば骨が折(ほねがお)れてしまうが,言葉(ことば)が私を傷(きず)つけることはない」というのは古(ふる)くからある諺(ことわざ)です ( " “Sticks and stones will break my bones, but words will never hurt me,” is the old saying." ). 精神的懲罰(せいしんてき ちょうばつ)そのものは,より大きな意味(いみ)をもつでしょうが,われわれ人間を分(わ)からせるのは物質的(ぶっしつてき)なものです (マテオ聖福音書9章6節,およびヨハネ聖福音書20償27節を参照)( "Spiritual punishments are in themselves much greater, but it takes material things for us men to understand (cf. Mt. IX, 6, and Jn. XX, 27)." )(訳注後記5).

     *ファティマの聖母はもし教皇が何らかの奉献を執り行えば平和の時期が来ると約束された.歴代の教皇たちはそうした奉献を何度か執り行ったが,私たちに平和をもたらしていない. ( *Our Lady of Fatima promised a period of peace if the Pope performed a certain consecration. Popes since then have performed several such consecrations, but we have had no peace. )     たしかに,聖母マリアのお告げに従った奉献(ほうけん)( "consecration" )が何度か行(おこな)われてきましたが,彼女が求(もと)めた通(とお)りの奉献はまだ実現(じつげん)していません: ( "True, there have been several consecrations inspired no doubt by Our Lady of Fatima, but never yet exactly as she required: … " ) 聖母マリアがお求めになったのは,教皇(ご自身の手)により,ロシアを,彼女(=聖母マリア)の汚れなき御心(けがれなき みこころ)( "Immaculate Heart" )に,全世界の司教たちが一体(いったい)となって(=ローマ司教たる教皇を含〈ふく〉む)世界中のカトリック司教たちが一致団結〈いっちだんけつ〉して)奉献(ほうけん)することです( "… by the Pope, of Russia, to her Immaculate Heart, in union with all the bishops of the world." ).これまでは,常(つね)にこの4条件(じょうけん)のどれかが欠(か)けていました( "One or other of these four conditions has always been lacking." ).

     *ファティマの聖母は「諸国(しょこく)が滅(ほろ)ぼされる」,「平和の時期(へいわの じき)が来る(くる)」と私たちに告(つ)げられた.私たちは第二次世界大戦で諸国が滅びて,平和の時期が1950年代に訪(おとず)れたのを目撃(もくげき)した.聖母の預言(せいぼの よげん)は実際(じっさい)に起(お)きた. ( *Our Lady of Fatima told us of “nations being annihilated” and of “a period of peace”. We saw nations annihilated in WW II, and a period of peace in the 1950’s. Her prophecies have happened. )    第二次世界大戦以降,どの国々が滅びたままになっているでしょうか?( "What nations have remained annihilated since WW II, …" ) そして,1950年代の冷戦期間中(れいせん きかん ちゅう)に世界がどれほど平和だったというのでしょうか?( "… and just how much peace was there in the Cold War of the 1950’s ? " ) ファティマの聖母はすでに起(お)きたことよりもっと大きな出来事(できごと)について話(はな)されたのです( "Our Lady of Fatima spoke of far greater events than have yet happened." ).

     イエズスの聖心(みこころ)よ,私たちに御慈悲(ごじひ)をお与(あた)えください(=われらを憐れみ給え〈われらを あわれみたまえ〉)( "Sacred Heart of Jesus, have mercy upon us." ). (聖母)マリアの汚れなき御心(けがれなき みこころ)よ,どうぞ私たちのために神に取り成して(とりなして)ください.( "Immaculate Heart of Mary, intercede for us." = マリアの汚れなき御心よ,われらのために祈り給え.) (訳注後記6)

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教


* * *





* * *
訳注を追補いたします.
* * *