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2012年7月14日土曜日

261 教皇ベネディクト16世のエキュメニズム(世界教会主義)-6- 7/14

エレイソン・コメンツ 第261回 (2012年7月14日)

ヴォルフガング・シューラー博士( "Dr. Wolfgang Schüler" )の著書「ベネディクト16世と(カトリック)教会の自己認識」( "Benedict XVI and the Church's View of Itself" )に触れたエレイソン・コメンツのシリーズ前回(第253回,5月19日)で,私はここから得た教訓を聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" )の現状に当てはめてみるとお約束しました.当てはめるとどうなるかはこれまでにお示ししたとおりです.もしカトリック教徒がカトリック教会の生きた組織( "living organism" )に所属することによってのみカトリック教徒たりうるとすれば,彼らが第二バチカン公会議の教会に所属すれば公会議派 "Counciliar" になってしまうということです.

教皇ベネディクト16世はカトリック教会から切り離されたカトリックの破片( "Catholic pieces" )は依然(いぜん)としてキリストの教会( "the Church of Christ" )に所属し続けるとお考えです.これに対しシューラー博士は私たちの主に従い(ヨハネ聖福音書15:1−7)(訳注後記),教会は生き物であり,そこから切り離された枝(えだ)は幹(みき)に支(ささ)えられず枯(か)れて死に果てると反論しています.したがって,もし聖ピオ十世会が人間の宗教という病(やまい)に侵(おか)されている公会議の木に接ぎ木(つぎき)されれば,たちまちその病気を移されてしまうでしょう.以下,この現実を示すルフェーブル大司教の言葉を三つ引用します.

1988年の司教聖別に何年も先立つ1984年,ルフェーブル大司教は,聖ピオ十世会が「教会内に戻っても戦い続けるのは可能で,あれもこれも出来る( "to do this, to do that" )だろう」という幻想(げんそう)を前もって一蹴(いっしゅう)しました.「そんなことは絶対ありえません.組織の中へ戻り,その上層部(じょうそうぶ,“superiors" )の下に身を置き,中へ入ったらすべてをひっくり返すなどとても期待できません.実際には,彼ら上層部は私たちを窒息させるのに必要なすべてのものを持っています.彼らにはあらゆる権限があります」( “That is absolutely untrue. You don’t get back inside a structure, putting yourself beneath its superiors, and expect that once inside you are going to turn everything upside down. The reality is that they have everything they need to strangle us. They have all the authority.” )と,彼は述べています.

司教聖別直前の1988年,大司教は「ローマ教皇庁はあらゆるものが第二バチカン公会議に従うよう望んでおり,私たち(聖ピオ十世会)には伝統を守る余地をわずかばかり残すだけです.( “Rome wants everything to go Vatican II, while they leave us a little bit of Tradition.” )…彼ら(ローマ)は自(みずか)らの立場を変えようとしません.私たちはそういう人たちの手中(しゅちゅう)に身をゆだねることはできません.自分を騙(だま)すことになります.私たちは自らが食い物にされるのを認めるつもりはありません.( “(...) They are not changing their position. We cannot put ourselves in the hands of those people. We would be fooling ourselves. We do not mean to let ourselves be eaten up. ” ) …伝統は少しずつ蝕(むしば)まれるでしょう」( “(...) Little by little Tradition would be compromised.” )と語っています.

司教聖別直後の1989年,大司教は聖ピオ十世会は教会の外にいるより中にとどまることで教会のためにもっと役立つことができるという主張に対し,次のように答えています.「私たちはどの教会のことを話しているのでしょうか? もし,公会議派教会( "Counciliar Church" )だと言うなら,カトリック教会を望んで40年間も公会議と闘ってきた私たちは公会議派教会を,建前上カトリックにするためそこへ戻るべきでしょう.だが,それはまったくの幻想にすぎません.“What Church are we talking about ? If you mean the Conciliar Church, then we who have struggled against the Council for 40 years because we want the Catholic Church, we would have to re-enter this Conciliar Church in order, supposedly, to make it Catholic. That is a complete illusion.” )そこでは上層部( "the superiors" )を形成するのが臣民(しんみん,"the subjects" )ではなく,臣民を形成するのが上層部だからです.ローマ教皇庁全体の真っただ中で進歩派の世界中の司教たちに囲まれれば私は圧倒されてしまうでしょう.私になす術(すべ)はないでしょう.」( “It is not the subjects that make the superiors, it is the superiors that make the subjects. Amidst the whole Roman Curia, amidst all the world’s bishops who are progressives, I would have been completely swamped. I would have been able to do nothing.” )

結論を言います.もし聖ピオ十世会が何らかの実務的な合意とか教会法の秩序立て ( "any practical agreement or canonical regularization" )によって,2009年 — 2011年の教理に関する論議( "the Doctrinal Discussions of 2009-2011" )が十分に示したように第二バチカン公会議の考えに固執し続ける公会議教会当局者の下( "under the Conciliar authorities of the Church that are still firmly attached to the ideas of Vatican II" )に身を置くなら,真の(カトリック)信仰を守ろうとするその努力( "defence of the true Faith" )は「抑え込(おさえこ)まれ,食いつぶされ,無力にされて」("would be "stranged, eaten up, swamped" )しまうでしょう.聖ピオ十世会は公会議派教会という生木(なまき)に接ぎ木されれば,病に侵された公会議派の命を受け継(つ)がざるをえないでしょう.とんでもないことです!( "Grafted into the living Conciliar whole, it could not help receiving from it the diseased Conciliar life. God forbid ! " )

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


第2パラグラフの訳注:

新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第15章1ー7節(1−11節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN XV, 1-7.(1-11)

日本語
1 私はほんとうのぶどうの木で,私の父は栽培する者である.
2 父は私にあって実を結ばぬ枝をすべて切り取り,実を結ぶ枝をすべて,もっと豊かに結ばせるために刈り込まれる.
3 あなたたちは,私の語ったことばを聞いたことによってすでに刈り込まれた者である.
4 私にとどまれ,私があなたたちにとどまっているように.木にとどまらぬ枝は自分で実を結べぬが,あなたたちも私にとどまらぬならそれと同じである.
5 私はぶどうの木で,あなたたちは枝である.私がその人の内にいるように私にとどまる者は多くの実を結ぶ.私がいないとあなたたちには何一つできぬからである.
6 私にとどまらぬ者は枝のように外に投げ捨てられ,枯れ果ててしまい,人々に拾い集められ,火に投げ入れられ,焼かれてしまう.
7 あなたたちが私にとどまり,私のことばがあなたたちにとどまっているなら,あなたたちは望みのままにすべてを願え.そうすればかなえられるだろう.

8 あなたたちが多くの実をつけることは,私の父の光栄であり,そして,あなたたちは私の弟子になる.
9 父が私を愛されるように私はあなたたちを愛した.私の愛にとどまれ.
10 私が父のおきてを守り,その愛にとどまったように,私のおきてを守るなら,あなたたちは私の愛にとどまるだろう.
11 私がこう話したのは,私の喜びがあなたたちにあり,あなたたちに完全な喜びを受けさせるためである.』

(注釈)
ぶどうの木と枝
2/ 弟子は恩寵によって,イエズス自身の生命に生きる.神は善業を行わぬ者を捨て,真実に神を愛するものに苦しみと迫害を送ってその愛を清められる.おきてに忠実な実,聖徳の実のことをいう(15・12-17, 〈旧約〉イザヤの書5・7,エレミアの書2・21)

4/ 霊的な命の泉はイエズスである.信仰と愛をもってイエズスに一致しない人に救いはない.聖霊がなければ,人は永遠の救いを得るに足ることを何もなしえない.

8/ 御父は,「み子」によって光栄を受けられる.(14・13,21・19).

11/ 神のみ子,メシア(救世主)としての喜び.

英語
"1 I AM the true vine; and my Father is the husbandman.
2 Every branch in me, that beareth not fruit, he will take away: and every one that beareth fruit, he will purge it, that it may bring forth more fruit.
3 Now you are clean by reason of the word, which I have spoken to you.
4 Abide in me, and I in you. As the branch cannot bear fruit of itself, unless it abide in the vine, so neither can you, unless you abide in me.
5 I am the vine; you the branches: he that abideth in me, and I in him, the same beareth much fruit: for without me you can do nothing.
6 If any one abide not in me, he shall be cast forth as a branch, and shall wither, and they shall gather him up, and cast him into the fire, and he burneth.
7 If you abide in me, and my words abide in you, you shall ask whatever you will, and it shall be done unto you.

8 In this is my Father glorified; that you bring forth very much fruit, and become my disciples.
9 As the Father hath loved me, I also have loved you. Abide in my love.
10 If you keep my commandments, you shall abide in my love; as I also have kept my Father's commandments and do abide in his love.
11 These things I have spoken to you, that my joy may be in you, and your joy may be filled."

ラテン語
EVANGELIUM SECUNDUM IOANNEM
"1 Ego sum vitis vera, et Pater meus agricola est.
2 Omnem palmitem in me non ferentem fructum, tollet eum, et omnem qui fert fructum, purgabit eum, ut fructum plus afferat.
3 Iam vos mundi estis propter sermonem quem locutus sum vobis.
4 Manete in me, et ego in vobis. Sicut palmes non potest ferre fructum a semetipso, nisi manserit in vite, sic nec vos, nisi in me manseritis.
5 Ego sum vitis, vos palmites : qui manet in me, et ego in eo, hic fert fructum multum, quia sine me nihil potestis facere.
6 Si quis in me non manserit, mittetur foras sicut palmes, et arescet, et colligent eum, et in ignem mittent, et ardet.
7 Si manseritis in me, et verba mea in vobis manserint, quodcumque volueritis petetis, et fiet vobis.

8 In hoc clarificatus est Pater meus, ut fructum plurimum afferatis, et efficiamini mei discipuli.
9 Sicut dilexit me Pater, et ego dilexi vos. Manete in dilectione mea.
10 Si præcepta mea servaveritis, manebitis in dilectione mea, sicut et ego Patris mei præcepta servavi, et maneo in eius dilectione.
11 Hæc locutus sum vobis : ut gaudium meum in vobis sit, et gaudium vestrum impleatur. "

注:「エレイソン・コメンツ 第241回」の訳注にヨハネ聖福音書・第15章全章を掲載してあります.

* * *

2012年4月11日水曜日

247 教皇ベネディクト16世のエキュメニズム(世界教会主義) -2- (4/7)

エレイソン・コメンツ 第247回 (2012年4月7日)

第二バチカン公会議の恐るべき曖昧性(あいまいせい)に関するいかなる論議についても言えることですが,ヴォルフガング・シューラー博士 “Dr. Wolfgang Schüler” が2008年の著書「ベネディクト16世と(カトリック)教会の自己認識」 “Benedict XVI and How the Church Views Itself” の中で述べられている内容の当否を論じるには長文の学術論文が必要かもしれません.だが,シューラー博士の主な論点はきわめて明快です.第二バチカン公会議をめぐる混迷が続く中,「エレイソン・コメンツ」の読者の皆さまがその内容に接し正しく理解する価値は十分にあると考えます.

物事はたいてい全体と部分から成り立ちますが,その構成の仕組みは例えば一本の樹木(きき)とか積み重ねた硬貨といったように二つの異なる方法に分けて考えることができます.樹木では全体が主要で部分は第2次的です.積み上げた硬貨の場合,部分が主要で全体はさほど重要ではありません.樹木の場合なぜ全体が主要かといえば,枝(えだ)のような部分を切り取っても木はいぜん生き続け新しい枝を生みます.ところが切り取られた枝は生命を失(うしな)い,材木(ざいもく)とか椅子(いす)などといったまったく異なったものに姿(すがた)を変えます.反対に,積み上げた硬貨の中から取り出された個々の硬貨は依然として積み重ねの中にあった硬貨の価値を持ち続けます.何枚も取り出せば,失われるのは硬貨の山であって硬貨の価値そのものではありません.

さて,このことをカトリック教会に当てはめてみます.教会を全体とした場合,それは樹木に当たるのでしょうか,それとも積み上げた硬貨の山にあたるのでしょうか? カトリック教会は三つのもの,すなわち信仰,諸々の秘蹟,ローマの階層(かいそう,=階級)制度によって結ばれた人たちが構成する特別な社会です.この三つの生命はいずれも神ご自身がお与えになったものです.信仰は心の超自然的な徳であり,神だけが与えうるものです.秘蹟には水や油のような物質的要素を用いますが,それを秘跡たらしめるものはそれに込められた超自然的恩寵(おんちょう) “supernatural grace” であり,これも神だけが与えうるものです.同じように階層は自然界の人間から成り立つものですが,それを成す個々は神の導(みちび)きなしには人の霊魂を天国に導くことなど決してできません.

したがって,カトリック教会は,たとえ金貨であっても積み上げた硬貨というより生きている樹木に例(たと)えるべきものです.なぜなら,生命を宿(やど)すあらゆる有機体(ゆうきたい)がそれに存在を与える生命の原理を自らの中に持ち備えているように,カトリック教会は先(ま)ず第1義的に神ご自身を持ち,第2義的に神から与えられた階層を持つことによってその存在と結束(けっそく)を保っているからです.教会の部分を構成するものが分裂により階層から離れたり,異端により信仰から離れたりすれば,その部分はカトリックでなくなり,分離派のギリシア正教や異端のプロテスタント教のように別物(べつもの)になってしまいます.ギリシア正教の信者たちが有効な秘蹟を保持してきたのは事実かもしれませんが,ローマにおける神の代理人 “Christ's Vicar in Rome” との結びつきを絶っている以上,正しい心の持ち主なら誰でも彼らをカトリック教徒とは呼ばないでしょう.

本題の第二バチカン公会議に触れます.同公会議は上述(じょうじゅつ)の比喩(ひゆ)によれば,教会の見方を樹木もしくは葡萄(ぶどう)の木(私たちの主ご自身が用〈もち〉いられた比喩:(新約聖書)ヨハネによる聖福音書・第15章1-6節)から積み上げた金貨に変えました.教会を現代世界に開放したいとの願望から,公会議派の聖職者たちは先ず手始めにカトリック教の境界線を曖昧にしました( L.G. 8 ).そうすることで,彼らはカトリック教会の目に見える境界線の外にも,例えば山積みから取り出された金貨のようなカトリック教会的要素が存在すると振舞(ふるま)うようになりました( U.R. 3 ).そして彼らはさらに,金貨は取り出されても金貨なのだからとの論法(ろんぽう)から,カトリック教会内の救いの要素 “elements of salvation” は教会の外にあっても変わらないと取り繕(つくろ)うようになりました( U.R. 3 ).無数の人々がこの考え方から引き出した当然の結論は「私は天国にたどり着くためにカトリック信者で居続(いつづ)ける必要はない」というものです.これこそが,第二バチカン公会議のいうエキュメニズム(世界教会主義)から生まれる災難(さいなん)です.

私たちは,教皇ベネディクト16世が教会を二分(にぶん)するエキュメニズムと教会を統一するカトリック教理とを結び付けようと努力されていることに話を転(てん)じる前に,上に触れた第二バチカン公会議の諸文書をもう少し詳(くわ)しく検討(けんとう)する必要があります.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


第5パラグラフの訳注:
新約聖書・ ヨハネによる聖福音書:第15章1-6節 (太字部分)(15章全章を掲載いたします).
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN XV, 1-6 (XV, 1-27)

ぶどうの木と枝
『「私はほんとうのぶどうの木で,私の父は栽培する者である.*¹父は私にあって実を結ばぬ枝をすべて切り取り,実を結ぶ枝をすべて,もっと豊かに結ばせるために刈り込まれる.あなたたちは,私の語ったことばを聞いたことによってすでに刈り込まれた者である.

*²私にとどまれ,私があなたたちにとどまっているように.木にとどまらぬ枝は自分で実を結べぬが,あなたたちも私にとどまらぬならそれと同じである.
私はぶどうの木で,あなたたちは枝である.私がその人の内にいるように私にとどまる者は多くの実を結ぶ.私がいないとあなたたちには何一つできぬからである.
私にとどまらぬ者は枝のように外に投げ捨てられ、枯れ果ててしまい,人々に拾い集められ,火に投げ入れられ,焼かれてしまう


あなたたちが私にとどまり,私のことばがあなたたちにとどまっているなら,あなたたちは望みのままにすべてを願え.そうすればかなえられるだろう.*³あなたたちが多くの実をつけることは,私の父の光栄であり,そして,あなたたちは私の弟子になる.
父が私を愛されるように私はあなたたちを愛した.私の愛にとどまれ.私が父のおきてを守り,その愛にとどまったように,私のおきてを守るなら,あなたたちは私の愛にとどまるだろう.
私がこう話したのは,*⁴私の喜びがあなたたちにあり,あなたたちに完全な喜びを受けさせるためである.』

まことの愛
『私が愛したようにあなたたちが互いに愛し合うこと,これが私のおきてである.
友人のために命を与える以上の大きな愛はない.
私の命じることを守れば私の友人である.これからもう私はあなたたちをしもべとは言わない.しもべは主人のしていることを知らぬものである.私は父から聞いたことをみな知らせたから,あなたたちを友人と呼ぶ.
あなたたちが私を選んだのではなく,私があなたたちを選んだ.私があなたたちを立てたのは,あなたたちが行って実を結び,その実を残すためである.私の名によってあなたたちが父に求めるものをすべて父は与えられる.
私があなたたちに命じるのは互いに愛し合うことである.』

世の憎しみ
『*⁵この世があなたたちを憎むとしても,あなたたちより先に私を憎んだことを忘れてはならぬ.
あなたたちがこの世のものなら,この世はあなたたちを自分のものとして愛するだろう.しかしあなたたちはこの世のものではない.私があなたたちを選んでこの世から取り去った.だからこの世はあなたたちを憎む.
〈*⁶奴隷は主人より偉大ではない〉と先に私が言ったことを思い出せ.彼らが私を迫害したなら,あなたたちにも迫害を加えるだろう.彼らが私のことばを守ったなら,あなたたちのことばも守るだろう.しかし彼らは,私を遣わされたお方を知らぬから,私の名のために,あなたたちにそうするだろう.
もし私が来なかったなら,また語らなかったなら,彼らには罪はなかった.しかし今彼らは自分たちの罪の言い逃れができぬ.私を憎む者は私の父をも憎む.
今までだれ一人したことのない業を私が彼らの間で行わなかったなら,彼らには罪がなかった.しかし今彼らは,それを見ながら私たちを,私と私の父を憎んだ.それは〈*⁷彼らは理由なく私を憎んだ〉という律法のことばを実現するためだった.
私が父からあなたたちに送る弁護者,父から出る真理の霊が来るとき,それが私について証明されるであろう.あなたたちも私を証明するだろう.あなたたちは初めから私とともにいたからである」.』

(注釈)

ぶどうの木と枝(15・1-11)
弟子は恩寵によって,イエズス自身の生命に生きる.
神は善業を行わぬ者を捨て,真実に神を愛するものに苦しみと迫害を送ってその愛を清められる

おきてに忠実な実,聖徳の実のことをいう(15・12-17,〈旧約〉イザヤの書5・7,エレミアの書2・21).

霊的な命の泉はイエズスである
信仰と愛をもってイエズスに一致しない人に救いはない.聖霊がなければ,人は永遠の救いを得るに足ることを何もなしえない

*³ 御父は「み子」によって光栄を受けられる(14・13,21・19).

*⁴ 神のみ子,メシアとしての喜び.

まことの愛(15・12-17)

世の憎しみ(15・18-27)
*⁵ 弟子たちの愛に対立するものは,世の憎しみである.弟子たちの生活は,先生と同じ道をたどるであろう.
弟子たちを迫害することによって,世が迫害するのは,イエズス自身である(〈新約〉使徒行録9・5,コロサイ人への手紙1・24).

*⁶ 13・16,マテオ10・24参照.

*⁷ 詩篇25・19参照.

* * *

2012年2月26日日曜日

241 教皇ベネディクト16世のエキュメニズム(世界教会主義) -1- (2/25)

エレイソン・コメンツ 第241回 (2012年2月25日)

バチカン公会議のエキュメニズム “conciliar ecumenism” (訳注・=世界教会主義,世界統一主義)に関する貴重な研究論文がヴォルフガング・シューラー博士 “Dr. Wolfgang Schüler” という人物によって書かれ数年前にドイツで刊行されました.その著書 “Benedict XVI and How the Church Views Itself” (訳注・直訳「ベネディクト16世と(カトリック)教会の自己認識」の中で,シューラ―博士は第二バチカン公会議によって解放されたエキュメニズムがカトリック教会の自己理解を変質させたと論じ,一連の引用を用いてジョセフ•ラッツィンガー “Joseph Ratzinger” (訳注・教皇ベネディクト16世の本名) が司祭,枢機卿さらに教皇として,第二バチカン公会議の時から今日に至るまで一貫してこの変質を推進してきたことを証明しています.博士によると,同教皇は自ら行ってきたことを恥じる可能性もなさそうです.

論理的な順序にしたがって - これには「エレイソン・コメンツ」一回分以上の分量を要します - まず真のカトリック教会の自己認識について目を向けてみましょう.そしてシューラ―博士の助けを借りて,この真の教会の持つべき本来の正当な自己認識が第二バチカン公会議によりどのように変えられたか,教皇ベネディクト16世がいかに一貫してこの変質を推進してきたかを見ることにしましょう.最後に,真のカトリック信仰を維持したいと願っているカトリック信徒たちのために出てくる諸々の結論を引き出してみることにしましょう.

真のカトリック教会は常にひとつの有機的統一体,すなわち,カトリック信仰,諸秘蹟そしてローマの階層(階級)制度により結ばれる人たちで構成される唯一にして神聖かつ普遍的な使徒継承たる一社会と自認してきました.( “The true Catholic Church has always seen itself as an organic whole, a society one, holy, catholic and apostolic, consisting of human beings united by the Faith, the sacraments and the Roman hierarchy.” )この教会は限りなく唯一の存在であって,教会がカトリック(普遍・公〈おおやけ〉・万人〈ばんにん〉の)たることを止めない限りその破片のひとつたりともそこから断ち切ったり取り除いたりは決してできません(ヨハネ聖福音書:第15章4-6節を参照してください)( “This Church is so much one, that no piece can be broken off or taken away without its ceasing to be Catholic (cf. Jn. XV, 4-6).” )(訳注後記).たとえば,カトリック信者の主要構成要素たるカトリック信仰は断片的に少しずつ持つということはできず,そのすべてを(少なくとも暗黙のうちに)持つか,さもなければ全く持たないかのいずれかです.( “For instance, that Faith which is the prime constituent of the Catholic believer cannot be held piecemeal, but must be held either altogether (at least implicitly) or not at all.” )これは何故かと言えば,私が信じるカトリック信仰の諸条項は神の権威の上に基づき明らかにされるものですから,もし私が諸条項のただ一つでも信じないとすれば,他のすべての条項の背後にある神の権威を拒否したということになり,その場合たとえ他の条項をすべて信じるとしても,私の信仰はもはや神の権威の上にではなく,ただ私自身の選択の上に基づいているだけということになるからです.

事実,「異教徒」 “heretic” という言葉はギリシア語の「選択する」 “to choose” ( hairein )から来ています.したがって,異教徒の信仰は自らの選択にすぎず,それで信仰の超自然的な徳( “the supernatural virtue of faith” )を失っているわけですから,たとえ信仰個条の一条項だけを拒否しているにすぎなくても,彼はもはやカトリック教徒ではないのです.アウグスティヌス “Augustine” のある有名な言葉に次のようなものがあります.「あなたはほとんど私と共にあり,私と共にないことはわずかしかない.だがその私と共にないわずかのために,ほとんど私と共にあることがあなたにとってなんの役にも立たなくなる.」( “In much you are with me, in little you are not with me, but because of that little in which you are not with me, the much in which you are with me is of no use to you.” )

たとえば,プロテスタント信者は神を信じ,ナザレトの人間イエズスの神性 “the divinity of the man Jesus of Nazareth” まで信じているかもしれません.だが,もしミサ聖祭で聖別された後のパンとぶどう酒の外観の下(もと)で,神の実在,すなわち(神たるキリストの)御聖体,御聖血,御霊魂そして神性がそこに現実に存在しておられること( “…the Real Presence of God, body, blood, soul and divinity, beneath the appearances of bread and wine after their consecration at Mass,…” )を信じなければ,彼はイエズス・キリストおよび彼の信じる神の愛についてまったく異なる不完全な概念を持っているということになります.では真のプロテスタント教と真のカトリック教は同じ神を信仰していると言えるでしょうか? 第二バチカン公会議はそう言えるとしており,カトリック教徒とあらゆる非カトリック教徒が多かれ少なかれ共有していると想像される信念を土台に(訳注・同公会議流の)世界主義 “its ecumenism” を構築しています.これとは逆に,シューラー博士は一連の比較を用いて,同じ信念のように見えるようでも,それが二つの異なる信条の一部を形成する場合は,実際には全く同じでないことを例証しています.ひとつ実例を挙(あ)げましょう.酸素(さんそ)分子は窒素(しっそ)と混合しても水素(すいそ)と混合しても同一分子ですが,私たちが飲む水( H20 )と呼吸する空気( O+4N )という2例においては相異なるものです! 引き続き次回をお楽しみに.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


第3パラグラフの訳注:
新約聖書・ ヨハネによる聖福音書:第15章4-6節 (太字部分)(15章全章を掲載いたします).
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN XV, 4-5 (XV, 1-27)

ぶどうの木と枝
『「私はほんとうのぶどうの木で,私の父は栽培する者である.*¹父は私にあって実を結ばぬ枝をすべて切り取り,実を結ぶ枝をすべて,もっと豊かに結ばせるために刈り込まれる.あなたたちは,私の語ったことばを聞いたことによってすでに刈り込まれた者である.

私にとどまれ,私があなたたちにとどまっているように.木にとどまらぬ枝は自分で実を結べぬが,あなたたちも私にとどまらぬならそれと同じである.
私はぶどうの木で,あなたたちは枝である.私がその人の内にいるように私にとどまる者は多くの実を結ぶ.私がいないとあなたたちには何一つできぬからである.
私にとどまらぬ者は枝のように外に投げ捨てられ、枯れ果ててしまい,人々に拾い集められ,火に投げ入れられ,焼かれてしまう
.(4-6節)

あなたたちが私にとどまり,私のことばがあなたたちにとどまっているなら,あなたたちは望みのままにすべてを願え.そうすればかなえられるだろう.*³あなたたちが多くの実をつけることは,私の父の光栄であり,そして,あなたたちは私の弟子になる.
父が私を愛されるように私はあなたたちを愛した.私の愛にとどまれ.私が父のおきてを守り,その愛にとどまったように,私のおきてを守るなら,あなたたちは私の愛にとどまるだろう.
私がこう話したのは,*⁴私の喜びがあなたたちにあり,あなたたちに完全な喜びを受けさせるためである.』

まことの愛
『私が愛したようにあなたたちが互いに愛し合うこと,これが私のおきてである.
友人のために命を与える以上の大きな愛はない.
私の命じることを守れば私の友人である.これからもう私はあなたたちをしもべとは言わない.しもべは主人のしていることを知らぬものである.私は父から聞いたことをみな知らせたから,あなたたちを友人と呼ぶ.
あなたたちが私を選んだのではなく,私があなたたちを選んだ.私があなたたちを立てたのは,あなたたちが行って実を結び,その実を残すためである.私の名によってあなたたちが父に求めるものをすべて父は与えられる.
私があなたたちに命じるのは互いに愛し合うことである.』

世の憎しみ
『*⁵この世があなたたちを憎むとしても,あなたたちより先に私を憎んだことを忘れてはならぬ.
あなたたちがこの世のものなら,この世はあなたたちを自分のものとして愛するだろう.しかしあなたたちはこの世のものではない.私があなたたちを選んでこの世から取り去った.だからこの世はあなたたちを憎む.
〈*⁶奴隷は主人より偉大ではない〉と先に私が言ったことを思い出せ.彼らが私を迫害したなら,あなたたちにも迫害を加えるだろう.彼らが私のことばを守ったなら,あなたたちのことばも守るだろう.しかし彼らは,私を遣わされたお方を知らぬから,私の名のために,あなたたちにそうするだろう.
もし私が来なかったなら,また語らなかったなら,彼らには罪はなかった.しかし今彼らは自分たちの罪の言い逃れができぬ.私を憎む者は私の父をも憎む.
今までだれ一人したことのない業を私が彼らの間で行わなかったなら,彼らには罪がなかった.しかし今彼らは,それを見ながら私たちを,私と私の父を憎んだ.それは〈*⁷彼らは理由なく私を憎んだ〉という律法のことばを実現するためだった.
私が父からあなたたちに送る弁護者,父から出る真理の霊が来るとき,それが私について証明されるであろう.あなたたちも私を証明するだろう.あなたたちは初めから私とともにいたからである」.』

(注釈)

ぶどうの木と枝(15・1-11)
*¹ 弟子は恩寵によって,イエズス自身の生命に生きる.
神は善業を行わぬ者を捨て,真実に神を愛するものに苦しみと迫害を送ってその愛を清められる
おきてに忠実な実,聖徳の実のことをいう(15・12-17,〈旧約〉イザヤの書5・7,エレミアの書2・21).

霊的な命の泉はイエズスである
信仰と愛をもってイエズスに一致しない人に救いはない.聖霊がなければ,人は永遠の救いを得るに足ることを何もなしえない.

*³ 御父は「み子」によって光栄を受けられる(14・13,21・19).

*⁴ 神のみ子,メシアとしての喜び.

まことの愛(15・12-17)

世の憎しみ(15・18-27)
*⁵ 弟子たちの愛に対立するものは,世の憎しみである.弟子たちの生活は,先生と同じ道をたどるであろう.
弟子たちを迫害することによって,世が迫害するのは,イエズス自身である(〈新約〉使徒行録9・5,コロサイ人への手紙1・24).

*⁶ 13・16,マテオ10・24参照.

*⁷ 詩篇25・19参照.

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キリストの「エルサレム入城」から「弟子ユダによる裏切り」の直前の場面まで(ヨハネによる聖福音書:第12章から17章まで)を後から追加掲載いたします.


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