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2014年2月25日火曜日

345 致命的な人間化 2/22

エレイソン・コメンツ 第345回 (2014年2月22日)

     使徒聖座(=教皇職)(しと せいざ〈=きょうこう しょく〉)( "the Apostolic See" )が空位だと考える(くういだと かんがえる)一部のカトリック教徒(いちぶの かとりっく きょうと)たちは( "Some Catholics who hold that the Apostolic See is vacant …" ),リベラリズム(=自由主義)(りべらりずむ=じゆう しゅぎ)という遍在的(へんざい てき)な異端(いたん)と教皇空位論(きょうこう くうい ろん)の特定の見解(とくていの けんかい)を同列に置く(どうれつに おく)ように見(み)える最近(さいきん)のエレイソン・コメンツの内容(ないよう)に強く抗議(つよくこうぎ)しています( "… protest strongly against recent issues of these “Comments” which seem to put the universal heresy of liberalism on an equal footing with the particular opinion of sedevacantism." ).これまでの一連(いちれん)のコメンツで私(わたし)はリベラリズムの災い(わざわい)を一貫して非難(いっかん して ひなん)してきましたが( "But whereas these “Comments” constantly excoriate the plague of liberalism, …" ),最近の数回(さいきんのすうかい)では確(たし)かに誰(だれ)しもが教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)になる義務(ぎむ)はないとだけ論(ろん)じました( "… surely they have recently done no more than argue that nobody is obliged to be a sedevacantist, …" ).教皇空位論が時(とき)にはリベラリズムを抑(おさ)える除菌剤の役割(じょきんざいの やくわり)を果(は)たしていることを考(かんが)えると( "…which, considering what a sterilising trap sedevacantism proves in some cases to be, …" ),そうしたエレイソン・コメンツの立場(たちば)は確(たし)かに穏健(おんけん)すぎるように思(おも)えるでしょう( "… is surely a very moderate position to take." ).

     だが,「コメンツ」は教皇空位論(きょうこう くういろん)について,リベラリズムと戦う(たたかう)その努力(どりょく)は称賛に値する(しょうさんに あたい する)が,そのための手段(しゅだん)としては,贔屓目に見ても(ひいきめ に みても)物足りない(ものたりない)と見(み)ています( "However, the “Comments” do hold that sedevacantism, while admirable as an effort to combat liberalism, is at best an inadequate means of doing so, …" ).その理由(りゆう)は,教皇空位論が教皇の無謬性(きょうこうの むびゅうせい)を誇張(こちょう)するという根本的な間違い(こんぽん てきな まちがい)のひとつをリベラル派(りべらる は)と共有(きょうゆう)しているからです( "… because it shares with liberals one of their basic errors, namely the exaggeration of papal infallibility." ).この間違いを深く探る(ふかく さぐる)と,私たちは今日(こんにち)教会が直面する未曾有の危機(きょうかいが ちょくめんする みぞう の きき)の核心(かくしん)にたどり着きます.ひどく退屈(たいくつ)し気分を悪く(きぶんをわるく)された読者の皆さん(どくしゃの みなさん)にはお詫び(おわび)するしかありませんが,コメンツがこの問題(もんだい)に拘る(こだわ る)のはそのためです( "In its full depth this error takes us to the heart of today’s unprecedented crisis of the Church, which is why the “Comments” will insist on the question, while begging pardon of any readers unduly bored or offended." ).危機(きき)に瀕(ひん)しているのは教会全体(きょうかいぜんたい)であり,教会メンバー個々人(きょうかいめんばーここじん)の感情(かんじょう)ではないのです( "The whole Church is at stake, and not just the sensibilities of these or those of its members." ).

     間違いの核心(まちがいの かくしん)は,人類(じんるい)が過去700年間(かこ ななひゃく ねんかん)にわたり神,神の御独り子(かみの おんひとりご),そしてその教会に対し(きょうかいに たいし)ゆっくりながら着実(ちゃくじつ)に背(そむ)いてきたことです( "That full depth is mankind’s slow but steady turning away over the last 700 years from God, from his Son and from his Church." ).中世の絶頂期(ちゅうせいの ぜっちょうき)には,カトリック教徒(きょうと)たちは汚れのない(けがれの ない)強い信仰を持ち(つよい しんこうを もち),客観的な神(きゃっかんてきな かみ)とその矛盾のない真実(むじゅんのない しんじつ)(=真理〈しんり〉)が唯一無二(ゆいいつむに)であることを理解(りかい)していました( "At the height of the Middle Ages Catholics had a clear and strong faith, grasping the oneness and exclusivity of the objective God and his non-contradictory Truth." ).ダンテはその著書(ちょしょ) 「神曲(しんきょく)」の地獄編(じごくへん)  で教皇(きょうこう)たちに触(ふ)れることになんら問題(もんだい)を感(かん)じませんでした( "Dante had no problem putting Popes in his Inferno." ).たが.数世紀の時(すうせいきの とき)が経つ(たつ)につれ,人間(にんげん)は次第(しだい)に物事の中心(ものごとの ちゅうしん)に自(みずか)らを置(お)くようになり( "But as down the centuries man put himself more and more at the centre of things, …" ),神(かみ)はあらゆる生き物(いきもの)に対(たい)する絶対的な超越(ぜったいてきな ちょうえつ)を失(うしな)い( "… so God lost his absolute transcendence above all creatures, …" ),真実はますます神の権威(かみの けんい)でなく人間の権威(にんげんの けんい)との対比(たいひ)で理解(りかい)されるようになりました( "… and truth became more and more relative, no longer to God’s authority but instead to man’s. " ).

     教会内部(きょうかい ないぶ)について見(み)るなら,たとえばロヨラの聖イグナチオ(ろよらの せい いぐなちお)( "St Ignatius of Loyola" )の有名な著書(ゆうめいな ちょしょ) 「精神修養(せいしん しゅうよう)」  ( "the Spiritual Exercises " )(訳注・= 「霊操(れいそう)」 )の中(なか)にある17(じゅうなな,じゅうしち)の「教会と共に考えるための法則」(きょうかいと ともに かんがえる ための ほうそく)( "Rules for thinking with the Church" )の3番目の法則(さんばんめの ほうそく)をご覧ください( "Within the Church, take for example the 13th of the 17 “Rules for thinking with the Church” from St Ignatius of Loyola’s famous book of the Spiritual Exercises, …" ).これは著されて以来(あらわされて いらい)ずっと,数(かぞ)えきれないほどの歴代教皇(れきだい きょうこう)が称賛(しょうさん)し( "… praised by countless Popes ever since, …" ),しかも間違(まちが)いなく数百万人の霊魂(すうひゃくまんにん の れいこん)を救済(きゅうさい)するのに役立(やくだ)った法則(ほうそく)です( "… and no doubt responsible for helping to save millions of souls." ).イグナチオは 「すべてのことについて正(ただ)しくあるためには,私たちは 聖職階級制教会(せいしょく かいきゅうせい きょうかい)( "the Hierarchical Church" )がそう決(き)めたなら,自分(じぶん)に白(しろ)と見(み)えるものでも黒(くろ)であると常(つね)に考(かんが)えるべきです」 と書(か)いています( "Ignatius writes: “To be right in everything, we ought always to hold that the white which I see, is black, if the Hierarchical Church so decides it.” " ).このような立場(たちば)は短期的(たんき てき)には聖職者(せいしょくしゃ)たちの権威(けんい)を支(ささ)えたかもしれませんが( "Such a position might support the churchmen’s authority in the short run, …" ),長期的(ちょうき てき)にはその権威(けんい)を真実(しんじつ)から引き離す(ひきはなす)ひどいリスク(りすく)を犯(おか)すことにならなかったでしょうか?( "… but did it not run a serious risk of detaching it from truth in the long run ? " )

     事実(じじつ),19世紀末(じゅうきゅうせいき まつ)までにリベラリズムがあまりにも強(つよ)くなってしまったため,教会(きょうかい)は全力(ぜんりょく)で活動(かつどう)するためには1870年(せん はっぴゃく はちじゅう ねん)に教導権の定義(きょうどうけんの ていぎ)を出(だ)し,自らの権威(みずからの けんい)を支(ささ)えざるを得(え)なくなりました( "Indeed by the late 19th century liberalism had become so strong that the Church had to support its own authority by the Definition in 1870 of its Magisterium when operating at full power, …" ).これは,つまり,教会全体を結束させるため(きょうかい ぜんたいを けっそく させるため)教皇(きょうこう)が信仰もしくは倫理の要点(しんこう もしくは りんりの ようてん)を定める(さだめる)ということです( "… namely whenever 1) a Pope 2) defines 3) a point of Faith or morals 4) so as to bind the whole Church." ).(訳注後記) だが,それ以来(いらい)あまりにも人間中心(にんげん ちゅうしん)に考(かんが)えるようになってきたため,多く(おおく)のカトリック信徒(しんと)たちが( "But thinking too humanly since then, too many Catholics, …" )教皇の特別教導権(きょうこうの とくべつ きょうどうけん)を神にまた教会の通常教導権の変遷することのない真実(=真理)(かみ および きょうかいの つうじょう きょうどうけんのへんせんすることのないしんり〈=しんじつ〉)に関連付ける(かんれん づける)代(か)わりに( "… instead of relating this Extraordinary Magisterium to God and to the unchanging truth of the Church’s Ordinary Magisterium, …" ),神御一人から由来(かみ おひとり から ゆらい)し,神のみに属する(ぞくする)無謬性(むびゅうせい)を教皇の人間性(きょうこうの にんげんせい)に与(あた)えるようになりました( "… have tended to lend to the human person of the Pope an infallibility coming from, and belonging to, God alone." ).この人間化プロセス(にんげんか ぷろせす)( “humanising process” )が徐々(じょじょ)に(教皇の)無謬性(むびゅうせい)を生み出し(うみだし),それが「尊厳(そんげん)なる通常教導権(つうじょう きょうどうけん)」の名(な)のもとに教会の伝統(きょうかいの でんとう)を再生(さいせい)できるとする教皇パウロ6世(きょうこう ぱうろ ろくせい)の非常識な主張(ひじょうしきな しゅちょう)へと半ば必然的(なかば ひつぜんてき)につながりました( "This humanising process generated a creeping infallibility which almost inevitably resulted in the preposterous claim of Paul VI to be able to remould the Church’s Tradition in the name of a “Solemn Ordinary Magisterium”." ).カトリック信徒(しんと)たちの過半数(かはんすう)は教皇(きょうこう)がその報いを受ける(むくいを うける)ことなしに済ます(すます)のを認め(みとめ),今日に至る(こんにちに いたる)まで多くの信徒たち(おおくの しんと たち)は歴代公会議派教皇(れきだい こうかいぎは きょうこう)に従(したが)い日々(ひび)リベラル派(りべらる は)になってきています( "The great majority of Catholics allowed him to get away with it, and to this day a mass of them are becoming day by day liberals as they follow the Conciliar Popes, …" ).一方(いっぽう)で,少数派(しょうすう は)のカトリック信徒(しんと)たちは公会議(こうかいぎ)のばかげた言動(げんどう)( “the Conciliar nonsense” )に責任のある者(せきにんの あるもの)が教皇になるなどあり得ない(ありえない)と反発(はんぱつ)せざるをえない状況(じょうきょう)に置(お)かれています( "… while a small minority of Catholics are driven to denying that those responsible for the Conciliar nonsense can be Popes at all." ). (訳注・直訳〈意訳〉は →「(1)ローマ教皇が( "1) a Pope" )(2)定義〈ていぎ〉するところによる( "2) defines" )(3)信仰〈しんこう〉あるいは諸倫理〈しょ りんり〉の要点〈ようてん〉( "3) a point of Faith or morals" )(4)に従う〈したがう〉ことで教会全体が結束〈きょうかい ぜんたいが けっそく〉するようにする( " 4) so as to bind the whole Church.」 〈 "… namely whenever 1) a Pope 2) defines 3) a point of Faith or morals 4) so as to bind the whole Church." 〉)

     簡潔に言えば(かんけつに いえば)( "In brief, …" ),私(わたし)は個人的(こじんてき)に多くの教皇空位論者(おおくの きょうこう くうい ろんじゃ)に尊敬の念(そんけいの ねん)を抱いて(いだいて)います( "…I personally have respect for many sedevacantists, …" ).ただし,それは彼(かれ)らが教会を信じ(きょうかいを しんじ),教会が直面(ちょくめん)する非常に深刻な問題の解決(ひじょうに しんこくな もんだいの かいけつ)に懸命に取り組む(けんめいに とりくむ)という限(かぎ)りにおいてです( "… insofar as they believe in the Church and are desperate for a solution to an infinitely serious problem of the Church.," ).だが,私の考え(わたしの かんがえ)では,彼らはもっと高く深い(たかく ふかい)ところ ― すなわち神御自身(かみ ごじしん)の無限の高さ,深さ(むげんの たかさ,ふかさ)を見る必要(みる ひつよう)があります( "… but in my opinion they need to look higher and deeper – the infinite height and depth of God himself." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教



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2014年2月16日日曜日

344 教会の無謬性 II 2/15

エレイソン・コメンツ 第344回 (2014年2月15日)

     教会の無謬性(きょうかいの むびゅうせい)については,とくに1870年に出された教皇無謬性(きょうこう むびゅうせい)の定義(ていぎ)から(誤って)生じる錯覚を正す(〈あやまって〉しょうじる さっかくを ただす)ため,もっと多くのことを語る必要(おおおくのことを かたる ひつよう)があります( "Much needs to be said about the Church’s infallibility, especially to correct illusions arising (by mistake) from the Definition of Papal infallibility in 1870." ).たとえば,今日,教皇不在論者(きょうこう ふざい ろんじゃ)たち(=教皇空位論者たち)とリベラル派(=自由主義派)の人たち( "sedevacantists and liberals" )はそれぞれの立場が正反対(たちばが せいはんたい)だと考えて(かんがえて)いますが( "Today for instance sedevacantists and liberals think that their positions are wholly opposed, …" ),しばし立ち止(たちど)まって,実は両者が同じ(じつは りょうしゃが おなじ)ように考えていることに気(き)づくことはないでのしょうか?( "… but do they stop for a moment to see how similarly they think ? " )――多数派の立場(たすうはの たちば):教皇は無謬である( "…Major: Popes are infallible. …" ).少数派の立場(しょうすうはの たちば):公会議派の歴代教皇(こうかいぎはの れきだい きょうこう)はリベラルである( "…Minor: Conciliar Popes are liberal. …" ).リベラル派の結論(けつろん):私たちはリベラルにならなければならない( "…Liberal Conclusion: we must become liberal. …" ).教皇不在論者の結論:歴代公会議派教皇たちは教皇たりえない( "…Sedevacantist Conclusion: they cannot be Popes." ).ここでの誤(あやま)りは論法(ろんぽう)にあるのでもなければ,少数派意見(しょうすう いけん)にあるのでもありません( "The error is neither in the logic, nor in the Minor." ).誤りは多数意見(たすう いけん)の無謬性(むびゅう せい)に関(かん)する両者の誤解(りょうしゃの ごかい)にあるのです( "It can only be in a misunderstanding on both their parts of infallibility in the Major." ).繰り返(くりかえ)して言いますが,現代人(げんだいじん)は真実より権威を優先(しんじつより けんいを ゆうせん)しています( "Once again, modern men put authority above truth." ).(訳注後記1)

     永遠の神(えいえんの かみ)は真理(しんり)(=真実〈しんじつ〉)そのものであり絶対的に無謬(ぜったいてきに むびゅう)です( "Eternal God is Truth itself, absolutely infallible." ).神は創造期(そうぞう き)に,人の姿(=肉体)をとられた自(みずか)らの御独子(おん ひとりご)( "his Incarnate Son" )(=神の御子イエズス・キリスト)を通(とお)して( "In created time, through his Incarnate Son, …" ),人々の霊魂を救う(ひとびとの れいこんを すくう)ための一つの教理(きょうり)とともに御自身の教会(ごじしんの きょうかい)を創設(そうせつ)されました( "… he instituted his Church with a doctrine for the salvation of human souls." )(訳注後記2).この教理(きょうり)は神が与えた(かみが あたえた)ものですから誤(あやま)りなどあり得(え)ないものです( "Coming from him that doctrine could only be inerrant, …" ).だが,神が教理を託(たく)した聖職者(せいしょく しゃ)たちがそれについて誤りを犯さない(あやまりを おかさない)ようにするため( "… but to keep it free from the errors of the human churchmen to whom he would entrust it, …" ),神の御子は聖職者たちに「真理の霊」(しんりの れい)(=真実の霊〈しんじつ〉のれい)( "spirit of truth" )が彼らを「とこしえに」( "for ever" )導(みちび)くと約束(やくそく)しました(新約聖書・聖ヨハネによる聖福音書:第14章16節)( "… his Son promised them the “spirit of truth” to guide them “for ever” (Jn. XIV, 16)." )(訳注・とこしえ=永遠〈えいえん〉).そのような保証(ほしょう)がなかったとすれば( "For indeed without some such guarantee, …" ),神はどうして人間に対し,地獄に陥れる条件(じごくに おとしいれる じょうけん)を示(しめ)して( "… how could God require of men, on pain of eternal damnation, …" ),(それを避〈さ〉けるためには)神の御子,神の教理また神の教会(かみの おんこ,かみの きょうり また かみの きょうかい)を信じるよう求める(しんじるよう もとめる)ことができたでしょうか(新約聖書・聖マルコによる聖福音書:第16章6節)?( "… to believe in his Son, in his doctrine and in his Church (Mk.XVI, 16) ? " )

     しかも,神は聖職者たちに与えた過ちを犯す自由意思(あやまちを おかす じゆういし)を彼らから取り上(とりあ)げていません( "Yet even from churchmen God will not take away that free-will to err which he gave them." ).そして,神は聖職者たちに対して自ら説く(みずから とく)真理(しんり)が人々(ひとびと)に届(とど)かないようにしない限(かぎ)り,その自由を好きなだけ広げる(じゆうを すきなだけ ひろげる)ことを許(ゆる)しています( "And he will allow that freedom to go as far as they wish, short of their making his Truth inaccessible to men." ).その許容範囲(きょよう はんい)はかなり広(ひろ)く( "That reaches far, …" ),そこには大いに欠陥のある(おおいに けっかんの ある)多数の教皇(たすうの きょうこう)たちも入(はい)ります( "… and it includes a number of highly defective Popes, …" ).だが,人間の邪悪さ(にんげんの じゃあくさ)にもかかわらず,神がお許しになる範囲はさらに広いものです(旧約聖書・預言者イザヤの預言書:第59章1,2節)( "… but God’s reach is still farther, despite the wickedness of men (Isaiah LIX, 1,2)." ).第二バチカン公会議を例(れい)にとるなら( "At Vatican II for instance, …" ),教会が犯した誤り(きょうかいが おかした あやまり)はひどいものでしたが( "… Church error went a long way, …" ),それでも神は自らの無謬(みずからの むびゅう)に基(もと)づく誤りなき真理(あやまりなき しんり)を人々に示す教会の機能(きょうかいの きのう)を完全に(かんぜんに)だめなものにはしませんでした( "… without however God’s allowing his Church to be wholly defectible in its presentation to men of the inerrant Truth coming from his own infallibility." ).公会議派教皇たちでさえ公会議の諸々の誤りとともに多くのカトリック教の真実を説いてきています( "Even the Conciliar Popes have told many Catholic truths alongside their Conciliar errors." ).

     だが,ありふれた人間である私がどうすれば公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちの説く真理(しんり)と誤り(あやまり)を見分(みわ)けられるでしょうか?( "But how then can I, a simple soul, tell the difference between their truths and their errors ? " )まず第一(だいいち)に,私(わたくし)が正しい心(ただしい こころ)をもって本当(ほんとう)に神を求めれば(かみを もとめれば)( "Firstly, if I am truly looking for God with an upright heart, …" ),聖書(せいしょ)が多くの箇所(おおくの かしょ)で述(の)べているように,神は私を神の御元に導いてくださる(かみは わたくしを かみの みもとに みちびいてくださる)でしょう( "… he will guide me to him, as the Bible says in many places." ).次(つぎ)に,神の教理(かみの きょうり)は神と同じように不変(かみと おなじように ふへん)ですから( "unchangeable as God" ) ( "And secondly, God’s doctrine being as unchangeable as God, …" ),それは(ほぼ)すべての聖職者(せいしょくしゃ)たちが,(ほぼ)すべての場所(ばしょ)で,(ほぼ)すべての時代(じだい)に説(と)き,伝(つた)えてきた教理(きょうり)であるに違(ちが)いありません( "it must be the doctrine that I find (nearly) all his churchmen to have taught and handed down in (nearly) all places and at (nearly) all times, …" ).それは(真の神から授かった)カトリックの(訳注・=宇宙〈うちゅう〉・地上〈ちじょう〉の万物の存在〈ばんぶつの そんざい〉に普遍〈ふへん〉の)教え(おしえ)の伝統(でんとう)( "Tradition" )として最も広く知られている(もっとも ひろく しられている)ものです( "… best known as Tradition." ).教会の開設(きょうかいの かいせつ)以来(いらい),その教理(きょうり)の宣教の継承(せんきょうの けいしょう)( "… that handing down" )は私たちの主(イエズス・キリスト)自らの教え(みずからの おしえ)の最も確かな試金石(もっとも たしかな しきんせき)でした( "… that handing down has been the surest test of what Our Lord himself taught." ).古来(こらい),誤りのない伝統(あやまりの ない でんとう)は数百万人(すうひゃくまん にん)の聖職者たちが築(きず)いてきたものです( "Down the ages inerrant Tradition has been the work of millions of churchmen." ).それは,無謬の聖霊( "the infallible Holy Ghost" )の導き(むびゅうの せいれいの みちびき)とともに神が,教皇たちだけでなく,教会全体(きょうかい ぜんたい)( "his Church as a whole" )に授(さず)けられたものです( "It has been that for which God endowed his Church as a whole, and not just the Popes, with the guidance of the infallible Holy Ghost." ).

     教会の無謬(きょうかいの むびゅう)をいわばケーキにたとえるなら,諸教皇の無謬性の厳かな諸定義(しょきょうこうの むびゅうせいの おごそかな しょていぎ)は,教会の無謬性の頂(きょうかいの むびゅうせいの いただき)に載(の)っている単なる砂糖衣(たんなる さとうい)( "the icing" )にすぎません( "Here is, so to speak, the cake of Church infallibility upon which the Popes’ solemn Definitions are merely the icing, …" ).それは貴重(きちょう)で必要(ひつよう)なものですが( "… precious and necessary, the peak of the Church’s infallibility, …" ),決してケーキの山の本体(けーきの やまの ほんたい)ではありません( "… but not its mountain bulk." ).まずはじめに,教皇の特別教導権による諸定義(きょうこうの とくべつきょうどうけん による しょていぎ)( "definitions by the Popes' Extraordinary Magisterium" )は1870年からだけでなく教会開設(きょうかい かいせつ)いらい存在(そんざい)してきたこと,それはカトリック教の伝統(でんとう)(以下,「伝統」と記す〈しるす〉)を真実なもの( "true" )にするためでなく,単(たん)に伝統に属することと属しないこと(でんとうに ぞくすること と ぞくしないこと)を間違いをする人々(まちがいをする ひとびと)があやふやにするたびに確かなもの( "certain" )にするために存在してきた(たしかなもの にするために そんざいしてきた)ことに注目(ちゅうもく)してください( "Notice firstly that Definitions by the Popes’ Extraordinary Magisterium existed not only from 1870 but from the beginning of the Church, and they existed not to make Tradition true but merely to make certain what belonged to Tradition and what did not, whenever the erring of men had made that uncertain." ).ルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )は真実を感じ取り(しんじつを かんじとり),ひどい誤りを犯す教皇(あやまりを おかす きょうこう)たちでなく誤りのない伝統に従う(あやまりの ない でんとうに したがう)という正しい選択(ただしい せんたく)をしました( "Sensing truth, Archbishop Lefebvre rightly preferred inerrant Tradition to gravely erring Popes." ).彼の後継者(こうけいしゃ)たちは,真実に気づかない(しんじつに きづかない)すべての現代(げんだい)リベラル派(りべらるは)の人々と同じようにルフェーブル大司教を決(けっ)して理解(りかい)しようとせず,誤りのない伝統(あやまりのない でんとう)でなく誤りを犯す教皇(あやまりを おかす きょうこう)たちを選ぶ道(えらぶ みち)をたどろうとしています( "Never having understood him, like all modern liberals not sensing truth, his successors are in the process of preferring erring Popes to inerrant Tradition." ).教皇不在論者たちは真実を過少評価し(しんじつを かしょう ひょうか し)教皇たちを過大評価(きょうこうたちを かだい ひょうか)して,誤りを犯す教皇(あやまりを おかす きょうこう)たちを全面的に否定(ぜんめんてきに ひてい)しています.彼らは教会から完全に離れる(きょうかいから かんぜんに はなれる)気持ち(きもち)になるかもしれません( "Underestimating truth and overestimating the Popes, sedevacantists wholly repudiate the erring Popes and can be tempted to quit the Church altogether. " ).主よ,憐れみたまえ!(しゅよ,あわれみたまえ)( "Lord, have mercy ! " )

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教



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訳注と引用された聖書の箇所を追補いたします.

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2011年4月21日木曜日

新しい教会,新しい福者

エレイソン・コメンツ 第195回 (2011年4月9日)

5月1日,あと2,3週間ほど(訳注・本コメンツ投稿日現在からは1週間ほど)経つと,ローマのサンピエトロ広場で行われる盛大な祝典の中で,前教皇ヨハネ・パウロ2世が現教皇ベネディクト16世により「福者」 “Blessed” と宣言される予定です.だがカトリックの伝統に固執するカトリック信徒たちはヨハネ・パウロ2世教皇が,公会議主義下の教会の偉大な推進者であった一方で,カトリック教会の事実上の破壊者であったことも知っています.カトリック教会の列聖( “Church canonizations” )が無謬(むびゅう) “infallible” であるならば,前教皇がどうして,聖人となる前の最終段階( “the last step before being canonized” )たる「福者」と呼ばれうるのでしょうか? この疑問に即答すれば,前教皇ヨハネ・パウロ2世はカトリック教会におけるカトリックの列福によりカトリックの福者として列福されるのではなく( “will not be beatified as a Catholic Blessed by a Catholic beatification in the Catholic Church” ),新しい教会における新しい列福による新しい福者として( “as a Newblessed by a Newbeatification in the Newchurch” )列福されることになるということです.そして新しい教会の聖職者たち “Newchurchmen” は,彼らのなすことにつきその目新しさ “novelty” を主張する最初の人たちで,その不謬性 “infallibility” を主張する最後の人たちです.(訳注後記)

ここで,この新しい教会の性格を現代生活から得た比較をもとに例証してみましょう.高純度のガソリンはガソリン特有の匂い,味,機能を持っています.それによって自動車は走ることができます.純粋な水は水特有の匂い,味を持ち,その働きをします.自動車は水では走れません.ごく微量の水を混ぜたガソリンは依然としてガソリンの匂いと味がしますが,ガソリンとしては働かず - それによって自動車は走れません.微量の水がガソリンの可燃性を奪い取ってしまったのです.

純度の高いガソリンは例えていえば純粋なカトリシズム “Catholicism” (=カトリック教義)のようなものです - 極めて燃えやすいのです! この例えでは,純粋な水は何らのカトリシズムの形跡もとどめない純粋な世俗的人本主義( “secular humanism” )あるいは世界主義の宗教( “the religion of globalism” )に似ています.カトリシズムと世俗的人本主義は第二バチカン公会議およびそこで出した16の公文書の中で一緒に混ぜ合わされました.そのため公会議主義すなわち新しいカトリック教義( “Conciliarism, or Newcatholicism” )は,「良いカトリック信徒たち」に公会議による列福はそれ以前のカトリック教会の列福と同様に不謬性へ向かって順調に進んでいるのだと期待させるに十分なカトリシズムの匂いや味を依然として残しているように思えるかもしれません.だが実際には,少量の世俗的人本主義という混ぜ物はカトリシズムの健全な機能を止めるのに十分なのです.ちょうどガソリンの燃焼を止めるのに大量の水が必要でないのと同じです.

そういうわけで,新しい列福 “Newbeatifications” (訳注・公会議主義下の新しい教会の様式〈規定〉に則(のっと)った列福という意味)は,不用心で軽率なカトリック信徒の鼻孔(びこう)にはカトリック教の列福と似た味や匂いがするかもしれません.だが,よく見れば新しい列福が現実のものとは全く同じでないことは明らかです.有名な例を挙げます: 以前ではカトリック教会がある人につき列福を認めるためにはその人に関わる二つの否定し難い奇跡が起きた事実が要求されてきましたが,新しい列福が要求するのはただ一つの奇跡だけです.また列福を認めるための諸規則は他の面でも著(いちじる)しく緩(ゆる)められています.従って,カトリック信徒は新しい列福から生まれるのは新しい福者 “Newblesseds” 以外の何者でもないと考えるべきです.前教皇ヨハネ・パウロ2世はまさしく公会議主義の認めた「福者」なのです.

カトリック信徒を惑(まど)わし欺(あざむ)くのは,公会議主義下の教会に依然としてカトリシズムの諸要素が残っているからです.だがちょうど第二バチカン公会議がカトリシズム(純粋なガソリン)を公会議主義(水の混じったガソリン)に置き換えるべく考案したように,公会議主義はさしずめ世界宗教( “the Global Religion” )(純粋な水)に道を譲(ゆず)るべく考案されたものです.そのたどる行程は「神」から「新しい神」さらに「非神」( “from God to Newgod to Nongod” )へと進みます.今のところ依然として「新しいローマ」 “Newrome” は第二バチカン公会議の「新しい神」とそれに見合う「新しい福者」を推し進めていますが,やがて正真正銘の犯罪者が「非神」の「福者」と認められることでしょう.

だが,真の神は欺かれまいとする羊(=信徒)が欺かれるのをお許しになりません.さらに誰であってもまず自ら神を見捨てない霊魂を決して神がお見捨てになることはない,と聖アウグスティヌスは言い残しています.なんと素晴らしい言葉でしょうか!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第1パラグラフ最後の訳注:
無謬(むびゅう) “infallible” ,不謬性(ふびゅうせい) “infallibility” について.

・「無謬」=理論や判断にまちがいがないこと.

・教皇不謬性 “(papal) infallibility”

教皇が全カトリック教会の最高統治権をもつ司教として,信仰および道徳について正式な決定を下す場合,神の特別な保護によって誤ることがありえないとするローマ・カトリック教会の信条.第一バチカン公会議で信徒の信ずべきこととして定められた.教皇無謬性,不可謬権ともいう.

(ブリタニカ国際大百科事典参照)