エレイソン・コメンツ 第195回 (2011年4月9日)
5月1日,あと2,3週間ほど(訳注・本コメンツ投稿日現在からは1週間ほど)経つと,ローマのサンピエトロ広場で行われる盛大な祝典の中で,前教皇ヨハネ・パウロ2世が現教皇ベネディクト16世により「福者」 “Blessed” と宣言される予定です.だがカトリックの伝統に固執するカトリック信徒たちはヨハネ・パウロ2世教皇が,公会議主義下の教会の偉大な推進者であった一方で,カトリック教会の事実上の破壊者であったことも知っています.カトリック教会の列聖( “Church canonizations” )が無謬(むびゅう) “infallible” であるならば,前教皇がどうして,聖人となる前の最終段階( “the last step before being canonized” )たる「福者」と呼ばれうるのでしょうか? この疑問に即答すれば,前教皇ヨハネ・パウロ2世はカトリック教会におけるカトリックの列福によりカトリックの福者として列福されるのではなく( “will not be beatified as a Catholic Blessed by a Catholic beatification in the Catholic Church” ),新しい教会における新しい列福による新しい福者として( “as a Newblessed by a Newbeatification in the Newchurch” )列福されることになるということです.そして新しい教会の聖職者たち “Newchurchmen” は,彼らのなすことにつきその目新しさ “novelty” を主張する最初の人たちで,その不謬性 “infallibility” を主張する最後の人たちです.(訳注後記)
ここで,この新しい教会の性格を現代生活から得た比較をもとに例証してみましょう.高純度のガソリンはガソリン特有の匂い,味,機能を持っています.それによって自動車は走ることができます.純粋な水は水特有の匂い,味を持ち,その働きをします.自動車は水では走れません.ごく微量の水を混ぜたガソリンは依然としてガソリンの匂いと味がしますが,ガソリンとしては働かず - それによって自動車は走れません.微量の水がガソリンの可燃性を奪い取ってしまったのです.
純度の高いガソリンは例えていえば純粋なカトリシズム “Catholicism” (=カトリック教義)のようなものです - 極めて燃えやすいのです! この例えでは,純粋な水は何らのカトリシズムの形跡もとどめない純粋な世俗的人本主義( “secular humanism” )あるいは世界主義の宗教( “the religion of globalism” )に似ています.カトリシズムと世俗的人本主義は第二バチカン公会議およびそこで出した16の公文書の中で一緒に混ぜ合わされました.そのため公会議主義すなわち新しいカトリック教義( “Conciliarism, or Newcatholicism” )は,「良いカトリック信徒たち」に公会議による列福はそれ以前のカトリック教会の列福と同様に不謬性へ向かって順調に進んでいるのだと期待させるに十分なカトリシズムの匂いや味を依然として残しているように思えるかもしれません.だが実際には,少量の世俗的人本主義という混ぜ物はカトリシズムの健全な機能を止めるのに十分なのです.ちょうどガソリンの燃焼を止めるのに大量の水が必要でないのと同じです.
そういうわけで,新しい列福 “Newbeatifications” (訳注・公会議主義下の新しい教会の様式〈規定〉に則(のっと)った列福という意味)は,不用心で軽率なカトリック信徒の鼻孔(びこう)にはカトリック教の列福と似た味や匂いがするかもしれません.だが,よく見れば新しい列福が現実のものとは全く同じでないことは明らかです.有名な例を挙げます: 以前ではカトリック教会がある人につき列福を認めるためにはその人に関わる二つの否定し難い奇跡が起きた事実が要求されてきましたが,新しい列福が要求するのはただ一つの奇跡だけです.また列福を認めるための諸規則は他の面でも著(いちじる)しく緩(ゆる)められています.従って,カトリック信徒は新しい列福から生まれるのは新しい福者 “Newblesseds” 以外の何者でもないと考えるべきです.前教皇ヨハネ・パウロ2世はまさしく公会議主義の認めた「福者」なのです.
カトリック信徒を惑(まど)わし欺(あざむ)くのは,公会議主義下の教会に依然としてカトリシズムの諸要素が残っているからです.だがちょうど第二バチカン公会議がカトリシズム(純粋なガソリン)を公会議主義(水の混じったガソリン)に置き換えるべく考案したように,公会議主義はさしずめ世界宗教( “the Global Religion” )(純粋な水)に道を譲(ゆず)るべく考案されたものです.そのたどる行程は「神」から「新しい神」さらに「非神」( “from God to Newgod to Nongod” )へと進みます.今のところ依然として「新しいローマ」 “Newrome” は第二バチカン公会議の「新しい神」とそれに見合う「新しい福者」を推し進めていますが,やがて正真正銘の犯罪者が「非神」の「福者」と認められることでしょう.
だが,真の神は欺かれまいとする羊(=信徒)が欺かれるのをお許しになりません.さらに誰であってもまず自ら神を見捨てない霊魂を決して神がお見捨てになることはない,と聖アウグスティヌスは言い残しています.なんと素晴らしい言葉でしょうか!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第1パラグラフ最後の訳注:
無謬(むびゅう) “infallible” ,不謬性(ふびゅうせい) “infallibility” について.
・「無謬」=理論や判断にまちがいがないこと.
・教皇不謬性 “(papal) infallibility”
教皇が全カトリック教会の最高統治権をもつ司教として,信仰および道徳について正式な決定を下す場合,神の特別な保護によって誤ることがありえないとするローマ・カトリック教会の信条.第一バチカン公会議で信徒の信ずべきこととして定められた.教皇無謬性,不可謬権ともいう.
(ブリタニカ国際大百科事典参照)