エレイソン・コメンツ 第392回 (2015年1月17日)
神が善良に造られた私達の本質を
アダムが台無しにしてしまいました.
(かみが
ぜんりょうに つくられた
わたくしたちの ほんしつを
あだむが だいなしに して
しまい ました.)
神により(由り)
善良に成りたいと願う
私達の本質は,
アダムが駄目にします.
(かみに より
ぜんりょうに なりたいと ねがう
わたくし たちの ほんしつは,
あだむが だめに します.)
Our nature, by God made good, Adam marred.
What good by God it wants, Adam makes hard.
広い星空の下に
(ひろい ほしぞらの したに)
Under the wide and starry sky
墓を掘り私をそこへ眠らせておくれ
(はかを ほり
わたくしを そこへ ねむらせて おくれ)
Dig the grave and let me lie
私は生きてきて良かったと思い,喜んで死ぬ
(わたくしは いきてきて
よかったと おもい,
よろこんで しぬ)
Glad did I live and gladly die,
そして,私は自らの意志でそこに横たわる
(そして,わたくしは
みずからの いしで そこに よこたわる)
And I laid me down with a will.
この碑文を私の墓に刻んでほしい
(この ひぶんを
わたくしの はかに きざんで ほしい)
This be the verse you ’grave for me:
彼は望みどおりのところで眠る
(かれは のぞみ どおりの ところで ねむる)
Here he lies where he longed to be.
船乗りは海から家へ帰る
(ふなのりは うみ から いえへ かえる)
Home is the sailor, home from sea
そして,猟師は丘から家へ帰る
(そして,りょうしは おか から いえへ かえる)
And the hunter home from the hill
—— R. L. スチーブンソン (1850-1894)
—R.L.Stevenson (1850–1894)
詩人の墓に刻まれたこの(此の)碑文は簡潔ながら,その心情を雄弁に語り(しじんの はかに きざまれた この ひぶんは かんけつ ながら,その しんじょうを ゆうべんに かたり)( "This epitaph for the poet himself is eloquent by its simplicity, …" ),それ(其れ)が人生で避けられない死に触れているだけに,人の心を動かすもの(物)があり(在り・有り)ます(それが じんせいで さけられない し に ふれて いる だけに,ひとの こころを うごかす ものが あります)( "… and touching, because it touches on death, that inevitable tragedy of human life." ).詩人たちは生と愛を偲んで死を作品のテーマとして扱います(しじん たちは せいと あいを しのんで し を さくひんの てーま として あつかい ます)( "Commemorating life and love, poets often treat of death, …" ).死は生と愛を神秘的に断ち切るものです(し は せい と あい を しんぴ てきに たち きる もの です)( "… which so mysteriously cuts off both." ).生や死の意味を考えることを望まない哀れな唯物主義者達は詩を寸断して,可能ならそれを散文としてプリントしようとします(せいや しの いみを かんがえる ことを のぞまない あわれな ゆいぶつ しゅぎ しゃ たち は し を ぶんだん して,かのう なら それを さんぶん として ぷりんと しよう と します)( "Not wishing to think on the meaning of life or death, poor materialists cut off poetry and will print it as prose if they can, …" ).それは,正しく物質より高度な物について考えるのを避ける為です(それは まさしく ぶっしつ より こうどな もの について かんがえる のを さける ため です)( "… precisely to avoid having to think about anything higher than matter." ).だが,其の様な事をしても,神秘は残ります(だが,そのような ことを しても,しんぴは のこり ます)...( "But the mystery remains . . ." )
理論的には,スチーブンソンの碑銘は勇敢です(りろん てき には, すちーぶんそんの ひめいは ゆうかん です)( "In theory, Stevenson’s epitaph is brave." ).彼は各節の終わりの3行,つまり8節のうちの6行で(かれは かくせつの おわりの さんぎょう,つまり はっせつの うちの ろくぎょうで)( "In the last three lines of each verse, in six lines out of eight, …" ),6通りの違う表現を用いて自分は幸せに死ぬと言っています(ろく とおりの ちがう ひょうげんを もちいて じぶんは しあわせに しぬと いって います)( "… he says in six different ways that he is happy to die." ).だが,詩は矛盾に満ちています(だが,しは むじゅんに みちて います)( "But the poem is laden with contradiction." ).「生きて来て良かった」と云うなら,如何して喜んで死ねるのでしょうか?(「いきてきてよかった」というなら,どうして よろこんで しねる の でしょう か?)( "If “Glad did he live,” how could he gladly die? " ) 若し,死んで良かったと思うなら,如何して生きて来て良かったと思うのでしょうか?(もし,しんで よかったと おもう なら,どうして いきて きて よかったと おもう の でしょう か?)( "If he was so glad to die, how could he have been glad to live? " ) 彼が云う様に喜んで死ぬ為には(かれが いうように よろこんで しぬ ため には)( "To be as glad to die as he claims, …" ),彼は生きる意志を失ったか(かれは いきる いしを うしなった か),或いは其の意思を断念したに違い有りません(あるいは その いしを だんねん したに ちがい ありません)( "… he must have lost his will to live, or shut it down, …" ).其れを彼が出来たのは(それを かれが できた のは),自分の動物的な死を超えた運命,意義,存在等を拒んだからで(じぶんの どうぶつ てきな し を こえた うんめい,いぎ,そんざい など を こばんだ からで)( "… which he could only do by refusing to his life any destiny or meaning or existence beyond his animal death, …" ),そうする事が出来たのは,自分が単なる動物だと装ったからでしょう(そう する ことが できた のは,じぶんが たん なる どうぶつ だと よそおった から でしょう)( "… and this he could only do by pretending to be no more than an animal." )(訳注3・1 ).だが,何の様な動物が雄弁で感動的な詩を書くでしょうか?(だが,どのような どうぶつが ゆうべんで かんどう てきな し を かく でしょうか?)( "But what animals take the trouble to write poems eloquent and touching? " )
嗚呼,ロバート・ルイスよ,貴方は決して動物等では在りませんでした(ああ,ろばーと・るいすよ,あなたは けっして どうぶつ など では ありません でした)( "O Robert Louis, you knew you were not just an animal." ).貴方は多くの文学作品を書きました(あなたは おおくの ぶんがく さくひんを かきました)( "You took the trouble to write many literary works, …" ).其の中には,少年達を魅了した命と冒険の物語「宝島」や腐敗と死の物語「ジキル博士とハイド氏」が在ります(その なか には,しょうねん たちを みりょう した いのちと ぼうけんの ものがたり「たからじま」や ふはい と し の ものがたり「じきる はかせと はいど し」が あります)( "… including a spellbinding tale of life and adventure for boys, Treasure Island, and a harrowing tale of corruption and death for adults, Dr Jekyll and Mr Hyde, …" ) .そして貴方の作品は貴方を世界中で26番目に多く翻訳されている作者にしています(そして あなたの さくひんは あなたを せかい じゅうで にじゅうろく ばん め に おおく ほんやく されて いる さくしゃに して います)( "… and your collected works make of you currently the 26th most translated author in the world." )貴方の両親が長老派教会員で,19世紀半ば頃多くの善良な人々を無神論者に変えさせた頑固なカルビン(カルバン)派だったのは事実です(あなたの りょうしんが ちょうろうは きょうかい いん で,じゅうきゅう せいき なかば ごろ おおくの ぜんりょうな ひとびとを むしん ろんじゃに かえ させたがんこな かるびん〈かるばん〉 は だった のは じじつです)( "True, your parents were Scottish Presbyterians, a Calvinist sect dour enough in mid-19th century to turn many a good man into an atheist." ).だが,貴方は如何して死を前に,其れ程控え目に自分を曝け出したのでしょうか?(だが,あなたは どうして し を まえに,それほど ひかえめに じぶんを さらけだした の でしょう か?)( "But how could you sell yourself so short at death? " )貴方は如何して死は「家」へ帰るのと同じだと振る舞えたのでしょうか?(あなたは どうして し は「いえ」へ かえる のと おなじ だと ふるまえた の でしょうか?)( "How could you pretend that death is “home”? " )
創造主は抑々人間という理性的な動物に動物的な死等設計されませんでした(そうぞうしゅは そもそも にんげん という りせい てきな どうぶつに どうぶつ てきな し など せっけい されません でした)( "The Creator did not originally design for animal death the rational animal that is man. " ).アダムとイブ(=エワ・エバ)以降のあらゆる人間が定められたこの世の命の期間中,合理性若しくは道理を十分発揮して居たなら(あだむと えわ〈=いぶ〉 いこうの あらゆる にんげんが さだめ られた このよの いのちの きかん ちゅう,ごうり せい もしくは どうりを じゅうぶん はっき していた なら)( "Had all men from Adam and Eve made the right use of their rationality, or reason, for the appointed duration of their earthly lives, " ),避け難い動物的死では無く,理性の活用が当然もたらす(齎す)永遠の命に難無く滑り込めたでしょう(さけがたい どうぶつ てき し では なく,りせいの かつようが とうぜん もたらす えいえんの いのちに なん なく すべり こめた でしょう)( "then instead of their now inevitable animal death they would have glided painlessly into the eternal life which the right use of their reason would have deserved for them. " ).だが,創造主の御意図はアダムが其れに背き(だが,そうぞうしゅの おんいと は あだむが それに そむき),最初の御父なる神との神秘的な結び付きに由り(さいしょの おんちち なる かみ との しんぴ てきな むすびつき に より),其の後の人類を原罪に引きずり込んだ為台無しに成って終いました(そのごの じんるいを げんざいに ひきずりこんだ ため だいなしに なって しまい ました)( "But that original design was frustrated when Adam disobeyed his Creator, and when by the mysterious solidarity of all future mankind with its first Father, he dragged down all men into original sin. " ).其の時の瞬間以来,矛盾があらゆる人間の本質と生命に付き物と成っています(そのときの しゅんかん いらい,むじゅんが あらゆる にんげんの ほんしつと せいめいに つきものと なって います)( "From that moment on, contradiction is intrinsic to all human nature and life, " ).何故なら,神の造られた私達の本質はアダムの齎した堕落した本質と仲違いして居るからです(なぜなら,かみの つくられた わたくし たちの ほんしつは あだむの もたらした だらく した ほんしつと なか たがい して いる から です)( "because we have a created nature from God at war with our fallen nature from Adam. " ).私達の――偽物で無い――本当の「諸諸の不死の願望」(immortal longings)は神が神の為に造られた私達の本質に根差す物で在る( "Our true – not false – “imm ortal longings” come from our nature as made by God and for God, " )のに対し(わたくしたちの――にせもので ない――ほんとうの「もろもろの ふしの がんぼう」は かみが かみの ために つくられた わたくしたちの ほんしつに ねざす もの である のに たいし),私達の動物的死は堕落した私達の本質だけに取っての「家」(home)なのです(わたくしたちの どうぶつてき し は だらく した わたくしたちの ほんしつ だけに とっての「いえ」なのです)( "while our animal death is “home” only to our nature as fallen. " ).聖パウロは「私は不幸な人間だ.誰が私の肉体に死をもたらすのだろうか?それは,私たちの主,イエズス・キリストによりもたらされる神の恩寵である」と叫んでいます(せい ぱうろは「わたくしは ふこうな にんげんだ.だれが わたくしの にくたいに し を もたらす のだろうか?それは,わたくしの しゅ,いえずす・きりすと により もたらされる かみの おんちょう である」と さけんで います)(新約聖書・使徒聖パウロによるローマ人への書簡:第7章24-25節)( " “Unhappy man that I am,” cries out St Paul (Rom.VII, 24–25), “who will deliver me from this body of death? The grace of God, by Jesus Christ Our Lord.” " ).(訳注・5・1)
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(訳注3・1 )
…自分が単なる動物だと装ったからでしょう
… this he could only do by pretending to be no more than an animal.
(=単なる動物を装った.単なる動物のふりをした.単なる動物として振る舞った)
* * *
(訳注5・1 )
使徒聖パウロによるローマ人への書簡 (Rom.VII, 24–25)
24 私はなんと不幸な人間であろう.この死の体から私を解き放つのはだれだろう.
25主イエズス・キリストによって神に感謝せよ.
こうして私は理性によって神の法に仕え,肉によって罪の法に仕える.
Douay-Rheims Version
24 Unhappy man that I am, who shall deliver me from the body of this death?
25 The grace of God, by Jesus Christ our Lord.
Therefore, I myself, with the mind serve the law of God; but with the flesh, the law of sin.
Epistola Ad Romanos, (Vulgatæ Editionis)
24 Infelix ego homo, quis me liberabit de corpore mortis huius?
25 Gratia Dei per Iesum Christum Dominum nostrum.
Igitur ego ipse mente servio legi Dei: carne autem, legi peccati.
* * *
神が善良に造られた私たちの本質をアダムが台無しにしてしまいました.
神により善良になりたいと願う私たちの本質は,アダムがだめにします.
Our nature, by God made good, Adam marred.
What good by God it wants, Adam makes hard.
Under the wide and starry sky
Dig the grave and let me lie
Glad did I live and gladly die,
And I laid me down with a will.
This be the verse you ’grave for me:
Here he lies where he longed to be.
Home is the sailor, home from sea
And the hunter home from the hill
—R.L.Stevenson (1850–1894)
(大意)
広い星空の下に
墓を掘り
私をそこへ眠らせておくれ
私は生きてきて良かったと思い,喜んで死ぬ
そして,私は自らの意志でそこに横たわる
この碑文を私の墓に刻んでほしい
彼は望みどおりのところで眠る
船乗りは海から家へ帰る
そして,猟師は丘から家へ帰る
—— R. L. スチーブンソン (1850-1894)
詩人の墓に刻まれたこの碑文は簡潔ながら,その心情を雄弁に語り,それが人生で避けられない死に触れているだけに,人の心を動かすものがあります.詩人たちは生と愛を偲んで死を作品のテーマとして扱います.死は生と愛を神秘的に断ち切るものです.生や死の意味を考えることを望まない哀れな唯物主義者は詩を寸断して,可能ならそれを散文としてプリントしようとします.それは,まさしく物質より高度なものについて考えるのを避けるためです.だが,そのようなことをしても,神秘は残ります.
This epitaph for the poet himself is eloquent by its simplicity, and touching, because it touches on death, that inevitable tragedy of human life. Commemorating life and love, poets often treat of death, which so mysteriously cuts off both. Not wishing to think on the meaning of life or death, poor materialists cut off poetry and will print it as prose if they can, precisely to avoid having to think about anything higher than matter. But the mystery remains . . .
理論的には,スチーブンソンの碑銘は勇敢です.彼は各節の終わりの3行,つまり8節のうちの6行で,6通りの違う表現を用いて自分は幸せに死ぬと言っています.だが,詩は矛盾に満ちています.「生きてきて良かった」というなら,どうして喜んで死ねるのでしょうか? もし,死んで良かったと思うなら,どうして生きてきて良かったと思うのでしょうか? 彼が言うように喜んで死ぬためには,彼は生きる意志を失ったか,あるいはその意思を断念したにちがいありません.それを彼ができたのは,自分の動物的な死を超えた運命,意義,存在などを拒んだからで,そうすることができたのは,自分が単なる動物だと装ったからでしょう.だが,どのような動物が雄弁で感動的な詩を書くでしょうか?
In theory, Stevenson’s epitaph is brave. In the last three lines of each verse, in six lines out of eight, he says in six different ways that he is happy to die. But the poem is laden with contradiction. If “Glad did he live,” how could he gladly die? If he was so glad to die, how could he have been glad to live? To be as glad to die as he claims, he must have lost his will to live, or shut it down, which he could only do by refusing to his life any destiny or meaning or existence beyond his animal death, and this he could only do by pretending to be no more than an animal. But what animals take the trouble to write poems eloquent and touching?
ああ,ロバート・ルイスよ,あなたは決して動物などではありませんでした.あなたは多くの文学作品を書きました.その中には,少年たちを魅了した命と冒険の物語「宝島」や腐敗と死の物語「ジキル博士とハイド氏」があります.あなたの作品は,あなたを世界中で26番目に多く翻訳されている作者にしています.あなたの両親が長老派教会員で,19世紀半ばころ多くの善良な人々を無神論者に変えさせた頑固なカルビン派だったのは事実です.だが,あなたはどうして死を前に,それほど控えめに自分をさらけ出したのでしょうか? あなたはどうして死は「家」へ帰るのと同じだと振る舞えたのでしょうか?
O Robert Louis, you knew you were not just an animal. You took the trouble to write many literary works, including a spellbinding tale of life and adventure for boys, Treasure Island, and a harrowing tale of corruption and death for adults, Dr Jekyll and Mr Hyde, and your collected works make of you currently the 26th most translated author in the world. True, your parents were Scottish Presbyterian s, a Calvinist sect dour enough in mid-19th century to turn many a good man into an atheist. But how could you sell yourself so short at death? How could you pretend that death is “home”?
創造主はそもそも人間という理性的な動物に動物的な死など設計されませんでした.アダムとイブ以降のあらゆる人間が定められたこの世の命の期間中,合理性もしくは道理を十分発揮していたなら,避けがたい動物的死ではなく,理性の活用が当然もたらす永遠の命に難なく滑り込めたでしょう.だが,創造主の御意図はアダムがそれに背き,最初の御父との神秘的な結びつきにより,その後の人類を原罪に引きずり込んだため台無しになってしまいました。その時いらい、矛盾があらゆる人間の本質と生命につきものとなっています.なぜなら,神の造られた私たちの本質はアダムのもたらした堕落した本質と仲たがいしているからです.私たちの偽物でない本当の「もろもろの不死の願望」(immortal longings)は神が神のために造られた私たちの本質に根差すものであるのに対し,私たちの動物的死は堕落した私たちの本質だけにとっての「家」(home)なのです.聖パウロは「私は不幸な人間だ.誰が私の肉体に死をもたらすのだろうか?それは,私たちの主,イエズス・キリストによりもたらされる神の恩寵である」と叫んでいます(新約聖書・使徒聖パウロによるローマ人への書簡:第7章24-25節).
The Creator did not originally design for animal death the rational animal that is man. Had all men from Adam and Eve made the right use of their rationality, or reason, for the appointed duration of their earthly lives, then instead of their now inevitable animal death they would have glided painlessly into the eternal life which the right use of their reason would have deserved for them. But that original design was frustrated when Adam disobeyed his Creator, and when by the mysterious solidarity of all future mankind with its first Father, he dragged down all men into original sin. From that moment on, contradiction is intrinsic to all human nature and life, because we have a created nature from God at war with our fallen nature from Adam. Our true – not false – “immortal longings” come from our nature as made by God and for God, while our animal death is “home” only to our nature as fallen. “Unhappy man that I am,” cries out St Paul (Rom.VII, 24–25), “who will deliver me from this body of death? The grace of God, by Jesus Christ Our Lord.”
キリエ・エレイソン.
Kyrie eleison.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
訳注(新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡の引用)の続きを追って掲載いたします.
* * *
本投稿記事・第392回エレイソン・コメンツ「矛盾する碑銘」 "CONTRADICTORY EPITAPH" ( 2015年1月17日付)は2015年8月14日23:40に掲載されました.
* * *
2015年1月17日土曜日
2014年8月9日土曜日
369 古代イスラエル人,現代イスラエル人? 8/9
エレイソン・コメンツ 第369回 (2014年8月9日)
(神と古代イスラエル人〈=古代ユダヤ人〉との間で交わされた)旧約(〈かみと こだい いすらえるじん〈=こだい ゆだやじん〉との あいだで かわされた〉 きゅうやく)にあるように( "in the Old Testament" )全能の神(ぜんのうの かみ)がある特定の人々(とくていの ひとびと)を根絶やし(ねだやし)にするべく下された諸々の命令(くだされた もろもろの めいれい)は(例えば,旧約聖書・サミュエル前書:第15章を参照〈たとえば,きゅうやく せいしょ・さみゅえる ぜんしょ:だい じゅうご しょうを さんしょう〉)(訳注後記1),それら異教徒たち自身に向けられた正義と慈悲による行為(いきょうと たちに むけられた せいぎと じひに よる こうい)であり,人の姿をとられた(=人間と同じ肉体を身にまとわれた)神(ひとのすがたをとられた〈=にんげんと おなじ にくたいを みに まとわれた〉かみ( "the Incarnate God" )すなわち私たちの主イエズス・キリスト(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)( "Our Lord Jesus Christ" )が数世紀(すう せいき)のちに(天より)御降誕されるのに備え(てんより ごこうたん されるのに そなえ)古代イスラエル人に揺りかごを用意させるための行為(こだい いすらえるじんに ゆりかごを ようい させる ための こうい)だったと認(みと)めましょう(エレイソン・コメンツ第368回を参照)( "Let us then grant (EC 368) that the orders of Almighty God to exterminate certain peoples in the Old Testament (e.g. I Sam. XV) were an act of justice and mercy towards the pagans themselves, and an act also designed to help the Israelites forward towards cradling the Incarnate God, Our Lord Jesus Christ, when he would come many centuries later." ).古代イスラエル人たちは,とりわけ祝福された童貞聖マリア(しゅくふく された どうてい まりあ)( “the Blessed Virgin Mary” )を通(つう)じて,この揺りかごを確(たし)かに用意しました( "This cradle the Israelites did provide, especially through the Blessed Virgin Mary, …" ).全人類はこの神の御母(=聖母)となられた聖マリアに限りない感謝の気持ちを持たねば(ぜんじんるいは この かみの おんはは〈=せいぼ〉と なられた せい まりあに かぎりない かんしゃの きもちを もたねば)なりません( "… to whom the entire human race owes a boundless debt of gratitude." ).私たちの誰もが確実に天国へたどり着ける(わたくしたちの だれもが かくじつに てんごくへ たどりつける)としたら( "If any of us does get to Heaven, …" ),それはただ偏に彼女聖母マリアのお取り成しを通して(ひとえに かのじょ せいぼ まりあの おとりなしを とおして)だけなのですから( "… it will be only through her intercession." ).
では,そのようにして救いをもたらす諸々の古代ユダヤ人(すくいを もたらす もろもろの こだい ゆだや じん)(新約聖書・聖ヨハネによる聖福音書:第4章22節を参照)(訳注後記2)とパレスチナ人(ぱれすちな じん)を虐殺(ぱれすちなじんを ぎゃくさつ)もしくは道徳的,金銭的に虐殺を支えて(どうとくてき,きんせんてきに ぎゃくさつを ささえて)いる今日のユダヤ人多数(こんにちの ゆだやじん たすう)との間(あいだ)にどのような関連性(かんれんせい)があるのでしょうか?( "Then what connection can there be between those Jews through whom salvation comes (Jn. IV, 22) and the mass of Jews today, who are either massacring Palestine or supporting the massacre, morally or financially ? " ) 今日のユダヤ人の大多数(こんにちの ゆだやじんの だいたすう)はアシュケナージ・ユダヤ人(あしゅけなーじ・ゆだやじん)( “Ashkenazy Jews” )ですから,アブラハムの血を受け継いだ末裔(あぶらはむの ちを うけついだ まつえい)ではないのでしょう( "The majority of today's Jews being Ashkenazy Jews, they may well be no blood-descendants of Abraham, …" ).だが,それはさておき( "… but be that as it may, …" ),彼らがキリスト教以降のユダヤ教の聖典タルムード(きりすときょう いこうの ゆだやきょうの せいてん たるむーど)( “the Talmud” )を通(とお)して私たちの主イエズス・キリスト(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)が仰せられる(おおせられる)「ファリザイ人とサドカイ人のパン種」(ふぁりざいじんと さどかいじんの ぱんだね)(新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第16章11節を参照)(訳注後記3)( “ “the leaven of the Pharisees and Sadducees” (Mt. XVI, 11) ” )を受け入れたのは確か(うけいれた のは たしか)です( "… they have certainly absorbed through the Talmud, the holy book of post-Christian Judaism, what Our Lord called “the leaven of the Pharisees and Sadducees” (Mt. XVI, 11), …" )このパン種とは私たちの主イエズス・キリストを十字架にかけ(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすとを じゅうじかに かけ),それ以来彼キリストの教会と戦って(いらい きょうかいと たたかって)きた不倶戴天の敵の精神を意味(ふぐたいてんの てきの せいしんを いみ)します( "… meaning the spirit of his bitter enemies who crucified him and have fought his Church ever since." ).神の「選民」(かみの せんみん)がどうして神の一貫した最悪の敵(かみの いっかん した さいあくの てき)になったのでしょうか?( "How can his Chosen People have turned into some of his consistently worst enemies ? " )(もし,この疑問を投げ〈ぎもんを なげ〉かけるだけで「反ユダヤ的」〈はん ゆだや てき〉だというなら( " (If the mere question seems “anti-semitic”, …" ),真実は良い〈しんじつはよい〉が「反ユダヤ主義」は悪い〈はん ゆだや しゅぎは わるい〉,したがって,いかなる真実も「反ユダヤ的」でありえないし,いかなる「反ユダヤ的」なものも真実でありえない,という言い方を思い起こす〈いいかたを おもいおこす〉といいでしょう( "… let it be recalled that truth is good while “anti-semitism” is bad, so nothing true can be “anti-semitic” and nothing “anti-semitic” can be true." ).私が以下に述べるのは真実〈いかに のべるのは しんじつ〉であり,いわゆる「反ユダヤ主義」とは全く関係ありません〈いわゆる「はん ゆだや しゅぎ」とは まったく かんけい ありません〉( "What follows is the truth, and has nothing whatsoever to do with so-called “anti-semitism”)." ).)
まず第一(だいいち)に,もし選民が自らの神に背を向け(せんみんが みずからの かみに せを むけ)たとしたら( "Firstly, if the Chosen People turned against their God, …" ),問題は年代を経て起きたことのように思われる(もんだいは ねんだいを へて おきた ことの ように おもわれる)かもしれませんが( "… the problem may seem chronological …" ),実際(じっさい)はそうではありません( "… but it is not." ).旧約の期間を通し(きゅうやくの きかんを とおし)て神に敵対した古代ユダヤ人(かみに てきたい した こだい ゆだやじん)たちがいました( "Throughout the Old Testament there were Israelites who turned against God, …" ).たとえば,金の子牛( “the Golden Calf” )の崇拝者(きんの こうしの すうはいしゃ)たち( "… for instance the worshippers of the Golden Calf …" ),すなわちバビロンに追放されたユダヤ人(ばびろんに ついほう された ゆだやじん)たちです( "… or the Jews exiled to Babylon." ).神はしばしば「頑な(かたくな)」で( “stiff-necked” )反抗的な人々を罰し(はんこうてきな ひとびとを ばっし)なければなりませんでした( "God frequently had to punish his own “stiff-necked” and rebellious people." ).同(おな)じように,新約の時期から私たちの時代にいたるまで,生粋のユダヤ人である聖パウロ(きっすいの ゆだやじん である せい ぱうろ)のようにキリスト教に改宗した著名なユダヤ人はつねに存在(きりすと きょうに かいしゅう した ちょめいな ゆだやじんは つねに そんざい)しました(新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第9章1-5節; コリント後書〈使徒聖パウロのコリント人への第二の書簡〉:第11章21-22節; 使徒聖パウロのフィリピ人への書簡:第3章4-6節を参照)( "Likewise from the beginning of the New Testament down to our own day there have always been outstanding Jewish converts, like St Paul, who was as Jewish as could be (cf. Rom. IX, 1-5; II Cor. XI, 21-22; Phil. III, 4-6)." ).古代イスラエル人と現代イスラエル人の違い(こだい いすらえるじんと げんだい いすらえるじんの ちがい)は,いつの時代(じだい),どの人種(じんしゅ)にも神を愛する者(かみを あいする もの)と神に反旗を翻す者(かみに はんきを ひるがえす もの)がいた違いと同じ(ちがいと おなじ)ことです.真の「ユダヤ‐キリスト教徒」の 系列( “Judeo-Christian” )(まことの 「ゆだや‐きりすと きょうと」の けいれつ)はアベル “Abel” に始まり,たとえば,アブラハム “Abraham”,モーゼ “Moses”,ダビド “David”,神の御母(=聖母マリア) “the Mother of God” を経て(あべるに はじまり,たとえば,あぶらはむ,もーぜ,だびど,かみのおんはは〈=せいぼ まりあ〉を へて)カトリック教会に( “to the Catholic Church” )繋がって(かとりっく きょうかいに つながって)います( "The true “Judeo-Christian” line stretches from Abel through, for instance, Abraham, Moses, David and the Mother of God to the Catholic Church." ).偽り(いつわり)の「ユダヤ‐キリスト教徒」で真の「ユダヤ‐メーソン会員」の系列(いつわりの ゆだや‐きりすと きょうとで まことの「ゆだや‐めーそん かいいん」の けいれつ)( “Judeo-Masonic” )は咎められたカインに始まり,たとえば,神の預言者の殺害者アンナ “Anas”,カヤファ “Caiphas” を経て(とがめられた かいん に はじまり,たとえば,かみの よげんしゃの さつがいしゃ あんな,かやふぁを へて)近代のフリーメーソン組織( “to modern Freemasonry” )に繋がって(きんだいの ふりーめーそん そしきに つながって)います( "The false “Judeo-Christian” but true “Judeo-Masonic” line stretches from the accursed Cain through, for instance, the killers of God's prophets to Anas and Caiphas to modern Freemasonry, …" ).この組織(そしき)はユダヤ人が創り出した(ゆだやじんが つくり だした)もので,多くの会員は知らない(おおくの かいいんは しらない)でしょうが,いまだにカトリック教と戦う目的(かとりっくきょうと たたかう もくてき)でユダヤ人によって支配され(ゆだやじんに よって しはい され)ています( "… which was created by Jews and is still controlled by them for purposes of fighting the Catholic Church, even if many Masons are ignorant of the fact." ).
ここまでは良い(よい)として,古代イスラエル人と現代イスラエル人の落差はとくに際立って(こだい いすらえるじんと げんだい いすらえるじんの らくさは とくに きわだって)いるのではないでしょうか?( "Well and good, but is not the contrast between Israelites and Israelis especially sharp ? " ) 確かにその通り(たしかに そのとおり)です.それはなぜかと言(い)えば,古い(ふるい)ことわざの通(とお)り「高ければ高いほど,ひどく落ちる(たかければ たかいほど, ひどく おちる)」( “The higher they are, the harder they fall” )ということでしょう( "Yes, because as the old saying goes, “The higher they are, the harder they fall.” " ).選民(せんみん)は神の特別の僕となることを拒み(かみの とくべつの しもべと なることを こばみ)( "Once the Chosen People refused to be the special servants of God, …" ),(神の御独り子〈かみのおんひとりご〉の)御託身(ごたくしん) “the Incarnation” いらいおおむねそうし続(つづ)けてきました( "… as they have largely done from the Incarnation onwards, …" ).それにより彼(かれ)らは悪魔の特別の僕となる運命(あくまの とくべつの しもべとなる うんめい)となったのです( "… they were bound to become the special servants of the Devil." ).彼らにとって,その中間の選択(ちゅうかんの せんたく)などありえませんでした( "For them there could be nothing in between." ).彼(かれ)らが神の僕となるのを拒んだ背景(かみの しもべと なるのを こばんだ はいけい)に何(なに)があったのでしょうか?( "And what was behind that refusal ? " )一言で言えば,自尊心(ひとことで いえば,じそんしん)( “pride” )です( "In one word, pride." ).彼らは神の特別の贈り物(かみの とくべつの おくりもの)を神の御光栄のために使わず(かみの ごこうえいの ために つかわず),その代わり(かわり)に( "Instead of using God's special gifts to them for his glory, …" )自分たちの光栄(じぶんたちの こうえい)のために(=自分たち自身の光栄となるよう〈じぶんたちじしんの こうえいと なるよう〉)転用(てんよう)しました( "… they bent them to their own glory." ).救世主がこの世に来られる前(きゅうせいしゅが このよに こられる まえ),彼らはやがて現(あらわ)れるのは精神的でなく物質的な救世主(せいしんてき でなく ぶっしつてきな きゅうせいしゅ)だと思い違い(おもいちがい)(=誤解・見当違い〈ごかい・けんとうちがい〉)をしました( "Before their Messiah came, they misconceived him as their material instead of spiritual saviour, …" ).そのため,彼らは救世主が現れると,その受け入れを拒み(うけいれを こばみ)ました( "… so that when he came they refused to recognize him, …" ).それ以来(いらい),彼らは神(かみ)が民族固有のモーゼの宗教(みんぞく こゆうの もーぜの しゅうきょう)をあらゆる民族に開かれた包括的なカトリック教に置き換えた(あらゆる みんぞくに ひらかれた ほうかつ てきな かとりっく きょうに おきかえた)として神と戦って(かみと たたかって)きました( "… and from then on they fought him for having replaced their racially exclusive Mosaic religion with the racially all-inclusive Catholic religion, open to all races." ).
では,諸々のカトリック信徒たち(もろもろの かとりっく しんと たち)は,私たちの周り(わたくしたちの まわり)にいるかつての選民(せんみん)たちの圧倒的な物質的優性(=優位性)に対抗(あっとうてきな ぶつりてき ゆうせい〈ゆうい せい〉に たいこう)するには何ができるでしょうか?( "And what can Catholics do to resist the overwhelming material dominance of the once Chosen Ones all around us ? " ) 物質的にできることは皆無(かいむ)に等(ひと)しいでしょう( "Materially, next to nothing, …" ).だが,一人ひとりの霊魂(ひとり ひとりの れいこん)が心の中で誠意を込めて(こころの なかで せいいを こめて)神の王国の来るよう神の御心(=御旨)の為されるよう祈る(かみの おうこくの きたる よう かみの みこころ〈=みむね〉の なされるよう いのる)ならば( "… but a single soul praying spiritually and sincerely for God's kingdom to come and for his will to be done,…" ),物理的な山を動かしていただけるよう神を説得(ぶつりてきな やまを うごかして いただけるよう かみを せっとく)できるでしょう( "… can prevail on God to move material mountains, …" ).これは神にとって簡単(かみに とって かんたん)なこと( “child’s play” )です( "… child's play for God." ).神が彼らの物質的優性を許して(かみが かれらの ぶっしつてき ゆうせいを ゆるして)おられるのは,私たちを神のもとに戻す目的(わたくしたちを かみの もとに もどす もくてき)のためだけです( "He only allows that dominance in order to drive us back to him." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
訳注を追補いたします.
* * *
(注:本投稿記事〈第369回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月07日23:30に公開されました.)
(神と古代イスラエル人〈=古代ユダヤ人〉との間で交わされた)旧約(〈かみと こだい いすらえるじん〈=こだい ゆだやじん〉との あいだで かわされた〉 きゅうやく)にあるように( "in the Old Testament" )全能の神(ぜんのうの かみ)がある特定の人々(とくていの ひとびと)を根絶やし(ねだやし)にするべく下された諸々の命令(くだされた もろもろの めいれい)は(例えば,旧約聖書・サミュエル前書:第15章を参照〈たとえば,きゅうやく せいしょ・さみゅえる ぜんしょ:だい じゅうご しょうを さんしょう〉)(訳注後記1),それら異教徒たち自身に向けられた正義と慈悲による行為(いきょうと たちに むけられた せいぎと じひに よる こうい)であり,人の姿をとられた(=人間と同じ肉体を身にまとわれた)神(ひとのすがたをとられた〈=にんげんと おなじ にくたいを みに まとわれた〉かみ( "the Incarnate God" )すなわち私たちの主イエズス・キリスト(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)( "Our Lord Jesus Christ" )が数世紀(すう せいき)のちに(天より)御降誕されるのに備え(てんより ごこうたん されるのに そなえ)古代イスラエル人に揺りかごを用意させるための行為(こだい いすらえるじんに ゆりかごを ようい させる ための こうい)だったと認(みと)めましょう(エレイソン・コメンツ第368回を参照)( "Let us then grant (EC 368) that the orders of Almighty God to exterminate certain peoples in the Old Testament (e.g. I Sam. XV) were an act of justice and mercy towards the pagans themselves, and an act also designed to help the Israelites forward towards cradling the Incarnate God, Our Lord Jesus Christ, when he would come many centuries later." ).古代イスラエル人たちは,とりわけ祝福された童貞聖マリア(しゅくふく された どうてい まりあ)( “the Blessed Virgin Mary” )を通(つう)じて,この揺りかごを確(たし)かに用意しました( "This cradle the Israelites did provide, especially through the Blessed Virgin Mary, …" ).全人類はこの神の御母(=聖母)となられた聖マリアに限りない感謝の気持ちを持たねば(ぜんじんるいは この かみの おんはは〈=せいぼ〉と なられた せい まりあに かぎりない かんしゃの きもちを もたねば)なりません( "… to whom the entire human race owes a boundless debt of gratitude." ).私たちの誰もが確実に天国へたどり着ける(わたくしたちの だれもが かくじつに てんごくへ たどりつける)としたら( "If any of us does get to Heaven, …" ),それはただ偏に彼女聖母マリアのお取り成しを通して(ひとえに かのじょ せいぼ まりあの おとりなしを とおして)だけなのですから( "… it will be only through her intercession." ).
では,そのようにして救いをもたらす諸々の古代ユダヤ人(すくいを もたらす もろもろの こだい ゆだや じん)(新約聖書・聖ヨハネによる聖福音書:第4章22節を参照)(訳注後記2)とパレスチナ人(ぱれすちな じん)を虐殺(ぱれすちなじんを ぎゃくさつ)もしくは道徳的,金銭的に虐殺を支えて(どうとくてき,きんせんてきに ぎゃくさつを ささえて)いる今日のユダヤ人多数(こんにちの ゆだやじん たすう)との間(あいだ)にどのような関連性(かんれんせい)があるのでしょうか?( "Then what connection can there be between those Jews through whom salvation comes (Jn. IV, 22) and the mass of Jews today, who are either massacring Palestine or supporting the massacre, morally or financially ? " ) 今日のユダヤ人の大多数(こんにちの ゆだやじんの だいたすう)はアシュケナージ・ユダヤ人(あしゅけなーじ・ゆだやじん)( “Ashkenazy Jews” )ですから,アブラハムの血を受け継いだ末裔(あぶらはむの ちを うけついだ まつえい)ではないのでしょう( "The majority of today's Jews being Ashkenazy Jews, they may well be no blood-descendants of Abraham, …" ).だが,それはさておき( "… but be that as it may, …" ),彼らがキリスト教以降のユダヤ教の聖典タルムード(きりすときょう いこうの ゆだやきょうの せいてん たるむーど)( “the Talmud” )を通(とお)して私たちの主イエズス・キリスト(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)が仰せられる(おおせられる)「ファリザイ人とサドカイ人のパン種」(ふぁりざいじんと さどかいじんの ぱんだね)(新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第16章11節を参照)(訳注後記3)( “ “the leaven of the Pharisees and Sadducees” (Mt. XVI, 11) ” )を受け入れたのは確か(うけいれた のは たしか)です( "… they have certainly absorbed through the Talmud, the holy book of post-Christian Judaism, what Our Lord called “the leaven of the Pharisees and Sadducees” (Mt. XVI, 11), …" )このパン種とは私たちの主イエズス・キリストを十字架にかけ(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすとを じゅうじかに かけ),それ以来彼キリストの教会と戦って(いらい きょうかいと たたかって)きた不倶戴天の敵の精神を意味(ふぐたいてんの てきの せいしんを いみ)します( "… meaning the spirit of his bitter enemies who crucified him and have fought his Church ever since." ).神の「選民」(かみの せんみん)がどうして神の一貫した最悪の敵(かみの いっかん した さいあくの てき)になったのでしょうか?( "How can his Chosen People have turned into some of his consistently worst enemies ? " )(もし,この疑問を投げ〈ぎもんを なげ〉かけるだけで「反ユダヤ的」〈はん ゆだや てき〉だというなら( " (If the mere question seems “anti-semitic”, …" ),真実は良い〈しんじつはよい〉が「反ユダヤ主義」は悪い〈はん ゆだや しゅぎは わるい〉,したがって,いかなる真実も「反ユダヤ的」でありえないし,いかなる「反ユダヤ的」なものも真実でありえない,という言い方を思い起こす〈いいかたを おもいおこす〉といいでしょう( "… let it be recalled that truth is good while “anti-semitism” is bad, so nothing true can be “anti-semitic” and nothing “anti-semitic” can be true." ).私が以下に述べるのは真実〈いかに のべるのは しんじつ〉であり,いわゆる「反ユダヤ主義」とは全く関係ありません〈いわゆる「はん ゆだや しゅぎ」とは まったく かんけい ありません〉( "What follows is the truth, and has nothing whatsoever to do with so-called “anti-semitism”)." ).)
まず第一(だいいち)に,もし選民が自らの神に背を向け(せんみんが みずからの かみに せを むけ)たとしたら( "Firstly, if the Chosen People turned against their God, …" ),問題は年代を経て起きたことのように思われる(もんだいは ねんだいを へて おきた ことの ように おもわれる)かもしれませんが( "… the problem may seem chronological …" ),実際(じっさい)はそうではありません( "… but it is not." ).旧約の期間を通し(きゅうやくの きかんを とおし)て神に敵対した古代ユダヤ人(かみに てきたい した こだい ゆだやじん)たちがいました( "Throughout the Old Testament there were Israelites who turned against God, …" ).たとえば,金の子牛( “the Golden Calf” )の崇拝者(きんの こうしの すうはいしゃ)たち( "… for instance the worshippers of the Golden Calf …" ),すなわちバビロンに追放されたユダヤ人(ばびろんに ついほう された ゆだやじん)たちです( "… or the Jews exiled to Babylon." ).神はしばしば「頑な(かたくな)」で( “stiff-necked” )反抗的な人々を罰し(はんこうてきな ひとびとを ばっし)なければなりませんでした( "God frequently had to punish his own “stiff-necked” and rebellious people." ).同(おな)じように,新約の時期から私たちの時代にいたるまで,生粋のユダヤ人である聖パウロ(きっすいの ゆだやじん である せい ぱうろ)のようにキリスト教に改宗した著名なユダヤ人はつねに存在(きりすと きょうに かいしゅう した ちょめいな ゆだやじんは つねに そんざい)しました(新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第9章1-5節; コリント後書〈使徒聖パウロのコリント人への第二の書簡〉:第11章21-22節; 使徒聖パウロのフィリピ人への書簡:第3章4-6節を参照)( "Likewise from the beginning of the New Testament down to our own day there have always been outstanding Jewish converts, like St Paul, who was as Jewish as could be (cf. Rom. IX, 1-5; II Cor. XI, 21-22; Phil. III, 4-6)." ).古代イスラエル人と現代イスラエル人の違い(こだい いすらえるじんと げんだい いすらえるじんの ちがい)は,いつの時代(じだい),どの人種(じんしゅ)にも神を愛する者(かみを あいする もの)と神に反旗を翻す者(かみに はんきを ひるがえす もの)がいた違いと同じ(ちがいと おなじ)ことです.真の「ユダヤ‐キリスト教徒」の 系列( “Judeo-Christian” )(まことの 「ゆだや‐きりすと きょうと」の けいれつ)はアベル “Abel” に始まり,たとえば,アブラハム “Abraham”,モーゼ “Moses”,ダビド “David”,神の御母(=聖母マリア) “the Mother of God” を経て(あべるに はじまり,たとえば,あぶらはむ,もーぜ,だびど,かみのおんはは〈=せいぼ まりあ〉を へて)カトリック教会に( “to the Catholic Church” )繋がって(かとりっく きょうかいに つながって)います( "The true “Judeo-Christian” line stretches from Abel through, for instance, Abraham, Moses, David and the Mother of God to the Catholic Church." ).偽り(いつわり)の「ユダヤ‐キリスト教徒」で真の「ユダヤ‐メーソン会員」の系列(いつわりの ゆだや‐きりすと きょうとで まことの「ゆだや‐めーそん かいいん」の けいれつ)( “Judeo-Masonic” )は咎められたカインに始まり,たとえば,神の預言者の殺害者アンナ “Anas”,カヤファ “Caiphas” を経て(とがめられた かいん に はじまり,たとえば,かみの よげんしゃの さつがいしゃ あんな,かやふぁを へて)近代のフリーメーソン組織( “to modern Freemasonry” )に繋がって(きんだいの ふりーめーそん そしきに つながって)います( "The false “Judeo-Christian” but true “Judeo-Masonic” line stretches from the accursed Cain through, for instance, the killers of God's prophets to Anas and Caiphas to modern Freemasonry, …" ).この組織(そしき)はユダヤ人が創り出した(ゆだやじんが つくり だした)もので,多くの会員は知らない(おおくの かいいんは しらない)でしょうが,いまだにカトリック教と戦う目的(かとりっくきょうと たたかう もくてき)でユダヤ人によって支配され(ゆだやじんに よって しはい され)ています( "… which was created by Jews and is still controlled by them for purposes of fighting the Catholic Church, even if many Masons are ignorant of the fact." ).
ここまでは良い(よい)として,古代イスラエル人と現代イスラエル人の落差はとくに際立って(こだい いすらえるじんと げんだい いすらえるじんの らくさは とくに きわだって)いるのではないでしょうか?( "Well and good, but is not the contrast between Israelites and Israelis especially sharp ? " ) 確かにその通り(たしかに そのとおり)です.それはなぜかと言(い)えば,古い(ふるい)ことわざの通(とお)り「高ければ高いほど,ひどく落ちる(たかければ たかいほど, ひどく おちる)」( “The higher they are, the harder they fall” )ということでしょう( "Yes, because as the old saying goes, “The higher they are, the harder they fall.” " ).選民(せんみん)は神の特別の僕となることを拒み(かみの とくべつの しもべと なることを こばみ)( "Once the Chosen People refused to be the special servants of God, …" ),(神の御独り子〈かみのおんひとりご〉の)御託身(ごたくしん) “the Incarnation” いらいおおむねそうし続(つづ)けてきました( "… as they have largely done from the Incarnation onwards, …" ).それにより彼(かれ)らは悪魔の特別の僕となる運命(あくまの とくべつの しもべとなる うんめい)となったのです( "… they were bound to become the special servants of the Devil." ).彼らにとって,その中間の選択(ちゅうかんの せんたく)などありえませんでした( "For them there could be nothing in between." ).彼(かれ)らが神の僕となるのを拒んだ背景(かみの しもべと なるのを こばんだ はいけい)に何(なに)があったのでしょうか?( "And what was behind that refusal ? " )一言で言えば,自尊心(ひとことで いえば,じそんしん)( “pride” )です( "In one word, pride." ).彼らは神の特別の贈り物(かみの とくべつの おくりもの)を神の御光栄のために使わず(かみの ごこうえいの ために つかわず),その代わり(かわり)に( "Instead of using God's special gifts to them for his glory, …" )自分たちの光栄(じぶんたちの こうえい)のために(=自分たち自身の光栄となるよう〈じぶんたちじしんの こうえいと なるよう〉)転用(てんよう)しました( "… they bent them to their own glory." ).救世主がこの世に来られる前(きゅうせいしゅが このよに こられる まえ),彼らはやがて現(あらわ)れるのは精神的でなく物質的な救世主(せいしんてき でなく ぶっしつてきな きゅうせいしゅ)だと思い違い(おもいちがい)(=誤解・見当違い〈ごかい・けんとうちがい〉)をしました( "Before their Messiah came, they misconceived him as their material instead of spiritual saviour, …" ).そのため,彼らは救世主が現れると,その受け入れを拒み(うけいれを こばみ)ました( "… so that when he came they refused to recognize him, …" ).それ以来(いらい),彼らは神(かみ)が民族固有のモーゼの宗教(みんぞく こゆうの もーぜの しゅうきょう)をあらゆる民族に開かれた包括的なカトリック教に置き換えた(あらゆる みんぞくに ひらかれた ほうかつ てきな かとりっく きょうに おきかえた)として神と戦って(かみと たたかって)きました( "… and from then on they fought him for having replaced their racially exclusive Mosaic religion with the racially all-inclusive Catholic religion, open to all races." ).
では,諸々のカトリック信徒たち(もろもろの かとりっく しんと たち)は,私たちの周り(わたくしたちの まわり)にいるかつての選民(せんみん)たちの圧倒的な物質的優性(=優位性)に対抗(あっとうてきな ぶつりてき ゆうせい〈ゆうい せい〉に たいこう)するには何ができるでしょうか?( "And what can Catholics do to resist the overwhelming material dominance of the once Chosen Ones all around us ? " ) 物質的にできることは皆無(かいむ)に等(ひと)しいでしょう( "Materially, next to nothing, …" ).だが,一人ひとりの霊魂(ひとり ひとりの れいこん)が心の中で誠意を込めて(こころの なかで せいいを こめて)神の王国の来るよう神の御心(=御旨)の為されるよう祈る(かみの おうこくの きたる よう かみの みこころ〈=みむね〉の なされるよう いのる)ならば( "… but a single soul praying spiritually and sincerely for God's kingdom to come and for his will to be done,…" ),物理的な山を動かしていただけるよう神を説得(ぶつりてきな やまを うごかして いただけるよう かみを せっとく)できるでしょう( "… can prevail on God to move material mountains, …" ).これは神にとって簡単(かみに とって かんたん)なこと( “child’s play” )です( "… child's play for God." ).神が彼らの物質的優性を許して(かみが かれらの ぶっしつてき ゆうせいを ゆるして)おられるのは,私たちを神のもとに戻す目的(わたくしたちを かみの もとに もどす もくてき)のためだけです( "He only allows that dominance in order to drive us back to him." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
訳注を追補いたします.
* * *
(注:本投稿記事〈第369回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月07日23:30に公開されました.)
2012年6月18日月曜日
257 今日のガラツィア人たち 6/16
エレイソン・コメンツ 第257回 (2012年6月16日)
「ああ、愚(おろ)かなガラツィア人,」(ガラツィアの信徒への書簡〈しょかん〉:第3章1節).使徒聖パウロは愛するキリスト信者たちの群れの一人を叱(しか)り飛ばしながら叫(さけ)びます ( “…cries out St Paul (Gal.III, 1), tearing a strip off one of his beloved flocks.” ).その信者は後退,つまりキリスト信者たちを再び「世の要素の下に」(同:第4章3節)仕えさせるべくユダヤ教徒化しようとする人たちを満足させるため新約から旧約の時代へ逆戻(ぎゃくもど)りしようと望んだのでした( “…that was back-sliding, or wanting to go back from the New Testament to the Old Testament so as to satisfy Judaizers that would make them serve again “under the elements of the world” (IV, 3).” ).この使徒パウロの長くて厳しい非難演説を,いま第二バチカン公会議の公文書「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」 “Nostra Aetate” をかなえるため公会議主義権威者の支配下に逆戻りする誘惑にかられている伝統派カトリック教徒たち( “…to the Traditional Catholics who are presently being tempted to slide back under Conciliar authorities…” )に当てはめるのは極(きわ)めて容易(ようい)なことです.だがその結果,そこにあるのは聖パウロが(ガラツィア人への書簡の中で)叱責・非難の対象とした世,肉,悪霊( “…world, flesh and devil,…” )と同じものです.それで,聖パウロには申し訳ありませんが,この書簡からいくつかの部分を引用させていただき私たちの時代(現代)に当てはめてみます:--
「ああ、愚かな伝統派カトリック信徒たち “Tradcats ” ! (訳注・十字架につけられた者としての)私たちの主イエズス・キリストの伝統が目の前に描かれた(=示されている)のに,それに従うべきでないと,だれがあなたたちを(訳注・真実でない偽〈いつわ〉りで)魅惑(みわく)したのか( “Who has bewitched you,…” )? あなたたちはだれに惑(まど)わされたのか? 私はあなたたちから次のことだけを聞きたい.あなたたちがカトリック信徒としての人生を数年にわたり送ってきたのは第二バチカン公会議のおかげか,それともカトリック教の伝統( “Catholic Tradition ” )のおかげか? あなたたちはそれほど愚か者か? カトリック伝統の諸々の果実を味わったから,今度は公会議権威者の支配下に戻って伝統を見限(みかぎ)ろうとするのか( “Are you so foolish that having experienced the fruits of Tradition you now want to give it up by putting yourselves back under the Conciliar authorities? ” )? それらの果実(を味わった経験)はすべて無駄(むだ)だったのか?(第3章1-4節)( “Were all those fruits in vain (III, 1-4) ? ” )
キリストの恩寵(おんちょう)のうちにあなたたちを召されたルフェーブル大司教の路線から( “…from the line of Archbishop Lefebvre who called you into the grace of Christ ” )あなたたちがこれほど早く漂(ただよ)い離れて( “drifting away ” ),代わりに第二バチカン公会議の新しい福音( “the new gospel of Vatican II ” )に向かおうとしていることに私は驚いて( “astonished ”,=唖然〈あぜん〉として)いる.それはとても福音というべきものではない.それどころか,(訳注・その新しい福音を信奉(しんぽう)する)モダニスト(現代主義者)たちがあなたたちを惑わし,キリストの福音を変えようとしている( “…these modernists are troubling you, and they want to pervert the Gospel of Christ.” ).だがもし私たち自身であるにせよ,天からの天使であるにせよ,公会議はさほど悪いというわけではないとあなたたちに話す者があれば,その者を即刻(そっこく)その場で追い出し彼の言うことを聞いてはならない!( “But if ourselves or an angel from Heaven were to try to tell you that the Council was not really that bad, throw him out and don’t listen ! ” )(訳注・ “throw him out ”. =彼をその場で直〈す〉ぐに追い出す.直〈ただ〉ちに,即座〈そくざ〉に,の意味を言外〈げんがい〉に含んでいる.)わたしは前に言ったことを今また繰り返す.ルフェーブル大司教が公会議主義下のローマ教皇庁と(聖ピオ十世会と)の間で今日(=現在)交わされている取り決め(協定,契約,取引)( “a deal today with Conciliar Rome ”,)に賛成されただろうなどという偽(いつわ)りのうわべを,さもありそうなふりをして見せかけている者がいればその者は即刻その場で追い出されるべきである!( “…anyone pretending that the Archbishop would have been in favour of a deal today with Conciliar Rome should be thrown out ! ” ) 私たちは誰の利益を求めているのか? 私たちはメディア(マスコミ)に取り入ろうと努めているのか,それとも神のお気に召そう(=神のみ旨〈むね〉を求めよう)とするのか? もし私がメディアのお気に入りなら,私はもはやキリストの奴隷ではない!(第1章6-10節)( “Whose interests are we seeking ? Are we trying to please the media or to please God ? If the media liked me, I would be no servant of Christ ! (I, 6-10) ” ).
かつて,あなたたちがカトリック教信仰の伝統派へ来る前( “Before you came to Tradition,” ),あなたたちは教会を世に引き渡そうとする(“…were turning the Church over to the world ”)教会聖職者たちの奴隷(どれい)であった.だが今,カトリック教の伝統を見いだした後で,あなたたちはどうして公会議権威者の下で世に戻ろうと望むことができるのか?(第3章8,9節)( “…But now, after you found Tradition, how can you be wanting to go back with the world, under the Conciliar authorities (IV, 8,9) ? ” ) 私が真実を語るゆえに聖ピオ十世会の敵になったのか(“Am I become an enemy of the SSPX because I tell the truth ? ”)? あなたたちを惑わしている人々はあたかもあなたたちの利益に気を配っているかのように装(よそお)っているが,その者たちはあなたたちがルフェーブル大司教のことを忘れ彼らの利益に役立つ者となって欲しいのだ(第4章・16,17節)(“Those misleading you pretend to be looking after your interests, but they want you to forget about the Archbishop so as to serve their own interests (IV, 16,17).”)しっかりと立って,二度と公会議の支配下に入るな(第5章・1節)( “Stand fast, and do not come under the sway of the Council again (V, 1).” ).あなたたちは前はよくやっていた.どうしてあなたたちは今さら(訳注・真の神の教えたる)カトリック教の真理に背を向けよう(=背(そむ)こう)とし得るのか? あなたたちを真理に背(そむ)かせようとしている者はだれでも決して神のしもべではない!( “Whoever is doing this to you is no servant of God ! ” ) 私はあなたたちが迷(まよ)いから覚(さ)めて本心に立ち返るようになると信じている.だが,あなたたちを惑わす者は誰でも重大な責任を負う( “I do believe you will come to your senses, but whoever is misleading you bears a grave responsibility.” ).あなたたちは,もし私が世を宣教していたらこれほどの迫害を受けたと思うか( “Do you think I would be so persecuted if I was preaching the world ? ” )? カトリック教の伝統を堕落(だらく)させている者は誰でも割礼(かつれい)以上の傷(きず)をつけるナイフを必要とする!(第5章7-12節)( “Whoever is corrupting Tradition needs the knife for more than just circumcision (V, 7-12) ! ” )
聖ピオ十世会が第二バチカン公会議を体験するよう望む人たちは単にキリストの十字架のために迫害されることを避けようとしているにすぎない( “Those wanting the SSPX to go through Vatican II B are merely trying to avoid being persecuted for the Cross of Christ.” ).彼らはあなたたちに,表向きはカトリック伝統の見かけを保(たも)つだけで世俗的でいてほしいのだ( “They want you to be worldly, keeping only the outward appearances of Tradition.” ).彼らはローマのユダヤ教徒化しようとする人たちのもとへ戻りたいのだ( “They want back in with the Judaizers in Rome,…” ).だが神は私たちの主イエズス・キリストの十字架,すなわち,それによって世は私にとって十字架につけられたものとなり,そして私は世にとって十字架につけられたものとされた,その十字架以外のいかなるものをも私が望むことを禁じられる( “…but God forbid that I should want anything other than the Cross of Our Lord Jesus Christ, by whom the world is crucified to me and I to the world.” ).このようにしてカトリック教の伝統に従って歩む人たちすべての上に(神の)平和が,またあわれみがあるように(第6章・12-16節)( “Whoever follows Tradition in this way, peace be to them, and mercy (VI, 12-16).” ).」
それでは聖パウロ自身の書簡をお読みください.どなたも神のみことばはもはや通用(つうよう)しないなどと取り繕(とりつくろ)って自分を偽(いつわ)ることのないように!( “Let nobody pretend that the Word of God no longer applies !” )
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
* * *
しかし,律法の行いだけを支持する人々はのろいのもとにいる.「*²律法の書に書き記されているすべてのことを行い続けぬ者はのろわれよ」と書かれているからである.
だれも律法によって神のみ前に義とされないことは明らかである,「*³義人は信仰によって生きる」からである.
律法は信仰に基づくものではなく,かえって行いに基づく.「*⁴おきてを行う者はそれによって生きる」とあるからである.
キリストは私たちのためにのろわれた者となって,*⁵律法ののろいから私たちをあがなわれた.「*⁶木にかけられた者はのろわれよ」と書かれているからである.
兄弟たちよ,私は人間的な言い方で話そうとしている.人の遺言が公正であればだれもそれを無効にしないし,何一つそれに加えることもできない.
さて約束はアブラハムとその子孫にされたものである.聖書は複数として「子孫たちに」と言わず,単数の形で「子孫に」と言っている.この子孫はキリストである.
だから私はこう言う.神があらかじめ定められた遺言は四百三十年後にできた律法によって廃止されず,約束も無効になることはない.
もし遺産が律法によるのなら,約束によるものではない.しかし*⁹神がアブラハムを嘉(よみ)されたのは約束によってであった.』
(注釈)
信者のみアブラハムの子である(3・7-18)
*¹ 〈旧約〉創世の書12・3,18・18参照.
*²〈旧約〉第二法の書27・27・26.律法のおきてを全部守ることはほとんど不可能なことだった.
*³〈旧約〉ハバククの書2・4参照.
*⁴ 〈旧約〉レビの書18・5参照.
*⁵ 律法の違反と,律法がその機会となる罪のためののろい(10節).
*⁶ 第二法の書21・23参照.
*⁷ 先の節の思想を要約し,補(おぎな)っている.異邦人はキリストによってアブラハムの祝福を受ける.(〈新約〉エフェゾ人への手紙2・14以下).キリストは人間を律法ののろいから(13節)あがなったからである.
*⁸ 原文は「霊の約束」.
*⁹ アブラハムに約束された遺産を受けるために,モーゼの律法を守る必要はない.
* * *
律法には期限がある
『ではなぜ律法があるのか.それは,*¹違反のあるがために加えられたもので,約束された子孫が来られる時までのものであり,天使たちによって,*²仲立ちの手をとおして布告された.*³片一方だけの場合には仲立ちというものはありえない.そして神は唯一である.
*⁴それなら律法は神の約束にもとるものか.けっしてそうではない.命を与える律法が出されたとすれば,実に義とされるのは律法によってであろう.
しかし聖書はすべての者を*⁵罪の下に閉じこめた.
それは,信仰をもつ人たちがイエズス・キリストへの信仰によって,約束の恵みを受けるためであった.
信仰の時代が来るまで,私たちはやがて来るはずの信仰を期待しつつ,律法に守られてその囚人であった.こうして律法は信仰によって義とするために,私たちをキリストに導く*⁶守役(もりやく)となった.
*⁷しかし信仰が来れば,私たちはもはや守役の下にはいない.
あなたたちはみなキリスト・イエズスへの信仰によって神の子である.キリストの洗礼を受けたあなたたちはみな,キリストを着たからである.
もう,ユダヤ人もギリシア人もなく,奴隷も自由民もなく,男も女もない.みなキリスト・イエズスにおいて一つだからである.
あなたたちがもしキリストの者であれば,アブラハムの子孫であって約束の世継ぎである.』
(注釈)
律法には期限がある(3・19-29)
*¹ ローマ5・20参照.
*² モーゼのこと.
*³ 約束されたのは神だけであるから,仲立ちはいらない.
*⁴ 律法は罪がどこにあるかを知らせる(19節)が,命を与えるものではない.すなわち,罪を避ける力を与えてくれないからである.
*⁵ 律法には罪を避けさせる力がない.
*⁶ ギリシア語の「パイダゴゴス」で,元の意は主人の子を学校に連れていく奴隷であった.
*⁷ 25-26節 信仰が来て律法は終わり,守役は暇(ひま)を出された.アブラハムの子孫であるかどうかは,別問題とされ,信仰によってみなが神の子となった(28,29節).
あなたたちが神の子である証拠は,「*²アッバ,父よ」と叫(さけ)ぶ*³み子の霊を,神が私たちの心に遣わされたことである.だから,もはやあなたは奴隷ではなく子である.子であればまた神によって世継ぎである.
かつて,あなたたちは神を知らず,*⁴本質として神でないものの奴隷であった.今あなたたちは神を知った.いやむしろ神に知られる者となったのに,どうしてまた,*⁵弱い不完全な要素にもどってその奴隷になろうとするのか(4・8-9).あなたたちは日と月と季節と年をこまかく守っている.私はあなたたちのために,無益に苦労したのではないかと恐れる.』
*⁶ご存じのように初めてあなたたちに福音をのべる機会になったのは,私の体の病であった.あなたたちにとって試練であった私の*⁷この体の病気に,あなたたちは軽蔑(けいべつ)も嫌悪(けんお)も見せず,かえって私を神の天使のように,キリスト・イエズスのように迎(むか)えてくれた.その時のあなたたちの喜(よろこ)びはどうなったのか.あなたたちができれば自分の目をえぐって私に与えようとまで思っていたことを*⁸私は忘れていない.
よいことの場合,人から愛情を向けられるのは常によいことである.だが私がともにいるときだけではなく常にそうでなければならない.小さな子らよ,あなたたちのうちにキリストが形づくられるまで,私はまた生みの苦しみを受ける.私は今どんなにあなたたちの側(そば)にいたいことだろう.あなたたちに対してどうすればよいかに迷っている.私はどんなに自分の*⁹声音(こわね)を変えたいことだろう.』
*²〈新約〉ローマ人への手紙8・15.アラマイ語の「父」.
*³ 聖霊はみ子から発出するという教理の根拠になる.
*⁴ 異教徒の神々を指す(〈新約〉コリント人への手紙〈第一〉8・4).
*⁵ パウロはユダヤ教の改宗者を椙手にしているので,世の要素とは天体運行によって定められた安息日,断食,祝日などのユダヤ年中行事の意味らしい.
*⁷ この体の病気のことは,コリント〈第二〉12・7に出ている病気とは別である.コリント人への手紙の場合は,隠(かく)れた病気であるが,ここの場合は,だれの目にも見える外の病気だった.
*⁸ 原文,「私はあなたたちに証明する」.
*⁹ 厳しい口調(3・1)ではなく,優しいことばで彼らを納得させたい.
* * *
聖書には何と言われているか.「*⁶奴隷女とその子を追い出せ.奴隷女の子は自由民の女の子とともに遺産を受けられぬ」とある.
*² 写本が不ぞろいなので,読み方は一致しない.「シナイの山はアラビアにあって……」という写本もある.
*³ 軍隊用語で縦列のこと.
*⁴〈旧約〉イザヤの書54・1参照.
*⁵ イスマエルがイサクを迫害したこと(〈旧約〉創世の書21・9).
*⁶ 創世の書21・10参照.
愛の実践『兄弟たちよ,もしある人に過失があったら,*¹霊の人であるあなたたちは柔和な心をもってその人を改(あらた)めさせよ.そして,自分も誘(さそ)われぬように気をつけよ.
*³みことばを教えてもらう人は,教えてくれる人に自分の持ち物を分け与えよ.
*² 他人の欠点と自分の行いを比べて,誇りたくなる時がある.しかし非難(ひなん)するのは,自分のことだけでなければならない.パウロのこのことばは皮肉であって,真実に自分をかえりみる人は,自分を誇る理由を見つけるはずがない.
*³ 信徒は宣教師の生活を保証せねばならない.
* * *
「ああ、愚(おろ)かなガラツィア人,」(ガラツィアの信徒への書簡〈しょかん〉:第3章1節).使徒聖パウロは愛するキリスト信者たちの群れの一人を叱(しか)り飛ばしながら叫(さけ)びます ( “…cries out St Paul (Gal.III, 1), tearing a strip off one of his beloved flocks.” ).その信者は後退,つまりキリスト信者たちを再び「世の要素の下に」(同:第4章3節)仕えさせるべくユダヤ教徒化しようとする人たちを満足させるため新約から旧約の時代へ逆戻(ぎゃくもど)りしようと望んだのでした( “…that was back-sliding, or wanting to go back from the New Testament to the Old Testament so as to satisfy Judaizers that would make them serve again “under the elements of the world” (IV, 3).” ).この使徒パウロの長くて厳しい非難演説を,いま第二バチカン公会議の公文書「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」 “Nostra Aetate” をかなえるため公会議主義権威者の支配下に逆戻りする誘惑にかられている伝統派カトリック教徒たち( “…to the Traditional Catholics who are presently being tempted to slide back under Conciliar authorities…” )に当てはめるのは極(きわ)めて容易(ようい)なことです.だがその結果,そこにあるのは聖パウロが(ガラツィア人への書簡の中で)叱責・非難の対象とした世,肉,悪霊( “…world, flesh and devil,…” )と同じものです.それで,聖パウロには申し訳ありませんが,この書簡からいくつかの部分を引用させていただき私たちの時代(現代)に当てはめてみます:--
「ああ、愚かな伝統派カトリック信徒たち “Tradcats ” ! (訳注・十字架につけられた者としての)私たちの主イエズス・キリストの伝統が目の前に描かれた(=示されている)のに,それに従うべきでないと,だれがあなたたちを(訳注・真実でない偽〈いつわ〉りで)魅惑(みわく)したのか( “Who has bewitched you,…” )? あなたたちはだれに惑(まど)わされたのか? 私はあなたたちから次のことだけを聞きたい.あなたたちがカトリック信徒としての人生を数年にわたり送ってきたのは第二バチカン公会議のおかげか,それともカトリック教の伝統( “Catholic Tradition ” )のおかげか? あなたたちはそれほど愚か者か? カトリック伝統の諸々の果実を味わったから,今度は公会議権威者の支配下に戻って伝統を見限(みかぎ)ろうとするのか( “Are you so foolish that having experienced the fruits of Tradition you now want to give it up by putting yourselves back under the Conciliar authorities? ” )? それらの果実(を味わった経験)はすべて無駄(むだ)だったのか?(第3章1-4節)( “Were all those fruits in vain (III, 1-4) ? ” )
キリストの恩寵(おんちょう)のうちにあなたたちを召されたルフェーブル大司教の路線から( “…from the line of Archbishop Lefebvre who called you into the grace of Christ ” )あなたたちがこれほど早く漂(ただよ)い離れて( “drifting away ” ),代わりに第二バチカン公会議の新しい福音( “the new gospel of Vatican II ” )に向かおうとしていることに私は驚いて( “astonished ”,=唖然〈あぜん〉として)いる.それはとても福音というべきものではない.それどころか,(訳注・その新しい福音を信奉(しんぽう)する)モダニスト(現代主義者)たちがあなたたちを惑わし,キリストの福音を変えようとしている( “…these modernists are troubling you, and they want to pervert the Gospel of Christ.” ).だがもし私たち自身であるにせよ,天からの天使であるにせよ,公会議はさほど悪いというわけではないとあなたたちに話す者があれば,その者を即刻(そっこく)その場で追い出し彼の言うことを聞いてはならない!( “But if ourselves or an angel from Heaven were to try to tell you that the Council was not really that bad, throw him out and don’t listen ! ” )(訳注・ “throw him out ”. =彼をその場で直〈す〉ぐに追い出す.直〈ただ〉ちに,即座〈そくざ〉に,の意味を言外〈げんがい〉に含んでいる.)わたしは前に言ったことを今また繰り返す.ルフェーブル大司教が公会議主義下のローマ教皇庁と(聖ピオ十世会と)の間で今日(=現在)交わされている取り決め(協定,契約,取引)( “a deal today with Conciliar Rome ”,)に賛成されただろうなどという偽(いつわ)りのうわべを,さもありそうなふりをして見せかけている者がいればその者は即刻その場で追い出されるべきである!( “…anyone pretending that the Archbishop would have been in favour of a deal today with Conciliar Rome should be thrown out ! ” ) 私たちは誰の利益を求めているのか? 私たちはメディア(マスコミ)に取り入ろうと努めているのか,それとも神のお気に召そう(=神のみ旨〈むね〉を求めよう)とするのか? もし私がメディアのお気に入りなら,私はもはやキリストの奴隷ではない!(第1章6-10節)( “Whose interests are we seeking ? Are we trying to please the media or to please God ? If the media liked me, I would be no servant of Christ ! (I, 6-10) ” ).
かつて,あなたたちがカトリック教信仰の伝統派へ来る前( “Before you came to Tradition,” ),あなたたちは教会を世に引き渡そうとする(“…were turning the Church over to the world ”)教会聖職者たちの奴隷(どれい)であった.だが今,カトリック教の伝統を見いだした後で,あなたたちはどうして公会議権威者の下で世に戻ろうと望むことができるのか?(第3章8,9節)( “…But now, after you found Tradition, how can you be wanting to go back with the world, under the Conciliar authorities (IV, 8,9) ? ” ) 私が真実を語るゆえに聖ピオ十世会の敵になったのか(“Am I become an enemy of the SSPX because I tell the truth ? ”)? あなたたちを惑わしている人々はあたかもあなたたちの利益に気を配っているかのように装(よそお)っているが,その者たちはあなたたちがルフェーブル大司教のことを忘れ彼らの利益に役立つ者となって欲しいのだ(第4章・16,17節)(“Those misleading you pretend to be looking after your interests, but they want you to forget about the Archbishop so as to serve their own interests (IV, 16,17).”)しっかりと立って,二度と公会議の支配下に入るな(第5章・1節)( “Stand fast, and do not come under the sway of the Council again (V, 1).” ).あなたたちは前はよくやっていた.どうしてあなたたちは今さら(訳注・真の神の教えたる)カトリック教の真理に背を向けよう(=背(そむ)こう)とし得るのか? あなたたちを真理に背(そむ)かせようとしている者はだれでも決して神のしもべではない!( “Whoever is doing this to you is no servant of God ! ” ) 私はあなたたちが迷(まよ)いから覚(さ)めて本心に立ち返るようになると信じている.だが,あなたたちを惑わす者は誰でも重大な責任を負う( “I do believe you will come to your senses, but whoever is misleading you bears a grave responsibility.” ).あなたたちは,もし私が世を宣教していたらこれほどの迫害を受けたと思うか( “Do you think I would be so persecuted if I was preaching the world ? ” )? カトリック教の伝統を堕落(だらく)させている者は誰でも割礼(かつれい)以上の傷(きず)をつけるナイフを必要とする!(第5章7-12節)( “Whoever is corrupting Tradition needs the knife for more than just circumcision (V, 7-12) ! ” )
聖ピオ十世会が第二バチカン公会議を体験するよう望む人たちは単にキリストの十字架のために迫害されることを避けようとしているにすぎない( “Those wanting the SSPX to go through Vatican II B are merely trying to avoid being persecuted for the Cross of Christ.” ).彼らはあなたたちに,表向きはカトリック伝統の見かけを保(たも)つだけで世俗的でいてほしいのだ( “They want you to be worldly, keeping only the outward appearances of Tradition.” ).彼らはローマのユダヤ教徒化しようとする人たちのもとへ戻りたいのだ( “They want back in with the Judaizers in Rome,…” ).だが神は私たちの主イエズス・キリストの十字架,すなわち,それによって世は私にとって十字架につけられたものとなり,そして私は世にとって十字架につけられたものとされた,その十字架以外のいかなるものをも私が望むことを禁じられる( “…but God forbid that I should want anything other than the Cross of Our Lord Jesus Christ, by whom the world is crucified to me and I to the world.” ).このようにしてカトリック教の伝統に従って歩む人たちすべての上に(神の)平和が,またあわれみがあるように(第6章・12-16節)( “Whoever follows Tradition in this way, peace be to them, and mercy (VI, 12-16).” ).」
それでは聖パウロ自身の書簡をお読みください.どなたも神のみことばはもはや通用(つうよう)しないなどと取り繕(とりつくろ)って自分を偽(いつわ)ることのないように!( “Let nobody pretend that the Word of God no longer applies !” )
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
訳注:
新約聖書・「(使徒)聖パウロによるガラツィアの信徒への書簡」を全文掲載.
(「エレイソン・コメンツ 第257回」の本文中で引用されている聖書の箇所は太字で示されています.)
新約聖書 ・ ガラツィア人への手紙 : 全章(1-6章)
新約聖書・「(使徒)聖パウロによるガラツィアの信徒への書簡」を全文掲載.
(「エレイソン・コメンツ 第257回」の本文中で引用されている聖書の箇所は太字で示されています.)
新約聖書 ・ ガラツィア人への手紙 : 全章(1-6章)
EPISTLE OF ST. PAUL TO THE GALATIANS : CHAPTERS I - VI.
The Galatians, soon after ST. PAUL had preached the Gospel to them, were seduced be some false teachers, who had been Jews, and who were for obliging all Christians, even those who had been Gentiles, to observe circumcision and the other ceremonies of the Mosaical law.
In this Epistle, he refutes the pernicious doctrine of those teachers, and also their calumny against his mission and apostleship. The subject matter of this Epistle is much the same as in that to the Romans.
It was written at Ephesus about twenty-three years after our Lord's Ascension.
* * *
第1章
あいさつ
『人間からではなく,人間によるのでもなく,イエズス・キリストとキリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって使徒に選ばれたパウロ,および私とともにいるすべての兄弟は,*¹ガラツィアの諸教会に手紙を送る.
私たちの父なる神および主イエズス・キリストから,あなたたちに恩寵と平和があるように.主は,私たちの神であり父である方のみ旨によって,私たちをこの悪の世から救い出すために,私たちの罪のためにご自分を与えられた.
神に代々に光栄がありますように.アメン.』
『人間からではなく,人間によるのでもなく,イエズス・キリストとキリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって使徒に選ばれたパウロ,および私とともにいるすべての兄弟は,*¹ガラツィアの諸教会に手紙を送る.
私たちの父なる神および主イエズス・キリストから,あなたたちに恩寵と平和があるように.主は,私たちの神であり父である方のみ旨によって,私たちをこの悪の世から救い出すために,私たちの罪のためにご自分を与えられた.
神に代々に光栄がありますように.アメン.』
(注釈)
あいさつ(1・1-5)
*¹ ガラツィアは小アジアの中央にある.
* * *
福音は一つである
『キリストの恩寵によって召されたあなたたちが,これほど早く*²その御者を離れてほかの福音に移ったことに,私は驚いている.
それは福音というべきものではない.*³ある人々があなたたちを惑わし,キリストの福音を変えようとしている.
私たち自身であるにせよ,天からの天使であるにせよ,私たちがあなたたちに伝えたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ.私は前に言ったことを今また繰り返す.あなたたちが受けたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ.
私はいま*⁴人の賛成を求めようとするのか.それとも神のみ旨を求めようとするのか.あるいは人に取り入ろうと努めているのか.私が*⁵今も人に取り入ろうとしているのなら,私はキリストの奴隷ではない.』
(注釈)
福音は一つである(1・6-10)
*² 神のこと.
*³ ユダヤ教から改心した偽宣教者は,パウロの言う信仰が足りないので割礼とモーゼの律法が必要だととなえていた.
*⁴ パウロはティモテオに割礼を受けさせ,一方ティトには割礼を禁じたので、便宜主義者だと言われた.
*⁵ 改心前にパウロがユダヤ教を宣教していた時と同じように,「今も」という意味である.
* * *
パウロの使命はキリストからのもの
『兄弟たちよ,私は宣言する.私の告げた福音は人間によるものではない.また,人間から受けたものでも教えられたものでもなく,イエズス・キリストの*⁶啓示によるものである.
前にユダヤ教にいた時の私の行動を,あなたたちはすでに聞いている.私がきわめて激しく神の教会を迫害し,荒らしていたことを.私は先祖の伝えに対して非常に熱心で,同族の同年輩の多くの人々よりもユダヤ教の教えに進んでいた.
けれども母の胎内から私を選び分け,その恩罷によって私を召されたお方が,異邦人にのべ伝えるために,私のうちにみ子を啓示しようと思召(おぼしめ)したとき,直(ただ)ちに私は*⁷血肉(けつにく)に諮(はか)らず,私より先に使徒となった人々に会うためにエルサレムにも上らず,アラビアに退(しりぞ)いて,そこからふたたびダマスコに帰った.
それから三年経(た)って,私はケファ(=ペトロ)の様子を*⁸知るためにエルサレムに上り,十五日間彼とともにとどまったが,*⁹主の兄弟ヤコボのほかにはどの使徒にも会わなかった.*¹⁰神に誓(ちか)って言うが,私があなたたちに書くことにはうそ偽(いつわ)りはない.その後シリアとキリキアの地方に行った.
ユダヤにおけるキリストの諸教会では私の顔は知られていなかった.ただ,その諸教会の人々は,「前の迫害者が今は,以前荒らした信仰をのべ伝えている」と聞き,私のために神に光栄(こうえい)を帰(き)していた.』
(注釈)
パウロの使命はキリストからのもの(1・11-24)
*⁶ 使徒行録9・1-30参照.
*⁷ 人間の意見に左右されて行動したのではない(コリント〈第一〉15・50,エフェゾ6・12).
*⁸ ギリシア語の原意は「探(さぐ)る」である.
*⁹ コリント15・7参照.
*¹⁰ パウロがケファとの意見の一致を,重視していたことを表す.
* * *
第2章
他の使徒らとの一致
『それから十四年後,私はバルナバとともにまたエルサレムに上り,一緒にティトも連れていった.私が上ったのは啓示を受けたからであった.私は異邦人の中でのべ伝える福音を*¹彼らに示し,*²著名(ちょめい)な人々にはひそかに告げた.それは私が無益(むえき)に走っているか,あるいは走ったのではないかを確かめるためであった.
私とともにいたティトは,ギリシア人であったのに割礼を強いられなかった.そこには,私たちを奴隷(どれい)にしようとし,そしてキリスト・イエズスによって有する私たちの自由を探(さぐ)るために忍びこんだ*³邪魔者の偽兄弟があったので割礼について話し合った.ともあれ,*⁴真(まこと)の福音をあなたたちの中に保つために,私たちはいっときも彼らに譲(ゆず)らなかった.しかし,*⁵その著名な人々――*⁶彼らがどんな人であったにしろ,私にはかかわりがない.神は人について偏(かたよ)られることがない――から私は何も強制されなかった.
むしろ,割礼を受けた人々への宣教をペトロにゆだねられたように,私には割礼を受けていない人々への宣教がゆだねられているのを知った.――割礼ある人の使徒としてペトロを強めたお方は,異邦人のために私をも強められたからである――.
なおまた*⁷柱(はしら)として著名なヤコボとケファ(=ペトロ)とヨハネは,私に与えられている恩寵を認め,*⁸一致のしるしとして私とバルナバの手を握(にぎ)った.それは私たちが異邦人のための使徒となり,彼らは割礼を受けた人々のための使徒となるためである.ただ彼らが貧しい人々を考えてくれと勧(すす)めたので,私もそれを心掛(こころが)けた.』
(注釈)
他の使徒らとの一致(2・1-10)
*¹ エルサレムではいろいろな集会が行われていた.パウロは,一般の信者,長老,使徒も含めて自分の宣教のあり方を述べ,のちに別に著名な人たちに話した.
*² 6,9節に出る教会の柱ペトロ,ヤコボ,ヨハネである.
*³ 割礼を要求していたユダヤ派のキリスト信者を指している(使徒行録15・5).
*⁴ 「福音の自由」という訳もある.
*⁵ 著名な人々は,割礼を課そうとする偽兄弟と明らかに対立している.
*⁶ 使徒らは無学な・貧しい漁師であったが,それは問題ではない.
*⁷ ペトロたちは,教会という霊的な建物の柱として有名だった.
*⁸ 改宗した異邦人を律法に従わせないでもよいという意見の一致.
* * *
律法からの解放
『ところでケファがアンティオキアに来た時,私は面と向かって,彼に反対した.*⁹彼に非難するところがあったからである.
彼はある人々がヤコボのほうから来るまでは異邦人とともに食事していたのに,その人たちが来ると割礼を受けた人々をはばかって異邦人を避けたからである.他のユダヤ人も彼にならって真実を偽(いつわ)る態度をとり,バルナバもその偽りに誘われたほどであった.
私は彼らが福音の真理に従って正しく歩んでいないのを見て,みなの前でケファに言った,「あなたはユダヤ人であるのにユダヤ人のようにせず,*¹⁰異邦人のように生活している.それならどうして異邦人にユダヤ人のようにせよと強いるのか」.
私たちは生まれながらのユダヤ人であって,罪人の異邦人ではないが,人間が義とされるのは律法の行いではなく,ただキリスト・イエズスへの信仰によることを知って,私たちもキリスト・イエズスを信じた.律法の行いではなく,キリストへの信仰によって義とされるためである.
生きる人はだれも律法の行いによって義とされない.私たちがキリストにおいて義とされることを望みながらまだ罪人であるなら,キリストは罪に仕える者であろうか.けっしてそうではない.私がもし*¹¹先に倒したものを再び建てるとすれば,私は違反者だと自白することである.
私は神に生きるために*¹²律法によって律法に死に,キリストとともに十字架につけられた.
私は生きているが,もう私ではなく,キリストが私のうちに生きたもうのである.
私は肉体をもって生きているが,私を愛し,私のためにご自身をわたされた神の子への信仰の中に生きている.
私は神の恩寵をむだにはしない.もし私たちが*¹³律法によって義とされるものなら,キリストの死は無益であった.』
(注釈)
律法からの解放(2・11-21)
*⁹ ペトロのこの態度は,原理の問題ではなく,ユダヤ人への遠慮のためだった.
ペトロのやり方は,それ自体理解できないことではなかった.
パウロも,ほかの時に,同じようにしたことがあった(使徒行録16・3,21・26,コリント〈第一〉8・13,ローマ14・21).
しかしこの場合,律法を守る改宗者のユダヤ人だけが,真のキリスト者であるかのように思わせる危険があった.
*¹⁰ ユダヤの律法のこまかいおきてを守らないで生活すること.
ペトロはカイザリアで百夫長のコルネリオ(使徒行録10・24以下)に対してそうした.
彼はその態度をエルサレムの信徒の前で弁明した.ペトロはこまかいおきてを守ることが,改心したユダヤ人にとって義務ではないにしろ,して悪いことではないと考えていた.
パウロもその意見だった.
*¹¹ 律法のおきてのこと.
*¹²「律法によって」の律法は,キリストのおきての意味にもとれる.
「キリストとその信仰によって義とされたいので,私は律法を捨て,モーゼの律法に死んだ」という意味.
*¹³ 律法に立ち返ることによって.
* * *
第3章
旧約はキリストへの新約によって実現される
『ああ,愚かなガラツィア人,イエズス・キリストは十字架につけられた者として目の前に描かれたのに,あなたたちはだれに惑わされたのか(3・1).私はあなたたちから次のことだけを聞きたい.あなたたちが*¹霊を受けたのは,律法の行いによるのか,それとも信仰を承知したからかと.あなたたちはそれほど愚か者か.
霊によって始まったのに,いま肉によって終わろうとするのか.あれほどの恵みを*²経験したのはむだだったのか.*³先に言ったことが本当ならむだなことだったろう(3・1-4).あなたたちに霊を与えられ,あなたたちの中で不思議な業(わざ)を行われたお方は,律法の行いのためか,それとも信仰を承知したためにそうなされたのか.
「*⁴アブラハムは神を信じた.それは彼の義とされた」と書き記されている.』
(注釈)
旧約はキリストへの新約によって実現される(3・1-6)
*¹ 聖霊のこと.
*²「苦しむ」の意味にもとれるが,「経験する」としたほうが正しい.ガラツィア人が受けた聖霊の賜(たまもの)を指す.
*³ ガラツィア人が律法の習慣に立ち返るなら,事実上,福音は彼らにとってむだなものである.パウロはそうならないようにと望んでいる.
*⁴ 創世の書15・6参照.
* * *
信者のみアブラハムの子である
『だから,信仰する者はアブラハムの子であることを理解せよ.
聖書は神が信仰によって異邦人を義とされることを予知し,あらかじめアブラハムによい便(たよ)りを告げ,「*¹あなたにおいてすべての民は祝福される」と言った.
したがって,信仰者のアブラハムとともに祝福されるのは,信仰をもつ人である.
旧約はキリストへの新約によって実現される
『ああ,愚かなガラツィア人,イエズス・キリストは十字架につけられた者として目の前に描かれたのに,あなたたちはだれに惑わされたのか(3・1).私はあなたたちから次のことだけを聞きたい.あなたたちが*¹霊を受けたのは,律法の行いによるのか,それとも信仰を承知したからかと.あなたたちはそれほど愚か者か.
霊によって始まったのに,いま肉によって終わろうとするのか.あれほどの恵みを*²経験したのはむだだったのか.*³先に言ったことが本当ならむだなことだったろう(3・1-4).あなたたちに霊を与えられ,あなたたちの中で不思議な業(わざ)を行われたお方は,律法の行いのためか,それとも信仰を承知したためにそうなされたのか.
「*⁴アブラハムは神を信じた.それは彼の義とされた」と書き記されている.』
(注釈)
旧約はキリストへの新約によって実現される(3・1-6)
*¹ 聖霊のこと.
*²「苦しむ」の意味にもとれるが,「経験する」としたほうが正しい.ガラツィア人が受けた聖霊の賜(たまもの)を指す.
*³ ガラツィア人が律法の習慣に立ち返るなら,事実上,福音は彼らにとってむだなものである.パウロはそうならないようにと望んでいる.
*⁴ 創世の書15・6参照.
* * *
信者のみアブラハムの子である
『だから,信仰する者はアブラハムの子であることを理解せよ.
聖書は神が信仰によって異邦人を義とされることを予知し,あらかじめアブラハムによい便(たよ)りを告げ,「*¹あなたにおいてすべての民は祝福される」と言った.
したがって,信仰者のアブラハムとともに祝福されるのは,信仰をもつ人である.
しかし,律法の行いだけを支持する人々はのろいのもとにいる.「*²律法の書に書き記されているすべてのことを行い続けぬ者はのろわれよ」と書かれているからである.
だれも律法によって神のみ前に義とされないことは明らかである,「*³義人は信仰によって生きる」からである.
律法は信仰に基づくものではなく,かえって行いに基づく.「*⁴おきてを行う者はそれによって生きる」とあるからである.
キリストは私たちのためにのろわれた者となって,*⁵律法ののろいから私たちをあがなわれた.「*⁶木にかけられた者はのろわれよ」と書かれているからである.
*⁷それはアブラハムに約束された祝福がイエズス・キリストによって異邦人に及ぶためであり,また信仰によって私たちに*⁸約束された霊を受けさせるためであった.
兄弟たちよ,私は人間的な言い方で話そうとしている.人の遺言が公正であればだれもそれを無効にしないし,何一つそれに加えることもできない.
さて約束はアブラハムとその子孫にされたものである.聖書は複数として「子孫たちに」と言わず,単数の形で「子孫に」と言っている.この子孫はキリストである.
だから私はこう言う.神があらかじめ定められた遺言は四百三十年後にできた律法によって廃止されず,約束も無効になることはない.
もし遺産が律法によるのなら,約束によるものではない.しかし*⁹神がアブラハムを嘉(よみ)されたのは約束によってであった.』
(注釈)
信者のみアブラハムの子である(3・7-18)
*¹ 〈旧約〉創世の書12・3,18・18参照.
*²〈旧約〉第二法の書27・27・26.律法のおきてを全部守ることはほとんど不可能なことだった.
*³〈旧約〉ハバククの書2・4参照.
*⁴ 〈旧約〉レビの書18・5参照.
*⁵ 律法の違反と,律法がその機会となる罪のためののろい(10節).
*⁶ 第二法の書21・23参照.
*⁷ 先の節の思想を要約し,補(おぎな)っている.異邦人はキリストによってアブラハムの祝福を受ける.(〈新約〉エフェゾ人への手紙2・14以下).キリストは人間を律法ののろいから(13節)あがなったからである.
*⁸ 原文は「霊の約束」.
*⁹ アブラハムに約束された遺産を受けるために,モーゼの律法を守る必要はない.
* * *
律法には期限がある
『ではなぜ律法があるのか.それは,*¹違反のあるがために加えられたもので,約束された子孫が来られる時までのものであり,天使たちによって,*²仲立ちの手をとおして布告された.*³片一方だけの場合には仲立ちというものはありえない.そして神は唯一である.
*⁴それなら律法は神の約束にもとるものか.けっしてそうではない.命を与える律法が出されたとすれば,実に義とされるのは律法によってであろう.
しかし聖書はすべての者を*⁵罪の下に閉じこめた.
それは,信仰をもつ人たちがイエズス・キリストへの信仰によって,約束の恵みを受けるためであった.
信仰の時代が来るまで,私たちはやがて来るはずの信仰を期待しつつ,律法に守られてその囚人であった.こうして律法は信仰によって義とするために,私たちをキリストに導く*⁶守役(もりやく)となった.
*⁷しかし信仰が来れば,私たちはもはや守役の下にはいない.
あなたたちはみなキリスト・イエズスへの信仰によって神の子である.キリストの洗礼を受けたあなたたちはみな,キリストを着たからである.
もう,ユダヤ人もギリシア人もなく,奴隷も自由民もなく,男も女もない.みなキリスト・イエズスにおいて一つだからである.
あなたたちがもしキリストの者であれば,アブラハムの子孫であって約束の世継ぎである.』
(注釈)
律法には期限がある(3・19-29)
*¹ ローマ5・20参照.
*² モーゼのこと.
*³ 約束されたのは神だけであるから,仲立ちはいらない.
*⁴ 律法は罪がどこにあるかを知らせる(19節)が,命を与えるものではない.すなわち,罪を避ける力を与えてくれないからである.
*⁵ 律法には罪を避けさせる力がない.
*⁶ ギリシア語の「パイダゴゴス」で,元の意は主人の子を学校に連れていく奴隷であった.
*⁷ 25-26節 信仰が来て律法は終わり,守役は暇(ひま)を出された.アブラハムの子孫であるかどうかは,別問題とされ,信仰によってみなが神の子となった(28,29節).
* * *
第4章
子の精神
『私はこう言う.世継ぎはすべての者の主人であるが,子どもの間は奴隷と異なるところがない.父の定めた日までは後見人と管理者の下にいる.私たちもそうであって,子どもの間は,奴隷として,*¹世の要素の下にあった(4・3).しかし時満ちて,女から生まれさせ,律法の下に生まれさせたみ子を神は遣わされた.それは律法の下にある者をあがない,私たちを養子にするためであった.あなたたちが神の子である証拠は,「*²アッバ,父よ」と叫(さけ)ぶ*³み子の霊を,神が私たちの心に遣わされたことである.だから,もはやあなたは奴隷ではなく子である.子であればまた神によって世継ぎである.
かつて,あなたたちは神を知らず,*⁴本質として神でないものの奴隷であった.今あなたたちは神を知った.いやむしろ神に知られる者となったのに,どうしてまた,*⁵弱い不完全な要素にもどってその奴隷になろうとするのか(4・8-9).あなたたちは日と月と季節と年をこまかく守っている.私はあなたたちのために,無益に苦労したのではないかと恐れる.』
勧め
『兄弟たちよ,私があなたたちのようになったのだから,あなたたちは私のようになってほしいと願う.あなたたちは私に何の不正なこともしなかった.
私があなたたちに真実を話したから,敵になったのか.
彼らがあなたたちに示す愛はよい心から出たものではない.彼らが望むのは,あなたたちの愛を自分たちだけに向けさせ,私たちから引き離すことである(4・16,17).
(注釈)
子の精神(4・1-11)
*¹ ユダヤの宗教暦と祝日と儀式などを定める天体運行のことを言うのであろう.*²〈新約〉ローマ人への手紙8・15.アラマイ語の「父」.
*³ 聖霊はみ子から発出するという教理の根拠になる.
*⁴ 異教徒の神々を指す(〈新約〉コリント人への手紙〈第一〉8・4).
*⁵ パウロはユダヤ教の改宗者を椙手にしているので,世の要素とは天体運行によって定められた安息日,断食,祝日などのユダヤ年中行事の意味らしい.
「不完全」なのは,それが義を与えず,その遵守(じゅんしゅ)が困難だったからであろう.
勧め(4・12-20)
*⁶ 病気になってそこに立ち寄らざるをえなくなったので,ガラツィアに福音をのべた.*⁷ この体の病気のことは,コリント〈第二〉12・7に出ている病気とは別である.コリント人への手紙の場合は,隠(かく)れた病気であるが,ここの場合は,だれの目にも見える外の病気だった.
*⁸ 原文,「私はあなたたちに証明する」.
*⁹ 厳しい口調(3・1)ではなく,優しいことばで彼らを納得させたい.
* * *
サラとハガル
『律法に服従しようとするあなたたちは私に言うがよい.*¹あなたたちには律法が分かっているのか.アブラハムには二人の子があった.一人は奴隷女から,一人は自由民の女から生まれたと書き記されている.奴隷女の子は肉体によって生まれ.自由民の女の子は約束によって生まれた.
そのことは前兆として語られている.すなわちこの女たちは二つの契約である.
一つはシナイの山から出て奴隷を生む,これがハガルである.
*²また,ハガルはアラビアではシナイの山を指す.ハガルはその子らとともに奴隷になっている今のエルサレムと*³同列である.しかし上にあるエルサレムは自由であって,私たちの母である.
はたしてこう書き記されている,「*⁴うまずめで子を生まぬ者,喜べ.生みの苦しみを知らぬ者,声をあげて喜べ.一人住まいの女の子どもは夫のある女の子どもより多い」.兄弟たちよ,あなたたちはイサクのように約束の子である.
そのころ*⁵肉体によって生まれた者が霊によって生まれた者を迫害したように,今もそうしている.聖書には何と言われているか.「*⁶奴隷女とその子を追い出せ.奴隷女の子は自由民の女の子とともに遺産を受けられぬ」とある.
そして兄弟たちよ,私たちは奴隷女の子ではなく,自由民の女の子である.』
(注釈)
サラとハガル(4・21―31)
*¹ 彼らに律法がよく分かれば,パウロが次の節から実例をあげて言っているように,約束の世継ぎとなるために,肉体的にアブラハムの子であるだけでは足りないと分かるだろう.
精神的にその子とならねばならない(〈新約〉ローマ人への手紙6・9以下).
一方の列には,ハガル,その子ら,シナイ山と律法の奴隷である今のユダヤ人.
他の列には自由民のサラ,その子イサク,新約の子ら,福音の自由の子ら,キリスト信者.
* * *
第5章
キリスト信者の自由
『*¹この自由のために,キリストは私たちを解放されたのであるから,しっかりと立って,二度と奴隷のくびきをかけられるな(5・1).
見よ,私パウロはあなたたちに言う.あなたたちが割礼を受けるなら,キリストは何の役にも立たなくなる.また,割礼を受けようとする人ならその人は律法全体を守る義務があると,私はふたたび宣言する.律法によって義とされることを望む者は,キリストから切り離され,恩寵から落とされる.
私たちが希望をもって正義の実現を待っているのは,霊により信仰によってである.なぜなら,キリスト・イエズスにおいては,割礼を受けることも受けないこともいずれも価値がなく,*²愛によって働く信仰だけに価値がある.
前はよく走っていたのに,今あなたたちが真理に服従するのをはばんだのは何者か.そういう思いつきは,あなたたちを呼ばれた方からのものではない.少しのパンだねは練り粉全体をふくらませる.
あなたたちが他の考えを抱かぬように私は主によって切に望む.ともあれ,あなたたちを乱す者は,*³だれであろうとそのさばきを受けるであろう.
兄弟たちよ,*⁴私が今なお割礼を宣教しているなら,なぜ迫害されるのだろうか.それなら十字架のつまずきはやんだわけである.あなたたちを乱す人々は*⁵自分で切ればよい(5・7-12).』
(注釈)
キリスト信者の自由(5・1-12)
*¹ 14・21から言い始めた律法のことは,いつかキリストの福音に変わる.キリストは私たちをユダヤの律法から解放し,信仰から来る自由を与えられた.
*² ほんとうの信仰は愛によって人を動かす.
*³ ユダヤ派の信者を指している.
*⁴ 割礼をまだ守らねばならないとパウロが宣教していたら,ユダヤの信者から迫害されるはずはない.
*⁵ かつて異邦人であったガラツィア人の中には,チベレ女神の信心がはやっていた.その信心家の間では,よく去勢をした.そのことの暗示らしい.つまり「あなたたちを乱すような人は,何もかも切ってしまえ」という皮肉であろう.
* * *
自由を乱すことは許されない
『兄弟たちよ,あなたたちは自由のために召された.ただその自由を肉への刺激として用いてはならない.むしろ愛によって互いに奴隷となれ.全律法は「*¹自分と同じように隣人を愛せよ」という一言に含まれているからである.*²互いにかみ合い食い合って,ともに食い尽くされぬように注意せよ.
私は言う.霊によって歩め.そうすれば肉の欲を遂(と)げさせることはない.実に肉の望むことは霊に反し,霊の望むことは肉に反する.あなたたちが*³望みのままに行わぬように,それらは相反(あいはん)している.もしあなたたちが霊に導かれているのなら,律法の下にはいない.
*⁴肉の行いは明白である.すなわち、淫行(いんこう),不潔(ふけつ),猥褻(わいせつ),偶像崇拝(ぐうぞうすうはい),魔術(まじゅつ),憎悪(ぞうお),紛争(ふんそう),嫉妬(しっと),憤怒(ふんぬ),徒党(ととう),分離(ぶんり),異端(いたん),羨望(せんぼう),泥酔(でいすい),遊蕩(ゆうとう),そしてそれらに似たことなどである.私は前にも言ったように,またあらかじめ注意する.以上のようなことを行う者は神の国を継がない.
それに反して霊の実は,慈愛(じあい),喜び,平和(へいわ),寛容(かんよう),仁慈(じんじ),善良(ぜんりょう),誠実(せいじつ),柔和(にゅうわ),節制(せっせい)であって,*⁵これらのことに反対する律法はない.*⁶キリスト・イエズスにある者は,肉をその欲と望みとともに十字架につけた.
私たちが霊によって生きているのなら,また霊によって歩もう.いどみ合い,ねたみ合って,虚栄(きょえい)を求めることのないようにしよう.』
(注釈)
自由を乱すことは許されない(5・13-26)
*¹〈旧約〉レビの書19・18参照.
*² ガラツィア人同士の争いのこと.
*³ 肉が選ぶと霊はそれに反対する.霊が選ぶと肉がそれに反対する.すなわち,〈新約〉コリント人への手紙〈第一〉2・14,ローマ人への手紙8・1以下にあるように,自然の人間と恩寵に生きる人間との対立が述べられている.
*⁴ 19-21節 ローマ人への手紙1・19-31,コリント人への手紙〈第一〉6・9-10参照.
*⁵ 「こういう生活の人に対して」という訳もある.
これらのことを行う人は律法の罰を受けない.
*⁶ ローマ人への手紙6・2-6,8・13参照.
* * *
第6章
互いに重荷を負え.そうすれば,あなたたちはキリストの法をまっとうできる.
何者でもないのに,何者かであるかのように思うのは,自分を欺(あざむ)くことである.おのおの自分の行いを調べよ.*²そうすれば,他人についてでなく,自分についてだけ誇(ほこ)る理由を見いだすであろう.おのおの自分の荷を負っているからである.*³みことばを教えてもらう人は,教えてくれる人に自分の持ち物を分け与えよ.
自分を欺いてはならない.神を侮(あなど)ってはならない.人は,まくものを収穫するからである.すなわち自分の肉にまく人は肉から腐敗を刈り取り,霊にまく人は霊から永遠の命を刈り取る.
善を行い続けて倦(う)んではならない.たゆまず続けているなら,時が来て刈り取れる.だから,まだ時のある間に,すべての人に,特に信仰における兄弟である人々に善を行え.』
(注釈)
愛の実践(6・1-10)
*¹ 〈新約〉コリント人への手紙〈第一〉3・1以下参照.*² 他人の欠点と自分の行いを比べて,誇りたくなる時がある.しかし非難(ひなん)するのは,自分のことだけでなければならない.パウロのこのことばは皮肉であって,真実に自分をかえりみる人は,自分を誇る理由を見つけるはずがない.
*³ 信徒は宣教師の生活を保証せねばならない.
* * *
最後の勧め
『*¹私がなんと大きな文字で手ずからあなたたちに書いているかを見よ.
*²肉において見栄(みえ)を飾(かざ)ろうとする者は,あなたたちに割礼を強制する.
それは,ただキリストの十字架のために迫害されないためだけである.
割礼を受けた人さえ律法を守ってはいない.しかもあなたたちに割礼させようと望むのは,あなたたちの肉を誇りにしたいからである.
かえって私は,主イエズス・キリストの十字架のほかなにものをも誇りとはしない.
*³キリストによって,世は私にとって十字架につけられたものとなり,そして私は世にとって十字架につけられた者とされた.
つまり,割礼を受けることも受けないこともともにむなしいことである.
ただ尊(とうと)いのは新しい人だけである.
この法に従って歩むすべての人々と,神のイスラエルの上に平和とあわれみがあるように(6・12-16).
これからのち,だれも私を煩(わずら)わすな.私はイエズスの*⁴印(しるし)を身につけているからである.
兄弟たちよ,主イエズス・キリストの恩寵があなたたちの霊とともにあるように.アメン.』
(注釈)
最後の勧め(6・11-18)
*¹ パウロの自筆.「大きな文字」はパウロの目が悪かったから、大きな字で書いたという意味ではない.むしろ,重大なことをよく相手の心にきざみたいからこう言ったのである.
*² ユダヤ人の信徒の態度.
*³ 世間と十字架のキリストとは両立しない.
*⁴ 奴隷につける焼印.または,キリストのために忍んだ迫害の傷跡(きずあと)(コリント〈第一〉6・4-5,11・23).
登録:
投稿 (Atom)