2014年8月9日土曜日

369 古代イスラエル人,現代イスラエル人? 8/9

エレイソン・コメンツ 第369回 (2014年8月9日)

     (神と古代イスラエル人〈=古代ユダヤ人〉との間で交わされた)旧約(〈かみと こだい いすらえるじん〈=こだい ゆだやじん〉との あいだで かわされた〉 きゅうやく)にあるように( "in the Old Testament" )全能の神(ぜんのうの かみ)がある特定の人々(とくていの ひとびと)を根絶やし(ねだやし)にするべく下された諸々の命令(くだされた もろもろの めいれい)は(例えば,旧約聖書・サミュエル前書:第15章を参照〈たとえば,きゅうやく せいしょ・さみゅえる ぜんしょ:だい じゅうご しょうを さんしょう〉)(訳注後記1),それら異教徒たち自身に向けられた正義と慈悲による行為(いきょうと たちに むけられた せいぎと じひに よる こうい)であり,人の姿をとられた(=人間と同じ肉体を身にまとわれた)神(ひとのすがたをとられた〈=にんげんと おなじ にくたいを みに まとわれた〉かみ( "the Incarnate God" )すなわち私たちの主イエズス・キリスト(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)( "Our Lord Jesus Christ" )が数世紀(すう せいき)のちに(天より)御降誕されるのに備え(てんより ごこうたん されるのに そなえ)古代イスラエル人に揺りかごを用意させるための行為(こだい いすらえるじんに ゆりかごを ようい させる ための こうい)だったと認(みと)めましょう(エレイソン・コメンツ第368回を参照)( "Let us then grant (EC 368) that the orders of Almighty God to exterminate certain peoples in the Old Testament (e.g. I Sam. XV) were an act of justice and mercy towards the pagans themselves, and an act also designed to help the Israelites forward towards cradling the Incarnate God, Our Lord Jesus Christ, when he would come many centuries later." ).古代イスラエル人たちは,とりわけ祝福された童貞聖マリア(しゅくふく された どうてい まりあ)( “the Blessed Virgin Mary” )を通(つう)じて,この揺りかごを確(たし)かに用意しました( "This cradle the Israelites did provide, especially through the Blessed Virgin Mary, …" ).全人類はこの神の御母(=聖母)となられた聖マリアに限りない感謝の気持ちを持たねば(ぜんじんるいは この かみの おんはは〈=せいぼ〉と なられた せい まりあに かぎりない かんしゃの きもちを もたねば)なりません( "… to whom the entire human race owes a boundless debt of gratitude." ).私たちの誰もが確実に天国へたどり着ける(わたくしたちの だれもが かくじつに てんごくへ たどりつける)としたら( "If any of us does get to Heaven, …" ),それはただ偏に彼女聖母マリアのお取り成しを通して(ひとえに かのじょ せいぼ まりあの おとりなしを とおして)だけなのですから( "… it will be only through her intercession." ).

     では,そのようにして救いをもたらす諸々の古代ユダヤ人(すくいを もたらす もろもろの こだい ゆだや じん)(新約聖書・聖ヨハネによる聖福音書:第4章22節を参照)(訳注後記2)とパレスチナ人(ぱれすちな じん)を虐殺(ぱれすちなじんを ぎゃくさつ)もしくは道徳的,金銭的に虐殺を支えて(どうとくてき,きんせんてきに ぎゃくさつを ささえて)いる今日のユダヤ人多数(こんにちの ゆだやじん たすう)との間(あいだ)にどのような関連性(かんれんせい)があるのでしょうか?( "Then what connection can there be between those Jews through whom salvation comes (Jn. IV, 22) and the mass of Jews today, who are either massacring Palestine or supporting the massacre, morally or financially ? " ) 今日のユダヤ人の大多数(こんにちの ゆだやじんの だいたすう)はアシュケナージ・ユダヤ人(あしゅけなーじ・ゆだやじん)( “Ashkenazy Jews” )ですから,アブラハムの血を受け継いだ末裔(あぶらはむの ちを うけついだ まつえい)ではないのでしょう( "The majority of today's Jews being Ashkenazy Jews, they may well be no blood-descendants of Abraham, …" ).だが,それはさておき( "… but be that as it may, …" ),彼らがキリスト教以降のユダヤ教の聖典タルムード(きりすときょう いこうの ゆだやきょうの せいてん たるむーど)( “the Talmud” )を通(とお)して私たちの主イエズス・キリスト(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)が仰せられる(おおせられる)「ファリザイ人とサドカイ人のパン種」(ふぁりざいじんと さどかいじんの ぱんだね)(新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第16章11節を参照)(訳注後記3)( “ “the leaven of the Pharisees and Sadducees” (Mt. XVI, 11) ” )を受け入れたのは確か(うけいれた のは たしか)です( "… they have certainly absorbed through the Talmud, the holy book of post-Christian Judaism, what Our Lord called “the leaven of the Pharisees and Sadducees” (Mt. XVI, 11), …" )このパン種とは私たちの主イエズス・キリストを十字架にかけ(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすとを じゅうじかに かけ),それ以来彼キリストの教会と戦って(いらい きょうかいと たたかって)きた不倶戴天の敵の精神を意味(ふぐたいてんの てきの せいしんを いみ)します( "… meaning the spirit of his bitter enemies who crucified him and have fought his Church ever since." ).神の「選民」(かみの せんみん)がどうして神の一貫した最悪の敵(かみの いっかん した さいあくの てき)になったのでしょうか?( "How can his Chosen People have turned into some of his consistently worst enemies ? " )(もし,この疑問を投げ〈ぎもんを なげ〉かけるだけで「反ユダヤ的」〈はん ゆだや てき〉だというなら( " (If the mere question seems “anti-semitic”, …" ),真実は良い〈しんじつはよい〉が「反ユダヤ主義」は悪い〈はん ゆだや しゅぎは わるい〉,したがって,いかなる真実も「反ユダヤ的」でありえないし,いかなる「反ユダヤ的」なものも真実でありえない,という言い方を思い起こす〈いいかたを おもいおこす〉といいでしょう( "… let it be recalled that truth is good while “anti-semitism” is bad, so nothing true can be “anti-semitic” and nothing “anti-semitic” can be true." ).私が以下に述べるのは真実〈いかに のべるのは しんじつ〉であり,いわゆる「反ユダヤ主義」とは全く関係ありません〈いわゆる「はん ゆだや しゅぎ」とは まったく かんけい ありません〉( "What follows is the truth, and has nothing whatsoever to do with so-called “anti-semitism”)." ).)

     まず第一(だいいち)に,もし選民が自らの神に背を向け(せんみんが みずからの かみに せを むけ)たとしたら( "Firstly, if the Chosen People turned against their God, …" ),問題は年代を経て起きたことのように思われる(もんだいは ねんだいを へて おきた ことの ように おもわれる)かもしれませんが( "… the problem may seem chronological …" ),実際(じっさい)はそうではありません( "… but it is not." ).旧約の期間を通し(きゅうやくの きかんを とおし)て神に敵対した古代ユダヤ人(かみに てきたい した こだい ゆだやじん)たちがいました( "Throughout the Old Testament there were Israelites who turned against God, …" ).たとえば,金の子牛( “the Golden Calf” )の崇拝者(きんの こうしの すうはいしゃ)たち( "… for instance the worshippers of the Golden Calf …" ),すなわちバビロンに追放されたユダヤ人(ばびろんに ついほう された ゆだやじん)たちです( "… or the Jews exiled to Babylon." ).神はしばしば「頑な(かたくな)」で( “stiff-necked” )反抗的な人々を罰し(はんこうてきな ひとびとを ばっし)なければなりませんでした( "God frequently had to punish his own “stiff-necked” and rebellious people." ).同(おな)じように,新約の時期から私たちの時代にいたるまで,生粋のユダヤ人である聖パウロ(きっすいの ゆだやじん である せい ぱうろ)のようにキリスト教に改宗した著名なユダヤ人はつねに存在(きりすと きょうに かいしゅう した ちょめいな ゆだやじんは つねに そんざい)しました(新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第9章1-5節; コリント後書〈使徒聖パウロのコリント人への第二の書簡〉:第11章21-22節; 使徒聖パウロのフィリピ人への書簡:第3章4-6節を参照)( "Likewise from the beginning of the New Testament down to our own day there have always been outstanding Jewish converts, like St Paul, who was as Jewish as could be (cf. Rom. IX, 1-5; II Cor. XI, 21-22; Phil. III, 4-6)." ).古代イスラエル人と現代イスラエル人の違い(こだい いすらえるじんと げんだい いすらえるじんの ちがい)は,いつの時代(じだい),どの人種(じんしゅ)にも神を愛する者(かみを あいする もの)と神に反旗を翻す者(かみに はんきを ひるがえす もの)がいた違いと同じ(ちがいと おなじ)ことです.真の「ユダヤ‐キリスト教徒」の 系列( “Judeo-Christian” )(まことの 「ゆだや‐きりすと きょうと」の けいれつ)はアベル “Abel” に始まり,たとえば,アブラハム “Abraham”,モーゼ “Moses”,ダビド “David”,神の御母(=聖母マリア) “the Mother of God” を経て(あべるに はじまり,たとえば,あぶらはむ,もーぜ,だびど,かみのおんはは〈=せいぼ まりあ〉を へて)カトリック教会に( “to the Catholic Church” )繋がって(かとりっく きょうかいに つながって)います( "The true “Judeo-Christian” line stretches from Abel through, for instance, Abraham, Moses, David and the Mother of God to the Catholic Church." ).偽り(いつわり)の「ユダヤ‐キリスト教徒」で真の「ユダヤ‐メーソン会員」の系列(いつわりの ゆだや‐きりすと きょうとで まことの「ゆだや‐めーそん かいいん」の けいれつ)( “Judeo-Masonic” )は咎められたカインに始まり,たとえば,神の預言者の殺害者アンナ “Anas”,カヤファ “Caiphas” を経て(とがめられた かいん に はじまり,たとえば,かみの よげんしゃの さつがいしゃ あんな,かやふぁを へて)近代のフリーメーソン組織( “to modern Freemasonry” )に繋がって(きんだいの ふりーめーそん そしきに つながって)います( "The false “Judeo-Christian” but true “Judeo-Masonic” line stretches from the accursed Cain through, for instance, the killers of God's prophets to Anas and Caiphas to modern Freemasonry, …" ).この組織(そしき)はユダヤ人が創り出した(ゆだやじんが つくり だした)もので,多くの会員は知らない(おおくの かいいんは しらない)でしょうが,いまだにカトリック教と戦う目的(かとりっくきょうと たたかう もくてき)でユダヤ人によって支配され(ゆだやじんに よって しはい され)ています( "… which was created by Jews and is still controlled by them for purposes of fighting the Catholic Church, even if many Masons are ignorant of the fact." ).

     ここまでは良い(よい)として,古代イスラエル人と現代イスラエル人の落差はとくに際立って(こだい いすらえるじんと げんだい いすらえるじんの らくさは とくに きわだって)いるのではないでしょうか?( "Well and good, but is not the contrast between Israelites and Israelis especially sharp ? " ) 確かにその通り(たしかに そのとおり)です.それはなぜかと言(い)えば,古い(ふるい)ことわざの通(とお)り「高ければ高いほど,ひどく落ちる(たかければ たかいほど, ひどく おちる)」( “The higher they are, the harder they fall” )ということでしょう( "Yes, because as the old saying goes, “The higher they are, the harder they fall.” " ).選民(せんみん)は神の特別の僕となることを拒み(かみの とくべつの しもべと なることを こばみ)( "Once the Chosen People refused to be the special servants of God, …" ),(神の御独り子〈かみのおんひとりご〉の)御託身(ごたくしん) “the Incarnation” いらいおおむねそうし続(つづ)けてきました( "… as they have largely done from the Incarnation onwards, …" ).それにより彼(かれ)らは悪魔の特別の僕となる運命(あくまの とくべつの しもべとなる うんめい)となったのです( "… they were bound to become the special servants of the Devil." ).彼らにとって,その中間の選択(ちゅうかんの せんたく)などありえませんでした( "For them there could be nothing in between." ).彼(かれ)らが神の僕となるのを拒んだ背景(かみの しもべと なるのを こばんだ はいけい)に何(なに)があったのでしょうか?( "And what was behind that refusal ? " )一言で言えば,自尊心(ひとことで いえば,じそんしん)( “pride” )です( "In one word, pride." ).彼らは神の特別の贈り物(かみの とくべつの おくりもの)を神の御光栄のために使わず(かみの ごこうえいの ために つかわず),その代わり(かわり)に( "Instead of using God's special gifts to them for his glory, …" )自分たちの光栄(じぶんたちの こうえい)のために(=自分たち自身の光栄となるよう〈じぶんたちじしんの こうえいと なるよう〉)転用(てんよう)しました( "… they bent them to their own glory." ).救世主がこの世に来られる前(きゅうせいしゅが このよに こられる まえ),彼らはやがて現(あらわ)れるのは精神的でなく物質的な救世主(せいしんてき でなく ぶっしつてきな きゅうせいしゅ)だと思い違い(おもいちがい)(=誤解・見当違い〈ごかい・けんとうちがい〉)をしました( "Before their Messiah came, they misconceived him as their material instead of spiritual saviour, …" ).そのため,彼らは救世主が現れると,その受け入れを拒み(うけいれを こばみ)ました( "… so that when he came they refused to recognize him, …" ).それ以来(いらい),彼らは神(かみ)が民族固有のモーゼの宗教(みんぞく こゆうの もーぜの しゅうきょう)をあらゆる民族に開かれた包括的なカトリック教に置き換えた(あらゆる みんぞくに ひらかれた ほうかつ てきな かとりっく きょうに おきかえた)として神と戦って(かみと たたかって)きました( "… and from then on they fought him for having replaced their racially exclusive Mosaic religion with the racially all-inclusive Catholic religion, open to all races." ).

     では,諸々のカトリック信徒たち(もろもろの かとりっく しんと たち)は,私たちの周り(わたくしたちの まわり)にいるかつての選民(せんみん)たちの圧倒的な物質的優性(=優位性)に対抗(あっとうてきな ぶつりてき ゆうせい〈ゆうい せい〉に たいこう)するには何ができるでしょうか?( "And what can Catholics do to resist the overwhelming material dominance of the once Chosen Ones all around us ? " ) 物質的にできることは皆無(かいむ)に等(ひと)しいでしょう( "Materially, next to nothing, …" ).だが,一人ひとりの霊魂(ひとり ひとりの れいこん)が心の中で誠意を込めて(こころの なかで せいいを こめて)神の王国の来るよう神の御心(=御旨)の為されるよう祈る(かみの おうこくの きたる よう かみの みこころ〈=みむね〉の なされるよう いのる)ならば( "… but a single soul praying spiritually and sincerely for God's kingdom to come and for his will to be done,…" ),物理的な山を動かしていただけるよう神を説得(ぶつりてきな やまを うごかして いただけるよう かみを せっとく)できるでしょう( "… can prevail on God to move material mountains, …" ).これは神にとって簡単(かみに とって かんたん)なこと( “child’s play” )です( "… child's play for God." ).神が彼らの物質的優性を許して(かみが かれらの ぶっしつてき ゆうせいを ゆるして)おられるのは,私たちを神のもとに戻す目的(わたくしたちを かみの もとに もどす もくてき)のためだけです( "He only allows that dominance in order to drive us back to him." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教



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訳注を追補いたします.









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(注:本投稿記事〈第369回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月07日23:30に公開されました.)