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2016年9月3日土曜日

477 マリアの栄光 9/3

エレイソン・コメンツ 第477回 (2016年9月3日) 

マリアがお求めになる栄光は,
 すべてがご自身の(真の神と人なる)御独り子のためです.
彼女はご自身のための栄光など一切お求めになりません.
All glory Mary seeks is for her Son.
For her own self she seeks no glory, none. 

(地上における真の神の民である私たちの(カトリック教=公教)国家(以下,「カトリック国家」のように記す.「"天地の普遍の摂理・真理たる公教" に基づく国家」の意味合いである.)(訳注後記・2・1)私たち真の神の民のカトリック教徒全国民の御母・天地の元后(=后〈きさき〉・女王)( "Our Lady" )なる聖マリア(訳注後記・2・2 )の被昇天祭(8月15日)( "Catholic Feasts of Our Lady's Assumption into Heaven (August 15) " )と生誕祭(9月8日)というカトリック教の二つの祝祭日の間の期間は,カトリック教徒たちの天の元后(てんの げんこう)(聖マリア)( "Our Lady" )に対する献身(=深い愛情・忠誠・信心・帰依)をめぐりプロテスタント(新教徒)が唱える大きな異議について考えてみる良い機会かもしれません.新教徒は聖マリアに向けられる注目,敬意,祈祷のあまりにも多くが私たちの主キリストから奪い去られている - 主のみが私たちの救世主( "our Redeemer" )であり,したがって私たちの献身,崇拝 "worship"(訳注・正確には「崇拝」ではなく「崇敬」"adoration", "veneration" の心を聖マリアに向ける.この用語は,神キリストに対してのみ用いられる「崇拝」"worship" と同義語ではない),祈祷のすべては私たちの主キリストだけに向けられるべきだ,との考えからカトリック教徒たちに異議を向けます.だが,以下の引用を読めば,それが私たちの主キリスト御自身の言葉だけに,そうした異議の多くを異なる視点から見ることができるでしょう。
Between the Catholic Feasts of Our Lady's Assumption into Heaven (August 15) and Our Lady's Birthday (September 8), it may be a good moment to reflect upon a major Protestant objection to the devotion of Catholics to Our Lady, namely, all attention, honour and prayer directed towards Our Lady is so much taken away from Our Lord – he alone is our Redeemer, so to him alone should all our devotion, worship and prayer be directed. The following quotation, coming as from Our Lord himself, puts many such objections in a different perspective :–

(以下引用)

人間の眼は太陽を直視できないが,月を見つめるのは少しも難しいことではない.人間の心眼は神の完全さを直視できないが,マリアの完全さを見ることができる.マリアは太陽との関係では月のようなものである.マリアは太陽の光によって輝き,彼女はその光をあなたたちにそそぐ.だが,マリアはその光を一種の霊的な霧で和らげ,それによって,あなたたちが自らの限られた性質を直視することに耐えられるようにする.何世紀もの間,私が兄弟,正確には私と同じくマリアの子供たちのようになりたいと願うあなたたちすべてのために,マリアをモデルとして際立たせたのは,その理由による.
The human eye cannot stare at the sun, whereas it has no difficulty in gazing upon the moon. The spiritual eye of the human soul cannot behold the perfection of God as it is in itself, but it can look upon the perfection of Mary. Mary is like the moon with regard to the sun. By its light she is lit up, and that light is what she reflects upon yourselves, but she softens that light in a kind of spiritual mist by which it becomes bearable to behold for your limited nature. That is why for centuries it is her that I have been putting forward as a model for all of you that I wish to have as brothers, precisely as children of Mary, like myself. 

マリアは万物の救世主の御母(=神の御母)the Motherである(訳注・古今東西の真の母の根源)子供たちが母を見つめるのはなんと素晴らしいことか! 私があなたたちに彼女を与えたのはそのためである.あなたたちが眺める対象としての優しい威厳者を持ち,その者があなたたちの注視を引き寄せるほど素晴らしく素敵でありながら,あなたたちの目を眩ますほど輝かないようにするためだ.あなたたちが反対できない特別の理由に基づき私が選び出した人々のためにだけ,私は神また人なり(God-Man),絶対知能,完全なる者の輝きの中に私自身を顕示した.だが,その光景に浴するという贈り物には,生身の人々がそれに打ちひしがれることなく,そのような私への知識を持ち続けることができるようにするための別の贈り物を添えなければならなかった. 
She is the Mother. How sweet it is for children to look upon their mother ! I gave her to you for that reason, so that you would have a gentle Majesty to behold, splendid enough to seize and to hold your gaze but not so brilliant as to dazzle your sight. Only to souls chosen out by me for special reasons which you cannot contest have I shown myself in all the brilliance of the God-Man, absolute Intelligence and Perfection. However, the gift of that vision had to be accompanied by another gift to make living souls capable of enduring such knowledge of me without being annihilated by it.

あなたたちは皆,マリアを見つめることができる.それは,マリアがあなたたちと同じような存在だからではない.彼女は決してそのようなものではない! 彼女の純粋無垢さが彼女を高めているからこそ,彼女の御独り子で彼女の神である私は彼女を尊敬の念をもって処遇するのである.マリアの完成はあまりにも偉大であるため,あらゆる楽園は変わらぬ不変の微笑(ほほえみ)と私たちの三位一体の永遠(=とこしえ)の輝きに浴する彼女の王座の前に跪(ひざまず)く.だが,マリアを神の創造された他のいかなる被造物よりも広め,染み込ませるこの輝きは,彼女がそれを通して星のように光り,神のすべての光を集め,それをあらゆる被造物の上にゆきわたる優しい照明のように広める穢(汚・けが)れのないみ身体を包むきわめて純粋なベールによって和らげられる. Whereas all of you can look upon Mary. Not because she is like you, far from it ! Her purity raises her so high that I, her Son and her God, treat her with veneration. Her perfection is so great that all Paradise bows before her throne which bathes in the unchanging smile and everlasting brilliance of Our Threeness. But this brilliance which permeates and imbues her more than it does any other creature of God is tempered by the purest veils of her stainless flesh through which she shines like a star, gathering together all of God's light and spreading it around like a gentle illumination upon all his creatures.

そして,マリアは永遠にあなたがたの真の御母 "Mother" となられる.そして,彼女は神の御母(訳注後記・6・1) の持つあらゆる形の優しさをそなえ,あなたたちのために弁解 "excuses" をし,取りなし "interceding",あなたたちを辛抱強く導き続ける.マリアの喜びは彼女が自分を愛する者に「私の御独り子を愛しなさい」と言えるとき高まる.私の喜びは,私を愛する者に「私の御母を愛しなさい」と言えるときに高まる.そして,私たち二人の最大の喜びは,私の足元にいる者が私を離れて私の御母へ向かうのと,私の御母の腕に抱かれたあなたたちの一人が私の御母を離れ私に向かうのを見るという二重の喜びを私たちが得たときである.なぜなら,御母は自分に夢中になった者たちを一人でも多く御独り子に与えることができるときに喜びに満ちるからだ.そして,御独り子は一人でも多くの者が御母を愛するのを見るときに嬉しいからだ.私たち二人の喜びについていえば,私たちのいずれも相手に打ち勝つことは求めない.互いの喜びが相手の喜びの中で完全だから. 
And then she is for ever your Mother. And she has all forms of the Mother's kindness, making excuses and interceding for you and patiently leading you on. Great is Mary's joy when she can say to a soul that loves her, “Love my Son.” Great is my own joy when I can say to a soul that loves me, “Love my Mother.” And greatest of all is our double joy when we see either a soul at my feet leaving me to go to my Mother, or one of you held in my Mother's arms leaving her to come to me. Because the Mother is jubilant when she can give to her Son more souls enamoured of her, and the Son is jubilant when he sees more souls loving his Mother. For when it comes to our glory neither of us seeks to overcome, the glory of each of us being complete in the glory of the other.

だから,私はあなたたちに「私の子供よ,マリアを愛しなさい.私はマリアをあなたたちに与える.彼女はあなたたちを愛し,優しい微笑そのもので,あなたたちの存在を照らし出すだろう」と伝える. That is why I say to you, “My child, love Mary. I give her to you. She loves you, and with nothing but the gentleness of her smile she will light up your existence.” 

 (引用終わり)  

もしカトリック信徒たちが,神の御母聖マリアの光が自分たちを通して光るようにするすべを知ったなら,真に敬虔な新教徒が望むように,無数の人々を彼女の御独り子と真の神へ引き寄せることになるでしょう.
If Catholics knew how to let her light shine through them, they would draw numberless souls towards her Son and towards God, as truly devout Protestants can only wish.       Kyrie eleison.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教



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訳注・2・1 「カトリック」とは:

・「天地において普遍の,公〈おおやけ〉の,という意味である.天地の永遠不変の摂理=真理を意味し, ・人間の始めた「宗教」とは全く異なる.


訳注・2・2 「聖マリアの被昇天」について:

聖マリアは,真の神によって天に上げられ,天と地の女王(=后)の称号を与えられた( "Holy Queen" ,Reine,Reina,Rainha,…などの尊称).

・「人類史上,最初にして唯一の」という意味で「天の元后・全地の后の中の后」と呼ばれる.

・カトリック国において,聖マリアは,国民の母,また国民の女王であられる(上述のように,Our Lady, Notre Dame, … 等と尊称で呼ばれる). その他諸々のカトリック国における言語で,同様の尊称で呼ばれる.

・「聖霊なる真の神」と「神の被造物である人間マリア」の「御独り子なるイエズス・キリスト(=唯一の救世主 Christ・メシアー Messiah)」,すなわち『神の子であり人(=聖マリア)の子でもあられる救世主(・キリスト・メシアー)たるイエズス』と共に,

・聖マリアは,贖いの犠牲(生け贄〈あがないの いけにえ〉)となられた.(福音書やロザリオ・苦しみの玄義「主の奉献→シメオンの預言」参照)

「聖マリアの初子(イエズス)は多くの逆らいの印となり(イエズス(=キリスト・救世主)の至聖なる聖心〈みこころ〉),マリア自身も心を剣で貫かれるだろう(至聖なるマリアの汚〈けが〉れなき御心.」との預言を受けた.

救世主(キリスト)イエズスの受難・(十字架上の)死・復活は,唯一度限りの真の神の救世の御業である.

・救世主(キリスト)は天に昇られ,天の御父なる真の神の右に座し,天地の王となって君臨され,終りの日に世を裁かれる.

・信仰によってこの事実を受け入れる者は誰でも救霊の恩寵を得る. 全知全能の神は,誰が救われ誰が救われないかあらかじめ御存じである. 神は,「救おうと思う者を救い,頑(かたく)なにしようと思う者を頑なにし(救霊から遠ざけられる)…(聖書より)=創造主たる真の神の権威により,神は何事も為す自由をお持ちである.」

↑したがって,人間は,常日頃から,真の創造主たる唯一の神を畏れ畏み(おそれ かしこみ),へりくだって(=謙遜に),全知全能の神の御目の御前で,自分の人生を全(まっとう)しなければ),最期には塵(ちり)(=土・地上)に帰って永遠に「原罪による死」のうちに滅亡する.

神の御母聖マリアの敬称: …
日本語: (天主〈=聖父と聖子と聖霊との真の三位一体の神〉の御独り子の御母・天地の元后(〈げんこう=女王〉),(私たちの天の御母・御母の御母・地の諸々の女王の女王)

英語: Our Lady(私たちの〈天と地の元后=后の后・元(はじめ)の女王・地上の諸々の母の母),

(仏〈蘭西〉語〈フランス語〉):Notre Dame,(上に同じ),「王たる救世主(キリスト)の御母なるお后(きさき)さまで,私たち一人ひとりの人間の御母」

(西班牙〈スペイン〉語)Nuestra Señora,(上に同じ)

(葡萄牙〈ポルトガル〉語)Nossa Senhora,(上に同じ)

(伊太利〈イタリア〉語)Nostra Signora-Madonna,(上に同じ)

Lady, Dame, Signora などは,お后(きさき)に対する敬称.「我々の」の語(複数形)が先につく.

・「元后」の意味…

①「元」最初の・元(はじめ)の.「后」(きさき).②諸々の女王の女王.

・最初の女エワと最初の男アダムは原罪を犯し,以来,全ての子孫 (=全人類)及び全被造物は「原罪」に伏す運命に定められた.

・聖マリアは,母の胎内に宿った時から,神の聖霊に満たされ(聖霊の恩寵に充ち満ちた所に罪の入り込む余地は全く無い),聖霊によって神の御独り子を懐胎されたので「無原罪の御宿りImmaculate Conception」と呼ばれる(この事は真の神がその預言者を通じて,旧約時代から数千年にもわたって御計画されて来たことの成就で ,カトリック教会の信仰箇条である.),古くからの真の神の預言通り,救世主(キリスト)をお生みになり,神の御母となられた.

・「真の信仰」無しには,人類は「真の永遠に生きる命」を失う.

・また,全被造物は創造主なる神により人類が原罪の呪いから救われ,「原罪の呪い」の支払う報酬たる「死」から解放され,「永遠に生きる命」を授かる時の到来を,忍耐強く待望している.

②信仰により,聖ヨアキム(父)と聖アンナ(母)より生れ,神の恩寵に充ち満ち溢れた聖マリアは,神に遣わされた「大天使ガブリエル」のお告げを信じ「仰せの如く我に成(為)れかし」とお答えになり,神の御意志を全くその身に受け入れた.

・聖マリアは,聖霊に満たされ,聖霊により神の御子を胎内に宿され,神の御母となられた.

・聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊の三位一体の唯一の神の,御独り子なる神の御母・唯一の救世主の御母となられた聖マリアは,神に天に上げられ,天地の元后(〈=女王〉諸々のうちの至高の后)の地位を受けられた.

・御子は救世主(キリスト・Messiah )であられ,イエズス・キリストと呼ばれ,真の神の救世の御業(受難・死・復活)を果たされ,天地の王となられた(=諸王の王).

・昔,あらゆる信仰による諸国とその元首は,真の神の御意志によって建てられ,各々の元首は信仰により真の神に服従した.(たとえば,ハンガリー建国当初の憲法・第一箇条には現実に,「この国の元首は聖母マリアである」と規定された.

・全地の唯一の真の支配者たる神の権威によって建てられた国々の最高権威者は,唯一の真の神の恩寵に満たされて神の御母となられた,唯一人の人間(諸々の人間の中の人間=古今東西の諸々の人間の中の人間で救世主をお生みになった),「天地の元后(=天地の女王)」なる「聖マリア」であった.

・真の信仰を持つ全ての人間にとって,唯一の真の神の御母なる聖マリアは,天地の女王であられ(=人類の中で唯一,御独り子なる神をお生みになったことで,三位一体の真の神の唯一の肉親となられた方).

・聖マリアが「無原罪の御宿り」であるのは,罪深い原罪のうちに滅ぶばかりの全世界の永遠の救世を望まれた全知全能の真の神が,超自然の奇蹟によって世に下された恩寵による.

・そして,この世(=地上・現世)で受難と十字上の死に至るまで,唯一の真の神の救世の御業に服従された御子イエズスは,真の命なる神の御力により御復活されて天に御昇天された.

・そして,キリスト(=救世主)イエズスは,天地の諸王の王となられ,御父なる真の神の右の座につき,天地を裁かれる.

・信仰の父祖「アブラハム」も,真の神の御母となられた「聖マリア」も,その保護者「聖 ヨゼフ」も,私達人類の「主」となられた神なる聖霊と人なる聖マリアの子であられる「イエズス」も,自分の目で見ることなく,心で信じた「信仰」によって霊魂の救済を真の神により獲得し,永遠の命に入った.

・私たち人間は,信仰の先祖となられた,諸々の「真の人間」たちの跡を辿って,彼らに倣い,人生を全うして永遠の命に入るように、と、天地の真の創造主なる唯一の神は,思召されている.

・救世主への信仰を持たず,元の人間「アダムとエワ」の「原罪」に伏したままの人間は,「アダムとエワの原罪」の果実である「死」への服従に甘んじる.現世での「生命」は肉体の滅亡と共に終わる. 「真の信仰」無しには,人間は肉体の生命しか持たないからである.

真の信仰によって「真の命」に対する畏敬の念を持たない,「アダムの原罪」に伏するすべての人間は,現世で命の母に定められている「女」を蔑視する. 「男」は生命を継ぐ「母」にはなれず,一代限りで終わる.

・真の神の御独り子・救世主なるイエズスに対する真の信仰を持つ「男」は,真の信仰に生きる「女」と一心同体となって現世を生きることで,命を次世代に引き継ぐ.

・原罪はエワからアダムに至り,アダムから全人類に至った.「アダム」に留まるすべての女はアダムの原罪に留まるすべての男の原罪による支配に伏することになる.

・原罪の下ある女が,悲惨な暴力の犠牲になるのは,原罪の下にある男の支配下にあるからである.

・たとえ原罪に留まる人間に支配されても,心の中で「信仰」「希望」「慈愛」に生きる人間は,真の神の御憐れみを受ける. 肉体の犠牲にもかかわらず,霊魂は救いを得て天の永遠の命に至る.

・このような真の神による天地の摂理に疎い国家や国家元首は,真実からほど遠く無知で未熟な存在である.どんなに額に汗して働いても,労働の実は実らず,天の永遠の命を得ることも無く,現世で身体が滅びればその霊魂も滅亡する.

・このような無知な国家元首に服する民も,その属する国家の元首と運命を共にすることになり,全地の支配者なる真の命なる神に祝福されず,その御加護も受けられない.

世界の実例をよく観察し,真実を悟る知恵を真の神に願い求め,現在の生き方を追求する事が救い・助かりの道である. 『わたしは道であり命である』唯一の救世主(Messiah)イエズス・キリストの御言葉.


訳注6・1 ・「真の御母」"Mother" について:

・=「地上のあらゆる母の中で最高位の母」という意味合い.

・元(はじめ)の女「エワ」は原罪を犯したが,

・聖マリアは信仰の恩寵により,真の神の御使いガブリエルの祝詞に謙遜(けんそん)に従い,真の神=救世主の母となられ,全ての真の信仰者の母となられた.

・マリアの御独り子なる主キリストと全ての真の信仰者とは,真の神の御母マリアにおいて,主キリストの兄弟姉妹であり,聖マリアは全ての真の信仰者の真の御母である.(聖ヨハネ福音参照)




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訳注の追補・修正等の作業を続けます

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本投稿記事・第477回エレイソン・コメンツ「マリアの栄光」(2016年9月03日付)/ELEISON COMMENTS CDLXXVII (September 03, 2016) : "MARY'S GLORY" は2016年9月13日午前06時00分に掲載されました.
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2013年12月24日火曜日

335  リユ神父 II 12/14

エレイソン・コメンツ 第335回 (2013年12月14日)

     10月6日パリで行われたリユ神父( "Fr Olivier Rioult" )のインタビュー(エレイソン・コメンツ第333回を参照)から,もう一つ別の問題について引用(いんよう)させていただきます( "Let me quote Fr Olivier Rioult from his October 6 interview in Paris (cf. EC 333) on another question, …" ).いまカトリック教抵抗運動(ていこう うんどう)の内部(ないぶ)でしきりに論争(ろんそう)の対象(たいしょう)となっている問題(もんだい) - すなわち組織(そしき)に関(かん)する問題です( "… much disputed within today's Catholic Resistance – the question of organization." ).リユ神父はインタビューで(以下〈いか〉の二つの質問〈しつもん〉について)どう考えるか問(と)われています.すなわち,世界的な組織(せかいてきな そしき)を新(あら)たに作(つく)るのが可能(かのう)と考(かんが)えるか( "… whether he thought it was possible to set up a new worldwide organization, …" ),それとも長年(ながねん)のあいだ教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)たちを結(むす)びつけてきたような一種(いっしゅ)のゆるい自由(じゆう)な組織(そしき)の方が良いと考えるか( "… or would he rather opt for some kind of free association such as has grouped together sedevacantists for a number of years ? " ),を問われています( "Fr Rioult was asked whether he thought it was possible to set up a new worldwide organization, or would he rather opt for some kind of free association such as has grouped together sedevacantists for a number of years ? " ).以下は質問に対する彼の答えです.今回は彼自身かれ じしん)の言葉をそのまま引用します:-- ( "Here is his answer, this time in his very own words:-- " )

(引用はじまり)

     「私は今後(こんご)数か月(すうかげつ)のあいだに,抵抗運動内(ていこう うんどう ない)のほかのカトリック信徒との友情(ゆうじょう)をベースにした幅広い組織(はばひろい そしき)を設立(せつりつ)するかもしれません( "In the months to come I may be setting up a broad kind of association based on friendship with other Catholics in the Resistance, …" ).その際,彼らが教皇空位論者(きょうこう くうい しゅぎ しゃ)であるかどうかは問(とい)ません( "… whether or not they are sedevacantists, …" ).私にとって,教皇空位論は一つの意見(いけん)にしかすぎません ( "… sedevacantism being for me an opinion." ).ただし,いまのところ,そのような組織を立ち上げるには機が熟(き が じゅく)していません( "But the situation is not ripe here and now for such an association." ).いずれにせよ,カトリック教徒なら誰でも私たちの仲間(なかま)です( "In any case whatever is Catholic is ours." ).カトリック教徒として振る舞い(ふるまい),教会内に君臨(くんりん)する近代主義(きんだいしゅぎ)に抵抗(ていこう)する人たちであれば,私たちは誰とでも共(とも)に行動(こうどう)します( "So any Catholics ready to operate as Catholics and to resist the modernism reigning supreme within the Church, we will work with." ).したがって,私の答えは同じ共通(きょうつう)の善(ぜん):すなわちカトリック教会の信仰(しんこう)と礼拝(れいはい),(訳注・全人類に普遍〈ふへん〉の唯一のカトリック教会の)信仰の擁護(ようご)を分かち合う(わかちあう)幅広い(はばひろい)組織(そしき)であればイエス "yes" です ( "Therefore yes, to a broad kind of association sharing the same common good: the Faith and worship of the Catholic Church, the defence of the Faith." ).この共通の善を持つなら私たちの周(まわ)りのあらゆるグループ同士(どうし)のあいだに友情(ゆうじょう)を作り出だせます( "Having this same common good can create friendship amongst all our groups." ).」

     「私たちが終末の時(しゅうまつの とき)に近(ちか)づけば近づくほど,より多くのカトリック教徒は原理原則(げんり げんそく)でなく実践的(じっせん てき)に無政府主義者(むせいふ しゅぎしゃ)にならざるをえないだろうと私は考えます( " "I think that the closer we come to the end times, the more Catholics will have to be anarchists, not in principle but in practice." ).私が言いたいのは,カトリック教徒はあらゆる権力者(けんりょくしゃ)に逆(さか)らわざるをえないだろうということです( "By which I mean, they will have to be against all the powers that be, …" ).なぜなら,権力者は自然の秩序に反して行動するため,中和させ,弱らせ,倒さなければならないからです( "… because these will all have been neutralized, undermined or subverted, operating contrary to the natural order." ).だがら,カトリック教徒は教会(きょうかい),国家(こっか)を問(と)わずあらゆる権力者に抵抗(ていこう)せざるをえないでしょう( "Hence, in practice, Catholics will have to stand up to them all, in Church or State... " ).そうしなければ,カトリック教徒はフリーメーソンの影響(えいきょう)( "Masonic influence" )で歪(ゆが)められ,結局は現世の君主(げんせのくんしゅ)(=この世の君〈きみ〉"the Prince of this world" )に仕(つか)えることになるからです( "… because they will all be twisted out of shape, under Masonic influence... serving in any case the Prince of this world." )(訳注後記1).そういうわけで,私はより世界的な組織を作るのは極めて難しいと考えます( "So I think it will be very difficult to create any more worldwide structures." ).フランス人のドミニコ会司祭ロジェ・カルメル神父( "Fr Roger Calmel" )は物事(ものごと)について明確な考え(めいか くな かんがえ)を持った人物(もった じんぶつ)でした( "The French Dominican priest, Fr Roger Calmel, had a clear view of things." ).彼は1970年にすでに,組織内(そしきない)で自然(しぜん)に指導者の地位(しどうしゃの ちい)につく人たちは自らの職務(みずからの しょくむ)がその組織内で輝(かがや)くようにし( "As far back as 1970 he said that the natural leaders in any given place will have to make their ministry shine out in that one place, …" ),他(た)の組織の指導者たちと友情以上(ゆうじょう いじょう)の絆(きずな)で結(むす)びつきあわなければならないと述(の)べています( "… being tied by bonds of no more than friendship to the leaders in any other place." ) .」

     「彼は1970年,フランスの定期刊行物(ていき かんこうぶつ)「Itineraires (イティネレール)〈旅程〈りょてい〉〉」誌(し) "Itineraires"(149号)で次のように書いています( " "In 1970, in the French periodical "Itineraires" (#149), he wrote: …" ).『信仰を守る戦いは,きっちりとした世界的な組織(せかいてきな そしき)に入ることを拒(こば)む小(ちい)さなグループでなされなければならない( " "The fight for the Faith will have to be fought by little groups refusing to enter into any structured or universal organizations." ).そのようなさまざまなグループ,たとえば小さな学校(がっこう)( "a small school" ),粗末(そまつ)な女子修道会(じょし しゅうどうかい)( "a humble convent" ),祈祷集会(きとう しゅうかい)( "a prayer group" ),キリスト教徒(きょうと)の家族たちの集会(しゅうかい)( "a gathering of Christian families" ),巡礼(じゅんれい)の準備(じゅんび)・手配(てはい)をする集会でも( "… or the organizing of a pilgrimage, …" ),その権威(けんい)が本物(ほんもの)であり,誰(だれ)からも受け入れ(うけいれ)られていれば十分(じゅうぶん)である( "… the authority is real and accepted by everybody... " )( "Within these various groups, such as a small school, a humble convent, a prayer group, a gathering of Christian families or the organizing of a pilgrimage, the authority is real and accepted by everybody... " )….必要(ひつよう)なことは,個々(ここ)のカトリック教徒が自らの恩寵(おんちょう)の限界(げんかい)まで到達(とうたつ)し( "each Catholic to reach as far as his grace" ),権威者(けんいしゃ)が自(みずか)ら確実(かくじつ)に率(ひき)いる小さな領域(ちいさな りょういき)に身を置き(みを おき)( "… and authority will carry him in the little sphere which is certainly his to lead" ),自分を強要(きょうよう)するような大きな行政組織(ぎょうせい そしき)を上に持たず(うえに もたず),自らの職務(みずからの しょくむ)を果たす(はたす)ことである( "and which he will take charge of without having over him any grand administrative structures to make him do so" )( "All that is needed is for each Catholic to reach as far as his grace and authority will carry him in the little sphere which is certainly his to lead, and which he will take charge of without having over him any grand administrative structures to make him do so'. " " ).』」

(引用終わり)

     もし,カルメル神父が1970年当時(とうじ)の状況(じょうきょう)に照(て)らして上記(じょうき)のことを書(か)いたとすれば,彼はあまりにも先(さき)を見通(みとお)していたと言う人(いう ひと)がいるかもしれません( "If Fr. Calmel wrote that in 1970 for the circumstances of 1970, one might say either that he was seeing too far ahead, …" ).あるいは,人はルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )が SSPX ( = "the Society of St Pius X" = 聖ピオ10世会)を創設(そうせつ)することにより,1970年にはまだ他にできることがあったことを実証(じっしょう)したと言うかもしれません( "… or that Archbishop Lefebvre proved by organizing the Society of St Pius X what could still be done in 1970. " ).だが,私はカルメル神父が長い目(ながい め)で見て正(ただ)しかったと考えます( "But I do think that Fr. Calmel was right in the long run." ). SSPX に昨年(さくねん)起(お)きたことを見て,人は同会が砂に埋もれる(すなに うもれる)宿命(しゅくめい)にあったと言うかもしれません( "One might say, watching what happened to the Society last year, that it was bound to run into the sand." ).ルフェーブル大司教は教皇聖ピオ10世と同じように,驚くばかりの(カトリック教)延命工作(えんめい こうさく)をなされました( "Archbishop Lefebvre, like Pope St Pius X, conducted a marvelous rearguard action, …" ).同教皇より70年遅れて誕生したルフェーブル大司教がなされたことは,その分だけ少ないということなどなかったと人々は注目しています( "… but one notes how much less the Archbishop could achieve, coming70 years later than the Pope, …" ).私たちは大司教から40年遅れての誕生です( "… and now we are 40 years on from the Archbishop." ).破滅(はめつ)に向かう世界にあって,カルメル神父の預言の実現(よげんの じつげん)をいつまでも遅(おく)らせることはできません( "In a world marching to its ruin the realization of Fr. Calmel’s prophecy could not be indefinitely delayed. " ). 親愛なる読者の皆さん,私たちが私たちの主 "Our Lord" と共にとどまることを望(のぞ)むなら,気を引き締めて(きを ひきしめて)奮い立つ(ふるいたつ)以外(いがい)に選択(せんたく)はありません( "Dear readers, if we wish to stay with Our Lord, we have no choice but to gird our loins." ).私はカルメル神父もリユ神父も共に正しいと考えます( "In my opinion, Fr Calmel and Fr Rioult are right." ).神の御母(かみの おんはは),キリストを信じる私たちすべての最大の御助け(さいだいの おんたすけ)となられる方よ( "Help of Christians" ),お助け下さい!( "Mother of God, Help of Christians, help !" )(訳注)

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教



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第3パラグラフの訳注1
「この世の君〈きみ〉」 "the Prince of this world" について:

・サタン=悪魔〈あくま〉のこと.
・神(万物の創造主〈ばんぶつの そうぞうしゅ〉)に反逆〈はんぎゃく〉したサタン〈悪魔〉(被造物〈ひぞうぶつ〉)は,天から地(=現世)に落とされた.
・現世は堕落〈だらく〉した悪魔の支配下にある.
・悪魔は,唯一の真の創造主たる神の被造物たる全人類のうち,神を認めない人間の上に,現世における君主として君臨(くんりん)し,その支配(しはい)を及(およ)ぼしている.
・地上の人間が作り出したものはすべて,この世の君たるサタン(悪魔)の支配下にある.
・悪魔の代名詞は,「権力」「能力」「美」( Power )であり,これらにより悪魔は人間を惑(まど)わす.

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第6パラグラフの訳注

「聖マリアの連禱(祷)(れんとう)」 "Litaniæ Laurentanæ Beatæ Mariæ Virginis" からの引用:

「キリスト信者の助け」
"Auxílium christianórum" (Latinæ)
"Help of Christians" (English)
"Secours des chrétiens" (Français)

→ 聖マリアの称号の一つ

聖マリアは
・主(キリスト)の御降誕ミサ聖祭(クリスマス= Christmas = Christ+mass )で
・最もお側(傍)近くに留まられ(もっとも おそば ちかくに とどまられ)
・キリストを信じる私たちの最大の御助け(さいだいの おんたすけ)となられる方( "Help of Christians" )


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