エレイソン・コメンツ 第390回 (2015年1月3日)
客観から外れた心は,悪の一途を辿ります.
(きゃっかん から はずれた こころは, あくの いっとを たどり ます.)
( "Unhooked from the object, minds go very bad. " )
教会も 聖ピオ十世会( =SSPX)も 共に狂っています.
(きょうかいも せい ぴお じゅっせい かいも ともに くるって います.)
( "Church and Society have both gone mad. " )
今日の教会当局者に取って,「確固とした真実(=真理)は何も無く,教義も有りません.全てが進化しているのです.」(こんにちの きょうかい とうきょく しゃ に とって,「かっこ とした しんじつ〈=しんり〉は なにもなく,きょうぎも ありません.すべてが しんか している のです.」)( "For today's Church authorities “there is no fixed truth, there is no dogma. Everything is evolving.” " )これは(此れは・是は・惟は)ルフェーブル大司教(1905-1991年)が1991年に述べられたお(御)言葉です(先週のエレイソン・コメンツを参照下さい)(これは るふぇーぶる だいしきょう〈せん きゅうひゃく ご ねん-せん きゅうひゃく きゅうじゅう いち ねん〉が せん きゅうひゃく きゅうじゅう いち ねんに のべられた おことば です〈せんしゅうの えれいそん・こめんつを さんしょう ください〉)( "So said Archbishop Lefebvre (1905-1991) in 1991 (see last week's “Eleison Comments”). " ).大司教はその(其の)生涯の終わりに近づいた時期,ご(御)自分が信仰擁護の為に何と戦って来たかを,それまで(其れ迄)以上にはっきりと悟りました(だいしきょうは その しょうがいの おわりに ちかづいた じき,ごじぶんが しんこう ようごの ために なにと たたかって きたかを,それまで いじょうに はっきりと さとりました)( "For at the end of his life the Archbishop saw more clearly than ever what he had been up against in his heroic defence of the Faith." ).大司教の死後間も無く聖ピオ十世会(SSPX)を踏襲したリベラル派(=自由主義派)(自らリベラル派と自覚していなかったかも知れませんが)は(だいしきょうの しご まもなく せいぴお じゅっせい かいを とうしゅう した りべらる は〈=じゆう しゅぎ は〉〈みずから りべらるはと じか くしていなかった かも しれませんが〉は)( "Since then the liberals (unknown to themselves as such ?) who took over his Society of St Pius X as soon as he was gone, …" ),それ(其れ)以来,大司教が明確にした問題の重大性を理解しないまま(儘・侭)今日に至っています(それ いらい,だいしきょうが めいかくに した もんだいの じゅうだい せいを りかい しない まま こんにちに いたって います)( "… have still not understood the gravity of the problem as identified by the Archbishop. " ).従って,私は新年に当たり(当り)(したがって,わたくしは しんねんに あたり)( "Therefore let these “Comments” open the New Year …" ),エレイソン・コメンツを通して今日の教会と世界が抱える致命傷が何であるか(有るか)をもう一度明確に提起してみたい(見たい)と思います(えれいそん・こめんつを とおして こんにちの きょうかいと せかいが かかえる ちめいしょうが なんで あるかを もう いちど めいかくに ていき して みたいと おもいます)( "… by attempting once more to lay open the mortal wound of today's Church and world." ).
〔問答 § 1 邦訳/英語原文〕(もんどう だい いっ こう ほうやく/えいご げんぶん)
今日の教会当局者にとって,「確固とした真実(=真理)は何もなく,教義も有りません.全てが進化しているのです.」これはルフェーブル大司教(1905-1991年)が1991年に述べられたお言葉です(先週のエレイソン・コメンツを参照ください).大司教はその生涯の終わりに近づいた時期,ご自分が信仰擁護の為に何と戦って来たかを,それまで以上にはっきりと悟りました.大司教の死後間も無く聖ピオ十世会(SSPX)を踏襲したリベラル派(=自由主義派)(自らリベラル派と自覚していなかったかも知れませんが)は,それ以来,大司教が明確にした問題の重大性を理解しないまま今日に至っています.従って,私は新年に当たり(当り),エレイソン・コメンツを通して今日の教会と世界が抱える致命傷が何であるかをもう一度明確に提起してみたいと思います.
For today's Church authorities “there is no fixed truth, there is no dogma. Everything is evolving.” So said Archbishop Lefebvre (1905-1991) in 1991 (see last week's “Eleison Comments”). For at the end of his life the Archbishop saw more clearly than ever what he had been up against in his heroic defence of the Faith. Since then the liberals (unknown to themselves as such ?) who took over his Society of St Pius X as soon as he was gone, have still not understood the gravity of the problem as identified by the Archbishop. Therefore let these “Comments” open the New Year by attempting once more to lay open the mortal wound of today's Church and world.
イマヌエル・カント(1724-1804年)が,人間の心は客観をありのままに(有りの儘〈侭〉に)知る事は出来ないと言う全く間違った考え方に基づいて人間による神の現実拒否を哲学的に確立した時(いまぬえる・かんとが,にんげんの こころは きゃっかんを ありの ままに しる ことは できない という まったく まちがった かんがえかたに もとづいて にんげんに よる かみの げんじつ きょひを てつがく てきに かくりつ した とき),( "When Immanuel Kant (1724-1804) erected man's refusal of God's reality into a philosophical system, based on his utterly false proclamation that the human mind cannot know the object as it is in itself, …" ),世界中の大学の哲学部が狂気を街中にまき散らし(撒き散らし)始めました(せかいじゅうの だいがくの てつがくぶが きょうきを まちじゅうに まきちらし はじめ ました)( "… then the philosophy department of universities all over the world began to spill craziness into the streets, …" ).人々は自由を自分達の神としたい(為たい)と望み,カントが彼等に最高の解放,すなわち(即ち)客観からの心の解放を与えたからです(ひとびとは じゆうを じぶんたちの かみと したいと のぞみ,かんとが かれらに さいこうの かいほう,すなわち きゃっかん からの こころの かいほうを あたえた から です)( "… because people wanted to make freedom their god and Kant offered them the supreme liberation, that of the mind from its object." ).
〔問答 § 2 邦訳/英語原文〕(もんどう だい に こう ほうやく/えいご げんぶん)
イマヌエル・カント(1724-1804年)が,人間の心は客観をありのままに知ることはできないというまったく間違った考え方に基づいて人間による神の現実拒否を哲学的に確立したとき,世界中の大学の哲学部が狂気を街中にまき散らし始めました.人々は自由を自分たちの神としたいと望み,カントが彼らに最高の解放,すなわち客観からの心の解放を与えたからです.
When Immanuel Kant (1724-1804) erected man's refusal of God's reality into a philosophical system, based on his utterly false proclamation that the human mind cannot know the object as it is in itself, then the philosophy department of universities all over the world began to spill craziness into the streets, because people wanted to make freedom their god and Kant offered them the supreme liberation, that of the mind from its object.
カントの幻想にまだ(未だ)毒されていないカトリック信徒は(かんとの げんそうに まだ どくされて いないかとりっく しんとは),神と神の天国が自分達の小さな心の外に独立した物として存在しており(かみと かみの てんごくが じぶんたちの ちいさな こころの そとに どくりつ した もの として そんざい しており)( "Now Catholics not yet contaminated by the Kantian fantasy know that God and his Heaven exist quite outside of, and independently of, their little minds, …" ),従って自分達が永遠に幸福で在りたいと願うなら(したがって じぶんたちが えいえんに こうふくで ありたいと ねがう なら),心は主観的な幻想でなく客観的現実と係わって(=関わって)行くべきである事を知っています(こころは しゅかん てきな げんそう でなく きゃっかん てき げんじつと かかわって いくべき である ことを しって います)( "… and so if they want to be happy for eternity their minds had better deal in objective reality and not in subjective fantasy. " ).そのため(其の為),一世紀半の間,神が御与えになった歴代の反リベラル派教皇達は自由主義世界がこれ以上狂い続けない様にしようと立ち上がり(そのため,いっせいき はん の あいだ,かみが おあたえに なった れきだいの はん りべらるは きょうこう たちは じゆうしゅぎ せかいが これ いじょう くるい つづけ ない ように しようと たちあがり)( "Therefore for a century and a half a God-given series of anti-liberal Popes stood up to the liberal world going constantly more crazy all around, …" ),教会を一流で人気を得た主観主義に影響されない様守って(=保護して)来ました(きょうかいを いちりゅうで にんきを えた しゅかん しゅぎに えいきょう されない よう まもって〈=ほごして〉きました)( "… and these protected the Church from the prestigious and popular subjectivism." ).しかし(然し),1950年代になると,教会の枢機卿や司教達の祈りは(しかし,せん きゅうひゃく ごじゅう ねんだいに なると,きょうかいの すうききょう や しきょう たちの いのりは,),信徒達の心( "their minds and hearts" )を教会内部で「モダニズム(近・現代主義)」として知られる様になった狂気から守り続ける程十分に強くなくなってしまい(終い・仕舞い)ました(しんと たちの こころを きょうかい ないぶで「もだにずむ〈きん・げんだい しゅぎ〉」として しられる ように なった きょうき から まもり つづける ほど じゅうぶんに つよく なくなって しまい ました)( "But by the 1950's the Church's cardinals and bishops were not praying enough to maintain this protection of their minds and hearts from the madness, known within the Church as “modernism”, …" ).その為,1958年のコンクラーベ( "the conclave of 1958" )で彼等は自らの意思で「善良」と目された教皇ヨハネ23世を選出しました(そのため,せん きゅうひゃく ごじゅうはち ねんの こんくらーべで かれらは みずからの いしで「ぜんりょう」と もくされた きょうこう よはね にじゅうさん せいを せんしゅつ しました)( "… and so in the conclave of 1958 they elected one of their own, the supposedly “good” John XXIII, …" ).彼はリベラル派で(自らそう認識していたかどうか〈如何か〉は神のみぞ知るですが)(かれは りべらるは で〈みずから そう にんしき していた かどうかは かみ のみぞ しる ですが〉),1962年にまさしく(正しく)あの破滅的な第二バチカン公会議を立ち上げました(せん きゅうひゃく ろくじゅうに ねんに まさしく あの はめつ てきな だいに ばちかん こうかいぎを たちあげ ました)( "… a liberal (unknown to himself as such ? God knows), who duly launched in 1962 the disastrous Second Vatican Council. " ).
〔問答 § 3 邦訳/英語原文〕(もんどう だい さん こう ほうやく/えいご げんぶん)
カントの幻想にまだ毒されていないカトリック信徒は,神と神の天国が自分たちの小さな心の外に独立したものとして存在しており,したがって自分達が永遠に幸福でありたいと願うなら,心は主観的な幻想でなく客観的現実とかかわって行くべきであることを知っています.そのため,一世紀半のあいだ,神がお与えになった歴代の反リベラル派教皇たちは自由主義世界がこれ以上狂い続けないようにしようと立ち上がり,教会を一流で人気を得た主観主義に影響されないよう守ってきました.しかし,1950年代になると,教会の枢機卿や司教たちの祈りは,信徒たちの心を教会内部で「モダニズム」として知られるようになった狂気から守り続けるほど十分に強くなくなってしまいました.そのため,1958年のコンクラーベで彼らは自らの意思で「善良」と目されたヨハネ23世を教皇に選出しました.彼はリベラル派で(自らそう認識していたかどうかは神のみぞ知るですが),1962年にまさしくあの破滅的な第二バチカン公会議を立ち上げました.
Now Catholics not yet contaminated by the Kantian fantasy know that God and his Heaven exist quite outside of, and independently of, their little minds, and so if they want to be happy for eternity their minds had better deal in objective reality and not in subjective fantasy. Therefore for a century and a half a God-given series of anti-liberal Popes stood up to the liberal world going constantly more crazy all around, and these protected the Church from the prestigious and popular subjectivism. But by the 1950's the Church's cardinals and bishops were not praying enough to maintain this protection of their minds and hearts from the madness, known within the Church as “modernism”, and so in the conclave of 1958 they elected one of their own, the supposedly “good” John XXIII, a liberal (unknown to himself as such ? God knows), who duly launched in 1962 the disastrous Second Vatican Council.
第二バチカン公会議がなぜ(何故)破滅的だったのでしょうか?(だいに ばちかん こうかいぎが なぜ はめつ てき だった のでしょうか?)( "Why disastrous ? " )それは,主観主義の狂気(客観的現実の拒絶)が教会の最高権力者によって(依って)非難される代わりに(それは,しゅかん しゅぎの きょうき〈きゃっかん てき げんじつの きょぜつ〉が きょうかいの さいこう けんりょく しゃに よって ひなん される かわりに),容認され(意図的か意図的でないか神のみぞ知るですが)(ようにんされ〈いと てき か いと てき でないか かみ のみぞ しる ですが〉),教会の教理,行動の正式な基盤にされてしまったからです(きょうかいの きょうり,こうどうの せいしきな きばんに されて しまった から です)( "Because the madness of subjectivism (the refusal of objective reality), instead of being still utterly condemned by the Church's highest authorities, was now adopted by them and made (consciously or unconsciously ? – God knows) into the official basis of Church doctrine and action." ).これ以上深刻な問題は有りません(これ いじょう しんこくな もんだいは ありません)( "The problem could not be graver." ).救済という神の諸諸の客観的真実(=客観的真理)を守るべく任命された神の真の教会の当局者達が(きゅうさい という かみの もろもろの きゃっかん てき しんじつ〈=きゃっかん てき しんり〉を まもる べく にんめい された かみの まことの きょうかいの とうきょくしゃ たちが)( "The officials of God's true Church, appointed to proclaim and defend God's objective truths of salvation, …" ),この時以降,自らの主観的な心を通してその真実(=真理)をろ過(濾過)する様になったからです(このとき いこう,みずからの しゅかん てきな こころ を とおして その しんじつ〈=しんり〉を ろか する ように なった から です)( "… were henceforth filtering these through their subjectivist minds." ).最良の葡萄酒(ワイン)を蓄えるのに,如何わしいボトル(=洋酒用瓶)しか持てなくなった状態を想像してみて下さい(さいりょうの ぶどうしゅ〈わいん〉を たくわえる のに,いかがわしい ぼとる (ようしゅ よう びん) しか もてなく なった じょうたいを そうぞう してみて ください)( "Imagine having nothing other than filthy bottles in which to store the best of wine." ).これでは破滅の一途を辿るだけです(これ では はめつの いっとを たどる だけ です)( "It can only be ruined." ).今日の公会議派教会当局者達は神の真実(=真理)を破滅させるだけです(こんにちの こうかいぎは きょうかい とうきょくしゃ たちは かみの しんじつ〈=しんり〉を はめつ させる だけ です)( "Today's Conciliar Church officials can only ruin God's truth." ).
〔問答 § 4 邦訳/英語原文〕(だい よん こう ほうやく/えいご げんぶん)
第二バチカン公会議がなぜ破滅的だったのでしょうか?それは,主観主義の狂気(客観的現実の拒絶)が教会の最高権力者によって非難される代わりに,容認され(意図的か意図的でないか神のみぞ知るですが),教会の教理,行動の正式な基盤にされてしまったからです.これ以上深刻な問題はありません.救済という神の客観的真実を守るべく任命された神の真の教会の当局者たちが,このとき以降,自らの主観的な心を通してその真実をろ過するようになったからです.最良のワインを蓄えるのに,いかがわしいボトルしか持てなくなった状態を想像してみてください.これでは破滅の一途をたどるだけです.今日の公会議派教会当局者たちは神の真実を破滅させるだけです.
Why disastrous ? Because the madness of subjectivism (the refusal of objective reality), instead of being still utterly condemned by the Church's highest authorities, was now adopted by them and made (consciously or unconsciously ? – God knows) into the official basis of Church doctrine and action. The problem could not be graver. The officials of God's true Church, appointed to proclaim and defend God's objective truths of salvation, were henceforth filtering these through their subjectivist minds. Imagine having nothing other than filthy bottles in which to store the best of wine. It can only be ruined. Today's Conciliar Church officials can only ruin God's truth.
1991年に(せん きゅうひゃく きゅうじゅう いち ねんに)ルフェーブル大司教が以下の様に述べられたのは,正しくこの為です.(るふぇーぶる だいしきょうが いかの ように のべられた のは,まさしく このためです)( "Here is why the Archbishop said in 1991, …" ).「私達は私達と異なる哲学を持ち,異なる物の見方をし,近代の諸諸の主観的哲学者に影響されている(教会トップの)人々を相手にしています(わたくし たちは わたくし たちと ことなる てつがくを もち,ことなる ものの みかたを し,きんだいの もろもろの しゅかん てき てつがく しゃに えいきょう されて いる(きょうかい とっぷ の)ひとびとを あいてに して います)( " “We are dealing with people (at the top of the Church) who have a different philosophy from ours, a different way of seeing, who are influenced by all modern subjectivist philosophers." ).彼等に取って,確固とした真実(=真理)は何も無く,教義も有りません(かれらに とって,かっこ とした しんじつ〈=しんり〉は なにも なく,きょうぎも あり ません).全てが進化していると言うのです(すべてが しんか して いると いう のです).これは正しく信仰のフリーメーソン的破壊です(これは まさしく しんこうの ふりーめーそん てき はかい です).幸いな事に,私達(伝統派)には頼るべき(真の)伝統が有ります(さいわいな ことに わたくし たち〈でんとうは〉には たよる べき〈まことの〉でんとうが あります).」
〔問答 § 5 邦訳/英語原文〕(だい ご こう ほうやく/えいご げんぶん)
1991年にルフェーブル大司教が以下のように述べられたのは,まさしくこのためです.「私たちは私たちと異なる哲学を持ち,異なる物の見方をし,近代の主観的哲学者に影響されている(教会トップの)人々を相手にしています.彼らにとって,確固とした真実はなにもなく,教義もありません.すべてが進化しているというのです.これはまさしく信仰のフリーメーソン的破壊です.幸いなことに,私たち(伝統派)には頼るべき(真の)伝統があります.」
Here is why the Archbishop said in 1991, “We are dealing with people (at the top of the Church) who have a different philosophy from ours, a different way of seeing, who are influenced by all modern subjectivist philosophers. For them, there is no fixed truth, no fixed dogma. Everything is evolving. This is really the Masonic destruction of the Faith. Fortunately we (Traditionalists) have Tradition to lean on.”
だが,真の伝統を導いてくれる(呉れる)大司教が亡き今,その真の伝統に何が起きているでしょうか?(だが,まことの でんとうを みちびいて くれる だいしきょうが なき いま,その まことの でんとうに なにが おきて いる でしょうか?)( "But what has happened to Tradition without the Archbishop to guide it ? " )悲しい哉(悲しいかな),40年の間客観的信仰擁護の先頭に立って来た聖ピオ十世会(= SSPX )トップの権力者達は(かなしいかな,よんじゅう ねんの あいだ きゃっかん てき しんこう ようごの せんとうに たって きた せい ぴお じゅっせい かい とっぷの けんりょく しゃ たちは)( "Alas, the authorities at the top of his Society of St Pius X, which for some 40 years spearheaded the defence of the objective Faith, …" ),自らの心が主観主義に冒されるのを防ぐに十分なほど真剣に祈りを捧げていません(みずからの こころが しゅかん しゅぎに おかされる のを ふせぐに じゅうぶんな ほど しんけんに いのりを ささげて いません)( "… cannot have been praying seriously enough to protect their minds and hearts from being in turn infected by subjectivism." ).彼等もまた(又・復・亦)客観的真実(=真理)の最重要性を見失っており(かれらも また きゃっかん てき しんじつ〈=しんり〉の さい じゅうよう せいを みうしなって おり)( "They too have lost the primacy of objective truth, …" ),漁師にもてあそ(弄)ばれる魚の様にローマ人達によって(依って・因って)弄ばれています(りょうしに もてあそ ばれる うおの ように ろーま じん たちに よって もてあそ ばれて います)( "… and so they are being played by the Romans like a fish is played by a fisherman." ).ルフェーブル大司教,どうぞ私達の為にお祈り下さい!(るふぇーぶる だい しきょう,どうぞ わたくし たちの ために おいのり ください!)( "Archbishop Lefebvre, pray for us ! " )
〔問答 § 6 邦訳/英語原文〕(だい ろっこう ほうやく/えいご げんぶん)
だが,伝統を導いてくれる大司教が亡きいま,伝統に何が起きているでしょうか? 悲しいかな,40年のあいだ客観的信仰擁護の先頭に立ってきたSSPXトップの権力者たちは,自らの心が主観主義に冒されるのを防ぐに十分なほど真剣に祈りを捧げていません.彼らもまた客観的真実の最重要性を見失っており,漁師にもてあそばれる魚のようにローマ人たちによってもてあそばれています.ルフェーブル大司教,どうぞ私たちのためにお祈りください!
But what has happened to Tradition without the Archbishop to guide it ? Alas, the authorities at the top of his Society of St Pius X, which for some 40 years spearheaded the defence of the objective Faith, cannot have been praying seriously enough to protect their minds and hearts from being in turn infected by subjectivism. They too have lost the primacy of objective truth, and so they are being played by the Romans like a fish is played by a fisherman. Archbishop Lefebvre, pray for us !
キリエ・エレイソン(きりえ・えれいそん)
(主よ憐れみ給え)(しゅよ あわれみ たまえ)
( "Kyrie eleison." ).
リチャード・ウィリアムソン司教
(りちゃーど・うぃりあむそん しきょう)
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(注:本投稿記事〈第390回エレイソン・コメンツ「大司教のコメント I "ARCHBISHOP COMMENTED – I" 」( 2015年1月3日付)は2015年6月5日14:40に掲載されました.)
2015年1月3日土曜日
2014年4月5日土曜日
351 真実性のない列聖 4/5
エレイソン・コメンツ 第351回 (2014年4月5日)
二人の公会議派教皇(ふたりの こうかいぎは きょうこう),ヨハネ23世(よはね にじゅう さんせい)とヨハネ・パウロ2世(よはね ぱうろ にせい)の列聖(れっせい)が( "The “canonisation”of two Conciliar Popes, John XXIII and John-Paul II, …" ),今月最後の日曜日(こんげつ さいごの にちようび)(4月27日)に予定(よてい)されており( "… is scheduled for the last Sunday of this month, …" ),信仰心の篤い(しんこうしんの あつい)カトリック教信者(かとりっくきょう しんじゃ)の多く(おおく)はこのことに恐怖心(きょうふしん)を抱いて(いだいて)います( "…and many believing Catholics are scared stiff." ).信者たちは両教皇(りょう きょうこう)がいずれも教会の(客観的)破壊者(きょうかいのきゃっかんてき はかいしゃ)だったことを知っている(しっている)からです( "They know that the Conciliar Popes have been (objective) destroyers of the Church." ).信者たちは教会が列聖の不可謬性(れっせいの ふかびゅうせい)を保持していることを知っています( "They know that the Church holds canonisations to be infallible." ).彼ら(かれら)はヨハネ23世,ヨハネ・パウロ2世が聖者(せいじゃ)だと信じるよう強いられる(しんじるよう しいられる)のでしょうか?( "Are they going to be forced to believe that John XXIII and John-Paul II are Saints ? " ) そう考えるとびっくり仰天(ぎょうてん)したくなるでしょう.( "It boggles the mind. " ).だがその必要(ひつよう)はありません.
2013年8月に,私(わたし)はエレイソン・コメンツ(えれいそん・こめんつ)の中(なか)で( "In August of last year these “Comments” …" ),新教会(しんきょうかい)( "Newchurch" )の列聖(れっせい)は公会議以前(こうかいぎ いぜん)の列聖とはまったく異なる現実(ことなる げんじつ)だから,カトリック信徒(しんと)は公会議後(こうかいぎ ご)の列聖を完全無欠(かんぜん むけつ)なものと信じる必要(しんじる ひつよう)はないと述(の)べました( "… stated the fact that Newchurch “canonisations” are such a different reality from pre-Conciliar canonisations that no Catholic need believe that the post-conciliar canonisations are infallible." ).私は間違って(まちがって)いなかったのですが,単に事実を指摘(たんに じじつを してき)しただけで,その理由(りゆう)に触れ(ふれ)ませんでした( "I was not wrong, but while I stated the fact that this is so, I did not give the reason why, …" ).理由は物事を知る(りゆうは ものごとを しる)優れた方法(すぐれた ほうほう)です( "… which is a superior way of knowing something." ).私が(理由に)触れなくても,たぶん1989年のことだったとおもいますが,ある修養会(しゅうよう かい)( "a retreat conference" )の席(せき)でルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )はその本当の理由(ほんとうの りゆう)を私たちに与えて(わたしたちに あたえて)くださいました" )( "On the contrary in a retreat conference, perhaps of 1989, Archbishop Lefebvre gave the deep-down reason why. …" ).大司教が言(い)われたその理由とは ―― モダニスト(近現代主義者)たちの精神腐敗 ( "modernist mind-rot" )(もだにすと〈きんだいしゅぎしゃ〉たちのせいしんふはい)( "… This reason – modernist mind-rot -- …" )―― このことが公会議革命(こうかいぎ かくめい)のすべてを正しく理解する(ただしく りかいする)のに極めて重要なこと(きわめてじゅうようなこと)です( "… -- is crucial to understand correctly the whole Conciliar Revolution." ).
ルフェーブル大司教はそのとき,二人の公会議派教皇(ふたりの こうかいぎは きょうこう)は現代の大衆(げんだいの たいしゅう)と同じ(おなじ)ように,いかなる真実(しんじつ)も不変(ふへん)なものだとは信じて(しんじて)いないと言われました( "The Archbishop said that like a mass of modern men, the Conciliar Popes do not believe in any truth being stable." ).たとえば,ヨハネ・パウロ2世の思考形成(しこう けいせい)は真実は時代と共に(しんじつは じだいと ともに)進化(しんか),変化(へんか)し,科学(かがく)などの進歩(しんぽ)につれ発展(はってん)するという考え(かんがえ)に基(もと)づいています( "For instance John-Paul II’s formation was based on truth evolving, moving with the times, progressing with the advance of science, etc.. " ).同教皇は1988年に聖ピオ10世会( "SSPX" )がおこなった一連の聖別(いちれんの せいべつ)を無効(むこう)としましたが,真実は決(けっ)して固定的(こていてき)なものでないから,というのがその理由でした( "Truth never being fixed is the reason why in 1988 John-Paul II condemned the SSPX’s Episcopal Consecrations, …" ).彼は,カトリック教の伝統(でんとう)は生き物(いきもの)で変化(へんか)するのに対(たい)し, SSPX の列聖(れっせい)はそれが固定的だという考え方(かんがえ かた)に基(もと)づいていると指摘(してき)しました( "… because they sprang from a fixed and not living or moving idea of Catholic Tradition." ).確か(たしか)にカトリック信徒は信仰宣言(しんこう せんげん)(=使徒信経〈しとしんきょう〉・クレド)( "the Credo" )のすべての言葉(ことば)は不可変(ふかへん)のものと信(しん)じています( "For indeed Catholics hold, for example, every word in the Credo to be unchangeable, …" ).なぜなら,そこに含(ふく)まれる言葉は信仰の不変の真実(しんこうの ふへんの しんじつ)を可能な限り(かのうな かぎり)完全に表す(かんぜんに あらわす)ため長期間(ちょう きかん)にわたって打ち出された(うち だされた)もので( "… because the words have been hammered out over the ages to express as perfectly as possible the unchanging truths of the Faith, …" ),間違い(まちがい)なく教会の過去(きょうかいの かこ)の歴代教皇(れきだい きょうこう)や公会議(こう かいぎ)によって定(さだ)められてきたものだからです( "… and these words have been infallibly defined by the Church’s Popes and Councils." ).
もう一つ別の例(もうひとつ べつの れい)とした本来の意味の列聖(ほんらいの いみのれっせい)を挙(あ)げます( "True canonisations are another example: …" ).(1)教皇は教皇として宣言します.(すなわち)( " (1) the Pope pronounces as Pope, …" ) (2)信仰と倫理(しんこうと りんり)のモデル(もでる)たりうる然(しか)るべき人物(じんぶつ)を( " (2) such and such a person to be a model of faith and morals, …" ) ,(3)最終的(さいしゅうてき)に( " (3) once and for all (nobody used to get uncanonised), …" ),(列聖は決して取り消されない〈けっして とりけされない〉ものとされてきました),(4)教会全体(きょうかい ぜんたい)がこのようなモデルとして受け入れる(うけいれる)ように(宣言します)( " (4) for all the Church to accept as such a model." ).本来(ほんらい)はそういうものですから( "As such, …" ),これまでの列聖は無謬の教会(むびゅうの きょうかい)の教(おし)えたりうる4条件(よん じょうけん)を満(み)たしてきましたし( "… canonisations used to fulfil the four conditions of infallible Church teaching, …" ),それは完全無欠(かんぜん むけつ)(=無謬〈むびゅう〉=絶対正しい〈ぜったい ただしい〉=絶対正義〈ぜったいせいぎ〉)だと信(しん)じられてきました( "… and they were held to be infallible." ).だが,真実は不変・不可変(しんじつは ふへん・ふかへん)というこのカトリック教の考え(かとりっくきょうの かんがえ)は公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちのような不安定な現代人(ふあんていな げんだいじん)( "…fluid modern minds" )にとっては考(かんが)えられないものなのです( "…But this Catholic idea of an unchangeable truth is inconceivable for fluid modern minds like those of the Conciliar Popes." ).彼ら(かれら)にとって,真実(しんじつ)とは人生であり,ある人生が完成に向かって(かんせいに むかって)発展(はってん),進化(しんか),成長(せいちょう)し続(つづ)けるようなものです( "For them, truth is life, a life developing, evolving, growing towards perfection. " ).だとしたら,公会議派教皇が無謬の列聖(むびゅうの れっせい)をどうして執り行(とりおこな)えるでしょうか( "How then can a Conciliar Pope perform, …" ).それを信徒(しんと)に押し付ける(おし つける)など,とんでもないじゃありませんか?( "… let alone impose, an infallible canonisation ? " )
ルフェーブル大司教は,ある公会議派教皇がそのような列聖を行(おこな)った後,自身の考えかた(じしんの かんがえかた)にどう反応(はんのう)するだろうか想像(そうぞう)したことがあります( "The Archbishop imagines how a Conciliar Pope might react to the idea of his having done any such thing: …" ).その教皇(きょうこう)は「オー・ノー(おー・のー)!もし将来(しょうらい),私が列聖した人物(じんぶつ)が必要な資質(ひつような ししつ)に欠けて(かけて)いるとわかったら( "… “Oh no ! If ever in the future it turns out that the person I canonised did not have all the qualities required, …" ),私は彼の今回一度限りの神聖さ(しんせいさ)( "sanctity" )(に基(もと)づいて)でなく彼の美徳(びとく)( "virtue" )に基(もと)づいて決定(けってい)したと,私の後継者の誰(わたしの こうけいしゃの だれか)かが宣言(せんげん)してもよいではないか」と言うのでしょうか( " … well, some successor of mine may well declare that I made a declaration on that person’s virtue but not a once and for all definition of their sanctity.” " ).教皇の「宣言」( "declaration" )により行(おこな)われた「列聖(れっせい)」( "canonising" )は,出身国の大統領(しゅっしんこくの だいとうりょう)や地元のキリスト教徒(じもとの きりすと きょうと)を喜(よろこ)ばせ( "Meanwhile the “canonising” Pope’s “declaration” has made the President of the local Republic and the local Christians happy, …" ),彼らに祝賀会を開く(しゅくがかいを ひらく)口実を与えた(こうじつを あたえた)ことでしょう( "… and he has given them all an excuse to have a party to celebrate." ).
もし,このことを考えるなら( "If one thinks about it, …" ),ルフェーブル大司教の行った説明(せつめい)は新教会(しんきょうかい)のあらゆることに当て(あて)はまります( "… this explanation of the Archbishop applies to the Newchurch across the board..第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)がしていることは( "What we have in Vatican II is …" ),天国に通じる(てんごくに つうじる)神の不変の真理の美しさ(かみの ふへんの しんりの うつくしさ)という難題(なんだい)を( "… is the demanding beauty of God’s unchangeable Truth, which leads to Heaven, …" ),人間(にんげん)の変わり易い幻想(かわりやすい げんそう)という安易な醜さ(あんいな みにくさ)に置き換える(おきかえる)ことです( "… being replaced by the undemanding ugliness of man’s fluid fantasy, which may lead to Hell but enables man, as he thinks, to take the place of God." ).後者(こうしゃ)は人を地獄に陥れる(ひとを じごくに おとしいれる)かもしれませんが,人が(ひとが)神に取って代わる(かみに とって かわる)ことを可能(かのう)にすると,大司教は考えます.このプロセス(ぷろせす)でカギとなる一歩(かぎとなる いっぽ)は人の心(ひとの こころ)を現実(げんじつ)から外れ(はずれ)させることです( "The key step in this process is the unhooking of the mind from reality." ).このプロセスを近代主義(きんだい しゅぎ)(=モダニズム〈もだにずむ〉)( "modernism" )として今日の教会(こんにちの きょうかい)に当てはめるなら( "When the process is applied today to the Church as modernism, …" ),結果(けっか)は以前に起きた(いぜんに おきた)ことまったく異(こと)なるため( "… the results are so totally unlike what went before …" ),新しい現実(あたらしい げんじつ)には,どうしても新教会(しん きょうかい)( "Newchurch" ),新列聖(しん れっせい)( "Newcanonisations" ),新聖人(しん せいじん)( "Newsaints" )等々(とうとう)といった新しい名前(あたらしい なまえ)が必要(ひつよう)になるでしょう( "… that the new realities absolutely call for new names: Newchurch, Newcanonisations, Newsaints, etc.." ).結局(けっきょく)のところ,公会議派の人々(こうかいぎはの ひとびと)はなにもかも新しく(あたらしく)することに誇り(ほこり)をもっているということではないでしょうか?( "After all, are not the Conciliarists proud of making everything new ? " )
キリエ・エレイソン.
カトリック信徒は間近(まぢか))にせまった公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)の列聖(れっせい)に誤りはないと信じる必要(あやまりは ない と しんじる ひつよう)などありません( "No Catholic need believe that the imminent canonisation of Conciliar Popes will be infallible, …" ).なぜなら,それは精神腐敗(せいしん ふはい)から生(しょう)じた結果(けっか)なのですから( "… because it will proceed from mind-rot. " ).
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(訳注)
「人間の生命(にんげんの せいめい)」について.
・現世(げんせ)で如何なる宗教(いかなるしゅうきょう)に入信(にゅうしん)していようと
していまい(=無宗教)と,
事実(じじつ)として「世の真の理は唯一(よの まことの ことわりは ゆいいつ)」であり,
カトリック教(公教〈こうきょう〉)ではその「世の唯一の真の理」を「神」と呼ぶ.
・また,現世が存在するように,来世(らいせ)も確かに存在(たしかに そんざい)する.
・現世での生き様(いきざま)の正しさ如何(ただしさ いかん)で, 来世での生命(いのち)が決まる(きまる)のは事実(じじつ)である.
・現世(人生〈じんせい〉)で善人(ぜんにん)であった者(もの),人生の最後の一瞬(じんせいの さいごの いっしゅん)でも悔悛(かいしゅん)して善人となった者(もの)には, 来世での永遠の安息(えいえんの あんそく)(=安らかな休息〈やすらかな きゅうそく〉)が約束(やくそく)されている(=永遠の生命〈えいえんのいのち〉)が,
・現世で他者に憐みを持たない悪人(たしゃに あわれみを もたない あくにん)であった者や,
・人生の最後の瞬間まで悔悛(=回心)(じんせいの さいごの しゅんかんまで かいしゅん〈=かいしん〉)しなかった者は,
・天賦の生命に感謝(てんぷの せいめいに かんしゃ)して人生を正しく全う(じんせいを ただしくまっとう)しなかったため, また,他人が天賦の生命を全うすることを悪意をもって妨げた(あくいを もって さまたげた)ため,永劫の罰(えいごうの ばつ)を真の神から受ける(まことの かみから うける).
・この真(まこと)の理(ことわり)に,現世の宗教の名前や正邪の如何(しゅうきょうの なまえや せいじゃの いかん)は関係(かんけい)しない.
・この「真理」を
「遍く(あまねく)古今東西(ここんとうざい)の カトリック(公〈おおやけ〉)の神・公の教え(おおやけの おしえ)」と呼ぶ.
・人間は自分から生まれたのではなく,天の御父なる唯一の真の神から生命(いのち)を授かって(さずかって)父母を通じて(ふぼを つうじて)生まれてくる. 自分の生命(じぶんの せいめい)は,自分ひとりの持ち物(もちもの)ではなく,真の神に対して責任(せきにん)がある.
・神の所有物に関わる事物(かみの しょゆうぶつに かかわる ことぶつ)を,人間が好き勝手に操作する(にんげんが すきかってに そうさする)ことは,万物の創造主たる神(ばんぶつの そうぞうしゅたる かみ)に対する越権行為(えっけん こうい)であり,
・それは神の善に反逆したあらゆる悪の霊(かみの ぜんに はんぎゃくした あらゆる あくの れい)と同様の行為(どうようの こうい)である.
・全能の神(ぜんのうの かみ)は,この世の万物の所業(このよの ばんぶつの しょぎょう)を熟知(じゅくち)される.
・この神の「真理・真実」に手を加える(てを くわえる)者があれば,その者は必然的(ひつぜん てき)に,その「真理」により断罪(だんざい)される.
・この世の万物(このよの ばんぶつ)はすべてこの「真理(=神)」の摂理のうちに存在(「しんり〈=かみ〉」の せつりの うちに そんざい))しており,不滅・不変の普遍的真理(ふめつ・ふへんの ふへんてき しんり)は,決(けっ)して人間の手(にんげんの て)によって移り変わって(うつり かわって)いくようなものにすることはできない.
・唯一の真の神は,御子イエズス・キリストの姿を取られて(おんこ いえずす・きりすとのすがたを とられて),地上に降りて来られ(ちじょうに おりて こられ),聖マリアよりお生まれになり,この「真の理(まことの ことわり)」を証明(しょうめい)された.
・キリストの御母(きりすとの おんはは),聖母(せいぼ)マリア(せいぼ まりあ)は,神の御母(かみの おんはは)であり,キリストを証明される方(しょうめい される かた)であり,私たち人間の信仰(わたしたち にんげんの しんこう)によって人類の御母(じんるいの おんはは)となられ,私たち人類の救霊(きゅうれい)を救世主(きゅうせいしゅ)キリストにとりなされる.
・このカトリックの真理は不変であり,神の被造物にすぎない有限の地上の人間(かみのひぞうぶつに すぎない ゆうげんの ちじょうの にんげん)のように移り変わって(うつり かわって)いくことはない.
・新約聖書・聖ヨハネによる福音書,聖ヨハネによる第一の書簡,聖ヨハネの黙示録,使徒聖パウロの書簡などを参照.
* * *
二人の公会議派教皇(ふたりの こうかいぎは きょうこう),ヨハネ23世(よはね にじゅう さんせい)とヨハネ・パウロ2世(よはね ぱうろ にせい)の列聖(れっせい)が( "The “canonisation”of two Conciliar Popes, John XXIII and John-Paul II, …" ),今月最後の日曜日(こんげつ さいごの にちようび)(4月27日)に予定(よてい)されており( "… is scheduled for the last Sunday of this month, …" ),信仰心の篤い(しんこうしんの あつい)カトリック教信者(かとりっくきょう しんじゃ)の多く(おおく)はこのことに恐怖心(きょうふしん)を抱いて(いだいて)います( "…and many believing Catholics are scared stiff." ).信者たちは両教皇(りょう きょうこう)がいずれも教会の(客観的)破壊者(きょうかいのきゃっかんてき はかいしゃ)だったことを知っている(しっている)からです( "They know that the Conciliar Popes have been (objective) destroyers of the Church." ).信者たちは教会が列聖の不可謬性(れっせいの ふかびゅうせい)を保持していることを知っています( "They know that the Church holds canonisations to be infallible." ).彼ら(かれら)はヨハネ23世,ヨハネ・パウロ2世が聖者(せいじゃ)だと信じるよう強いられる(しんじるよう しいられる)のでしょうか?( "Are they going to be forced to believe that John XXIII and John-Paul II are Saints ? " ) そう考えるとびっくり仰天(ぎょうてん)したくなるでしょう.( "It boggles the mind. " ).だがその必要(ひつよう)はありません.
2013年8月に,私(わたし)はエレイソン・コメンツ(えれいそん・こめんつ)の中(なか)で( "In August of last year these “Comments” …" ),新教会(しんきょうかい)( "Newchurch" )の列聖(れっせい)は公会議以前(こうかいぎ いぜん)の列聖とはまったく異なる現実(ことなる げんじつ)だから,カトリック信徒(しんと)は公会議後(こうかいぎ ご)の列聖を完全無欠(かんぜん むけつ)なものと信じる必要(しんじる ひつよう)はないと述(の)べました( "… stated the fact that Newchurch “canonisations” are such a different reality from pre-Conciliar canonisations that no Catholic need believe that the post-conciliar canonisations are infallible." ).私は間違って(まちがって)いなかったのですが,単に事実を指摘(たんに じじつを してき)しただけで,その理由(りゆう)に触れ(ふれ)ませんでした( "I was not wrong, but while I stated the fact that this is so, I did not give the reason why, …" ).理由は物事を知る(りゆうは ものごとを しる)優れた方法(すぐれた ほうほう)です( "… which is a superior way of knowing something." ).私が(理由に)触れなくても,たぶん1989年のことだったとおもいますが,ある修養会(しゅうよう かい)( "a retreat conference" )の席(せき)でルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )はその本当の理由(ほんとうの りゆう)を私たちに与えて(わたしたちに あたえて)くださいました" )( "On the contrary in a retreat conference, perhaps of 1989, Archbishop Lefebvre gave the deep-down reason why. …" ).大司教が言(い)われたその理由とは ―― モダニスト(近現代主義者)たちの精神腐敗 ( "modernist mind-rot" )(もだにすと〈きんだいしゅぎしゃ〉たちのせいしんふはい)( "… This reason – modernist mind-rot -- …" )―― このことが公会議革命(こうかいぎ かくめい)のすべてを正しく理解する(ただしく りかいする)のに極めて重要なこと(きわめてじゅうようなこと)です( "… -- is crucial to understand correctly the whole Conciliar Revolution." ).
ルフェーブル大司教はそのとき,二人の公会議派教皇(ふたりの こうかいぎは きょうこう)は現代の大衆(げんだいの たいしゅう)と同じ(おなじ)ように,いかなる真実(しんじつ)も不変(ふへん)なものだとは信じて(しんじて)いないと言われました( "The Archbishop said that like a mass of modern men, the Conciliar Popes do not believe in any truth being stable." ).たとえば,ヨハネ・パウロ2世の思考形成(しこう けいせい)は真実は時代と共に(しんじつは じだいと ともに)進化(しんか),変化(へんか)し,科学(かがく)などの進歩(しんぽ)につれ発展(はってん)するという考え(かんがえ)に基(もと)づいています( "For instance John-Paul II’s formation was based on truth evolving, moving with the times, progressing with the advance of science, etc.. " ).同教皇は1988年に聖ピオ10世会( "SSPX" )がおこなった一連の聖別(いちれんの せいべつ)を無効(むこう)としましたが,真実は決(けっ)して固定的(こていてき)なものでないから,というのがその理由でした( "Truth never being fixed is the reason why in 1988 John-Paul II condemned the SSPX’s Episcopal Consecrations, …" ).彼は,カトリック教の伝統(でんとう)は生き物(いきもの)で変化(へんか)するのに対(たい)し, SSPX の列聖(れっせい)はそれが固定的だという考え方(かんがえ かた)に基(もと)づいていると指摘(してき)しました( "… because they sprang from a fixed and not living or moving idea of Catholic Tradition." ).確か(たしか)にカトリック信徒は信仰宣言(しんこう せんげん)(=使徒信経〈しとしんきょう〉・クレド)( "the Credo" )のすべての言葉(ことば)は不可変(ふかへん)のものと信(しん)じています( "For indeed Catholics hold, for example, every word in the Credo to be unchangeable, …" ).なぜなら,そこに含(ふく)まれる言葉は信仰の不変の真実(しんこうの ふへんの しんじつ)を可能な限り(かのうな かぎり)完全に表す(かんぜんに あらわす)ため長期間(ちょう きかん)にわたって打ち出された(うち だされた)もので( "… because the words have been hammered out over the ages to express as perfectly as possible the unchanging truths of the Faith, …" ),間違い(まちがい)なく教会の過去(きょうかいの かこ)の歴代教皇(れきだい きょうこう)や公会議(こう かいぎ)によって定(さだ)められてきたものだからです( "… and these words have been infallibly defined by the Church’s Popes and Councils." ).
もう一つ別の例(もうひとつ べつの れい)とした本来の意味の列聖(ほんらいの いみのれっせい)を挙(あ)げます( "True canonisations are another example: …" ).(1)教皇は教皇として宣言します.(すなわち)( " (1) the Pope pronounces as Pope, …" ) (2)信仰と倫理(しんこうと りんり)のモデル(もでる)たりうる然(しか)るべき人物(じんぶつ)を( " (2) such and such a person to be a model of faith and morals, …" ) ,(3)最終的(さいしゅうてき)に( " (3) once and for all (nobody used to get uncanonised), …" ),(列聖は決して取り消されない〈けっして とりけされない〉ものとされてきました),(4)教会全体(きょうかい ぜんたい)がこのようなモデルとして受け入れる(うけいれる)ように(宣言します)( " (4) for all the Church to accept as such a model." ).本来(ほんらい)はそういうものですから( "As such, …" ),これまでの列聖は無謬の教会(むびゅうの きょうかい)の教(おし)えたりうる4条件(よん じょうけん)を満(み)たしてきましたし( "… canonisations used to fulfil the four conditions of infallible Church teaching, …" ),それは完全無欠(かんぜん むけつ)(=無謬〈むびゅう〉=絶対正しい〈ぜったい ただしい〉=絶対正義〈ぜったいせいぎ〉)だと信(しん)じられてきました( "… and they were held to be infallible." ).だが,真実は不変・不可変(しんじつは ふへん・ふかへん)というこのカトリック教の考え(かとりっくきょうの かんがえ)は公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちのような不安定な現代人(ふあんていな げんだいじん)( "…fluid modern minds" )にとっては考(かんが)えられないものなのです( "…But this Catholic idea of an unchangeable truth is inconceivable for fluid modern minds like those of the Conciliar Popes." ).彼ら(かれら)にとって,真実(しんじつ)とは人生であり,ある人生が完成に向かって(かんせいに むかって)発展(はってん),進化(しんか),成長(せいちょう)し続(つづ)けるようなものです( "For them, truth is life, a life developing, evolving, growing towards perfection. " ).だとしたら,公会議派教皇が無謬の列聖(むびゅうの れっせい)をどうして執り行(とりおこな)えるでしょうか( "How then can a Conciliar Pope perform, …" ).それを信徒(しんと)に押し付ける(おし つける)など,とんでもないじゃありませんか?( "… let alone impose, an infallible canonisation ? " )
ルフェーブル大司教は,ある公会議派教皇がそのような列聖を行(おこな)った後,自身の考えかた(じしんの かんがえかた)にどう反応(はんのう)するだろうか想像(そうぞう)したことがあります( "The Archbishop imagines how a Conciliar Pope might react to the idea of his having done any such thing: …" ).その教皇(きょうこう)は「オー・ノー(おー・のー)!もし将来(しょうらい),私が列聖した人物(じんぶつ)が必要な資質(ひつような ししつ)に欠けて(かけて)いるとわかったら( "… “Oh no ! If ever in the future it turns out that the person I canonised did not have all the qualities required, …" ),私は彼の今回一度限りの神聖さ(しんせいさ)( "sanctity" )(に基(もと)づいて)でなく彼の美徳(びとく)( "virtue" )に基(もと)づいて決定(けってい)したと,私の後継者の誰(わたしの こうけいしゃの だれか)かが宣言(せんげん)してもよいではないか」と言うのでしょうか( " … well, some successor of mine may well declare that I made a declaration on that person’s virtue but not a once and for all definition of their sanctity.” " ).教皇の「宣言」( "declaration" )により行(おこな)われた「列聖(れっせい)」( "canonising" )は,出身国の大統領(しゅっしんこくの だいとうりょう)や地元のキリスト教徒(じもとの きりすと きょうと)を喜(よろこ)ばせ( "Meanwhile the “canonising” Pope’s “declaration” has made the President of the local Republic and the local Christians happy, …" ),彼らに祝賀会を開く(しゅくがかいを ひらく)口実を与えた(こうじつを あたえた)ことでしょう( "… and he has given them all an excuse to have a party to celebrate." ).
もし,このことを考えるなら( "If one thinks about it, …" ),ルフェーブル大司教の行った説明(せつめい)は新教会(しんきょうかい)のあらゆることに当て(あて)はまります( "… this explanation of the Archbishop applies to the Newchurch across the board..第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)がしていることは( "What we have in Vatican II is …" ),天国に通じる(てんごくに つうじる)神の不変の真理の美しさ(かみの ふへんの しんりの うつくしさ)という難題(なんだい)を( "… is the demanding beauty of God’s unchangeable Truth, which leads to Heaven, …" ),人間(にんげん)の変わり易い幻想(かわりやすい げんそう)という安易な醜さ(あんいな みにくさ)に置き換える(おきかえる)ことです( "… being replaced by the undemanding ugliness of man’s fluid fantasy, which may lead to Hell but enables man, as he thinks, to take the place of God." ).後者(こうしゃ)は人を地獄に陥れる(ひとを じごくに おとしいれる)かもしれませんが,人が(ひとが)神に取って代わる(かみに とって かわる)ことを可能(かのう)にすると,大司教は考えます.このプロセス(ぷろせす)でカギとなる一歩(かぎとなる いっぽ)は人の心(ひとの こころ)を現実(げんじつ)から外れ(はずれ)させることです( "The key step in this process is the unhooking of the mind from reality." ).このプロセスを近代主義(きんだい しゅぎ)(=モダニズム〈もだにずむ〉)( "modernism" )として今日の教会(こんにちの きょうかい)に当てはめるなら( "When the process is applied today to the Church as modernism, …" ),結果(けっか)は以前に起きた(いぜんに おきた)ことまったく異(こと)なるため( "… the results are so totally unlike what went before …" ),新しい現実(あたらしい げんじつ)には,どうしても新教会(しん きょうかい)( "Newchurch" ),新列聖(しん れっせい)( "Newcanonisations" ),新聖人(しん せいじん)( "Newsaints" )等々(とうとう)といった新しい名前(あたらしい なまえ)が必要(ひつよう)になるでしょう( "… that the new realities absolutely call for new names: Newchurch, Newcanonisations, Newsaints, etc.." ).結局(けっきょく)のところ,公会議派の人々(こうかいぎはの ひとびと)はなにもかも新しく(あたらしく)することに誇り(ほこり)をもっているということではないでしょうか?( "After all, are not the Conciliarists proud of making everything new ? " )
キリエ・エレイソン.
カトリック信徒は間近(まぢか))にせまった公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)の列聖(れっせい)に誤りはないと信じる必要(あやまりは ない と しんじる ひつよう)などありません( "No Catholic need believe that the imminent canonisation of Conciliar Popes will be infallible, …" ).なぜなら,それは精神腐敗(せいしん ふはい)から生(しょう)じた結果(けっか)なのですから( "… because it will proceed from mind-rot. " ).
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(訳注)
「人間の生命(にんげんの せいめい)」について.
・現世(げんせ)で如何なる宗教(いかなるしゅうきょう)に入信(にゅうしん)していようと
していまい(=無宗教)と,
事実(じじつ)として「世の真の理は唯一(よの まことの ことわりは ゆいいつ)」であり,
カトリック教(公教〈こうきょう〉)ではその「世の唯一の真の理」を「神」と呼ぶ.
・また,現世が存在するように,来世(らいせ)も確かに存在(たしかに そんざい)する.
・現世での生き様(いきざま)の正しさ如何(ただしさ いかん)で, 来世での生命(いのち)が決まる(きまる)のは事実(じじつ)である.
・現世(人生〈じんせい〉)で善人(ぜんにん)であった者(もの),人生の最後の一瞬(じんせいの さいごの いっしゅん)でも悔悛(かいしゅん)して善人となった者(もの)には, 来世での永遠の安息(えいえんの あんそく)(=安らかな休息〈やすらかな きゅうそく〉)が約束(やくそく)されている(=永遠の生命〈えいえんのいのち〉)が,
・現世で他者に憐みを持たない悪人(たしゃに あわれみを もたない あくにん)であった者や,
・人生の最後の瞬間まで悔悛(=回心)(じんせいの さいごの しゅんかんまで かいしゅん〈=かいしん〉)しなかった者は,
・天賦の生命に感謝(てんぷの せいめいに かんしゃ)して人生を正しく全う(じんせいを ただしくまっとう)しなかったため, また,他人が天賦の生命を全うすることを悪意をもって妨げた(あくいを もって さまたげた)ため,永劫の罰(えいごうの ばつ)を真の神から受ける(まことの かみから うける).
・この真(まこと)の理(ことわり)に,現世の宗教の名前や正邪の如何(しゅうきょうの なまえや せいじゃの いかん)は関係(かんけい)しない.
・この「真理」を
「遍く(あまねく)古今東西(ここんとうざい)の カトリック(公〈おおやけ〉)の神・公の教え(おおやけの おしえ)」と呼ぶ.
・人間は自分から生まれたのではなく,天の御父なる唯一の真の神から生命(いのち)を授かって(さずかって)父母を通じて(ふぼを つうじて)生まれてくる. 自分の生命(じぶんの せいめい)は,自分ひとりの持ち物(もちもの)ではなく,真の神に対して責任(せきにん)がある.
・神の所有物に関わる事物(かみの しょゆうぶつに かかわる ことぶつ)を,人間が好き勝手に操作する(にんげんが すきかってに そうさする)ことは,万物の創造主たる神(ばんぶつの そうぞうしゅたる かみ)に対する越権行為(えっけん こうい)であり,
・それは神の善に反逆したあらゆる悪の霊(かみの ぜんに はんぎゃくした あらゆる あくの れい)と同様の行為(どうようの こうい)である.
・全能の神(ぜんのうの かみ)は,この世の万物の所業(このよの ばんぶつの しょぎょう)を熟知(じゅくち)される.
・この神の「真理・真実」に手を加える(てを くわえる)者があれば,その者は必然的(ひつぜん てき)に,その「真理」により断罪(だんざい)される.
・この世の万物(このよの ばんぶつ)はすべてこの「真理(=神)」の摂理のうちに存在(「しんり〈=かみ〉」の せつりの うちに そんざい))しており,不滅・不変の普遍的真理(ふめつ・ふへんの ふへんてき しんり)は,決(けっ)して人間の手(にんげんの て)によって移り変わって(うつり かわって)いくようなものにすることはできない.
・唯一の真の神は,御子イエズス・キリストの姿を取られて(おんこ いえずす・きりすとのすがたを とられて),地上に降りて来られ(ちじょうに おりて こられ),聖マリアよりお生まれになり,この「真の理(まことの ことわり)」を証明(しょうめい)された.
・キリストの御母(きりすとの おんはは),聖母(せいぼ)マリア(せいぼ まりあ)は,神の御母(かみの おんはは)であり,キリストを証明される方(しょうめい される かた)であり,私たち人間の信仰(わたしたち にんげんの しんこう)によって人類の御母(じんるいの おんはは)となられ,私たち人類の救霊(きゅうれい)を救世主(きゅうせいしゅ)キリストにとりなされる.
・このカトリックの真理は不変であり,神の被造物にすぎない有限の地上の人間(かみのひぞうぶつに すぎない ゆうげんの ちじょうの にんげん)のように移り変わって(うつり かわって)いくことはない.
・新約聖書・聖ヨハネによる福音書,聖ヨハネによる第一の書簡,聖ヨハネの黙示録,使徒聖パウロの書簡などを参照.
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