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2016年7月16日土曜日

470 英国離脱 - SSPX 離脱? BREXIT - SPEXIT ? 7/16

エレイソン・コメンツ 第470回 (2016年7月16日)

(解説無し)

メンツィンゲン(SSPX本部)が
  ローマのサイレンに魅せられているあいだは,
信仰を守るため,
  用心して,備えを怠りなくしましょう.(訳注後記・1・1).
While Menzingen is by Rome's sirens charmed,
To keep the Faith, let forewarned be forearmed.

世間には "Zeitgeist" すなわち「時代の潮流」というものがあります.それを示す類似を求め得るとすれば,ひとつは6月23日の英国の国民投票が欧州連合の共産主義的抱え込みから脱することを決めたこと,もうひとつは聖ピオ十世会 SSPX が6月25-28日に幹部会を開き,翌29日にフェレー司教がコミュニケを出して同会がネオモダニストのローマ教皇庁による抱え込みを拒むと宣言したことです.ここでは,後者を St-Pius-Exit: Spexit と略称します.先週のエレイソン・コメンツで,私は Brexit は賞賛に値するが,果たして効果があるかどうか疑わしいと示唆しました.これと同じように,6月29日の Spexit が善良なカトリック教徒たちに SSPX が再び正しい軌道に戻ったと再認識させることになるかどうか疑わしいものです.現に,6月29日から数日も経たないうちに,ローマ教皇庁は( SSPX との)交渉が継続していると言っています…
There is such a thing as the “Zeitgeist”, or spirit of the age. A proof might be the parallel that can be drawn between Britain's June 23 vote to renounce the communistic embrace of the European Union, and the SSPX Superiors' meeting from June 25 to 28, with Bishop Fellay's Communiqué of June 29 declaring that the Society was now renouncing the embrace of neo-modernist Rome – “Spexit”, for short. For just as last week's “Comments” suggested that Brexit was admirable but doubtfully efficacious, so one may fear that the June 29 St-Pius-Exit may have reassured many good Catholics that the Society is back on track, whereas within days official Rome was saying that negotiations continue...

この類似点の根底にあるのは,カトリック教会の第5時代 "Fifth Age" を特徴づける背教です.この時代は1517年から2017年(もしくはその後)まで続く500年で,その間に世界中の人々はゆっくりながら着実に神に背を向け,神の代わりに人間を中心に据えようとしてきました.だが,この過程において人々の良心は安らぎを得ていません.したがって,彼らは外向きでは古き良き秩序に敬意を払いながらも,内面では神からの解放と新世界秩序の物質的な諸利益を追い求めています.かくして,英国人は古き良き時代から持ち続けてきた本能に従って共産主義からの独立を求める投票をしました.だが,彼らのほとんどすべては神を信じない物質主義者であるため,実際にそう呼ばれなくても共産主義者であり,そのため,Brexit を決めたものの,実際はどうしたらいいのかはっきり分かっていません.同じように,"Spexit" には目に映る以上の何かが含まれているのではないかと疑いたくなります.
The basis of the parallel is the apostasy characterising the Church's Fifth Age, from 1517 to 2017 (or beyond), by which the peoples of the world have slowly but steadily turned their backs on God to replace him with Man. But their conscience is not at ease in the process. Therefore outwardly they pay homage to the good old order, but inwardly they pine for the freedom from God and for the materialistic benefits of the New World Order. Thus a good old instinct drove the British to vote for independence from Communism, but being nearly all atheistic materialists they are Communists without the name, and so hardly now know what to do with their Brexit. Similarly one may fear that there is more to “Spexit” than meets the eye. 

例えば,優れたスペイン語のウェブサイトである "Non Possumus" は,6月29日のコミュニケは「神聖なカトリック教会の真の伝統への復帰に具体的に賛同する」(2+2=4もしくは5)教皇の到来を待ち望んでいるとしながらも,それが「伝統に復帰した」(2+2=4,すなわち4以外でない)教皇そのものを意味しているわけではない,と指摘しています.また,フェレー司教が7月2日に提唱した第5次ロザリオ十字軍 "a fifth Rosary Crusade" 派遣(これは西カナダのジルワール神父 "Fr Girouard" が6月24日に可能性として予測したもの)は私たちを勇気づけるものとはいえません.ジルワール神父は過去にフェレー司教が2007年の Summorum Pontificum (訳注後記・4・1 )(=「自発教令」)に基づくミサ聖祭の真の典礼の疑わしい自由化と2009年の存在もしない「破門」の「撤回」を神の御母(=聖母マリア)からの二つの贈り物だと提示したことを振り返り,同司教は同じように,(将来あり得る)ローマ教皇庁による SSPX の一方的容認を新たなロザリオ十字軍派遣に報いられる神の御母の贈り物だと言い出すのではないかといぶかっています.ジルワール神父はフェレー司教がローマ教皇庁による承認を以下のように提示するだろうと想像しています.
For instance, the excellent Hispanic website “Non Possumus” pointed out that when the Communiqué of June 29 looks forward to a Pope “who favours concretely the return to Holy Tradition” (2+2=4 or 5), that is not the same thing as a Pope “who has returned to Tradition” (2+2=4, and exclusively 4). Nor is it reassuring that on July 2 Bishop Fellay called for a fifth Rosary Crusade, foreseen on June 24 as a possibility by Fr Girouard in Western Canada. Recalling how Bishop Fellay presented as two gifts of the Mother of God both in 2007 the dubious liberation of the true rite of Mass by Summorum Pontificum and in 2009 the “lifting” of the non-existent “excommunications”, Fr Girouard fears that a unilateral recognition of the Society by official Rome could likewise be presented as a response of hers to this new Rosary Crusade. Here is how Fr Girouard imagines the recognition being presented by Bishop Fellay:–

「ロザリオ十字軍派遣にあたり,私たちは SSPX へのご加護をお願いしました.1千2百万回のロザリオ祈願のおかげで,(神より)祝福されている童貞女(おとめ)マリア(BVM=Blessed Virgin Mary〈英語〉, Bienheureuse Vierge Marie〈仏語〉)は私たちのために,この特別のご加護をマリアの御子イエズス・キリストの聖心(みこころ)から取りつけてくださいました!そうです,聖父(=ローマ教皇) "the Holy Father" はこの書面に署名され,私たちを認め,私たちに彼の個人的加護を与えると約束してくださいました.したがって,私たちは『これまで通り』のまま存続できます.神と(神に)祝福された童貞女マリアから与えられたこの新しい贈り物は,(地上〈=世界〉に存在するあらゆる)社会における神なる救世主(=キリスト)の(諸王の)王としての君臨 "the Social Kingdom of Christ" の拡大のための私たちの作業をよりよく継続できるようにするため神意 ( "Divine Providence" )により私たちに与えられた新しい手段なのです!それはまた,これまでのひどい不公平な扱いに対する償いです!これは,まさしくローマ教皇庁が良い方向へ変わったことを示すものです!私たちの尊敬すべき創設者ルフェーブル大司教はこの神意による贈り物を受け入れられたことでしょう.私たちは大司教が自らの諸々の祈願を,この贈り物を私たちの主(=救世主〈キリスト〉)から獲得するため祝福された童貞女(おとめ)マリアが私たちの主にご奉献になる諸々の祈願に結びつけて一致させることにより,その贈り物を私たちの主から獲得することがお出来になったこと,そして大司教は彼女とともに天の御国で喜んでおられることを確信できます!神意によるこの素晴らしい贈り物に感謝しつつ,私たちは SSPX の(キリスト)イエズスの聖心と(その御母)マリアの御心への奉献 "the consecration of the Society to the Hearts of Jesus and Mary" を公式に更新して,私たちのすべての聖堂でテ・デウム( "Te Deum", =神を讃美する聖歌)を歌いましょう!」 (訳注後記・5・1 )
"In the Crusade, we have asked for the protection of the Society. Thanks to the 12 million Rosaries, the BVM has obtained for us, from the Heart of Her Son, this special protection! Yes the Holy Father has signed this document where he recognizes us and promises to give us his personal protection, so that we will be able to continue "as we are". This new gift from God and the BVM is truly a new means given us by Divine Providence to better continue our work for the extension of the Social Kingdom of Christ! It is also the reparation of a grave injustice! This is truly a sign that Rome has changed for the better! Our venerable founder, Archbishop Lefebvre, would have accepted this providential gift. Indeed, we can be sure that he has united his prayers to those of the BVM to obtain it from Our Lord, and that he is now rejoicing with her in Heaven! In thanksgiving for this wonderful gift of Providence, let us renew officially the consecration of the Society to the Hearts of Jesus and Mary, and let us have a Te Deum sung in all our chapels!"

ジルワール神父は,このような状況下で SSPX とローマ教皇庁の再結合に異を唱える者は神に抗(あらが)い,神の御母聖マリアをさげすんでいると見られるようになるだろう,と付け加えています.
In such a vision, adds Fr Girouard, anyone refusing the reunion of the Society with Rome will be made to seem to be resisting God and to be scorning his Mother.

そうした恐れはいまのところ単なる想像でしかありません.ひとつ確かなことは,6月25-28日の "Spexit" 決定にもかかわらず、ルフェーブル大司教の SSPX をネオモダニストのローマ教皇庁の腕の中へ導こうとするフェレー司教の決意は少しも変わっていないということです.同司教にとっては,善良なローマ人たちを軽蔑したり,時代遅れで,現在進行中の状況とはもはや無縁の抵抗運動にとどまり続けることではなく,SSPX を教皇庁へ導くことだけが唯一の前進なのです.
Such fears are for the moment only imaginary. What is certain is that the “Spexit” of June 25 to 28 will in no way have shaken Bishop Fellay's resolve to steer the Archbishop's society into the arms of neo-modernist Rome. For him, that is the only way forward, as opposed to insulting good Romans and stagnating in a resistance that is out of date and no longer relevant to the evolving situation.
Kyrie eleison.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教





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訳注・1・1
"forewarned is forearmed" について:
=「備えあれば患いなし(そなえあれば うれいなし)」
平生(へいぜい)から準備ができていれば,万一の事が起こっても心配することはない. (「大辞林」より引用)

訳注・4・1 "Summorum Pontificum" について:
・邦訳=(ローマ教皇〈=ローマ法王〉による)「自発教令」

訳注・5・1 "Te Deum"「我神を讃め(われ かみを ほめ)」について: 
・真の神の御稜威(みいつ)(御威光〈ごいこう〉)を称える聖歌

① 歌詞 (ラテン語歌詞)
下記のリンクをクリックしてご参照下さい.
→ラテン語歌詞

② (邦語歌詞)↓
「公教聖歌集」より抜粋(下記)
一 我神を讃め 主とぞ称えます  
   (われ かみを ほめ しゅ とぞ たたえます)  
永遠の御父を 天地と共に  
(とわの みちちを あめつち とともに)  
御使い歌う(詠) ケルビムの歌(詩)  
(みつかい うとう けるびむの うた)
セラフィムの歌 間なく隙無し 
(せらふぃむのうた まなくひまなし)

二 「聖なる聖なる 聖なる御神よ  
  (「せいなる せいなる せいなる みかみよ)  
萬の軍勢 率い給う我が主
(よろずの いくさ ひきい たもう わが しゅ)  
天地に満つ 永遠の栄え」と  
(あめつちにみつ とわのさかえ」と)  
叫ぶその声 御空にと詠む(誦)  
(さけぶそのこえ みそらにとよむ)

三 尊き御弟子ら 誉れの聖者ら  
  (とうとき みでしら ほまれの ひじりら)  
命捧げし 証人挙り  
(いのち ささげし あかしびと こぞり)  
君に附く者 競い歌えば  
(きみに つくもの きそい うたえば)  
計りも有らぬ 御稜威輝く  
(はかりも あらぬ みいつ かがやく)

四 聖父 聖子 聖霊 三つに座ませど  
   (ちち こ みたま みつに ましませど)  
一人の神よ 世を救わん為  
(ひとりの かみよ よを すくわんため)  
童貞女に宿り 苦しみ忍び  
(おとめに やどり くるしみ しのび)  
死と陰府に勝ち 天に行き給う  
(しと よみに かち あめに ゆきたもう)







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本投稿記事・第470回エレイソン・コメンツ「英国離脱 - SSPX 離脱?」(2016年7月16日付)/ELEISON COMMENTS CDLXX(July. 16, 2016) : "BREXIT - SPEXIT ?" (解説無し)は2016年8月26日午後23時47分に掲載されました.
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2016年6月11日土曜日

465 大司教の真意 6/11

エレイソン・コメンツ 第465回 (2016年6月11日)

 (解説無し) 

ルフェーブル大司教の業績をローマ教皇庁の下に置く者は, 
真の信仰と大司教御自身,そして諸諸のカトリック教徒たちの家
(=ふるさと〈故郷〉)を裏切ることになります. 
Who puts the Archbishop's work under this Rome 
Betrays him and the Faith, and Catholics' home.  

2016年6月は聖ピオ十世会 "SSPX" の命運を左右する月になるでしょう.同会の40名の指導的司祭たちがローマ教皇庁による同会の公認に関する最終提案を受け入れるかどうかを決めるため会合を開く予定だからです.会の創設者ルフェーブル大司教(1905-1991年)の真意についてのさまざまな誤解を解く絶好の機会でしょう.ある人々は大司教の路線は不安定で,彼は右と左の間をジグザグに進んだと主張します.別の人々は大司教がなにより望んだことはローマによる同会の承認だったと推測します.ルフェーブル大司教は決して誤りをおかすことのない人物だったなどと主張するつもりはありませんが,忘れっぽい SSPX には大司教がどのような人物だったかを思い起こしてもらう必要があります.上に述べた二つの間違った見方は,共通する観点から正すことができます.すなわち,彼の基本的な動機は神をあがめ(賛美し),その信仰を守り,神の唯一の真の教会に仕えることで人々の霊魂を救い, SSPX を創設することで真の信仰を擁護し(守り),それによりカトリック教伝統(=聖伝〈聖なる伝承〉)の教理,諸秘跡,カトリック教聖伝の真のミサ聖祭を保持する司祭たちを育てることでした.
In this fateful month for the Society of St Pius X, June 2016, when we hear that its 40 leading priests will meet in order to decide whether to accept Rome's latest offer of official recognition, it is surely a good moment to correct misunderstandings as to the intentions of its Founder, Archbishop Lefebvre (1905-1991). Some claim that his course was unsteady, that he “zig-zagged”, veering from side to side. Others pretend that above all he sought Rome's recognition for his Society. Without having to claim that he was infallible one needs to remind the forgetful Society of what he was all about: both errors are corrected by the same observation, namely that his basic motivation was to glorify God and to save souls by serving God's one true Church by defending the Faith, and to defend the Faith by founding the Society of St Pius X to form priests who would preserve the doctrine, sacraments and Mass of Catholic Tradition.

大司教の進む道を阻んだ最大の障害物は第二バチカン公会議の聖職者たちでした.公会議の主要優先事項は神ではなく,神から遠く離れてしまった人間を喜ばせることでした(それは現在でも変わっていません).したがって,当時も今も,彼らは神から目を背け(少なくとも客観的に.主観的には神のみぞ知るです),神の(真の)教会とその(真の)信仰(信条),教理(教義),諸諸の秘跡と(真の)ミサ聖祭を人間中心主義に基づく「再生= "renewal" 」によって変えようとしました.
Now the great obstacle in the Archbishop's way was the churchmen of Vatican II whose main priority was (and remains) to please not God but modern man, who has moved far away from God. So, now as then, they turned away from God (at least objectively, subjectively God knows), and sought to change God's Church and her Faith, doctrine, sacraments and Mass by a humanistic “renewal”.

あきれ果てたか,あるいは落胆してか,大司教は身を引き,自身の SSPX 内で窮地に立たされ,そうした聖職者たちが公会議革命と共に堕落するのを放任しました.だが,初めのうち,すなわち1974年のローマ代表によるエコンヌ(訳注:Écône, SSPX本部)公式訪問からしばらくの間,聖職者たちは大司教の活動に従っていました.なぜなら,彼らは大司教の活動によって自分たちの強情さ( "perversity" )が露呈するのを恐れたからでした.彼らは大司教を自由放任にする余裕などなかったのです.そして次に,彼らは,もし大司教がローマ人たちを伝統に引き戻すべくなんらかの手を打ち,ローマ人たちが実際に伝統へ戻るなら,それは単に SSPX だけでなく,全世界の教会を利することになるだろうと考えました.聖職者たちは,たとえ見当違いをしていたとしても,依然として「モーゼの座」=( "the seat of Moses" )(聖マテオ聖福音書:第23章2節( "Mt. XXIII, 2" )を参照)を占めていたからです.そのため,大司教は1975年以降,エコンヌとローマの間を行き来しました.その往来は,ローマ人たちが SSPX に追加の司教を認めるかどうかをめぐり態度を曖昧にし続けたため,1988年になって,もはや彼らに話をしても無駄で,行動を取るしかないことが決定的になるまで続きました.
In disgust or despair the Archbishop might have taken himself off into a corner with his Society, and left these churchmen to perish with their Conciliar Revolution. But firstly, from the 1974 Roman visitation of Écône onwards, they came after him with his work because they could not let it demonstrate their perversity. They could not afford to leave him alone. And secondly, if he could do anything to bring Tradition to the Romans and the Romans back to Tradition, it would benefit through them the worldwide Church and not just his little Society. For indeed, however misguided they were, they still occupied “the seat of Moses” (cf. Mt XXIII, 2), and so from 1975 onwards the Archbishop went to and fro to Rome, until their prevarication in 1988 over granting another bishop to the Society proved once and for all that they could no longer be spoken to with words but only with actions.

だが,( "Stat Crux dum Volvitur Orbis" )という言葉があります.これは,全世界が革命の最中にあっても,真の十字架( "the Cross" )は静止したままである,という意味です.ルフェーブル大司教は真の伝統に錨を降ろし,基本的には静止したままでした.しかし,彼は揺れ動く聖職者たちと,錨から離れて漂流する真の教会の状況に対処しなければなりませんでした.そのため,彼は聖職者たちが左に漂えば右へ舵を切り,彼らが再び右へ寄りすぎるように見えれば(1987年末と1988年初めのときのように)左へ舵を切りました(例えば,1988年5月5日に出された指令書).大司教が「ジグザグ進行」を決めたとすれば,それはいつも聖職者たちが左右に揺れたからであり,その時々の状況の進展(例えば,悪化し続ける新式ミサ)に対応する必要があったからです.決して,その逆ではありませんでした.大司教の真意は確固としたもの,すなわち真の信仰の擁護でした.
But “Stat Crux dum Volvitur Orbis”, meaning that the Cross stands still while the whole world is in revolution. Anchored in Tradition, the Archbishop was basically standing still, but he was dealing with churchmen and a situation of the Church which had slipped that anchor and was henceforth adrift. So as they drifted left, so he needed to steer right, whereas if they seemed to veer right again (as in late 1987 and early 1988) so he veered left (e.g. in the Protocol of May 5, 1988), but it was always their veering or the evolving situation (e.g. the deteriorating Novus Ordo Mass) that determined his “zig-zagging”, and not the other way round. His own aim was steady – the defence of the Faith.

ローマの聖職者たちの曖昧さが1988年5月5日に疑いの余地がないほど明確になったあと,大司教が一晩熟考した末に5月6日,ローマによる SSPX 承認を得ることができたかもしれない指令書を撤回し,ローマとの外交的関係をすべて断ち切ったのも上に述べたのと同じ理由によるものでした.大司教の決断は SSPX を救うというよりは,全教会のためにカトリック教の伝統を擁護することが主目的でした.外交より教条を優先する必要があったのです.そして,その時から2年半後の死去にいたるまで,大司教は自ら「キリストの敵」と酷評した聖職者たちに対し敬意をもって接しながらも,公会議以前の歴代教皇たちが発した反リベラル,反モダニスト的信条回勅に従って信仰を最優先させなければならないと主張し続けました.彼は教会への忠誠により,当時の状況を制御していましたし,そのことローマ人たちも承知していました. SSPX 指導部に座る彼の後継者たちが,教会の信条や伝統の裏切り者にこびへつらいながらも,結局彼らから恥をかかされているのに比べれば,なんたる違いでしょうか!これら後継者たちには,ルフェーブル大司教が1990年9月6日,彼らに残した惜別の辞がどのような内容だったか,もう一度読み直してもらいたいものです.
It was for this same reason that, once the churchmen's prevarication on that same 5th of May in 1988 was clear beyond any reasonable doubt, then after a night's reflection he renounced on May 6th that Protocol which could have obtained Rome's official recognition for the Society, and he cut off all merely diplomatic relations with Rome, not primarily to save his Society but to protect Catholic Tradition for the entire Church. Doctrine had to take over from diplomacy, and from then on until his death two and a half years later, even while behaving with respect towards the Church officials whom he had castigated as “antichrists”, he declared that the Faith had to come first in the form of the pre-Conciliar Popes' anti-liberal and anti-modern doctrinal Encyclicals. By his fidelity to Church doctrine he was in the driving-seat, and the Romans knew it. What a contrast with his successors at the head of the Society, fawning on the betrayers of Church doctrine and Tradition, and humiliated by them ! Let these successors of the Archbishop just read again what was like his farewell address to them of September 6, 1990. 

キリエ・エレイソン.
Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教



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(解説付き)版を追補いたします。





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本投稿記事・第465回エレイソン・コメンツ「大司教の真意」(2016年6月11日付)/ELEISON COMMENTS CDLXV (June. 11, 2016) : "ARCHBISHOP'S AIM" (解説無し)は2016年6月20日午前08時54分に掲載されました.
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2016年1月9日土曜日

443 工場生活 1/9

エレイソン・コメンツ 第443回 (2016年1月9日)

(解説付き)

今日,人々は職場で独り苦しんで居るのでしょうか?
(こんにち,ひとびと は しょくば で ひとり くるしんで いる ので しょうか?)
Today's work-places crucify a man ?

何処でも出来る処で
a finger-rosary(仮訳:ロザリオ数珠)で
(神の御母〈聖母〉マリアへの)
ロザリオ祈祷を捧げなさい.(訳注1・1)
(どこ でも できる ところ で
a finger-rosary(ふぃんがー・ろざりー)〈かりやく:ろざりお じゅず〉で
〈かみ の おん はは《せいぼ》まりあ への〉
ろざりお きとう を ささげ なさい.)
(訳注1・2 )
With a finger-rosary pray wherever you can.

先週に続き,エレイソン・コメンツの読者から寄せられた素晴らしい手紙をご紹介します(せんしゅう に つづき,えれいそん・こめんつ の いち どくしゃ から よせられた すばらしい てがみ を ご しょうかい します).彼(読者)は正気とは思えない状況に就いて良識有る見方を為て居ます(かれ〈どくしゃ〉は しょうき とは おもえない じょうきょう に ついて りょうしき ある みかた を して います).読者の皆さんは彼の言う事にがっかり為るか,其れとも励まされるかも知れません(どくしゃ の みなさん は かれ の いうこと に がっかり する か,それとも はげまされる かも しれません).多くの読者は自分達が職場で日々直面して居る事を認識為べきです(おおく の どくしゃ は じぶん たち が しょくば で ひび ちょくめん して いる こと を にんしき すべき です).そうすれば,職場でカトリック教の信仰が何故,何の様に蝕まれて居るかが,もっとはっきり分かるかも知れません(そうすれば,しょくば で かとりっく きょう の しんこう が なぜ,どのように むしばまれて いるか が,もっと はっきり わかる かも しれません).以下は彼の手紙の内容です(いか は かれ の てがみ の ないよう です):-
Here is another good letter from a reader of these “Comments”. He takes a sane view of an insane scene. Readers may be discouraged by what he describes, or they may be encouraged by how he describes it. A number of readers must recognize what they are up against every day when they go to work, and they may see better here than they yet see why and how their place of work is eroding their Catholic faith. He writes: –

私は自動車製造工場で此れ迄二年余り働いてき来ました(わたくし は じどうしゃ せいぞう こうじょう で これまで にねん あまり はたらいて きました).給料は十分ですが,私の職場環境は世界全体の一種の縮図の様な物です(きゅうりょう は じゅうぶん ですが,わたくし の しょくば かんきょう は せかい ぜんたい の いっしゅ の しゅくず の ような もの です).其れが何の様な物か以下に説明します…(それ が どの よう な ものか いか に せつめい します…). 
I have worked in a factory building cars for over two years now and while it does pay well the environment is a sort of microcosm of the world at large. Let me explain...

1)両性の混同(りょうせい の こんどう) - 男性と女性は互いに身近な状態で共同作業をします(だんせい と じょせい は たがい に みぢか な じょうたい で きょうどう さぎょう を します).此の様な仕事環境は女性の女性らしさを完全に壊して終います(このような しごと かんきょう は じょせい の じょせい らしさ を かんぜん に こわして しまいます).勿論,女性の出来ない仕事も有りますが(もちろん,じょせい の できない しごと も ありますが),両性の平等と言う間違った考え方の為に(りょうせい の びょうどう と いう まちがった かんがえ かた の ため に),会社は女性が其処で働く事を認める必要が有ります(かいしゃ は じょせい が そこ で はたらく こと を みとめる ひつよう が あります).だが,十戒第六戒,第九戒(訳注4・1 )(訳注4・2)の違反に就いて私が聞いた話は実に憂慮す(為)べき(冪)物です(だが,じっかい〈じゅっかい〉だい ろっかい,だい きゅうかい の いはん に ついて わたくし が きいた はなし は じつに ゆうりょ すべき もの です).詳しく述べる必要も無いでしょう.実際に起きて居る事は誰もが予測した事です(くわしく のべる ひつよう も ない でしょう.じっさい に おきて いる こと は だれ も が よそく した こと です).女性は何故其の様な所(処)で働く事を望むのでしょうか?(じょせい は なぜ そのような ところ で はたらく こと を のぞむ ので しょうか?)
1) Mixing up of the sexes - men and women work together in close proximity. Such work completely destroys a woman's femininity. Of course, there are certain jobs which women cannot do, but because of this false sense of equality, the company needs to allow women to work there. The stories that I have heard about the transgressions against the 6th and 9th commandments are truly disturbing. I need not elaborate. But what else did anybody expect ? Why would a woman even want to work in such a place?

2)男性の心は道徳的判断ができなくなっている(だんせい の こころ は どうとく てきはんだん が できなく なって いる) - 勿論,私は一般論と為て話して居ます(もちろん,わたくし は いっぱん ろん として はなして います).だが,私が話した殆(ん)どの男性は倫理観(即ち善と悪)では無く(だが,わたくし が はなした ほとんど の だんせいは りんり かん〈すなわち ぜん と あく〉ではなく),如何為たら楽しく過ごせるかを基準に考えて居ます(どうしたら たのしく すごせるか を きじゅん に かんがえて います).私は何人かの同僚と話し(わたくし は なんにん か の どうりょう と はなし),彼等が分かる様な方法で道徳の問題を提起為ようと為ましたが(かれら が わかる よう な ほうほう で どうとく の もんだい を ていき しよう と しました が),彼等に取って,其れは右の耳柄左の耳へ抜けて終った様です(かれら に とって,それ は みぎ の みみ から ひだり の みみ へ ぬけて しまった ようです).男性は肉欲に関(わ)る事に没頭為ると,心に就いて考える事が出来なく為ります(だんせいは にくよく に かかわる こと に ぼっとう すると,こころ に ついて かんがえる ことができなくなります).もっと悪い事に,同僚達は自ら犯した罪を自慢する事を全く恥と考えて居ないのです(もっと わるい こと に,どうりょう たち は みずから おかした つみ を じまん する こと を まったく はじ と かんがえて いない のです).昔は男性達は恥の意識を持って居ました.今や,そんな物は無い様です(むかし は だんせい たち は はじ の いしき を もって いました.いまや,そんな もの は ない よう です).
2) Men's minds are incapable of making moral judgments - I generalize of course, but most of the men I have talked to do not think in terms of morality (i.e. good and evil) but in terms of what pleasures can keep them entertained. I have talked to several co-workers and have tried to bring up questions of morality in a way that they might understand, but it seems to go over their heads. When a man has steeped himself in the things of the flesh, he is incapable of thinking of the soul. Worse, some of these co-workers have absolutely no shame in boasting of their sins. Once upon a time men had shame. No longer, it would seem.

3)私は私自身の神である(わたくし は わたくし じしん の かみ で ある) - 誤った自由が男性の生活指針として称えられています(あやまった じゆう が だんせい の せいかつ ししん と して たたえ られて います).私は同僚の何人かと議論を為ましたが,私が其の都度知らされたのは,真理や倫理は純粋に主観的な事だと言う事です(わたくし は どうりょう の なんにん か と ぎろん を しました が,わたくし が その つど しらされた のは,しんり や りんり は じゅんすい に しゅかん てきな こと だ と いう こと です).自分が真実だと信じる事が素晴らしいので有り,自分の考え方を他人に押し付ける事等出来ないと言うのです(じぶん が しんじつ だ と しんじる こと が すばらしい ので あり,じぶん の かんがえ かた を たにん に おしつける こと など できない というのです).私は上司に,其の様な考え方は馬鹿げて居ると話しました(わたくし は じょうし に,その ような かんがえ かた は ばかげて いる と はなしました).一人以上の妻を持つのは結構な事だと言う者が居たら如何でしょうかと,彼に尋ねました(ひとり いじょう の つま を もつ のは けっこう な こと だ と いう もの が いたら どう でしょうか と,かれ に たずね ました).彼は考え方は人それぞれだと応えました(かれ はかんがえ かた は ひと それぞれ だ と こたえました).真理は主観的な物で無いと言う基本原則を否定する人が居るなら,其の人に話しても無駄でしょう(しんり は しゅかん てき な もの で ない と いう きほん げんそく を ひてい する ひと が いる なら,その ひと に はなしても むだ でしょう).突き詰めると,人はそれぞれ自分以外の何かに従う代わりに自分自身の現実を築きあげるのですから(つきつめる と,ひと は それぞれ じぶん いがい の なにか に したがう かわり に じぶん じしん の げんじつ を きずき あげる の です から),自分が自分自身の神になるということでしょう(じぶん が じぶん じしん の かみ に なる と いう こと で しょう).
3) I am my own god - False liberty is exalted as the guiding principle in men's lives. I have had a few discussions with some of my co-workers and what I get every single time is that truth and morality are purely a subjective affair. What you believe to be truth is fine for you, but you cannot impose your way of thinking on anyone else. I told a supervisor of mine that such thinking is nonsense. I said, what if someone thinks that having more than one wife is fine ? He said, belief is up to the individual. If a man denies such a basic principle as that truth is not subjective, then there is no point in talking to him. In essence, every individual becomes his own god because HE has constructed his own reality instead of submitting to something outside of him.

近代工場の環境は一種の無神状態を作り出します(きんだい こうじょう の かんきょう は いっしゅ の むしん じょうたい を つくり だし ます).私は工場労働者が輝かしい美徳の模範に為る事を期待為て居る訳では有りません(わたくし は こうじょう ろうどう しゃ が かがやかしい びとく の もはん に なる こと を きたい している わけ では ありません).だが,近代工場はチャールズ・ディケンズが彼の時代に就いて書いた事より益々悪く成って居ると言いたく為ります(だが,きんだい こうじょう は ちゃーるず・でぃけんず が かれ の じだい に ついて かいた こと より ますます わるく なって いる と いいたく なります).私の言いたい事は未だ沢山有ります(わたくし の いいたい こと は まだ たくさん あります).だが,要点は次の事です(だが,ようてん は つぎ のこと です).即ち,罪に因って壊われた生活や快楽を貪る生活で神の恩寵が如何働くでしょうか?(すなわち,つみ に よって こわれた せいかつ や かいらく を むさぼる せいかつ で かみ の おんちょう が どう はたらく で しょうか?)道徳の最も基本的な基準さえ分かろうと為ない者と如何心を通わせたら良いのでしょうか?(どうとく の もっとも きほん てき な きじゅん さえ わかろう と しない もの と どう こころ を かよわせ たら いい ので しょうか?) 控え目に言っても、此れは失望的な状況です(ひかえめ に いっても,これ は しつぼう てき な じょうきょう です).溝に嵌(ま)った(填〈ま〉った)私達の為に祈って下さい(みぞ に はまった わたくし たち の ため に いのって ください).
The environment of a modern factory breeds a sort of godlessness. I don't expect factory workers to be examples of stellar virtue but I would say that modern factories are exponentially worse than what Charles Dickens wrote about in his times. I can go on and on, but the point I am trying to make is this: how can grace operate in lives which are destroyed through sin and a life of seeking pleasure ? How does one reach out to men who cannot even grasp the most elementary norms of morality? It is frustrating to say the least. Please pray for us in the trenches.

(手紙の紹介終わり)(てがみ の しょうかい おわり)

女性は女性らしさと家庭から自らを解放する(じょせい は じょせい らしさ と かてい から みずから を かいほう する).男性は客観的な道徳と客観的な真理から自らを解放する(だんせい は きゃっかん てき な どうとく と きゃっかん てき な しんり から みずから を かいほう する).其の様な「信仰心の無い邪悪な世代」(新約聖書・使徒聖ルカによる聖福音書:第九章四十一節)(訳注7・1)に如何遣って手を差し伸べ,話し掛けたら良いのでしょうか?(そのような「しんこう しん の ないじゃあく な せだい」に どうやって て を さしのべ,はなし かけたら いい の で しょうか?)模範,愛徳,祈りに拠る(依る)しか方法は無いでしょう(もはん,あいとく,いのり に よる しか ほうほう は ない でしょう).私は手紙を下さった読者に,ロザリオ(数珠)を職場に持って行き(わたくし は てがみ を くださった どくしゃ に,ろざりお〈じゅず〉を しょくば に もって いき),目立たない様に仕事仲間の為に一連(=天使祝詞 "Ave, Maria" を十回)ずつ祈り(めだたない よう に しごと なかま の ため に いちれん〈=てんし しゅくし "あべまりあ" を じゅっかい〉ずつ いのり),自分の職場環境から自らを霊的(精神的)に守る為祈る様アドバイス為ました(じぶん の しょくば かんきょう から みずから を れいてき〈せいしんてき〉に まもる ため いのる よう あどばいす しました).但し,彼は此れを目立たない様に為る必要が有ります(ただし,かれ は これ を めだたないよう に する ひつよう が あります).
Woman freeing herself from femininity and family, man freeing himself from objective morality and objective truth – how indeed can one reach out to, or even talk with, such a “faithless and perverse generation” (Lk. IX, 41) ? By example, charity and prayer. I advised the writer to take a finger rosary to work to be able to pray discreetly decade after decade to pray for his fellow-workers and to protect himself spiritually from his work environment. But he will need to be discreet.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

訳注1・1

『何処でも出来る処で a finger-rosary (仮訳:ロザリオ数珠)で
(神の御母〈聖母〉マリアへの)ロザリオ祈祷を捧げなさい.』
について:

・「a finger-rosary(仮訳:ロザリオ数珠)」(ふぃんがー・ろざりー)〈かりやく:ろざりお じゅず〉
に就いて:

→片手の指だけで数える事が出来る小さなロザリオ数珠のこと.
(かたて の ゆび だけ で かぞえる こと が できる ちいさな ろざりお じゅず の こと)

・実物の具体例:

① 周囲に一つの十字架印とロザリオ祈祷一連分を数える事が出来る十個の突起(珠十個分)が付いた指輪を使用して,一人で「ロザリオ祈祷の黙祷」を為る事が出来る
(しゅうい に ひとつ の じゅうじか じるし(いん)と ろざりお きとう いちれん ぶんを かぞえる こと が できる じゅっこ の とっき(たま じゅっこ ぶん)が ついた ゆびわ を しよう して,ひとりで「ろざりお きとう の もくそう」を する こと が できる).

② 一つの十字架と一連分の数珠(珠十個)だけが付いた小型(ミニサイズ)のロザリオ数珠もある(ひとつ の じゅうじか と いちれん ぶん の じゅず〈たま じゅっこ〉だけ がついた こがた〈みに さいず〉の ろざりお じゅず も ある).

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訳注1・2

「(神の御母〈聖母〉マリアへの)ロザリオ祈祷」に就いて:
(「(かみ の おん はは〈せいぼ〉まりあ の)ろざりお きとう」
について:)


・解説
「ロザリオ祈祷」の由来・方法についての解説:
(「ろざりお きとう」の ゆらい・ほうほう に ついて の せつめい:)

→参考文献:
(さんこうぶんけん:)

『聖母マリアへのロザリオ九日間の祈り』(ドン・ボスコ社)
(「せいぼ まりあ へ の ろざりお ここのか かん の いのり」〈どん・ぼすこ しゃ〉

*訳注の続き(訳注4・1)(訳注4・2)(訳注 7・1)を続けます.

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(解説無し)

今日,人々は職場で独り苦しんでいるのでしょうか?
どこでもできるところでa finger-rosary(ロザリオの祈り)を捧げなさい.
Today's work-places crucify a man ?
With a finger-rosary pray wherever you can.

先週に続き,エレイソン・コメンツの一読者から寄せられた素晴らしい手紙をご紹介します.彼(読者)は正気とは思えない状況について良識ある見方をしています.読者の皆さんは彼の言う事にがっかりするか,それとも励まされるかもしれません.多くの読者は自分たちが職場で日々直面していることを認識すべきです.そうすれば,職場でカトリック教の信仰がなぜ,どのようにむしばまれているかが,もっとはっきり分かるかもしれません.以下は彼の手紙の内容です:-
Here is another good letter from a reader of these “Comments”. He takes a sane view of an insane scene. Readers may be discouraged by what he describes, or they may be encouraged by how he describes it. A number of readers must recognize what they are up against every day when they go to work, and they may see better here than they yet see why and how their place of work is eroding their Catholic faith. He writes: –

私は自動車製造工場でこれまで二年あまり働いてきました.給料は十分ですが,私の職場環境は世界全体の一種の縮図のようなものです.それがどのようなものか以下に説明します….
I have worked in a factory building cars for over two years now and while it does pay well the environment is a sort of microcosm of the world at large. Let me explain...

1)両性の混同 - 男性と女性は互いに身近な状態で共同作業をします.このような仕事環境は女性の女性らしさを完全に壊してしまいます.もちろん,女性のできない仕事もありますが,両性の平等という間違った考え方のために,会社は女性がそこで働くことを認める必要があります.だが,十戒第6戒,第9戒(訳注:第6戒:姦淫してはならない,第9戒:隣人の妻を欲してはならない)の違反について私が聞いた話は実に憂慮すべきものです.詳しく述べる必要もないでしょう.実際に起きていることは誰もが予測したことです.女性はなぜそのようなところで働くことを望むのでしょうか?
 1) Mixing up of the sexes - men and women work together in close proximity. Such work completely destroys a woman's femininity. Of course, there are certain jobs which women cannot do, but because of this false sense of equality, the company needs to allow women to work there. The stories that I have heard about the transgressions against the 6th and 9th commandments are truly disturbing. I need not elaborate. But what else did anybody expect ? Why would a woman even want to work in such a place? 

2)男性の心は道徳的判断ができなくなっている - もちろん,私は一般論として話しています.だが,私が話したほとんどの男性は倫理観(すなわち善と悪)ではなく,どうしたら楽しく過ごせるかを基準に考えています.私は何人かの同僚と話し,彼らが分かるような方法で道徳の問題を提起しようとしましたが,彼らにとって,それは右の耳から左の耳へ抜けてしまったようです.男性は肉欲にかかわること没頭すると,心について考えることができなくなります.もっと悪いことに,同僚たちは自ら犯した罪を自慢することをまったく恥と考えていないのです.昔は男性たちは恥の意識を持っていました.いまや,そんなものはないようです.
2) Men's minds are incapable of making moral judgments - I generalize of course, but most of the men I have talked to do not think in terms of morality (i.e. good and evil) but in terms of what pleasures can keep them entertained. I have talked to several co-workers and have tried to bring up questions of morality in a way that they might understand, but it seems to go over their heads. When a man has steeped himself in the things of the flesh, he is incapable of thinking of the soul. Worse, some of these co-workers have absolutely no shame in boasting of their sins. Once upon a time men had shame. No longer, it would seem.

3)私は私自身の神である - 誤った自由が男性の生活指針として称えられています.私は同僚の何人かと議論をしましたが,私がその都度知らされたのは,真理や倫理は純粋に主観的なことだということです.自分が真実だと信じることが素晴らしいのであり,自分の考え方を他人に押し付けることなどできないというのです.私は上司に,そのような考え方はばかげていると話しました.一人以上の妻を持つのは結構なことだと言う者がいたらどうでしょうかと,彼に尋ねました.彼は考え方は人それぞれだと応えました.真理は主観的なものでないという基本原則を否定する人がいるなら,その人に話しても無駄でしょう.突き詰めると,人はそれぞれ自分以外の何かに従う代わりに自分自身の現実を築きあげるのですから,自分が自分自身の神になるということでしょう.
3) I am my own god - False liberty is exalted as the guiding principle in men's lives. I have had a few discussions with some of my co-workers and what I get every single time is that truth and morality are purely a subjective affair. What you believe to be truth is fine for you, but you cannot impose your way of thinking on anyone else. I told a supervisor of mine that such thinking is nonsense. I said, what if someone thinks that having more than one wife is fine ? He said, belief is up to the individual. If a man denies such a basic principle as that truth is not subjective, then there is no point in talking to him. In essence, every individual becomes his own god because HE has constructed his own reality instead of submitting to something outside of him.

近代工場の環境は一種の無神状態を作り出します.私は工場労働者が輝かしい美徳の模範になること期待しているわけではありません.だが,近代工場はチャールズ・ディケンズが彼の時代について書いたことより益々悪くなっていると言いたくなります.私の言いたいことはまだ沢山あります.だが,要点は次のことです.罪によって壊れた生活や快楽をむさぼる生活で神の恩寵がどう働くでしょうか? 道徳の最も基本的な基準さえ分かろうとしない者とどう心を通わせたらいいのでしょうか? 控えめに言っても,これは失望的な状況です.溝にはまった私たちのために祈ってください. 
The environment of a modern factory breeds a sort of godlessness. I don't expect factory workers to be examples of stellar virtue but I would say that modern factories are exponentially worse than what Charles Dickens wrote about in his times. I can go on and on, but the point I am trying to make is this: how can grace operate in lives which are destroyed through sin and a life of seeking pleasure ? How does one reach out to men who cannot even grasp the most elementary norms of morality? It is frustrating to say the least. Please pray for us in the trenches.

(手紙の紹介終わり)

女性は女性らしさと家庭から自らを解放する.男性は客観的な道徳と客観的な真理から自らを解放する.そのような「信仰心のない邪悪な世代」(新約聖書・使徒聖ルカによる聖福音書:第9章41節)にどうやって手を差し伸べ,話しかけたらいいのでしょうか? 模範,愛,祈りによるしか方法はないでしょう.私は手紙をくださった読者に,ロザリオを職場に持って行き,目立たないように仕事仲間のために1連(=天使祝詞 "Ave, Maria" を10回)ずつ祈り,自分の職場環境から自らを精神的に守るため祈るようアドバイスしました.ただし,彼はこれを目立たないようにする必要があります.
Woman freeing herself from femininity and family, man freeing himself from objective morality and objective truth – how indeed can one reach out to, or even talk with, such a “faithless and perverse generation” (Lk. IX, 41) ? By example, charity and prayer. I advised the writer to take a finger rosary to work to be able to pray discreetly decade after decade to pray for his fellow-workers and to protect himself spiritually from his work environment. But he will need to be discreet.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教



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本投稿記事・第443回エレイソン・コメンツ「工場生活」(2016年1月9日付)/ELEISON COMMENTS CDXLII (Jan. 9, 2016) : "FACTORY LIFE" は2016年1月20日05時00分に掲載されました.
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2015年12月26日土曜日

441 家庭の比喩 12/26

エレイソン・コメンツ 第441回 (2015年12月26日)

(解説無し)

二つの家庭が一人の男性を長とするのは可能です.
同様に,二つの教会が一人の教皇によって導かれるのは可能です.
Two families can both have one man for head –
So can two churches by one Pope be led.

議論はうまくいけば物事を解明しますが,比喩はせいぜい物事を説明するだけにとどまります.だが,比喩は物事を解明しないまでも,私たちが知ることから得る多くの光を知らないことへ投げかけてくれます.半世紀近く続くいまの教会の危機について言えば,日が経つにつれ,それがますます分かりにくくなるため,私たちはできるだけ多くの光を得て,それに投げかける必要があります.以下にご紹介するのは,伝統派に改宗したある人物から私に最近寄せられた有意義な比喩です.彼は,伝統派教会と公会議派教会すなわち新教会( "Newchurch" )を取り上げ,それぞれを同じ男性から生じた正規の家庭と非正規の家庭に例えています,この比喩を男性の結婚,権威,子供たちに当てはめて考えてみましょう.
Whereas arguments at best prove, comparisons at best illustrate. So comparisons do not prove but they can throw a lot of light from what one does know onto what one does not know. Now concerning the present crisis of the Church, half a century old, we need all the light we can get, because with each day that passes it becomes less and not more understandable. So here is a fruitful comparison sent to me recently by a recent convert to Tradition. He compares the Catholic Church and the Conciliar Church, or the Newchurch, to the legitimate and illegitimate families of one and the same man. Let us apply the comparison to his marriage, to his authority and to his children. 

第1に,男性は自分の正妻との合法的な結婚により家庭を築き,嫡出子をもうけます。だが,しばらくするうちに,彼は浮気をし,妻を離縁して愛人と暮らすようになり,ここでも子供をつくります.この子は非嫡子です.これと同じように,一枢機卿が合法的な選挙により教皇に選出され,カトリック教会の正規の父,多数の真のカトリック教の信仰に支えられた精神的(=霊的)父となります.だが,しばらくすると,彼は公会議派の教皇として現代世界に身を売り,それとの不倫により公会議派の非嫡子をもうけ新しい家庭を作ります.このように,一人の男性が合法的な家庭と非合法的な家庭の双方の父親になりうるように,一人の教皇が同時にカトリック教教会と新教会の長となりえます.
By a lawful marriage to his true wife a man starts a family and has legitimate children. But after a while he is unfaithful to her and divorces her to live with his mistress, by adultery with whom he also has children, who are bastards. Similarly by a Cardinal’s lawful canonical election as Pope, the Cardinal becomes the legitimate father of the Catholic Church and the spiritual father by the true Faith of a multitude of true Catholics. But after a while as a Conciliar Pope he goes whoring after the modern world, and by adultery with it he engenders a new family of Conciliar bastards. Thus as one man can be the father of both a lawful and an unlawful family, so one Pope can at the same time be head of the Catholic Church and of the Newchurch. 

第2に,その家庭の父親は正規な家庭に対し権威を持ちますが,2番目の家庭すなわち正規でない家庭に対しては真の権威を持ちません.同じように,公会議派教皇はあらゆる真のカトリック教徒たちに対し権威を持ちますが,公会議派カトリック教を抱える新教会に対しては真の権威を持ちません.最初の家庭は真の父を必要とし,その妻,子供たちはあらゆることをして彼を家庭に繋ぎ止めようとしますが,彼は自分を引き留めるためあらゆることをする不倫相手と非嫡子から離れようとしません.同じように,公会議派教皇は自分たちのために義務を果たすよう求める伝統派カトリック教徒から尊敬を受けているのに,自分への真の尊敬などほとんど持たず,単に自分たちの非合法的な立場をつくろってほしいためにしがみついている公会議派カトリック信徒たちを選びます.
Secondly, as the family father has true authority over his true family but no true authority over his second family because it is not his true family, so the Conciliar Pope has true authority over all true Catholics but no true authority over the Newchurch with its Conciliar Catholics. And as the first family needs its true father, and both wife and children do all they can to bring him home, but he clings to his partner in adultery and to his illegitimate children who also do all they can to hold onto him, so each Conciliar Pope is still respected by Traditional Catholics who call upon him to do his duty by them, but he prefers Conciliar Catholics who have little real respect for him but who also hold onto him to cover their unlawful status.

 第3に,正妻は自分にとって代わった不倫相手と同列に置かれることを受け入れないでしょうし,その子供たちも(分別がつくほど大人になっていれば)偽の家庭に引き取られ非嫡子扱いされることを受け入れないでしょう.同様に,伝統は新教会と決して両立しないでしょうし,真のカトリック教徒は伝統を裏切って新教会に組み込まれるのを受け入れることなどできないでしょう.正妻の子供たちは父親が本当の父親で,彼を本当に必要としていても,不倫関係にある父親に媚び売ることなどすべきでないでしょう.本当の家庭に戻るべきなのは父親のはずだからです.また,合法的な子どもたちは不倫関係を続ける父親に加わることまでして彼を家庭に戻せると期待できないでしょう.そんなことをすれば,自分たちまでたぶらかされることになる可能性が大きいからです.
And thirdly, as no true wife will accept to be put on the same footing as the adulterous partner that has supplanted her, nor will the true children (if they are mature enough) accept to be adopted by the false family and thus likened to the bastards, so Tradition is absolutely incompatible with the Newchurch, nor can true Catholics accept to be incorporated into it by any kind of sell-out or betrayal of Tradition. It is not for them to go whoring after their true father in his adulterous environment, even if he is their true father and they truly need him. It is for the father to return to his true family. Nor can the lawful children reasonably expect to bring their father home by joining him in his seductive surroundings. The much greater likelihood is that they too will be seduced. 

新教皇( "Newpope" )を二つの家庭を掛け持つ父親に例えたこの比喩は多くの点で効果的です.なせなら,教皇はその性格上,家庭の父親と同じだからです.だが,「あらゆる比喩は足を引きずる(訳注:必ずしもうまく働かない)」( "Every comparison limps" )といいます.(この言い方も巧みな比喩です).上の比喩で,どの足が悪いかと言えば,同じ父親を持つ二つの家庭の違いは実生活では完全に明白なのに対し,カトリック教会と新教会の違いは理論的に明白だとしても,双方が実生活でともに絶望的なほど密接に絡み合っているため,現実的には区別して考えるのがきわめて困難だという点です.
This comparison of any Newpope to a father of two families is fruitful on many more points becaue it is in the nature of a Pope to be a father. But « Every comparison limps » (another brilliant comparison), and the bad leg of this comparison consists mainly in the fact that whereas the distinction between the two families of the one father is perfectly clear in real life, on the contrary the distinction between the Catholic Church and the Newchurch, while perfectly clear in theory, is very difficult to disentangle in practice, because they are almost hopelessly intertwined in real life. 

カトリック教の長を両肩にかつぎ続けるには,理論上の違いを知ると同時に実践上の大きな混乱を認識することが必要です.
To keep a Catholic head on one’s shoulders it is as necessary to know the clear distinction in theory as it is to recognize the desperate confusion in practice.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教



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解説付き邦訳文を,追って掲載いたします.
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本投稿記事・第441回エレイソン・コメンツ「家庭の比喩」(2015年12月26日付)"ELEISON COMMENTS CDXLI (Dec. 26, 2015) : "FAMILY COMPARISON" は2016年1月02日23時40分に掲載されました.
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2015年8月22日土曜日

423 矛盾するローマ人たち? 8/22

解説付

 エレイソン・コメンツ 第423回 (2015年8月22日) 

教理無しですか? それでは,背教が勝つでしょう.
(きょうり なし ですか?それ では,はいきょうが かつ でしょう.)
( "No doctrine ? Then apostasy will win." )

教理は,厚くても薄くても,保持されなければなりません.
(きょうりは,あつくても うすくても,ほじ されなければ なりません.)
( "Doctrine must be maintained, through thick or thin. " ) 

ローマ教皇庁の二人の聖職者が最近(ろーま きょうこう ちょうの ふたりの せいしょくしゃが さいきん),教皇庁と聖ピオ十世会( 以下,SSPX (The Society of Saint Piux X) と記す.)との関係につ(就)いて発言しましたが(きょうこう ちょうと せい ぴお じゅっせい かい〈いか,えす えす ぴー えくす と しるす.〉との かんけい について はつげん しました が),両者は互いに矛盾している様に見えます(りょうしゃは たがいに むじゅん している ように みえます)( "Two Roman churchmen have seemed to contradict one another in remarks made recently about relations between Rome and the Society of St Pius X, …" ).これについて説明するなら,教皇庁が SSPX に対し,老婆の様な古い警察のトリックを仕掛けているという事でしょう(これに ついて せつめい する なら,きょうこうちょうが えす えす ぴー えくす に たいし,ろうばの ような ふるい けいさつの とりっくを しかけて いると いうこと でしょう)( "… but one explanation of the contradiction may be that Rome is playing on the Society a police trick as old as the hills." ).「善玉警官と悪玉警官」というお定まりの手口だと(「ぜんだま けいかんと あくだま けいかん」という おさだまりの てぐち だと)( "By the “good cop, bad cop” routine, …" ),警察は犯人から自供を引き出すとき(時)(けいさつは はんにん から じきょうを ひきだす とき)( "… when the police want to get a confession out of a criminal, …" ),初めに手荒な警官を送り込み,犯人が惨めな状態になって,お情けを願い出る様になる(成る・為る)まで(迄)痛め付けます(はじめに てあらな けいかんを おくり こみ,はんにんが みじめな じょうたいに なって,おなさけを ねがいでる ように なる まで いため つけ ます)( "… firstly a brutal policeman is sent in to beat up the criminal until he is in a very sorry condition, requiring all kinds of sympathy." ).そこで,優しい警官が現れ,同情を降り注ぎ,犯人が口を割って自白する様仕向けます(そこで,やさしい けいかんが あらわれ,どうじょうを ふりそそぎ,はんにんが くちを わって じはく する よう しむけ ます)( "Then a really nice policeman is sent in, oozing with a sympathy which often makes the criminal open up and confess his crime." ).

今回の場合,「悪玉警官」は他ならぬ教皇庁教理省長官のミュラー枢機卿でしょう(こんかいの ばあい,「あくだま けいかん」は ほか ならぬ きょうこう ちょう きょうり しょう ちょうかんの みゅらー すうききょう でしょう)( "The “bad cop” in this case would be no less than the Prefect for the Congregation of the Doctrine of the Faith, Cardinal Müller, …" ).彼は8月初め,ドイツ司教会の公式ウェブサイト katholisch.de とのインタビューに応じ(かれは はちがつ はじめ,どいつ しきょう かいの こうしき うぇぶさいと katholisch.deとの いんたびゅーに おうじ)( "… who early this month in an interview with katholisch.de, official website of the German Bishops' Conference, …" ),教皇庁とSSPXとの 合意につ(就)いて(次の様に)述べています.(即ち,)「実質的な 新発展は 何も 有りません.教皇は 私達が『執拗 かつ(且つ)根気強く』話し合いを 続ける事を お望み です.全面的な 和解の 前提条件は 信仰の 本質的 問題に ついての 完全な 合意に 向けた 前文の 調印です.過去 数か月の 間,相互信頼を 強める 目的で 異なる 路線の 摺合せが 行われました」 と(きょうこう ちょうと せい ぴお じゅっせい かい との ごういに ついて〈つぎのように〉のべて います.〈すなわち,〉「じっしつ てきな しん はってんは なにも ありません.きょうこうは わたくし たちが『しつよう かつ こんき づよく』はなしあいを つづける ことを おのぞみ です.ぜんめん てきな わかいの ぜんてい じょうけんは しんこうの ほんしつ てき もんだいに ついての かんぜんな ごういに むけた ぜんぶんの ちょういん です.かこ すうかげつの あいだ,そうご しんらいを つよめる もくてきで ことなる ろせんの すりあわせが おこなわれ ました」 と)( "… said about a Rome-SSPX agreement that “There is no substantial new development. The Holy Father wishes that we keep trying: “con tenacia e pazienza” – “with tenacity and patience.” The precondition for a full reconciliation is the signing of a doctrinal preamble in order to guarantee a full agreement in the essential questions of the Faith. In the past months, there were encounters of different ways which are meant to strengthen the mutual trust.” " ).

ここでは, SSPX が教皇庁 との 合意を 望む なら,ネオ・モダニスト〈=新現代主義者〉の 教皇庁が 同意 出来る 教理的 文書に 調印 しなければ ならない だろうと 明示されて います(ここ では,せい ぴお じゅっせい かいが きょうこう ちょう との ごういを のぞむ なら,ねお・もだにすと〈=しん げんだい しゅぎ しゃ〉の きょうこう ちょうが どうい できる きょうり てき ぶんしょ に ちょういん しなければ ならない だろうと めいじ されて います)( "Here it is clearly stated that the SSPX will have to sign a doctrinal text agreeable to neo-modernist Rome if it wishes for an agreement with Rome." ).ミュラー枢機卿は「相互信頼を 強める 目的で」 ローマ教皇庁の人たちと SSPX との間で「異なる 路線の 摺合せが 行われた」 事を 明かす 事で「悪玉警官」の 役を 演じて います(みゅらー すうききょう は「そうご しんらいを つよめる もくてきで 」 ローマ教皇庁の人たちとSSPXとの間で「ことなる ろせんの すりあわせが おこなわれた」 ことを あかす ことで「あくだま けいかん」の やくを えんじて います)( "The Cardinal is also being a “bad cop” when he reveals that there were “encounters of different ways” between Romans and the SSPX “to strengthen mutual trust”." ). SSPX は 枢機卿の 発言が 無かったら 表面化 しなかったと 思われる 両者間の 接触に 教皇庁が 光を 当てた 事に 満足 している でしょうか?(せい ぴお じゅっせい かいは すうききょうの はつげんが なかったら ひょうめん か しなかったと おもわれる りょうしゃ かんの せっしょくに きょうこう ちょうが ひかりを あてた ことに まんぞく している でしょうか?)( "Or is the SSPX happy that Rome is shedding the light of day upon contacts otherwise unknown ? " ) だが,カトリック信仰を 持ち続ける 人々の 中で,一体 誰が ネオ・モダニスト(=新現代主義者)達 との 相互 信頼が 築かれる 事で 安心 する でしょうか?(だが,かとりっく しんこうを もち つづける ひとびとの なかで,いったい だれが ねお もだにすと たち との そうご しんらいが きずかれる ことで あんしん する でしょうか?)( "Yet who that has the Catholic faith is re-assured by mutual trust being established with neo-modernists ? " )それは さておき,次は「善玉警官」に つ(就)いて です(それは さておき,つぎは「ぜんだま けいかん」に ついて です)( "But now comes the “good cop”." ).

今年に なって から,アタナシウス・シュナイダー司教が「 SSPX の 神学者 グループ および フェレー司教 閣下と 特定の 神学的 議題に ついて 討議する 目的で」 SSPX 主催の 二つの 神学校を 訪れ ました(ことしに なって から,あたなしうす・しゅないだー しきょうが「せい ぴお じゅっせい かいの しんがくしゃ ぐるーぷ および ふぇれー しきょう かっかと とくていの しんがく てき ぎだいに ついて とうぎ する もくてきで」 せい ぴお じゅせい かい しゅさいの ふたつの しんがっこうを おとずれ ました)( "Earlier this year Bishop Athanasius Schneider visited two seminaries of the SSPX “in order to conduct a discussion on a specific theological topic with a group of theologians of the SSPX and with His Excellency Bishop Fellay”." ).つい 最近,彼は スペイン語の ウェブサイト "Rorate Caeli"(訳注・5・1)との インタビューに 応じて います.この中で,彼は 多くの 事を 述べて いますが,特に SSPX 訪問に つ(就)いて 前向きな コメントを して います(つい さいきん,かれは すぺいんご の うぇぶ さいと「ろらーて・かえり」〈やくちゅう・ご てん いち〉との いんたびゅーに おうじて います.この なかで,かれは おおくの ことを のべて いますが,とくに せい ぴお じゅっせい かい ほうもんに ついて まえむきな こめんとを して います)( "Just recently he conducted an interview with a Hispanic website, Rorate Caeli en español, in which among other things he commented favourably on these visits." ).彼は SSPX から 厚遇 された 事に 触れ,インタビューの いたる ところ(至る所)で 現職 教皇 フランシスコ への 敬意を 表明 して います(かれは せい ぴお じゅっせい かい から こうぐう された ことに ふれ,いんたびゅーの いたる ところで げんしょく きょうこう ふらんしすこ への けいいを ひょうめい して います)( "He himself was treated with cordial respect, and he observed a respect all around for the reigning Pontiff, Pope Francis." ).彼は 二度の 訪問を 終えた 後「 SSPX の 聖職者や 信徒達 に対し 教皇庁の 正式な 承認を 与える 事を 拒む 大きな 理由は 見当たらない.公式 承認が 出る まで(迄),彼等を 現状 通りの まま 受け入れる べきだ」 と,述べて います(かれは にどの ほうもんを おえたあと〈のち〉「せい ぴお じゅっせい かいの せいしょくしゃや しんとたちに たいし きょうこうちょうの せいしきな しょうにんを あたえる ことを こばむ おおきな りゆうは みあたらない.こうしき しょうにんが でる まで,かれらを げんじょう どおりの まま うけいれる べきだ」 と,のべて います)( "After his visits he could see “no weighty reasons to deny the clergy and faithful of the SSPX the official canonical recognition, and meanwhile they should be accepted as they are.” " ).シュナイダー司教は第二バチカン公会議の重要性を軽視し,合意を妨げる教理上の問題は見当たらない事を確認しました(しゅないだー しきょうは だいに ばちかん こうかいぎの じゅうようせいを けいし し,ごういを さまたげる きょうりじょうの もんだいは みあたらない ことを かくにん しました)( "Bishop Schneider confirmed that he saw no doctrinal problem in the way of an agreement by downplaying the importance of Vatican II: …" ).彼は公会議は主に牧歌的で,過去の出来事だと述べました(かれは こうかいぎは おもに ぼっか てき で,かこの できごと だと のべました)( "… the Council was primarily pastoral, and of its time, he said." ).

では,誰がローマの本当の代表者なのでしょうか?(では,だれが ろーまの ほんとうの だいひょうしゃ なのでしょうか?)( "So who represents the real Rome ? " )ミュラー枢機卿でしょうか,それともシュナイダー司教でしょうか?(みゅらー すうききょう でしょうか,それとも しゅないだー しきょう でしょうか?)( "Cardinal Müller or Bishop Schneider ? " ) 二人とも代表者なのは明白です(ふたり とも だいひょうしゃ なのは めいはく です)( "Certainly both." ).「善玉警官,悪玉警官」の手口が意図されたもの(物)でないなら,明らかに直感的なもの(物)でしょう(「ぜんだま けいかん,あくだま けいかん」の てぐちが いと された もの でない なら,あきらかに ちょっかん てきな もの でしょう)( "If the “good cop, bad cop” routine is not conscious, it is certainly instinctive." ).教皇庁は選択肢をオープンにして置く事で, SSPX を魚の様に扱い続ける事が出来ます(きょうこうちょうは せんたくしを おーぷんに しておく ことで,せいぴお じゅっせい かいを さかな〈うお〉の ように あつかい つづける ことが できます)( "Rome, by keeping its options open, can continue to play the SSPX like a fish, " ).リールを巻き寄せたり緩めたり,希望を持たせたり挫いたり,やがて(軈て)糸が切れるまで(迄)何度もから(絡)めたり伸ばしたり出来ます(りーるを まきよせたり ゆるめたり,きぼうを もたせたり くじいたり,やがて いとが きれる まで なんども からめたり のばしたり できます)( "… reeling it in, letting it out, raising hopes and then dashing them, bending the wire and straightening it again, and again, until finally it snaps." ).悲しいかな(哉),「摺合せ」 とい(言・謂・云)っても, SSPX 指導者達はローマ演出のゲームにおける共謀者なのです(かなしい かな,「すりあわせ」 といっても,せいぴお じゅっせい かい しどうしゃ たちは ろーま えんしゅつの げーむ における きょうぼう しゃ なのです)( "Alas, one may suspect that by “encounters” the leaders of the SSPX are complicit in this game of Rome." ).

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教



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教理無しですか?それでは,背教が勝つでしょう.
教理は厚くても薄くても保持されなければなりません.
No doctrine ? Then apostasy will win.
Doctrine must be maintained, through thick or thin.

ローマ教皇庁の二人の聖職者が最近,教皇庁と聖ピオ十世会("the Society of St Pius X",以下,「SSPX」と記す) との関係について発言しましたが,両者は互いに矛盾しているように見えます.これについて説明するなら,教皇庁が SSPX に対し,老婆のような古い警察のトリックを仕掛けているということでしょう.「善玉警官と悪玉警官」というお定まりの手口だと,警察は犯人から自供を引き出すとき,初めに手荒な警官を送り込み,犯人がみじめな状態になって,お情けを願いでるようになるまで痛めつけます.そこで,優しい警官が現れ,同情を降り注ぎ,犯人が口を割って自白するよう仕向けます.
Two Roman churchmen have seemed to contradict one another in remarks made recently about relations between Rome and the Society of St Pius X, but one explanation of the contradiction may be that Rome is playing on the Society a police trick as old as the hills. By the “good cop, bad cop” routine, when the police want to get a confession out of a criminal, firstly a brutal policeman is sent in to beat up the criminal until he is in a very sorry condition , requiring all kinds of sympathy. Then a really nice policeman is sent in, oozing with a sympathy which often makes the criminal open up and confess his crime.

今回の場合,「悪玉警官」はほかならぬ教皇庁教理省長官のミュラー枢機卿でしょう.彼は8月初め,ドイツ司教会の公式ウェブサイト katholisch.de とのインタビューに応じ,教皇庁と SSPX との合意について「実質的な新発展はなにもありません.教皇は私たちが『執拗かつ根気強く』話し合いを続けることをお望みです.全面的な和解の前提条件は信仰の本質的問題についての完全な合意に向けた前文の調印です.過去数か月のあいだ,相互信頼を強める目的で異なる路線の摺合せが行われました」 と述べています.
The “bad cop” in this case would be no less than the Prefect for the Congregation of the Doctrine of the Faith, Cardinal Müller, who early this month in an interview with katholisch.de, official website of the German Bishops' Conference, said about a Rome-SSPX agreement that “There is no substantial new development. The Holy Father wishes that we keep trying: “con tenacia e pazienza” – “with tenacity and patience.” The precondition for a full reconciliation is the signing of a doctrinal preamble in order to guarantee a full agreement in the essential questions of the Faith. In the past months, there were encounters of different ways which are meant to strengthen the mutual trust.”

ここでは,SSPX が教皇庁との合意を望むなら,ネオ・モダニスト(新現代主義者)の教皇庁が同意できる教理的文書に調印しなければならないだろうと明示されています.ミュラー枢機卿は「相互信頼を強める目的で」 ローマ教皇庁の人たちと SSPX との間で「異なる路線の摺合せが行われた」 ことを明かすことで「悪玉警官」の役を演じています.SSPX は枢機卿の発言がなかったら表面化しなかったとおもわれる両者間の接触に教皇庁が光を当てたことに満足しているでしょうか?だが,カトリック信仰を持ち続ける人々の中で,一体だれがネオ・モダニストたちとの相互信頼が築かれることで安心するでしょうか?それはさておき,次は「善玉警官」についてです.
Here it is clearly stated that the SSPX will have to sign a doctrinal text agreeable to neo-modernist Rome if it wishes for an agreement with Rome. The Cardinal is also being a “bad cop” when he reveals that there were “encounters of different ways” between Romans and the SSPX “to strengthen mutual trust”. Or is the SSPX happy that Rome is shedding the light of day upon contacts otherwise unknown ? Yet who that has the Catholic faith is re-assured by mutual trust being established with neo-modernists ? But now comes the “good cop”.

今年になってから,アタナシウス・シュナイダー司教が「 SSPX の神学者グループおよびフェレー司教閣下と特定の神学的議題について討議する目的で」 SSPX 主催の二つのセミナーを訪れました.つい最近,彼はスペイン語のウェブサイト Rorate Caeli とのインタビューに応じています.この中で,彼は多くの事を述べていますが,特に SSPX 訪問について前向きなコメントをしています.彼は SSPX から厚遇されたことに触れ,インタビューのいたるところで現職フランシスコ教皇への敬意を表明しています.彼は二度の訪問を終えた後「 SSPX の聖職者や信徒たちに対し教皇庁の正式な承認を与えることを拒む大きな理由は見当たらない.公式承認が出るまで,彼らを現状通りのまま受け入れるべきだ」 と,述べています.シュナイダー司教は第二バチカン公会議の重要性を軽視し,合意を妨げる教理上の問題は見当たらないことを確認しました.彼は公会議は牧歌的で,過去の出来事だと述べました.
Earlier this year Bishop Athanasius Schneider visited two seminaries of the SSPX “in order to conduct a discussion on a specific theological topic with a group of theologians of the SSPX and with His Excellency Bishop Fellay”. Just recently he conducted an interview with a Hispanic website, Rorate Caeli en español, in which among other things he commented favourably on these visits. He himself was treated with cordial respect, and he observed a respect all around for the reigning Pontiff, Pope Francis. After his visits he could see “no weighty reasons to deny the clergy and faithful of the SSPX the official canonical recognition, and meanwhile they should be accepted as they are.” Bishop Schneider confirmed that he saw no doctrinal problem in the way of an agreement by downplaying the importance of Vatican II: the Council was primarily pastoral, and of its time, he said.

では,誰がローマの本当の代表者なのでしょうか?ミュラー枢機卿でしょうか,それともシュナイダー司教でしょうか?二人とも代表者なのは明白です.「善玉警官,悪玉警官」の手口が意図されたものでないなら,明らかに直感的なものでしょう.教皇庁は選択肢をオープンにしておくことで,SSPX を魚のように扱い続けることができます.リールを巻き寄せたり緩めたり,希望を持たせたりくじいたり,やがて糸が切れるまで何度もからめたり伸ばしたりできます.悲しいかな,「摺合せ」 といっても,SSPX 指導者たちはローマ演出のゲームにおける共謀者なのです.
So who represents the real Rome ? Cardinal Müller or Bishop Schneider ? Certainly both. If the “good cop, bad cop” routine is not conscious, it is certainly instinctive. Rome, by keeping its options open, can continue to play the SSPX like a fish, reeling it in, letting it out, raising hopes and then dashing them, bending the wire and straightening it again, and again, until finally it snaps. Alas, one may suspect that by “encounters” the leaders of the SSPX are complicit in this game of Rome.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教



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(訳注・5・1 )"Rorate Caeli" について.

・スペイン語のウェブサイト "Rorate Caeli" =ウェブサイト "Rorate Cæli" のスペイン語版.

・"Rorate Cæli" 読み「ロラーテ・カエリ」.

・"Rorate Cæli" はラテン語〈ウルガタ訳〉の「旧約聖書・イザヤ預言書:第45章8節」からの引用で,邦訳聖書(バルバロ神父訳版)では 『天よ,高くから水をしたたらせ,… 』となっており,続いて 『… 雲は,公正を降らせよ.地が開かれて,救いが生え,正義も芽生えよ.主なる私(=神御自身)がそれをつくった.…』となっている.

・「イザヤ預言書:第45章8節」は,クリスマス時節,「降誕節」に入る直前の「待降節」第3週目の「四季の水曜日(断食の曜日)」のミサ聖祭に於ける「入祭文」で誦(よ)まれる.

・「待降節の四季の水曜日のミサ聖祭」は,待降節中でも特に特色がある.〈聖福音〉は,聖母お告げの場面であり,書簡の代わりに,イザイアの予言を語る.それで,この日は,聖母マリアの祝いともいいうるほどである.

・→「待降節第4主日」について.昔は,この日のミサ聖祭は行わなかった.なぜなら,(待降節の)四季の土曜日の典礼と叙品式(現「叙階式」)とが,土曜日の夜から日曜日にかけて行われたからである.それで,この日のミサ典礼のほとんどは,他のミサ聖祭からとったものである(1955年ローマ・ミサ典書).

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BIBLIA SACRA: PROPHETIA ISAIÆ XLV(45), 8 (latine)

LA SAINTE BIBLE SELON LA VULGATE LATINE : ISAÏE (en hébreu, Yescha ’yahu (Jéhova sauve)) XLV, 8 (français)

THE HOLY BIBLE, DOUAY-RHEIMS VERSION TRANSLATED FROM THE LATIN VULGATE : THE PROPHECY OF ISAIAS XLV, 8 (English)

聖書 旧約/新約 Auctor: Federico Barbaro, s. d. b. / NIHIL OBSTAT Dominicus Kaneko s.d.b. Censor Delegatus Die 24 decembris, 1973 / IMPRIMATUR Petrus S. Shirayanagi Archiepiscopus Tokiensis Die 29 decembris 1973(1980年 カトリックサレジオ修道会)(東京司教認可)(「講談社」発行) … 旧約聖書  第45章8節(日本語)


"Rorate cæli desuper, et nubes pluant iustum: aperiatur terra, et germinet salvatorem: et iustitia oriatur simul: ego Dominus creavi eum."

"Cieux, versez votre rosée d’en haut, et les nuées pleuvent un juste ; que la terre s’ouvre, que la justice naisse en même temps ; moi, le Seigneur, je l’ai créé."

"Drop down dew, ye heavens, from above, and let the clouds rain the just: let the earth be opened, and bud forth a saviour: and let justice spring up together: I the Lord have created him."

『天よ,高くから水をしたたらせ,雲は,*公正を降らせよ.地が開かれて,救いが生え,正義も*芽生えよ.主なる私がそれをつくった.』

(注釈)

救い(45・7-8 )
* 8-1 ヘブライ語の「セデク」は,一般に「正義」と訳されている.「勝利」よりもこのほうが近いと思われる.

* 8-2 イザヤは,メシア(=救世主)的な王をダビドから出る新しい「芽生え」にたとえた(6・13,11・1).エレミアの書(23・5,33・15)と,ザカリアの書(3・8,6・12)にもある「芽生え」はメシアを指す.

(解説:1955年ローマ・ミサ典書より抜粋)
・「四季の断食」は,ローマの教会において,使徒の頃から伝わった風習らしい.

・初代教会では元々毎週水・金・土曜に断食を行う風習があった.四世紀にこの風習がなくなり,四季だけにこの断食の風習が残った.

・現在の「四季の日」は教皇聖グレゴリオ七世(1073‐1085)により定められ(四旬節第一週,聖霊降臨の週間,九月の第三週,待降節第三週),季節を主にささげて,各季節の恵みをこい求めること以外に,神から聖なる司祭をこい求めるために断食と祈りをした.

・昔の習慣によると,十二月の四季に,司祭と助祭の叙任式を行っていたので,教皇ジェラジオ一世(492‐496)のころから,四旬節・聖霊降臨・九月の四季にも行われるようになった.

・ローマの公教会が,この日の指定巡礼聖堂を聖マリア大聖堂としたのは,司祭を神の御母の保護の下に置こうとしたからである.

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本投稿記事・第423回エレイソン・コメンツ「矛盾するローマ人たち?」 "CONTRADICTORY ROMANS ? "( 2015年8月22日付)は2015年9月03日05時35分に掲載されました.
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2015年1月10日土曜日

391 大司教のコメント II 1/10

エレイソン・コメンツ 第391回 (2015年1月10日)

大司教が願ったのはローマが彼自身を認める事では無く,
(だいしきょうが ねがった のは ろーまが かれ じしんを みとめる こと では なく,)
( "The Archbishop wished Rome not himself to approve," )

ローマが教会の為に動く事でした.
(ろーまが きょうかいの ために うごく こと でした.)
( "Rather that Rome for the Church's good would move." )

ルフェーブル大司教が1991年に述べられたお言葉について(就いて・附いて・付いて)の考察(最後の2コメンツ〈= EC389, 390 〉参照)を終える前に(るふぇーぶる だいしきょうが せん きゅうひゃく きゅうじゅういち ねんに のべられた おことばに ついての こうさつ〈さいごの に こめんつ〈=えれいそん・こめんつ だい さんびゃく はちじゅう く かい,だい さんびゃく きゅうじゅっ かい〉さんしょう〉を おえる まえ に)( "Before leaving Archbishop Lefebvre's realistic remarks of 1991 (cf. the last two EC's), …" ),更に論評(=批評) "comment" を続けて見ましょう(さらにろんぴょう〈=ひひょう〉をつづけてみましょう)( "… let us comment further, …" ).カトリック教徒(=公教徒)達が真実・真理 "truth" の名の下に権威 "authority" を冷笑する事と,権威を維持する為に真実・真理を軽視する事との間のバランスを如何保つかに役立てばと願うからです(かとりっく きょうと〈=こう きょうと〉たちが しんじつ・しんりの なの もとに けんいを れいしょう する こと と,けんい を いじ する ために しんじつ・しんりを けいし する こと との あいだの ばらんすを どう たもつか に やくだてば と ねがう から です)( "…in the hope of helping Catholics to keep their balance between scorning authority in the name of truth and belittling truth for the sake of authority." ).と言う(云う・謂う)のも,第二バチカン公会議(1962-1965年)の聖職者たちが教会革命(宗教的自由 "religious liberty",同僚間の平等 "collegial equality",普遍的キリスト教諸宗派所属の信徒相互間における兄弟愛〈=同胞愛〉ecumenical fraternity)(訳注・1-1)の為に権威を二の次にする(為る)様になって以来(と いう のも,だいに ばちかん こう かいぎ〈せん きゅうひゃく ろくじゅうに-せん きゅうひゃく ろくじゅうご ねん〉の せいしょく しゃ たちが きょうかい かくめい〈しゅうきょう てき じゆう・どうりょう かんの びょうどう,ふへん てき きりすと きょう しょしゅうは しょぞくの しんと そうご かんに おける きょうだいあい〈=どうほう あい〉〉の ために けんいを に の つぎ に する ように なって いらい)( "For ever since the churchmen of Vatican II (1962-1965) put their full authority behind the Church Revolution (religious liberty, collegial equality and ecumenical fraternity), …" ),カトリック教徒(=公教徒)達はバランス(=均衡)が取れなくなっている(=為って居る・成って居る)からです(かとりっく きょうと 〈=こうきょうと〉たちは ばらんす〈=きんこう〉が とれなく なって いる から です)( "Catholics have been thrown off balance: …" ).彼等は真の権威が真の真実・真理を踏み躙る時,真の権威と真の真実・真理の両方に如何敬意を払えば良いのか訝っています(かれらは まことの けんいが まことのしんじつ・しんりを ふみにじる とき,まことの けんいと まことの しんじつ・しんりの りょうほうに どう けいいを はらえば よいのか いぶかって います)( "… when Authority tramples upon Truth, how indeed is one to maintain one's respect for both ? " ).(訳注1・1 )

第二バチカン公会議後の苦悩の中で(だいに ばちかん こうかいぎ ご の くのうの なかで)( "Now in the tormented aftermath of Vatican II, …" ),ルフェーブル大司教が主に(彼だけとは言いませんが)(るふぇーぶる だいしきょうが おもに〈かれ だけ とは いい ません が〉)責任を持って来られたカトリック教教理,ミサ聖祭,諸秘蹟の維持に(せきにんを もって こられた かとりっく きょうり,みさ せいさい,しょ ひせきの いじに)匹敵するほどの成果をもたら(齎)した人が果たして居るでしょうか?(ひってき する ほどの せいかを もたらした ひとが はたして いる でしょうか?)( "… who can be said to have borne fruits comparable to that preservation of Catholic doctrine, Mass and sacraments for which the Archbishop was mainly (albeit not solely) responsible ? " )そうだとすれば(=左様だと為れば・然様だと為れば),大司教がもたらした(齎した)真の真実・真理と真の権威 ( "Truth and Authority" ) のバランスは特筆に値する物に違いあり(在り・有り)ません(そう だと すれば〈さよう だと すれば・さよう だと すれば〉,だいしきょうが もたらした まことの しんじつと まことの けんいの ばらんすは とくひつに あたい する ものに ちがい あり ません)( "In which case, the balance that he himself struck between Truth and Authority must be especially deserving of consideration." ).

最初に,権威 "authority" についてのルフェーブル大司教の見方について考えてみましょう(さいしょに けんいに ついての るふぇーぶる だいしきょうの みかたに ついて かんがえて みましょう)( "Firstly, let us consider a simple observation of the Archbishop on authority : …" ).彼は「最早過去のルールが無いのですから,私達が今見るのは権威の専制です」と述べられました(かれは「もはや かこの るーるが ない のです から,わたくし たちが いま みる のは けんいの せんせい です」とのべられました)( “Now we have the tyranny of authority because there are no more rules from the past.” ).原罪を抱える世界中の諸諸の人間にとって,真実はそれを支える権威が必要です(げんざいを かかえる せかいじゅうの もろもろの にんげんに とって,しんじつは それを ささえる けんいが ひつよう です)( "Amongst human beings all with original sin, truth needs authority to back it, …" ).何故なら,真実は一度(ひとたび)市場に出されれば,現実を教えるのに必要な惨事が無くても,独りでに人気を得る物だから,と言う考えはジェファーソン流の勘違いだからです(なぜなら,しんじつは ひとたび しじょうに だされれば,げんじつを おしえる のに ひつような さんじが なくても,ひとりでに にんきを える もの だから,という かんがえは じぇふぁーそん りゅうの かんちがい だから です)( "… because it is a Jeffersonian illusion that truth thrown into the market-place will prevail all on its own without a disaster being necessary to teach reality." ).目的の為に諸諸の手段が在るように,権威は真実の為に在ります(もくてきの ために もろもろの しゅだんが ある ように,けんいは しんじつの ために あり ます)( "Authority is to truth as means to end, …" ).手段の為に目的が在るのでは有りません(しゅだんの ために もくてきが ある のでは ありません)( "… not end to means." ).私達を救うのは(地上の全地に遍く及ぶ唯一の)公の信仰(=カトリック信仰)であり(わたくし たちを すくう のは〈ちじょうの ぜんちに あまねく およぶ ゆいいつの〉おおやけの しんこう〈=かとりっくの しんこう〉であり)( "It is Catholic faith which saves, …" ),其の真の信仰( "that Faith" )は権威で無く諸諸の真実の中に宿る物です(その まことの しんこうは けんい でなく もろもろの しんじつの なかに やどる もの です)( "… and that Faith lies in a series of truths, not in authority." ).それらの諸真実はカトリック教権威の実態や目的そのものですから(それらの しょ しんじつは かとりっく きょう けんいの じったいや もくてき そのもの です から)( "Those truths are so much the substance and purpose of Catholic Authority that …" ),第二バチカン公会議がした様に,両者をばらばらにすれば(だいに ばちかん こうかいぎが した ように,りょうしゃ を ばらばらに すれば)( "… when it is cut loose from them, as by Vatican II, …" ),真実は切り離されてしまい(しんじつは きり はなされて しまい)( "then it is cut adrift,専制君主が其れを手にすれば自分の意のままに捻じ曲げてしまいます(せんせい くんしゅが それを てに すれば じぶんの いの ままに ねじまげて しまいます)( "… until the first tyrant to lay hands on it bends it to his will." ).公会議の後,当然の様に(教皇)パウロ6世の専制が続きました(こうかいぎの あと,とうぜんの ように〈きょうこう〉ぱうろ ろくせいの せんせいが つづき ました)( "The tyranny of Paul VI followed naturally on the Council, …" ).此れと同じ様に,聖ピオ十世会(SSPX)指導部は最近数年間,公会議推進派の承認を求める為専制君主の様に振る舞って来ました(これと おなじ ように,せい ぴお じゅっせい かい〈えす えす ぴー えくす〉しどうぶは さいきん すうねん かん,こうかいぎ すいしんは の しょうにんを もとめる ため せんせい くんしゅの ように ふるまって きました)( "… just as by pursuing approval from the champions of the same Council, the leadership of the Society of St Pius X has likewise behaved itself tyranically in recent years." ).真実を守る事で自らの権威を伝統の上に築き上げたルフェーブル大司教の遣り方と彼等の行動を対比して見て下さい(しんじつを まもる ことで みずからの けんいを でんとうの うえに きずき あげた るふぇーぶる だいしきょうの やりかたと かれらの こうどうを たいひ して みて ください)( "Contrast how the Archbishop built up his authority over Tradition by serving the truth." ) .

更なるコメントに値するルフェーブル大司教の1991年の2つ目の発言は(さらなる こめんとに あたい する るふぇーぶる だいしきょうの せん きゅうひゃく きゅうじゅう いち ねんの ふたつめの はつげんは)( "A second remark of his from 1991 deserving of further comment is …" )「私は自分が為すべきより踏み込み過ぎたと思う」と言う物です.此れは大司教が自ら出した1988年5月5日の協定議定書に基づきローマ教皇庁との合意に達しようと試みた時に述べた言葉です(「わたくしは じぶんが なす べき より ふみこみ すぎたと おもう」と いう もの です.これは だいしきょうが みずから だした せん きゅうひゃく はちじゅう はちねん ごがつ いつかの きょうてい ぎていしょに もとづき ろーま きょうこう ちょう との ごういに たっしようと こころみた ときに のべた ことば です.)( "… where he said that when in 1988 he tried to reach an agreement with Rome by means of his Protocol of May 5, “I think I can say that I went even further than I should have.” " ).事実,同議定書は幾つかの重要な問題点について批判を浴びました.従って,大司教は自分が一時的にバランスを失い,伝統派の真実に反してローマ教皇庁の権威に従おうと傾いた事を認めたのです(じじつ,どう ぎていしょは いくつかの じゅうような もんだい てんに ついて ひはんを あび ました.したがって,だいしきょうは じぶんが いちじ てきに ばらんすを うしない,でんとうはの しんじつに はんして ろーま きょうこう ちょうの けんいに したがおうと かたむいた ことを みとめた のです)( "Indeed that Protocol lays itself open to criticism on important points, so here is the Archbishop himself admitting that he momentarily lost his balance, tilting briefly in favour of Rome's authority and against Tradition's truth. " ).だが,大司教の考えが傾いたのはほんの僅かな間だけでした(だが,だいしきょうの かんがえが かたむいた のは ほんの わずかな あいだ だけ でした)( "But he tilted only briefly, …" ).広く知られて居る事ですが,彼は翌日に議定書を撤回しました(ひろく しられて いる こと ですが,かれは よくじつに ぎていしょを てっかい しました)( "… because as is well-known, on the very next morning he repudiated the Protocol, …" ).そして彼が再び迷う事は彼の死まで決して有りませんでした(そして かれが ふたたび まよう ことは かれの し まで けっして ありません でした).( "… and he never again wavered until his death, …" )其の時以来,大司教は(教会)権威者と合意に達する為全力を尽くさなかったとか,真の真実・真理と真の権威( "Truth and Authority" )との間のバランスを常に正しく取るのは簡単な事だ,等と誰も言えなくなりました(その とき いらい,だいしきょうは〈きょうかい〉けんいしゃと ごういに たっする ため ぜんりょくを つくさなかった とか,まことの しんじつ・しんりと まことの けんい との あいだの ばらんすを つねに ただしく とるのは かんたんな ことだ,などと だれも いえなく なりました)( "… so that from then on nobody could say either that he had not done all he could to reach agreement with Authority, or that it is an easy thing to get the balance always right between Truth and Authority." ).

大司教の三つ目の発言は,彼が1975年から1988年にかけてローマ教皇庁当局との間に何らかの合意を取り付けようとした時の動機を明らかにしておられます(だいしきょうの みっつめの はつげんは,かれが せん きゅうひゃく ななじゅう ごねん から せん きゅうひゃく はちじゅう はち ねんに かけて ろーま きょうこう ちょう とうきょく との あいだに なんらかの ごういを とりつけよう とした ときの どうきを あきらかに して おられ ます)( "A third remark throws light on his motivation in seeking from 1975 to 1988 some agreement with Roman Authority. " ).聖ピオ十世会上層部にいる大司教の後継者達は其れを自分達なりに解釈し,大司教が常に求めたのは教会規範の秩序立てで有るかの様に言います(せいぴお じゅっせい かい じょうそうぶに いる だいしきょうの こうけいしゃ たちは それを じぶん たち なりに かいしゃくし,だいしきょうが つねに もとめた のは きょうかい きはんの ちつじょ だて である かの ように いいます)( "Judging his motives by their own, his successors at the head of the SSPX talk as though he was always seeking its canonical regularisation." ).だが,大司教は議定書についての説明の中で「私は最後の瞬間までローマ教皇庁に僅かなりとも忠誠心が見られるのではないかと期待した」と述べておられます(だが,だいしきょうは ぎていしょに ついての せつめいの なかで「わたくしは さいごの しゅんかん まで ろーま きょうこうちょうに わずか なりとも ちゅうせい しんが みられる のでは ないかと きたいした」とのべて おられます)( "But he explained the Protocol as follows: “I hoped until the last minute that in Rome we would witness a little bit of loyalty.” " ).言い換えれば,大司教は常に真の信仰the Faithの善を求められたのであり,真の真理・真実( "the Truth" )以外の如何なる物の為にも決して権威を尊重する事は有りませんでした(いい かえれば,だいしきょうは つねに まことの しんこうの ぜんを もとめられた のであり,まことの しんり・しんじつ いがいの いかなる ものの ため にも けっして けんいを そんちょう する ことは ありません でした)( "In other words he was always pursuing the good of the Faith, and he never honoured Authority for anything other than for the sake of the Truth." ).同じ事が果たして彼の後継者達についても言えるでしょうか?(おなじ ことが はたして かれの こうけいしゃ たちに ついても いえる でしょうか?)( "Can as much be said for his successors ? " )

キリエ・エレイソン
(主よ憐れみ給え). 
(きりえ・えれいそん〈しゅよあわれみたまえ〉)
( "Kyrie eleison." )


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大司教が願ったのはローマが彼自身を認めることではなく,
ローマが教会のために動くことでした. 
The Archbishop wished Rome not himself to approve,
Rather that Rome for the Church's good would move.

 ルフェーブル大司教が1991年に述べられた言葉についての考察 (cf. the last two EC's)(最後の2コメンツ〈= EC389, 390 〉参照)を終える前に,さらにコメントを続けてみましょう.カトリック教徒たちが真実・真理の名の下に権威を冷笑することと,権威を維持するために真実・真理を軽視することとの間のバランスをどう保つかに役立てばと願うからです.というのも,第二バチカン公会議(1962-1965年)の聖職者たちが教会革命(宗教的自由 religious liberty,同僚間の平等 collegial equality,普遍的キリスト教諸宗派所属の信徒相互間における兄弟愛〈=同胞愛〉ecumenical fraternity)のために権威を二の次にするようになっていらい,カトリック教徒たちはバランスが取れなくなっているからです.彼らは権威が真実=真理を踏みにじるとき,権威と真実・真理の両方にどう敬意を払えばいいのかいぶかっています.
Before leaving Archbishop Lefebvre's realistic remarks of 1991 (cf. the last two EC's), let us comment further, in the hope of helping Catholics to keep their balance between scorning authority in the name of truth and belittling truth for the sake of authority. For ever since the churchmen of Vatican II (1962-1965) put their full authority behind the Church Revolution (religious liberty, collegial equality and ecumenical fraternity), Catholics have been thrown off balance: when Authority tramples upon Truth, how indeed is one to maintain one's respect for both ?

第二バチカン公会議後の苦悩の中で,ルフェーブル大司教が主に(彼だけとは言いませんが)責任を持ってこられたカトリック教教理,ミサ聖祭,諸秘蹟の維持に匹敵するほどの成果をもたらした人がはたしているでしょうか?そうだとすれば,大司教がもたらした真実と権力のバランスは特筆に値するものに違いありません.
Now in the tormented aftermath of Vatican II, who can be said to have borne fruits comparable to that preservation of Catholic doctrine, Mass and sacraments for which the Archbishop was mainly (albeit not solely) responsible ? In which case, the balance that he himself struck between Truth and Authority must be especially deserving of consideration.

最初に,権威についてのルフェーブル大司教の見方について考えてみましょう.彼は「もはや過去の諸諸のルールがないのですから,私たちが今見るのは権威の専制です」と述べられました.原罪を抱える人間にとって,真実はそれを支える権威が必要です.なぜなら,真実はひとたび市場に出されれば,現実を教えるのに必要な惨事がなくても,ひとりでに人気を得るものだから,という考えはジェファーソン流の勘違いだからです.目的のために手段があるように,権威は真実のためにあります.手段のために目的があるのではありません.私たちを救うのはカトリック信仰であり,その信仰は権威でなく諸々の真実の中に宿るものです.真実はカトリック教権威の実態や目的そのものですから,第二バチカン公会議がしたように,両者をばらばらにすれば,真実は切り離されてしまい,専制君主がそれを手にすれば自分の意のままに捻じ曲げてしまいます.公会議の後,当然のように教皇パウロ6世の専制が続きました.これと同じように,聖ピオ十世会(SSPX)指導部は最近数年間,公会議推進派の承認を求めるため専制君主のように振る舞ってきました.真実を守ることで自らの権威を伝統の上に築き上げたルフェーブル大司教のやり方と彼らの行動を対比してみてください.
Firstly, let us consider a simple observation of the Archbishop on authority : “Now we have the tyranny of authority because there are no more rules from the past.” Amongst human beings all with original sin, truth needs authority to back it, because it is a Jeffersonian illusion that truth thrown into the market-place will prevail all on its own without a disaster being necessary to teach reality. Authority is to truth as means to end, not end to means. It is Catholic faith which saves, and that Faith lies in a series of truths, not in authority. Those truths are so much the substance and purpose of Catholic Authority that when it is cut loose from them, as by Vatican II, then it is cut adrift until the first tyrant to lay hands on it bends it to his will. The tyranny of Paul VI followed naturally on the Council, just as by pursuing approval from the champions of the same Council, the leadership of the Society of St Pius X has likewise behaved itself tyranically in recent years. Contrast how the Archbishop built up his authority over Tradition by serving the truth. 

さらなるコメントに値するルフェーブル大司教の1991年の2つ目の発言は「私は自分が為すべきより踏み込み過ぎたと思う」というものです.これは大司教が自ら出した1988年5月5日の協定議定書に基づきローマ教皇庁との合意に達しようと試みたときに述べられた言葉です.事実,同議定書はいくつかの重要な問題点について批判を浴びました.したがって,大司教は自分が一時的にバランスを失い,伝統派の真実に反してローマ教皇庁の権威に従おうと傾いたことを認めたのです.だが,大司教の考えが傾いたのはほんのわずかな間だけでした.広く知られていることですが,彼は翌日に議定書を撤回しました.そして彼が再び迷うことは彼の死まで決してありませんでした.そのとき以来,大司教は権威者と合意に達するため全力を尽くさなかったとか,真の真実・真理と真の権威( "Truth and Authority" )との間のバランスを常に正しく取るのは簡単な事だ,などと誰も言えなくなりました.
A second remark of his from 1991 deserving of further comment is where he said that when in 1988 he tried to reach an agreement with Rome by means of his Protocol of May 5, “I think I can say that I went even further than I should have.” Indeed that Protocol lays itself open to criticism on important points, so here is the Archbishop himself admitting that he momentarily lost his balance, tilting briefly in favour of Rome's authority and against Tradition's truth. But he tilted only briefly, because as is well-known, on the very next morning he repudiated the Protocol, and he never again wavered until his death, so that from then on nobody could say either that he had not done all he could to reach agreement with Authority, or that it is an easy thing to get the balance always right between Truth and Authority.

大司教の三つ目の発言は,彼が1975年から1988年にかけてローマ教皇庁当局との間に何らかの合意を取りつけようとしたときの動機を明らかにしています.聖ピオ十世会上層部にいる大司教の後継者たちはそれを自分たちなりに解釈し,大司教が常に求めたのは教会規範の秩序立てであるかのように言います.だが,大司教は議定書についての説明の中で「私は最後の瞬間までローマ教皇庁にわずかなりとも忠誠心が見られるのではないかと期待した」と述べておられます.言い換えれば,大司教は常に信仰の善を求められたのであり,真実以外のいかなるもののためにも決して権威を尊重することはなさいませんでした.同じことがはたして彼の後継者たちについても言えるでしょうか?
A third remark throws light on his motivation in seeking from 1975 to 1988 some agreement with Roman Authority. Judging his motives by their own, his successors at the head of the SSPX talk as though he was always seeking its canonical regularisation. But he explained the Protocol as follows: “I hoped until the last minute that in Rome we would witness a little bit of loyalty.” In other words he was always pursuing the good of the Faith, and he never honoured Authority for anything other than for the sake of the Truth. Can as much be said for his successors ? 

キリエ・エレイソン.
Kyrie eleison.



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訳注を追って掲載いたします.

・真の自由・真の平等・真の兄弟愛とは

・真の権威・真の真理 Authority & Truth

→真実・真理は,権威の手段ではなく,権威の目的である.

→権威は真実・真理に基づかない限り,権力 (power) の実行者の恣意により限りなく捻じ曲げられて行く.

→真実・真理は永遠不変の客観的な事実に立脚するものであり,気まぐれに変化する人間の恣意を退ける.

→客観的な真理に立脚した真の権威に沿って生きることを選ばない人間は,自滅する.

→客観的事実は変遷して行くのではない.
変遷して行く人間の主観を優先する人は,自滅を招いている.

→時の流れは客観的存在で,すべてを黙って見ている.
生涯を善意と憐れみの心を持って遂げる人は,永遠に幸せである.

→権力者の勝利は儚(はかな)い.




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本投稿記事・第391回エレイソン・コメンツ「大司教のコメント II 」 "ARCHBISHOP COMMENTED – II" ( 2015年1月10日付)は2015年7月26日23:40に掲載されました.
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2014年11月22日土曜日

384 40周年 11/22

エレイソン・コメンツ 第384回 (2014年11月22日) 

    1974年11月21日,ルフェーブル大司教は自分と自分に従う司祭や一般信徒たちが第二バチカン公会議のもたらしたカトリック教会および宗教の変更に反対の立場を取る理由を示す歴史的な宣言を出しました.昨日(11月21日)はその40周年記念日でした (せん きゅうひゃく ななじゅう よねん じゅういち がつ にじゅういち にち,るふぇーぶる だいしきょうは じぶんと じぶんに したがう しさいや いっぱん しんと たちが だいに ばちかん こうかいぎの もたらした かとりっく きょうかい および しゅうきょうの へんこうに はんたいの たちばを とる りゆうを しめす れきしてきな せんげんを だしました.さくじつは その よんじゅっしゅうねん きねんび でした)( "Yesterday was the 40th anniversary of Archbishop Lefebvre’s historic Declaration on November 21, 1974, of the reasons for which he and the priests and laity following him were taking their stand against the total change of the Catholic Church and religion being wrought in the wake of the Second Vatican Council." ).宣言はそれが記された日と同じ様に今日でも新鮮なままです(せんげんは それが しるされた ひと おなじように こんにち でも しんせんな まま です.)( "The Declaration is a fresh today as it was on the day when it was written, …" ).その理由は神の真のカトリック教が不変の真実であるのに対し( "… because the true Catholic religion of God is unchangingly true, …" ),公会議派の人間の宗教はどう見ても間違っており,しかもそれが今日までローマ(教皇庁)を占拠し続けているからです(その りゆうは かみの まことの かとりっく きょうが ふへんの しんじつで あるのに たいし,こうかいぎはの にんげんの しゅうきょうは どうみても まちがって おり,しかも それが こんにち まで ろーま〈きょうこう ちょう〉を せんきょ しつづけて いるから です)( "… while the Conciliar religion of man is resolutely false and it is occupying Rome more than ever." ).

    ルフェーブル大司教の宣言は簡潔な10節で構成されており,以下に示す通り,全体で50行余りです.即ち,: (るふぇーぶる だいしきょうの せんげんは かんけつな じゅっせつで こうせい されて おり,いかに しめす とおり,ぜんたいで ごじゅう ぎょう あまり です.すなわち,:)( "The Declaration consists of ten brief paragraphs, little more than 50 lines in all: " )
1.私たちはカトリック・ローマ,永遠のローマに忠実に固執します(わたくしたちは かとりっくの ろーま,えいえんの ろーまに ちゅうじつに こしつ します)(訳注2-1).( "1/ We cleave to Catholic Rome, eternal Rome." ).
2.私たちは公会議派ローマ,ネオ・プロテスタント(新プロテスタント主義),ネオ・モダニスト(新現代主義)を拒否します(わたくし たちは,こうかいぎは ろーま,ねお・ぷろてすたんと〈しん ぷろてすたんと しゅぎ〉,ねお・もだにすと〈しん げんだい しゅぎ〉を きょひ します.)( "2/ We refuse Conciliar Rome, neo-Protestant and neo-modernist." ).
3.公会議派の改革はカトリック教会を破壊し,私たちのカトリック信仰を衰退させます(こうかいぎはの かいかくは かとりっく きょうかいを はかいし,わたくしたちの しんこうを すいたい させます.)( "3/ The Conciliar reform is destroying the Catholic Church and diminishing our Catholic Faith, …" ),
4.天から遣わされた御使い(=天使)と同じ様に,(てん から つかわされた みつかい〈=てんし〉と おなじように,)( "4/ … as not even an angel from Heaven has the right to do (Galatians I, 8). " )
5.私たちは伝統を選び,諸々の革新を拒みます(わたくしたちは でんとうを えらび,もろもろの かくしんを こばみます)( "5/ We choose Tradition, we refuse innovations." ).
6.教会内の全てが,長い年月を経たカトリック教の教理に反するやり方で新しく書き換えられようとしています (きょうかい ないの すべてが,ながい ねんげつを へた かとりっく きょうの きょうりに はんする やりかたで あたらしく かきかえられようと しています)( "6/ Everything in the Church is being renewed in a way opposite to age-old Catholic doctrine." ).
7.公会議派の改革は異端に始まり異端に終わるものですから,カトリック教徒たちには受け入れ難いものです(こうかいぎはの かいかくは いたんに はじまり いたんに おわる もの ですから,かとりっく きょうと たちには うけいれがたい もの です)( "7/ The Conciliar reform, coming from heresy and resulting in heresy, is unacceptable to Catholics, …" ).
8.従って,私たちは伝統派の司祭たちを育み続けます(したがって,わたくしたちは でんとうはの しさいたちを はぐくみ つづけ ます)( "8/ … so we shall continue to form Traditional priests." ).
9.そして,私たちは何時の世も変わらないカトリックの教えと実践を守ります(そして,わたくしたちは いつのよも かわらない かとりっくの おしえと じっせんを まもります)( "9/ And we shall cleave to the Catholic teaching and practice of all time, …" ).
10.私たちは,そうする事で真の忠実なカトリック教徒のままで居られると固く信じるからです(わたくしたちは,そうする ことで まことの ちゅうじつな かとりっく きょうとの ままで いられると かたく しんじる からです)( "10/ … being convinced that by so doing we will remain truly faithful Catholics." ).

    先ず初めに,宣言がカトリックのローマと公会議派のローマ(1と2)を明確かつ鋭く区別している点に注目して下さい(まず はじめに,せんげんが かとりっくの ろーまと こうかいぎはの ろーま〈1と2〉を めいかく かつ するどく くべつ している てんに ちゅうもく して ください)( "Notice firstly the clear and sharp distinction (1 and 2) between Catholic Rome and Conciliar Rome." ).公会議派ローマがカトリック・ローマの諸機構を占拠していると述べるのは真実ですが(こうかいぎは ろーまが かとりっく・ろーまの しょ きこうを せんきょ していると のべるのは しんじつ ですが),( "Now it is true to say that Conciliar Rome is occupying the structures of Catholic Rome, …" ),だから公会議派教会はカトリック教会に外ならないと述べるのは,ナイチンゲールの巣を占拠するカッコウをナイチンゲールと呼ぶくらい馬鹿げた事です(だから こうかいぎは きょうかいは かとりっく きょうかいに ほかならないと のべるのは,ないちんげーるの すを せんきょ する かっこうを ないちんげーると よぶ くらい ばかげた こと です)( "… but to say that the Conciliar Church is therefore none other than the Catholic Church is as foolish as to say that a cuckoo is a nightingale because it occupies a nightingale’s nest." ).(また大司教は公会議派ローマ,カトリック・ローマについて書いただけで,公会議派教会やカトリック教会について書いたのではない,と述べるのは言葉を弄ぶようなものです.)(〈また だいしきょうは こうかいぎは ろーま,かとりっく・ろーまに ついて かいただけで,こうかいぎは きょうかいや かとりっく きょうかいに ついて かいたのでは ない,とのべるのは ことばを もてあそぶ ような もの です〉)( "… (And to say that the Archbishop wrote of Conciliar and Catholic “Rome” and not of the Conciliar and Catholic “Church” is to quibble with words.) " )

    だがルフェーブル大司教は公会議派のカッコウとカトリックのナイチンゲールを何によって区別しているのでしょうか?(だが るふぇーぶる だいしきょうは こうかいぎは の かっこうと かとりっくの ないちんげーるを なにに よって くべつ している のでしょうか?)( "But how does the Archbishop distinguish between Conciliar cuckoo and Catholic nightingale ? " )それは教理によってです!(それは きょうりに よって です!)( "By doctrine ! " )
公会議派の論理(=公会議主義 "Conciliarism" )はネオ・プロテスタント,ネオ・モダニスト(=新プロテスタント主義,新現代主義)です(2)(こうかいぎはの ろんり〈こうかいぎ しゅぎ〉は ねお・ぷろてすたんと,ねお・もだにすと〈=しん ぷろてすたんと しゅぎ,しん げんだい しゅぎ〉です〈2〉)( "Conciliarism is neo-Protestant and neo-modernist (2)." ).
カトリック教理に反するやりかたで(6),私たちの信仰は衰退させられています(3)(かとりっく きょうりに はんする やりかたで〈6〉,わたくしたちの しんこうは すいたい させられて います〈3〉)( "Our faith is being diminished (3), in opposition to Catholic doctrine (6)." ).
公会議派の論理は異端です(7)(こうかいぎはの ろんりは いたんです〈7〉)( "Conciliarism is heresy (7)." ).
私たちはカトリックの教えを忠実に守ります(9)(わたくしたちは かとりっくの おしえを ちゅうじつに まもります〈9〉)( "We cleave to Catholic teaching (9)." ).
上記の宣言要約は大司教が教理について述べられた事全てを言い表している訳ではありません(じょうきの せんげん ようやくは だいしきょうが きょうりに ついて のべられたこと すべてを いいあらわして いる わけ では ありません.)( "And the brief summary above does not give all of the Archbishop’s references to doctrine." ).
カトリック教理は大司教の心と行動を導いた北極星でした(かとりっく きょうりは だいしきょうの こころと こうどうを みちびいた ほっきょくせい でした)( "Catholic doctrine was the Northern star of his mind and action." ).
現代人は心と行動の自由を望み,それが実質的には心を駄目にしてしまいます(げんだいじんは こころと こうどうの じゆうを のぞみ,それが じっしつてき には こころを だめに して しまいます)( "It is because modern man wants freedom for his mind and action that he in effect wants his mind to be reduced to mush, …" ).
そうなると,教理は単に儀礼的な機能しか持たなくなります(そうなると,きょうりは たんに ぎれい てきな きのう しか もたなく なります)( "… whereupon doctrine has no more than a merely decorous function." ).
もはや,それは人間の行動を律する事はなくなります(もはや,それは にんげんの こうどうを りっする ことは なくなります)( "It has no more bite upon man’s action,…" ).
教理など重要でないとする破滅的な教理は話の外です(きょうり など じゅうよう でない とする はめつてきな きょうりは はなしの ほか です.( "… except the one disastrous doctrine that doctrine is unimportant." ).
だが,この破滅的な教理は人間に全面的な影響力を持ち得ます(だが,この はめつ てきな きょうりは にんげんに ぜんめんてきな えいきょうりょくを もちえます)( "And that disastrous doctrine has a total bite. " ).
だからこそ,ルフェーブル大司教が自ら創設した聖ピオ十世会( SSPX )内部で儀礼的なマスコット程度の存在にしか見られなくなっている訳です(だからこそ,るふぇーぶる だいしきょうが みずから そうせつ した せいぴお じゅっせい かい ないぶで ぎれい てきな ますこっと ていどの そんざいに しか みられなく なっている わけです)( "Here is why the Archbishop is being reduced within the Society of St Pius X, which he founded, to little more than a decorous mascot." ).

    SSPX ,教会そして世界の中に教理の影響力,現実感,真実を愛する心を取り戻すには何が必要なのか問わざるをえません(せいぴお じゅっせい かい,きょうかい,そして せかいの なかに きょうりの えいきょう りょく,げんじつ かん,しんじつを あいする こころを とりもどす には なにが ひつよう なのか とわざるを えません)( "One is impelled to ask, what is it going to take to restore the bite of doctrine, the sense of reality and the love of truth in Society, Church and world ? " ).それは間違いなく悩み,苦しみ(=苦難・苦悩・患難)でしょう(それは まちがいなく なやみ,くるしみ〈=くなん・くのう・かんなん〉でしょう)( "Surely suffering, no less." ).(ロシアの作家)ソルジェニーツィンは現代人が自分の罪深い生き方で作り上げたコンクリートの箱をこじ開けるには鉄格子のような出来事が起きなければならないという趣旨の言葉を残しています(〈ろしあのさっか〉そるじぇにーつぃんは げんだいじんが じぶんの つみぶかい いきかたで つくりあげた こんくりーとの はこを こじあける には てつごうしの ような できごとが おきなければ ならない という しゅしの ことばを のこして います)( "Solzhenitsyn made a remark to the effect that it will take the iron bar of events to smash open the concrete casing which modern man has built around his sinful way of life." ).真に,主よ憐れみ給え(まことに,しゅよ あわれみ たまえ)( "Truly, Lord have mercy." ).

    キリエ・エレイソン.

    40年前,偉大な大司教は,
    (よんじゅうねん まえ,
    いだいな だいしきょうは,)

     ( "A great Archbishop, forty years ago," )

    公会議派の教理を推し量り,
    “No” と拒否されました.
    (こうかいぎはの きょうりを おしはかり,
     「のー」と きょひ されました.)

    ( "Measured the Council’s doctrine,
     and said “No”. " )

    リチャード・ウィリアムソン司教




* * *



第2パラグラフの訳注2-1

「私たちはカトリック・ローマ,永遠のローマに忠実に固執します」
"1/ We cleave to Catholic Rome, eternal Rome."
の意義について

・真の神の御独り子・救世主(=メシア,キリスト)イエズスの後継者である,初代ローマ司教=聖ペトロの座が置かれるローマ・バチカンは,
来るべき永遠の都,天のエルザレム(=イェルザレム Ierusalem, Jerusalem)の,地上に於ける象(かたど)りである.

・天のエルザレムは,救世主を信じる全ての者の霊魂の故郷(ふるさと)である.

→新約聖書・使徒聖パウロのヘブライ人への書簡:第13章14節
"Non enim habemus hic manentem civitatem, sed futuram inquirimus."(羅)
"Car nous n'avons point ici de cité permanente, mais nous cherchons la cité future."〈仏〉
"For we have not here a lasting city, but we seek one that is to come."(英)
「私たちはここに不変の都をもたず,*未来の都を探している.」
* 未来の都=天のエルザレム

・「永遠のローマ」=「永遠の都」=「天のエルザレム」
(「地上のエルザレム」ではない.)

・救世の御業を成し遂げられた神の御独り子イエズス・キリストを信じ,より良い命(=永遠の命)に召される為に現在を忍耐強く善良に生きようとする人だけが入ることを許される).

・永遠のローマは,天地の王イエズス・キリストの王国.

・救世主(真の神の御独り子,われらの主イエズス・キリスト)を信じるという事は,
キリストのお受けになった受難・(十字架上の)死・復活を,自らの人生に重ね合わせ,
キリストの全生涯に起こった出来事は,人間の目では見ることが出来ない真実の神の御前に,
人間が心の中で持てる唯一の真の神への信徳・望徳・愛徳により,
目前の人生を最期まで生き抜く全ての人にとって,普遍的な真理であるという事を信じること.

・私たち人類の真の命は,地上の肉体にではなく霊魂に在る.肉体は地上における仮の住まい,地上は霊魂の仮の住まいである.霊魂の本当の住まいは,天にある.

・真の人間は霊に於いて生きる.
霊魂は不滅であり,救世主イエズス・キリストは今も生きておられ天地を支配される.
また,キリストを信じる者の霊魂は,今すでに永遠の生命に生きている.

→新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第6章19-21節
主イエズス・キリストのみことば…
"Nolite thesaurizare vobis thesauros in terra: ubi ærugo, et tinea demolitur: et ubi fures effodiunt, et furantur.
Thesaurizate autem vobis thesauros in cælo: ubi neque ærugo, neque tinea demolitur, et ubi fures non effodiunt, nec furantur.
Ubi enim est thesaurus tuus, ibi est et cor tuum."
"Ne vous amassez point des trésors sur la terre, où la rouille et les vers rongent, et où les voleurs fouillent et dérobent.
Mais amassez-vous des trésors dans le ciel, où ni la rouille ni les vers ne rongent, et où les voleurs ne fouillent ni ne dérobent.
Où en effet est ton trésor,  là est aussi ton coeur."
"Lay not up to yourselves treasures on earth: where the rust, and moth consume, and where thieves break through and steal.
But lay up to yourselves treasures in heaven: where neither the rust nor moth doth consume, and where thieves do not break through, nor steal.
For where thy treasure is, there is thy heart also."
「自分のためにこの世に宝を積むな.ここではしみと虫が食い,盗人が穴をあけて盗み出す. 
むしろ自分のために天に宝を積め.そこではしみも虫もつかず,盗人が穴をあけて盗み出すこともない.
あなたの宝のあるところには,あなたの心もある.」
 
・この世(大宇宙・地上)は過ぎ去る(滅びる)が,神の御言葉は滅びない.

→新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第24章35節
主イエズス・キリストのみことば…
"Cælum, et terra transibunt, verba autem mea non præteribunt."
"Le ciel et la terre passeront, mais mes paroles ne passeront point."
"Heaven and earth shall pass, but my words shall not pass."
「天地は過ぎ去る,だが私のことばは過ぎ去らぬ」 

***

聖福音書

1. 目撃者が伝えた出来事
ルカによる聖福音書・第1章1-4節

 私たちの間に起きた出来事の, 最初からの目撃者で, みことばの奉仕者となった人々が,私たちに伝えてくれたままに書き残そうとして,多くの人が手をつけたので,尊いテオフィロ,私も,すべてのことをはじめから詳しく調べ,順序よく書いてあなたに送るのがよいと思った.それは,あなたの聞いた教えの確実さを知らせるためである.

 2. 神のみ言葉――イエズスはおん父を啓示する――
ヨハネによる聖福音書・第1章1-18節

*はじめにみことばがあった.みことばは神とともにあった.みことばは神であった.みことばははじめに神とともにあり,*万物はみことばによって創られた.創られた物のうちに,一つとしてみことばによらず創られたものはない. みことばに生命があり,生命は人の光であった.*光はやみ(闇)に輝いたがやみはそれを悟らなかった.

さて,神から遣わされた人がいて,その名をヨハネと言った.この人は,光を証明するために,またすべての人が彼によって信じるために,証人として来た.この人は光ではなく,光を証明するために来た.

*すべての人を照らすまことの光は,まさにこの世に来るところであった. みことばは世にあり,世はみことばによって創られたが,世はそれを認めなかった.*みことばはご自分の家に来られたが,その人々は受け入れなかった. しかし,その方を受け入れた人々にはみな神の子となれる力を授けた.そのみ名を信じるすべての人たち,*彼らは血統(ちすじ)ではなく,肉体の意志ではなく,人の意志ではなく,ただ神によって生まれた人々である.

*みことばは肉体となって,われわれの中で*住まわれた.われわれはその栄光を見た,それは,御独り子として御父から受けた栄光であり,彼は恩寵と真理に満ちておられた.ヨハネは彼を証明し,「『私のあとで来るお方は,私よりすぐれた方で,私より前に存在しておられた』と言ったのはこの方のことだ」と宣言した.*そうだ,われわれはその満ちあふれるところから恩寵に次ぐ恩寵を受けたのである.なぜなら,律法はモイゼを通じて与えられたが,恩寵と真理とはイエズス・キリストによってわれわれの上に来たのである.神を見奉った人は一人もいない.御父のふところにおいでになる御独り子の神がこれをお示しになった.

引用文献:合併版聖福音書/聖書 フェデリコ・バルバロ神父 編

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* * *
(注:本投稿記事〈第384回エレイソン・コメンツ「40周年」"FORTIETH ANNIVERSARY"〉は2015年1月22日22:50時に掲載されました.)

2012年5月4日金曜日

番外 スティコマイシア(隔行対話)劇 4/30

エレイソン・コメンツ 番外 (2012年4月30日)

スティコマイシア “Stichomythia” とは古代ギリシアの劇作家たちが劇の一形式として生み出したもので,一行おきの対話の中で激論が交わされる劇です(訳注・隔行対話).真実がほとんど消滅してしまった世界には本物のドラマなどあまり多く残っていません.だが,この世の終わりに起こるとしても,いまのところカトリック教会内ではまだ嘘が完全に幅を利かせているわけでもありません.したがって,真実がいくらかでも残っているところには,まだスティコマイシアの余地があるでしょう.そこで,聖ピオ十世会(内の)穏健派(おんけんは) “SSPX soft-liner” ( SL )が聖ピオ十世会強硬派 “SSPX hard-liner” ( HL )につらい思いをさせようとしている様子に耳を傾けてみましょう:--
(訳注・英原文は韻文〈いんぶん〉形式をとっているので,参照のため各行毎(ごと)に付して掲載いたします.)



SL 私たちは教会の外に居るべきではありません.
SL Outside the Church is not where we should be!


HL 教会から出て行ったのは誰でしょう?第二バチカン公会議です!私たちではありません!
HL Who left the Church? Vatican II! Not we!


SL 教会内にいれば私たちにはできることがもっといっぱいあるでしょうに!
SL Once in the Church, we could do so much more!


HL もし以前したように,過(あやまち)ちを犯すのを嫌うなら(教会内に戻るのはだめです).
HL If we detested error, as before.


SL 私たちは過ちを嫌うのを止(や)め,ただ祈るべきではないでしょうか?
SL Why should we stop detesting error, pray?


HL そんなことをすれば,連中(=第二バチカン公会議)の口論に巻き込まれることになります.
HL Because we would be joining in their fray.


SL 私たちは教会の法の範囲内で生きる必要があります.
SL We need to live within the Church’s law.


HL それ(教会の法)が神に仕えていない(役立っていない)となれば話は別でしょう.
HL Not if it is not serving God any more.


SL カトリック教会は目に見えるものです.私たちはそこにいません.
SL The Catholic Church is visible. We’re not there.


HL 教会は神聖なものです.それは私たちに見えるものでしょうか? どこに見えるというのでしょうか?
HL The Church is holy. Do we see that? Where?


SL だが,世の中は(ルフェーブル)大司教のころに比べ変わっています.
SL But things have changed since the Archbishop’s day.


HL モダニストたち( “The Modernists”,現代主義者たち)が相変わらず支配を独占しています.
HL The modernists still hold exclusive sway.


SL 私たちはローマがいま提案していることを容認すべきではないでしょうか?
SL What Rome now offers, he would have approved.


HL とんでもありません.(現教皇)ベネディクト(16世)がアッシジへと動いた以上はだめです.
HL Never, once Benedict to Assisi moved!


SL 聖ピオ十世会は強いので転(ころ)げ落ちる心配はいりません.
SL The SSPX stands strong, need fear no fall.


HL 聖パウロは立つ者は転げ落ちる心配をせよと言っておられます.
HL Let all who stand fear falling, says St. Paul.


SL だが,私たちの目上の方たち( “our Superiors” )は神の恩寵を受けています.
SL But our Superiors have grace of state.


HL 指導的な聖職者たちは決して言葉を濁(にご)さなかったでしょうか?
HL Did leading churchmen never prevaricate?


SL 私たちの指導者たちは聖ピオ十世会に所属しています!
SL Our leaders to the SSPX belong!


HL それは彼らがけっして間違ったことができないという意味ですか?
HL And does that mean they never can do wrong?


SL しかし,ローマ(教皇庁)は第一前提条件としてミサ聖祭を自由解放しました.
SL But, Pre-condition One, Rome freed the Mass.


HL その代わりに「ろくでなしの典礼」をもたらしました.まったくひどい代物(しろもの)を.
HL And left in place the “bastard rite”, so crass.


SL ローマは四人の司教に対する破門も解きました.
SL Rome also lifted the ban on bishops four.


HL だが,それで四人の司教は前より自由になったでしょうか?
HL But did that make them more free than before?


SL それでもベネディクトは私たちの助力を求めています.
SL Yet Benedict is calling for our aid.


HL それは真実を繁栄させるためですか,それとも真実を消し去るためですか?
HL To make Truth prosper, or to help it fade?


SL 教皇が真実を害するなどとどうして非難できるでしょうか?
SL Of harming Truth, how can the Pope be accused?


HL 彼のモダニスト精神は救いがたいほど混乱しています.
HL His modernist mind is hopelessly confused.


SL だが,教皇は本心から私たちすべてに戻って欲しいと願っています.
SL Yet truly, Benedict wants us all back in.


HL モダニストとしての彼はイエス(そう)ですが,モダニズムは罪です.
HL As a modernist, yes, but modernism is a sin.


SL では,あなたはそれでもベネディクトを教皇と信じますか?
SL Then do you still believe that he is Pope?


HL 信じます.だが彼の改宗(かいしゅう)を願わなければなりません.
HL Yes, but we must for his conversion hope.


SL 「モダニストとしての彼はイエス」とはどういう意味ですか?
SL What can you mean by, “As a modernist, yes”?


HL 彼は私たちの真実のカトリック信仰を害するだけで,恩恵をもたらすことはありません.
HL Our true Faith he can only harm, not bless.


SL 彼が心から気遣(きづか)っているのは私たちの幸せです.
SL Our welfare is his genuine concern.


HL 彼が私たちの真のカトリック信仰をはねつけているとすれば,彼が願っているのは私たちの本当の幸せではありません.
HL Not our true welfare, if our true Faith he spurn.


SL あなたには超自然の霊が欠けています!
SL A lack of supernatural spirit you show!


HL もし私に悩みの種があると言えば,それはどこにあると問うのですか?
HL If woe I say there is, where there is woe?


SL 教会内ではすべてがうっとうしく暗いわけではありませんよ!
SL Not everything in the Church is gloomy, dark!


HL どこに本当の信仰復興の光が見えると言うのですか?
HL Where do you see of true revival a spark?


SL カトリック伝統へ向かう動きが進行中です!
SL A movement towards Tradition is under way!


HL モダニストたちが完全に牛耳(ぎゅうじ)っているというのにですか?
HL While fully in control the modernists stay?


SL では,公式の教会は依然として神御自身の教会ですか?
SL Then is the official Church still God’s own Church?


HL そうです.私たちが困っているのを見捨てたのは聖職者たちです.
HL Yes, it’s the churchmen left us in the lurch.


SL だが,教皇もローマもよかれと思って動いています.
SL But surely Pope and Rome have both meant well.


HL そうでしょうか?「善意は地獄への道を開く」と言います.
HL So? – “Good intentions pave the way to Hell.”


SL だが,邪心(じゃしん)は第二バチカン公会議よりもっと悪いでしょう.
SL But evils worse that Vatican Two can be.


HL (ルフェーブル)大司教は――覚えていますか?――それ(第二バチカン公会議)を第3次世界大戦とお呼びになったのです.
HL The Archbíshop – remember? – called it World War Three.


SL 手厳しいですね.あなたの取る態度は分派にたどり着きますよ.
SL You’re harsh. Your attitude to schism will lead.


HL 信経(=信条)全体を台無しにするよりはましです!
HL Better than undermine the entire creed!


SL 教会の当局者たちすべてが悪いわけではありません.
SL Not all the Church authorities are bad.


HL (当局者たちの中の)善良な人たちには力がありません.とても悲しいことです.
HL The good ones have no power. It’s very sad.


SL 司祭たちは当局者を不誠実だなどと言うべきではありません.
SL Priests should not say, authority is untrue.


HL だが,第二バチカン公会議の原因となったのは司教たちです!
HL But bishops were the cause of Vatican II!


SL それでも,カトリック信徒の本能はカトリックの家を求めます.
SL Still, Catholic instincts seek their Catholic home.


HL 今日,カトリック信徒にとっての家はもはやローマではありません.
HL Today, for Catholics, that’s no longer Rome.


SL では,教会はどこにあるのですか? カトリック伝統の中だけですか? どこにあるのでしょう?
SL Then where is the Church? Just in Tradition? Where?


HL 「唯一(ゆいいつ),聖,普遍(ふへん,=公),使徒継承(のカトリック教会)」 ――そこにあるだけです.
HL “One, holy, catholic, apostolic” – there.


SL あなたは問題を一晩で解決しようとしています!
SL You want to solve this problem overnight!


HL そんなことはありません.ただ,事のはじめは正(ただ)したいのです.
HL No, just that a start be made to set it right.


SL 私たちは神を信じます.私たちは神の聖心を信じます.
SL We trust in God. We trust in his Sacred Heart.


HL ブラボー!だが,人間どもも自(みずか)らの役割を果たさなければなりません.
HL Bravo! But humans too must play their part.


SL そのことは私たちが嘆(なげ)くことではないでしょう.
SL That part is not for us just to complain.


HL 伝統的なカトリック( “Tradcats” )は伝統を守るため懸命(けんめい)に働くものです.
HL Tradcats work hard, Tradition to maintain.


SL もし私たちがローマに入ったとしても、戻ることはできます。
SL If we went in with Rome, we could turn back.


HL そんなことはありません.どんどんローマの路線に従うことになります.
HL No. More and more we’d follow in Rome’s track.


SL ローマが償(つぐな)いをしようとするのをなぜ阻(はば)むのですか?
SL Why stop the Romans making restitution?


HL それは彼らが私たちに困窮(こんきゅう)をもたらそうとするからです.
HL Because they’re set upon our destitution.


SL 教会の主流派に戻れば私たちは働けるでしょう!
SL Back in the mainstream Church we’d set to work!


HL 私たちはむしろ彼らの暗闇のなかで迷子になるだけでしょう.
HL Rather we’d lose our way in all their murk.


SL だが私たちは強力です.私たちの四人の司教は1対3です.
SL But we are strong, with bishops one and three.


HL 悲しいかな,その三人は残る一人と意見が違います.
HL Alas, the three with the one do not agree.


SL 私たちのカトリック信仰はしっかりしています.モダニストなど怖(こわ)くはありません!
SL We’re firm in the Faith. Modernists are no threat!


HL 私たちは簡単に堕落(だらく)します.賭けてみますか?
HL We’d easily slide. You want to take a bet?


SL カトリック信仰が強いのですからローマと合意してもいいでしょう.
SL Strong in the Faith, we can afford to agree!


HL だが,その信仰が説いています.異端から始まってついに消え失せると.
HL But that Faith says, from heretics to flee.


SL だが,「神は我らとともにあり」( “Gott mit uns”,ドイツ語 )です! 私たちは聖ピオ十世会です!
SL But “Gott mit uns”! We are the SSPX!


HL それでも,あらゆる慎重な点検を無視するならだめです.
HL Not if we choose to ignore all prudent checks.


SL 私たちが認められればローマは私たちから学ぶでしょう!
SL Were we approved, Romans would learn from us!


HL おお,なんてことを言うのです.そんなことはけっしてないでしょう! 彼らは私たちをバスの下へ投げ出すでしょう.
HL O Heavens, no! They’d throw us under the bus.


SL 私たちが認められれば,ローマの地は揺(ゆ)れるかもしれません.
SL Were we approved, the earth of Rome could quake.


HL だが,その前に私たちが揺れて粉々(こなごな)になるでしょう.
HL But not before to pieces we would shake.


SL 私たちの指導者は諸々の恩寵(おんちょう)を得ています.私たちは彼らに従わなければなりません.
SL Our leader has graces of state. We must obey.


HL (元教皇)パウロ6世は裏切るべく諸々の恩寵を授(さず)かったのですか?
HL Was Paul the Sixth given graces to betray?


SL ローマはいま弱い状態です.ということは私たちが強くとどまれることを意味します.
SL Rome is now weak, meaning, we could stay strong.


HL ローマは正しいことに弱いだけです.間違ったことには強くなります.
HL For right, Rome’s feeble. Mighty it is for wrong.


SL もしあなたがいつも正しいとすれば,答えはどのようなものになりますか?
どうすれば教会を難局から救いだせるのでしょうか?
SL So what’s the answer, if you’re always right?
How can the Church be rescued from its plight?


HL 教会は神のものです.神が喜ばれるとき
私たちは神の下される美しい崇高(すうこう)な御答えを目にするでしょう.
HL The Church belongs to God. In his good time
We’ll see his answer, stunning and sublime.


そのときまで私たちは嘆き悲しみ,正しさを渇望(かつぼう)し,信頼するのです.
私たちが教会の難局を癒(いや)すことなどできません.ただ耐えなければなりません.
Till then we grieve, and thirst for right, and trust.
That which we cannot cure, endure we must.


不滅の霊魂たちのために祈るあいだも
誤(あやま)り(=間違い)や過(あやま)ちを犯すことから身を遠ざけることです.
From error and the erring stay away,
Even while for their immortal souls we pray.


そして,聴(き)く者がたとえ少なくても神の真理を語ることです.
神の御助けは,すぐ傍(そば,=側)のドアほど近くにあるのです.
And tell God’s truth, however few will hear –
As close as the nearest door, his help is near.
                                                                    


英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


*     *     *

(第1パラグラフの訳注)

スティコマイシア劇=DRAMATIC STICHOMYTHIA (原題)

*     *     *