2014年11月22日土曜日

384 40周年 11/22

エレイソン・コメンツ 第384回 (2014年11月22日) 

    1974年11月21日,ルフェーブル大司教は自分と自分に従う司祭や一般信徒たちが第二バチカン公会議のもたらしたカトリック教会および宗教の変更に反対の立場を取る理由を示す歴史的な宣言を出しました.昨日(11月21日)はその40周年記念日でした (せん きゅうひゃく ななじゅう よねん じゅういち がつ にじゅういち にち,るふぇーぶる だいしきょうは じぶんと じぶんに したがう しさいや いっぱん しんと たちが だいに ばちかん こうかいぎの もたらした かとりっく きょうかい および しゅうきょうの へんこうに はんたいの たちばを とる りゆうを しめす れきしてきな せんげんを だしました.さくじつは その よんじゅっしゅうねん きねんび でした)( "Yesterday was the 40th anniversary of Archbishop Lefebvre’s historic Declaration on November 21, 1974, of the reasons for which he and the priests and laity following him were taking their stand against the total change of the Catholic Church and religion being wrought in the wake of the Second Vatican Council." ).宣言はそれが記された日と同じ様に今日でも新鮮なままです(せんげんは それが しるされた ひと おなじように こんにち でも しんせんな まま です.)( "The Declaration is a fresh today as it was on the day when it was written, …" ).その理由は神の真のカトリック教が不変の真実であるのに対し( "… because the true Catholic religion of God is unchangingly true, …" ),公会議派の人間の宗教はどう見ても間違っており,しかもそれが今日までローマ(教皇庁)を占拠し続けているからです(その りゆうは かみの まことの かとりっく きょうが ふへんの しんじつで あるのに たいし,こうかいぎはの にんげんの しゅうきょうは どうみても まちがって おり,しかも それが こんにち まで ろーま〈きょうこう ちょう〉を せんきょ しつづけて いるから です)( "… while the Conciliar religion of man is resolutely false and it is occupying Rome more than ever." ).

    ルフェーブル大司教の宣言は簡潔な10節で構成されており,以下に示す通り,全体で50行余りです.即ち,: (るふぇーぶる だいしきょうの せんげんは かんけつな じゅっせつで こうせい されて おり,いかに しめす とおり,ぜんたいで ごじゅう ぎょう あまり です.すなわち,:)( "The Declaration consists of ten brief paragraphs, little more than 50 lines in all: " )
1.私たちはカトリック・ローマ,永遠のローマに忠実に固執します(わたくしたちは かとりっくの ろーま,えいえんの ろーまに ちゅうじつに こしつ します)(訳注2-1).( "1/ We cleave to Catholic Rome, eternal Rome." ).
2.私たちは公会議派ローマ,ネオ・プロテスタント(新プロテスタント主義),ネオ・モダニスト(新現代主義)を拒否します(わたくし たちは,こうかいぎは ろーま,ねお・ぷろてすたんと〈しん ぷろてすたんと しゅぎ〉,ねお・もだにすと〈しん げんだい しゅぎ〉を きょひ します.)( "2/ We refuse Conciliar Rome, neo-Protestant and neo-modernist." ).
3.公会議派の改革はカトリック教会を破壊し,私たちのカトリック信仰を衰退させます(こうかいぎはの かいかくは かとりっく きょうかいを はかいし,わたくしたちの しんこうを すいたい させます.)( "3/ The Conciliar reform is destroying the Catholic Church and diminishing our Catholic Faith, …" ),
4.天から遣わされた御使い(=天使)と同じ様に,(てん から つかわされた みつかい〈=てんし〉と おなじように,)( "4/ … as not even an angel from Heaven has the right to do (Galatians I, 8). " )
5.私たちは伝統を選び,諸々の革新を拒みます(わたくしたちは でんとうを えらび,もろもろの かくしんを こばみます)( "5/ We choose Tradition, we refuse innovations." ).
6.教会内の全てが,長い年月を経たカトリック教の教理に反するやり方で新しく書き換えられようとしています (きょうかい ないの すべてが,ながい ねんげつを へた かとりっく きょうの きょうりに はんする やりかたで あたらしく かきかえられようと しています)( "6/ Everything in the Church is being renewed in a way opposite to age-old Catholic doctrine." ).
7.公会議派の改革は異端に始まり異端に終わるものですから,カトリック教徒たちには受け入れ難いものです(こうかいぎはの かいかくは いたんに はじまり いたんに おわる もの ですから,かとりっく きょうと たちには うけいれがたい もの です)( "7/ The Conciliar reform, coming from heresy and resulting in heresy, is unacceptable to Catholics, …" ).
8.従って,私たちは伝統派の司祭たちを育み続けます(したがって,わたくしたちは でんとうはの しさいたちを はぐくみ つづけ ます)( "8/ … so we shall continue to form Traditional priests." ).
9.そして,私たちは何時の世も変わらないカトリックの教えと実践を守ります(そして,わたくしたちは いつのよも かわらない かとりっくの おしえと じっせんを まもります)( "9/ And we shall cleave to the Catholic teaching and practice of all time, …" ).
10.私たちは,そうする事で真の忠実なカトリック教徒のままで居られると固く信じるからです(わたくしたちは,そうする ことで まことの ちゅうじつな かとりっく きょうとの ままで いられると かたく しんじる からです)( "10/ … being convinced that by so doing we will remain truly faithful Catholics." ).

    先ず初めに,宣言がカトリックのローマと公会議派のローマ(1と2)を明確かつ鋭く区別している点に注目して下さい(まず はじめに,せんげんが かとりっくの ろーまと こうかいぎはの ろーま〈1と2〉を めいかく かつ するどく くべつ している てんに ちゅうもく して ください)( "Notice firstly the clear and sharp distinction (1 and 2) between Catholic Rome and Conciliar Rome." ).公会議派ローマがカトリック・ローマの諸機構を占拠していると述べるのは真実ですが(こうかいぎは ろーまが かとりっく・ろーまの しょ きこうを せんきょ していると のべるのは しんじつ ですが),( "Now it is true to say that Conciliar Rome is occupying the structures of Catholic Rome, …" ),だから公会議派教会はカトリック教会に外ならないと述べるのは,ナイチンゲールの巣を占拠するカッコウをナイチンゲールと呼ぶくらい馬鹿げた事です(だから こうかいぎは きょうかいは かとりっく きょうかいに ほかならないと のべるのは,ないちんげーるの すを せんきょ する かっこうを ないちんげーると よぶ くらい ばかげた こと です)( "… but to say that the Conciliar Church is therefore none other than the Catholic Church is as foolish as to say that a cuckoo is a nightingale because it occupies a nightingale’s nest." ).(また大司教は公会議派ローマ,カトリック・ローマについて書いただけで,公会議派教会やカトリック教会について書いたのではない,と述べるのは言葉を弄ぶようなものです.)(〈また だいしきょうは こうかいぎは ろーま,かとりっく・ろーまに ついて かいただけで,こうかいぎは きょうかいや かとりっく きょうかいに ついて かいたのでは ない,とのべるのは ことばを もてあそぶ ような もの です〉)( "… (And to say that the Archbishop wrote of Conciliar and Catholic “Rome” and not of the Conciliar and Catholic “Church” is to quibble with words.) " )

    だがルフェーブル大司教は公会議派のカッコウとカトリックのナイチンゲールを何によって区別しているのでしょうか?(だが るふぇーぶる だいしきょうは こうかいぎは の かっこうと かとりっくの ないちんげーるを なにに よって くべつ している のでしょうか?)( "But how does the Archbishop distinguish between Conciliar cuckoo and Catholic nightingale ? " )それは教理によってです!(それは きょうりに よって です!)( "By doctrine ! " )
公会議派の論理(=公会議主義 "Conciliarism" )はネオ・プロテスタント,ネオ・モダニスト(=新プロテスタント主義,新現代主義)です(2)(こうかいぎはの ろんり〈こうかいぎ しゅぎ〉は ねお・ぷろてすたんと,ねお・もだにすと〈=しん ぷろてすたんと しゅぎ,しん げんだい しゅぎ〉です〈2〉)( "Conciliarism is neo-Protestant and neo-modernist (2)." ).
カトリック教理に反するやりかたで(6),私たちの信仰は衰退させられています(3)(かとりっく きょうりに はんする やりかたで〈6〉,わたくしたちの しんこうは すいたい させられて います〈3〉)( "Our faith is being diminished (3), in opposition to Catholic doctrine (6)." ).
公会議派の論理は異端です(7)(こうかいぎはの ろんりは いたんです〈7〉)( "Conciliarism is heresy (7)." ).
私たちはカトリックの教えを忠実に守ります(9)(わたくしたちは かとりっくの おしえを ちゅうじつに まもります〈9〉)( "We cleave to Catholic teaching (9)." ).
上記の宣言要約は大司教が教理について述べられた事全てを言い表している訳ではありません(じょうきの せんげん ようやくは だいしきょうが きょうりに ついて のべられたこと すべてを いいあらわして いる わけ では ありません.)( "And the brief summary above does not give all of the Archbishop’s references to doctrine." ).
カトリック教理は大司教の心と行動を導いた北極星でした(かとりっく きょうりは だいしきょうの こころと こうどうを みちびいた ほっきょくせい でした)( "Catholic doctrine was the Northern star of his mind and action." ).
現代人は心と行動の自由を望み,それが実質的には心を駄目にしてしまいます(げんだいじんは こころと こうどうの じゆうを のぞみ,それが じっしつてき には こころを だめに して しまいます)( "It is because modern man wants freedom for his mind and action that he in effect wants his mind to be reduced to mush, …" ).
そうなると,教理は単に儀礼的な機能しか持たなくなります(そうなると,きょうりは たんに ぎれい てきな きのう しか もたなく なります)( "… whereupon doctrine has no more than a merely decorous function." ).
もはや,それは人間の行動を律する事はなくなります(もはや,それは にんげんの こうどうを りっする ことは なくなります)( "It has no more bite upon man’s action,…" ).
教理など重要でないとする破滅的な教理は話の外です(きょうり など じゅうよう でない とする はめつてきな きょうりは はなしの ほか です.( "… except the one disastrous doctrine that doctrine is unimportant." ).
だが,この破滅的な教理は人間に全面的な影響力を持ち得ます(だが,この はめつ てきな きょうりは にんげんに ぜんめんてきな えいきょうりょくを もちえます)( "And that disastrous doctrine has a total bite. " ).
だからこそ,ルフェーブル大司教が自ら創設した聖ピオ十世会( SSPX )内部で儀礼的なマスコット程度の存在にしか見られなくなっている訳です(だからこそ,るふぇーぶる だいしきょうが みずから そうせつ した せいぴお じゅっせい かい ないぶで ぎれい てきな ますこっと ていどの そんざいに しか みられなく なっている わけです)( "Here is why the Archbishop is being reduced within the Society of St Pius X, which he founded, to little more than a decorous mascot." ).

    SSPX ,教会そして世界の中に教理の影響力,現実感,真実を愛する心を取り戻すには何が必要なのか問わざるをえません(せいぴお じゅっせい かい,きょうかい,そして せかいの なかに きょうりの えいきょう りょく,げんじつ かん,しんじつを あいする こころを とりもどす には なにが ひつよう なのか とわざるを えません)( "One is impelled to ask, what is it going to take to restore the bite of doctrine, the sense of reality and the love of truth in Society, Church and world ? " ).それは間違いなく悩み,苦しみ(=苦難・苦悩・患難)でしょう(それは まちがいなく なやみ,くるしみ〈=くなん・くのう・かんなん〉でしょう)( "Surely suffering, no less." ).(ロシアの作家)ソルジェニーツィンは現代人が自分の罪深い生き方で作り上げたコンクリートの箱をこじ開けるには鉄格子のような出来事が起きなければならないという趣旨の言葉を残しています(〈ろしあのさっか〉そるじぇにーつぃんは げんだいじんが じぶんの つみぶかい いきかたで つくりあげた こんくりーとの はこを こじあける には てつごうしの ような できごとが おきなければ ならない という しゅしの ことばを のこして います)( "Solzhenitsyn made a remark to the effect that it will take the iron bar of events to smash open the concrete casing which modern man has built around his sinful way of life." ).真に,主よ憐れみ給え(まことに,しゅよ あわれみ たまえ)( "Truly, Lord have mercy." ).

    キリエ・エレイソン.

    40年前,偉大な大司教は,
    (よんじゅうねん まえ,
    いだいな だいしきょうは,)

     ( "A great Archbishop, forty years ago," )

    公会議派の教理を推し量り,
    “No” と拒否されました.
    (こうかいぎはの きょうりを おしはかり,
     「のー」と きょひ されました.)

    ( "Measured the Council’s doctrine,
     and said “No”. " )

    リチャード・ウィリアムソン司教




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第2パラグラフの訳注2-1

「私たちはカトリック・ローマ,永遠のローマに忠実に固執します」
"1/ We cleave to Catholic Rome, eternal Rome."
の意義について

・真の神の御独り子・救世主(=メシア,キリスト)イエズスの後継者である,初代ローマ司教=聖ペトロの座が置かれるローマ・バチカンは,
来るべき永遠の都,天のエルザレム(=イェルザレム Ierusalem, Jerusalem)の,地上に於ける象(かたど)りである.

・天のエルザレムは,救世主を信じる全ての者の霊魂の故郷(ふるさと)である.

→新約聖書・使徒聖パウロのヘブライ人への書簡:第13章14節
"Non enim habemus hic manentem civitatem, sed futuram inquirimus."(羅)
"Car nous n'avons point ici de cité permanente, mais nous cherchons la cité future."〈仏〉
"For we have not here a lasting city, but we seek one that is to come."(英)
「私たちはここに不変の都をもたず,*未来の都を探している.」
* 未来の都=天のエルザレム

・「永遠のローマ」=「永遠の都」=「天のエルザレム」
(「地上のエルザレム」ではない.)

・救世の御業を成し遂げられた神の御独り子イエズス・キリストを信じ,より良い命(=永遠の命)に召される為に現在を忍耐強く善良に生きようとする人だけが入ることを許される).

・永遠のローマは,天地の王イエズス・キリストの王国.

・救世主(真の神の御独り子,われらの主イエズス・キリスト)を信じるという事は,
キリストのお受けになった受難・(十字架上の)死・復活を,自らの人生に重ね合わせ,
キリストの全生涯に起こった出来事は,人間の目では見ることが出来ない真実の神の御前に,
人間が心の中で持てる唯一の真の神への信徳・望徳・愛徳により,
目前の人生を最期まで生き抜く全ての人にとって,普遍的な真理であるという事を信じること.

・私たち人類の真の命は,地上の肉体にではなく霊魂に在る.肉体は地上における仮の住まい,地上は霊魂の仮の住まいである.霊魂の本当の住まいは,天にある.

・真の人間は霊に於いて生きる.
霊魂は不滅であり,救世主イエズス・キリストは今も生きておられ天地を支配される.
また,キリストを信じる者の霊魂は,今すでに永遠の生命に生きている.

→新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第6章19-21節
主イエズス・キリストのみことば…
"Nolite thesaurizare vobis thesauros in terra: ubi ærugo, et tinea demolitur: et ubi fures effodiunt, et furantur.
Thesaurizate autem vobis thesauros in cælo: ubi neque ærugo, neque tinea demolitur, et ubi fures non effodiunt, nec furantur.
Ubi enim est thesaurus tuus, ibi est et cor tuum."
"Ne vous amassez point des trésors sur la terre, où la rouille et les vers rongent, et où les voleurs fouillent et dérobent.
Mais amassez-vous des trésors dans le ciel, où ni la rouille ni les vers ne rongent, et où les voleurs ne fouillent ni ne dérobent.
Où en effet est ton trésor,  là est aussi ton coeur."
"Lay not up to yourselves treasures on earth: where the rust, and moth consume, and where thieves break through and steal.
But lay up to yourselves treasures in heaven: where neither the rust nor moth doth consume, and where thieves do not break through, nor steal.
For where thy treasure is, there is thy heart also."
「自分のためにこの世に宝を積むな.ここではしみと虫が食い,盗人が穴をあけて盗み出す. 
むしろ自分のために天に宝を積め.そこではしみも虫もつかず,盗人が穴をあけて盗み出すこともない.
あなたの宝のあるところには,あなたの心もある.」
 
・この世(大宇宙・地上)は過ぎ去る(滅びる)が,神の御言葉は滅びない.

→新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第24章35節
主イエズス・キリストのみことば…
"Cælum, et terra transibunt, verba autem mea non præteribunt."
"Le ciel et la terre passeront, mais mes paroles ne passeront point."
"Heaven and earth shall pass, but my words shall not pass."
「天地は過ぎ去る,だが私のことばは過ぎ去らぬ」 

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聖福音書

1. 目撃者が伝えた出来事
ルカによる聖福音書・第1章1-4節

 私たちの間に起きた出来事の, 最初からの目撃者で, みことばの奉仕者となった人々が,私たちに伝えてくれたままに書き残そうとして,多くの人が手をつけたので,尊いテオフィロ,私も,すべてのことをはじめから詳しく調べ,順序よく書いてあなたに送るのがよいと思った.それは,あなたの聞いた教えの確実さを知らせるためである.

 2. 神のみ言葉――イエズスはおん父を啓示する――
ヨハネによる聖福音書・第1章1-18節

*はじめにみことばがあった.みことばは神とともにあった.みことばは神であった.みことばははじめに神とともにあり,*万物はみことばによって創られた.創られた物のうちに,一つとしてみことばによらず創られたものはない. みことばに生命があり,生命は人の光であった.*光はやみ(闇)に輝いたがやみはそれを悟らなかった.

さて,神から遣わされた人がいて,その名をヨハネと言った.この人は,光を証明するために,またすべての人が彼によって信じるために,証人として来た.この人は光ではなく,光を証明するために来た.

*すべての人を照らすまことの光は,まさにこの世に来るところであった. みことばは世にあり,世はみことばによって創られたが,世はそれを認めなかった.*みことばはご自分の家に来られたが,その人々は受け入れなかった. しかし,その方を受け入れた人々にはみな神の子となれる力を授けた.そのみ名を信じるすべての人たち,*彼らは血統(ちすじ)ではなく,肉体の意志ではなく,人の意志ではなく,ただ神によって生まれた人々である.

*みことばは肉体となって,われわれの中で*住まわれた.われわれはその栄光を見た,それは,御独り子として御父から受けた栄光であり,彼は恩寵と真理に満ちておられた.ヨハネは彼を証明し,「『私のあとで来るお方は,私よりすぐれた方で,私より前に存在しておられた』と言ったのはこの方のことだ」と宣言した.*そうだ,われわれはその満ちあふれるところから恩寵に次ぐ恩寵を受けたのである.なぜなら,律法はモイゼを通じて与えられたが,恩寵と真理とはイエズス・キリストによってわれわれの上に来たのである.神を見奉った人は一人もいない.御父のふところにおいでになる御独り子の神がこれをお示しになった.

引用文献:合併版聖福音書/聖書 フェデリコ・バルバロ神父 編

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(注:本投稿記事〈第384回エレイソン・コメンツ「40周年」"FORTIETH ANNIVERSARY"〉は2015年1月22日22:50時に掲載されました.)