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2016年6月4日土曜日

464 見捨てられた教会? 6/4

エレイソン・コメンツ 第464回 (2016年6月4日)

絶望のどん底にあっては, 
詩篇作者が救いを示してくれます.神を信じ,祈りなさい. 
In circumstances of wholesale despair 
The Psalmist teaches, trust in God, and prayer.

今日,私たちの周囲のほとんどすべての物事や人々の混乱状態が日増しに深まり,教会内部ではすべての人々がいがみ合っているように見えます.だが,そのような中で,おそらく3千年も前に詩篇作者が,同じように神の敵(かたき・てき)の迫害に苦しむ人々を救ってくださるよう神に懇願(こんがん)したことを知れば,私たちは心強く感じるに違いありません.今と同じように当時,神の敵は傲慢(ごうまん)にも神に立ち向かい,その傲慢さは「日増しに増大し続け」,彼らはあらゆることをして神の神殿,その宗教を破壊し,神は彼らが大いに成功することを許されました.以下に紹介するのは詩篇・第73篇(邦訳聖書〈フェデリコ・バルバロ神父訳・講談社出版〉第74篇)です.最小限の注釈をイタリックで加えてあります.
As day by day the chaos increases in almost everything and everybody around us, and inside the Church it seems as though everybody is against everybody, it is certainly reassuring to find that the Psalmist of maybe 3,000 years ago cried out to God to come to the aid of his people, in similar distress from his enemies. Then as now they rose up in their pride against him, their pride “ascends continually”, they have done their best to wreck his Temple and his religion, and he has allowed them much success. Here is Psalm 73 (74), with minimal notes of explanation in italics:--

A. 神は敵が御自身とその教会に勝つのをどのようにお許しになられたのでしょうか?

(1)ああ神よ,御身はなぜ我らを終局にいたるまで見捨てられたのでしょうか? 御身は,なぜ御身の牧場に群れる羊たちへの怒りに火をつけられたのでしょうか?  (2)御身が初めから保持されてきた御身の聖会(公教会/カトリック教会)( "Thy congregation (Catholic Church) " )訳注3・1=〈御身の=神の〉信徒会・聖会〈=公教会/カトリック教会 〉・修道会を思い起こしてください.御身が御救いになった遺産の王笏(おうしゃく= "sceptre" )(訳注3・2),すなわち,御身が御住まいになったシオンの山(公教会/カトリック教会)を思い起こしてください. (3)彼ら(神の敵たち )に対し最後にいたるまで御身の御手を持ち上げてください.敵が(神の)聖域(=至聖所)で行った悪辣(あくらつ)なことをご覧になってください. (4)御身を嫌う彼らは,御身の尊厳を無視して自分たちの行いを自慢しました.彼らは自分たちの旗を自らのシンボルとして掲(かか)げました. (5)彼らは出口でも最上段(神殿の諸々の門〈扉〉と高嶺の極み〈たかね の きわみ〉)( "Temple gates and summit" ) でも(神の神聖さ )( "the holiness of God"  )など知ろうとしませんでした.斧〈おの〉で森の木を切るように, (6)彼らはただちに神殿の諸々の門(扉)を斧と鉈(なた)で割り(第二バチカン公会議),神殿そのものを倒しました. (7)彼らは御身の聖域(=至聖所 "Thy sanctuary" )に放火し,この世における(地上の)御身の御名の住み家(公教会/カトリック教会)を汚(けが)しました. (8)彼らは同類たちと一緒に,地上のあらゆる祝日(公教会/カトリック教会典礼)を廃止しようと心の中で叫びました.(9)以来我らの諸々の証印(シンボル "signs" )は姿を消しました.今では預言者もいません.そして,神はもはや我らのことなど知ろうとなされません(神は諦〈あきら〉めてしまわれ,我らは独力で生きなければならない状態に置かれています ). (10)ああ神よ,敵はいつまで恥辱〈ちじょく〉行為を続けるのでしょうか? 敵は御身の御名に永遠に挑(いど)み続けるのでしょうか? (11)御身はなぜ手を引かれるのでしょうか? なぜ御身は右手をいつまでも引き込めたままでおられるのでしょうか?

A. How can God be allowing the triumph of His enemies against His own Church ? 

[1] O God, why hast Thou cast us off unto the end: why is Thy wrath enkindled against the sheep of Thy pasture? [2] Remember Thy congregation (Catholic Church), which Thou hast possessed from the beginning. The sceptre of Thy inheritance which Thou hast redeemed: Mount Sion (Catholic Church) in which Thou hast dwelt. [3] Lift up Thy hands against their (God's enemies) pride unto the end; see what things the enemy hath done wickedly in the sanctuary. [4] And they that hate Thee have made their boasts, in the midst of Thy solemnity. They have set up their ensigns for signs, [5] and they knew not (the holiness of God) both in the going out and on the highest top ( Temple gates and summit). As with axes in a wood of trees, [6] they have cut down at once the gates thereof, with axe and hatchet (Vatican II) they have brought it down. [7] They have set fire to Thy sanctuary: they have defiled the dwelling place of Thy name (Catholic Church) on the earth. [8] They said in their heart, the whole kindred of them together: Let us abolish all the festival days of God (Catholic liturgy) from the land. [9] Our signs we have not seen, there is now no prophet: and He will know us no more (God has given up. We are on our own.) [10] How long, O God, shall the enemy reproach: is the adversary to provoke thy name for ever ? [11] Why dost thou turn away Thy hand: and Thy right hand out of the midst of thy bosom for ever?

B. だが,神は救い,歴史,万物の主です.

(12)だが,神は古代以前から我らの王です.神はこの世での救いを引き受けてこられました.(13)御身(=神)は御身の御力で海をなだめられました(紅海横断 ),御身はドラゴン(エジプト人たち )を海に沈められました.(14)御身はドラゴンの頭(エジプト王)をお壊しになられました.御身は彼を肉としてエチオピア人の民に与えられました.(15)御身は泉や川を壊されました.御身はイーサン(「イーサンの川」=「激流」(の川)を意味する.たとえば旧約聖書・ヨシュアの書:第3章を参照)の川( "the Ethan rivers" ) を枯らしました.(訳注後記 B-1)(訳注後記 B-2 )(訳注後記 B-3) . (16)御身は昼であられ夜であられます.御身は朝の光と太陽をお造りになりました.(17)御身はこの世のあらゆる境界を造られました.夏,春は御身の創造物です.(訳注後記 B-4)

B. But God is the Master of salvation, of history and of all Nature. 

[12] But God is our king before ages: he hath wrought salvation in the midst of the earth. [13] Thou by Thy strength didst make the sea (Red Sea crossing) firm: Thou didst crush the heads of the dragons (Egyptians) in the waters. [14] Thou hast broken the heads of the dragon (Egyptian king) : thou hast given him to be meat for the people of the Ethiopians. [15] Thou hast broken up the fountains and the torrents: Thou hast dried up the Ethan (running strongly, e.g. Jos. III) rivers. [16] Thine is the day, and Thine is the night: Thou hast made the morning light and the sun. [17] Thou hast made all the borders of the earth: the summer and the spring were formed by Thee.


C. ああ神よ,御身の貧しい民を御忘れにならないでください.そして,御身の傲慢な敵を倒してください.

(18)このことを思い起こしてください.敵は主を咎(とが)め,愚かな民は御身の名声に挑みました.(19)御身に懺悔(ざんげ)する者たちを獣(けだもの)に落とし込まないでください.そして,御身の貧しい民たちの魂を最後まで忘れないでください.(20)御身の御約束(新約聖書 )に御配慮ください.この世でおぼつかない魂が邪悪の住み家にあふれているからです.(21)貧しい民たちを追い払って困らせないでください.貧しき民,愛に飢えた民は御身の御名を讃えるでしょう.(22)ああ神よ,立ち上がり,御身御自身への訴えを御裁きください.御身の叱責から愚かな民が御身の体面(面目)を傷つけてきたことを(訳注5・1・「愚かな民が御身の体面(面目)を傷つけてきたことを」=「神を名誉を汚〈けが〉す・神に恥をかかせる・神の名誉を辱しめる・神の価値を低める」などの意味.)思い起こしてください.(23)御身の敵どもの声を御忘れにならないでください.御身を憎む彼らの傲慢さは日増しに増大します.

C. O God, forget not your own humble people, and crush your proud enemies. 

[18] Remember this, the enemy hath reproached the Lord: and a foolish people hath provoked Thy name. [19] Deliver not up to beasts the souls that confess to Thee: and forget not to the end the souls of Thy poor. [20] Have regard to Thy covenant (New Testament) : for they that are the obscure of the earth have been filled with dwellings of iniquity. [21] Let not the humble be turned away with confusion: the poor and needy shall praise Thy name. [22] Arise, O God, judge thy own cause: remember Thy reproaches with which the foolish man hath reproached Thee all the day. [23] Forget not the voices of Thy enemies: the pride of them that hate Thee ascendeth continually.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教




* * *


第4パラグラフ( B. (訳注)(「アルノン川」と「ヨルダン川」=「イーサンの川」=激流の大河.)


訳注B-1 … 荒野の書:第21章13節

→「アルノン川」=死海に入る川でヨルダン川に次ぐ大きさである.


訳注B-2 … ヨシュアの書:第3章

→(説明)エジプトを脱出したイスラエルの民は40年間荒野を放浪した末,神の御計画で,前任の預言者モーゼの後を継いだヌンの子ヨシュアの指揮によってカナンの地に入る.

第3章では,「全地の支配者なる主」の「聖櫃(せいひつ)(=〈訳注〉神と〈預言者モーゼを代表する〉イスラエルの民との間で交わされた)契約』の箱(櫃)」)」(ヨシュアの書:第3章13節)を運ぶ祭司たちがイスラエルの民の先頭に立って,ヨルダン川の水に足をつける場面.

祭司たちがヨルダン川の水に足をつけると水は分かれて一かたまりになって止まり,民は乾いた所を渡ることが出来た.これは神なる主が起こされた不思議(奇跡)である.

「契約の櫃」を運ぶ祭司たちは,すべての民がヨルダン川を渡りきるまで,ヨルダン川の中央の乾いたところにじっと足を止め,そこを動かなかった.(後述を参照)


訳注B-3 … ヨシュアの書:第3章15節,16節,17節.

15 (契約の)櫃(ひつ)を運ぶ人々がヨルダン川に着き,祭司たちの足が水に触れると―― * ヨルダン川は刈り入れどきの間ずっと岸からあふれ出るほどの水があった――

16 水は止まった.川上から流れてくる水はアダムからザルタンの城壁にわたる広い地域に一かたまりになった止まり,アラバの海,つまり塩の海に入る水は流れ終わった.民はイェリコ(これから主なる神がイスラエルに与えようとされる都市の名)に向かう地点から川を渡った.

17 契約の櫃を運ぶ祭司たちは,ヨルダン川の中央の乾いたところにじっと足を止めた.イスラエルの民一同は乾いたところを渡りはじめ,民がすべてヨルダン川を渡りきるまで,祭司たちはそこを動かなかった.』


(注釈)

 「ヨルダン川を渡る」

15. 大麦刈り入れのころ(三 (3),四 (4) 月),ニサンの月にヘルモン山の雪がとけてヨルダン川がよく氾濫(はんらん)した.
歴史を見ると大なだれがあってこの川の流れが止まったことや道を変えたことがあった.
一二六七 (1267) 年,一九二七 (1927) 年にもそういうことがあった.
神はそういう自然現象を利用されたのかもしれぬ.


訳注B-4 … ヨシュアの書:第4章


詩篇第73(74)篇(日本語)
PSALMUS 73 (latina)

1.『*アサフの歌. 神よ,なぜいつまでもわれらを見捨て, あなたの牧場の羊に怒りを燃やされるのか.
Intellectus Asaph. Ut quid Deus repulisti in finem: iratus est furor tuus super oves pascuæ tuæ? 

2. 昔,あなたが買われた民を, 買いもどされた遺産の民を, 住まいと定められたこのシオンの山をかえりみ,
Memor esto congregationis tuæ, quam possedisti ab initio. Redemisti virgam hereditatis tuæ: mons Sion, in quo habitasti in eo. 

3. 限りなきこの廃墟に御足(おんあし)を向けたまえ. 敵は聖所のすべてを略奪し,
Leva manus tuas in superbias eorum in finem: quanta malignatus est inimicus in sancto!

4. 集会のところでほえ, 自分のしるしをそこにかかげた.
Et gloriati sunt qui oderunt te: in medio solemnitatis tuæ. Posuerunt signa sua, signa:

5. それは深い森に, おのを打ち下ろすに似ていた.
et non cognoverunt sicut in exitu super summum. Quasi in silva lignorum securibus

6. 突如,神殿を まさかりと槌で打ち砕き,
exciderunt ianuas eius in idipsum: in securi, et ascia deiecerunt eam.

7. 聖所に火をつけ, み名の住まいを地まで汚(けが)し
Incenderunt igni Sanctuarium tuum: in terra polluerunt tabernaculum nominis tui.

8. 心のなかで,「一まとめにして滅ぼそう」と言いながら, 国内の礼拝所をみな焼き払った.
Dixerunt in corde suo cognatio eorum simul: quiescere faciamus omnes dies festos Dei a terra.

9. われらのしるしはもう見えず, 預言者ももういない. * それがいつまで続くのか,われらのうちに知る者はない.
Signa nostra non vidimus, iam non est propheta: et nos non cognoscet amplius. 

10. 神よ,仇はいつまで冒涜のことばを吐き, 敵はいつまでみ名をののしるのか.
Usquequo Deus improperabit inimicus: irritat adversarius nomen tuum in finem? 

11. なぜ,あなたは手を引き, 右の手をふところに隠されたのか.
Ut quid avertis manum tuam, et dexteram tuam, de medio sinu tuo in finem?

12. だが,神は昔から私の王であり, 地の中で救いを行われ,
Deus autem rex noster ante sæcula: operatus est salutem in medio terræ.

13. そのみ力で海を分け, 水の上の竜の頭を砕き,
Tu confirmasti in virtute tua mare: contribulasti capita draconum in aquis.

14.*レビアタンの頭を割り, *海の大魚のえさとし,
Tu confregisti capita draconis: dedisti eum escam populis Æthiopum. 

15.*泉とせせらぎを開き, 尽きざる水の川を干上がらせたもうた.
Tu dirupisti fontes, et torrentes: tu siccasti fluvios Ethan.

16. 昼も,夜も,あなたのものである. 月も太陽もあなたが備え,
Tuus est dies, et tua est nox: tu fabricatus es auroram et solem.

17. 地の堺を定め, 夏と冬をつくられた.
Tu fecisti omnes terminos terræ: æstatem et ver tu plasmasti ea.

18. 思いたまえ主よ,敵はあなたをののしり, 愚かなある民はみ名をのろった.
Memor esto huius, inimicus improperavit Domino: et populus insipiens incitavit nomen tuum.

19. あなたの山ばとの命を,はげたかに渡さず, あなたの小さな者の命を,いつまでも忘れ去らず,
Ne tradas bestiis animas confitentes tibi, et animas pauperum tuorum ne obliviscaris in finem.

20. 契約を思い出したまえ,秤(はかり)は満ち, 地の穴は暴力の住まいとなった.
Respice in testamentum tuum: quia repleti sunt, qui obscurati sunt terræ domibus iniquitatum.

21. しいたげられる者が,辱められたままもどらぬように, 貧しい者,不幸な者にみ名をたたえさせよ.
Ne avertatur humilis factus confusus: pauper et inops laudabunt nomen tuum. 

22. 神よ,立ってあなたへの訴えを守り, 日々あなたをののしる愚か者を記憶し,
Exurge Deus, iudica causam tuam: memor esto improperiorum tuorum, eorum quæ ab insipiente sunt tota die.

23. 敵の叫びを, たえまなく高まる仇の騒ぎを忘れたもうな.
Ne obliviscaris voces inimicorum tuorum: superbia eorum, qui te oderunt, ascendit semper.


 (注釈)

神殿略奪後の嘆き

1. タルグムによると,22節の「愚か者」は神殿の門を焼き(マカバイ上4・38,同下1・8),聖所を汚し(同上1・23,39,同下6・5),狂気の王と呼ばれたアンティオコ・エピファネ王を指す.
しかしこの時はカルデア軍の神殿略奪を歌ったともとれる(歴王下25・9,イザヤ64・10).
このとき以来預言者は声をひそめた(9節).

9. エレミア(25・11,29・10)は七十年の流謫(るたく)を告げていた.
七十年とは長い年月をさす象徴的な数である.

14. 伝説的な海の怪魚(イザヤ27・1,ヨブ3・8). 

* ここは紅海を渡ったこと(脱出14・30),エジプト人の敗北を語る.

15. 脱出(17・1-7)の奇跡を暗示する(ヨシュア3章).

19. ホゼアはイスラエルを雌バトにたとえた.





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邦訳文及び訳注の校正を続けます.











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本投稿記事・第464回エレイソン・コメンツ「見捨てられた教会」(2016年6月4日付)/ELEISON COMMENTS CDLXIV (June 4, 2016) : "CHURCH ABANDONED?" は2016年12月17日24時27分に掲載されました.
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2015年9月5日土曜日

425 愛徳の順序 9/5


解説付き版

エレイソン・コメンツ 第425回 (2015年9月5日)

私たちの嘘の世界は
往々にして 「黒は白だ」と言います.
(わたくし たちの うその せかいは
おうおう にして 「くろは しろだ」と いいます.)
( "Often our world of lies says, “Black is white.” " )

神を尺度とするなら,
公教徒達(=カトリック教徒達」)は 正しく測ります.
(かみを しゃくど と する なら,
こう きょうと たち〈=かとりっく きょうと たち〉は ただしく はかり ます.)
( "With God for measure, Catholics measure right." )

公教会(=カトリック教会)( "the Catholic Church" )は「人種差別」“racism” に就いて如何考えるでしょうか?(こうきょうかい〈かとりっくきょうかい〉は「じんしゅ さべつ」に ついて どう かんがえる でしょうか?) 「反ユダヤ主義」 “anti-semitism” (訳注後記0・1 )に就いては?(「はん ゆだや しゅぎ」に ついては?) 「(女)性差別」 “sexism” に 就いては?(「(じょ)せい さべつ」に ついては?) 或(い)は「同性愛嫌悪」 “homophobia” に就いては?(あるい は 「どうせい あい けんお」に ついて は?)( "What does the Catholic Church think of “racism”? Or of “anti-semitism”? Or of “sexism”? Or of “homophobia”? " ) 他にも多々在ります(ほか にも たた あり ます.)( "And so on and so on." ).誰もが他の誰に対しても親切だと想定されて居るリベラルな世界で(だれ もが ほか の だれ に たいし ても しんせつ だ と そうてい されて いる りべらる な せかい で)( "In a liberal world where everybody is supposed to be nice to everybody, …" ),私達全てが憎むべき様な新しい階級の人々に就いて「差別語禁止」が定期的に出て来るのは驚くべき事では無いでしょうか?(わたくし たち すべて が にくむ べき ような あたらしい かいきゅう の ひとびと に ついて「さべつ ご きんし」が ていき てき に でて くる のは おどろく べき こと では ない でしょうか?)( "… is it not surprising how “political correctness” seems to come up regularly with a new class of people for all of us to hate? " ) 公教会(カトリック教会)は,(其の創立者で在られる)神授の(=神聖な)真の教師(=神の御独り子主イエズス・キリスト)( "its divine Master" )の聖教(みおしえ)に従い私達は隣人を愛し,誰も憎むべきで無いと説いて居ます(こう きょうかい〈かとりっく きょうかい〉は,〈その そうりつしゃ で あられる〉しんじゅ の〈=しんせい な〉まこと の きょうし〈=かみ の おん ひとりご しゅ いえずす・きりすと〉の みおしえ に したがい わたくし たち は りんじん を あいし,だれ も にくむ べき で ない と といて います)(訳注後記0・2 ).だが教会は,私達に仲間の全てを無差別に愛せとは説いて居ません(だが きょうかい は,わたくし たち に なかま の すべて を むさべつ に あいせ と は といて いません)( "… but it does not say we should love all our fellow-men indiscriminately." ).偉大な公教会(カトリック教会)の神学者( "a great Catholic theologian" )が私達の神や人に対する愛に何の様な順序を付けたか振り返って見ましょう(いだいな こうきょうかい の しんがくしゃ が わたくし たち の かみ や ひと に たいする あい に どのような じゅんじょ を つけたか ふりかえって みましょう)( "Let us see how a great Catholic theologian puts order into our love of God and man." ).以下に紹介為るのは聖トマス・アクィナス( "St Thomas Aquinas" )の「神学大全」( "Summa Theologiae" )に含まれる十三か条の骨子,第二部第二巻,第二十六問(題)(=問26) ( "2a 2ae, Question 26" )です(いかに しょうかい する のは せい とます・あくぃなす の「しんがく たいぜん」に ふくまれる じゅうさん かじょう の こっし,だい に ぶ だい に かん,だい にじゅう ろく もん〈だい〉〈=とい にじゅう ろく〉 です):-- ( "Here are the bare bones of the 13 Articles of St Thomas Aquinas’ Summa Theologiae, 2a 2ae, Question 26:— " )
(訳注後記0・1) 「反ユダヤ主義」“anti-semitism” )
(訳注後記0・2 ) ① (i) 「公教会(カトリック教会)」の創立者すなわち「神授の真の教師」=「キリスト」「メシア(=メサイア)」.(ii) 「キリスト・メシア」の意味=「救世主」.「イエズス・キリスト」とは,即ち「救世主イエズス」の事である.「イエズス」の御名については,後述の「訳注の続き」をご参照下さい.②「公教会の教え」=「神(天主)の十戒」

1 愛徳 "Charity" には一つの真正の順序が在る(あいとく には ひとつの しんせい の じゅんじょ が ある)(訳注後記 1・1「神の十戒」を参照).何故なら,其れは超自然的至福に於ける友情であり(なぜなら,それは ちょう しぜん てき しふく に おける ゆうじょう で あり),其の至福は神を出発点とする物(為る物)だからです(その しふく は かみを しゅっぱつ てん と する もの だから です)( "1 Charity does have an order, because it is a friendship in supernatural bliss, and that bliss has its starting-point in God, …" ).貴方が出発点から物事を辿る場合(あなたが しゅっぱつ てん から ものごと を たどる ばあい),何時でも順番を付けるでしょう(いつでも じゅんばん を つける でしょう)( "… and wherever you have things following from a starting-point, you have an order." ).(公教徒〈=カトリック教徒〉が重要な問題となる(為る)と如何に直ちに神に委ねるかに注目して下さい.リベラル派(=自由主義派)は自分達の「親切さ」“niceness” の出発点に就いて,先ず何に委ねるのでしょうか? ナチスに対する憎悪でしょうか? 真面目な問いです…)〈こうきょうと〈=かとりっく きょうと〉が じゅうよう な もんだい と なると いかに ただちに かみに ゆだねるか に ちゅうもく して ください.りべらるは〈じゆう しゅぎ は〉 は じぶん たちの「しんせつさ」の しゅっぱつ てん に ついて,まず なに に ゆだねる ので しょうか? なちす に たいする ぞうお でしょうか? まじめな とい です…〉( "… (Notice how the Catholic immediately refers a major question to God. What might liberals immediately refer to as the starting-point of their “niceness”? Hatred of Nazis? Seriously… ) " )

2 愛徳に於いては隣人 "neighbour" よりも勝って神を愛さなければ為らない(あいとく に おいては りんじん よりも まさって かみを あいさなければ ならない)( "2 Charity must love God above neighbour, …" )(訳注後記 2・1「隣人とは誰か?」).何故なら,愛徳は至福に於ける友情( "charity is a friendship in bliss" )で有り(なぜなら,あいとく は しふくに おける ゆうじょう であり),私自身や私の隣人の為のあらゆる至福は神を源泉として居るからです(わたくし じしん や わたくし の りんじん の ため の あらゆる しふく は かみ を げんせん と している から です)( "… because charity is a friendship in bliss, and all bliss for myself or my neighbour has its source in God. " )(訳注後記2・2「神の十戒・第一項」を参照).(リベラル派は自らの幸福の源泉を何処に置いて居るのでしょうか? 自己達成感でしょうか? 其れとも自分達の仲間でしょうか? 此れ等は,幸福の形態としては相対的に貧弱な物です.)〈りべらるは は みずから の こうふく の げんせん を どこ に おいて いる ので しょう か? じこ たっせい かん でしょうか? それとも じぶん たち の なかま でしょうか? これら は,こうふく の けいたい と しては そうたい てき に ひんじゃく な もの です.〉( " (Where do liberals place the source of their happiness? In self-fulfilment? In their fellow-men? These are relatively poor forms of happiness.) " )
(訳注後記 2・1 )「隣人とは誰か?」→福音書のキリストによる「善きサマリア人」のたとえ話を参照.

3 神は自己以上に愛されなければ為らない(かみ は じこ いじょう に あいされ なければ ならない)( "3 God must be loved above self, …" ).何故なら,あらゆる(無傷の)生き物は其其(其々)の遣り方で(なぜなら,あらゆる〈む きず の〉いきもの は それぞれ の やりかた で),自分達自身の善より共通の善を自然に愛すからです(じぶん たち じしん の ぜん より きょうつう の ぜんを しぜん に あいす から です)( "… because all (unspoiled) creatures, each in their way, naturally love the common good above their particular good, …" ).神はあらゆる物の中で(かみ は あらゆる もの の なか で),自然的且つ超自然的な共通の善です(しぜん てき かつ ちょう しぜん てき な きょうつう の ぜん です)( "… and God is the natural and supernatural common good of all." ).

4 霊的自己(=自己の霊魂)( "Spiritual self" )は霊的隣人(=隣人の霊魂《=隣人の心・気持ち》)( "spiritual neighbour" )より愛されなければならないれいてき じこ〈=じこ の れいこん《=じこ の こころ・きもち》〉は れいてき りんじん 〈=りんじん の れいこん《=りんじん の こころ・きもち》〉より あいされ なければ ならない)( "4 Spiritual self must be loved above spiritual neighbour, …" )(訳注後記4・1 , 4・2).何故なら,私は隣人より私自身に近い存在だからです(なぜなら,わたくしは りんじん より わたくし じしん に ちかい そんざい だから です)( "… because I am closer to me than I am to my neighbour …" ).従って,若し私が「霊的に」私自身を愛さないなら(=私自身の霊魂《=私自身の心・気持ち》に対して愛徳を持てないなら),私は隣人を愛せそうもありません〈=私は隣人の霊魂《=隣人の心・気持ち》に対して愛徳を持てそうもありません〉〈したがって,もし わたくしが「れい てきに」わたくし じしんを あいさない なら〈=わたくし じしん の れいこん《=わたくし じしん の りょうしん・きもち》 に たいして あいとく を もてない なら〉,わたくし は りんじん を あいせそう も ありません〈=わたくし は りんじん の れいこん《=りんじん の りょうしん・きもち》に たいして あいとく を もてそう も ありません〉( "… so that if I do not love me (spiritually), I am unlikely to love my neighbour." ).然しながら――(しかしながら――)( "But –" )
(訳注4・1)「霊的自己・霊的隣人(=自己や隣人の霊魂を指す)」=自己や隣人の真の人格的価値や良心(善良な気持ち)を意味する.)〈「れいてき じこ・れいてき りんじん=《じこ や りんじん の れいこん を さす》」=じこ や りんじん の まこと の じんかく てき かち や りょうしん《ぜんりょう な きもち》を いみ する.〉
(訳注後記4・2 )「自己の真の人格的価値」について.

5 霊的な隣人は肉体的な自己(=自己の身体的欲求)より愛されなければ為らない(れい てき な りんじん は にくたいてき な じこ より あいされ なければ ならない)( "5 Spiritual neighbour must be loved above corporal self, …" ).肉体的自己とは即ち(乃ち)私自身の肉体です(にくたい てき じこ とは すなわち わたくし じしんの にくたい です)( "… i.e., my own body, …" ).何故なら霊は肉体以前に来る物で在り(なぜなら れいは にくたい いぜん に くる もの であり)( "… because spirit comes before body, …" ),其の訳は神は至福に直接加わるのに対し(その わけ は かみは しふく に ちょくせつ くわわる のに たいし ),肉体は(霊魂を通して)間接的にだけ加わるものだからです(にくたいは〈れいこんを とおして〉かんせつ てき に だけ くわわる もの だから です)( "… because spirit partakes directly in bliss, while body partakes only indirectly (through spirit)." ).(訳注後記 5・1 ) 
(訳注後記 5・1)「肉の欲・目の欲・生活のおごり」〈新約聖書:使徒ヨハネによる第一の書簡・第2章16節〈12-17節を掲載〉を参照.

6 或る隣人達は,他の隣人達より愛されなければならない(ある りんじん たち は,ほか の りんじん たち より あいされ なければ ならない)( "6 Some neighbours must be loved more than others, …" ).何故なら,全ての隣人達は神に対する客観的な物と私に対する主観的な物という愛徳の両極への近さで,其其(其々)異なる存在だからです(なぜなら,すべて の りんじん たち は かみ に たいする きゃっかん てき な もの と わたくし に たいする しゅかん てき な もの と いう あいとく の りょうきょく への ちかさで,それぞれ ことなる そんざい だからです)( "… because they all vary in their closeness to one of the two poles of charity, objective to God, or subjective to me." ).諸諸の聖人達は神により近く,諸諸の隣人達は私により近い存在です(もろもろの せいじん たち は かみ に より ちかく,もろもろの りんじん たち は わたくし に より ちかい そんざい です)( "Saints are closer to God, neighbours to me." ).

7 客観的に言えば,諸聖人は諸親族(=親戚)より愛されなければならない(きゃっかん てき に いえば,しょ せいじん は しょ しんぞく〈=しんせき〉 より あいされ なければ ならない)( "7 Objectively, Saints will be loved more than relatives, …" ).だが,主観的には諸隣人の方が諸聖人より強く愛されるでしょう(だが,しゅかん てき には しょ りんじん の ほう が しょ せいじん より つよく あいされる でしょう)( "… but subjectively neighbours will be loved more intensely than Saints, …" ).何故なら,諸隣人の方が色々な形で諸聖人より近い存在だからです――「愛徳は家庭から始まる」です(なぜ なら,しょ りんじん の ほう が いろいろ な かたち で しょ せいじん より ちかい そんざい だから です――「あいとく は かてい から はじまる」です)( "… because in a variety of ways they are closer – “Charity begins at home.” " ).

8 基本的には,諸諸の血縁の親族(親戚)達は親族(親戚)で無い者より愛されなければならない(きほん てき には,もろもろ の けつえん の しんぞく〈しんせき〉たち は しんぞく〈しんせき〉 でない もの より あいされ なければ ならない)( "8 Essentially, blood-relatives will be loved above non-relatives, …" ).何故なら,血縁は自然な物で,固定的且つ実体的な物だからです(なぜなら,けつえん は しぜん な もの で,こてい てき かつ じったい てき な もの だから です)( "… because blood-ties are natural, fixed and substantial." ).但し,偶然的に血縁関係で結ばれた親族(親戚)以外の友情の絆の方がより強い事が有ります(ただし,ぐうぜん てき に けつえん かんけい で むすばれた しんぞく〈=しんせき〉いがい の ゆうじょう の きずな の ほう が より つよい こと が あります)( "Accidentally however, other ties of friendship can be more powerful." ).

9 客観的には,両親は子供達より愛されなければならない(きゃっかん てき には,りょうしん は こども たち より あいされ なければ ならない)( "9 Objectively, parents are to be loved more than children, …" ).何故なら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近い存在だからです(なぜなら,せいめい や おおく の りとく の げんせん として,りょうしん は かみ に より ちかい そんざい だから です)( "… because as sources of life and of many benefits, parents are closer to God, …" ).だが,主観的には,幾つかの理由で,子供達の方が私達により近い存在です(だが,しゅかん てき には,いくつか の りゆう で,こども たち の ほう が わたくし たち に より ちかい そんざい です)( "… but subjectively children can be closer to us for several reasons." ).

10 父親は母親より愛されなければならない.此れは字義通りです(ちちおや は ははおや より あいされ なければ ならない.これ は じぎ どおり です( "10 Father should be loved more than mother, as such, …" ).何故なら,私達に生命を与える時に其其(其々)が果たす役割を見れば(なぜなら,わたくし たち に せいめい を あたえる とき に それぞれ が はたす やくわり を みれば)( "… because by the part each plays in giving us life,ten …" ),父親は形式的で能動的で在るのに対し(ちちおや は けいしき てき で のうどう てき である のに たいし)( "… the father is formal and active whereas …" ),母親は物質的(母系的)( "… the mother is material ( maternal ) " )で受動的だからです(ははおや は ぶっしつ てき〈ぼけい てき〉で じゅどう てき だから です)( "… the mother is material ( maternal ) and passive …" )(聖トマスは,今日見られる様な変性した人間で無く,正常な状態の人間に就いて書きました)(せい とます は ,こんにち みられる ような へんせい した にんげん でなく,せいじょう な じょうたい の にんげん に ついて かきました)( " (St Thomas was writing about human beings who are normal and not de-natured as they are today). " ).

11 客観的には,両親は妻より愛される事に為る(きゃっかん てき には,りょうしんは つま より あいされる こと に なる)( "11 Objectively, parents are to be loved more than wife, …" ).何故なら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近いからです(なぜなら,せいめい や おおく の りとく の げんせん として,りょうしん は かみ に より ちかい から です)( "… because as sources of life and of many benefits they are closer to God, …" ).然し,主観的には,妻は夫と合って「(二人は)一体」である為,両親以上に愛される物です(しかし,しゅかん てき には,つま は おっと と あって「〈ふたり は〉いったい」で ある ため,りょうしん いじょう に あいされる もの です)( "… but subjectively she who is “one flesh” with her husband is to be loved the more." )(訳注後記11・1 )
(訳注後記11・1)エフェゾ人への書簡:第5章31節.〈全章《第1-6章》を掲載〉

12 客観的には,私達に善行を行う者は私達が善行を与える者より愛される事に為る(きゃっかん てき には,わたくし たち に ぜんこう を おこなう もの は わたくし たち が ぜんこう を あたえる もの より あいされる こと に なる)( "12 Objectively, somebody doing good to us is to be loved more than somebody we do good to, …" ).何故なら,彼等は私達に取って善の源泉だからです(なぜ なら,かれら は わたくし たち に とって ぜん の げんせん だから です)( "… because they are a source of good to us, …" ).然し,主観的な身近かさの為,私達は私達が善行を与える者をより愛する事が有ります(しかし,しゅかん てき な みぢか さ の ため,わたくし たちは わたくし たち が ぜんこう を あたえる もの を より あいする こと が あります)( "… but by subjective closeness we love the more somebody that we do good to, …" ).詰まり(詰り),「受け取るより与える方が恵まれている」と言う訳です(つまり,「うけとる より あたえる ほう が めぐまれて いる」と いう わけ です)( "… for various reasons, e.g . “It is more blessed to give than to receive.” " )(訳注後記12・1)
(訳注後記12・1)「受け取るより与える方が恵まれている」 新約聖書からの引用→使徒行録:第20章35節『…そうして働いて弱い人々を支え,主イエズス自ら言われた*³⁵〈受けるよりも与えることに幸せがある〉ということばを思い出さねばならぬことを,常にあなたたちに示しました」.』(使徒聖パウロのことば(〈注釈〉 *³⁵ このことばは福音書にはない.)

13 天国でも依然として愛徳の順序がある(てんごく でも いぜん として あいとく のじゅんじょ が ある).何にもまして神に対する愛が一番です(なに にも まして かみに たいする あい が いちばん です).また,神への近さに就いての隣人の客観的評価は,此の(地上の)世より天国での方が重視されます(また,かみ へ の ちかさ に ついて の りんじん の きゃっかん てき ひょうか は,この 〈ちじょう の〉よ より てんごく で の ほう が じゅうし されます)
13 There will still be an order of charity in Heaven, especially the loving of God above all. Also the objective grading of neighbour for his closeness to God will count more there than it does here on earth.

「人種差別」に就いては如何でしょうか?(「じんしゅ さべつ」に ついて は どう で しょうか?)何の人種が神若しくは私により近いでしょうか?(どの じんしゅ が かみ もしく は わたくし に より ちかい で しょうか?) 何の人種も同じとは限りません(どの じんしゅ も おなじ とは かぎり ません).「反ユダヤ主義」は? セム人は神の友人でしょうか,其れとも敵でしょうか?(「はん ゆだや しゅぎ」は?せむ じん は かみ の ゆうじん で しょうか,それとも てき〈=かたき〉で しょうか?)(訳注2・1 ) 「(女)性差別」 は?(「〈じょ〉せいさべつ」は?) 今日の女性達は私が神へ向かう時手助けに為るでしょうか,其れとも邪魔を為るでしょうか? (こんにち の じょせい たち は わたくし が かみ へ むかう とき てだすけ に なる でしょうか,それとも じゃま を する でしょうか?),「同性愛嫌悪」は如何でしょう? (「どうせい あい けんお」は どうでしょう?)「ホモ達」は神と如何両立するでしょうか?(「ほも たち」は かみ と どう りょうりつ する でしょうか?)
“Racism”? – which races are closer to God, or to me? They are not all the same. “Anti-semitism”? – are “Semites” friends or enemies of God? “Sexism”? – do today’s women help or hinder me on my way to God? “Homophobia”? – how do “homos” stand with God?

キリエ・エレイソン(主よ憐れみ給え). Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教



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解説無し


私たちの嘘の世界は往々にして「黒は白だ」と言います. 
神を尺度とするなら,カトリック教徒たちは正しく測ります. 
Often our world of lies says, “Black is white.” 
With God for measure, Catholics measure right. 

カトリック教会( "the Catholic Church" )は「人種差別」 “racism” についてどう考えるでしょうか? 「反ユダヤ主義」 “anti-semitism” については? 「性差別」 “sexism” については? あるいは「同性愛嫌悪」 “homophobia” については? ほかにも多々あります.誰もがほかの誰に対しても親切だと想定されているリベラルな世界で,私たちすべてが憎むべきような新しい階級の人々について「差別語禁止」が定期的に出てくるのは驚くべきことではないでしょうか? カトリック教会は,(その創立者であられる)神授の真の教師(=神の御独り子主イエズス・キリスト)( "its divine Master" )の聖教に従い私たちは隣人を愛し,誰も憎むべきでないと説いています(訳注2・2 ).だが教会は,私たちに仲間のすべてを無差別に愛せとは説いていません.偉大なカトリック教の神学者が私たちの神や人に対する愛にどのような順序をつけたか振り返ってみましょう.以下に紹介するのは聖トマス・アクィナス( "St Thomas Aquinas" )の「神学大全」( "Summa Theologiae" )に含まれる13か条の骨子,第2部第2巻,問26です.
What does the Catholic Church think of “racism”? Or of “anti-semitism”? Or of “sexism”? Or of “homophobia”? And so on and so on. In a liberal world where everybody is supposed to be nice to everybody, is it not surprising how “political correctness” seems to come up regularly with a new class of people for all of us to hate? The Catholic Church, following its divine Master, says we are to love our neighbour and to hate nobody, but it does not say we should love all our fellow-men indiscriminately. Let us see how a great Catholic theologian puts order into our love of God and man. Here are the bare bones of the 13 Articles of St Thomas Aquinas’ Summa Theologiae, 2a 2ae, Question 26:— 

1 愛徳 "Charity" には一つの真正の順序がある.なぜなら,それは超自然的至福における友情であり,その至福は神を出発点とするものだからです.あなたが出発点から物事をたどる場合,いつでも順番をつけるでしょう.(公教徒〈=カトリック教徒〉が重要な問題となるといかにただちに神に委ねるかに注目してください.リベラル派は自分たちの「親切さ」 “niceness”  の出発点について,まず何に委ねるのでしょうか?ナチスに対する憎悪でしょうか? 真面目な問いです…)
1 Charity does have an order, because it is a friendship in supernatural bliss, and that bliss has its starting-point in God, and wherever you have things following from a starting-point, you have an order. (Notice how the Catholic immediately refers a major question to God. What might liberals immediately refer to as the starting-point of their “niceness”? Hatred of Nazis? Seriously . . . ) 

2 愛徳においては隣人 "neighbour" より神を愛さなければならない.なぜなら,愛徳は至福における友情であり,私自身や私の隣人のためのあらゆる至福は神を源泉としているからです.(リベラル派は自らの幸福の源泉をどこに置いているのでしょうか? 自己達成感でしょうか? それとも自分たちの仲間でしょうか? これらは,幸福の形態としては相対的に貧弱なものです.)
2 Charity must love God above neighbour, because charity is a friendship in bliss, and all bliss for myself or my neighbour has its source in God. (Where do liberals place the source of their happiness? In self-fulfilment? In their fellow-men? These are relatively poor forms of happiness.) 

3 神は自己以上に愛されなければならない.なぜなら,あらゆる(無傷の)生き物はそれぞれのやり方で,自分たち自身の善より共通の善を自然に愛すからです.神はあらゆるものの中で,自然的かつ超自然的な共通の善です.
3 God must be loved above self, because all (unspoiled) creatures, each in their way, naturally love the common good above their particular good, and God is the natural and supernatural common good of all. 

4 霊的自己 "Spiritual self" は霊的隣人 "spiritual neighbour "より愛されなければならない.なぜなら,私は隣人より私自身に近い存在だからです.したがって,もし私が「霊的に」私自身を愛さないなら,私は隣人を愛せそうもありません.しかしながら――
4 Spiritual self must be loved above spiritual neighbour, because I am closer to me than I am to my neighbour so that if I do not love me (spiritually), I am unlikely to love my neighbour. But – 

5 霊的な隣人は肉体的な "corporal" 自己より愛されなければならない.肉体的自己とはすなわち私自身の肉体です.霊(霊魂)は肉体以前に来るものであり,霊は至福に直接加わるのに対し,肉体は(霊魂を通して)間接的にだけ加わるものです.
5 Spiritual neighbour must be loved above corporal self, i.e., my own body, because spirit comes before body, because spirit partakes directly in bliss, while body partakes only indirectly (through spirit).

6 ある隣人たちは,ほかの隣人たちより愛されなければならない.なぜなら,すべての隣人たちは神に対する客観的なものと私に対する主観的なものという愛徳の両極への近さで,それぞれ異なる存在だからです.聖人は神により近く,隣人は私により近い存在です.
6 Some neighbours must be loved more than others, because they all vary in their closeness to one of the two poles of charity, objective to God, or subjective to me. Saints are closer to God, neighbours to me. 

7 客観的に言えば,聖人は親戚より愛されなければならない.だが,主観的には隣人の方が聖人より強く愛されるでしょう.なぜなら,隣人の方が色々な形で聖人より近い存在だからです.「愛徳は家庭から始まる」です.
7 Objectively, Saints will be loved more than relatives, but subjectively neighbours will be loved more intensely than Saints, because in a variety of ways they are closer – “Charity begins at home.” 

8 基本的には,血縁の親戚は親戚でない者より愛されなければならない.なぜなら,血縁は自然なもので,固定的かつ実体的なものだからです.ただし,偶然的に血縁親戚以外の友情の絆の方がより強いことがあります.
8 Essentially, blood-relatives will be loved above non-relatives, because blood-ties are natural, fixed and substantial. Accidentally however, other ties of friendship can be more powerful. 

9 客観的には,両親は子供たちより愛されなければならない.なぜなら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近い存在だからです.だが,主観的には,いくつかの理由で,子供たちの方が私たちにより近い存在です.
9 Objectively, parents are to be loved more than children, because as sources of life and of many benefits, parents are closer to God, but subjectively children can be closer to us for several reasons. 

10 父親は母親より愛されなければならない.これは字義通りです.なぜなら,私たちに生命をあたえるときにそれぞれが果たす役割を見れば,父親は形式的で能動的であるのに対し,母親は物質的(母系的)で受動的だからです(聖トマスは、今日見られるような変性した人間でなく,正常な状態の人間について書きました).
10 Father should be loved more than mother, as such, because by the part each plays in giving us life, the father is formal and active whereas the mother is material ( maternal ) and passive (St Thomas was writing about human beings who are normal and not de-natured as they are today). 

11 客観的には,両親は妻より愛されることになる.なぜなら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近いからです.しかし,主観的には,妻は夫と「一心同体」であるため,両親以上に愛されるものです.
11 Objectively, parents are to be loved more than wife, because as sources of life and of many benefits they are closer to God, but subjectively she who is “one flesh” with her husband is to be loved the more. 

12 客観的には,私たちに善行を行う者は私たちが善行を与える者より愛されることになる.なぜなら,彼らは私たちにとって善の源泉だからです.しかし,主観的な身近かさのため,私たちは私たちが善行を与える者をより愛することがあります.つまり,「受け取るより与える方が恵まれている」というわけです.
12 Objectively, somebody doing good to us is to be loved more than somebody we do good to, because they are a source of good to us, but by subjective closeness we love the more somebody that we do good to, for various reasons, e.g . “It is more blessed to give than to receive.” 

13 天国でも依然として愛徳の順序がある.何にもまして神に対する愛が一番です.また,神への近さについての隣人の客観的評価は,この世より天国でのほうが重視されます.
13 There will still be an order of charity in Heaven, especially the loving of God above all. Also the objective grading of neighbour for his closeness to God will count more there than it does here on earth.

 「人種差別」についてはどうでしょうか? どの人種が神もしくは私により近いでしょうか? どの人種も同じとは限りません.「反ユダヤ主義」は? セム人は神の友人でしょうか,それとも敵でしょうか? 「性差別 は?」 今日の女性たちは私が神へ向かうとき手助けになるでしょうか,それとも邪魔をするでしょうか? 「同性愛嫌悪」はどうでしょう? 「ホモたち」は神とどう両立するでしょうか?
“Racism”? – which races are closer to God, or to me? They are not all the same. “Anti-semitism”? – are “Semites” friends or enemies of God? “Sexism”? – do today’s women help or hinder me on my way to God? “Homophobia”? – how do “homos” stand with God? 

キリエ・エレイソン.
Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教



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(訳注の続き)

(訳注後記 0・2 ) ① (i) 「イエズス」の御名の意義について→新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第1章18-25節を参照. 
(訳注後記 1・1)「神の十戒」を参照→「神の十戒」=「天主の十戒」 

『…イエズス・キリストの誕生は次のようであった.*¹⁸母のマリアはヨゼフのいいなずけであったが,同居する前に,聖霊によって身ごもっているのがわかった.*¹⁹夫のヨゼフは正しい人だったので,彼女を公に辱めようとせず,ひそかに離別しようと決心した.彼がこうしたことを思い煩っていたとき,突然夢の中に主の天使が現れて言った,「ダビドの子ヨゼフよ,ためらわずにマリアを妻として迎えよ.マリアは聖霊によって身ごもっている.彼女は子を生むからその子を*²¹イエズスと名づけよ.何故なら彼は罪から民を救う方だからである」.これらのことは預言者によって主が言われたみことばの実現であった,

「処女(おとめ)が身ごもって子を生む.その名はエンマヌエルと呼ばれる」.
その名は「神はわれわれとともにまします」という意味である.

目覚めたヨゼフは主の天使から命ぜられたとおりに妻を迎え入れた.*²⁵そしてマリアは*子を生んだ.だがヨゼフは彼女を知らなかった.彼はその子をイエズスと名づけた.』

(注釈)

イエズスの誕生1・18-25)

*¹⁸ 嫁はある期間夫の家に入らなかった.それでヨゼフとマリアも,すでに夫婦であったにもかかわらず一緒に住んでいなかった.二人の結婚は正当なものだった.福音史家もすぐあとでヨゼフを夫と呼んでいる.

*¹⁹ ヨゼフは律法を完全に守る「正しい人」であった.彼はマリアを訴える権利があった.しかしまた一方では彼女の貞潔を疑えなかったので,訴えて辱めるに忍びなかった.

*²¹ イエズスとは「ヤベ(神)が救う」という意味の名前である.

*²⁵ イエズスの超自然的誕生を強調する.それゆえマリアの処女性が守られたことを証する.マリアがイエズス誕生前も誕生後も処女であったことは,カトリック教会の信仰箇条である

*²⁵ ブルガタ訳には「初子」とあるが,これはたぶんルカ(2・7)による後世の書き入れであって,批判テキストにこのことばはない.ただ「子」とある.


(マテオ聖福音書内の該当箇所を追って掲載いたします.)


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訳注の掲載を続けます.
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本投稿記事・第425回エレイソン・コメンツ「愛徳の順序」 "CHARITY'S ORDER"( 2015年9月5日付)は2015年10月30日18時05分に掲載されました.
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2014年3月25日火曜日

348 抵抗方針 I 3/15

エレイソン・コメンツ 第348回 (2014年3月15日)

     今日,教会と世界(きょうかいと せかい)が破滅状態(はめつ じょうたい)にある中(なか)で,ほかの何(なに)にもまして,二つの主要な原則(ふたつの しゅような げんそく)が働(はたら)いています( "In today’s disastrous state of Church and world there are, amongst others, two central principles in play, …" ).ひとつは恒久的,根本的(こうきゅうてき・こんぽんてき)な原則であり,もうひとつは暫定的,副次的(ざんていてき・ふくじてき)な原則です( "… the one permanent and primary, the other temporary and secondary, …" ).だが,二つはともに中心的な働き(ちゅうしんてき な はたらき)をしています( "… but both are central." ).この二つの原則の相互作用(そうごさよう)が私たちの行動を導く(こうどうを みちびく)のに決定的(けっていてき)な働きをするはずです( "Their interplay should be decisive to guide our actions." ).

     恒久的な原則(こうきゅうてきな げんそく)とは「信仰(しんこう)がなければ神を喜ばす(かみを よろこばす)ことはできない」(新約聖書・使徒聖パウロのヘブライ人への書簡:第11章6節."Heb. XI, 6" )というものです( "The permanent principle is that “Without faith it is impossible to please God” (Heb. XI, 6)." ).なぜなら,人はすべて神から生(う)まれたのであり,死(し)にあたって神のもとへ行き,神の至福の姿(しふくの すがた)に接(せっ)することができるように使(つか)える自由意志(じゆう いし)を与(あた)えられているからです( "This is because all men come from God endowed with a free-will which they are meant so to use as to be able to go to God when they die, and enjoy the beatific vision of God for eternity." ).私たちが現世(げんせ)に存在(そんざい)するためにつけられたこの必須条件(ひっす じょうけん)は神がくださったきわめて寛容な提案(かんような ていあん)であり,私たちから見返り(みかえり)に求(もと)められるものがたとえ相対的(そうたい てき)に少(すく)なくても与えられるものです( "旧約聖書・イザイアの書:第64章4節."Is. LXIV, 4" )( "These obligatory terms of our earthly existence constitute an extremely generous offer on God’s part, given how relatively little is required on our part (Is. LXIV, 4), …" ).だが,私たちが先ず(まず)できることは神の存在を認める(かみの そんざいを みとめる)ことです( "… but the very least that we can do, a bare beginning, is to recognize his existence." ).私たちの身の回り(みの まわり)にあふれる神の創造物(=被造物)(そうぞうぶつ=ひぞうぶつ)( "his Creation" )の素晴(すば)らしさを考えれば,神の存在を認めないのは「許(ゆる)されない」ことであり( "新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第1章20節."Rom. I, 20" )( "Given the goodness of his Creation all around us, it is “inexcusable” not to recognize it (Rom. I, 20), …" ),したがって,私たちは神への初歩的(しょほてき)な信仰さえも持(も)たないようでは神を喜ばすことなどできません( "… and therefore without the most elementary faith in him it is impossible to please him. " ).

     暫定的な原則(ざんていてきな げんそく)とは,牧者が倒れ(ぼくしゃが たおれ),羊が散り散りに(ひつじが ちりぢりに)なったとき働く原則です(旧約聖書・ザカリアの預言書:第13章7節."Zach. XIII, 7" )( "The temporary principle is that the Shepherd is struck and the sheep are scattered (Zach.XIII, 7), …" ).これは私たちの主イエズス・キリストがゲッセマネの園(その)で引用された一文(いんよう された いちぶん)です(新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第26章31節."Mt. XXVI, 31" )( "… text quoted by Our Lord in the Garden of Gethsemane (Mt. XXVI, 31)." )(訳注後記1).人類(じんるい)が4千年(よん せん ねん)にわたって繰り返し(くりかえし)堕落し続けた後(だらく しつづけた あと)( "After 4,000 years of man’s repeated decadence, …" ),神は人間的な姿(にんげんてきな すがた)をおびて(この世に降りて来られて〈おりてこられて〉)(訳注後記2)教会を創設(きょうかいを そうせつ)され( "… God took a human nature to found a Church …" ),その後(ご)2千年(に せん ねん)にわたり諸々の人間(もろもろの にんげん)が自(みずか)らの霊魂(れいこん)を救(すく)えるようにしてくださいました( "… to enable men to save their souls for the last 2,000 years of men’s existence on this earth." ).初めの千年(はじめの せんねん)は堕落(だらく)が著(いちじる)しく食い止め(くい とめ)られました( "For the first thousand of those years the decadence was seriously interrupted, …" ).だが,数世紀(すう せいき)もすると堕落が再び始まり(ふたたび はじまり)( "… but after a few more centuries it picked up again …" ),第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)とともに神の教会の指導者たち本人(かみの きょうかい しどうしゃたち ほんにん),すなわち教会の命運(きょうかいの めいうん)を託(たく)された教皇たち(きょうこう たち)までが( "… to the point that with Vatican II the very leaders of God’s own Church, the Popes on whom it was designed to depend, …" )著しく堕落(いちじるしく だらく)してしまいました( "… became seriously infected by the decadence." ).その結果(けっか),霊魂(れいこん)をどう救(すく)うかについて神が示(しめ)された方法(ほうほう)を人々が理解(ひとびとが りかい)するのがますます難(むずか)しくなってしまいました( "Thereupon it became much more difficult for men to see how God meant them to save their souls." ).

     それ故(ゆえ),一方(いっぽう)では,客観的に言えば(きゃっかんてきに いえば)( "Therefore on the one hand, objectively speaking, …" ),霊魂救済(れいこん きゅうさい)についての恒久的諸真理(こうじょうてき しょ しんり)( "the permanent truths of salvation" )は公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちの堕落(だらく)にかかわらず少(すこ)しも変(か)わっておらず( "… the permanent truths of salvation have not been changed one little bit by the fall of the Conciliar Popes, …" ),救われるべき霊魂が一人(ひとり)でも依然(いぜん)として世に残っているなら(よに のこっているなら)(訳注・=最後の一人の霊魂の救済に至るまで),それら諸真理(しょ しんり)を守り続け(まもり つづけ)なければなりません( "… and these truths must be maintained if any souls at all are still to be saved." ).ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )の誇り(ほこり)は,堕落した聖職者(だらくした せいしょくしゃ)たちに対抗(たいこう)してこれらの諸真理(しんり)を守(まも)ることでしたが( "It was Archbishop Lefebvre’s glory to uphold those truths against the fallen churchmen and world, …" ),彼の後継者(かれの こうけいしゃ)たちは,そのような聖職者たちとその世界(せかい)に加(くわ)わるため,これら諸真理を傷(きず)つけ大司教の顔に泥を塗りました(かおに どろを ぬりました)(訳注・「…顔に泥を塗る」 "disgrace" =恥をかかせる〈はじを かかせる〉・面目を失わせた〈めんぼくを うしなわせる〉・名誉を傷つける〈めいよを きずつける〉)( "… while it is his successors’ disgrace to be compromising them for the sake of rejoining those churchmen and their world." ).

     他方(たほう),主観的に言えば(しゅかんてきに いえば),後継者(こうけいしゃ)たちがおこなった不名誉(ふ めいよ)は教皇たちの堕落によって,その偉大な真理(いだいな しんり)が一時的(いちじ てき)に輝きを失った(かがやきを うしなった)ため幾分(いくぶん)弱(よわ)められています( "On the other hand, subjectively speaking, that disgrace is mitigated by the temporary eclipse of those great truths, due to the fall of the Popes." ).司教(しきょう)たちでさえローマの司教(=教皇,"the Bishop of Rome" )が間違って見えても(まちがってみえても),それを見抜く(みぬく)のは容易(ようい)ではありません( "It is not easy even for bishops to see straight when the Bishop of Rome is seeing crooked." ).したがって,神の恩寵(かみの おんちょう) ― それ以外(いがい)のものではありません ― によって見抜く力(みぬく ちから)を得(え)ている人たちは( "It follows that those who by the grace of God – and by nothing else – see straight, …" ),必(かなら)ずしも自分の誤り(じぶんの ほこり)のためでなく混乱に陥った魂(こんらんに おちいった たましい)のために360度の思(おも)いやり( "a 360-degree compassion" )を持(も)たねばならないということになります( "… must have a 360-degree compassion for souls caught in a confusion not entirely their own fault." ).だから,もしジェームスが自分の霊魂を救う(じぶんの れいこんを すくう)ためには新教会(しん きょうかい)( "the Newchurch" )にとどまらねばならないと信(しん)じているなら,私には彼をそこからむりやり引っ張り出す必要(ひっぱりだす ひつよう)はないだろうと思えます( "Therefore, it seems to me, if James is convinced that to save his soul he must stay in the Newchurch, I need not hammer him to get out of it." ).もしクレアが聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" )内(ない)に深刻な問題(しんこくな もんだい)などなにもないと思(おも)いこまされているなら,私がそのようなことはないだろうと無理(むり)やり彼女を説得(かのじょを せっとく)する必要はないでしょう( "If Clare is persuaded that there is no grave problem within the Society of St Pius X, I need not ram down her throat why there is." ).そして,もしジョンが教皇の座(ざ)が空位(くうい)だと信(しん)じなければ自分の信仰(じぶんの しんこう)を保(たも)てないと考えるなら,私ができることはせいぜい,その考え方(かんがえ かた)は義務(ぎむ)ではないと彼に伝える(かれに つたえる)ことぐらいでしょう( "And if John can see no way to keep the Faith without believing that the See of Rome is vacant, I need urge upon him no more than that that belief is not obligatory." ).

     だが,羊(ひつじ)たちが散り散り(ちりぢり)になっている現代の状況下(げんだいの じょうきょう か)では( "Yet in all this scattering of the sheep, …" ),誰(だれ)かがお粗末な人(おそまつな ひと)たちに代(か)わって,客観的な真理(きゃっかんてきな しんり)を守り抜き(まもり ぬき),それを羊たちに提供(ていきょう)しなければなりません(新約聖書・聖ルカによる聖福音書:第19章40節."Lk. XIX, 40" )( "… somebody must maintain and make available to them the objective Truth if the poor stones are not to have to do it (Lk. XIX, 40), …" ).なぜなら,私たちの霊魂(れいこん)を救(すく)えるかどうかは,最低限(さいてい げん)でもその真理を求(もと)めるかどうかにかかっているからです( "… because upon at least the seeking of that Truth depends the saving of our souls." ).だが,私たちカトリック教徒(きょうと)は,真理を求める(しんりを もとめる)仲間の羊(なかまの ひつじ)たちが盲目(もうもく)であることに十分気を配る(じゅうぶん きを くばる)ようにしましょう( "However, let Catholics seek it with all due regard for the blindness of their fellow-sheep, …" ).少(すく)なくとも牧者(ぼくしゃ)が倒(たお)れているあいだは( "… for at least as long as the Shepherd remains struck." ).

     キリエ・エレイソン.

     要約:牧者が倒れて(ぼくしゃが たおれて)いるときは,救済の真理(きゅうさいの しんり)が破(やぶ)られないよう守(まも)らなければなりません( "Summary -- When the Shepherd is struck, the truths of salvation must be upheld inviolate, …" ). だが,「毛(け)を刈り取られた(かり とられた)羊(ひつじ)たちには風を和らげて(かぜを やわらげて)あげなければなりません.」( "… but "The wind must be tempered to the shorn lambs". Summary -- When the Shepherd is struck, the truths of salvation must be upheld inviolate, but "The wind must be tempered to the shorn lambs". " )


     リチャード・ウィリアムソン司教



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第3パラグラフの訳注1
「私たちの主イエズス・キリストがゲッセマネの園で引用された一文」
(新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第26章31節."Mt. XXVI, 31" )
について

マテオ第26章31節
EVANGELIUM SECUNDUM MATTÆUM XXVI, 31
LE SAINT ÉVANGILE DE JÉSUS-CHRIST
SELON SAINT MATTHIEU XXVI, 31
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST,
ACCORDING TO ST. MATTHEW XXVI, 31

『そのときイエズスは弟子たちに言われた,
「今夜,あなたたちはみな私についてつまずくだろう.
〈*私は牧者を打ち,そして羊の群れは散る〉と書かれているからだ.」』

"Tunc dicit illis Iesus:
Omnes vos scandalum patiemini in me, in ista nocte.
Scriptum est enim: Percutiam pastorem, et dispergentur
oves gregis."

"Alors Jésus leur dit:
Vous tout vous prendrez du scandale à mon sujet pendant cette nuit ;
car il est écrit : Je frapperai le pasteur, et les brebis
du troupeau seront dispersées."

"Then Jesus said to them:
All you shall be scandalized in me this night.
For it is written:
I will strike the shepherd, and the sheep
of the flock shall be dispersed."


この後,
30-35節「ペトロのつまずきの預言」
→36-46節「ゲッセマニにて」
→47-56節「イエズスの捕らわれ」へと続く.

(注釈)
*31節 旧約聖書・ザカリアの書13章7節.
弟子たちはイエズスをメシア(救世主)と信じて勝利の日を待っていた.
そのイエズスが何の抵抗もせず死んで行くことを見ての宗教的つまずき.


牧者〈ぼくしゃ〉
=救世主(メシア)・神の御独子イエズス・キリスト,
また,その代理者たるローマ教皇・諸々の司教.

羊〈ひつじ〉=諸々の司祭.


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第3パラグラフの訳注2

・「全能・唯一(ぜんのう・ゆいいつ)の
*三位一体(聖父+聖子+聖霊)の神」は
また「みことば(御言葉)」と呼ばれる.

・「みことば」は聖霊によって童貞聖マリアの御胎内に宿られ,
人間と同じ肉体を取ってお生まれになった.
(「みことばは人となられた」…新約聖書・ヨハネ聖福音書)

・人「聖マリア」の子となられた「みことば」たる
神の御子イエズス・キリストは,
人間と同じ様に苦難に満ちた人生を生き,
この世の悪〈闇〉の権力に迫害され,「十字架上の死に至るまで」,
神御自身の性質である「無限の愛と真理」に忠実に従った.

*「三位一体の神」=「聖父+聖子+聖霊(ちちと こと せいれい) の神」

・聖マリアは「神の御母」と呼ばれる.

・聖ヨハネ聖福音書,
「使徒信経」("CREDO"),
「御告げの祈り」("ÁNGELUS DÓMINI")
を参照.



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訳注の続きを追補いたします.

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