エレイソン・コメンツ 第445回 (2016年1月23日)
(解説無し)
悪は生き残るため善によりかかる.
かくして,真の教会を持たない新教会は存続しえない.
Upon the good, to exist depends the bad.
Thus Newchurch with no true Church can’t be had.
私は半年ほど前,司祭はいかなる場合でもカトリック信者が新式ミサ〈祭〉式( "the New Mass (NOM)" )に出席するのを禁じる義務があるとは限らないと言いました.私が言いたかったのは, NOM に出席してもなんら問題がないということではありません.NOM の典礼自体は第二バチカン公会議後に始まった人間中心の誤った礼拝の主役をなすものです.実際のところ,NOM を避ける義務の度合いは,信徒それぞれがその誤りを知っている度合いに比例して決まります.NOM は無数のカトリック信徒たちに自分でほとんど気づかないまま信仰を失わせてしまうことに大きな役割を果たしてきました.
The purpose of saying half a year ago that a priest is not obliged in every case to forbid a Catholic to attend the New Mass (NOM) was obviously not to say that the NOM is perfectly alright to attend. The NOM rite is, in itself, the central act of worship of the false man-centred religion of Vatican II, in whose wake it followed in 1969. In fact the obligation to stay away from the NOM is proportional to one’s knowledge of how wrong it is. It has enormously contributed to countless Catholics losing their faith, almost without realizing it.
だが,今日でも,カトリック教徒たちが NOM に騙されやすい要因が二つあります.第一の要因は,それがラテン語典礼を施すすべての教会に押し付けられたものだという点です.パウロ6世はあらゆることをして,それが1969年当時絶大と見えた教皇の全権に基づくものであるかのように見せかけました.今日でも,NOM は「普通の」典礼として通用しているのに対し,伝統的な不変のミサ聖祭は公的には「異例な」ものとされています.そのため,47年経った今でも,誠実なカトリック信徒はこれに従って NOM に出席しなければならないと感じているようです.もちろん,実際には,そのような義務などありえません.なぜなら,いかなる教会法もカトリック信徒に NOM に出席することで自らの信仰を危険にさらすことなど義務付けることはできないからです.NOM はことほどさように誤っています.
But there are two factors which even to this day have made it easy for Catholics to be deceived by the NOM. Firstly, it was imposed on the entire Latin-rite Church by what Paul VI did all he could to make look like the full force of his Papal authority, which in 1969 seemed immense. Still today the NOM passes for the “ordinary” rite, while the Mass of all time is officially discounted as the “extraordinary” rite, so that even 47 years later an honest Catholic can still feel obliged in obedience to attend the NOM. Of course in reality there can be no such obligation, because no Church law can oblige a Catholic to put his faith in danger, which he normally does by attending the NOM, such is its falsity.
第二の要因は, NOM がとりわけ1962年,1964年および1967年に巧みに用意された一連の段階的変化を通して徐々に紹介されてきたという点です.その結果,1969年に全面的な改革が実施された時,カトリック信徒たちは目新しいものを受け入れるようになっていました.事実,今日でも NOM の典礼は執行司祭に諸選択肢を与え, NOM を新しい人間中心主義的宗教の正真正銘の儀式として執り行うことも,多数の信徒を騙せるほど真のミサ聖祭に似通った儀式として執り行うこともできるようにしています.このため,新旧典礼にはさしたる違いはないように見えるほどです.もちろん,実際には,ルフェーブル大司教が常に述べていたように,ラテン語による新式典礼より現代語による古い(=旧い)典礼のほうがましです. NOM ではカトリック教のミサ聖祭の教理を減退させるか完全に歪曲させてしまうからです.
And secondly, the NOM was introduced gradually, in a series of skilfully graduated changes, notably in 1962, 1964 and 1967, so that the wholesale revolution of 1969 found Catholics ready for novelty. In fact even today the NOM rite includes options for the celebrant which make it possible for him to celebrate the NOM either as a full-blooded ceremony of the new humanist religion, or as a ceremony resembling the true Mass closely enough to deceive many a Catholic that there is no significant difference between the old and the new rites. Of course in reality, as Archbishop Lefebvre always said, better the old rite in a modern language than the new rite in Latin, because of the diminution or downright falsification of the Catholic doctrine of the Mass in the NOM.
この二つの要因,すなわち変革の公的押し付けと NOM の持つ選択的性格は,望んでカトリック信徒になりながらも信徒にとっての正しい道は毎週日曜日に NOM に出席することだといまだに思い込んでいる信徒が多数いるに違いないことを説明するには十分です.そして,この多数の信徒たちの中に,彼らにとって(主観的に)自らの(客観的な)義務と思えるものを守ることで信仰を育んでいるものが一人もいないと誰が断言できるでしょうか?神は信徒にとっての審判官です.だが,カトリック教の伝統を守る信徒たちの多くは自らの信仰が NOM への出席を禁じていることを理解するまでに,はたしてどれほど長い年月にわたって進んで NOM へ出席しなければならなかったのでしょうか?そして,もし NOM がその間に彼らの信仰を失わせたとしたら,彼らはどうやってカトリック教の伝統にたどりついたのでしょうか?典礼執行司祭が NOM の認める諸選択肢をどのように使い分けるかによっては,信仰を育む NOM のあらゆる要素がなくなるとは限りません.とくに,その秘蹟の奉献儀式(=聖別式= the Consecration )が有効な場合はそうです.この可能性は秘蹟における神学をわきまえている者なら誰も否定できないでしょう.
Moreover these two factors, the official imposition of the changes and their sometimes optional character intrinsic to the NOM, more than suffice to explain that to this day there must be multitudes of Catholics who want and mean to be Catholics and yet assume that the right way to be Catholics is to attend the NOM every Sunday. And who will dare say that out of these multitudes there are none who are still nourishing their faith by obeying what seems to them (subjectively) to be their (objective) duty? God is their judge, but for how many years did easily most followers of Catholic Tradition have to attend the NOM before they understood that their faith obliged them not to do so? And if the NOM had in all those years made them lose the faith, how would they have come to Catholic Tradition? Depending on how a celebrant uses the options in the NOM, not all the elements that can nourish faith are necessarily eliminated from it, especially if the Consecration is valid, a possibility which nobody who knows his sacramental theology can deny.
だが,人間性の持つ弱さや,それによりカトリック信徒たちに,その礼拝の中心的典礼に好意的な言葉をほとんど発せずに安易な新宗教を選ぶよう勧めるリスクがあるとしても,新教会の特性に好意的な言葉が発せられるのは何故でしょうか?これには少なくとも二つの理由があります.初めに2番目の理由を言えば,伝統主義運動の枠外にいる信徒から出てくるかもしれない偽善的な軽蔑をかわすためです.そして,第1の理由は「教会空位主義」( “ecclesiavacanism” ) とでも称されるもの,すなわち新教会にはカトリック教的なものが一切残っていないという考え方を退けるためです.理論的には,新教会は全くの腐敗です.だが,実際面では,腐敗はまだ腐っていないが,これから腐るかもしれない何かがなければ存在できません.あらゆる寄生者は宿主を必要とします.そして,もしこの宿主,すなわち真の教会が完全になくなってしまったら,地獄の門がそれに打ち勝つことになるでしょうか?それはありえないことです(使徒聖マテオによる聖福音書・第16章18節)(訳注後記5・1).
However, given the weakness of human nature and so the risk of encouraging Catholics to go with the new and easy religion by the least word said in favour of its central rite of worship, why say a word in favour of any feature of the Newchurch? For at least two reasons. Secondly, to ward off potentially pharisaical scorn of any believers outside of the Traditional movement, and firstly to ward off what is coming to be called “ecclesiavacantism,” namely the idea that the Newchurch has nothing Catholic left in it whatsoever. In theory the Newchurch is pure rot, but in practice that rot could not exist without something not yet rotted still being there to be rotted. Every parasite needs a host. Also, had this particular host, the true Church, completely disappeared, would not the gates of Hell have prevailed against it? Impossible (Mt.XVI, 18).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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本投稿記事・第445回エレイソン・コメンツ「究極の難題 I」(2016年1月23日付)/ELEISON COMMENTS CDXLV (Jan. 23, 2016) : "CONUNDRUM SUPREME I" (解説無し)は2016年3月8日05時00分に掲載されました.
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エレイソン・コメンツ 第445回 (2016年1月23日)
(解説付)
悪は生き残る為善に寄り掛かる(倚り懸る).
(あく は いき のこる ため ぜん に より かかる.)
( "Upon the good, to exist depends the bad. " )
斯く為て,真の教会を持たない新教会は存続為得ない.
(かくして,まこと の きょうかい を もたない
しん きょうかい は そんぞく しえない.)
( "Thus Newchurch with no true Church can’t be had. " )
私は半年程前,司祭は如何なる場合でも公教(カトリック教)信者が新式ミサ聖祭(訳注後記 2・1) .以下,「新(式)ミサ聖祭」を “NOM” と記す.)(訳注後記2・2 … “NOM” について.)に出席為るのを禁じる義務が有るとは限ら無いと言いました(わたくし は はんとし ほど まえ,しさい は いかなる ばあい でも かとりっく しんじゃ が しんしき みさ せいさい〈やくちゅう に てん いち.いか,NOM と しるす.〉に しゅっせき する のを きんじる ぎむ が ある とは かぎらない と いい ました).私が言いたかったのは,NOM に出席為ても何等問題が無いと言う事では有りません(わたくしがいいたかったのは,しんしき みさ てんれい に のっとった みさ せいさい〈= NOM 〉に しゅっせき しても なんら もんだい が ない と いう こと では ありません)( "The purpose of saying half a year ago that a priest is not obliged in every case to forbid a Catholic to attend the New Mass (NOM) was obviously not to say that the NOM is perfectly alright to attend." ).NOM の典礼自体は,一九六九(〈壱〉千九百六十九)年に第二バチカン公会議後に始まった人間中心の誤った礼拝の主役を為す物です(NOM の てんれい じたい は,〈いっ〉せん きゅうひゃく ろくじゅう く ねん に だい に ばちかん こう かいぎ ご に はじまった にんげん ちゅうしん の あやまった れいはい の しゅやく を なす もの です)( "The NOM rite is, in itself, the central act of worship of the false man-centred religion of Vatican II, in whose wake it followed in 1969." ).実際の所(処),NOM を避ける義務の度合いは,信徒其其(其々)其の誤りを知って居る度合いに比例為て決まります(じっさいのところ,しん しき みさ てんれい に のっとった みさ せいさい〈=NOM〉を さける ぎむ の どあい は,しんと それぞれ が その あやまり を しって いる どあい に ひれい して きまり ます)( "In fact the obligation to stay away from the NOM is proportional to one’s knowledge of how wrong it is." ).NOM は無数の公教(カトリック教)信徒達に自分で殆(ん)ど気付か無い儘(侭)信仰を失わせて仕舞う(終う)為まう事に大きな役割を果たして来ました(NOM は むすう の かとりっくしんと たち に じぶん で ほとんど きづかない まま しんこう を うしなわせて しまう こと に おおきな やくわり を はたして きました)( "It has enormously contributed to countless Catholics losing their faith, almost without realizing it." ).
だが,今日でも,公教徒(カトリック教徒)達が NOM に騙され易い要因が二つ有ります(だが,こんにちでも,こうきょうと〈かとりっくきょうと〉たち が NOM に だまされ やすい よういん が ふたつ あり ます)( "But there are two factors which even to this day have made it easy for Catholics to be deceived by the NOM." ).第一の要因は,其れがラテン語(羅甸語・拉丁語)典礼を施す全ての教会に押し付けられた物だと言う点です(だいいち の よういん は,それ が らてんご てんれい を ほどこす すべて の きょうかい に おしつけ られた もの だ と いうてん です)( "Firstly, it was imposed on the entire Latin-rite Church…" ).パウロ六世(6世)はあらゆる事を為て(ぱうろろくせいはあらゆることをして),其れが一九六九(1969,千九百六十九,壱千九百六拾九)年当時(それ が せん きゅう ひゃく ろく じゅう きゅう ねん とうじ)絶大と見えた教皇の全権に基づく物で有るかの様に見せ掛けました(ぜつだい と みえた きょうこう の ぜんけん に もとづく もの で ある か の よう に みせ かけ ました)( "…by what Paul VI did all he could to make look like the full force of his Papal authority, which in 1969 seemed immense." ).今日でも,NOM は「普通の(=通例の)」典礼として通用為て居るのに対し(こんにち でも,NOM は,「ふつう の〈=つうれい の〉」てんれい と して つうよう して いる のに たいし)伝統的な不変の典礼は公的には「異例な」物とされて居ます(でんとう てき な ふへん の てんれい は こう てき に は 「いれい な」 もの と されて います)( "Still today the NOM passes for the “ordinary” rite, while the Mass of all time is officially discounted as the “extraordinary” rite, …" ).其の為,四十七(47,四七,四十七,四拾七)年経った今でも(その ため,よんじゅう なな〈しち〉ねん たった いま でも),誠実な公教徒(=カトリック信徒)は此れに従ってNOM に出席為なければ為らないと感じて居る様です(せいじつ な こう きょうと〈=かとりっく しんと〉は これ に したがって NOM に しゅっせき しなければ ならない と かんじて いる よう です)( "…so that even 47 years later an honest Catholic can still feel obliged in obedience to attend the NOM." ).勿論,実際には,其の様な義務等(抔)有り得ません(もちろん,じっさい には,その よう な ぎむ など あり え ません)( "Of course in reality there can be no such obligation, …" ).何故なら,如何為る教会法も一公教徒(=カトリック信徒)に(なぜなら,いかなる きょうかい ほう も いち こう きょうと〈かとりっく しんと〉に)( "… because no Church law can oblige a Catholic …" ) NOM に出席為る事で自らの信仰を危険に晒す事等(抔)(NOM に しゅっせき する こと で みずから の しんこう を きけん に さらす こと など)義務付ける事は出来ない柄です(ぎむ づける こと は できない から です)( "… to put his faith in danger, which he normally does by attending the NOM, …" ).NOM は事程左様に誤って居ます(NOM は ことほどさよう に あやまって います)( "… such is its falsity." ).
第二の要因は,NOM が取(り)分け千九百六十二年(1962)年(壱〈一〉千九百六拾弐〈二〉年・壱九六弐年),(壱・一)千九百六十四(1964)年および(壱・一)千九百六十七(1967)年に巧みに用意された一連の段階的変化を通して徐々に紹介されて来たと言う点です(だい に の よういん は,NOM が とりわけ せん きゅうひゃく ろくじゅう に ねん および せん きゅうひゃく ろくじゅう なな〈しち〉ねん に たくみ に ようい された いちれん の だんかい てき へんか を とおして じょじょ に しょうかい されて きた と いう てん です)( "And secondly, the NOM was introduced gradually, in a series of skilfully graduated changes, notably in 1962, 1964 and 1967, …" ).其の結果,千九百六十四(1964)年に全面的な改革が実施された時,公教徒(カトリック信徒)達は目新しい物を受け入れる様に成って居ました(その けっか,〈いっ〉せん きゅうひゃく ろくじゅう きゅう〈く〉ねん に ぜんめん てき な かいかく が じっし された とき,こう きょうと〈かとりっく しんと〉たち は めあたらしい もの を うけ いれる よう に なって いました)( "… so that the wholesale revolution of 1969 found Catholics ready for novelty." ).事実,今日でも NOM の典礼は執行司祭に選択肢を与え(じじつ,こんにち でも NOM の てんれい は しっこう しさい に せんたく し を あたえ)( "In fact even today the NOM rite includes options for the celebrant …" ),NOM を新しい人間中心主義的宗教の正真正銘の儀式と為て執り行う事も(NOM を あたらしい にんげん ちゅうしん しゅぎ てき しゅうきょう の しょうしん しょうめい の ぎしき と して とりおこなう こと も)( "… which make it possible for him to celebrate the NOM either as a full-blooded ceremony of the new humanist religion, …" ),多数の信徒を騙せる程真の典礼に似通った儀式と為て執り行う事も(たすう の しんと を だませる ほど まこと の てんれい に にかよった ぎしき と して とりおこなう こと も)出来る様に為て居ます(できる よう に して います).此の為,新旧典礼には然したる違いは無い様に見える程です(この ため,しん きゅう てんれい には さしたる ちがい は ない よう に みえる ほど です)( "… which make it possible for him to celebrate the NOM either as a full-blooded ceremony of the new humanist religion, or as a ceremony resembling the true Mass closely enough to deceive many a Catholic that there is no significant difference between the old and the new rites." ).勿論,実際には,ルフェーブル大司教が常に述べて居られた様に,羅甸(ラテン・羅丁)語に依る新〈式〉典礼より現代語に依る旧い(=古い)典礼の方が増しです(もちろん,じっさいには,るふぇーぶるだいしきょうがつねにのべておられたように,らてんごによるしん〈しき〉てんれいよりげんだいごによるふるいてんれいのほうがましです)( "Of course in reality, as Archbishop Lefebvre always said, better the old rite in a modern language than the new rite in Latin, …" ). NOM では公教(=カトリック教)の典礼原則を減退させるか完全に歪曲させて終う(仕舞う・了う・蔵う)柄です(NOM では こう きょう〈かとりっく きょう〉の てんれい げんそく を げんたい させる か かんぜん に わいきょく させて しまう から です)( "… because of the diminution or downright falsification of the Catholic doctrine of the Mass in the NOM." ).
此の二つの要因,即ち(則ち・乃ち)変革の公的押し付けと NOM の持つ選択的性格は(この ふたつの よういん,すなわち へんかく の こう てき おしつけ と NOM の もつ せんたく てき せいかく は)( "Moreover these two factors, the official imposition of the changes and their sometimes optional character intrinsic to the NOM, …" ),望んで公教徒(=カトリック信徒)に成り(為り)乍らも信徒に取っての正しい道は毎週の主日(=毎週日曜日)に NOM に出席為る事だと未だに思い込んで居る信徒が多数居るに違い無い事を説明為るには十分です(のぞんで こう きょうと〈=かとりっく しんと〉に なり ながら も しんと に とって の ただしい みち は まい しゅう の しゅじつ〈=まい しゅう にちようび〉に NOM に しゅっせき する こと だ と いまだ に おもいこんで いる しんと が たすう いる に ちがい ない こと を せつめい する には じゅうぶん です)( "… more than suffice to explain that to this day there must be multitudes of Catholics who want and mean to be Catholics and yet assume that the right way to be Catholics is to attend the NOM every Sunday. " ).そして(然うして),此の多数の信徒達の中に(そして,この たすう の しんと たち の なか に),彼等に取って(主観的に)自らの(客観的な)義務と思える物を守る事で信仰を育んで居る者が一人も居ないと誰が断言出来るでしょうか?(かれら に とって〈しゅかん てき に〉みずから の〈きゃっかん てき な〉ぎむ と おもえる もの を まもる こと で しんこう を はぐくんで いる もの が ひとり も いない と だれ が だんげん できる でしょうか?)( "And who will dare say that out of these multitudes there are none who are still nourishing their faith by obeying what seems to them (subjectively) to be their (objective) duty? " )神は信徒に取っての審判官です(かみ は しんと に とって の しんぱん かん です)( "God is their judge, …" ).だが,公教(=カトリック教)の伝統を守る信徒達の多くは(だが,こうきょう〈=かとりっくきょう〉のでんとうをまもるしんとたちのおおくは)自らの信仰が NOM への出席を禁じて居る事を理解為る迄までに(みずからのしんこうが NOM へのしゅっせきをきんじていることをりかいするまでに),果(た)して何れ程長い年月に亘って進んで NOM へ出席為なければ為ら無かったのでしょうか?(はたしてどれほどながいねんげつにわたってすすんで NOM へしゅっせきしなければならなかったのでしょうか?)( "… but for how many years did easily most followers of Catholic Tradition have to attend the NOM before they understood that their faith obliged them not to do so? " )然(う)して,若し NOM が其の間に彼等の信仰を失わせたと為たら(そ〈う〉して,もし NOM がそのかんにかれらのしんこうをうしなわせたとしたら),彼等は如何やって公教(=カトリック教)の伝統に辿り着いたのでしょうか?(かれらはどうやってこうきょう〈=かとりっくきょう〉のでんとうにたどりついたのでしょうか?)( "And if the NOM had in all those years made them lose the faith, how would they have come to Catholic Tradition? " ) 典礼執行司祭が NOM の認める選択肢を何の様に使い分けるかに依っては( "Depending on how a celebrant uses the options in the NOM, …" )(てんれいしっこうしさいが NOM のみとめるせんたくしをどのようにつかいわけるかによっては),信仰を育む NOM のあらゆる要素が無く為るとは限りません( "… not all the elements that can nourish faith are necessarily eliminated from it, …" )(しんこうをはぐくむ NOM のあらゆるようそがなくなるとはかぎりません) .特に,其の秘蹟の奉献儀式(=聖別式= the Consecration )が有効な場合は然うです( "… especially if the Consecration is valid, …" )(とくに,その ひせき の ほうけん ぎしき〈=せいべつ しき= the Consecration 〉が ゆうこう な ばあい は そう です).此の可能性は秘蹟における神学を弁えて居る者なら誰も否定出来ないでしょう(この かのう せい は ひせき に おける しんがく を わきまえて いる もの なら だれ も ひてい できない でしょう)( "… a possibility which nobody who knows his sacramental theology can deny." ).
だが,人間性の持つ弱さや,其れにより公教徒達(=カトリック教信徒達)に(だが,にんげん せい の もつ よわさ や,それ に より こう きょうと たち〈=かとりっく きょう しんと たち〉に)其の礼拝の中心的典礼に好意的な言葉を殆(ん)ど発せずに安易な新宗教を選ぶ様勧めるリスク(=危険)が有ると為ても(その れいはい の ちゅうしん てき てんれい に こうい てき な ことば を ほとんど はっせず に あんい な しん しゅうきょう を えらぶ よう すすめる りすく〈=きけん〉が ある と しても)( "However, given the weakness of human nature and so the risk of encouraging Catholics to go with the new and easy religion by the least word said in favour of its central rite of worship, …" ),新教会の特性に好意的な言葉が発せられるのは何故でしょうか?(しん きょうかい の とくせい に こうい てき な ことば が はっせ られる の は なぜ でしょうか?)( "… why say a word in favour of any feature of the Newchurch? " ) 此れには少なくとも二つの理由が有ります(これ に は すくなく とも ふたつ の りゆう が あり ます)( "For at least two reasons." ).初めに二番目の理由を言えば(はじめ に にばん め の りゆう を いえば),伝統主義運動の枠外に居る信徒から出て来るかも知れない偽善的な軽蔑を躱す為です(でんとう しゅぎ うんどう の わくがい に いる しんと から でて くる かも しれない ぎぜん てき な けいべつ を かわす ため です)( "Secondly, to ward off potentially pharisaical scorn of any believers outside of the Traditional movement, …" ).然為て,第一の理由は「教会空位主義」( "ecclesiavacanism" )とでも称される物(そして,だい いち の りゆう は「きょうかい くうい しゅぎ」と でも しょう される もの),即ち(乃ち)新教会には公教(=カトリック教)的な物は一切残って居ない(すなわち しん きょうかい に は こう きょう〈=かとりっく きょう〉てき な もの はいっさい のこって いない)と言う考え方を退ける為です(と いう かんがえ かた を しりぞける ため です)( "… and firstly to ward off what is coming to be called “ecclesiavacantism,” namely the idea that the Newchurch has nothing Catholic left in it whatsoever." ).理論的には,新教会は全くの腐敗です(りろん てき に は,しん きょうかい は まったく の ふはい です)( "In theory the Newchurch is pure rot, …" ).だが,実際面では,腐敗は未だ腐って居ないが(だが,じっさい めん では,ふはい は まだ くさって いない が),此れ柄腐るかも知れない何かが無ければ存在出来ません(これ から くさる かも しれない なにか が なければ そんざい でき ません)( "… but in practice that rot could not exist without something not yet rotted still being there to be rotted." ).あらゆる寄生者は宿主を必要と為ます(あらゆる きせい しゃ は やどぬし を ひつよう と します)( "Every parasite needs a host." ).然為て,若し此の宿主,即ち(乃ち)真の教会が完全に無く為って終ったら(仕舞ったら)(そして,もし この やどぬし,すなわち まこと の きょうかい が かんぜん に なく なって しまった ら)( "Also, had this particular host, the true Church, completely disappeared, …" ),地獄の門が其れに打ち勝つ事に成る(為る)でしょうか?(じごく の もん が それ に うち かつ こと に なる で しょう か?)( "… would not the gates of Hell have prevailed against it? " ) 其れは有り得ない事です(それ は あり え ない こと です)( "Impossible.(新約聖書:使徒聖マテオによる(イエズス・キリストの)聖福音書第十六章(一六章)十八節(一八節))(しん やく せい しょ:しと せい まてお に よる〈いえずす・きりすとの〉せい ふくいん しょ だい じゅうろく しょう じゅうはっ せつ)( " (Mt.XVI, 18) " ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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訳注 2・1
「新式(新形式)ミサ」「新ミサ(新式ミサ)祭式(式)」について:
第二バチカン公会議で規定された新形式の典礼に則って(のっとって)(=則して〈そくして〉)執行される(=執り行われる)ミサ式』を意味する.「新しいミサ」とも呼ばれる.
訳注 2・2
“NOM” について :
「新(形)式ミサ」「新(式)ミサ(祭)式」「新しいミサ」のラテン語原呼称 “NOVUS ORDO MISSAE” の略称.
訳注 5・1
新約聖書の引用:
聖マテオによる聖福音書
聖書‐バルバロ神父による(ラテン語ウルガタ訳からの)邦訳版:新約聖書‐聖マテオによるイエズス・キリストの聖福音書:第十六(16)章十八(18)節(下線部)(1節から28節まで全章を掲載)
THE HOLY BIBLE, TRANSLATED FROM THE LATIN VULGATE-THE NEW TESTAMENT, RHEIMS VERSION : THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. MATTHEW XVI, 18
LA SAINTE BIBLE SELON LA VULGATE-LE NOUVEAU TESTAMENT : LE SAINT ÉVANGILE DE JÉSUS-CHRIST SELON SAINT MATTHIEU XVI, 18
BIBLIA SACRA VULGATAE EDITIONIS, NOVUM TESTAMENTUM-VULGATÆ EDITIONIS, IUXTA PP. CLEMENTIS VIII DECRETUM : EVANGELIUM SECUNDUM MATTHÆUM XVI, 18
St. Matthew, one of the twelve Apostles, who from being a publican, that is, a tax gatherer, was called by our Saviour to the Apostleship: in that profession his name was Levi (Luke 5:27; Mark 2:14). He was the first of the Evangelists that wrote the Gospel, and that in Hebrew or Syro-Chaldaic which the Jews in the Palestine spoke at that time. The original is not now extant; but, as it was translated in the time of the Apostles into Greek, that version is of equal authority. He wrote about six years after our Lord’s Ascension. (THE NEW TESTAMENT-RHEIMS VERSION 〈LORETO PUBLICATIONS〉 )
(邦訳)
・聖マテオは,私たちの救主(すくいぬし)( Saviour =キリスト Christ =メシア Messiah)神の御独り子イエズスに召し出されて弟子となった十二(12)使徒の一(1)人で,当時はレビ Levi という名の収税吏(しゅうぜいり)職人だった.
・彼は四(4)福音史家たちのうち最初に福音書を執筆した.聖マテオは,当時パレスチナ地方のユダヤ人が話していたヘブライ語またはシリア=カルディア語(=〈西方〉アラム語)“Syro-Chaldaic” によって福音書を記述した.
・最初の直筆のものは現存していないが,使徒の時代にギリシャ語に翻訳され,ギリシャ語版は原著と同等の権威を持つものと見なされている.
・聖マテオは私たちの主イエズスが昇天された約6年後から聖福音書の執筆を始めた.
(補足説明)
①・聖マテオは,当時(新約聖書の時代)パレスチナ地方の現シリア国西部に当たる場所で,当地のヘブライ人(ユダヤ人)(イエズス御自身も含む)が話していたアラム語(=ヘブライ語+シリア語+カルディア語=“Syro-Chaldaic or Aramæn (Aramaic) で,救世主また生ける神の御子イエズスの最初の福音書を執筆した.
②この原アラム語版聖福音書は,その後エジプトでギリシャ語に翻訳された.このギリシャ語版はギリシャ正教会の聖典となり,後にローマ帝国が東西に分裂して,東ローマ帝国(ビザンティン帝国)から東欧州や亜細亜州諸国にギリシャ正教が伝播(でんぱ・でんぱん)し(東方教会→ロシアや東欧各地の正教会,またシリア→中国方面へ景教会として伝播する等),西ローマ帝国からは,イエズス御自身によって救世主(キリスト)の代理者に任命された使徒聖ペトロの後継者すなわちローマ教皇(=ローマの司教)の下,公教(=カトリック教)として西欧州諸国に拡がった.
・イエズスはユダヤ地方のエルサレムや生まれ故郷のベトレヘム(ダビド王の町と言われる)からはるか北方に位置するガリラヤ地方のナザレトという一寒村の出身だったので,ナザレトのイエズスと呼ばれるようになった.「救(世)主 Saviour =キリスト Christ =メシア Messiah」とは「油注がれた者(=〈唯一の真の〉神に聖別された者) anointed one 」の意である.
・ナザレトは「芽の町」の意である.イエズスはダビドの株から生える新芽であったから,預言者から「ネゼル」(芽)と言われた.
もう一つの解釈,ナザレトは一寒村にすぎなかった.預言者は,ヤベ(神)のしもべ(メシア)が軽蔑の的となるであろうと告げていたので,この意味で,「ナザレ人と呼ばれるであろう」と言った.
(バルバロ神父訳新約聖書:聖マテオ聖福音書:第2章23節の注釈より抜粋)
・救世主は,真の信仰によって救世の御業(受難・十字架上の死・復活)を果たされ,
・原罪の呪縛=「宇宙と地上における悪魔と諸諸の悪の霊」*(注・後記)が支配する人生(身体・肉だけに限定される霊魂無しの地上の生命)に打ち勝たれ,
・墓から甦(よみがえ)られ,原罪による悪魔の呪縛である「死」を克服されて,天地の諸王の王となられ,御父なる真の神の右の座につき,天地を永遠に支配される.
・十字架刑での名札→「 I N R I (IESVS NAZARENVS REX IEVDÆORVM) (ラテン語=古代ローマ帝国における公用語=ユダヤ人の・王・ナザレトの・イエズス」と,ヘブライ語・ラテン語・ギリシア語で書かれた.(聖ヨハネ聖福音書19:19,20)
・当時の「ユダヤ人」とは,今日では「救世主(キリスト)信者」を指す.
・原罪を悔い改め,洗礼の秘蹟を受け,復活された救世主を信じる者は,永遠に生きる.(訳注後記・洗礼の意義について)
*(注)悪魔は初め,唯一の創造主で在られる真の神の創造による,最も美しく優秀な大天使だった.しかし,被造物に過ぎない身分をわきまえず,自分の美と能力を誇って驕(おご)り高ぶり,神を超えようとする傲慢(ごうまん)の罪を犯して神に背いた為に,神によって天から地に落とされた.
(訳注後記・聖書上の根拠)
・人の命(いのち)は肉体だけに限定されるのではない.
真の信仰は,霊魂における真の命である.→「人はパンだけで生きるのではない.神の口から出るすべてのことば(=真の信仰)によって生きる」(聖マテオ聖福音書:4・4 )
・地上の肉の世界を超越し復活した者は,復活された救世主の天の王国で,不滅の身体と霊魂を授かり,永遠に生きる(新約聖書・聖ルカによる聖福音書:第24章全章,特に第38-43節を参照).
→(新約聖書・聖ルカによる聖福音書:第24章第38-43節)
第5部 復活・出現・昇天
使徒たちへの出現(24・36‐43)
『36 ……イエズスは彼らの中に立ち,「あなたたちに平和」と言われたので,
37 彼らは驚き恐れ,幽霊を見ているのだと思ったが,
38 イエズスは言われた,「なぜ取り乱すのか.なぜ心に疑いを起こすのか.
39 私の手と足を見よ.私自身だ.触れて確かめよ.あなたたちの見ている私のこんな肉と骨は霊にはない」.
40 そう言って,手と足を見せられると,
41 彼らは喜びのあまり信じられず,驚いていると,イエズスは,「ここに何か食べ物があるか」と言われた.
42 彼らが焼いた魚一片(きれ)(と一房の蜂蜜)を差し出すと,
43 イエズスはそれを取り,彼らの前で食べ,(残りを取って彼らに与えられた).』
私たちの主,救世主(=キリスト)は御復活後こう仰せられた,
『「18 私には天と地のいっさいの権威が与えられている.
19 行け,諸国の民に教え,聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)の名によって洗礼を授け,20 私が命じたことをすべて守るように教えよ.私は世の終わりまで常におまえたちとともにいる」.』
“18 And Jesus coming, spoke to them, saying: All power is given to me in heaven and in earth. 19 Going therefore, teach ye all nations; baptizing them in the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Ghost.
20 Teaching them to observe all things whatsoever I have commanded you: and behold I am with you all days, even to the consummation of the world”.
(つづく…)
聖マテオによる聖福音書:第16章
天からのしるし(16・1-4)
『1 イエズスを試そうとして,ファリザイ人とサドカイ人がやってきて,天からのしるしを示してくださいと頼んだ.
“1 AND there came to him the Pharisees and Sadduccees tempting: and they asked him to shew them a sign from heaven.
“1 Les pharisiens et les sadducéens abordèrent Jésus et, pour l'éprouver, lui demandèrent de leur faire voir un signe venant du ciel.
“1 Et accesserunt ad eum Pharisæi, et Sadducæi tentantes: et rogaverunt eum ut signum de cælo ostenderet eis.
2 イエズスは答えられた,「日暮れになると,〈空が真っ赤だから晴天になろう〉と言うし,
2 But he answered and said to them: When it is evening, you say, It will be fair weather, for the sky is red.
2 Jésus leur répondit: Le soir, vous dites: Il fera beau, car le ciel est rouge; et le matin:
2 At ille respondens, ait illis: Facto vespere dicitis: Serenum erit, rubicundum est enim cælum.
3 明け方になると,〈空が赤黒くて曇っているから今日は天気が悪いだろう〉と言う.あなたたちは空のけしきを見分けられながら,*時のしるしを見分けられぬ.
3 And in the morning: To day there will be a storm, for the sky is red and lowering. You know then how to discern the face of the sky: and can you not know the signs of the times?
3 Il y aura de l'orage aujourd'hui, car le ciel est d'un rouge sombre. Vous savez discerner l'aspect du ciel, et vous ne pouvez discerner les signes des temps.
3 Et mane: Hodie tempestas, rutilat enim triste cælum.
4 *邪悪な不義の代はしるしを求めるけれどもヨナのしるし以外のしるしは与えられぬ」.そして彼らを打ち捨てて去っていかれた.』
4 A wicked and adulterous generation seeketh after a sign: and a sign shall not be given it, but the sign of Jonas the prophet. And he left them, and went away”.
4 Une génération méchante et adultère demande un miracle; il ne lui sera donné d'autre miracle que celui de Jonas. Puis il les quitta, et s'en alla”.
4 Faciem ergo cæli diiudicare nostis: signa autem temporum non potestis scire? Generatio mala et adultera signum quærit: et signum non dabitur ei, nisi signum Ionæ prophetæ. Et relictis illis, abiit”.
(注釈)
天からのしるし(16・1-4)
3 メシアの時代.そのしるしはイエズスの奇蹟である.
4 ユダヤ人は天気を知っても,メシアの時代を知ろうとしない.イエズスが彼らに与えるしるしはその復活である.死の三日のち墓からよみがえり神性を証されるであろう.
(訳注後記)ファリザイ人,サドカイ人について.
ファリザイ人のパン種(16・5 - 12)
『5 弟子たちは向こう岸へ行ったが,パンをもっていくのを忘れた.
“5 And when his disciples were come over the water, they had forgotten to take bread.
“5 Les disciples, en passant à l'autre bord, avaient oublié de prendre des pains.
“5 Et cum venissent discipuli eius trans fretum, obliti sunt panes accipere.
6 *するとイエズスは,「目を開けよ.ファリザイ人とサドカイ人とのパン種を信用するな」と言われた.
6 Who said to them: Take heed and beware of the leaven of the Pharisees and Sadducees.
6 Jésus leur dit: Gardez-vous avec soin du levain des pharisiens et des sadducéens.
6 Qui dixit illis: Intuemini, et cavete a fermento Pharisæorum, et Sadducæorum.
7 弟子たちは思案して,「私たちがパンをもってこなかったからだろう」と言い合った.
7 But they thought within themselves, saying: Because we have taken no bread.
7 Les disciples raisonnaient en eux-mêmes, et disaient: C'est parce que nous n'avons pas pris de pains.
7 illi cogitabant intra se dicentes: Quia panes non accepimus.
8 するとイエズスは,その考えを見抜いて言われた,「信仰うすい者たちよ,なぜパンがないと思案しているのか.
8 And Jesus knowing it, said: Why do you think within yourselves, O ye of little faith, for that you have no bread?
8 Jésus, l'ayant connu, dit: Pourquoi raisonnez-vous en vous-mêmes, gens de peu de foi, sur ce que vous n'avez pas pris de pains?
8 Sciens autem Iesus, dixit: Quid cogitatis intra vos modicæ fidei, quia panes non habetis?
9 まだわからないのか.五つのパンを五千人に分けて,その余りを幾かご集め,
9 Do you not yet understand, neither do you remember the five loaves among five thousand men, and how many baskets you took up?
9 Etes-vous encore sans intelligence, et ne vous rappelez-vous plus les cinq pains des cinq mille hommes et combien de paniers vous avez emportés,
9 Nondum intelligitis, neque recordamini quinque panum in quinque millia hominum, et quot cophinos sumpsistis?
10 七つのパンを四千人に分けて,その余りを幾かご集めたかを忘れたのか.
10 Nor the seven loaves among four thousand men, and how many baskets you took up?
10 ni les sept pains des quatre mille hommes et combien de corbeilles vous avez emportées?
10 neque septem panum in quattuor millia hominum, et quot sportas sumpsistis?
11 私がパンのことを言ったのではないとなぜ悟らないのか.ただ,ファリザイ人とサドカイ人のパン種に気をつけよ」.
11 Why do you not understand that it was not concerning the bread I said to you: Beware of the leaven of the Pharisees and Sadducees?
11 Comment ne comprenez-vous pas que ce n'est pas au sujet de pains que je vous ai parlé? Gardez-vous du levain des pharisiens et des sadducéens.
11 Quare non intelligitis, quia non de pane dixi vobis: Cavete a fermento Pharisæorum, et Sadducæorum?
12 弟子たちは,気をつけよと言われたのがパン種のことではなくて,ファリザイ人とサドカイ人の教えであることを悟った.』
12 Then they understood that he said not that they should beware of the leaven of bread, but of the doctrine of the Pharisees and Sadducees”.
12 Alors ils comprirent que ce n'était pas du levain du pain qu'il avait dit de se garder, mais de l'enseignement des pharisiens et des sadducéens”.
12 Tunc intellexerunt quia non dixerit cavendum a fermento panum, sed a doctrina Pharisæorum, et Sadducæorum”.
(注釈)
ファリザイ人のパン種(16・5 - 12)
6 ヘブライ人の有識階級の間では,パン種を,下等本能,または他人を腐敗させるものの象徴として使っていた.
ペトロの宣言(16・13‐20)(注・第18節は下線部分)
『13 *フィリッポのカイザリア地方に来られたイエズスは,弟子たちに,「人々は人の子をだれだと言っているのか」と聞かれた.
“13 And Jesus came into the quarters of Cesarea Philippi: and he asked his disciples, saying: Whom do men say that the Son of man is?
“13 Or Jésus vint aux environs de Césarée de Philippe, et il interrogeait ses disciples, disant : Quel est celui que les hommes disent être le Fils de l’homme ?
“13 Venit autem Iesus in partes Cæsareæ Philippi: et interrogabat discipulos suos, dicens: Quem dicunt homines esse Filium hominis?
14 弟子たちは,「ある人は洗者ヨハネと言い,ある人はエリア,またある人はエレミアあるいは預言者の一人だと言っています」と答えた.
14 But they said: Some John the Baptist, and other some Elias, and others Jeremias, or one of the prophets.
14 Ceux-ci répondirent: Les uns disent que c'est Jean-Baptiste; d' autres, Élie; d' autres, Jérémie, ou quelqu'un des prophètes.
14 At illi dixerunt: Alii Ioannem Baptistam, alii autem Eliam, alii vero Ieremiam, aut unum ex prophetis.
15 イエズスが,「ところで,あなたたちは私をだれだと思うのか」と言われると,
15 Jesus saith to them: But whom do you say that I am?
15 Jésus leur demanda : Et vous, qui dites-vous que je suis?
15 Dicit illis Iesus: Vos autem quem me esse dicitis?
16 *シモン・ぺトロが,「あなたはキリスト,生ける神の子です」と答えた.
16 Simon Peter answered and said: Thou art Christ, the Son of the living God.
16 Prenant la parole, Simon Pierre dit: Vous êtes le Christ, le fils du Dieu vivant.
16 Respondens Simon Petrus dixit: Tu es Christus, filius Dei vivi.
17 イエズスは,「*シモン・*バルヨナ,あなたは幸いな人だ.その啓示は*血肉からのものではなくて,天にまします父から出たものである.
17 And Jesus answering, said to him: Blessed art thou, Simon Bar-Jona: because flesh and blood hath not revealed it to thee, but my Father who is in heaven.
17 Et Jésus répondant, lui dit: Tu es heureux, Simon, fils de Jean, car ni la chair ni le sang ne t'ont révélé ceci, mais mon Père qui est dans les cieux.
17 Respondens autem Iesus, dixit ei: Beatus es Simon Bar Iona: quia caro, et sanguis non revelavit tibi, sed Pater meus, qui in cælis est.
18 私は言う.あなたは*ペトロである.私はこの岩の上に私の教会を立てよう.*地獄の門もこれに勝てぬ.
18 And I say to thee: That thou art Peter; and upon this rock I will build my church, and the gates of hell shall not prevail against it. **(John 1:42)
18 Aussi moi je te dis que tu es Pierre, et sur cette pierre je bâtirai mon Église, et les portes de l'enfer ne prévaudront point contre elle.
18 Et ego dico tibi, quia tu es Petrus, et super hanc petram ædificabo ecclesiam meam, et portæ inferi non prævalebunt adversus eam.
19 私はあなたに天の国のかぎを与える.あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ,地上で解くものはみな天でも解かれる」と言われた.
19 And I will give to thee the keys of the kingdom of heaven. And whatsoever thou shalt bind upon earth, it shall be bound also in heaven: and whatsoever thou shalt loose upon earth, it shall be loosed also in heaven.
19 Et je te donnerai les clefs du royaume des cieux ; et tout ce que tu lieras sur la terre sera lié aussi dans les cieux ; et tout ce que tu délieras sur la terre, sera aussi délié dans les cieux.
19 Et tibi dabo claves regni cælorum. Et quodcumque ligaveris super terram, erit ligatum et in cælis: et quodcumque solveris super terram, erit solutum et in cælis.
20 さらに,「私が*キリストだということをだれにも言うな」と弟子たちを戒められた.』
20 Then he commanded his disciples, that they should tell no one that he was Jesus the Christ”.
20 Alors il commanda á ses disciples de ne dire à personne qu'il était lui-même Jésus le Christ”.
20 Tunc præcepit discipulis suis ut nemini dicerent quia ipse esset Iesus Christus”.
(注釈)
ペトロの宣言(16・13‐20)
13 この地方はヘロデ大王の第三子フィリッポの分国に属し,パレスチナのカイザリアとは別である.
16 ペトロはイエズスのメシア性ばかりでなく,その神性をも宣言する.
17‐19 ペトロは,信仰と道徳の方面において全教会の最高のかしら,最高審判者,最高の師である.その明らかな証拠が,17節以下のイエズスのことばにある.
* バルヨナとはアラマイ(=アラム)語で,ヨナの子の意.
* 「血肉」というセム的な言い方は,人間の弱くはかない面を特に表す表現法である.
18 イエズスの用語では「岩」をペトロという.公教会(=カトリック教会)は一つの建物であり,イエズスがその建築家,ペトロがその土台である.
* 「地獄の門」とは悪魔の力を意味する.
20 メシア(Messiah = Christ〈キリスト〉=救世主)のこと.
受難の預言(16・21-23)
『21 この時以来,イエズスは,自分がエルサレムに行って長老,司祭長,律法学士たちから多くの苦しみを受け,そして殺され,三日めによみがえることを教え始められた.
“21 From that time Jesus began to shew to his disciples, that he must go to Jerusalem, and suffer many things from the ancients and scribes and chief priests, and be put to death, and the third day rise again.
“21 Dès lors Jésus commença à faire connaître à ses disciples qu'il fallait qu'il allât à Jérusalem, qu'il souffrît beaucoup de la part des anciens, des principaux sacrificateurs et des scribes, qu'il fût mis à mort, et qu'il ressuscitât le troisième jour.
“21 Exinde cœpit Iesus ostendere discipulis suis, quia oporteret eum ire Ierosolymam, et multa pati a senioribus, et Scribis, et principibus sacerdotum, et occidi, et tertia die resurgere.
22 するとペトロはイエズスを引き止めて,「主よ,そんなことは起こりませんように.いやいや,そんなことが身の上に起こることはありません」と言った.
22 And Peter taking him, began to rebuke him, saying: Lord, be it far from thee, this shall not be unto thee.
22 Pierre, l'ayant pris à part, se mit à le reprendre, et dit: A Dieu ne plaise, Seigneur! Cela ne t'arrivera pas.
22 Et assumens eum Petrus, cœpit increpare illum dicens: Absit a te, Domine: non erit tibi hoc.
23 イエズスはふり向き,ペトロに向かって言われた,「サタン,引き退(さが)れ.*私の邪魔をするな.あなたが思っているのは神の考えではなく人間の考えだ」.』
23 Who turning, said to Peter: Go behind me, Satan, thou art a scandal unto me: because thou savourest not the things that are of God, but the things that are of men”.
23 Mais Jésus, se retournant, dit à Pierre: Arrière de moi, Satan! tu m'es en scandale; car tes pensées ne sont pas les pensées de Dieu, mais celles des hommes”.
23 Qui conversus, dixit Petro: Vade post me satana, scandalum es mihi: quia non sapis ea, quæ Dei sunt, sed ea, quæ hominum”.
(注釈)
受難の預言(16・21-23)
23 イエズスは父の定めた道を歩かねばならぬ.ペトロは良いことと思ってしたのだが,それがイエズスの道の邪魔になった.
離脱(16・24-28)
『24 そのとき,イエズスは弟子たちに言われた,「私に従おうと思うなら,自分を捨て,自分の十字架を担(にな)って従え.
“24 Then Jesus said to his disciples: If any man will come after me, let him deny himself, and take up his cross, and follow me.
“24 Alors Jésus dit à ses disciples: Si quelqu'un veut venir après moi, qu'il renonce à lui-même, qu'il porte sa croix et me suive.
“24 Tunc Iesus dixit discipulis suis: Si quis vult post me venire, abneget semetipsum, et tollat crucem suam, et sequatur me.
25 *命(いのち)を救おうと思う者はそれを失い,私のために命を失う者はそれを受ける.
25 For he that will save his life, shall lose it: and he that shall lose his life for my sake, shall find it.
25 Car celui qui voudra sauver sa vie la perdra ; mais celui qui la perdra sa vie à cause de moi, la trouvera.
25 Qui enim voluerit animam suam salvam facere, perdet eam. qui autem perdiderit animam suam propter me, inveniet eam.
26 よし全世界をもうけても,命を失えば何の役に立つだろう.また,人は命の代わりに何を与えられよう.
26 For what doth it profit a man, if he gain the whole world, and suffer the loss of his own soul? Or what exchange shall a man give for his soul?
26 Et que serl à l'homme de gagner le monde entier, s'il perd son âme? Ou que donnera l’homme en échange de son âme?
26 Quid enim prodest homini, si mundum universum lucretur, animæ vero suæ detrimentum patiatur? Aut quam dabit homo commutationem pro anima sua?
27 人の子は父の光栄のうちに天使たちとともに来て,その日各自の行いによって報いを与える.
27 For the Son of man shall come in the glory of his Father with his angels: and then will he render to every man according to his works.
27 Car le Fils de l'homme viendra dans la gloire de son Père avec ses anges; et alors il rendra à chacun selon ses œuvres.
27 Filius enim hominis venturus est in gloria Patris sui cum angelis suis: et tunc reddet unicuique secundum opera eius.
28 まことに私は言う.ここにいる人のうちに,人の子がその王国とともに来るのを見るまで死なぬ者もいる」.』
28 Amen I say to you, there are some of them that stand here, that shall not taste death, till they see the Son of man coming in his kingdom”.
28 En vérité, je vous dis : Il y en a quelques-uns ici présents, qui ne goûteront pas de la mort jusqu'à
ce qu'ilsvoient le Fils de l'homme enant dans son royaume”.
28 Amen dico vobis, sunt quidam de hic stantibus, qui non gustabunt mortem, donec videant Filium hominis venientem in regno suo”.
(注釈)
離脱(16・24-28)
25 ギリシャ語のプシケは,ヘブライ語のネフェシュのことである.これには,魂,生命(せいめい),人格という三つの意味がある.
28 イエズスの最後の来臨のことではない.「ここにいる私の弟子のうち何人かは,悪の力に耐えるほどに強くなった私の教会(地上におけるキリストの可見的神秘体)を見るまで死なないであろう」(大聖グレゴリウス).はたして,エルサレム滅亡のころまだ生きている者がいた.
* * *
(聖書の引用を続けます)
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* * *
本投稿記事・第445回エレイソン・コメンツ「究極の難題 I」(2016年1月23日付)/ELEISON COMMENTS CDXLV (Jan. 23, 2016) : "CONUNDRUM SUPREME I" (解説付)は2016年3月9日21時00分に掲載されました.
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2016年1月23日土曜日
2011年5月17日火曜日
林檎の腐敗
エレイソン・コメンツ 第200回 (2011年5月14日)
ひとつの腐った林檎 (りんご) がふたつの方法で今日の輝きを失ったカトリック教会の暗闇に小さな光を当てるかもしれません.まず第一に,私たちは林檎が隅々まで腐(くさ)るのを待ってから林檎すべてが腐ったと判断するわけではありません.林檎にはまだ腐っていない部分が残っています.だから林檎が腐っているかどうかという問いに答えるとき,私たちは二通りの区別をする必要があります: 全体として,然(しか)り; ある部分について,然り; ほかの部分については,否(いな),という風にです.そして第二に,林檎即(そく)腐敗,腐敗即林檎ではありませんが,腐敗とその元の林檎は切り離すことはできず,林檎なしに腐敗は存在できません.この常識の第一の部分を新しい典礼によるミサ聖祭 ( “the Novus Ordo Mass” ) と (それを考案した公会議に則した) 「公会議主義下の教会」 ( “Conciliar church” ) に,第二の部分を「公会議主義下の教会」とローマ教皇職 ( “the Papacy” ) に当てはめてみましょう.
新しいミサ聖祭について言えば,それは公会議の人間中心主義によるものですから全体として腐ったものです.だがそのある部分 (例えば奉献(文) “the Offertory, offertorium” ) は明らかにカトリック教とは異なるものである反面,ほかの部分 (例えば求憐誦 〈キリエ〉 “the Kyrie Eleison” ) はカトリック教に則ったものとなっています.新しいミサ聖祭は全体として腐っており徐々にカトリック教徒をプロテスタント教徒へ変えていくものですから,参席するに適したものではありません.だが,聖変化( “Consecration” )にあたる部分はカトリック教に則っており有効だと言えます.したがって新しいミサ聖祭について,有効だから参列できるとも,参列できないのだから無効だとも,いずれも言えないのです.実際には,新しいミサ聖祭の本質的な部分は有効かもしれませんが,それだけでは個人の信仰をこの新しいミサ聖祭全体に参列する危険に曝(さら)すに足る理由とはなりません.(訳注後記)
同じように,今日のカトリック教会は公会議主義がその至るところにまん延している限り全体として腐っているのですが,だからといってカトリック教会のあらゆる(一つ一つの)部分が公会議主義で腐っているわけではありません.したがって,全体が公会議主義だからといってカトリックのまま残っているいずれかの部分を非難するのは間違っていますし,同じようにカトリックのまま残っている部分が多少あるからといって公会議主義全体を許容するのも間違っています.自分の心を現実に合わせるためには,それぞれの異なる部分ごとの間での区別,および全体とそれぞれの異なる部分との間での区別の双方が必要です.
次に今日の教会に腐った林檎との比較の第二の部分を当てはめるなら,二つの教会すなわち「公会議主義下の教会」と「カトリック教会」について話すのが純粋な意味で有意義と言えるでしょう.なぜなら,この二つの教会のそれぞれが純粋な状態だと双方は林檎と腐敗のように互いを排除しますが,現実の世界では公会議主義がカトリック教会の中の至(いた)るところに見出されるからです.だが実生活では,双方は林檎と腐敗あるいは寄生生物と宿主と同じように切り離すことができません.現実の世界において存在する唯一の教会は,カトリック教会のみであり,今日その唯一の教会が公会議主義の腐敗により至るところで苦しめられているのです.
したがって公会議主義の教皇( “a Conciliar Pope” )について言えば,彼は二つの教会の長だとするのが純粋な意味で有意義な言い方でしょう.なぜなら時にはカトリック的な,時には公会議主義的な言動をとることによって彼は常にカトリック教会と公会議主義で腐敗したカトリック教会の両方の長としての立場に自身を置くからです.だからといって彼が現実には別々のものとなっている二つの教会の長だと言うことではありません.いまでは公会議主義の腐敗のため満身創痍(まんしんそうい)となっている唯一真実のカトリック教会の中で,彼がカトリック教義(カトリシズム)と公会議主義の双方の長( “head of both the Catholicism and the Conciliarism” )だということを言っているのです.
それにしても,私たちのカトリック教会指導者たちが神の名にかけて公会議主義の腐敗に夢中になっているのはなぜでしょうか? それは現代社会で人々が自由を渇望するためです ( “Because of the modern longing for liberty.” )(訳注後記).これは今回の話とは別のことです.だがこれとは別にして,私たちは教皇ベネディクト16世がもう一度林檎と腐敗の違いが分かるよう全力を尽くして教皇のために祈らなければなりません!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第6パラグラフの訳注:
「自由」 “liberty” について:
ここでの「自由」とは,「権利(人権)」や「(人が際限なく気まま勝手にしたい欲を縛りつけるような「神の法=自然法〔真理〕」による制約からの)解放」を意味している.
* * *
第2パラグラフの訳注:
〈伝統カトリック教義に則した典礼〉からの解説〉
① 「奉献」 “the Offertory, offertorium” について.
(典礼文)
Orémus. (司祭)
|
OFFERTORIUM - 奉献文
Súscipe, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus, …
「聖なる父,全能永遠の神,…」
|
Lavabo inter inocéntes manus meas : …
「主よ,私は,罪なき者の一人となるために,私の手を洗い,
(そして主の祭壇のかたわらに立とう.)」
|
Súscipe, sancta Trínitas, …
「聖なる三位一体よ…」
|
Oráte, fratres : …
「祈れ,兄弟たちよ,…」
|
Secreta …
「密誦」
***
(解説)
・オッフェルトリウムOffertorium は,献物をさし出すことであるが,「奉献」ということに対する現代の信者の考えは,昔の信者の考えとは、大分相違がある.
昔の信者は,自分の献物(パン,ぶどう酒,くだもの,花など)を,自分の手で聖堂にもって行った.
これらの物は,自分自身の内的供物の象(かたど)りであった.奉献のときになると,助祭(あるいは司祭)は,その供物をうけるために,信者の方へ下りてきた.
この供物の中から,その日のミサと聖体拝領に必要な分だけをとり,残りの分は,司祭自身あるいは信者の貧しい人々のために用いることになっていた.
こういうことを行っている間に,その日の祝日あるいは奥義をあらわす奉献文の交誦と詩篇とをうたっていた.
・信者から献物をするこの習慣は,中世時代から次第に変化し,司祭のとなえる代願の祈りは,現在,はじめの「オレムス Oremus 」(われらは祈りましょう)だけが残っている.
・それから,司祭は,副助祭あるいは侍者が祭壇(さいだん)にもってくる献物を,神にささげる.カリスの準備は,祭壇上で行われる.水とぶどう酒とを祝福するに当っての祈りは,御降誕の祝日の昔からの祈りで,水とぶどう酒とを交ぜることの象徴を知らせるのである.
最後の晩さんのとき,主は,聖別したぶどう酒に,少しの水をまぜ給うた.
奉献の祈りはすべて,まことに立派な祈りであって,キリスト教的いけにえなる聖変化へと漸次祈りは高潮してゆく.
・もう世俗的な使用に供されないという意味をあらわすために,司祭は,献物のパンとぶどう酒とに撒香する.それから,司祭は,自分の手をきよめて,詩篇二十五からの祈りをとなえる.(Lavabo 洗いましょうの意)
・聖なる三位一体よ,うけ給え(suscipe, sancta Trinitas) という祈りは,いけにえであるこの献物を,キリストの奥義と聖人らの功徳とに結びつける.
・それから司祭は,参列者の祈りと一致するために,「兄弟たちよ,祈れ」(Orate, fratres)とすすめる.信者たちは,それに対して,神の栄光と公教会の善とのために,この献物を嘉(よみ)し給え,と答える.
・すると司祭は,献物に最後の祈り 密誦(Secreta)をとなえ,奉献の式を終る.
密誦を終るとき,司祭は,声を高めて序誦をうたう.
(この後「聖変化」の部の典礼へ続く)
* * *
② 「求憐誦 」〈キリエ〉 “the Kyrie Eleison, Kýrie, eléison” について.
入祭文を終って後,司祭は祭壇の中央に行き,侍者と交互に求憐誦を唱える.
(典礼文)
Kýrie, eléison. Kýrie, eléison. Kýrie, eléison.
「主,あわれみ給え」
|
Christe, eléison. Christe, eléison. Christe, eléison.
「キリスト,あわれみ給え」
|
Kýrie, eléison. Kýrie, eléison. Kýrie, eléison.
「主,あわれみ給え」
***
(解説)
・助祭が会衆とともに祈っていた昔の典礼の名残りとして残っている.助祭が会衆とともにとなえていた祈りは,主として聖歌であった.
・キリエ・エレイソンは,ギリシア語で,古代ローマにおける典礼がギリシア語で行われていたことを思い出させる.
・これらの祈願は,主なるキリストに向ってなされる.「キュリオス」( Kyrios )とは,われわれを救い給う光栄の「主」である.
* * *
③ 「聖変化」 “Consecration, Consecrátio” について.
パンとぶどう酒が神の羔(こひつじ,Agnus Dei)たる神の御子キリストのいけにえの御聖体( Corpus Christi )とキリストの流された〈人類の罪の赦しのための〉新しい契約の御血(Sanguis)に変わること)
…“Hæc commíxtio, et consecrátio Córporis et Sánguinis Dómini nostri Iesu Christi, fiat accipiéntibus nobis in vitam ætérnam.” ( Ordo missæ )
…「われらの拝領せんとするわれらの主イエズス・キリストの御体と御血とのこの混和と聖別とが,われらの永遠の生命の糧(かて)とならんことを.」(聖伝のミサ典礼文より)
***
(解説)
聖体の序誦
元来,序誦は,聖変化の部に属し,この二つは,聖体の荘厳な祈りであった.現在では,三聖頌(Sanctus)が,この二つの間に加わった.
しかし・現在(1955年),序誦が聖変化の部と分離したにしても,なお序誦は,聖変化という重大な行いの序曲である.
序誦(Præfatio)は,ギリシア語から出た言葉で,荘厳な祈りを意味する.
この祈りは,主への感謝であり,聖体の讃歌であって,これによって司祭は,神のこの大なる御業を讃美するのである.また,これは,その日の意義を思い出させる.
司祭は,われわれが深い敬虔をもって,天使とも一致し,聖体をささげうるようにととなえて,この祈りを終る.
聖なるいけにえ
低いこえで聖体への祈り(典文〈カノン,Canon 〉)をつづける司祭に,信者は一致する.司祭は救主の功徳によって,教皇と司教とをかしらとする全公教会と,すべて参列する者のためにささげるこのいけにえをよみし給えと,神に祈る.
こうして,全団体を神の御手にゆだねてのち,地上の教会から天に集る教会へと心を移し,
諸聖人の通功をこい願い(Communicantes 凱旋の公教会の祈念),天の聖人たち,御母聖マリア,使徒,殉教者らの祈りに委託して,司祭は,(Infra actionem)いけにえを行いはじめる.
司祭の先ずすることは,献物の上に両手をひろげることである.これは,会衆を代表して,
えらばれたいけにえの上に掩(按)手する旧約の祭司たちの行いを思い出させる(Hanc igitur さて,これを).
それから司祭は,キリストの民のこのいけにえを嘉(よみ)し給い,全くうけ入れ給うようにと祈る(Quam oblationem この献物を).
それから,このいけにえが、主イエズスのいけにえと合わせられる価値あるものとなるように、神御自身はからい給えと祈る.
公教会は,キリストと同じように,子としての信頼をもっている.キリストと同じく公教会は,御父が常に自分の願いをきき入れ給うことを知っている.(ヨハネ聖福音,11章42節)
これがために,自然に,聖体制定の次第を語るに至る.いま,秘蹟的に話し,最後の晩餐の行いを新たにし給うのは,キリスト御自身である.キリストは,いけにえをくり返し給う.
これは,不敗の勝利者のいけにえである.なぜなら,最後の晩饗のときより,この世の終りの日まで,秘蹟なるこのいけにえは,不滅なるもの(生命=キリスト)の死をくり返しつづけるからである.
キリストの御死去によって,栄光はキリストに帰せられ,十字架によって,自分自身にすべての人間をひきつけるべき御者は,称揚される.これが,奉挙(Elevatio)の象(かたど)りである.
この奉挙の習慣は,大分時代を下ってからのことである.
祈念誦(Anamnesis),「さらば、思い起しつつ」(Unde et memores)という二つの祈りも,救主の偉大なる御業の追想である.そして,あがないの奥義,御受難だけではなく,御復活と御昇天の奥義をも,ここに追想する.
われわれのいけにえは,キリストのいけにえと一つになる.いま,司祭は,アベル,アブラハム,メルキセデクなどのそなえものにはるかにまさる浄く汚れなく聖なる血を献げるのである(Supra quæ これらの献物の上に).
いけにえの天便が,われわれの献物を天の祭壇,神の尊前にもちゆく代りとして,救主なるキリストの御体と御血との宴に,われわれがあずかれるようにと,神にこい願う(Supplices われらひれ伏して).
われわれが,神の宴にあずかることをゆるされるこのいけにえの準備は,もはやととのった.この典礼的ないけにえの功徳は,先ず,つぐのいを果しつつある「苦悩の教会」の霊に応用される.
そして,司祭と,参列の信者のためにも応用されるようにとこい願い,(Nobis quoque われわれにも),このいけにえにあずかり,天の聖人とともになることをも,神の御慈悲によってこい願う.
聖体の行い,すなわち,厳密な意味での典文(カノン)は,終りに近づいた.その終りは,まことに荘重である.
司祭は,オスティアとカリス(祭爵)とを,一緒にもち上げて,三位一体の神に光栄とほまれとをささげる.
そこで参列の信者は、「アメン」ととなえて,司祭の頌歌にこたえ,司祭の聖変化の行為を承諾するのである.この「アメン」は,聖変化の沈黙のはじまりの時から,結晶していた力のほとばしりである.
パンをさくこと
聖体制定のことを物語る福音書によると,主は,聖体のパンを弟子らに与えるに先だち,それを割(さ)いて分けたと記されている.
この行為は,昔から特に重視され,fractio panis(パンをさくこと)は,長らくの間,ミサ聖祭と同義語に用いられてきた.元来,「パンをさくこと」は,実際上の必要からで,信者の聖体拝領のために,大きなパンを分けていたのである.
今はもう実際上のそんな必要はなく,司祭の拝領するオスティアだけをさくことになっている.パンをさくことは,又,昔の習慣の名残りである.聖なるオスティアをさいてから,司祭はオスティアの小片を,カリスに入れる.これはなぜかというに,九世紀ごろまで,ミサののち,聖変化したパンの一片を保存する規則があり(これを Sancta 聖なるものといった),この一片を,次のミサのとき,御血にひたしたのである.それは,公教会のいけにえの,一致性と継続(けいぞく)性とを象(かたど)るならわしであった.
「われらひれ伏して」(Supplices)の祈りがおわれば,いけにえの宴(うたげ)は,もう準備が出来上っている.
典文(カノン)の最後のアメンが終ると,司祭は声をあげて,一同に代り,(Oremus 祈願)と主禱文をとなえる.この祈りは,聖体拝領の直前の準備の祈りとして,ずっと古くから用いられている.
それから司祭は,聖なるオスティアをさくが,これは主の御業のくり返しであり,皆のためにさくこの行いは,救主キリストのみがこの世に与える平安を象るのである.
われわれは主の御死去によって,まことの平安を再び見出した.聖なるパンと聖なるぶどう酒とを混(まぜ)ることは,キリストの復活と不滅性とを意味するのである.「キリストは、もう死に給わない.」(新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への手紙,6章9節)
神の羔(こひつじ)に対する神羔誦(しんこうしょう Agnus Dei)は,復活の羔,不滅の糧(かて)となり給うたキリストへの祈りである.
聖体は,本質的にキリスト教的一致,神秘体の生ける一致の秘蹟である.われわれがもし,公教会と一致していないならば,キリストの御体と御血とにもあずかることができない.
また,聖体拝領を否むことは,神秘体から離(はな)れ去ることである.これがために司祭は,キリストにおいてすべてが一致するようにとこい願ってから,助祭を通して,参列の信者に,平安の接吻をおくるのである.現在はもう習慣として残っていないが,この平和の接吻は,その昔は,聖体拝領の唯一つの準備であった.現在は,その精神だけが残されているわけであるから,兄弟への憎(にく)みの念をすて,公教会と兄弟たちに一致する心がなければ,聖体に近づくことはできない.
比較的時代を下ってから,こののち二つの祈りが加えられた.これは,聖体拝領とキリスト教的生活とのつながりを示す祈りである.
実に,キリストと一致することは,キリスト,特に十字架を負(お)い給うたキリストにならうことである.キリスト信者の幸福は,十字架と切り離(はな)せないものである.
こういう神秘的な準備ののち,司祭は,パンとぶどう酒との二つの形色において聖体を拝領し,それから,侍者と一般信者が聖体を受ける.
侍者と信者の聖体拝領は,パンの形色の下に行われる.もちろん,かれらも,古くは二つの形色のもとに聖体をうけていたし,現在でも,東方挙式法による公教会においては,二つの形色の聖体を信者にもさずけている。
しかし,一つの形色でも功徳と効果とは同じである.すべての信者に,聖体は永遠の結実を生むであろう.
昔は,聖体をさずける間に,聖体拝領誦の詩篇をうたう習慣であった.この習慣は,現在の交誦に名残りをとどめているだけで,これを聖体拝領誦(Communio)という.
一般に,聖体拝領誦は,その日の祝日,あるいは奥義に関連した祈りであり,われわれの感謝をあらわしている.
聖器具を始末してのち,司祭は,信者らに挨拶(あいさつ)し,皆に代って,聖体拝領後の祈(Postcommunio)をとなえる.
この祈りによって,聖なるいけにえの拝領は終った.この祈りは,秘蹟的に霊的に聖体を拝領したすべての人に,公教会が何を期待するかをあらわし,この聖なる奥義によってもたらされる至福をも語る.
だが公教会は,この秘蹟を,天の至福の予備としてだけではなく,いまうけた聖寵に対する忠実さによって,いつか決定的にうけるであろう至福の予言とも考えるのである.
***
「毎日のミサ典書」(序論(2)ミサ典書とローマ式ミサ)より引用
* * *
1962年ミサ聖祭通常文の表
-〈注〉一部の典礼文は省略されています.Partly abbreviated. -
ORDO MISSÆ (1962) (Ordinarium Missæ)
ORDINAIRE DE LA SAINTE MESSE / ORDINARY OF THE MASS
〈灌水式:(洗礼のかたどりの一つ)〉
・交誦(詩篇・第50篇9節) Antiphona … Aspérges me, (主よ,ヒソプもて)
*Aspérges me, Dómine, hyssópo, et mundábor : lavábis me, et super nivem dealbábor.
Ps. 50, 3. Miserére mei, Deus, secúndum magnam misericórdiam tuam.
V/. Glória Patri.
Et repetitur ant. *Aspérges me.
「*主よ,**ヒソプもて私にそそぎ給え,私は浄(きよ)められるであろう.私を洗い給え,私は雪よりも白くなるであろう.
(詩篇・50篇3節)神よ,御慈悲により,私をあわれみ給え.」
司祭/. 願わくは,聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊とに栄えあれ,
助祭(侍者・信者)/. はじめとおなじく,今もいつも,世々に,アメン.
「(*主よ,ヒソプもて…をくりかえす)」
(**ヒソプ…ハナハッカの小枝;清めの祭式に用いられた.ヘブライ語で「聖なる薬草」を意味する.)
(御受難の主日と枝の主日とには,栄誦をとなえない)
(復活節(御復活の祝日-聖霊降臨まで)は,次の通り)
*Vidi aquam egrediéntem de templo, a látere dextro, allelúia : et omnes ad quos pervénit aqua ista, salvi facti sunt, et dicent : allelúia, allelúia.
Ps. 117,1. Confitémini Dómino, quóniam bonus : quóniam in sǽculum misercórdia eius.
V/. Glória Patri.
Et repetitur ant. *Vidi aquam.
「私は,神殿の右側からわき出る水を見た,アレルヤ.この水にうるおった人々は,みな救われた.かれらは,アレルヤ,アレルヤとうたう.
(詩篇・117篇1節)主をほめたたえよ,主は善にて在(ましま)す,主の御あわれみは永遠である.」
司祭/. 願わくは,聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊とに栄えあれ,
助祭/. はじめとおなじく,今もいつも,世々に,アメン.
「(*私は,神殿の右側から…をくりかえす)」
…(中間略)
・祈願 Oratio … Exáudi nos (われらの祈りをききいれ給え)
Exáudi nos, Dómine sancte, Pater omnípotens, ætérne Deus : …
「聖なる主,全能の父,永遠の神よ,…われらの祈りをききいれ給え.」
***
Ⅰ.準備:
MISSA CATECHUMENORUM (Signum crucis – Credo)
MESSE DES CATECHUMENES / MASS OF THE CATECHUMENS
(洗礼志願者のミサ)
A. 準備の祈り(祭壇の足元で)
・十字架のしるし … Signum cruces
In nómine Patris, et Fílii, et Spíritus Sancti. Amen.
V/. Introíbo ad altáre Dei.
R/. Ad Deum, qui lætíficat iuventútem meam.
「聖父(ちち)と,聖子(こ)と,聖霊との御名によりて.アメン.」
司祭/「私は,神の祭壇に上ろう.」
助祭/「私の若さを喜びで満たし給う神の方へ.」
…
・信仰,神への委託,信頼,謙遜 … Iúdica me, Deus, (神よ,私を弁護し給え)(詩篇42編)
・痛悔と心の清さ … Confíteor (告白の祈り)
Confíteor Deo omnipoténti, beátæ Maríæ semper Vírgini, beáto Michaéli Archángelo, beáto Ioánni Baptístæ, sanctis Apóstolis Petro et Páulo, ómnibus Sanctis, et vobis, fratres : quia peccávi nimis cogitatióne, verbo, et ópere :
(Percutit sibi pectus ter, dicens :)
mea culpa, mea culpa, mea máxima culpa.
Ideo precor beátam Maríam semper Virginem, beátum Michaélem Archángelum, beátum Ioánnem Baptístam, sanctos Apóstolos Petrum et Páulum, omnes Sanctos, et vos, fratres, oráre pro me ad Dóminum Deum nostrum.
「全能の天主,終生童貞なる聖マリア,大天使聖ミカエル,洗者聖ヨハネ,使徒聖ペトロ・聖パウロ,諸聖人およびなんじら兄弟たちにむかいて,われは思いと言葉と行いとをもって多くの罪を犯せしことを告白したてまつる.
(三度胸を打ちながら言う.)
これわがあやまちなり,わがあやまちなり,わがいと大いなるあやまちなり.
これによりて終生童貞なる聖マリア,大天使聖ミカエル,洗者聖ヨハネ,使徒聖ペトロ・聖パウロ,諸聖人およびなんじら兄弟たちに,わがためにわれらの主なる天主に祈られんことを願いたてまつる.」
Misereátur tui omnípotens Deus, et dimissis peccátis tuis, perdúcat te ad vitam ætérnam.
助祭/.「願わくは,全能の神があなたを憐れみ,あなたの罪をゆるして,永遠の生命に導き給わんことを.」
Amen.
司祭/.「アメン.」
B. 入祭文から奉献まで
・はじめの聖歌 … Introitus (入祭文)
(司式司祭はすぐ祭壇に上らず,祭壇の下で準備の祈りをとなえる.
聖歌隊が,入祭文を終るまでに,司祭は祭壇に上がり,祭壇に接吻し,撒香する.)
(祭壇は特に聖別され,新約の祭壇,いけにえ・大司祭であるキリストを意味する.
また密接にキリストとむすびつくために,祭壇には,聖なる殉教者の遺物の一部が納められている.)
(司祭が祭壇に接吻するのは,これから,奥義を新たにするに当って,キリストの御心と心を一つにすることを,あらわすためである.
祭壇への撒香は,礼拝と尊敬をあらわすためである.)(ローマ・ミサ典書・日本語版より)
Ⅱ.祈りと教え:
《祈り》
・礼拝と祈願 … Kýrie (求憐誦)
V/. Kýrie eléison.
R/. Kýrie eléison.
V/. Kýrie eléison.
R/. Christe eléison.
V/. Christe eléison.
R/. Christe eléison.
V/. Kýrie eléison.
R/. Kýrie eléison.
V/. Kýrie eléison.
(司祭と助祭が交互に三度ずつとなえる)
「主,あわれみ給え.
キリスト,あわれみ給え.
主,あわれみ給え.」
・三位一体の称讃 … Glória (栄光誦)
〔Glória in excélsis Deo et in terra pax homínibus bonæ voluntátis. …
「天においては天主に栄えあれ.地においては善意の人に平和あれ.…」〕
《教え(教理)》
・団体の祈り … Collecta (集祷文)
・第一の朗読 … Epistola (新約聖書の使徒の書簡)
・中間の聖歌 … Graduale (昇階誦)
・Alleluia(アレルヤ誦)あるいは Tractus (詠誦)
・キリストの御言葉の朗読 … Evangelium(福音書)
・キリストとその御言葉への承諾 … 〔Credo (信経)〕
Ⅲ.奉献の部:
MISSA FIDELIUM (Offertorio – Postcommunio)
MESSE DES FIDELES / MASS OF THE FAITHFUL
(信者のミサ)
A. 奉献から序誦まで (奉献)
・奉献の準備 … Offertorium (奉献文)
・御父なる神にパンの奉献 … Súscipe, (うけいれ給え)
Súscipe,sancte Pater, omnípotens ætérne Deus,
「聖なる父,全能永遠の神,…うけいれ給え.…」
・カリスの準備 … Deus, qui (神よ)
・カリスの奉献 … Offérimus tibi, Dómine, (主よ,われらはささげ奉る)
・心の奉献 … In spíritu(心をもって)
In spíritu humilitátis et in ánimo contríto suscipiámur a te, Dómine :
「主よ,深くへりくだり,痛悔の心をもってささげ奉るわれらを受けいれ給え.…」
・奉献するものの上に,聖霊を祈願する … Veni, Sanctificátor, (聖とならしめ給う御者,下り給え)
Veni, Sanctificátor, omnípotens ætérne Deus : …
「聖とならしめ給う全能の御者,永遠の神よ,下り給え.…」
・手を浄める … Lavábo (洗い奉る)
Lavábo inter innocéntes manus meas : et circúmdabo altáre tuum, Dómine.
「主よ,私は罪なき者の一人となるために,私の手を洗い,そして,主の祭壇のかたわらに立とう.」
・キリストと諸聖人との功徳にもとづく奉献 … Súscipe, sancta Trínitas, (聖なる三位一体よ,受け給え)
・信者は,祈りによって,奉献に一致する … Oráte fratres, (兄弟たちよ,祈れ)Suscipiat (受け給わんことを)
Oráte fratres, ut meum ac vestrum sacrifícium acceptábile fiat apud Deum Patrem omnipoténtem.
「兄弟たちよ,祈れ,私と,あなたたちとのいけにえが,全能の父なる神のみもとによみせられるように.」
R/. Suscípiat Dóminus sacrifícium de mánibus tuis ad láudem et glóriam nóminis sui, ad utilitátem quoque nostram, totiúsque Ecclésiæ suæ sanctæ.
助祭/.「主が,御名のほまれと栄光のため,更に,われらの利益のため,御自分の聖なる全教会のために,あなたの手から,このいけにえを受け給わんことを.」
・奉献するものの前で,祈る … Secreta (密誦)
B. 序誦から主禱文まで (聖変化の部)
Ⅳ.聖体の序誦:
・荘厳な感謝の祈り … Praefatio (序誦)
・讃美 … Sanctus (三聖頌)
ミサ聖祭典文( CANON MISSÆ )
Ⅴ.聖なるいけにえ: (聖変化)
・奉献するものを考える … Te ígitur (さて,汝を…)
Te ígitur, clementíssime Pater, per Iesum Christum, Fílium tuum, Dóminum nostrum, súpplices te rogámus ac pétimus, uti accépta hábeas, et benedícas, hæc + dona, hæc + múnera, hæc + sacrifícia illibáta,…
「いと寛仁なる父よ,われらは深くへりくだって祈り奉る.願わくは御子イエズス・キリストによって,この+賜物,この+ささげ物,この+けがれなく聖なるいけにえを受入れ,祝し給わんことを.」
・戦闘(せんとう)の公教会の祈念 … In primis (先ず,…)
…in primis, quæ tibi offérimus pro Ecclésia tua sancta cathólica :
quam pacificáre, custodíre, adunáre, et régere dignéris toto orbe terrárum :
una cum fámulo tuo Papa nostro Benedictus XVI., et Antístite nostro N.,
et ómnibus orthodóxis, atque cathólicæ, et apostólicæ fídei cultóribus.
(両手をひろげ,普遍教会のために祈る)
…先ず,われらは,主の聖なるカトリック教会〔公教会〕のために,これをささげ奉る.
願わくは,教会に平和を与え,それを保護し,一致を固めさせ,
主の下僕なる〔われらの〕教皇ベネディクト16世,われらの司教〔名〕,
および正統な教えと使徒伝承のカトリック信仰とを守る人々と共に,
全世界において,治め,導き給え.」
・特定人の記憶
(生きる人々の記念 Commemoratio pro vivis)… Meménto, Dómine,(主よ,記憶し給え)
・凱旋(がいせん)の公教会の祈念 … Communicántes (聖なる一致において…)
(注)「コムニカンテス」は,われわれが,ここに名の記されている聖人たちだけでなく,罪深い性質においてわれわれと似た人間であったその他の無数の聖人たちのとりなしによってもまた天に招かれていることを知る喜びを与えられる.
殉教者の元后・聖マリアの御名は御子キリストのいけにえ(犠牲)から切り離すことはできない.聖マリアは神の羔(こひつじ)とともにわれわれ自身を祭壇の足元でささげるようお教えになる.聖ヨゼフは普遍教会の保護者として祈願される.(英語のミサ典書の解説より)
Communicántes, et memóriam venerántes, in primis gloriósæ semper Vírginis Maríæ, Genitrícis Dei et Dómini nostri Iesu Christi :
Sed et beáti Ioseph, eiúsdem Vírginis Sponsi, et beatórum Apostolórum ac Mártyrum tuórum, …et ómnium Sanctórum tuórum ;
quorum méritis precibúsque concédas, ut in ómnibus protectiónis tuæ muniámur auxilio.
Per eúndem Christum Dóminum nostrum. Amen.
「聖なる一致において,われらは,先ず,わが神なる主,イエズス・キリストの御母,終生童貞なる光栄のマリアの記念を,つつしんで行い奉る.
また,その浄配聖ヨゼフ,主の聖なる使徒,殉教者,… およびすべて主の聖人らの記念を行い奉る.
願わくは彼らの功徳ととりなしとによって,われらに,御保護の助力を与え給わんことを.同じわれらの主,キリストによりて.アメン.」
・献物を受入れ給えと祈る … Hanc ígitur (さて,これを…)
・聖変化をこい願う祈り … Quam oblatiónem tu, Deus, (神よ,このささげものを)
Quam oblatiónem tu, Deus, in ómnibus, quǽsumus, bene+díctam, adscríp+tam, ra+tam, rationábilem, acceptabilémque fácere dignéris : ut nobis Cor+pus, et semel super calicem, et San+guis fiat dilectíssimi Fílii tui, Dómini nostri Iesu Christi.
「神よ,願わくは,このささげものを祝+し,嘉+納し,全く+認め,真の価値あるいけにえとなし給え.これが,われらのために,御身の最愛の御子,われらの主イエズス・キリストの御+体,御+血とならんことを.」
・聖体制定の記念 … Qui prídie (御受難の前日…)
Qui prídie quam paterétur, accépit panem in sanctas ac venerábiles manus suas, et elevátis óculis in cælum ad te Deum Patrem suum omnipoténtem, tibi grátias agens, bene+díxit, fregit, dedítque discípulis suis, dicens : Accípite, et manducáte ex hoc omnes.
「主は,御受難の前日,その聖なる尊い御手にパンをとり,天に在(ましま)す全能の御父なる御身の方に目を上げ,御身に感謝し,それを祝+して,分け,弟子らに与えておおせられた.皆,これを受け,そして食べよ.」
・パンの聖変化 … Hoc est enim corpus … (実にこれは,私の体である)
HOC EST ENIM CORPUS MEUM
「実にこれは,私の体である.」
・聖体を奉挙する
・聖体制定のつづき … Simili modo (同じく…)
Simili modo póstquam cenátum est, accípiens et hunc præclárum cálicem in sanctas ac venerábiles manus suas : tibi grátias agens, bene+díxit, dedítque discípulis suis, dicens : Accípite, et bíbite ex eo omnes.
「同じく晩餐が終ったとき,主は,その聖なる尊き御手に,この光栄あるカリス(聖杯)を取り,再び,御身に感謝し,これを祝+し,弟子たちに与えて,おおせられた..皆,これをとって飲め.
・ぶどう酒の聖変化 … Hic est enim calix … (実に,これは私の血のカリス(聖杯)で…)
HIC EST ENIM CALIX SÁNGUINIS MEI, NOVI ET ÆTÉRNI TESTAMÉNTI :
MYSTÉRIUM FIDEI :
QUI PRO VOBIS ET PRO MULTIS EFFUNDÉTUR IN REMISSIÓNEM PECCATÓRUM.
「実に,これは、新しく,そして永遠なる契約の,私の血のカリスである.
信仰の奥義,
それは,あなたたちと多くの人々の罪をゆるすために流されるのである.」
Hæc quotiescúmque fecéritis, in mei memóriam faciétis.
「あなたたちがこれを行うごとに,私のかたみとしてこれを行え.」
・カリスを奉挙する
・あがないの玄義を再び記念 … Unde et mémores, Dómine, (主よ,さらば記念して…ささげ奉る)
・キリストのいけにえを受入れ給えと祈る … Supra quæ (この供物に…)
・神なるいけにえとの一致を求める祈 … Supplices (うやうやしく)
・死者の記念
(死者の記念 Commemoratio pro defunctis)… Meménto étiam, Dómine,(主よ,記憶し給え)
・天の教会との一致を求める祈 … Nobis quoque (われらは…)
・被造物も称讃にあずかる … Per quem (かれによって)
Per quem hæc ómnia, Dómine, semper bona creas, sanctí+ficas, viví+ficas, bene+dícis et præstas nobis.
「主よ,御身は,かれによってこれらすべてをよきものとしてつくり,これを聖+とし,活+かし,祝+し,そしてわれらに与え給う.」
・御子による聖父に対する称讃,聖霊との一致において. … Per Ipsum (かれによって,かれと共に,…)
Per ip+sum, et cum ip+so, et in ip+so,
est tibi Deo Patri + omnipoténti
in unitáte Spíritus + Sancti
omnis honor, et glória.
Per omnia sǽcula sæculórum.
R/. Amen.
「かれ+によって,かれ+と共に,かれ+において,
全能の+父なる神よ,
+聖霊との一致において,
御身はすべてのほまれと光栄とを受け給う.
世々に至るまで.」
・信者の賛成と称讃 … Amen (アーメン)
ミサ聖祭典文の終わり
C. 主禱文から清めの式まで (聖体拝領)
Ⅵ.パンを割(さ)くこと:
・今日の糧(かて),聖体を求める祈り … Pater noster (主祷文)(われらの父よ)
Pater noster, qui es in cælis :
sanctificétur nomen tuum ; advéniat regnum tuum ; fiat volúntas tua, sicut in cælo, et in terra. Panem nostrum quotidianum da nobis hódie ; et dimítte nobis débita nostra, sicut et nos dimíttimus debitóribus nostris ; et ne nos indúcas in tentatiónem.
R/. Sed líbera nos a malo.
Amen.
「天にましますわれらの父よ,願わくは御名の尊まれんことを,御国の来らんことを,御旨の天に行わるるごとく地にも行われんことを.
われらの日用の糧を,今日(こんにち)われらに与え給え.われらが人にゆるすごとく,われらの罪を赦し給え.われらを試みに引き給わざれ.」
助祭/.「われらを悪より救い給え.」
司祭/.(小声で)「アメン.」
・悪から浄化され,予防されることをこい願う … Líbera nos (われらを救い給え)
Líbera nos, quǽsumus Dómine, ab ómnibus malis, prætéritis, præséntibus et futúris :
et intercedénte beáta et gloriósa semper Vírgine Dei Genitríce María, cum beátis Apóstolis tuis Petro et Páulo, atque Andréa, et ómnibus Sanctis, da propítius pacem in diébus nostris :
ut, ope misericórdiæ tuæ adiúti, et a peccáto simus semper líberi et ab omni perturbatióne secúri.
Per eúndem Dóminum nostrum Iesum Christum, Fílium tuum.
Qui tecum vivit et regnat in unitáte Spíritus Sancti Deus.
Per omnia sǽcula sæculórum. R/. Amen.
「主よ,願わくは,過去,現在,未来のすべての悪からわれらを救い給え.
終生童貞なる永福の,聖母マリア,使徒聖ペトロ,パウロ,アンドレア,および諸聖人のとりつぎにより,御慈悲をもって日々われらに平安を与え,
御あわれみを下して,われらを罪よりすくい,われらをまどわすものより解き放ち給え.
その同じわれらの主,イエズス・キリスト,
神として,聖霊との一致において,御身と共に生きかつ治め給う御子によりて,
世々に至るまで.」助祭/.「アメン」
・パンをさくことと,キリストの平和における一致 … Pax Domini (主の平安)
Pax + Dómini sit + semper vobís+cum.
R/. Et cum spiritu tuo.
「主の+平安,+いつも,あなたたち+とともにあれ.」
助祭/.「また,あなたの霊とともに.」
・聖なるパンを聖なるぶどう酒に加える‐復活と一致との神秘 … Hæc commíxtio (この平和)
Hæc commíxtio et consecrátio Córporis et Sánguinis Dómini nostri Iesu Christi, fiat accipiéntibus nobis in vitam ætérnam. Amen.
(司祭は,御聖体の小片をカリスの中へ入れて小声でとなえる)
「われらの拝領せんとするわれらの主イエズス・キリストの御体と御血とのこの混和と聖別とが,われらの永遠の生命の糧(かて)とならんことを.アメン.」
・神の羔(こひつじ)にこい願う (神羔誦〈しんこうしょう〉)… Agnus Dei
Agnus Dei, qui tollis peccáta mundi : miserére nobis.
Agnus Dei, qui tollis peccáta mundi : miserére nobis.
Agnus Dei, qui tollis peccáta mundi : dona nobis pacem.
「世の罪を除き給う天主の小羊,われらをあわれみ給え.
世の罪を除き給う天主の小羊,われらをあわれみ給え.
世の罪を除き給う天主の小羊,われらに平安を与え給え.」
・平安の接吻 … Domine Iesu (主イエズス)
Domine Iesu Christe, qui dixísti Apóstolis tuis : Pacem relínquo vobis, pacem meam do vobis :
ne respícias peccáta mea, sed fidem Ecclésiæ tuæ ;
eámque secúndum voluntátem tuam pacificáre et coadunáre dignéris :
Qui vivis et regnas Deus per ómnia sǽcula sæculórum. Amen.
「あなたたちに私の平安をのこす,私の平安を与えると,使徒らにおおせられた主イエズス・キリストよ,
私の罪をかえりみず,主の教会の信仰をかえりみ給え.
そして教会に平安を下し,聖なる御旨の如く,一致させ給え.
世々に生きかつ治め給う神よ,アメン.」
・聖体拝領の間近き準備 … Domine Iesu (主イエズス)Percéptio (拝領し奉る)
Domine Iesu Christe, Fili Dei vivi, …
「活ける神の御子イエズス・キリストよ…」
Percéptio Córporis tui, Dómine Iesu Christe, quod ego indígnus súmere præsúmo, …
「主イエズス・キリスト,不肖の私は,あえて御体を拝領し奉る.…」
・司祭が,両形色のもとに,聖体を拝領する … Panem cæléstem(天のパンを)Corpus Dómini (主の御体)Quid retríbuam (何をもって主に報いてよかろうか)Sanguis Dómini (主の御血)
Panem cæléstem accípiam, et nomen Dómini invocábo.
「私は,天のパンを受け,主の御名をこい願う.」
Dómine, non sum dignus, ut intres sub tectum meum : sed tantum dic verbo,
et sanábitur ánima mea.
(司祭は胸を打ちながら,献身的にまたけんそんな心で,小声でとなえる)
「主よ,私は,主をわが家にむかえ奉るにたらぬものである.ただ一言を語り給え.
そうすれば,私の霊魂はいやされるであろう.」(三度繰り返す)
Corpus Dómini nostri Iesu Christi custódiat ánimam meam in vitam ætérnam. Amen.
「われらの主,イエズス・キリストの御体が,私の霊魂を,永遠の生命のために守り給わんことを.アメン.」
Quid retríbuam Dómino pro ómnibus quæ retríbuit mihi ?
Cálicem salutáris accípiam, et nomen Dómini invocábo.
Láudans invocábo Dóminum, et ab inimícis meis salvus ero.
「私に与え給うたすべての善に,私は何をもって主に報いてよかろうか.
私は救いのカリスをとり,主の御名をこい願う.
主の讃美をうたいつつ,こい願おう.そうすれば,私は敵の手の中より救い出されるであろう.」
Sanguis Dómini nostri Iesu Christi custódiat ánimam meam in vitam ætérnam. Amen.
「願わくは,われらの主イエズス・キリストの御血が,私の霊魂を,永遠の生命に守り給わんことを.アメン.」
・信者の聖体拝領
Ecce Agnus Dei, ecce qui tollit peccáta mundi.
「世の罪を除き給う神の小羊を見よ.」
Dómine, non sum dignus, ut intres sub tectum meum : sed tantum dic verbo,
et sanábitur ánima mea.
(御聖体を受ける者は胸を打ちながら三度となえる.)
「主よ,私は,主をわが家にむかえ奉るにたらぬものである.ただ一言を語り給え.
そうすれば,私の霊魂はいやされるであろう.」
(各信者は,祭壇の前にひざまずく)
Corpus Dómini nostri Iesu Christi custódiat ánimam tuam in vitam ætérnam. Amen.
(司祭は各信者の前に御聖体を示し,御聖体で十字架のしるしをしながらとなえ,授ける.)
「われらの主,イエズス・キリストの御体が,あなたの霊魂を,永遠の生命のために守り給わんことを.アメン.」
D. 浄めの式から最後の聖福音まで (感謝の部)
・聖器具の始末 … Quod ore súmpsimus, Dómine,(主よ,口で拝領し奉ったものに…)
・司祭は指を洗う … Corpus tuum Dómine, (主よ,御体と)
・聖体拝領の聖歌 … Communio (聖体拝領誦)
・終りの祈り … Postcommunio (聖体拝領後の祈)
Ⅶ.退散と最後の祈:
・ミサの終りを告げる(終祭誦)… Ite, missa est.
Ite, Missa est. または Benedicámus Dómino.
「行け,ミサは終った.」
・信者は神に感謝する(主を讃美しよう) … Deo gratias (神に感謝し奉る)
・いけにえの祭壇を去るに当り,司祭はけんそんに祈る … Pláceat (よみし給え)
Pláceat tibi, sancta Trinitas, obséquium servitútis meæ:
「聖なる三位一体よ,下僕なる私の聖役をよみし給え…」
・最後の祝福 … Benedícat (祝福し給わんことを)
Benedícat vos omnípotens Deus, Pater, et Fílius, + et Spíritus Sanctus. R/. Amen.
「全能の神が,あなたたちを祝福し給わんことを,聖父と+(一同十字架のしるしをする)聖子と,聖霊とによりて.」助祭/「アメン.」
・最後に福音書を読む … In principio (元始に)
V/. Dóminus vobíscum.
R/. Et cum spíritu tuo.
(Et signans signo crucis primum Altare vel librum, deinde se in fronte, ore et pectore, dicit :)
+ Inítium sancti Evangélii secúndum Ioánnem.
R/. Gloria tibi, Domine.
司祭/. 「主は,あなたたちとともに.」(会衆は起立する)
助祭/. 「また,あなたの霊とともに.」
(司祭は,額と口と胸に親指で小さな十字架のしるしをして言う)
+ヨハネによる聖福音の序.
助祭/. 「主に栄光あれ.」
Ioann. 1, 1-14
In princípio erat Verbum, et Verbum erat apud Deum, et Deus erat Verbum. Hoc erat in princípio apud Deum. Omnia per ipsum facta sunt : et sine ipso factum est nihil, quod factum est : in ipso vita erat, et vita erat lux hóminum : et lux in ténebris lucet, et ténebræ eam non comprehendérunt.
Fuit homo missus a Deo, cui nomen erat Ioánnes. Hic venit in testimónium, ut testimónium perhibéret de lúmine, ut omnes créderent per illum. Non erat ille lux, sed ut testimónium perhibéret de lúmine.
Erat lux vera, quæ illúminat omnem hóminem veniéntem in hunc mundum. In mundo erat, et mundus per ipsum factus est, et mundus eum non cognóvit. In propria venit, et sui eum non recepérunt. Quotquot autem recepérunt eum, dedit eis potestátem fílios Dei fíeri, his, qui crédunt in nómine eius : qui non ex sanguínibus, neque ex voluntáte carnis, neque ex voluntáte viri, sed ex Deo nati sunt. (Genuflectit dicens) : Et Verbum caro factum est, (Et surgens prosequitur) : et habitávit in nobis : et vídimus glóriam eius, glóriam quasi Unigéniti a Patre, plenum grátiæ et veritátis.
ヨハネによる聖福音・第1章1-14節
元始(はじめ)にみことば(御言葉)があった.御言葉は天主(神)とともにあった.みことばは天主であった.彼(かれ)は,元始に天主とともにあり,万物は彼によって造られた.造られた物の中(うち)に,一つとして彼によらずに造られたものはない.彼に生命があり,生命は人間の光であった.光は闇(やみ)に輝いたが,闇は彼を悟らなかった.
さて,天主から遣(つか)わされた人がいて,その名をヨハネといった.この人は,光を証明するために来た,またすべての人が彼によって信じるために,証人として来た.この人は,光ではなく,光を証明するために来た.
すべての人をてらす真(まこと)の光は,まさにこの世に来つつあった.みことばは世にあり,世はみことばによって造られたが,世は彼を知らなかった(みことばを認めなかった).みことばは,ご自分の家に来給うたが,その族(人々)はうけいれ(受け入れ)なかった.しかし,その方をうけいれた人々には,みな,天主の子となれる能力(権利)を授(さず)けた.そのみ名を信じるすべての人たち,それは,血統によらず,肉体の意志によらず,人の意志によらず,ただ天主によって生まれた人々である〈ここで片膝を付く〉.
みことばは肉体となって,〈立ち上がる〉われわれの中(うち)に宿り給うた(住まわれた),我々はその栄光を見た.それは,御独り子として御父から受けられた栄光であって,恩寵と真理とに満ちておられた.
R/. Deo grátias.
助祭/「神に感謝し奉る.」
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(毎日のミサ典書(全ローマ・ミサ典書〈ラテン・仏・英(1962年)・日本(1955年)語訳〉を参照)
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ひとつの腐った林檎 (りんご) がふたつの方法で今日の輝きを失ったカトリック教会の暗闇に小さな光を当てるかもしれません.まず第一に,私たちは林檎が隅々まで腐(くさ)るのを待ってから林檎すべてが腐ったと判断するわけではありません.林檎にはまだ腐っていない部分が残っています.だから林檎が腐っているかどうかという問いに答えるとき,私たちは二通りの区別をする必要があります: 全体として,然(しか)り; ある部分について,然り; ほかの部分については,否(いな),という風にです.そして第二に,林檎即(そく)腐敗,腐敗即林檎ではありませんが,腐敗とその元の林檎は切り離すことはできず,林檎なしに腐敗は存在できません.この常識の第一の部分を新しい典礼によるミサ聖祭 ( “the Novus Ordo Mass” ) と (それを考案した公会議に則した) 「公会議主義下の教会」 ( “Conciliar church” ) に,第二の部分を「公会議主義下の教会」とローマ教皇職 ( “the Papacy” ) に当てはめてみましょう.
新しいミサ聖祭について言えば,それは公会議の人間中心主義によるものですから全体として腐ったものです.だがそのある部分 (例えば奉献(文) “the Offertory, offertorium” ) は明らかにカトリック教とは異なるものである反面,ほかの部分 (例えば求憐誦 〈キリエ〉 “the Kyrie Eleison” ) はカトリック教に則ったものとなっています.新しいミサ聖祭は全体として腐っており徐々にカトリック教徒をプロテスタント教徒へ変えていくものですから,参席するに適したものではありません.だが,聖変化( “Consecration” )にあたる部分はカトリック教に則っており有効だと言えます.したがって新しいミサ聖祭について,有効だから参列できるとも,参列できないのだから無効だとも,いずれも言えないのです.実際には,新しいミサ聖祭の本質的な部分は有効かもしれませんが,それだけでは個人の信仰をこの新しいミサ聖祭全体に参列する危険に曝(さら)すに足る理由とはなりません.(訳注後記)
同じように,今日のカトリック教会は公会議主義がその至るところにまん延している限り全体として腐っているのですが,だからといってカトリック教会のあらゆる(一つ一つの)部分が公会議主義で腐っているわけではありません.したがって,全体が公会議主義だからといってカトリックのまま残っているいずれかの部分を非難するのは間違っていますし,同じようにカトリックのまま残っている部分が多少あるからといって公会議主義全体を許容するのも間違っています.自分の心を現実に合わせるためには,それぞれの異なる部分ごとの間での区別,および全体とそれぞれの異なる部分との間での区別の双方が必要です.
次に今日の教会に腐った林檎との比較の第二の部分を当てはめるなら,二つの教会すなわち「公会議主義下の教会」と「カトリック教会」について話すのが純粋な意味で有意義と言えるでしょう.なぜなら,この二つの教会のそれぞれが純粋な状態だと双方は林檎と腐敗のように互いを排除しますが,現実の世界では公会議主義がカトリック教会の中の至(いた)るところに見出されるからです.だが実生活では,双方は林檎と腐敗あるいは寄生生物と宿主と同じように切り離すことができません.現実の世界において存在する唯一の教会は,カトリック教会のみであり,今日その唯一の教会が公会議主義の腐敗により至るところで苦しめられているのです.
したがって公会議主義の教皇( “a Conciliar Pope” )について言えば,彼は二つの教会の長だとするのが純粋な意味で有意義な言い方でしょう.なぜなら時にはカトリック的な,時には公会議主義的な言動をとることによって彼は常にカトリック教会と公会議主義で腐敗したカトリック教会の両方の長としての立場に自身を置くからです.だからといって彼が現実には別々のものとなっている二つの教会の長だと言うことではありません.いまでは公会議主義の腐敗のため満身創痍(まんしんそうい)となっている唯一真実のカトリック教会の中で,彼がカトリック教義(カトリシズム)と公会議主義の双方の長( “head of both the Catholicism and the Conciliarism” )だということを言っているのです.
それにしても,私たちのカトリック教会指導者たちが神の名にかけて公会議主義の腐敗に夢中になっているのはなぜでしょうか? それは現代社会で人々が自由を渇望するためです ( “Because of the modern longing for liberty.” )(訳注後記).これは今回の話とは別のことです.だがこれとは別にして,私たちは教皇ベネディクト16世がもう一度林檎と腐敗の違いが分かるよう全力を尽くして教皇のために祈らなければなりません!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第6パラグラフの訳注:
「自由」 “liberty” について:
ここでの「自由」とは,「権利(人権)」や「(人が際限なく気まま勝手にしたい欲を縛りつけるような「神の法=自然法〔真理〕」による制約からの)解放」を意味している.
* * *
第2パラグラフの訳注:
〈伝統カトリック教義に則した典礼〉からの解説〉
① 「奉献」 “the Offertory, offertorium” について.
(典礼文)
Orémus. (司祭)
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OFFERTORIUM - 奉献文
Súscipe, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus, …
「聖なる父,全能永遠の神,…」
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Lavabo inter inocéntes manus meas : …
「主よ,私は,罪なき者の一人となるために,私の手を洗い,
(そして主の祭壇のかたわらに立とう.)」
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Súscipe, sancta Trínitas, …
「聖なる三位一体よ…」
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Oráte, fratres : …
「祈れ,兄弟たちよ,…」
|
Secreta …
「密誦」
***
(解説)
・オッフェルトリウムOffertorium は,献物をさし出すことであるが,「奉献」ということに対する現代の信者の考えは,昔の信者の考えとは、大分相違がある.
昔の信者は,自分の献物(パン,ぶどう酒,くだもの,花など)を,自分の手で聖堂にもって行った.
これらの物は,自分自身の内的供物の象(かたど)りであった.奉献のときになると,助祭(あるいは司祭)は,その供物をうけるために,信者の方へ下りてきた.
この供物の中から,その日のミサと聖体拝領に必要な分だけをとり,残りの分は,司祭自身あるいは信者の貧しい人々のために用いることになっていた.
こういうことを行っている間に,その日の祝日あるいは奥義をあらわす奉献文の交誦と詩篇とをうたっていた.
・信者から献物をするこの習慣は,中世時代から次第に変化し,司祭のとなえる代願の祈りは,現在,はじめの「オレムス Oremus 」(われらは祈りましょう)だけが残っている.
・それから,司祭は,副助祭あるいは侍者が祭壇(さいだん)にもってくる献物を,神にささげる.カリスの準備は,祭壇上で行われる.水とぶどう酒とを祝福するに当っての祈りは,御降誕の祝日の昔からの祈りで,水とぶどう酒とを交ぜることの象徴を知らせるのである.
最後の晩さんのとき,主は,聖別したぶどう酒に,少しの水をまぜ給うた.
奉献の祈りはすべて,まことに立派な祈りであって,キリスト教的いけにえなる聖変化へと漸次祈りは高潮してゆく.
・もう世俗的な使用に供されないという意味をあらわすために,司祭は,献物のパンとぶどう酒とに撒香する.それから,司祭は,自分の手をきよめて,詩篇二十五からの祈りをとなえる.(Lavabo 洗いましょうの意)
・聖なる三位一体よ,うけ給え(suscipe, sancta Trinitas) という祈りは,いけにえであるこの献物を,キリストの奥義と聖人らの功徳とに結びつける.
・それから司祭は,参列者の祈りと一致するために,「兄弟たちよ,祈れ」(Orate, fratres)とすすめる.信者たちは,それに対して,神の栄光と公教会の善とのために,この献物を嘉(よみ)し給え,と答える.
・すると司祭は,献物に最後の祈り 密誦(Secreta)をとなえ,奉献の式を終る.
密誦を終るとき,司祭は,声を高めて序誦をうたう.
(この後「聖変化」の部の典礼へ続く)
* * *
② 「求憐誦 」〈キリエ〉 “the Kyrie Eleison, Kýrie, eléison” について.
入祭文を終って後,司祭は祭壇の中央に行き,侍者と交互に求憐誦を唱える.
(典礼文)
Kýrie, eléison. Kýrie, eléison. Kýrie, eléison.
「主,あわれみ給え」
|
Christe, eléison. Christe, eléison. Christe, eléison.
「キリスト,あわれみ給え」
|
Kýrie, eléison. Kýrie, eléison. Kýrie, eléison.
「主,あわれみ給え」
***
(解説)
・助祭が会衆とともに祈っていた昔の典礼の名残りとして残っている.助祭が会衆とともにとなえていた祈りは,主として聖歌であった.
・キリエ・エレイソンは,ギリシア語で,古代ローマにおける典礼がギリシア語で行われていたことを思い出させる.
・これらの祈願は,主なるキリストに向ってなされる.「キュリオス」( Kyrios )とは,われわれを救い給う光栄の「主」である.
* * *
③ 「聖変化」 “Consecration, Consecrátio” について.
パンとぶどう酒が神の羔(こひつじ,Agnus Dei)たる神の御子キリストのいけにえの御聖体( Corpus Christi )とキリストの流された〈人類の罪の赦しのための〉新しい契約の御血(Sanguis)に変わること)
…“Hæc commíxtio, et consecrátio Córporis et Sánguinis Dómini nostri Iesu Christi, fiat accipiéntibus nobis in vitam ætérnam.” ( Ordo missæ )
…「われらの拝領せんとするわれらの主イエズス・キリストの御体と御血とのこの混和と聖別とが,われらの永遠の生命の糧(かて)とならんことを.」(聖伝のミサ典礼文より)
***
(解説)
聖体の序誦
元来,序誦は,聖変化の部に属し,この二つは,聖体の荘厳な祈りであった.現在では,三聖頌(Sanctus)が,この二つの間に加わった.
しかし・現在(1955年),序誦が聖変化の部と分離したにしても,なお序誦は,聖変化という重大な行いの序曲である.
序誦(Præfatio)は,ギリシア語から出た言葉で,荘厳な祈りを意味する.
この祈りは,主への感謝であり,聖体の讃歌であって,これによって司祭は,神のこの大なる御業を讃美するのである.また,これは,その日の意義を思い出させる.
司祭は,われわれが深い敬虔をもって,天使とも一致し,聖体をささげうるようにととなえて,この祈りを終る.
聖なるいけにえ
低いこえで聖体への祈り(典文〈カノン,Canon 〉)をつづける司祭に,信者は一致する.司祭は救主の功徳によって,教皇と司教とをかしらとする全公教会と,すべて参列する者のためにささげるこのいけにえをよみし給えと,神に祈る.
こうして,全団体を神の御手にゆだねてのち,地上の教会から天に集る教会へと心を移し,
諸聖人の通功をこい願い(Communicantes 凱旋の公教会の祈念),天の聖人たち,御母聖マリア,使徒,殉教者らの祈りに委託して,司祭は,(Infra actionem)いけにえを行いはじめる.
司祭の先ずすることは,献物の上に両手をひろげることである.これは,会衆を代表して,
えらばれたいけにえの上に掩(按)手する旧約の祭司たちの行いを思い出させる(Hanc igitur さて,これを).
それから司祭は,キリストの民のこのいけにえを嘉(よみ)し給い,全くうけ入れ給うようにと祈る(Quam oblationem この献物を).
それから,このいけにえが、主イエズスのいけにえと合わせられる価値あるものとなるように、神御自身はからい給えと祈る.
公教会は,キリストと同じように,子としての信頼をもっている.キリストと同じく公教会は,御父が常に自分の願いをきき入れ給うことを知っている.(ヨハネ聖福音,11章42節)
これがために,自然に,聖体制定の次第を語るに至る.いま,秘蹟的に話し,最後の晩餐の行いを新たにし給うのは,キリスト御自身である.キリストは,いけにえをくり返し給う.
これは,不敗の勝利者のいけにえである.なぜなら,最後の晩饗のときより,この世の終りの日まで,秘蹟なるこのいけにえは,不滅なるもの(生命=キリスト)の死をくり返しつづけるからである.
キリストの御死去によって,栄光はキリストに帰せられ,十字架によって,自分自身にすべての人間をひきつけるべき御者は,称揚される.これが,奉挙(Elevatio)の象(かたど)りである.
この奉挙の習慣は,大分時代を下ってからのことである.
祈念誦(Anamnesis),「さらば、思い起しつつ」(Unde et memores)という二つの祈りも,救主の偉大なる御業の追想である.そして,あがないの奥義,御受難だけではなく,御復活と御昇天の奥義をも,ここに追想する.
われわれのいけにえは,キリストのいけにえと一つになる.いま,司祭は,アベル,アブラハム,メルキセデクなどのそなえものにはるかにまさる浄く汚れなく聖なる血を献げるのである(Supra quæ これらの献物の上に).
いけにえの天便が,われわれの献物を天の祭壇,神の尊前にもちゆく代りとして,救主なるキリストの御体と御血との宴に,われわれがあずかれるようにと,神にこい願う(Supplices われらひれ伏して).
われわれが,神の宴にあずかることをゆるされるこのいけにえの準備は,もはやととのった.この典礼的ないけにえの功徳は,先ず,つぐのいを果しつつある「苦悩の教会」の霊に応用される.
そして,司祭と,参列の信者のためにも応用されるようにとこい願い,(Nobis quoque われわれにも),このいけにえにあずかり,天の聖人とともになることをも,神の御慈悲によってこい願う.
聖体の行い,すなわち,厳密な意味での典文(カノン)は,終りに近づいた.その終りは,まことに荘重である.
司祭は,オスティアとカリス(祭爵)とを,一緒にもち上げて,三位一体の神に光栄とほまれとをささげる.
そこで参列の信者は、「アメン」ととなえて,司祭の頌歌にこたえ,司祭の聖変化の行為を承諾するのである.この「アメン」は,聖変化の沈黙のはじまりの時から,結晶していた力のほとばしりである.
パンをさくこと
聖体制定のことを物語る福音書によると,主は,聖体のパンを弟子らに与えるに先だち,それを割(さ)いて分けたと記されている.
この行為は,昔から特に重視され,fractio panis(パンをさくこと)は,長らくの間,ミサ聖祭と同義語に用いられてきた.元来,「パンをさくこと」は,実際上の必要からで,信者の聖体拝領のために,大きなパンを分けていたのである.
今はもう実際上のそんな必要はなく,司祭の拝領するオスティアだけをさくことになっている.パンをさくことは,又,昔の習慣の名残りである.聖なるオスティアをさいてから,司祭はオスティアの小片を,カリスに入れる.これはなぜかというに,九世紀ごろまで,ミサののち,聖変化したパンの一片を保存する規則があり(これを Sancta 聖なるものといった),この一片を,次のミサのとき,御血にひたしたのである.それは,公教会のいけにえの,一致性と継続(けいぞく)性とを象(かたど)るならわしであった.
「われらひれ伏して」(Supplices)の祈りがおわれば,いけにえの宴(うたげ)は,もう準備が出来上っている.
典文(カノン)の最後のアメンが終ると,司祭は声をあげて,一同に代り,(Oremus 祈願)と主禱文をとなえる.この祈りは,聖体拝領の直前の準備の祈りとして,ずっと古くから用いられている.
それから司祭は,聖なるオスティアをさくが,これは主の御業のくり返しであり,皆のためにさくこの行いは,救主キリストのみがこの世に与える平安を象るのである.
われわれは主の御死去によって,まことの平安を再び見出した.聖なるパンと聖なるぶどう酒とを混(まぜ)ることは,キリストの復活と不滅性とを意味するのである.「キリストは、もう死に給わない.」(新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への手紙,6章9節)
神の羔(こひつじ)に対する神羔誦(しんこうしょう Agnus Dei)は,復活の羔,不滅の糧(かて)となり給うたキリストへの祈りである.
聖体は,本質的にキリスト教的一致,神秘体の生ける一致の秘蹟である.われわれがもし,公教会と一致していないならば,キリストの御体と御血とにもあずかることができない.
また,聖体拝領を否むことは,神秘体から離(はな)れ去ることである.これがために司祭は,キリストにおいてすべてが一致するようにとこい願ってから,助祭を通して,参列の信者に,平安の接吻をおくるのである.現在はもう習慣として残っていないが,この平和の接吻は,その昔は,聖体拝領の唯一つの準備であった.現在は,その精神だけが残されているわけであるから,兄弟への憎(にく)みの念をすて,公教会と兄弟たちに一致する心がなければ,聖体に近づくことはできない.
比較的時代を下ってから,こののち二つの祈りが加えられた.これは,聖体拝領とキリスト教的生活とのつながりを示す祈りである.
実に,キリストと一致することは,キリスト,特に十字架を負(お)い給うたキリストにならうことである.キリスト信者の幸福は,十字架と切り離(はな)せないものである.
こういう神秘的な準備ののち,司祭は,パンとぶどう酒との二つの形色において聖体を拝領し,それから,侍者と一般信者が聖体を受ける.
侍者と信者の聖体拝領は,パンの形色の下に行われる.もちろん,かれらも,古くは二つの形色のもとに聖体をうけていたし,現在でも,東方挙式法による公教会においては,二つの形色の聖体を信者にもさずけている。
しかし,一つの形色でも功徳と効果とは同じである.すべての信者に,聖体は永遠の結実を生むであろう.
昔は,聖体をさずける間に,聖体拝領誦の詩篇をうたう習慣であった.この習慣は,現在の交誦に名残りをとどめているだけで,これを聖体拝領誦(Communio)という.
一般に,聖体拝領誦は,その日の祝日,あるいは奥義に関連した祈りであり,われわれの感謝をあらわしている.
聖器具を始末してのち,司祭は,信者らに挨拶(あいさつ)し,皆に代って,聖体拝領後の祈(Postcommunio)をとなえる.
この祈りによって,聖なるいけにえの拝領は終った.この祈りは,秘蹟的に霊的に聖体を拝領したすべての人に,公教会が何を期待するかをあらわし,この聖なる奥義によってもたらされる至福をも語る.
だが公教会は,この秘蹟を,天の至福の予備としてだけではなく,いまうけた聖寵に対する忠実さによって,いつか決定的にうけるであろう至福の予言とも考えるのである.
***
「毎日のミサ典書」(序論(2)ミサ典書とローマ式ミサ)より引用
* * *
1962年ミサ聖祭通常文の表
-〈注〉一部の典礼文は省略されています.Partly abbreviated. -
ORDO MISSÆ (1962) (Ordinarium Missæ)
ORDINAIRE DE LA SAINTE MESSE / ORDINARY OF THE MASS
〈灌水式:(洗礼のかたどりの一つ)〉
・交誦(詩篇・第50篇9節) Antiphona … Aspérges me, (主よ,ヒソプもて)
*Aspérges me, Dómine, hyssópo, et mundábor : lavábis me, et super nivem dealbábor.
Ps. 50, 3. Miserére mei, Deus, secúndum magnam misericórdiam tuam.
V/. Glória Patri.
Et repetitur ant. *Aspérges me.
「*主よ,**ヒソプもて私にそそぎ給え,私は浄(きよ)められるであろう.私を洗い給え,私は雪よりも白くなるであろう.
(詩篇・50篇3節)神よ,御慈悲により,私をあわれみ給え.」
司祭/. 願わくは,聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊とに栄えあれ,
助祭(侍者・信者)/. はじめとおなじく,今もいつも,世々に,アメン.
「(*主よ,ヒソプもて…をくりかえす)」
(**ヒソプ…ハナハッカの小枝;清めの祭式に用いられた.ヘブライ語で「聖なる薬草」を意味する.)
(御受難の主日と枝の主日とには,栄誦をとなえない)
(復活節(御復活の祝日-聖霊降臨まで)は,次の通り)
*Vidi aquam egrediéntem de templo, a látere dextro, allelúia : et omnes ad quos pervénit aqua ista, salvi facti sunt, et dicent : allelúia, allelúia.
Ps. 117,1. Confitémini Dómino, quóniam bonus : quóniam in sǽculum misercórdia eius.
V/. Glória Patri.
Et repetitur ant. *Vidi aquam.
「私は,神殿の右側からわき出る水を見た,アレルヤ.この水にうるおった人々は,みな救われた.かれらは,アレルヤ,アレルヤとうたう.
(詩篇・117篇1節)主をほめたたえよ,主は善にて在(ましま)す,主の御あわれみは永遠である.」
司祭/. 願わくは,聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊とに栄えあれ,
助祭/. はじめとおなじく,今もいつも,世々に,アメン.
「(*私は,神殿の右側から…をくりかえす)」
…(中間略)
・祈願 Oratio … Exáudi nos (われらの祈りをききいれ給え)
Exáudi nos, Dómine sancte, Pater omnípotens, ætérne Deus : …
「聖なる主,全能の父,永遠の神よ,…われらの祈りをききいれ給え.」
***
Ⅰ.準備:
MISSA CATECHUMENORUM (Signum crucis – Credo)
MESSE DES CATECHUMENES / MASS OF THE CATECHUMENS
(洗礼志願者のミサ)
A. 準備の祈り(祭壇の足元で)
・十字架のしるし … Signum cruces
In nómine Patris, et Fílii, et Spíritus Sancti. Amen.
V/. Introíbo ad altáre Dei.
R/. Ad Deum, qui lætíficat iuventútem meam.
「聖父(ちち)と,聖子(こ)と,聖霊との御名によりて.アメン.」
司祭/「私は,神の祭壇に上ろう.」
助祭/「私の若さを喜びで満たし給う神の方へ.」
…
・信仰,神への委託,信頼,謙遜 … Iúdica me, Deus, (神よ,私を弁護し給え)(詩篇42編)
・痛悔と心の清さ … Confíteor (告白の祈り)
Confíteor Deo omnipoténti, beátæ Maríæ semper Vírgini, beáto Michaéli Archángelo, beáto Ioánni Baptístæ, sanctis Apóstolis Petro et Páulo, ómnibus Sanctis, et vobis, fratres : quia peccávi nimis cogitatióne, verbo, et ópere :
(Percutit sibi pectus ter, dicens :)
mea culpa, mea culpa, mea máxima culpa.
Ideo precor beátam Maríam semper Virginem, beátum Michaélem Archángelum, beátum Ioánnem Baptístam, sanctos Apóstolos Petrum et Páulum, omnes Sanctos, et vos, fratres, oráre pro me ad Dóminum Deum nostrum.
「全能の天主,終生童貞なる聖マリア,大天使聖ミカエル,洗者聖ヨハネ,使徒聖ペトロ・聖パウロ,諸聖人およびなんじら兄弟たちにむかいて,われは思いと言葉と行いとをもって多くの罪を犯せしことを告白したてまつる.
(三度胸を打ちながら言う.)
これわがあやまちなり,わがあやまちなり,わがいと大いなるあやまちなり.
これによりて終生童貞なる聖マリア,大天使聖ミカエル,洗者聖ヨハネ,使徒聖ペトロ・聖パウロ,諸聖人およびなんじら兄弟たちに,わがためにわれらの主なる天主に祈られんことを願いたてまつる.」
Misereátur tui omnípotens Deus, et dimissis peccátis tuis, perdúcat te ad vitam ætérnam.
助祭/.「願わくは,全能の神があなたを憐れみ,あなたの罪をゆるして,永遠の生命に導き給わんことを.」
Amen.
司祭/.「アメン.」
B. 入祭文から奉献まで
・はじめの聖歌 … Introitus (入祭文)
(司式司祭はすぐ祭壇に上らず,祭壇の下で準備の祈りをとなえる.
聖歌隊が,入祭文を終るまでに,司祭は祭壇に上がり,祭壇に接吻し,撒香する.)
(祭壇は特に聖別され,新約の祭壇,いけにえ・大司祭であるキリストを意味する.
また密接にキリストとむすびつくために,祭壇には,聖なる殉教者の遺物の一部が納められている.)
(司祭が祭壇に接吻するのは,これから,奥義を新たにするに当って,キリストの御心と心を一つにすることを,あらわすためである.
祭壇への撒香は,礼拝と尊敬をあらわすためである.)(ローマ・ミサ典書・日本語版より)
Ⅱ.祈りと教え:
《祈り》
・礼拝と祈願 … Kýrie (求憐誦)
V/. Kýrie eléison.
R/. Kýrie eléison.
V/. Kýrie eléison.
R/. Christe eléison.
V/. Christe eléison.
R/. Christe eléison.
V/. Kýrie eléison.
R/. Kýrie eléison.
V/. Kýrie eléison.
(司祭と助祭が交互に三度ずつとなえる)
「主,あわれみ給え.
キリスト,あわれみ給え.
主,あわれみ給え.」
・三位一体の称讃 … Glória (栄光誦)
〔Glória in excélsis Deo et in terra pax homínibus bonæ voluntátis. …
「天においては天主に栄えあれ.地においては善意の人に平和あれ.…」〕
《教え(教理)》
・団体の祈り … Collecta (集祷文)
・第一の朗読 … Epistola (新約聖書の使徒の書簡)
・中間の聖歌 … Graduale (昇階誦)
・Alleluia(アレルヤ誦)あるいは Tractus (詠誦)
・キリストの御言葉の朗読 … Evangelium(福音書)
・キリストとその御言葉への承諾 … 〔Credo (信経)〕
Ⅲ.奉献の部:
MISSA FIDELIUM (Offertorio – Postcommunio)
MESSE DES FIDELES / MASS OF THE FAITHFUL
(信者のミサ)
A. 奉献から序誦まで (奉献)
・奉献の準備 … Offertorium (奉献文)
・御父なる神にパンの奉献 … Súscipe, (うけいれ給え)
Súscipe,sancte Pater, omnípotens ætérne Deus,
「聖なる父,全能永遠の神,…うけいれ給え.…」
・カリスの準備 … Deus, qui (神よ)
・カリスの奉献 … Offérimus tibi, Dómine, (主よ,われらはささげ奉る)
・心の奉献 … In spíritu(心をもって)
In spíritu humilitátis et in ánimo contríto suscipiámur a te, Dómine :
「主よ,深くへりくだり,痛悔の心をもってささげ奉るわれらを受けいれ給え.…」
・奉献するものの上に,聖霊を祈願する … Veni, Sanctificátor, (聖とならしめ給う御者,下り給え)
Veni, Sanctificátor, omnípotens ætérne Deus : …
「聖とならしめ給う全能の御者,永遠の神よ,下り給え.…」
・手を浄める … Lavábo (洗い奉る)
Lavábo inter innocéntes manus meas : et circúmdabo altáre tuum, Dómine.
「主よ,私は罪なき者の一人となるために,私の手を洗い,そして,主の祭壇のかたわらに立とう.」
・キリストと諸聖人との功徳にもとづく奉献 … Súscipe, sancta Trínitas, (聖なる三位一体よ,受け給え)
・信者は,祈りによって,奉献に一致する … Oráte fratres, (兄弟たちよ,祈れ)Suscipiat (受け給わんことを)
Oráte fratres, ut meum ac vestrum sacrifícium acceptábile fiat apud Deum Patrem omnipoténtem.
「兄弟たちよ,祈れ,私と,あなたたちとのいけにえが,全能の父なる神のみもとによみせられるように.」
R/. Suscípiat Dóminus sacrifícium de mánibus tuis ad láudem et glóriam nóminis sui, ad utilitátem quoque nostram, totiúsque Ecclésiæ suæ sanctæ.
助祭/.「主が,御名のほまれと栄光のため,更に,われらの利益のため,御自分の聖なる全教会のために,あなたの手から,このいけにえを受け給わんことを.」
・奉献するものの前で,祈る … Secreta (密誦)
B. 序誦から主禱文まで (聖変化の部)
Ⅳ.聖体の序誦:
・荘厳な感謝の祈り … Praefatio (序誦)
・讃美 … Sanctus (三聖頌)
ミサ聖祭典文( CANON MISSÆ )
Ⅴ.聖なるいけにえ: (聖変化)
・奉献するものを考える … Te ígitur (さて,汝を…)
Te ígitur, clementíssime Pater, per Iesum Christum, Fílium tuum, Dóminum nostrum, súpplices te rogámus ac pétimus, uti accépta hábeas, et benedícas, hæc + dona, hæc + múnera, hæc + sacrifícia illibáta,…
「いと寛仁なる父よ,われらは深くへりくだって祈り奉る.願わくは御子イエズス・キリストによって,この+賜物,この+ささげ物,この+けがれなく聖なるいけにえを受入れ,祝し給わんことを.」
・戦闘(せんとう)の公教会の祈念 … In primis (先ず,…)
…in primis, quæ tibi offérimus pro Ecclésia tua sancta cathólica :
quam pacificáre, custodíre, adunáre, et régere dignéris toto orbe terrárum :
una cum fámulo tuo Papa nostro Benedictus XVI., et Antístite nostro N.,
et ómnibus orthodóxis, atque cathólicæ, et apostólicæ fídei cultóribus.
(両手をひろげ,普遍教会のために祈る)
…先ず,われらは,主の聖なるカトリック教会〔公教会〕のために,これをささげ奉る.
願わくは,教会に平和を与え,それを保護し,一致を固めさせ,
主の下僕なる〔われらの〕教皇ベネディクト16世,われらの司教〔名〕,
および正統な教えと使徒伝承のカトリック信仰とを守る人々と共に,
全世界において,治め,導き給え.」
・特定人の記憶
(生きる人々の記念 Commemoratio pro vivis)… Meménto, Dómine,(主よ,記憶し給え)
・凱旋(がいせん)の公教会の祈念 … Communicántes (聖なる一致において…)
(注)「コムニカンテス」は,われわれが,ここに名の記されている聖人たちだけでなく,罪深い性質においてわれわれと似た人間であったその他の無数の聖人たちのとりなしによってもまた天に招かれていることを知る喜びを与えられる.
殉教者の元后・聖マリアの御名は御子キリストのいけにえ(犠牲)から切り離すことはできない.聖マリアは神の羔(こひつじ)とともにわれわれ自身を祭壇の足元でささげるようお教えになる.聖ヨゼフは普遍教会の保護者として祈願される.(英語のミサ典書の解説より)
Communicántes, et memóriam venerántes, in primis gloriósæ semper Vírginis Maríæ, Genitrícis Dei et Dómini nostri Iesu Christi :
Sed et beáti Ioseph, eiúsdem Vírginis Sponsi, et beatórum Apostolórum ac Mártyrum tuórum, …et ómnium Sanctórum tuórum ;
quorum méritis precibúsque concédas, ut in ómnibus protectiónis tuæ muniámur auxilio.
Per eúndem Christum Dóminum nostrum. Amen.
「聖なる一致において,われらは,先ず,わが神なる主,イエズス・キリストの御母,終生童貞なる光栄のマリアの記念を,つつしんで行い奉る.
また,その浄配聖ヨゼフ,主の聖なる使徒,殉教者,… およびすべて主の聖人らの記念を行い奉る.
願わくは彼らの功徳ととりなしとによって,われらに,御保護の助力を与え給わんことを.同じわれらの主,キリストによりて.アメン.」
・献物を受入れ給えと祈る … Hanc ígitur (さて,これを…)
・聖変化をこい願う祈り … Quam oblatiónem tu, Deus, (神よ,このささげものを)
Quam oblatiónem tu, Deus, in ómnibus, quǽsumus, bene+díctam, adscríp+tam, ra+tam, rationábilem, acceptabilémque fácere dignéris : ut nobis Cor+pus, et semel super calicem, et San+guis fiat dilectíssimi Fílii tui, Dómini nostri Iesu Christi.
「神よ,願わくは,このささげものを祝+し,嘉+納し,全く+認め,真の価値あるいけにえとなし給え.これが,われらのために,御身の最愛の御子,われらの主イエズス・キリストの御+体,御+血とならんことを.」
・聖体制定の記念 … Qui prídie (御受難の前日…)
Qui prídie quam paterétur, accépit panem in sanctas ac venerábiles manus suas, et elevátis óculis in cælum ad te Deum Patrem suum omnipoténtem, tibi grátias agens, bene+díxit, fregit, dedítque discípulis suis, dicens : Accípite, et manducáte ex hoc omnes.
「主は,御受難の前日,その聖なる尊い御手にパンをとり,天に在(ましま)す全能の御父なる御身の方に目を上げ,御身に感謝し,それを祝+して,分け,弟子らに与えておおせられた.皆,これを受け,そして食べよ.」
・パンの聖変化 … Hoc est enim corpus … (実にこれは,私の体である)
HOC EST ENIM CORPUS MEUM
「実にこれは,私の体である.」
・聖体を奉挙する
・聖体制定のつづき … Simili modo (同じく…)
Simili modo póstquam cenátum est, accípiens et hunc præclárum cálicem in sanctas ac venerábiles manus suas : tibi grátias agens, bene+díxit, dedítque discípulis suis, dicens : Accípite, et bíbite ex eo omnes.
「同じく晩餐が終ったとき,主は,その聖なる尊き御手に,この光栄あるカリス(聖杯)を取り,再び,御身に感謝し,これを祝+し,弟子たちに与えて,おおせられた..皆,これをとって飲め.
・ぶどう酒の聖変化 … Hic est enim calix … (実に,これは私の血のカリス(聖杯)で…)
HIC EST ENIM CALIX SÁNGUINIS MEI, NOVI ET ÆTÉRNI TESTAMÉNTI :
MYSTÉRIUM FIDEI :
QUI PRO VOBIS ET PRO MULTIS EFFUNDÉTUR IN REMISSIÓNEM PECCATÓRUM.
「実に,これは、新しく,そして永遠なる契約の,私の血のカリスである.
信仰の奥義,
それは,あなたたちと多くの人々の罪をゆるすために流されるのである.」
Hæc quotiescúmque fecéritis, in mei memóriam faciétis.
「あなたたちがこれを行うごとに,私のかたみとしてこれを行え.」
・カリスを奉挙する
・あがないの玄義を再び記念 … Unde et mémores, Dómine, (主よ,さらば記念して…ささげ奉る)
・キリストのいけにえを受入れ給えと祈る … Supra quæ (この供物に…)
・神なるいけにえとの一致を求める祈 … Supplices (うやうやしく)
・死者の記念
(死者の記念 Commemoratio pro defunctis)… Meménto étiam, Dómine,(主よ,記憶し給え)
・天の教会との一致を求める祈 … Nobis quoque (われらは…)
・被造物も称讃にあずかる … Per quem (かれによって)
Per quem hæc ómnia, Dómine, semper bona creas, sanctí+ficas, viví+ficas, bene+dícis et præstas nobis.
「主よ,御身は,かれによってこれらすべてをよきものとしてつくり,これを聖+とし,活+かし,祝+し,そしてわれらに与え給う.」
・御子による聖父に対する称讃,聖霊との一致において. … Per Ipsum (かれによって,かれと共に,…)
Per ip+sum, et cum ip+so, et in ip+so,
est tibi Deo Patri + omnipoténti
in unitáte Spíritus + Sancti
omnis honor, et glória.
Per omnia sǽcula sæculórum.
R/. Amen.
「かれ+によって,かれ+と共に,かれ+において,
全能の+父なる神よ,
+聖霊との一致において,
御身はすべてのほまれと光栄とを受け給う.
世々に至るまで.」
・信者の賛成と称讃 … Amen (アーメン)
ミサ聖祭典文の終わり
C. 主禱文から清めの式まで (聖体拝領)
Ⅵ.パンを割(さ)くこと:
・今日の糧(かて),聖体を求める祈り … Pater noster (主祷文)(われらの父よ)
Pater noster, qui es in cælis :
sanctificétur nomen tuum ; advéniat regnum tuum ; fiat volúntas tua, sicut in cælo, et in terra. Panem nostrum quotidianum da nobis hódie ; et dimítte nobis débita nostra, sicut et nos dimíttimus debitóribus nostris ; et ne nos indúcas in tentatiónem.
R/. Sed líbera nos a malo.
Amen.
「天にましますわれらの父よ,願わくは御名の尊まれんことを,御国の来らんことを,御旨の天に行わるるごとく地にも行われんことを.
われらの日用の糧を,今日(こんにち)われらに与え給え.われらが人にゆるすごとく,われらの罪を赦し給え.われらを試みに引き給わざれ.」
助祭/.「われらを悪より救い給え.」
司祭/.(小声で)「アメン.」
・悪から浄化され,予防されることをこい願う … Líbera nos (われらを救い給え)
Líbera nos, quǽsumus Dómine, ab ómnibus malis, prætéritis, præséntibus et futúris :
et intercedénte beáta et gloriósa semper Vírgine Dei Genitríce María, cum beátis Apóstolis tuis Petro et Páulo, atque Andréa, et ómnibus Sanctis, da propítius pacem in diébus nostris :
ut, ope misericórdiæ tuæ adiúti, et a peccáto simus semper líberi et ab omni perturbatióne secúri.
Per eúndem Dóminum nostrum Iesum Christum, Fílium tuum.
Qui tecum vivit et regnat in unitáte Spíritus Sancti Deus.
Per omnia sǽcula sæculórum. R/. Amen.
「主よ,願わくは,過去,現在,未来のすべての悪からわれらを救い給え.
終生童貞なる永福の,聖母マリア,使徒聖ペトロ,パウロ,アンドレア,および諸聖人のとりつぎにより,御慈悲をもって日々われらに平安を与え,
御あわれみを下して,われらを罪よりすくい,われらをまどわすものより解き放ち給え.
その同じわれらの主,イエズス・キリスト,
神として,聖霊との一致において,御身と共に生きかつ治め給う御子によりて,
世々に至るまで.」助祭/.「アメン」
・パンをさくことと,キリストの平和における一致 … Pax Domini (主の平安)
Pax + Dómini sit + semper vobís+cum.
R/. Et cum spiritu tuo.
「主の+平安,+いつも,あなたたち+とともにあれ.」
助祭/.「また,あなたの霊とともに.」
・聖なるパンを聖なるぶどう酒に加える‐復活と一致との神秘 … Hæc commíxtio (この平和)
Hæc commíxtio et consecrátio Córporis et Sánguinis Dómini nostri Iesu Christi, fiat accipiéntibus nobis in vitam ætérnam. Amen.
(司祭は,御聖体の小片をカリスの中へ入れて小声でとなえる)
「われらの拝領せんとするわれらの主イエズス・キリストの御体と御血とのこの混和と聖別とが,われらの永遠の生命の糧(かて)とならんことを.アメン.」
・神の羔(こひつじ)にこい願う (神羔誦〈しんこうしょう〉)… Agnus Dei
Agnus Dei, qui tollis peccáta mundi : miserére nobis.
Agnus Dei, qui tollis peccáta mundi : miserére nobis.
Agnus Dei, qui tollis peccáta mundi : dona nobis pacem.
「世の罪を除き給う天主の小羊,われらをあわれみ給え.
世の罪を除き給う天主の小羊,われらをあわれみ給え.
世の罪を除き給う天主の小羊,われらに平安を与え給え.」
・平安の接吻 … Domine Iesu (主イエズス)
Domine Iesu Christe, qui dixísti Apóstolis tuis : Pacem relínquo vobis, pacem meam do vobis :
ne respícias peccáta mea, sed fidem Ecclésiæ tuæ ;
eámque secúndum voluntátem tuam pacificáre et coadunáre dignéris :
Qui vivis et regnas Deus per ómnia sǽcula sæculórum. Amen.
「あなたたちに私の平安をのこす,私の平安を与えると,使徒らにおおせられた主イエズス・キリストよ,
私の罪をかえりみず,主の教会の信仰をかえりみ給え.
そして教会に平安を下し,聖なる御旨の如く,一致させ給え.
世々に生きかつ治め給う神よ,アメン.」
・聖体拝領の間近き準備 … Domine Iesu (主イエズス)Percéptio (拝領し奉る)
Domine Iesu Christe, Fili Dei vivi, …
「活ける神の御子イエズス・キリストよ…」
Percéptio Córporis tui, Dómine Iesu Christe, quod ego indígnus súmere præsúmo, …
「主イエズス・キリスト,不肖の私は,あえて御体を拝領し奉る.…」
・司祭が,両形色のもとに,聖体を拝領する … Panem cæléstem(天のパンを)Corpus Dómini (主の御体)Quid retríbuam (何をもって主に報いてよかろうか)Sanguis Dómini (主の御血)
Panem cæléstem accípiam, et nomen Dómini invocábo.
「私は,天のパンを受け,主の御名をこい願う.」
Dómine, non sum dignus, ut intres sub tectum meum : sed tantum dic verbo,
et sanábitur ánima mea.
(司祭は胸を打ちながら,献身的にまたけんそんな心で,小声でとなえる)
「主よ,私は,主をわが家にむかえ奉るにたらぬものである.ただ一言を語り給え.
そうすれば,私の霊魂はいやされるであろう.」(三度繰り返す)
Corpus Dómini nostri Iesu Christi custódiat ánimam meam in vitam ætérnam. Amen.
「われらの主,イエズス・キリストの御体が,私の霊魂を,永遠の生命のために守り給わんことを.アメン.」
Quid retríbuam Dómino pro ómnibus quæ retríbuit mihi ?
Cálicem salutáris accípiam, et nomen Dómini invocábo.
Láudans invocábo Dóminum, et ab inimícis meis salvus ero.
「私に与え給うたすべての善に,私は何をもって主に報いてよかろうか.
私は救いのカリスをとり,主の御名をこい願う.
主の讃美をうたいつつ,こい願おう.そうすれば,私は敵の手の中より救い出されるであろう.」
Sanguis Dómini nostri Iesu Christi custódiat ánimam meam in vitam ætérnam. Amen.
「願わくは,われらの主イエズス・キリストの御血が,私の霊魂を,永遠の生命に守り給わんことを.アメン.」
・信者の聖体拝領
Ecce Agnus Dei, ecce qui tollit peccáta mundi.
「世の罪を除き給う神の小羊を見よ.」
Dómine, non sum dignus, ut intres sub tectum meum : sed tantum dic verbo,
et sanábitur ánima mea.
(御聖体を受ける者は胸を打ちながら三度となえる.)
「主よ,私は,主をわが家にむかえ奉るにたらぬものである.ただ一言を語り給え.
そうすれば,私の霊魂はいやされるであろう.」
(各信者は,祭壇の前にひざまずく)
Corpus Dómini nostri Iesu Christi custódiat ánimam tuam in vitam ætérnam. Amen.
(司祭は各信者の前に御聖体を示し,御聖体で十字架のしるしをしながらとなえ,授ける.)
「われらの主,イエズス・キリストの御体が,あなたの霊魂を,永遠の生命のために守り給わんことを.アメン.」
D. 浄めの式から最後の聖福音まで (感謝の部)
・聖器具の始末 … Quod ore súmpsimus, Dómine,(主よ,口で拝領し奉ったものに…)
・司祭は指を洗う … Corpus tuum Dómine, (主よ,御体と)
・聖体拝領の聖歌 … Communio (聖体拝領誦)
・終りの祈り … Postcommunio (聖体拝領後の祈)
Ⅶ.退散と最後の祈:
・ミサの終りを告げる(終祭誦)… Ite, missa est.
Ite, Missa est. または Benedicámus Dómino.
「行け,ミサは終った.」
・信者は神に感謝する(主を讃美しよう) … Deo gratias (神に感謝し奉る)
・いけにえの祭壇を去るに当り,司祭はけんそんに祈る … Pláceat (よみし給え)
Pláceat tibi, sancta Trinitas, obséquium servitútis meæ:
「聖なる三位一体よ,下僕なる私の聖役をよみし給え…」
・最後の祝福 … Benedícat (祝福し給わんことを)
Benedícat vos omnípotens Deus, Pater, et Fílius, + et Spíritus Sanctus. R/. Amen.
「全能の神が,あなたたちを祝福し給わんことを,聖父と+(一同十字架のしるしをする)聖子と,聖霊とによりて.」助祭/「アメン.」
・最後に福音書を読む … In principio (元始に)
V/. Dóminus vobíscum.
R/. Et cum spíritu tuo.
(Et signans signo crucis primum Altare vel librum, deinde se in fronte, ore et pectore, dicit :)
+ Inítium sancti Evangélii secúndum Ioánnem.
R/. Gloria tibi, Domine.
司祭/. 「主は,あなたたちとともに.」(会衆は起立する)
助祭/. 「また,あなたの霊とともに.」
(司祭は,額と口と胸に親指で小さな十字架のしるしをして言う)
+ヨハネによる聖福音の序.
助祭/. 「主に栄光あれ.」
Ioann. 1, 1-14
In princípio erat Verbum, et Verbum erat apud Deum, et Deus erat Verbum. Hoc erat in princípio apud Deum. Omnia per ipsum facta sunt : et sine ipso factum est nihil, quod factum est : in ipso vita erat, et vita erat lux hóminum : et lux in ténebris lucet, et ténebræ eam non comprehendérunt.
Fuit homo missus a Deo, cui nomen erat Ioánnes. Hic venit in testimónium, ut testimónium perhibéret de lúmine, ut omnes créderent per illum. Non erat ille lux, sed ut testimónium perhibéret de lúmine.
Erat lux vera, quæ illúminat omnem hóminem veniéntem in hunc mundum. In mundo erat, et mundus per ipsum factus est, et mundus eum non cognóvit. In propria venit, et sui eum non recepérunt. Quotquot autem recepérunt eum, dedit eis potestátem fílios Dei fíeri, his, qui crédunt in nómine eius : qui non ex sanguínibus, neque ex voluntáte carnis, neque ex voluntáte viri, sed ex Deo nati sunt. (Genuflectit dicens) : Et Verbum caro factum est, (Et surgens prosequitur) : et habitávit in nobis : et vídimus glóriam eius, glóriam quasi Unigéniti a Patre, plenum grátiæ et veritátis.
ヨハネによる聖福音・第1章1-14節
元始(はじめ)にみことば(御言葉)があった.御言葉は天主(神)とともにあった.みことばは天主であった.彼(かれ)は,元始に天主とともにあり,万物は彼によって造られた.造られた物の中(うち)に,一つとして彼によらずに造られたものはない.彼に生命があり,生命は人間の光であった.光は闇(やみ)に輝いたが,闇は彼を悟らなかった.
さて,天主から遣(つか)わされた人がいて,その名をヨハネといった.この人は,光を証明するために来た,またすべての人が彼によって信じるために,証人として来た.この人は,光ではなく,光を証明するために来た.
すべての人をてらす真(まこと)の光は,まさにこの世に来つつあった.みことばは世にあり,世はみことばによって造られたが,世は彼を知らなかった(みことばを認めなかった).みことばは,ご自分の家に来給うたが,その族(人々)はうけいれ(受け入れ)なかった.しかし,その方をうけいれた人々には,みな,天主の子となれる能力(権利)を授(さず)けた.そのみ名を信じるすべての人たち,それは,血統によらず,肉体の意志によらず,人の意志によらず,ただ天主によって生まれた人々である〈ここで片膝を付く〉.
みことばは肉体となって,〈立ち上がる〉われわれの中(うち)に宿り給うた(住まわれた),我々はその栄光を見た.それは,御独り子として御父から受けられた栄光であって,恩寵と真理とに満ちておられた.
R/. Deo grátias.
助祭/「神に感謝し奉る.」
* * *
(毎日のミサ典書(全ローマ・ミサ典書〈ラテン・仏・英(1962年)・日本(1955年)語訳〉を参照)
* * *
2009年12月15日火曜日
混乱収拾に向けて
エレイソン・コメンツ第127回(2009年12月12日)
リエナール枢機卿が臨終の床で行ったとされる証言内容(エレイソン・コメンツ第121回)は,第二バチカン公会議の後で導入された公会議考案の秘跡授与の典礼によってカトリックの諸典礼の有効性がいかに危険にさらされてきたかということと正確に符節が合うので,容易に真実であると受け入れ得るのではないかという点を解明するのにエレイソン・コメンツ3回分を要しました(エレイソン・コメンツ第124,125,126各回).ある親切な批評家は私が公会議式の諸秘跡を過度に擁護していると考えています.しかし私はその無効性,有効性のいずれも誇張したいと考えていません.
真理を愛する理性的な人間であれば誰しも自分の精神を現実に合わせる以外のことをしようとは望まないからです.なぜなら,真理とは「精神と現実との一致」と定義されるからです.もし状況が黒なら私はそれを黒と呼びたいですし,白なら白と呼びたいです.もしそれが中間で色合いが微妙に変わる灰色であれば,私は心の中でその灰色を実際に見えている以上に灰黒色でも灰白色でもなく実際通りの正確な灰色に認識したいと思います.
さて,実生活において執行されたある一つの秘跡が有効もしくは無効たりえたことは事実です.有効と無効との違いは妊娠と不妊の違いとさして変わりません.しかし,もし公会議式の諸秘跡が常に世界中の「新しい教会」全体(訳注・ウィリアムソン司教の言われる「新しい教会」( “Newchurch” )とは,第二バチカン公会議で取り決められた新しい体制に則って運営される新形態の,すなわち1962年以降から今日に至るまで存続している,第二バチカン公会議下の新体制に則った「新しい形態のカトリック教会」を指している.)で執行されると私たちが見なすなら,私たちはただ,その一部は有効で一部は無効だとだけ言えば済むでしょう.しかし,それら公会議式の諸秘跡はどれもすべて神の宗教を人間の宗教に置き換えることを全面的に押し進める公会議考案の諸典礼によって神の秘跡が無効となるようひっそりと滑り込ませられてきたのです.このことがなぜ「新しい教会」が完全に消滅する過程にあるかということの理由であり,聖ピオ十世会が決してそこに吸収されるわけにはいかないことの理由なのです.
だが,たとえば司祭たちが滑り落ちる道筋のどの地点で教会とは何かについての正確な認識を失ってしまい,もはや教会のなすべきことを行う意向を持つこともできないほどに変わってしまったのでしょうか.このことを知るのは神のみです.多分その地点にたどり着くには私がエレイソン・コメンツ第125回でお示ししたより時間がかかるでしょう.親切な批評家が暗に言っているように,さほど時間がかからないかもしれません.いずれにしても,確かなことを知り得るのは神のみなのですから,私が知る必要はないわけです.私が心の中ではっきりと理解する必要があるのは,公会議考案の諸典礼が神の諸秘跡を神から遠ざける方向に運んだということです.かかる(公会議式の)典礼がカトリック教会の破壊を助長しているということ,それどころかむしろカトリック教会を破壊する目的で考案されたとすら言えることがいったん私にはっきりとわかったからには,私はそうした典礼を避けるべきでしょう.
その一方で,あちこちの司祭が,あるいはそれどころか「新しい教会」全体がどれほど滑り落ちているかについては,私は次の聖アウグスティヌスの偉大な原則に従って判断するつもりです.「(私たちの間では)必然確実なことでは一致(結束)を,(必然性につき)疑わしいことにおいては自由を,あらゆることに慈愛( “charity” )を.」そして,たとえば「新しい教会」内部では,既にすべてがカトリックでなくなってしまったわけでもすべてが依然としてカトリックのまま残っているわけでもないといったような確実なことについて,私は,同じカトリック信徒としての同胞である皆さんに対して不確かなものは何かを判断する自由を認めるつもりです.そして皆さんからも私に対して同じ自由を認めてほしいと望んでいます.神の御母よ,カトリック教会を救出する恵みを神に取り次いで下さい!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
リエナール枢機卿が臨終の床で行ったとされる証言内容(エレイソン・コメンツ第121回)は,第二バチカン公会議の後で導入された公会議考案の秘跡授与の典礼によってカトリックの諸典礼の有効性がいかに危険にさらされてきたかということと正確に符節が合うので,容易に真実であると受け入れ得るのではないかという点を解明するのにエレイソン・コメンツ3回分を要しました(エレイソン・コメンツ第124,125,126各回).ある親切な批評家は私が公会議式の諸秘跡を過度に擁護していると考えています.しかし私はその無効性,有効性のいずれも誇張したいと考えていません.
真理を愛する理性的な人間であれば誰しも自分の精神を現実に合わせる以外のことをしようとは望まないからです.なぜなら,真理とは「精神と現実との一致」と定義されるからです.もし状況が黒なら私はそれを黒と呼びたいですし,白なら白と呼びたいです.もしそれが中間で色合いが微妙に変わる灰色であれば,私は心の中でその灰色を実際に見えている以上に灰黒色でも灰白色でもなく実際通りの正確な灰色に認識したいと思います.
さて,実生活において執行されたある一つの秘跡が有効もしくは無効たりえたことは事実です.有効と無効との違いは妊娠と不妊の違いとさして変わりません.しかし,もし公会議式の諸秘跡が常に世界中の「新しい教会」全体(訳注・ウィリアムソン司教の言われる「新しい教会」( “Newchurch” )とは,第二バチカン公会議で取り決められた新しい体制に則って運営される新形態の,すなわち1962年以降から今日に至るまで存続している,第二バチカン公会議下の新体制に則った「新しい形態のカトリック教会」を指している.)で執行されると私たちが見なすなら,私たちはただ,その一部は有効で一部は無効だとだけ言えば済むでしょう.しかし,それら公会議式の諸秘跡はどれもすべて神の宗教を人間の宗教に置き換えることを全面的に押し進める公会議考案の諸典礼によって神の秘跡が無効となるようひっそりと滑り込ませられてきたのです.このことがなぜ「新しい教会」が完全に消滅する過程にあるかということの理由であり,聖ピオ十世会が決してそこに吸収されるわけにはいかないことの理由なのです.
だが,たとえば司祭たちが滑り落ちる道筋のどの地点で教会とは何かについての正確な認識を失ってしまい,もはや教会のなすべきことを行う意向を持つこともできないほどに変わってしまったのでしょうか.このことを知るのは神のみです.多分その地点にたどり着くには私がエレイソン・コメンツ第125回でお示ししたより時間がかかるでしょう.親切な批評家が暗に言っているように,さほど時間がかからないかもしれません.いずれにしても,確かなことを知り得るのは神のみなのですから,私が知る必要はないわけです.私が心の中ではっきりと理解する必要があるのは,公会議考案の諸典礼が神の諸秘跡を神から遠ざける方向に運んだということです.かかる(公会議式の)典礼がカトリック教会の破壊を助長しているということ,それどころかむしろカトリック教会を破壊する目的で考案されたとすら言えることがいったん私にはっきりとわかったからには,私はそうした典礼を避けるべきでしょう.
その一方で,あちこちの司祭が,あるいはそれどころか「新しい教会」全体がどれほど滑り落ちているかについては,私は次の聖アウグスティヌスの偉大な原則に従って判断するつもりです.「(私たちの間では)必然確実なことでは一致(結束)を,(必然性につき)疑わしいことにおいては自由を,あらゆることに慈愛( “charity” )を.」そして,たとえば「新しい教会」内部では,既にすべてがカトリックでなくなってしまったわけでもすべてが依然としてカトリックのまま残っているわけでもないといったような確実なことについて,私は,同じカトリック信徒としての同胞である皆さんに対して不確かなものは何かを判断する自由を認めるつもりです.そして皆さんからも私に対して同じ自由を認めてほしいと望んでいます.神の御母よ,カトリック教会を救出する恵みを神に取り次いで下さい!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2009年12月8日火曜日
比類なき過失=その3
エレイソン・コメンツ 第126回(2009年12月5日)
カトリックの秘跡が有効に執り行われるためには,秘跡の執行者は「教会のなすべきことを行う」意向(インテンション “Intention” )を持っていなければなりません(エレイソン・コメンツ第124回).この意向はその執行者に教会とは何かまた何をなすべきなのかについての最小限の適切で正しい認識(考え “an idea” )を持つよう求めます(同第125回).ここでは,第二バチカン公会議がそうした認識を堕落させることで執行者の意向をも徐々に台無しにしてきたこと,またそれ以前には決してなされ得なかったやり方で全教会史上比類のないほどの最悪の堕落を教会にもたらしてしまったことを明らかにしなければなりません.
なぜなら,第二バチカン公会議は少なくとも1400年代のルネッサンス(文芸復興)期に遡る反カトリック的人文主義をカトリック教会内部で正式に容認したからです.ルネッサンス期のあと何世紀もの間,真の神( “true God” )を崇敬するカトリック聖職者たちは神の代わりに人間を崇拝する近代世界に断固として抵抗してきたのですが,500年以上もの間に世界はますます不信心になる傾向を強めていくばかりだったため,遂に聖職者たちは1960年代に抵抗を止めてしまい,近代世界を導く代わりに第二バチカン公会議をきっかけに近代世界に追従する体制づくりに取り掛かったのです.この世の支持者はいつの時代にも教会内に存在していましたが,いまだかつて(第二バチカン公会議以前に)そうした支持が全世界のカトリック教会で公認されたなどということは全くありませんでした!
しかし,公会議に追従する聖職者たちは旧(ふる)くからの信仰( “the old religion” )を完全に放棄しようとはしませんでしたし,またそうすることもできませでした.ひとつには,彼らはまだその旧い信仰を信じていましたし,ひとつには外観を保たねばならなかったからです.公会議の公文書がいずれも曖昧さを特徴としているのはそのためです.神の場における神の宗教を神の場における人間の宗教と混同しているのです.この曖昧さがもたらす意味は,カトリック保守派は公会議文書の文言に訴え第二バチカン公会議が旧信仰を排除していないと主張できるし,カトリック進歩派は同じ文書の精神に訴え公会議は新宗教を推進しているのだと主張できるということです.こうして保守派と進歩派の双方が共に正しいということになるのです!このようなわけで,旧くからの信仰は依然として第二バチカン公会議に存在していたのですが,これまでずっと進歩派から邪魔され続けてきて,いまや絶滅の危機に瀕しているのです.
似たような曖昧さは,うわべで神への崇敬に敬意を払っているように見せかけながら実は人間崇拝の宗教を容認する公会議の精神のもとに書き直された秘跡授与の諸典礼をも悩ませています.数々の秘跡の形式(有効性を支えるための本質的な文言)は原則として自動的に無効となるわけではないので旧い信仰はそのまま残存し得ますが,同時にその形式を取り巻くあらゆる典礼は新しい宗教に向かって傾斜を強めています.したがって,神の場に人間を置くために柔和に見えても猛烈な圧力を近代世界からかけられるため,また秘跡執行者はすべて圧力をかけられれば容易に安易な方法を選んでしまうという私たち人類皆に共通する哀れな古くからの人間性を持っているため,こうした新しい典礼は聖職執行者のサクラメンタル・インテンション(秘跡授与の執行の際に必要な意向)とそれにともなう秘跡の有効性を徐々に台無しにしていくのにおあつらえ向きとなっているのです.
カトリック信徒の皆さん,この新しい典礼を避けながらも,真実( “truth” )を正しく見分けて認識し続けることができるよう常にバランス感覚を維持していてください.新しい典礼は自動的に無効であるとか,あるいはそれらは有効になり得るから無害だなどと言ってはなりません.たとえ新しい典礼が有効であっても,それはカトリック信仰を損なう性質のものなのです.その典礼を使用する聖職者について言えば,もし彼らが新しい典礼を使用するなら彼らはカトリック信仰を失ってしまったのだとか,あるいは彼らがその典礼を使用しても無害であるなどと言ってはなりません.そうした聖職執行者たちはまだカトリック信仰を持ち続けているのでしょうが,もしあなたのカトリック信仰を損なうように考案された典礼を使用するなら,彼らはあなたに害を及ぼす危険を冒していることになるのです.(第二バチカン公会議以前から続いている)旧い典礼とそれを使用する聖職者を探し求めなさい.そうすることで,あなたは神の光栄,神の真の宗教( “true religion” ),そしてその真の宗教を知ることなしに失われてしまった多くの霊魂を救う手助けをすることになるのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
カトリックの秘跡が有効に執り行われるためには,秘跡の執行者は「教会のなすべきことを行う」意向(インテンション “Intention” )を持っていなければなりません(エレイソン・コメンツ第124回).この意向はその執行者に教会とは何かまた何をなすべきなのかについての最小限の適切で正しい認識(考え “an idea” )を持つよう求めます(同第125回).ここでは,第二バチカン公会議がそうした認識を堕落させることで執行者の意向をも徐々に台無しにしてきたこと,またそれ以前には決してなされ得なかったやり方で全教会史上比類のないほどの最悪の堕落を教会にもたらしてしまったことを明らかにしなければなりません.
なぜなら,第二バチカン公会議は少なくとも1400年代のルネッサンス(文芸復興)期に遡る反カトリック的人文主義をカトリック教会内部で正式に容認したからです.ルネッサンス期のあと何世紀もの間,真の神( “true God” )を崇敬するカトリック聖職者たちは神の代わりに人間を崇拝する近代世界に断固として抵抗してきたのですが,500年以上もの間に世界はますます不信心になる傾向を強めていくばかりだったため,遂に聖職者たちは1960年代に抵抗を止めてしまい,近代世界を導く代わりに第二バチカン公会議をきっかけに近代世界に追従する体制づくりに取り掛かったのです.この世の支持者はいつの時代にも教会内に存在していましたが,いまだかつて(第二バチカン公会議以前に)そうした支持が全世界のカトリック教会で公認されたなどということは全くありませんでした!
しかし,公会議に追従する聖職者たちは旧(ふる)くからの信仰( “the old religion” )を完全に放棄しようとはしませんでしたし,またそうすることもできませでした.ひとつには,彼らはまだその旧い信仰を信じていましたし,ひとつには外観を保たねばならなかったからです.公会議の公文書がいずれも曖昧さを特徴としているのはそのためです.神の場における神の宗教を神の場における人間の宗教と混同しているのです.この曖昧さがもたらす意味は,カトリック保守派は公会議文書の文言に訴え第二バチカン公会議が旧信仰を排除していないと主張できるし,カトリック進歩派は同じ文書の精神に訴え公会議は新宗教を推進しているのだと主張できるということです.こうして保守派と進歩派の双方が共に正しいということになるのです!このようなわけで,旧くからの信仰は依然として第二バチカン公会議に存在していたのですが,これまでずっと進歩派から邪魔され続けてきて,いまや絶滅の危機に瀕しているのです.
似たような曖昧さは,うわべで神への崇敬に敬意を払っているように見せかけながら実は人間崇拝の宗教を容認する公会議の精神のもとに書き直された秘跡授与の諸典礼をも悩ませています.数々の秘跡の形式(有効性を支えるための本質的な文言)は原則として自動的に無効となるわけではないので旧い信仰はそのまま残存し得ますが,同時にその形式を取り巻くあらゆる典礼は新しい宗教に向かって傾斜を強めています.したがって,神の場に人間を置くために柔和に見えても猛烈な圧力を近代世界からかけられるため,また秘跡執行者はすべて圧力をかけられれば容易に安易な方法を選んでしまうという私たち人類皆に共通する哀れな古くからの人間性を持っているため,こうした新しい典礼は聖職執行者のサクラメンタル・インテンション(秘跡授与の執行の際に必要な意向)とそれにともなう秘跡の有効性を徐々に台無しにしていくのにおあつらえ向きとなっているのです.
カトリック信徒の皆さん,この新しい典礼を避けながらも,真実( “truth” )を正しく見分けて認識し続けることができるよう常にバランス感覚を維持していてください.新しい典礼は自動的に無効であるとか,あるいはそれらは有効になり得るから無害だなどと言ってはなりません.たとえ新しい典礼が有効であっても,それはカトリック信仰を損なう性質のものなのです.その典礼を使用する聖職者について言えば,もし彼らが新しい典礼を使用するなら彼らはカトリック信仰を失ってしまったのだとか,あるいは彼らがその典礼を使用しても無害であるなどと言ってはなりません.そうした聖職執行者たちはまだカトリック信仰を持ち続けているのでしょうが,もしあなたのカトリック信仰を損なうように考案された典礼を使用するなら,彼らはあなたに害を及ぼす危険を冒していることになるのです.(第二バチカン公会議以前から続いている)旧い典礼とそれを使用する聖職者を探し求めなさい.そうすることで,あなたは神の光栄,神の真の宗教( “true religion” ),そしてその真の宗教を知ることなしに失われてしまった多くの霊魂を救う手助けをすることになるのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2009年11月30日月曜日
比類なき過失=その2
エレイソン・コメンツ 第125回(2009年11月28日)
先週の「エレイソン・コメンツ」で,第二バチカン公会議が,その巧妙に仕組まれた曖昧さによって長期間のうちに結局は(「50年後に」と,リエナール枢機卿が臨終の床で明かした)聖職者にとって必要不可欠なサクラメンタル・インテンション(秘跡授与に際しての意向)を堕落させてしまうような秘跡授与の典礼を導入することによって教会の諸秘跡を無効にするために考案されたことをお示しするとお約束しました.しかし,第二バチカン公会議についての話は来週まで待たなければならないでしょう.今週は,秘跡授与を執り行う聖職者自身が教会とは何なのか,何をなすべきなのかについて,いかに根本から健全な考えを頭脳に持つ必要があるかを理解するため,私たちは人間の意図のメカニズムについてさらに詳しく考えてみる必要があります.
人が何かをしようと思うとき,あるいは何らかの目標を達成しようと考えるとき,その達成したいと思う目標についての考え(“an idea”)をあらかじめ頭に思い浮かべなければなりません.人は誰でも,実際まず頭に目標についての考えが浮かばない限りその実現に向かって行動することなどできません.言い換えれば,目標の達成についての考えがはっきりしているときだけ,つまり自分の頭で思い浮かべた考え(=目標達成のためのやり方)を通してだけ,人はその達成を目指して行動できるのです.ただし,頭の中の考えが頭の外の現実と一致することもあるでしょうし,しないこともあるでしょう.もし考えが現実に即していれば,人は目標を達成できますが,そうでなければ,考えは達成できても目標は達成できません.
一例を挙げましょう.子供たちを幸せにしたいと思う家庭の父親が,それを実現するアイディアとして家庭内のあらゆる規律を緩めて子供たちを甘やかそうと思いついたとします.悲しいかな,無規律は子どもたちを幸せどころか不幸にします.したがって,その父親が規律を緩めたとき彼は規律緩和というアイディアは達成しても子供たちの幸せという目標達成には至らないのです.彼が自分のアイディアをやり遂げてもその目標を達成できないのは,彼のアイディアが現実に即していないからです.
さて,秘跡が有効なものとなるには,先週説明したとおり,聖職執行者(司教,司祭あるいは一般信徒ないし一般人)が,すべての秘跡上の恩寵の唯一の源泉である神の根源的行為の下にその道具たる行為(訳注・当聖職者は神の道具である)を置くために,「教会のなすべきことを行う」意向をもつ必要があります.したがって,執行者は秘跡授与を執り行う前にまず「教会が何をなすべきなのか」についての考えをあらかじめ持つべきであり,そのことは自ずから教会とは何かについての考えを事前に持つことを要求します.そのとき,もし教会とは何かそして何をなすべきなのかについての彼の考えがカトリック教の本質に合致していなければ,執行者はどうやって真正のカトリック教会がなすべきことを行う意向を持つことができるでしょうか?そしてそれ(真正な意向を持つこと)が出来なければ,どうやって真正な秘跡を執行することができるでしょうか?もし執行者が,教会とは信者同士が互いに愛想のよい社交辞令を交わし合うクラブのようなものだと本心から考えているなら,そこで執行されるミサはその団体のピクニックであり,洗礼式はそこに加わるための入会式にすぎなくなります.その聖職執行者はピクニックと入会式をやり遂げるかもしれませんが,決してカトリックのミサ聖祭あるいは洗礼の秘跡という目標に達することはありません.
ここで,その聖職執行者は「教会がなすべきこと,これまで常になしてきたこと」を執り行う潜在的意向を持っていると反論する方もいらっしゃるでしょう.だが,それでも,そのサクラメンタル・インテンションは不確かなまま残るでしょう.例えば,新しい教会が「聖書解釈学的継続性」を言い出して以来このかた,カトリック教会と新しい教会との間,あるいはミサ聖祭とピクニックとの間に解釈上なんらの断絶もありえず,すべては調和のとれた発展としてのみ解釈すべきだとされています!したがって,ピクニックなしのミサ聖祭を執り行う意向も,ミサ聖祭なしのピクニックを楽しむ意向も,いずれも「マピクニス(原文 “Mapicniss”)」(訳注・→Mass+picnic.つまりミサとピクニックの合成語. )をもたらすための同一の意向を意味することになるというのです!このような「解釈学」によれば,現実には妥協不可能な事柄を何でも一切妥協させてしまうことができてしまうわけです!しかし,このような「解釈学」を念頭に置く者が現実に有効な秘跡を組み立てることなど可能でしょうか?アメリカ人風に言えば「何か変じゃないですか!(“Go figure!” )」と言いたくなります.神のみぞ知るです.
ここに教会中がほとんど絶望的な混乱に陥っている理由があります.どうしたら猫は猫であって犬ではなく,また犬は犬であって猫ではないという正常な認識の持ち方に再び聖職者たちを連れ戻すことができるでしょうか?それは一大異変です!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
先週の「エレイソン・コメンツ」で,第二バチカン公会議が,その巧妙に仕組まれた曖昧さによって長期間のうちに結局は(「50年後に」と,リエナール枢機卿が臨終の床で明かした)聖職者にとって必要不可欠なサクラメンタル・インテンション(秘跡授与に際しての意向)を堕落させてしまうような秘跡授与の典礼を導入することによって教会の諸秘跡を無効にするために考案されたことをお示しするとお約束しました.しかし,第二バチカン公会議についての話は来週まで待たなければならないでしょう.今週は,秘跡授与を執り行う聖職者自身が教会とは何なのか,何をなすべきなのかについて,いかに根本から健全な考えを頭脳に持つ必要があるかを理解するため,私たちは人間の意図のメカニズムについてさらに詳しく考えてみる必要があります.
人が何かをしようと思うとき,あるいは何らかの目標を達成しようと考えるとき,その達成したいと思う目標についての考え(“an idea”)をあらかじめ頭に思い浮かべなければなりません.人は誰でも,実際まず頭に目標についての考えが浮かばない限りその実現に向かって行動することなどできません.言い換えれば,目標の達成についての考えがはっきりしているときだけ,つまり自分の頭で思い浮かべた考え(=目標達成のためのやり方)を通してだけ,人はその達成を目指して行動できるのです.ただし,頭の中の考えが頭の外の現実と一致することもあるでしょうし,しないこともあるでしょう.もし考えが現実に即していれば,人は目標を達成できますが,そうでなければ,考えは達成できても目標は達成できません.
一例を挙げましょう.子供たちを幸せにしたいと思う家庭の父親が,それを実現するアイディアとして家庭内のあらゆる規律を緩めて子供たちを甘やかそうと思いついたとします.悲しいかな,無規律は子どもたちを幸せどころか不幸にします.したがって,その父親が規律を緩めたとき彼は規律緩和というアイディアは達成しても子供たちの幸せという目標達成には至らないのです.彼が自分のアイディアをやり遂げてもその目標を達成できないのは,彼のアイディアが現実に即していないからです.
さて,秘跡が有効なものとなるには,先週説明したとおり,聖職執行者(司教,司祭あるいは一般信徒ないし一般人)が,すべての秘跡上の恩寵の唯一の源泉である神の根源的行為の下にその道具たる行為(訳注・当聖職者は神の道具である)を置くために,「教会のなすべきことを行う」意向をもつ必要があります.したがって,執行者は秘跡授与を執り行う前にまず「教会が何をなすべきなのか」についての考えをあらかじめ持つべきであり,そのことは自ずから教会とは何かについての考えを事前に持つことを要求します.そのとき,もし教会とは何かそして何をなすべきなのかについての彼の考えがカトリック教の本質に合致していなければ,執行者はどうやって真正のカトリック教会がなすべきことを行う意向を持つことができるでしょうか?そしてそれ(真正な意向を持つこと)が出来なければ,どうやって真正な秘跡を執行することができるでしょうか?もし執行者が,教会とは信者同士が互いに愛想のよい社交辞令を交わし合うクラブのようなものだと本心から考えているなら,そこで執行されるミサはその団体のピクニックであり,洗礼式はそこに加わるための入会式にすぎなくなります.その聖職執行者はピクニックと入会式をやり遂げるかもしれませんが,決してカトリックのミサ聖祭あるいは洗礼の秘跡という目標に達することはありません.
ここで,その聖職執行者は「教会がなすべきこと,これまで常になしてきたこと」を執り行う潜在的意向を持っていると反論する方もいらっしゃるでしょう.だが,それでも,そのサクラメンタル・インテンションは不確かなまま残るでしょう.例えば,新しい教会が「聖書解釈学的継続性」を言い出して以来このかた,カトリック教会と新しい教会との間,あるいはミサ聖祭とピクニックとの間に解釈上なんらの断絶もありえず,すべては調和のとれた発展としてのみ解釈すべきだとされています!したがって,ピクニックなしのミサ聖祭を執り行う意向も,ミサ聖祭なしのピクニックを楽しむ意向も,いずれも「マピクニス(原文 “Mapicniss”)」(訳注・→Mass+picnic.つまりミサとピクニックの合成語. )をもたらすための同一の意向を意味することになるというのです!このような「解釈学」によれば,現実には妥協不可能な事柄を何でも一切妥協させてしまうことができてしまうわけです!しかし,このような「解釈学」を念頭に置く者が現実に有効な秘跡を組み立てることなど可能でしょうか?アメリカ人風に言えば「何か変じゃないですか!(“Go figure!” )」と言いたくなります.神のみぞ知るです.
ここに教会中がほとんど絶望的な混乱に陥っている理由があります.どうしたら猫は猫であって犬ではなく,また犬は犬であって猫ではないという正常な認識の持ち方に再び聖職者たちを連れ戻すことができるでしょうか?それは一大異変です!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2009年11月23日月曜日
比類なき過失=その1
エレイソン・コメンツ 第124回 (2009年11月21日)
第二バチカン公会議(1962年-1965年)の犯した過失を再度強調するため,3週間前(10月31日)の「エレイソン・コメンツ」の議論に対するある読者からの妥当な反論に今回と次回の二度にわたってお答えします.問題の重要性を考えれば,2週連続はそれほど長すぎることはないでしょう.10月31日の議論では,第二バチカン公会議を受けて導入された新しい教会の秘跡(“Sacrament” 「サクラメント」)授与の典礼が結局は教会の秘跡を無効にする性格のものだと述べました.理由は新しい教会の典礼が,秘跡の有効な成立に不可欠な聖職者のサクラメンタル・インテンション(秘跡授与に際しての意向)を損なうよう曖昧に考案されているからです.聖職者がこのサクラメンタル・インテンションを正当に有することなしに秘跡は成立し得ません.
読者の反論は,秘跡授与の典礼にかかわる聖職者に信仰が欠けているほどの個人的な欠陥があっても,彼は教会の信仰の名においてその典礼を執行するのだから,教会の信仰が彼の欠陥を埋め合わすという古くからの教会の教え(神学大全・第3部,第64問題第9項-1参照.“cf. Summa Theologiae, 3a, LXIV, 9 ad 1” )(訳注…ラテン語.「スンマ・テオロジエ」略して「スンマ」.邦訳は「神学大全」.教会博士・聖トマス・アクィナス著.第3部・第64問題の表題は「秘跡の原因について」.)に基づくものです.この読者はカトリック信仰を全くもたないユダヤ人でも,教会が洗礼を授けるとき何かすることを知っていて,教会がなすべきそのことを行うつもりがある限り,死にかけている彼の友人に正当に洗礼を授けることができる,という典型例を挙げています.この場合,ユダヤ人は教会のなすべきことを行う自分の意向を,教会の洗礼式用に定められた言葉を口にし,定められた行いを演ずることで示すのです.
したがって,その読者の論理によれば,たとえ新しい教会が聖職者のカトリック信仰を堕落させたとしても,永遠不変の教会が聖職者の信仰の欠如を埋め合わせるから,彼の執り行う秘跡は有効のまま残るというのです.これに対する答えは,もし新しい教会の秘跡のための典礼が聖職者の信仰のみを堕落させたのであれば,この反論は有効に成り立つでしょうが,もし同時に聖職者のサクラメンタル・インテンションをも堕落させるとすれば,秘跡はまったく成立しないということです.
他の典型例を挙げれば論点がより明確になるはずです.金属管を水が流れ落ちる場合,管が金製だろうと鉛製だろうと問題ではありません.だが,水がどちらを流れるにしても,その管が蛇口に繋がれていなければなりません.ここでは,水は秘跡上の恩寵を意味しています.蛇口はその恩寵の主源泉であり,それは神お一人のみです.管は道具,すなわち秘跡の典礼を執り行う聖職者で,その行為を通して神から秘跡の恩寵が流れ出るのです.管が金製か鉛製かは聖職者個人の聖性の有無を意味します.したがって,秘跡の有効性は聖職者個人の信仰の有無によっては決まらなくても,聖職者が秘跡上の恩寵の主源泉たる神に繋がっているかどうかで決まるのです.
この神との繋がりは,教会のなすべきことを行う(ところに則った)秘跡の遂行にあたっての聖職者の意向(インテンション)そのものによって成立するのです.なぜなら,その意向によって,聖職者は神が秘跡の恩寵を注ぐための道具として自身を神の御手に委ねるからです.聖職者にかかるサクラメンタル・インテンションがなければ.彼と彼自身の信仰が金であっても鉛であっても,彼は蛇口から断絶しているのです.第二バチカン公会議がどう考案されたか,いかに聖職者の信仰だけでなく彼が持つべきサクラメンタル・インテンションまでも堕落させがちなのか,次週にお示しすることにします.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教
第二バチカン公会議(1962年-1965年)の犯した過失を再度強調するため,3週間前(10月31日)の「エレイソン・コメンツ」の議論に対するある読者からの妥当な反論に今回と次回の二度にわたってお答えします.問題の重要性を考えれば,2週連続はそれほど長すぎることはないでしょう.10月31日の議論では,第二バチカン公会議を受けて導入された新しい教会の秘跡(“Sacrament” 「サクラメント」)授与の典礼が結局は教会の秘跡を無効にする性格のものだと述べました.理由は新しい教会の典礼が,秘跡の有効な成立に不可欠な聖職者のサクラメンタル・インテンション(秘跡授与に際しての意向)を損なうよう曖昧に考案されているからです.聖職者がこのサクラメンタル・インテンションを正当に有することなしに秘跡は成立し得ません.
読者の反論は,秘跡授与の典礼にかかわる聖職者に信仰が欠けているほどの個人的な欠陥があっても,彼は教会の信仰の名においてその典礼を執行するのだから,教会の信仰が彼の欠陥を埋め合わすという古くからの教会の教え(神学大全・第3部,第64問題第9項-1参照.“cf. Summa Theologiae, 3a, LXIV, 9 ad 1” )(訳注…ラテン語.「スンマ・テオロジエ」略して「スンマ」.邦訳は「神学大全」.教会博士・聖トマス・アクィナス著.第3部・第64問題の表題は「秘跡の原因について」.)に基づくものです.この読者はカトリック信仰を全くもたないユダヤ人でも,教会が洗礼を授けるとき何かすることを知っていて,教会がなすべきそのことを行うつもりがある限り,死にかけている彼の友人に正当に洗礼を授けることができる,という典型例を挙げています.この場合,ユダヤ人は教会のなすべきことを行う自分の意向を,教会の洗礼式用に定められた言葉を口にし,定められた行いを演ずることで示すのです.
したがって,その読者の論理によれば,たとえ新しい教会が聖職者のカトリック信仰を堕落させたとしても,永遠不変の教会が聖職者の信仰の欠如を埋め合わせるから,彼の執り行う秘跡は有効のまま残るというのです.これに対する答えは,もし新しい教会の秘跡のための典礼が聖職者の信仰のみを堕落させたのであれば,この反論は有効に成り立つでしょうが,もし同時に聖職者のサクラメンタル・インテンションをも堕落させるとすれば,秘跡はまったく成立しないということです.
他の典型例を挙げれば論点がより明確になるはずです.金属管を水が流れ落ちる場合,管が金製だろうと鉛製だろうと問題ではありません.だが,水がどちらを流れるにしても,その管が蛇口に繋がれていなければなりません.ここでは,水は秘跡上の恩寵を意味しています.蛇口はその恩寵の主源泉であり,それは神お一人のみです.管は道具,すなわち秘跡の典礼を執り行う聖職者で,その行為を通して神から秘跡の恩寵が流れ出るのです.管が金製か鉛製かは聖職者個人の聖性の有無を意味します.したがって,秘跡の有効性は聖職者個人の信仰の有無によっては決まらなくても,聖職者が秘跡上の恩寵の主源泉たる神に繋がっているかどうかで決まるのです.
この神との繋がりは,教会のなすべきことを行う(ところに則った)秘跡の遂行にあたっての聖職者の意向(インテンション)そのものによって成立するのです.なぜなら,その意向によって,聖職者は神が秘跡の恩寵を注ぐための道具として自身を神の御手に委ねるからです.聖職者にかかるサクラメンタル・インテンションがなければ.彼と彼自身の信仰が金であっても鉛であっても,彼は蛇口から断絶しているのです.第二バチカン公会議がどう考案されたか,いかに聖職者の信仰だけでなく彼が持つべきサクラメンタル・インテンションまでも堕落させがちなのか,次週にお示しすることにします.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教
2009年11月2日月曜日
正当な司教?
エレイソン・コメンツ 第121回(2009年10月31日)
新しい教会がもたらす秘跡(英語でsacrament. 訳注…神がカトリック教会の司教・司祭を通してカトリック信徒に授ける, 目に見えない神の恩寵 (神秘=secret,mystery)の目に見えるしるしをいう. 洗礼, 堅振(堅信), 聖体, 罪の赦し(罪の痛悔, 告白, 償いを含む. いわゆる告解), 病者の塗油, 叙階, 婚姻の7つ. ) の正当性に関する聖ピオ十世会のバランスのとれた立場を顕著に立証する記事が, 先週, ある闘うフランス人の会報誌 「クリエ・ドゥ・ティシィック “Courrier de Tychique” 」( “Tychique” は聖ティキコのフランス語訳. )に掲載されました. 「信頼筋」によれば, カトリック教会の古くからの敵であるフリーメーソンの組織が, カトリック教会の秘跡を無効にする目的で公会議革命を企てたようです. そのやり方は, 秘跡の形態を改変することでそれを自動的に無効にするのではなく, むしろカトリック教の典礼の意義を総じて曖昧にぼかしてしまうことによって, 司式司祭にとって欠かすことのできないサクラメンタル・インテンション( “Sacramental Intention”. 「秘跡授与に際しての意向」. 訳注…秘跡が有効に成立するためにはその秘跡を授ける司教・司祭の側と受ける側の双方が授受の正当な意向を有しかつその意向通りの行為を双方が正当に実行する必要がある. )を結局は骨抜きにしてしまおうというものです.
その「信頼筋」とは, リエナール枢機卿( Achille Liénart (1884-1973). フランス人枢機卿 )が死の床である老司祭に告白した話の一部をその司祭から直接聞いたフランス人の男性です. 枢機卿は疑いなく地獄に堕ちることを恐れて, 自分の告白を世間に明らかにし, そうすることで自分を告解の封印から解いてほしいとその司祭に請いました. 以来その老司祭は公の場からは距離を置くようにしていましたが, 非公式には枢機卿が自分に明かしたフリーメーソン組織のカトリック教会破壊にむけた三点からなる計画について率直に包み隠さず公表しました. その枢機卿は, 十七歳の若さでフリーメーソンに入会した後, 会によく仕え, 第二バチカン公会議が開幕したわずか二日後, カトリック伝統派が周到に用意した文書はすべて否決すべきと要求して, 公会議を完全に脱線させてしまったのです.
枢機卿によれば, 公会議におけるフリーメーソンの第一の目的は, 司式司祭の「教会のなすべきことを執り行う」ためのインテンション( “Intention”. 上述のサクラメンタル・インテンションの注釈に同旨)を終局的に弱体化させる程度に典礼を変えることでミサ聖祭を壊すことでした. 形の変わった典礼により, 司祭も信徒も, ミサ聖祭を神の怒りを和らげるためのなだめの犠牲としてよりはむしろ「追悼」あるいは「聖餐」として受け止めるように誘導されるというわけです. フリーメーソンの第二の目的は, 最終的に司教の叙階権を弱体化させることにつながる, 司教叙階式のための新しい典礼によって, カトリック教会の使徒継承 (注釈…神なるイエズス・キリストから使徒聖ペトロ(初代ローマ教皇)およびその後継者(カトリックの司教を指す. ローマ教皇はローマの司教である. )へと正統に継承されていること. カトリック教会は唯一かつ普遍(=公, カトリック)の使徒継承教会(公教会)である. ) を壊すことです. それも, 自動的にそれを壊すよほど新たな形態によってではなく, 疑いの種をまく程度に曖昧に変えられた典礼によって, 前述のように, その新しい典礼が総じて, 叙階する司教のサクラメンタル・インテンションを弱体化させるようにしようというわけです. このやり方は, 誰も気づかないほどひっそりと使徒継承を壊す利点を持つでしょう. これこそまさに, 現在の全ての敬虔なカトリック教徒が恐れる事態ではないでしょうか?
「信頼筋」による話ではありますが,いずれにせよ, 今日の新しい教会のミサ典礼および司教聖別(訳注…聖別とは, 神への永久の奉仕のために、人または物を世俗から引き離して区別し神に奉献する行為)の典礼は, まさに件の枢機卿が告白したフリーメーソンの計画に一致しています. 1960年代後半から1970年代初めにかけてこの新しい典礼が導入されて以来, 多くの真面目なカトリック教徒はそれが正しく活用され得ると信じるのを拒んできました. 嘆かわしいことに, 新しい形態の典礼は, かならずしも自動的に正当なものでないと分かるわけではありません(もしそうなら事はどんなに簡単でしょうか!). 実態はそれよりもなお悪いのです!新しい秘跡の形態は, 正当なものだと多くの司式司祭に信じ込ませるほど十分にカトリック的でありながら, 総じて曖昧かつ非カトリック的な解釈を暗示するように設計されているため, 「従順」すぎるか十分に気をつけずに祈る(訳注…つまり, 常に霊的に目を覚まして祈っていることをしない)ようなあらゆる司式司祭のインテンションを堕落させることによって, カトリック教の秘跡をやがて台無しにしていくのです.
新しい典礼はこうして, 短期的にはほぼ全員のカトリック教徒に受け入れられるほど有効であっても, 長期的にはあらゆる秘跡を無効にしてしまうほど曖昧であり, 悪魔的に巧妙な罠となっています. これを避けるためには, カトリック教徒はこうした新しい形態の典礼との関わりを一切避ける一方, 正しいカトリック教理から逸脱した大げさな神学上の告発を聞いても, カトリック信徒としての自身の健全な直感を疑うようなことがあってはなりません. 両者の均衡を保つのは必ずしも容易ではありません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
新しい教会がもたらす秘跡(英語でsacrament. 訳注…神がカトリック教会の司教・司祭を通してカトリック信徒に授ける, 目に見えない神の恩寵 (神秘=secret,mystery)の目に見えるしるしをいう. 洗礼, 堅振(堅信), 聖体, 罪の赦し(罪の痛悔, 告白, 償いを含む. いわゆる告解), 病者の塗油, 叙階, 婚姻の7つ. ) の正当性に関する聖ピオ十世会のバランスのとれた立場を顕著に立証する記事が, 先週, ある闘うフランス人の会報誌 「クリエ・ドゥ・ティシィック “Courrier de Tychique” 」( “Tychique” は聖ティキコのフランス語訳. )に掲載されました. 「信頼筋」によれば, カトリック教会の古くからの敵であるフリーメーソンの組織が, カトリック教会の秘跡を無効にする目的で公会議革命を企てたようです. そのやり方は, 秘跡の形態を改変することでそれを自動的に無効にするのではなく, むしろカトリック教の典礼の意義を総じて曖昧にぼかしてしまうことによって, 司式司祭にとって欠かすことのできないサクラメンタル・インテンション( “Sacramental Intention”. 「秘跡授与に際しての意向」. 訳注…秘跡が有効に成立するためにはその秘跡を授ける司教・司祭の側と受ける側の双方が授受の正当な意向を有しかつその意向通りの行為を双方が正当に実行する必要がある. )を結局は骨抜きにしてしまおうというものです.
その「信頼筋」とは, リエナール枢機卿( Achille Liénart (1884-1973). フランス人枢機卿 )が死の床である老司祭に告白した話の一部をその司祭から直接聞いたフランス人の男性です. 枢機卿は疑いなく地獄に堕ちることを恐れて, 自分の告白を世間に明らかにし, そうすることで自分を告解の封印から解いてほしいとその司祭に請いました. 以来その老司祭は公の場からは距離を置くようにしていましたが, 非公式には枢機卿が自分に明かしたフリーメーソン組織のカトリック教会破壊にむけた三点からなる計画について率直に包み隠さず公表しました. その枢機卿は, 十七歳の若さでフリーメーソンに入会した後, 会によく仕え, 第二バチカン公会議が開幕したわずか二日後, カトリック伝統派が周到に用意した文書はすべて否決すべきと要求して, 公会議を完全に脱線させてしまったのです.
枢機卿によれば, 公会議におけるフリーメーソンの第一の目的は, 司式司祭の「教会のなすべきことを執り行う」ためのインテンション( “Intention”. 上述のサクラメンタル・インテンションの注釈に同旨)を終局的に弱体化させる程度に典礼を変えることでミサ聖祭を壊すことでした. 形の変わった典礼により, 司祭も信徒も, ミサ聖祭を神の怒りを和らげるためのなだめの犠牲としてよりはむしろ「追悼」あるいは「聖餐」として受け止めるように誘導されるというわけです. フリーメーソンの第二の目的は, 最終的に司教の叙階権を弱体化させることにつながる, 司教叙階式のための新しい典礼によって, カトリック教会の使徒継承 (注釈…神なるイエズス・キリストから使徒聖ペトロ(初代ローマ教皇)およびその後継者(カトリックの司教を指す. ローマ教皇はローマの司教である. )へと正統に継承されていること. カトリック教会は唯一かつ普遍(=公, カトリック)の使徒継承教会(公教会)である. ) を壊すことです. それも, 自動的にそれを壊すよほど新たな形態によってではなく, 疑いの種をまく程度に曖昧に変えられた典礼によって, 前述のように, その新しい典礼が総じて, 叙階する司教のサクラメンタル・インテンションを弱体化させるようにしようというわけです. このやり方は, 誰も気づかないほどひっそりと使徒継承を壊す利点を持つでしょう. これこそまさに, 現在の全ての敬虔なカトリック教徒が恐れる事態ではないでしょうか?
「信頼筋」による話ではありますが,いずれにせよ, 今日の新しい教会のミサ典礼および司教聖別(訳注…聖別とは, 神への永久の奉仕のために、人または物を世俗から引き離して区別し神に奉献する行為)の典礼は, まさに件の枢機卿が告白したフリーメーソンの計画に一致しています. 1960年代後半から1970年代初めにかけてこの新しい典礼が導入されて以来, 多くの真面目なカトリック教徒はそれが正しく活用され得ると信じるのを拒んできました. 嘆かわしいことに, 新しい形態の典礼は, かならずしも自動的に正当なものでないと分かるわけではありません(もしそうなら事はどんなに簡単でしょうか!). 実態はそれよりもなお悪いのです!新しい秘跡の形態は, 正当なものだと多くの司式司祭に信じ込ませるほど十分にカトリック的でありながら, 総じて曖昧かつ非カトリック的な解釈を暗示するように設計されているため, 「従順」すぎるか十分に気をつけずに祈る(訳注…つまり, 常に霊的に目を覚まして祈っていることをしない)ようなあらゆる司式司祭のインテンションを堕落させることによって, カトリック教の秘跡をやがて台無しにしていくのです.
新しい典礼はこうして, 短期的にはほぼ全員のカトリック教徒に受け入れられるほど有効であっても, 長期的にはあらゆる秘跡を無効にしてしまうほど曖昧であり, 悪魔的に巧妙な罠となっています. これを避けるためには, カトリック教徒はこうした新しい形態の典礼との関わりを一切避ける一方, 正しいカトリック教理から逸脱した大げさな神学上の告発を聞いても, カトリック信徒としての自身の健全な直感を疑うようなことがあってはなりません. 両者の均衡を保つのは必ずしも容易ではありません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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