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2013年3月26日火曜日

296 威厳(いげん)なき威厳 3/16

エレイソン・コメンツ 第296回 (2013年3月16日)

読者の一人が宗教の自由についての第二バチカン公会議の教えに賛同するとの意見を寄(よ)せてきました( "A reader argued in favour of the Vatican II teaching on religious liberty. " ).この問題はエレイソン・コメンツで度々取り上げてきましたが,彼女(読者)が主張(しゅちょう)する論点(ろんてん)は検討(けんとう)を続けるに十分値(あたい)します( "Her arguments are surely worth going through, even if the subject has often come up in “Eleison Comments”, …" ).なぜなら,今日のカトリック教信徒たちにとって,公会議の教えがいかに偽(いつわ)りであるかをきっちり(=きちんと)理解することがとても重要だからです( "… because it is vital for Catholics today to grasp thoroughly the falsehood of that teaching." ).(第二バチカン)公会議(訳注・ "the Council" を指す.以下,「第二バチカン公会議」と記す)が自(みずか)ら出した信教(=宗教)の自由に関する宣言(ラテン語= "Dignitatis Humanae = DH" . 英訳= "Declaration on Religious Liberty" )第二項( "paraguraph #2" )で教えていることは( "What the Council taught in paragraph #2 of its Declaration on Religious Liberty (Dignitatis Humanae), …" ),人はすべて私的(してき)にせよ公(おおやけ)にせよ自分の信条にしたがって行動するときは,いかなる個人もしくは団体によるあらゆる抑圧(よくあつ)から解放されるべきだということです( "… is that all men are to be free from all coercion by any other men or group of men when it comes to acting in private or in public in accordance with their beliefs." ).そのうえ,第二項は人が形成するすべての国家はこの自然の権利を憲法上の権利もしくは公民権として認めなければならないとしています( "Moreover every human State must make this natural right into a constitutional or civil right." ).

これとは正反対に,第二バチカン公会議に至(いた)る前のカトリック教会は,神の創造された人間にたいする神の民生権威( "God’s civil authority over God’s human creatures" )を具現(ぐげん)するあらゆる国家はその権威を神の真の教会,すなわち顕現(けんげん)された神,私たちの主イエズス・キリストのカトリック教会を守り助けるために行使しなければならないと一貫(いっかん)して教えてきました( "On the contrary, all the way up to Vatican II the Catholic Church consistently taught that every State, as embodying God’s civil authority over God’s human creatures, is obliged as such to use that authority to protect and favour God’s one true Church, the Catholic Church of the Incarnate God, Our Lord Jesus Christ." ).言うまでもなく,諸々の非カトリック国家はカトリック教信仰へ保護を与えないことよりむしろカトリック教を信仰していないことで咎(とが)めを受けるでしょう( "Obviously, non-Catholic States will be condemned rather for their lack of faith than for not giving civil protection to that faith. " ).さらに,以前の教会はカトリック国家が偽(いつわ)りの宗教の公的実践(じっせん)を禁止しないよう教えてきました( "Also, Catholic States may refrain from prohibiting the public practice of false religions …" ).とりわけ,禁止することが人々の霊魂救済に役立つよりむしろ害を及(およ)ぼすような宗教についてです( "… where such prohibition will do more harm than good for the salvation of the citizens’ souls, …" ).だが,いずれにせよ,第二バチカン公会議以前のカトリック教会は神の国家は神の真の宗教を保護しなければならないとの原則を堅持(けんじ)していました( "… but the principle remains intact: God’s States must protect God’s true religion." ).

実際には,第二バチカン公会議の教えが暗示(あんじ)しているのは国家は神から生まれるものではないということか,神の真の宗教は唯一ではないということかのいずれかです( "In fact the Conciliar teaching implies either that States are not from God, or that there is no one true religion of God." ).そのいずれの場合も,第二バチカン公会議の教えは暗に国家を神から解放し,それによって人間の自由を神の権利の上に置く,つまり簡単にいえば人間を神の上に位置づけようとしています( "Either way it is implicitly liberating the State from God, and so putting the liberty of man above the rights of God, or, simply, man above God." ).ルフェーブル大司教が第二バチカン公会議の教えは神への冒涜(ぼうとく)だと言われたのはこのためです( "That is why Archbishop Lefebvre said that the Conciliar teaching was blasphemy." ).DHの第二項以外の部分がカトリック教の正しい教えを含んでいると言っても無益なことです( "And it is no use saying that the other paragraphs of DH contain good Catholic teaching." ).タイタニック号を沈(しず)めるには氷山(ひょうざん)の一角(いっかく)だけで十分でした.カトリック教理を沈めるには DH#2 だけで十分です.( "One gash by the iceberg was enough to sink the Titanic. DH#2 alone is enough to sink Catholic doctrine." )そうはいっても,第二バチカン公会議の教えを是(ぜ)とする上記読者の論点をひとつずつ検討してみましょう( "But let us see the arguments in defence of the Council’s teaching." ).

1 DH(信教の自由)はカトリック教会の通常教導権( "Ordinary Magisterium" )の一部をなすものであり、真剣に受け止めなければならない ( "DH is part of the Church’s Ordinary Magisterium, which must be taken seriously." ).
確かにDHは教会の教導者たち(=教皇〈=司教〉たち)もしくは導師(=その他の司教・司祭など一般聖職者たち・神学者たちなど)( "the Church’s Magisters, or masters" )から発(はっ)せられたものですが,無謬(むびゅう)の通常教導権( "infallible Ordinary Magisterium" )に基づくものではありません.なぜなら上で述べたように,DHは教会の伝統的な教えに矛盾(むじゅん)しているからです ( "DH came from the Church’s Magisters, or masters, yes, but not from the infallible Ordinary Magisterium, because DH contradicts the Church’s traditional teaching, as shown above." ).

2 DHは自然法で付与(ふよ)された諸人権を明確にしたものにすぎない ( "DH merely makes clear human rights that are granted by natural law." ).
自然法は人間の諸権利を神の諸権利の上でなく下に置いています ( "Natural law puts the rights of man below, and not above, the rights of God. " ).

3 DHは教会と国家の関係についてのカトリック教規範を否定していない ( "DH does not negate the Catholic model for Church-State relations. " ).
間違いなく否定しています! DH 第二項は国家を唯一真実の教会に対する本質的な義務から解放しています ( "It most certainly does ! Paragraph #2 liberates the State from its essential obligation to the one true Church." ).

4 DHは誰もが人権を信じている現代世界を背景(はいけい)として書かれている ( "DH is written in the context of the modern world where everybody believes in human rights. " ).
いつから世界が教会に順応するのでなく,教会が世界に順応しなければならなくなったのでしょうか? ( "Since when must the Church be adapted to the world, and not the world to the Church ? " )

5 DHは人間が誤(あやま)りを犯す権利を持っているとは教えていない ( "DH does not teach that man has a right to error. " ).
もし神の国家が偽(いつわ)りの宗教を公(おおやけ)に実践(じっせん)する公民権(こうみんけん)を認めなければならないとすれば,神は人が誤りを犯(おか)す権利を認めざるをえないようにされてしまいます ( "If God’s State must grant a civil right to practise, in public, false religions, then God is being made to grant a right to error. " ).

6 DHは現代の諸政府に対しパン半分を与えるよう,パンが全くないよりましだ,と訴(うった)えている( "DH is a plea to modern governments to grant half a loaf, which is better than no bread. " ).
真のカトリック教理はきわめて論理的(ろんりてき)かつ整然(せいぜん)としているので,そのどの部分を手放(てばな)しても全体を手放すことになります. 自(みずか)らを狼(おおかみ)に差し出して助かった羊(ひつじ)があるでしょうか? ( "True Catholic doctrine is so logical and so coherent that to give away any of it is to give away all of it. And what sheep saved itself by offering itself to the wolf ? " )

7 カトリック信徒は現代世界から身を引いて教理上のゲットーにこもるべきでない ( "Catholics must not retreat from the modern world into a doctrinal ghetto. " ).
カトリック信徒は神の諸権利を差し出したり,神の名誉を傷つけたりしないため,なすべきことはすべてなし,行くべきところへはどこでも出向(でむ)かなければなりません ( "Catholics must do whatever they have to do, go wherever they have to go, in order not to give away the rights of God or compromise his honour." ). もしそれが殉教(じゅんきょう)というなら,それでよしとしましょう! ( "If that means martyrdom, so be it ! " )

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教



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2012年5月27日日曜日

254 むしばまれる教理 5/26

エレイソン・コメンツ 第254回 (2012年5月26日) 

第二バチカン公会議が1965年に出した宣言「人格の尊厳(そんげん)( "Dignitatis Humanae" ) 」(訳注・原題はラテン語,英語では "Of the Dignity of the Human Person" )で説く宗教の自由 "religious liberty" という主題について多くの書物が書かれてきました.この文書の革命的な教えは次に挙(あ)げるとおり明瞭(めいりょう)なものです: すなわち,あらゆる個々人( "every individual human being" )には生来の尊厳( "the natural dignity" )が与えられているのであるから,いかなる国家(=公的機関),社会的団体,人間による権力( "State or social group or any human power" )も個々の人間および団体に対して私的にまた公的に( "in private or in public" ),公序( "public order" )が順守(じゅんしゅ)される(=守られる)限り,各自が選択する宗教的信条(=信念・信仰, "religious beliefs" )に背(そむ)いて行動するよう強要あるいは強制( "coerce or force" )することはできない(=してはならない)(D.H. 第2章)ということです. 

これに対し,第二バチカン公会議以前のカトリック教会はつねに一貫(いっかん)して,すべての国家は,その諸市民の霊魂の救いに資(し)しかつその妨(さまた)げとならない限り( "so long as such coercion is helpful and not harmful to the salvation of souls" ),彼ら市民に対しいかなる偽(いつわ)りの宗教,すなわちあらゆる非カトリック教(=カトリック教以外の諸宗教)を,公的に信仰・実践することをやめさせる権利また義務までも持つと教えてきました.(たとえば2012年の今日,自由・解放( "freedom" )はあまりにも広くあがめられて(=崇拝・賛美されて)いるため,ほとんどあらゆる国々の市民は国家によるそのような強要には愛想(あいそ)を尽(つ)かし,カトリック教を,正当に評価するどころか,冷笑(れいしょう)さえするようになっています.このようなケースでは,カトリック教会がつねに教えてきたように,国家は諸々の偽りの宗教を強要(きょうよう)する権限(けんげん)の行使(こうし)を控(ひか)えてもよさそうなものです.) 

ところで,これら二つの教理がいったいどこで相矛盾(あいむじゅん)するのかということの正確な論点についてはきわめて些細(ささい)なことがらに思われるかもしれません——国家が偽りの宗教の公的実践を強要し得るか否かという点ですから——,だがそこから言外(げんがい)に読み取れる数々の意味合い(=含意〈がんい〉・暗示)は(訳注・けっして小さいものではなくむしろ)次に挙げるように計り知れないほど莫大(ばくだい)なものです: すなわち,神は主か(訳注・「いったい創造主たる神が被造物たる天地万物の主(あるじ)か」の意.原文— "is God the Lord" ),それとも人類の僕(しもべ)か?(訳注・「それとも(創造主たる)神は(神の被造物たる)人類の僕なのか」の意.原文— "or the servant of men ?" )という論点に行き当たります.なぜならもし一方で人間が神の被造物( "man is a creature of God" )で,生まれつき社会的なもの( "is social by nature" )だとすれば(これは人が生来あらゆる種類の組織,とりわけ国家という形でまとまることから明らかです),社会や国家も神の被造物( "are also creatures of God" )であるから,国家が,人々の霊魂の救済の妨げになるよりむしろ資することになる限り,諸々の偽りの宗教をなんとかして公的な場(国家の業務領域)で市民に強要することで,むしろ神と神の唯一の真の宗教に仕(つか)えることになるというなら,それも神の御蔭(おかげ)ということでしょう. 

他方,もし人間の自由は個々人が自ら選ぶ宗教の公的実践や偽りの宗教から改宗させることで(公序が乱〈みだ〉されない限り)他人を堕落(だらく)させるのも自由だというほど価値あるものだとすれば,偽りの宗教は公的な場で繁栄(はんえい)するに任せなければなりません(たとえば,今日のラテンアメリカに見られるプロテスタント諸宗派〈 "Protestant sects" 〉).これだと,偽りの宗教と唯一の真の宗教との違いは人間の尊厳ほど重要ではない,だから真の宗教はさほど重要ではない,ということは神の価値は人間の価値より重要度が低いということになります.こうして,第二バチカン公会議は神を格下げし( "down-grades God" ),人間を格上げする( "up-grades man" )わけです.究極的には同公会議は神の宗教を人間の宗教に置き換えようとしています.ルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )が人間の尊厳で狂って酔ってしまった世界とカトリック教会の中で,神,私たちの主イエズス・キリストの超越(ちょうえつ)的な尊厳と価値を支え続けようと聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" )を創設されたのも不思議ではありません. 

だが,今月初めになって一宗教指導者が人前で次のようなことを公言しました: 「多くの人々は第二バチカン公会議を理解していますが,その理解は間違っています.」彼の発言によれば,宗教の自由は「実に多様に使われています.しっかり調べてみると,同公会議がそれについて実際になにを言っているか知らない人が多いという印象を実に受けます.同公会議が示している宗教の自由とはとても,とても限定的なもの,いたって限定的です…( "a very, very limited one: very limited…" ).」第二バチカン公会議そのものは,つまり全体として見た場合に,カトリックの伝統( "Catholic Tradition" )に属(ぞく)するということなのかどうかと聞かれ,彼は「そうだと思います」と答えています( "Asked whether Vatican II itself, i.e. as a whole, belongs to Catholic Tradition, he replied, “I would hope so” " ). 

彼のインタビューを読者の皆さまご自身でご覧になってください.「(訳注・カトリック教)伝統派リーダー,自らの運動とローマ(教皇庁)について語る」( "Traditionalist leader talks about his movement, Rome" )と題するインタビューは英文でユーチューブ上でアクセス可能です.もし「自らの運動」が現在,その42年間の存続期間中で最大の危機の最中(さなか)にあると聞いたら驚(おどろ)かれるでしょうか?

 キリエ・エレイソン.

 英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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