2012年6月24日日曜日

258 花々は教える 6/23

エレイソン・コメンツ 第258回 (2012年6月23日)

花々が語(かた)れるとすれば(「エレイソン・コメンツ第255回参照),時間の価値,神の正義,恩寵と自然の調和( “the value of time, the justice of God, the harmony of grace and nature” )などについて私たちに教えることができるでしょう.
たとえば,もし神が存在され,人がたとえ90年生きるにしてもその束の間(つかのま)の生涯(しょうがい)のあいだに過ごすすべての瞬間ごとに自(みずか)ら取った一つひとつの選択肢しだいで,その霊魂の行方(ゆくえ)が永遠に決まってしまうように神が仕向(しむ)けることが理不尽(りふじん)でないとすれば,その生涯のあらゆる瞬間に価値があるということ,そしてあらゆる瞬間に神が私たちに神と永遠に交(まじ)わるよう呼びかけられ(訳注・私たちの注意を喚起〈かんき〉され)(いつも同じ強さでそうされているとは限らないにしても)ということは理にかなったことです.だからこそ,神が花々や自ら創造されたほかのあらゆる贈り物を通して私たちに語りかけておられるはずだというのもうなずけます.なぜかといえば,現世で自分には愛すべきものや人などなにもないと正直に言える人がはたしているでしょうか?過激(猛烈)な「無神論者 “atheist” 」でさえも,たとえば,自分の好みの犬やタバコを持っているものです.そして犬やタバコの葉を創(つく)り出し,私たちの時代までそれを生き続けさせた(世の創造主たる)御方(“ And Who… ”)は誰でしょうか?

その「無神論者」は死の直前になっても自分は神から語りかけられたことなど一度もないと言い張るかもしれません.だが,死を迎(むか)えたとたんに,彼は(自分がまだ生きていたとき)目覚めているあいだあらゆる瞬間瞬間に,いつも神が身の回りの何らかの生き物を通して自分に呼びかけて(訳注・霊魂の関心を呼び覚まそうとして)おられた( “…for every moment of his waking life God has been appealing to him through some creature or other around him.” )ことを瞬時(しゅんじ)に理解する( “grasp in a flash” )でしょう.「もし私が,あなたが生涯を通していつも私を拒(こば)んできたことを,私の残りの生涯でことあるごとに咎(とが)めるとしたら,私は理不尽でしょうか?」と神は彼にお尋(たず)ねになるでしょう.そして「あなたが選んだものを持ちなさい.私から離れなさい」と,神は彼に告げるかもしれません(新約聖書・マテオ聖福音:第25章41節)(訳注後記).

これとは反対に,生涯のあらゆる瞬間を通していつも自分が楽しんできたあらゆる良いことの陰(かげ)に存在する偉大で善良な神を愛する恩恵を受けた人,( “…has profited by every moment of its life to love the great and good God behind all the good things it has enjoyed,…” ),さらに自分が楽しいと思わなかったあらゆる悪いことの陰に存在する(訳注・災難や苦難の起こることをあえて許可〈=承認,同意〉される)神意(=摂理,神の導き・思慮・配慮)にさえも気づいた( “…that has even recognized the permission of his Providence behind all the bad things it has not enjoyed.” )人のことを考えてみてください.それならば(=訳注・人生が瞬間から瞬間まですべて神意の下にあるものなら)誰が自分の人生に意味を与えるため,人に認めてもらいたい,有名になりたい,メディアの前に出たい,引出しを休暇の写真で埋め尽くしたいなどと望む必要があるでしょうか?過去の時代で,有能な人々が生涯にわたって神への愛にすっかりその身を捧(ささ)げるためその才能を人里を離れ世間から隔離(かくり)された修道院に埋(う)めたのもさして驚(おどろ)くことではありません.私たちの時間の一刻一刻には計りしれない価値があります.なぜなら,その一刻一刻に良かれ悪しかれ霊魂の計りしれない永遠性がかかっているからです.

さらに,花が話せるとすれば,私たちがもう一つよく知られた疑問を理解するのに役立ちます.その疑問とは,非カトリック教徒の人々の霊魂がカトリック教の布教者たち(=宣教師たち)と接する機会がまったくなかったために,カトリック信仰を持たなかったとしたら非難できるだろうか,というものです.人間的な言い方をするなら,花々を創造しカトリック教会を設立されたのはまさしく同一の神であることを思い起こせば,この疑問の少なくとも一部は解かれるかもしれません.神のお導き(=神慮〈しんりょ〉 “God’s Providence” )がカトリックの真理がある霊魂の耳に届くのを許さなかったとしても,その霊魂は真の神のことなど何も知らなかったとは言えません.その霊魂はたとえば(訳注・日々様々に移り変わる)無数の雲景(画),日の出,夕焼けの美しさ( “the beauty of cloudscapes, of sunrises and sunsets” )といった自らが知っていたものによって裁きを受けうるでしょう.それらの美しさを見て,その霊魂は異教徒ヨブ(旧約聖書・ヨブの書:19・25)と一緒になって「私は私の救い主が生きておられることを知る( “I know that my Redeemer liveth” )」と言ったでしょうか,それとも「ええまあ,そうですね,確かにすばらしい.でも,隣の奥さんを訪ねさせてくれ - 」と言ったでしょうか?(訳注後記)

実際のところ,人々が彼らの創造主たる神( “their Creator ”)に対して抱(いだ)く多くの不平不満はカトリック信徒たちでさえ感じています.カトリック信徒たちの多くは,現代のほかの人たち同様,都会やその郊外での生活によって多かれ少なかれ自然界から切り離されており,それ相応にその「精神性 “spirituality” 」が人工的になっているからです.どなたかが「動物一匹(いっぴき)愛したことがない人は可哀(かわい)そう」と言ったことがあります( ““Woe to anybody who has never loved an animal,” somebody has said.” ).子供たちは神と親密です.子供たちがいかに生まれながらにして動物たちが好きなことかを観察してください( “Children are close to God. Watch how naturally children love animals.” ).

偉大にして善良なる神よ,あなたがあらゆるもの,あらゆる人の奥深くに,いつも(=絶えず)おられるのを私たちに見させ給え( “Great and good God, grant us to see you where you are, deep down everything and everybody, at every moment.” ).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


第2パラグラフの訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第25章41節(太字).(25章全章を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW XXV, 41.
The parable of the ten virgins, and of the talents; the description of the last judgement.

十人の乙女のたとえ
『*¹天の国は,各自のともしびを持って,*²花婿(はなむこ)を迎(むか)えに出る十人の乙女(おとめ)にたとえてよい.

そのうちの五人は愚か者(おろかもの)で,五人は賢(かしこ)い.愚か者はともしびを持ったが油を持たず,賢いほうはともしびと一緒に器(うつわ)に入れた油も持っていた.花婿が遅かったので,一同は居眠(いねむ)りをし,やがて眠(ねむ)りこんでしまった.夜半(やはん)に,〈さあ,花婿だ.出迎(でむか)えよ〉と声がかかった.

乙女たちはみな起きて,ともしびをつけたが,愚かなほうは賢いほうに,〈油を分(わ)けてください.火が消えかかっていますので〉と言った.賢いほうは,〈私たちとあなたたちとのためには,おそらく足(た)りません.商人(しょうにん)のところへ行って買っていらっしゃい〉と答えた.彼女たちの買いに行っている間に花婿が来たので,用意していた乙女たちは一緒に宴席(えんせき)に入り,そして戸は閉ざされた.
やがて,ほかの乙女たちは帰ってきて,〈主よ,主よ,どうぞ開けてください〉と言ったけれど,〈まことに私は言う.私はおまえたちを知らぬ〉と答えられた.

*³警戒(けいかい)せよ,あなたたちはその日その時を知らない.』

(注釈)

十人の乙女のたとえ(25・1-13)
*¹ 1-13節 花婿はイエズス,乙女らは信者,ともしびは信仰,油は愛と善業,眠りはイエズス来臨(らいりん)までの期間,婚宴(こんえん)の席(せき)は天国である.その席からは信仰をもっていても愛と善業を行わなかった者が遠ざけられる.

*² ある写本(ブルガタ訳)には「花婿,花嫁」とある.のちの書き入れである.

*³ 花婿のキリストが遅くなることはあっても,信者の霊魂はこの世の生活の試練(しれん)の夜において,いつも警戒し続けなければならぬ.あるいは,弱さのために居眠りをすることがあっても,警戒のともしびをすぐともせるように準備していなくてはならぬ(ルカ12・35-38,13・25).

* * *

タレントのたとえ
『*¹また,天の国は遠(とお)くに旅立(たびた)つ人がしもべたちを呼び,*²自分の持ち物を預けるのにたとえてよい.

おのおの能力(のうりょく)に応じて,一人には五*³タレント,一人にはニタレント,一人には一タレントをわたして,その人は旅立った.
五タレントをわたされた人は,それを用いてもうけ,ほかに五タレントの収入(しゅうにゅう)を得(え),ニタレントをわたされた人も,同じようにほかにニタレントの収入を得たが,一タレントをわたされた人は,土地を掘(ほ)りに行き主人の金を埋(う)めておいた.

しばらく経(た)って主人が帰ってきてしもべたちと精算(せいさん)した.
五タレントを預かった人は別に五タレントを差し出し,〈主よ,私は五タレントを預かりましたが,ごらんください,ほかに五タレントをもうけました〉と言った.主人は,〈よしよし,忠実(ちゅうじつ)なよいしもべだ.おまえはわずかなものに忠実だったから,私は多くのものをまかせよう.おまえの主人の喜びに加われ〉と答えた.ニタレントを預かった人も来て,〈主よ,私はニタレントを預かりましたが,ごらんください,別にニタレントをもうけました〉と言った.主人は,〈よしよし,忠実なよいしもべだ.おまえはわずかなものに忠実だったから,私は多くのものをまかせよう.おまえの主人の喜びに加われ〉と答えた.

また一タレントを受けた人が来て,〈主よ,あなたは厳(きび)しい方で,まかない所から刈(か)り,散(ち)らさない所から集められると知っていた私は,恐(こわ)くてあなたのタレントを地下に隠(かく)しに行きました.あなたに預かったのはこれです〉と言った.
主人は答えた,〈悪い怠(なま)け者のしもべだ.おまえは私がまかない所から刈り取り散らさない所から集めると知っていたのか.それなら私の金を貯金(ちょきん)しておけばよかった.そうすれば私は帰ってきて自分のものと利子(りし)を手に入れたのに.さあ,彼からそのタレントを取り上げ,十タレントを持っている者にやれ.

*⁴持っている者は,与えられてなお多くのものを持ち,持たない者からは,持っているわずかなものさえ取り上げられる.この役たたずのしもべを外のやみに投げ出せ.そこには嘆(なげ)きと歯(は)ぎしりがあろう〉.』

(注釈)

タレントのたとえ(25・14-30)
*¹ 14-30節 旅立つ主人は,近く天国に行くイエズスであり,将来天国からまた最後の審判のために来るであろう.しもべはキリスト信者,タレントは神からの自然的・超自然的たまものを意味する.これを善業のために使わねばならぬ.

*² このたとえも,先のと同じく,キリスト信者の個人個人の最後をたとえている.

*³ 18・24の注参照.(注・18章24節の注から転載→「神殿ではユダヤの貨幣(かへい)だけが用(もち)いられていたが,その他のときにはギリシアやローマの貨幣も用いられた.ユダが裏切りのときに受けた銀貨はシェケル(一シェケル=四ドラクマ)である.
ギリシアの貨幣は、次のとおりである.オポロスはドラクマの六分の一,ディドラクマは二ドラクマである.スタテルは四ドラクマ(銀シェケルと同値)で,一般にもっとも広く用いられていた.ムナは一〇〇ドラクマ,タレントは六〇〇〇ドラクマである.タレントはまた目方でもあり,四二・五三三キロに相当する.
ローマ貨幣は,デナリオがギリシアのドラクマにあたり,アサリオンはデナリオの十分の一,コドラントはアサリオンの四分の一,レプタまたはミヌトゥム(ブルガタ訳)はコドラントの四分の一である.」)

*⁴ 神のたまものを有益に使う者は,その上にまたもらい,持っている少ないものをないがしろにする者は,それさえも失う(マテオ聖福音13・12).

* * *

最後の審判
『*¹人の子は,その栄光のうちに,多くの天使を引き連れて光栄の座につく.
そして,諸国(しょこく)の人々を前に集め,ちょうど牧者(ぼくしゃ)が羊(ひつじ)と雄(お)やぎを分けるように,羊を右に雄やぎを左におく.

そのとき*²王は右にいる人々に向かい,〈父に祝(しゅく)せられた者よ,来て,*³世の始めからあなたたちに備(そな)えられていた国を受けよ.あなたたちは,私が飢(う)えていたときに食べさせ,渇(かわ)いているときに飲(の)ませ,旅にいたときに宿(やど)らせ,裸(はだか)だったときに服(ふく)をくれ,病気だったときに見舞(みま)い,牢(ろう)にいたときに訪(おとず)れてくれた〉と言う.
すると義人(ぎじん)たちは答えて,〈主よ,いつ私たちはあなたの飢えているときに食べさせ,渇いているときに飲ませ,旅のときに宿らせ,裸のときに服をあげ,病気のときや牢に入られたときに見舞ったのでしょうか〉と言う.
*⁴王は答える,〈まことに私は言う.あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは,つまり私にしてくれたことである〉.

また王は左にいる人々に向かって言う,〈のろわれた者よ,私を離(はな)れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ.あなたたちは私が飢えていたのに食べさせず,渇いていたのに飲ませず,旅にあったときに宿らせず,裸だったのに服をくれず,病気のときや牢にいたときに見舞いに来なかった〉.
そのとき彼らは言う,〈主よ,あなたが飢え,渇き,旅に出,裸になり,病気になり,牢に入られたとき,いつ私たちが助けませんでしたか〉.
王は言う,〈まことに私は言う.これらの小さな人々の一人にしなかったことは,つまり私にしてくれなかったことだ〉.

そして,これらの人は永遠の刑罰を受け,義人は永遠の生命に入るであろう」.』

(注釈)

最後の審判(25・31-46)
*¹ 審判(しんぱん)において,特に隣人(りんじん)への愛の実行が重視されている.この愛は,神に対する愛から出るものである.はたして,律法と預言者を,神と人間に対する愛に帰(き)する.

*² 王たるメシア(=救世主),キリストのこと.

*³ 神が人をつくられたのは,永遠の幸福のためである(〈新約〉エフェゾ人への手紙1・4).

*⁴ すべての人のうちにキリストを見るということは,確かにキリスト教の重大な教えの一つである.これによってすべての人,特に貧(まず)しい者は「聖なるもの」となる.
審判の時,愛以外の徳の実行を尋(たず)ねられるであろうが,貧しい人を助けることは,キリストを助けることだと心得(こころえ)るほどの愛をもつものは,この愛の中に他のすべての徳を含(ふく)んでいるはずである.

* * *

第4パラグラフの訳注:

旧約聖書・ヨブの書「解説」

ヨブの書:19章25節(太字)
THE BOOK OF JOB XIX, 25.

This book takes its name from the holy man of whom it treats: who, according to the more probable opinion, was of the race of Esau; and the same as Jobab, king of Edom, mentioned Genesis 36:33. It is uncertain who was the writer of it. Some attribute it to Job himself; others to Moses, or some one of the prophets. In the Hebrew it is written in verse, from the beginning of the third chapter to the forty-second chapter.

(CHAPTER 19) Job complains of the cruelty of his friends; hedescribes his own sufferings: and his belief of a future resurrection.

①「ヨブの書解説」( フェデリコ・バルバロ神父訳「旧約聖書」より)

主人公の名をとってヨブの書と称されるこの本は初めの2章と終わりのことばを除外すれば,全篇詩の形でなり立っている.ここで取り上げているのは人間の苦しみの問題であって,この問題を扱った詩としては世界でもっともすぐれたものの一つである.

正しい幸せな生活をおくっていたヨブの上に突如(とつじょ)として大きな不幸が襲(おそ)いかかった.これが全篇の論争の始まりである(1-3章).

ヨブの不幸を慰(なぐさ)めにきた三人の友人がいた.その三人が一人ずつ話しかけるたびにヨブがそれに答える.ただし三人めの場合は友人が話さずにヨブが長く話す(4-31章).この論争ののち,不意にエリフという男が口を入れる(32-37章).ついに嵐(あらし)の中から神自身が現れてヨブに話す(33章1節-42章6節).最後にヨブはその大きな不幸に耐えた報(むく)いを豊(ゆた)かに受けたことが語られる.

論争した人々の態度は次のようである.三人の友人は「善悪はこの世で報いを受ける」という古来の教えを守っているヨブが不幸になったのは,何かの悪事をしたからであると推理する.自分では正しいと思っていても神の目にとって正しくなかったのかもしれない.ヨブが「私は正しい生活をした」と主張するので,三人はいよいよかたくなに自分のいい分を守る.
ヨブは三人のいい分に対して,自分自身の苦しみとこの世にあふれている不正をもって答える.しがしこのことを語るたびに,「正義の神がなぜ正しい人を苦しめられるのか」という疑問につき当たる.

エリフは,「神に対していい過ぎた」とヨブを非難してのち,三人の友人をも非難する.そして,神の行為を弁護して,「苦しみは人にとって教えであり薬である」と述べる.

次に神が話されるがヨブに直接答えず,宇宙の不思議を語って神の偉大さを示し,人間には無限の知恵である神と相対する権利のないことを教える.

ついにヨブは自分の無思慮(むしりょ)を認める.

この本の主人公ヨブは太祖(たいそ)のころの人(〈旧約〉エゼキエルの書14・14,20)で,アラピアとエドムの国境の地に住んでいたと思われる.
ユダヤの伝統では試練の中で神への忠実を保った人としてヨブを尊(とうと)んでいる.この本の作者はそういう古い話からこの一篇の詩を創(つく)ったのであろう.

作者の名は不詳(ふしょう)である.確実なのは,預言書と知恵の書をよく学んだユダヤ人だということだけである.この人はパレスチナに住んでいたのだろうが,特にエジプトをよく知っていたようである.

この本はエレミアの書,エゼキエルの書より後に出たもので,表現と思想の上でその二つに似たところがある.おそらくは西暦前五世紀ごろの作であろう.

作者がいおうとするのは,「正しい人の苦しみ」である.これは「人はその行いの善悪によって,この世で良いあるいは悪い報いを受ける」というユダヤ古来の考え方からは矛盾(むじゅん)しているようであるが,ヨブは,「正しい生活をしていても災難(さいなん)を受ける」という.読者は序文によって,ヨブの災難が神からではなくサタンからのもので,神への忠実に対する試練であることを知っている.しかしヨブもその友人もこのことは知らない.

ヨブは苦しみのなかにあっても,神は慈悲(じひ)であり正義であるという希望にすがりついている.神が干渉されたのは人知を絶するみずからの計画を示し,ヨブを沈黙(ちんもく)させるためである.

この本の宗教的な教えとは,『霊魂はどんなやみの中にあっても,神への信頼と信仰を持ち続けよ』ということである.

天の示しも不完全であったこの時代の作者としてはこれ以上いえなかっただろう.「罪のない者が苦しむ」という神秘を照らすには来世の賞罰(しょうばつ)の確証がいる.そしてまたキリストの苦しみと合わせて苦しむ,人間の苦しみの価値を知る必要もある.

ヨブの切なる疑問に答えるのは聖パウロの書であろう.

「今のときの苦しみはわれわれに現れる光栄とは比較にならないと私は思う」(〈新約〉ローマ人への手紙8・18).

「私は今,あなたたちのために受けた苦しみを喜び,キリストの体なる教会のために私の体をもってキリストの御苦しみの欠けたところを満たそうとする」(コロサイ人への手紙1・24).

* * *

② ヨブの書:第19章(全章)/ THE BOOK OF JOB, CHAPTER XIX

ヨブは答えて言った,
1 Then Job answered , and said:

「いつまで私の魂(たましい)を苦しめ,
その話で私を押しつぶすのか.
2 How long do you afflict my soul,
and break me in pieces with words?

あなたたちはもう十度も私を侮辱(ぶじょく)し,
恥知(はじし)らずにも私を責(せ)めている.
3 Behold, these ten times you confound me,
and are not ashamed to oppress me.

あやまったのがたとえ事実(じじつ)でも,
また私がかたくなに迷(まよ)いにとどまっても,
4 For if I have been ignorant,
my ignorance shall be with me.

あなたたちが勝(か)って,
私に罪があると証明(しょうめい)できたとしても,
5 But you have set yourselves up against me,
and reprove me with my reproaches.

*私をおさえつけ,
網(あみ)で私をとりまいたのは神であると知れ.
6 At least now understand, that God hath not afflicted me with an equal judgment,
and compassed me with his scourges.

〈これは暴力(ぼうりょく)だ〉と叫(さけ)んでも答えはなく,
呼びかけても正義はこない.
7 Behold I cry suffering violence, and no one will hear:
I shall cry aloud, and there is none to judge.

神が小道をふさがれたので,私は通れない,
神は私の道に闇(やみ)をおき,
8 He hath hedged in my path round about, and I cannot pass,
and in my way he hath set darkness.

光栄をはぎとり,
頭の冠(かんむり)を奪(うば)われた.
9 He hath stripped me of my glory,
and hath taken the crown from my head.

神が四方から壊(こわ)されたので、私は滅(ほろ)びる.
神は私の希望を木のように引き抜(ぬ)き,
10 He hath destroyed me on every side, and I am lost,
and he hath taken away my hope, as from a tree that is plucked up.

その怒りは私に向かって燃えあがり,
私を敵(てき)のようにみなされた.
11 His wrath is kindled against me,
and he hath counted me as his enemy.

神の軍は押しよせ,
私に向かって進路(しんろ)を開き,
私の幕屋(まくや)のまわりに陣(じん)を張(は)った.
12 His troops have come together,
and have made themselves a way by me,
and have besieged my tabernacle round about.

私は兄弟たちののけ者となり,
知人たちも私にとって見知らぬ人となった.
13 He hath put my brethren far from me,
and my acquaintance like strangers have departed from me.

親戚(しんせき)と親しい人々は姿(すがた)を消(け)し,
家の者は私を忘れ,
14 My kinsmen have forsaken me,
and they that knew me, have forgotten me.

下女(げじょ)は私を他人のように思う.
私は彼らにとって赤の他人になった.
15 They that dwelt in my house, and my maidservants have counted me a stranger,
and I have been like an alien in their eyes.

下男(げなん)を呼んでも答えないので,
私はこの口で彼にこいねがわねばならぬ.
16 I called my servant, and he gave me no answer,
I entreated him with my own mouth.

私の息は妻にいとわれ,
兄弟たちもそのにおいに顔を背(そむ)け,
17 My wife hath abhorred my breath,
and I entreated the children of my womb.

小さな子らも侮(あなど)り,
立ち上がると私をからかう.
18 Even fools despise me;
and when I gone from them, they spoke against me.

親(した)しい者はみな私を忌(い)みきらい,
愛する者は逆(さか)らった.
19 They that were sometime my counsellors, have abhorred me:
and he whom I love most is turned against me.

この皮膚(ひふ)の下で肉は腐(くさ)り,
骨は歯のようにむき出しになった.
20 The flesh being consumed.
My bone hath cleaved to my skin, and nothing but lips are left about my teeth.

あわれんでくれ,あわれんでくれ,ああ,友よ.
神の御手(おんて)が私を打(う)ったのだ。
21 Have pity on me, have pity on me, at least you my friends,
because the hand of the Lord hath touched me.

なぜ,あなたたちも神がなさるように,私を責(せ)めるのか.
私の肉にまだ飽(あ)き足らずに.
22 Why do you persecute me as God,
and glut yourselves with my flesh?

ああ,私のことばを書きとめ,
書物に刻(きざ)んでくれ,
23 Who will grant me that my words may be written?
Who will grant me that they may be marked down in a book?

鉄(てつ)ののみと鉛(なまり)で,
永久(えいきゅう)に岩(いわ)に刻みつけてくれ.
24 With an iron pen and in a plate of lead,
or else be graven with an instrument in flint stone.

〈*私を守るものは生きておられ,
仇討(あだう)つものはちりの上に立ち上がるのだと私は知る

25 For I know that my Redeemer liveth,
and in the last day I shall rise out of the earth
.

皮膚がこのようにきれぎれになっても,
私はこの肉で神をながめるだろう〉.
26 And I shall be clothed again with my skin,
and in my flesh I will see my God.

ああ,幸せな私よ,この私自身が,他人ではなく私自身の目で見るだろう.
腎(じん)は絶(た)えなんばかりにあこがれる.
27 Whom I myself shall see, and my eyes shall behold, and not another:
this my hope is laid up in my bosom.

あなたたちが〈彼をいじめてやろう〉〈あの*ことの根を見つけ出そう〉と叫ぶとき,
28 Why then do you say now: Let us persecute him, and let us find occasion of word against him?

そのときこそ、自分の身に下る剣(つるぎ)を恐(おそ)れよ,
それは剣を受けるべき罪なのだ.
そしてあなたたちは〈さばく者〉のあることを知るだろう」.
29 Flee then from the face of the sword,
for the sword is the revenger of iniquities:
and know ye that there is judgment.

(注釈)

神と人に捨てられても保ったヨブの信仰(19・1-29)
6 ヨブは友人のいったことを結論する,「もしあなたたちのいったことが本当だとしたら,この場合神は私に対して不正を行われたことになる.私は自分に罪のないことをよく知っているのだから.あなたたちのいうことを認めたら神は不正だと結論せざるをえなくなるから,それは認められない」.ヒエロニムスとトマス・アクィナスもこの解釈をとった.

25-26 この2節はヨブが岩に刻みつけたいと願うことばで,教義上たいへん大切な箇所であると同時にいろいろ議論されている.訳も多いが,本訳はほとんどヘブライ語本のままである.
この訳では次のような意味になる,「私を守るものはいま姿を見せては下さらぬが,たえず生きておられ正義を証(あかし)するものとして,私の墓(はか)にこられるだろうと私は信じる(25節).私の体が分解しつくしても,なおかつ私はこの体をもって神を眺めるにちがいない(26節)」.
昔のラテン教会教父たちはこのことばを「肉身(にくしん)のよみがえり」の意味にとった.しかし東方教会の教父たちはその意味でほとんど引用していない.それは彼らの用いていた七十人訳ギリシア語本が不十分な訳だったからである.現代のカトリック聖書学者も,「肉身のよみがえり」についてのヨブの信仰を示すものかどうか断定(だんてい)するのをはばかっている.これは「肉身のよみがえり」についての霊的なひらめきだったろうか,あるいはそれの明白な示しの前奏曲であったかもしれない(〈旧約〉マカバイの書下7・9).
ただ,このことばが復活を暗示しているという説に対していいたいのはもしヨブがそれを信じていたとしたら,はじめから友人たちをいい伏(ふ)せることができたろうと思われる.

28 ヘブライ語では「ことば」.ヨブを襲(おそ)った不幸のこと.ヨブが不幸になったのはヨブ自身罪を隠(かく)しているからだと友人たちは考えていた.

* * *

2012年6月18日月曜日

257 今日のガラツィア人たち 6/16

エレイソン・コメンツ 第257回 (2012年6月16日)

「ああ、愚(おろ)かなガラツィア人,」(ガラツィアの信徒への書簡〈しょかん〉:第3章1節).使徒聖パウロは愛するキリスト信者たちの群れの一人を叱(しか)り飛ばしながら叫(さけ)びます ( “…cries out St Paul (Gal.III, 1), tearing a strip off one of his beloved flocks.” ).その信者は後退,つまりキリスト信者たちを再び「世の要素の下に」(同:第4章3節)仕えさせるべくユダヤ教徒化しようとする人たちを満足させるため新約から旧約の時代へ逆戻(ぎゃくもど)りしようと望んだのでした( “…that was back-sliding, or wanting to go back from the New Testament to the Old Testament so as to satisfy Judaizers that would make them serve again “under the elements of the world” (IV, 3).” ).この使徒パウロの長くて厳しい非難演説を,いま第二バチカン公会議の公文書「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」 “Nostra Aetate” をかなえるため公会議主義権威者の支配下に逆戻りする誘惑にかられている伝統派カトリック教徒たち( “…to the Traditional Catholics who are presently being tempted to slide back under Conciliar authorities…” )に当てはめるのは極(きわ)めて容易(ようい)なことです.だがその結果,そこにあるのは聖パウロが(ガラツィア人への書簡の中で)叱責・非難の対象とした世,肉,悪霊( “…world, flesh and devil,…” )と同じものです.それで,聖パウロには申し訳ありませんが,この書簡からいくつかの部分を引用させていただき私たちの時代(現代)に当てはめてみます:--

「ああ、愚かな伝統派カトリック信徒たち “Tradcats ” ! (訳注・十字架につけられた者としての)私たちの主イエズス・キリストの伝統が目の前に描かれた(=示されている)のに,それに従うべきでないと,だれがあなたたちを(訳注・真実でない偽〈いつわ〉りで)魅惑(みわく)したのか( “Who has bewitched you,…” )? あなたたちはだれに惑(まど)わされたのか? 私はあなたたちから次のことだけを聞きたい.あなたたちがカトリック信徒としての人生を数年にわたり送ってきたのは第二バチカン公会議のおかげか,それともカトリック教の伝統( “Catholic Tradition ” )のおかげか? あなたたちはそれほど愚か者か? カトリック伝統の諸々の果実を味わったから,今度は公会議権威者の支配下に戻って伝統を見限(みかぎ)ろうとするのか( “Are you so foolish that having experienced the fruits of Tradition you now want to give it up by putting yourselves back under the Conciliar authorities? ” )? それらの果実(を味わった経験)はすべて無駄(むだ)だったのか?(第3章1-4節)( “Were all those fruits in vain (III, 1-4) ? ” )

キリストの恩寵(おんちょう)のうちにあなたたちを召されたルフェーブル大司教の路線から( “…from the line of Archbishop Lefebvre who called you into the grace of Christ ” )あなたたちがこれほど早く漂(ただよ)い離れて( “drifting away ” ),代わりに第二バチカン公会議の新しい福音( “the new gospel of Vatican II ” )に向かおうとしていることに私は驚いて( “astonished ”,=唖然〈あぜん〉として)いる.それはとても福音というべきものではない.それどころか,(訳注・その新しい福音を信奉(しんぽう)する)モダニスト(現代主義者)たちがあなたたちを惑わし,キリストの福音を変えようとしている( “…these modernists are troubling you, and they want to pervert the Gospel of Christ.” ).だがもし私たち自身であるにせよ,天からの天使であるにせよ,公会議はさほど悪いというわけではないとあなたたちに話す者があれば,その者を即刻(そっこく)その場で追い出し彼の言うことを聞いてはならない!( “But if ourselves or an angel from Heaven were to try to tell you that the Council was not really that bad, throw him out and don’t listen ! ” )(訳注・ “throw him out ”. =彼をその場で直〈す〉ぐに追い出す.直〈ただ〉ちに,即座〈そくざ〉に,の意味を言外〈げんがい〉に含んでいる.)わたしは前に言ったことを今また繰り返す.ルフェーブル大司教が公会議主義下のローマ教皇庁と(聖ピオ十世会と)の間で今日(=現在)交わされている取り決め(協定,契約,取引)( “a deal today with Conciliar Rome ”,)に賛成されただろうなどという偽(いつわ)りのうわべを,さもありそうなふりをして見せかけている者がいればその者は即刻その場で追い出されるべきである!( “…anyone pretending that the Archbishop would have been in favour of a deal today with Conciliar Rome should be thrown out ! ” ) 私たちは誰の利益を求めているのか? 私たちはメディア(マスコミ)に取り入ろうと努めているのか,それとも神のお気に召そう(=神のみ旨〈むね〉を求めよう)とするのか? もし私がメディアのお気に入りなら,私はもはやキリストの奴隷ではない!(第1章6-10節)( “Whose interests are we seeking ? Are we trying to please the media or to please God ? If the media liked me, I would be no servant of Christ ! (I, 6-10) ” ).

かつて,あなたたちがカトリック教信仰の伝統派へ来る前( “Before you came to Tradition,” ),あなたたちは教会を世に引き渡そうとする(“…were turning the Church over to the world ”)教会聖職者たちの奴隷(どれい)であった.だが今,カトリック教の伝統を見いだした後で,あなたたちはどうして公会議権威者の下で世に戻ろうと望むことができるのか?(第3章8,9節)( “…But now, after you found Tradition, how can you be wanting to go back with the world, under the Conciliar authorities (IV, 8,9) ? ” ) 私が真実を語るゆえに聖ピオ十世会の敵になったのか(“Am I become an enemy of the SSPX because I tell the truth ? ”)? あなたたちを惑わしている人々はあたかもあなたたちの利益に気を配っているかのように装(よそお)っているが,その者たちはあなたたちがルフェーブル大司教のことを忘れ彼らの利益に役立つ者となって欲しいのだ(第4章・16,17節)(“Those misleading you pretend to be looking after your interests, but they want you to forget about the Archbishop so as to serve their own interests (IV, 16,17).”)しっかりと立って,二度と公会議の支配下に入るな(第5章・1節)( “Stand fast, and do not come under the sway of the Council again (V, 1).” ).あなたたちは前はよくやっていた.どうしてあなたたちは今さら(訳注・真の神の教えたる)カトリック教の真理に背を向けよう(=背(そむ)こう)とし得るのか? あなたたちを真理に背(そむ)かせようとしている者はだれでも決して神のしもべではない!( “Whoever is doing this to you is no servant of God ! ” ) 私はあなたたちが迷(まよ)いから覚(さ)めて本心に立ち返るようになると信じている.だが,あなたたちを惑わす者は誰でも重大な責任を負う( “I do believe you will come to your senses, but whoever is misleading you bears a grave responsibility.” ).あなたたちは,もし私が世を宣教していたらこれほどの迫害を受けたと思うか( “Do you think I would be so persecuted if I was preaching the world ? ” )? カトリック教の伝統を堕落(だらく)させている者は誰でも割礼(かつれい)以上の傷(きず)をつけるナイフを必要とする!(第5章7-12節)( “Whoever is corrupting Tradition needs the knife for more than just circumcision (V, 7-12) ! ” )

聖ピオ十世会が第二バチカン公会議を体験するよう望む人たちは単にキリストの十字架のために迫害されることを避けようとしているにすぎない( “Those wanting the SSPX to go through Vatican II B are merely trying to avoid being persecuted for the Cross of Christ.” ).彼らはあなたたちに,表向きはカトリック伝統の見かけを保(たも)つだけで世俗的でいてほしいのだ( “They want you to be worldly, keeping only the outward appearances of Tradition.” ).彼らはローマのユダヤ教徒化しようとする人たちのもとへ戻りたいのだ( “They want back in with the Judaizers in Rome,…” ).だが神は私たちの主イエズス・キリストの十字架,すなわち,それによって世は私にとって十字架につけられたものとなり,そして私は世にとって十字架につけられたものとされた,その十字架以外のいかなるものをも私が望むことを禁じられる( “…but God forbid that I should want anything other than the Cross of Our Lord Jesus Christ, by whom the world is crucified to me and I to the world.” ).このようにしてカトリック教の伝統に従って歩む人たちすべての上に(神の)平和が,またあわれみがあるように(第6章・12-16節)( “Whoever follows Tradition in this way, peace be to them, and mercy (VI, 12-16).” ).」

それでは聖パウロ自身の書簡をお読みください.どなたも神のみことばはもはや通用(つうよう)しないなどと取り繕(とりつくろ)って自分を偽(いつわ)ることのないように!( “Let nobody pretend that the Word of God no longer applies !” )

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

* * *

訳注:

新約聖書・「(使徒)聖パウロによるガラツィアの信徒への書簡」を全文掲載.
(「エレイソン・コメンツ 第257回」の本文中で引用されている聖書の箇所は太字で示されています.)

新約聖書 ・ ガラツィア人への手紙 : 全章(1-6章)
EPISTLE OF ST. PAUL TO THE GALATIANS : CHAPTERS I - VI.

The Galatians, soon after ST. PAUL had preached the Gospel to them, were seduced be some false teachers, who had been Jews, and who were for obliging all Christians, even those who had been Gentiles, to observe circumcision and the other ceremonies of the Mosaical law.
In this Epistle, he refutes the pernicious doctrine of those teachers, and also their calumny against his mission and apostleship. The subject matter of this Epistle is much the same as in that to the Romans.
It was written at Ephesus about twenty-three years after our Lord's Ascension.

* * *

第1章

あいさつ
『人間からではなく,人間によるのでもなく,イエズス・キリストとキリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって使徒に選ばれたパウロ,および私とともにいるすべての兄弟は,ガラツィアの諸教会に手紙を送る.

私たちの父なる神および主イエズス・キリストから,あなたたちに恩寵と平和があるように.主は,私たちの神であり父である方のみ旨によって,私たちをこの悪の世から救い出すために,私たちの罪のためにご自分を与えられた.

神に代々に光栄がありますように.アメン.』

(注釈)
あいさつ(1・1-5)
ガラツィアは小アジアの中央にある.

* * *

福音は一つである
『キリストの恩寵によって召されたあなたたちが,これほど早くその御者を離れてほかの福音に移ったことに,私は驚いている.
それは福音というべきものではない.ある人々があなたたちを惑わし,キリストの福音を変えようとしている.
私たち自身であるにせよ,天からの天使であるにせよ,私たちがあなたたちに伝えたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ.私は前に言ったことを今また繰り返す.あなたたちが受けたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ.
私はいま*⁴人の賛成を求めようとするのか.それとも神のみ旨を求めようとするのか.あるいは人に取り入ろうと努めているのか.私が*⁵今も人に取り入ろうとしているのなら,私はキリストの奴隷ではない.』

(注釈)

福音は一つである(1・6-10)
神のこと.

ユダヤ教から改心した偽宣教者は,パウロの言う信仰が足りないので割礼とモーゼの律法が必要だととなえていた.

*⁴ パウロはティモテオに割礼を受けさせ,一方ティトには割礼を禁じたので、便宜主義者だと言われた.

*⁵ 改心前にパウロがユダヤ教を宣教していた時と同じように,「今も」という意味である.

* * *

パウロの使命はキリストからのもの
『兄弟たちよ,私は宣言する.私の告げた福音は人間によるものではない.また,人間から受けたものでも教えられたものでもなく,イエズス・キリストの*⁶啓示によるものである.

前にユダヤ教にいた時の私の行動を,あなたたちはすでに聞いている.私がきわめて激しく神の教会を迫害し,荒らしていたことを.私は先祖の伝えに対して非常に熱心で,同族の同年輩の多くの人々よりもユダヤ教の教えに進んでいた.

けれども母の胎内から私を選び分け,その恩罷によって私を召されたお方が,異邦人にのべ伝えるために,私のうちにみ子を啓示しようと思召(おぼしめ)したとき,直(ただ)ちに私は*⁷血肉(けつにく)に諮(はか)らず,私より先に使徒となった人々に会うためにエルサレムにも上らず,アラビアに退(しりぞ)いて,そこからふたたびダマスコに帰った.

それから三年経(た)って,私はケファ(=ペトロ)の様子を*⁸知るためにエルサレムに上り,十五日間彼とともにとどまったが,*⁹主の兄弟ヤコボのほかにはどの使徒にも会わなかった.*¹⁰神に誓(ちか)って言うが,私があなたたちに書くことにはうそ偽(いつわ)りはない.その後シリアとキリキアの地方に行った.

ユダヤにおけるキリストの諸教会では私の顔は知られていなかった.ただ,その諸教会の人々は,「前の迫害者が今は,以前荒らした信仰をのべ伝えている」と聞き,私のために神に光栄(こうえい)を帰(き)していた.』

(注釈)

パウロの使命はキリストからのもの(1・11-24)
*⁶ 使徒行録9・1-30参照.

*⁷ 人間の意見に左右されて行動したのではない(コリント〈第一〉15・50,エフェゾ6・12).

*⁸ ギリシア語の原意は「探(さぐ)る」である.

*⁹ コリント15・7参照.

*¹⁰ パウロがケファとの意見の一致を,重視していたことを表す.

* * *

第2章

他の使徒らとの一致
『それから十四年後,私はバルナバとともにまたエルサレムに上り,一緒にティトも連れていった.私が上ったのは啓示を受けたからであった.私は異邦人の中でのべ伝える福音を*¹彼らに示し,*²著名(ちょめい)な人々にはひそかに告げた.それは私が無益(むえき)に走っているか,あるいは走ったのではないかを確かめるためであった.

私とともにいたティトは,ギリシア人であったのに割礼を強いられなかった.そこには,私たちを奴隷(どれい)にしようとし,そしてキリスト・イエズスによって有する私たちの自由を探(さぐ)るために忍びこんだ*³邪魔者の偽兄弟があったので割礼について話し合った.ともあれ,*⁴真(まこと)の福音をあなたたちの中に保つために,私たちはいっときも彼らに譲(ゆず)らなかった.しかし,*⁵その著名な人々――*⁶彼らがどんな人であったにしろ,私にはかかわりがない.神は人について偏(かたよ)られることがない――から私は何も強制されなかった.
むしろ,割礼を受けた人々への宣教をペトロにゆだねられたように,私には割礼を受けていない人々への宣教がゆだねられているのを知った.――割礼ある人の使徒としてペトロを強めたお方は,異邦人のために私をも強められたからである――.
なおまた*⁷柱(はしら)として著名なヤコボとケファ(=ペトロ)とヨハネは,私に与えられている恩寵を認め,*⁸一致のしるしとして私とバルナバの手を握(にぎ)った.それは私たちが異邦人のための使徒となり,彼らは割礼を受けた人々のための使徒となるためである.ただ彼らが貧しい人々を考えてくれと勧(すす)めたので,私もそれを心掛(こころが)けた.』

(注釈)

他の使徒らとの一致(2・1-10)
エルサレムではいろいろな集会が行われていた.パウロは,一般の信者,長老,使徒も含めて自分の宣教のあり方を述べ,のちに別に著名な人たちに話した.

6,9節に出る教会の柱ペトロ,ヤコボ,ヨハネである.

割礼を要求していたユダヤ派のキリスト信者を指している(使徒行録15・5).

*⁴ 「福音の自由」という訳もある.

*⁵ 著名な人々は,割礼を課そうとする偽兄弟と明らかに対立している.

*⁶ 使徒らは無学な・貧しい漁師であったが,それは問題ではない.

*⁷ ペトロたちは,教会という霊的な建物の柱として有名だった.

*⁸ 改宗した異邦人を律法に従わせないでもよいという意見の一致.

* * *

律法からの解放
『ところでケファがアンティオキアに来た時,私は面と向かって,彼に反対した.*⁹彼に非難するところがあったからである.
彼はある人々がヤコボのほうから来るまでは異邦人とともに食事していたのに,その人たちが来ると割礼を受けた人々をはばかって異邦人を避けたからである.他のユダヤ人も彼にならって真実を偽(いつわ)る態度をとり,バルナバもその偽りに誘われたほどであった.
私は彼らが福音の真理に従って正しく歩んでいないのを見て,みなの前でケファに言った,「あなたはユダヤ人であるのにユダヤ人のようにせず,*¹⁰異邦人のように生活している.それならどうして異邦人にユダヤ人のようにせよと強いるのか」.

私たちは生まれながらのユダヤ人であって,罪人の異邦人ではないが,人間が義とされるのは律法の行いではなく,ただキリスト・イエズスへの信仰によることを知って,私たちもキリスト・イエズスを信じた.律法の行いではなく,キリストへの信仰によって義とされるためである.
生きる人はだれも律法の行いによって義とされない.私たちがキリストにおいて義とされることを望みながらまだ罪人であるなら,キリストは罪に仕える者であろうか.けっしてそうではない.私がもし*¹¹先に倒したものを再び建てるとすれば,私は違反者だと自白することである.

私は神に生きるために*¹²律法によって律法に死に,キリストとともに十字架につけられた.
私は生きているが,もう私ではなく,キリストが私のうちに生きたもうのである.
私は肉体をもって生きているが,私を愛し,私のためにご自身をわたされた神の子への信仰の中に生きている.
私は神の恩寵をむだにはしない.もし私たちが*¹³律法によって義とされるものなら,キリストの死は無益であった.』

(注釈)

律法からの解放(2・11-21)
*⁹ ペトロのこの態度は,原理の問題ではなく,ユダヤ人への遠慮のためだった.
ペトロのやり方は,それ自体理解できないことではなかった.
パウロも,ほかの時に,同じようにしたことがあった(使徒行録16・3,21・26,コリント〈第一〉8・13,ローマ14・21).
しかしこの場合,律法を守る改宗者のユダヤ人だけが,真のキリスト者であるかのように思わせる危険があった.

*¹⁰ ユダヤの律法のこまかいおきてを守らないで生活すること.
ペトロはカイザリアで百夫長のコルネリオ(使徒行録10・24以下)に対してそうした.
彼はその態度をエルサレムの信徒の前で弁明した.ペトロはこまかいおきてを守ることが,改心したユダヤ人にとって義務ではないにしろ,して悪いことではないと考えていた.
パウロもその意見だった.

*¹¹ 律法のおきてのこと.

*¹²「律法によって」の律法は,キリストのおきての意味にもとれる.
「キリストとその信仰によって義とされたいので,私は律法を捨て,モーゼの律法に死んだ」という意味.

*¹³ 律法に立ち返ることによって.

* * *

第3章

旧約はキリストへの新約によって実現される
ああ,愚かなガラツィア人,イエズス・キリストは十字架につけられた者として目の前に描かれたのに,あなたたちはだれに惑わされたのか(3・1).私はあなたたちから次のことだけを聞きたい.あなたたちが霊を受けたのは,律法の行いによるのか,それとも信仰を承知したからかと.あなたたちはそれほど愚か者か.

霊によって始まったのに,いま肉によって終わろうとするのか.あれほどの恵みを経験したのはむだだったのか.先に言ったことが本当ならむだなことだったろう(3・1-4).あなたたちに霊を与えられ,あなたたちの中で不思議な業(わざ)を行われたお方は,律法の行いのためか,それとも信仰を承知したためにそうなされたのか.
*⁴アブラハムは神を信じた.それは彼の義とされた」と書き記されている.』

(注釈)

旧約はキリストへの新約によって実現される(3・1-6)
聖霊のこと.

「苦しむ」の意味にもとれるが,「経験する」としたほうが正しい.ガラツィア人が受けた聖霊の賜(たまもの)を指す.

ガラツィア人が律法の習慣に立ち返るなら,事実上,福音は彼らにとってむだなものである.パウロはそうならないようにと望んでいる.

*⁴ 創世の書15・6参照.

* * *

信者のみアブラハムの子である
『だから,信仰する者はアブラハムの子であることを理解せよ.
聖書は神が信仰によって異邦人を義とされることを予知し,あらかじめアブラハムによい便(たよ)りを告げ,「あなたにおいてすべての民は祝福される」と言った.
したがって,信仰者のアブラハムとともに祝福されるのは,信仰をもつ人である.

しかし,律法の行いだけを支持する人々はのろいのもとにいる.「律法の書に書き記されているすべてのことを行い続けぬ者はのろわれよ」と書かれているからである.
だれも律法によって神のみ前に義とされないことは明らかである,「義人は信仰によって生きる」からである.
律法は信仰に基づくものではなく,かえって行いに基づく.「*⁴おきてを行う者はそれによって生きる」とあるからである.
キリストは私たちのためにのろわれた者となって,*⁵律法ののろいから私たちをあがなわれた.「*⁶木にかけられた者はのろわれよ」と書かれているからである.
*⁷それはアブラハムに約束された祝福がイエズス・キリストによって異邦人に及ぶためであり,また信仰によって私たちに*⁸約束された霊を受けさせるためであった.

兄弟たちよ,私は人間的な言い方で話そうとしている.人の遺言が公正であればだれもそれを無効にしないし,何一つそれに加えることもできない.
さて約束はアブラハムとその子孫にされたものである.聖書は複数として「子孫たちに」と言わず,単数の形で「子孫に」と言っている.この子孫はキリストである.
だから私はこう言う.神があらかじめ定められた遺言は四百三十年後にできた律法によって廃止されず,約束も無効になることはない.
もし遺産が律法によるのなら,約束によるものではない.しかし*⁹神がアブラハムを嘉(よみ)されたのは約束によってであった.』

(注釈)

信者のみアブラハムの子である(3・7-18)
〈旧約〉創世の書12・3,18・18参照.

〈旧約〉第二法の書27・27・26.律法のおきてを全部守ることはほとんど不可能なことだった.

〈旧約〉ハバククの書2・4参照.

*⁴ 〈旧約〉レビの書18・5参照.

*⁵ 律法の違反と,律法がその機会となる罪のためののろい(10節).

*⁶ 第二法の書21・23参照.

*⁷ 先の節の思想を要約し,補(おぎな)っている.異邦人はキリストによってアブラハムの祝福を受ける.(〈新約〉エフェゾ人への手紙2・14以下).キリストは人間を律法ののろいから(13節)あがなったからである.

*⁸ 原文は「霊の約束」.

*⁹ アブラハムに約束された遺産を受けるために,モーゼの律法を守る必要はない.

* * *

律法には期限がある
『ではなぜ律法があるのか.それは,違反のあるがために加えられたもので,約束された子孫が来られる時までのものであり,天使たちによって,仲立ちの手をとおして布告された.片一方だけの場合には仲立ちというものはありえない.そして神は唯一である.
*⁴それなら律法は神の約束にもとるものか.けっしてそうではない.命を与える律法が出されたとすれば,実に義とされるのは律法によってであろう.
しかし聖書はすべての者を*⁵罪の下に閉じこめた.
それは,信仰をもつ人たちがイエズス・キリストへの信仰によって,約束の恵みを受けるためであった.

信仰の時代が来るまで,私たちはやがて来るはずの信仰を期待しつつ,律法に守られてその囚人であった.こうして律法は信仰によって義とするために,私たちをキリストに導く*⁶守役(もりやく)となった.

*⁷しかし信仰が来れば,私たちはもはや守役の下にはいない.
あなたたちはみなキリスト・イエズスへの信仰によって神の子である.キリストの洗礼を受けたあなたたちはみな,キリストを着たからである.
もう,ユダヤ人もギリシア人もなく,奴隷も自由民もなく,男も女もない.みなキリスト・イエズスにおいて一つだからである.
あなたたちがもしキリストの者であれば,アブラハムの子孫であって約束の世継ぎである.』

(注釈)

律法には期限がある(3・19-29)
*¹ ローマ5・20参照.

*² モーゼのこと.

*³ 約束されたのは神だけであるから,仲立ちはいらない.

*⁴ 律法は罪がどこにあるかを知らせる(19節)が,命を与えるものではない.すなわち,罪を避ける力を与えてくれないからである.

*⁵ 律法には罪を避けさせる力がない.

*⁶ ギリシア語の「パイダゴゴス」で,元の意は主人の子を学校に連れていく奴隷であった.

*⁷ 25-26節 信仰が来て律法は終わり,守役は暇(ひま)を出された.アブラハムの子孫であるかどうかは,別問題とされ,信仰によってみなが神の子となった(28,29節).

* * *

第4章

子の精神
私はこう言う.世継ぎはすべての者の主人であるが,子どもの間は奴隷と異なるところがない.父の定めた日までは後見人と管理者の下にいる.私たちもそうであって,子どもの間は,奴隷として,世の要素の下にあった(4・3).しかし時満ちて,女から生まれさせ,律法の下に生まれさせたみ子を神は遣わされた.それは律法の下にある者をあがない,私たちを養子にするためであった.

あなたたちが神の子である証拠は,「アッバ,父よ」と叫(さけ)ぶみ子の霊を,神が私たちの心に遣わされたことである.だから,もはやあなたは奴隷ではなく子である.子であればまた神によって世継ぎである.

かつて,あなたたちは神を知らず,*⁴本質として神でないものの奴隷であった.今あなたたちは神を知った.いやむしろ神に知られる者となったのに,どうしてまた,*⁵弱い不完全な要素にもどってその奴隷になろうとするのか(4・8-9).あなたたちは日と月と季節と年をこまかく守っている.私はあなたたちのために,無益に苦労したのではないかと恐れる.』

勧め
『兄弟たちよ,私があなたたちのようになったのだから,あなたたちは私のようになってほしいと願う.あなたたちは私に何の不正なこともしなかった.

*⁶ご存じのように初めてあなたたちに福音をのべる機会になったのは,私の体の病であった.あなたたちにとって試練であった私の*⁷この体の病気に,あなたたちは軽蔑(けいべつ)も嫌悪(けんお)も見せず,かえって私を神の天使のように,キリスト・イエズスのように迎(むか)えてくれた.その時のあなたたちの喜(よろこ)びはどうなったのか.あなたたちができれば自分の目をえぐって私に与えようとまで思っていたことを*⁸私は忘れていない.

私があなたたちに真実を話したから,敵になったのか.
彼らがあなたたちに示す愛はよい心から出たものではない.彼らが望むのは,あなたたちの愛を自分たちだけに向けさせ,私たちから引き離すことである(4・16,17)

よいことの場合,人から愛情を向けられるのは常によいことである.だが私がともにいるときだけではなく常にそうでなければならない.小さな子らよ,あなたたちのうちにキリストが形づくられるまで,私はまた生みの苦しみを受ける.私は今どんなにあなたたちの側(そば)にいたいことだろう.あなたたちに対してどうすればよいかに迷っている.私はどんなに自分の*⁹声音(こわね)を変えたいことだろう.』

(注釈)

子の精神(4・1-11)
ユダヤの宗教暦と祝日と儀式などを定める天体運行のことを言うのであろう.

〈新約〉ローマ人への手紙8・15.アラマイ語の「父」.

聖霊はみ子から発出するという教理の根拠になる.

*⁴ 異教徒の神々を指す(〈新約〉コリント人への手紙〈第一〉8・4).

*⁵ パウロはユダヤ教の改宗者を椙手にしているので,世の要素とは天体運行によって定められた安息日,断食,祝日などのユダヤ年中行事の意味らしい.

「不完全」なのは,それが義を与えず,その遵守(じゅんしゅ)が困難だったからであろう.

勧め(4・12-20)
*⁶ 病気になってそこに立ち寄らざるをえなくなったので,ガラツィアに福音をのべた.

*⁷ この体の病気のことは,コリント〈第二〉12・7に出ている病気とは別である.コリント人への手紙の場合は,隠(かく)れた病気であるが,ここの場合は,だれの目にも見える外の病気だった.

*⁸ 原文,「私はあなたたちに証明する」.

*⁹ 厳しい口調(3・1)ではなく,優しいことばで彼らを納得させたい.

* * *

サラとハガル
『律法に服従しようとするあなたたちは私に言うがよい.あなたたちには律法が分かっているのか.

アブラハムには二人の子があった.一人は奴隷女から,一人は自由民の女から生まれたと書き記されている.奴隷女の子は肉体によって生まれ.自由民の女の子は約束によって生まれた.
そのことは前兆として語られている.すなわちこの女たちは二つの契約である.

一つはシナイの山から出て奴隷を生む,これがハガルである.
また,ハガルはアラビアではシナイの山を指す.ハガルはその子らとともに奴隷になっている今のエルサレムと同列である.

しかし上にあるエルサレムは自由であって,私たちの母である.
はたしてこう書き記されている,「*⁴うまずめで子を生まぬ者,喜べ.生みの苦しみを知らぬ者,声をあげて喜べ.一人住まいの女の子どもは夫のある女の子どもより多い」.

兄弟たちよ,あなたたちはイサクのように約束の子である.
そのころ*⁵肉体によって生まれた者が霊によって生まれた者を迫害したように,今もそうしている.
聖書には何と言われているか.「*⁶奴隷女とその子を追い出せ.奴隷女の子は自由民の女の子とともに遺産を受けられぬ」とある.

そして兄弟たちよ,私たちは奴隷女の子ではなく,自由民の女の子である.』

(注釈)

サラとハガル(4・21―31)
彼らに律法がよく分かれば,パウロが次の節から実例をあげて言っているように,
約束の世継ぎとなるために,肉体的にアブラハムの子であるだけでは足りないと分かるだろう.
精神的にその子とならねばならない(〈新約〉ローマ人への手紙6・9以下).

写本が不ぞろいなので,読み方は一致しない.「シナイの山はアラビアにあって……」という写本もある.

軍隊用語で縦列のこと.
一方の列には,ハガル,その子ら,シナイ山と律法の奴隷である今のユダヤ人.
他の列には自由民のサラ,その子イサク,新約の子ら,福音の自由の子ら,キリスト信者.

*⁴〈旧約〉イザヤの書54・1参照.

*⁵ イスマエルがイサクを迫害したこと(〈旧約〉創世の書21・9).

*⁶ 創世の書21・10参照.

* * *

第5章

キリスト信者の自由
この自由のために,キリストは私たちを解放されたのであるから,しっかりと立って,二度と奴隷のくびきをかけられるな(5・1).

見よ,私パウロはあなたたちに言う.あなたたちが割礼を受けるなら,キリストは何の役にも立たなくなる.また,割礼を受けようとする人ならその人は律法全体を守る義務があると,私はふたたび宣言する.律法によって義とされることを望む者は,キリストから切り離され,恩寵から落とされる.
私たちが希望をもって正義の実現を待っているのは,霊により信仰によってである.なぜなら,キリスト・イエズスにおいては,割礼を受けることも受けないこともいずれも価値がなく,愛によって働く信仰だけに価値がある.

前はよく走っていたのに,今あなたたちが真理に服従するのをはばんだのは何者か.そういう思いつきは,あなたたちを呼ばれた方からのものではない.少しのパンだねは練り粉全体をふくらませる.
あなたたちが他の考えを抱かぬように私は主によって切に望む.ともあれ,あなたたちを乱す者は,だれであろうとそのさばきを受けるであろう.
兄弟たちよ,*⁴私が今なお割礼を宣教しているなら,なぜ迫害されるのだろうか.それなら十字架のつまずきはやんだわけである.あなたたちを乱す人々は*⁵自分で切ればよい(5・7-12).

(注釈)

キリスト信者の自由(5・1-12)
14・21から言い始めた律法のことは,いつかキリストの福音に変わる.キリストは私たちをユダヤの律法から解放し,信仰から来る自由を与えられた.

ほんとうの信仰は愛によって人を動かす.

ユダヤ派の信者を指している.

*⁴ 割礼をまだ守らねばならないとパウロが宣教していたら,ユダヤの信者から迫害されるはずはない.

*⁵ かつて異邦人であったガラツィア人の中には,チベレ女神の信心がはやっていた.その信心家の間では,よく去勢をした.そのことの暗示らしい.つまり「あなたたちを乱すような人は,何もかも切ってしまえ」という皮肉であろう.

* * *

自由を乱すことは許されない
『兄弟たちよ,あなたたちは自由のために召された.ただその自由を肉への刺激として用いてはならない.むしろ愛によって互いに奴隷となれ.全律法は「自分と同じように隣人を愛せよ」という一言に含まれているからである.互いにかみ合い食い合って,ともに食い尽くされぬように注意せよ.

私は言う.霊によって歩め.そうすれば肉の欲を遂(と)げさせることはない.実に肉の望むことは霊に反し,霊の望むことは肉に反する.あなたたちが望みのままに行わぬように,それらは相反(あいはん)している.もしあなたたちが霊に導かれているのなら,律法の下にはいない.

*⁴肉の行いは明白である.すなわち、淫行(いんこう),不潔(ふけつ),猥褻(わいせつ),偶像崇拝(ぐうぞうすうはい),魔術(まじゅつ),憎悪(ぞうお),紛争(ふんそう),嫉妬(しっと),憤怒(ふんぬ),徒党(ととう),分離(ぶんり),異端(いたん),羨望(せんぼう),泥酔(でいすい),遊蕩(ゆうとう),そしてそれらに似たことなどである.私は前にも言ったように,またあらかじめ注意する.以上のようなことを行う者は神の国を継がない.

それに反して霊の実は,慈愛(じあい),喜び,平和(へいわ),寛容(かんよう),仁慈(じんじ),善良(ぜんりょう),誠実(せいじつ),柔和(にゅうわ),節制(せっせい)であって,*⁵これらのことに反対する律法はない.*⁶キリスト・イエズスにある者は,肉をその欲と望みとともに十字架につけた.

私たちが霊によって生きているのなら,また霊によって歩もう.いどみ合い,ねたみ合って,虚栄(きょえい)を求めることのないようにしよう.』

(注釈)

自由を乱すことは許されない(5・13-26)
〈旧約〉レビの書19・18参照.

ガラツィア人同士の争いのこと.

肉が選ぶと霊はそれに反対する.霊が選ぶと肉がそれに反対する.すなわち,〈新約〉コリント人への手紙〈第一〉2・14,ローマ人への手紙8・1以下にあるように,自然の人間と恩寵に生きる人間との対立が述べられている.

*⁴ 19-21節 ローマ人への手紙1・19-31,コリント人への手紙〈第一〉6・9-10参照.

*⁵ 「こういう生活の人に対して」という訳もある.
これらのことを行う人は律法の罰を受けない.

*⁶ ローマ人への手紙6・2-6,8・13参照.

* * *

第6章

愛の実践
『兄弟たちよ,もしある人に過失があったら,霊の人であるあなたたちは柔和な心をもってその人を改(あらた)めさせよ.そして,自分も誘(さそ)われぬように気をつけよ.

互いに重荷を負え.そうすれば,あなたたちはキリストの法をまっとうできる.
何者でもないのに,何者かであるかのように思うのは,自分を欺(あざむ)くことである.おのおの自分の行いを調べよ.そうすれば,他人についてでなく,自分についてだけ誇(ほこ)る理由を見いだすであろう.おのおの自分の荷を負っているからである.
みことばを教えてもらう人は,教えてくれる人に自分の持ち物を分け与えよ.
自分を欺いてはならない.神を侮(あなど)ってはならない.人は,まくものを収穫するからである.すなわち自分の肉にまく人は肉から腐敗を刈り取り,霊にまく人は霊から永遠の命を刈り取る.
善を行い続けて倦(う)んではならない.たゆまず続けているなら,時が来て刈り取れる.だから,まだ時のある間に,すべての人に,特に信仰における兄弟である人々に善を行え.』

(注釈)

愛の実践(6・1-10)
*¹ 〈新約〉コリント人への手紙〈第一〉3・1以下参照.

他人の欠点と自分の行いを比べて,誇りたくなる時がある.しかし非難(ひなん)するのは,自分のことだけでなければならない.パウロのこのことばは皮肉であって,真実に自分をかえりみる人は,自分を誇る理由を見つけるはずがない.

信徒は宣教師の生活を保証せねばならない.

* * *

最後の勧め
『*¹私がなんと大きな文字で手ずからあなたたちに書いているかを見よ.
*²肉において見栄(みえ)を飾(かざ)ろうとする者は,あなたたちに割礼を強制する.
それは,ただキリストの十字架のために迫害されないためだけである.
割礼を受けた人さえ律法を守ってはいない.しかもあなたたちに割礼させようと望むのは,あなたたちの肉を誇りにしたいからである.

かえって私は,主イエズス・キリストの十字架のほかなにものをも誇りとはしない.
*³キリストによって,世は私にとって十字架につけられたものとなり,そして私は世にとって十字架につけられた者とされた.

つまり,割礼を受けることも受けないこともともにむなしいことである.
ただ尊(とうと)いのは新しい人だけである.
この法に従って歩むすべての人々と,神のイスラエルの上に平和とあわれみがあるように(6・12-16).

これからのち,だれも私を煩(わずら)わすな.私はイエズスの*⁴印(しるし)を身につけているからである.
兄弟たちよ,主イエズス・キリストの恩寵があなたたちの霊とともにあるように.アメン.』

(注釈)

最後の勧め(6・11-18)
*¹ パウロの自筆.「大きな文字」はパウロの目が悪かったから、大きな字で書いたという意味ではない.むしろ,重大なことをよく相手の心にきざみたいからこう言ったのである.

*² ユダヤ人の信徒の態度.

*³ 世間と十字架のキリストとは両立しない.

*⁴ 奴隷につける焼印.または,キリストのために忍んだ迫害の傷跡(きずあと)(コリント〈第一〉6・4-5,11・23).

*  *  *


2012年6月10日日曜日

256 大司教は語る 6/09

エレイソン・コメンツ 第256回 (2012年6月9日)

ルフェーブル大司教 "Archbishop Lefebvre" が聖ピオ十世会のため司教を聖別( "consecrate" )すると最終的に決断されたのは1988年6月のことですが,それまで彼は第二バチカン公会議以降のすべてのカトリック信徒と同じように,同会議が近代世界の風潮(ふうちょう)に従うことでバラバラにし相互に分離させてしまったカトリック教の真実(=真理)とカトリック教の伝統( "…between the Catholic Truth and Catholic Authority" )の間で板挟(いたばさ)みになっておられました.だが,彼はあの決断を下された後,すなわちカトリックの伝統を救う( "the saving of Catholic Tradition" )明瞭(めいりょう)な証(あか)しとなったその決断をされた後は,心の中のあらゆるものを取り戻し,それからおよそ2年半後に死を迎えるまで二度と迷いを示すことはありませんでした( "…never again wavered" ).

ルフェーブル大司教のすっきりした心境 (訳注・ "clear mind".「迷い・雑念から解放され,はっきりと明確に整理された,明瞭に澄(す)み切った思考と心」という意味合い) を示す一例として,彼が1988年8月18日,ドン・トマス・アキナス "Dom Thomas Aquinas" に書き送った書簡(しょかん)があります.当時,ドン・トマスはドン・ジェラール "Dom Gérard" が率いる南フランス,ル・バルーの伝統派ベネディクト修道会( "the Traditional Benedictine monastery in the south of France, le Barroux" )から派生したブラジルの修道院の若い修道院長( "Prior" )でした.悲しいかな,ドン・ジェラールはエコン "Écône" の司教聖別の数日後,聖ピオ十世会と袂(たもと)を分かち(=決別・絶縁し),自身の修道会を公会議派の教会( "the Conciliar Church" )に統合しました.以下がルフェーブル大司教がドン・トマスに宛(あ)てた書簡の内容です:--(訳注後記)

「ル・バルーでの出来事(すなわち,ドン・ジェラールの離脱 "defection" )の前にあなたが出発しなければならなくなったとはなんとも残念なことです.ドン・ジェラールの破滅的な決断( "disastrous decision" )から生じた事態は容易に想像できたことでした.

彼は自ら出した布告( "his declaration" )の中で自分に与えられた権限で可能なものごとが何かを明確に提示し,根本的に全く反伝統派にとどまったまま( "remains fundamentally anti-Traditional" )の近代主義的ローマ(教皇庁)( "modernist Rome" )に従属すること( "to put himself under obedience" )を受け入れると述べています.このことで私は彼と距離を置くことにしました.彼は同時に伝統(主義)派 "Traditionalists" との友情とその支持をそのまま保持したいと願っていますが,これは考えられないことです "inconceivable" .彼は私たちを単に抵抗のために抵抗していると非難しています.私は彼によくよく警告しましたが,彼はそれよりずっと前にすでに心を決めていて,私たちの忠告など気にとめようともしませんでした.

諸々の結果は必然的なものです.だが,私たちはル・バルーとの関係をこれ以上続けることはないでしょう.私たちは忠実な信徒たちに対し,今後私たちの敵たち,私たちの主イエズス・キリストとその普遍的(=全宇宙の)王国( "Universal Kingship" )の敵たちの手に移る事業には支持・支援を与えないよう忠告するつもりです.(ル・バルー付属の)ベネディクト会の修道女たち( "The Benedictine Sisters (attached to le Barroux) " )は深い苦悩のなかにいます.彼女たちは私に会いに来ました.私はあなたに与える忠告と同じ忠告を彼女たちに与えました.すなわち,(訳注・どこにも所属せずに)自由の身のままとどまり,近代主義的ローマ(教皇庁)とのいかなる結びつきも拒(こば)みなさい,というのが私の忠告です.

ドン・ジェラールはあらゆる理屈(りくつ)を用いて私たちの抵抗を崩そうとします.(…)タム神父 "Fr. Tam" が私がこの書簡で書かなかったことをあなたに教えてくださるでしょう.(…)神があなたとあなたの修道院に祝福を賜(たまわ)らんことを.マルセル・ルフェーブル大司教」

その後,ドン・ジェラールはブラジルの修道院を訪れ,彼に従って同修道院が(訳注・第二バチカン公会議体制下の)新教会( "the Newchurch" )に加わるよう仕向けようとしました.だが,若いドン・トマスは勇敢に自分の立場を固守(=堅持)し一歩も引き下がりませんでした.彼の指導下にある修道院はその時いらい伝統派のままとどまっています.上の書簡には書かれていませんが,ルフェーブル大司教は実際にル・バルーの忠実な修道士たちを結集してドン・ジェラールを締(し)め出すよう,ドン・トマスを激励(げきれい)しています!

司教聖別後のルフェーブル大司教のすっきりした心と意志( "clear mind and will" )はこのようなものでした.彼の弟子たちのなかに「基本的には反伝統派のままの近代主義的ローマに従属すること( “under obedience to modernist Rome which remains fundamentally anti-Traditional” )」,すなわち,客観的なカトリック教の伝統( "objective Catholic Tradition" )をおよそ理解しない主観主義的教皇( "a subjectivist Pope" )に従属することを欲(ほっ)している(=望んでいる)( "be wanting to put themselves “under obedience" )ものたちがなぜ今あり得るのだろうかと不思議に思えます.それは,私たちの周りにある主観主義的世界( "the subjectivist world" )で,つねに強まり続ける( "increasing all the time" ),誘惑の力のなせる業(わざ)なのでしょう.主観主義の狂気( "The madness of subjectivism" )はごくあたり前のことになってしまい,いたるところに広がっているため,それに気を留(と)める人はもはやほとんどいなくなっています.「私たちの助けは主の御名のもとにあり.」( " “Our help is in the name of the Lord.” " )(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


*     *     *


第2パラグラフの訳注:
ドン・トマス・アキナス "Dom Thomas Aquinas"
ドン・ジェラール "Dom Gérard" について.

 ・"Dom" は ラテン語の"Dominus" (主人・管理者・監督者などの意)に由来し,修道院長,司教など称号・肩書きを持つ神父に対する敬称.

・「ドン・ジェラール」 "Dom Gérard" = Dom Gérard Calvet(ドン・ジェラール・カルヴェ).
フランスの伝統ベネディクト修道会所属修道士.ローマ・カトリック司祭.
フランスのル・バルー(プロヴァンス “Provence” 地域)にある「ル・バルーの聖マドレーヌ(マグダレーナ)大修道院」(男子修道院. “the Traditional Benedictine monastery” )の創立者および大修道院長( “premier abbé de l'Abbaye Sainte-Madeleine du Barroux / abbot of the Sainte Madeleine du Barroux abbey in Le Barroux, France ).

・「ドン・トマス・アキナス」 "Dom Thomas Aquinas" = "Dom Thomas Aquinas OSB" .
ドン・ジェラールによる伝統ベネディクト修道会のブラジルにある男子修道院の修道院長.

* * *

最後のパラグラフの訳注:
「私たちの救いは主の御名のもとにあり.」
 ( “Our help is in the name of the Lord.” )について.

旧約聖書・詩篇:第124篇8節
BOOK OF PSALMS, PSALM CXXIII
“Nisi quia Dominus”
The church giveth glory to God for her deliverance from the hands of her enemies.
123:8

「われらの助けは,
天地をつくられた主のみ名.」
"Our help is in the name of the Lord,
who made heaven and earth."

*     *     *

2012年6月3日日曜日

255 花々は語る 6/2

エレイソン・コメンツ 第255回 (2012年6月2日)

神は無限の存在(訳注・ “infinite Being”. 「全存在の大本〈おおもと〉,源〈みなもと〉,始まりとしての無限の存在」 という意味),無限の真実( “Truth” ),無限の善であり( “Goodness” ),無限に正しく( “just” ),無限に慈悲深い( “merciful” ).神の教会( “Church” )はそう教えています.この考えは雄大かつ素晴らしいもので,それについて私に異論はありません.だが,私は神の教会がそれと同時にまた人の霊魂はたった一回大罪を犯しただけで( “for just one mortal sin” )想像を絶するほどの手厳しくむごい永遠の苦しみに導かれる( “…be damned for all eternity to sufferings harsh and cruel…” )と教えていることも知っています.それについては素晴らしいことなどと言えません.この点について私は異論を差しはさみたくなります.

例を挙(あ)げてみます.私は両親が私に生(せい)を授(さず)けると決める前に相談など受けませんでしたし,私の存在についての,いわば,契約条件についても相談されませんでした.もし前もって相談されていたら,私は教会が教えるような,どちらの場合も共に果てしなく続く,想像もできないほどの至福 “bliss” か想像できないほどの苦痛 “torment” のいずれかを取るといった極端な二者択一( “such an extreme alternative” )に異論を唱えたでしょう.その代わり,私は天国にいる期間が短いのと引き換えに短期間だけ地獄に陥(おちい)るリスク( 訳注・ “only an abbreviated Hell”,=短縮された地獄滞在期間さえ耐えれば済む)を伴(ともな)うもっと穏当(おんとう)な「契約」( “a rather more moderate “contract”” )を受け入れたでしょう.だが,私は事前の相談を受けませんでした.至福と苦痛のいずれも果てしなく続くというのは,私のこの世での( “on earth”,=地上での )短い人生,10年,20年,50年かせいぜい90年ていどの間に今日は在り明日には逝(い)くという束(つか)の間の人生にはとても釣り合わないように思えます.生きとし生けるもの(=人間)は草のごとし( “All flesh is like grass” )ー「人は朝に花開き…夕べに倒(たお)れ,渇(かわ)き,枯(か)れる」(詩編・第90篇6節)( ““In the morning man shall flourish… in the evening he shall fall, grow dry and wither” (Ps. LXXXIX, 6). ” )というわけです.この考え方に立てば,神はとても不公平であるように思え,私は神が本当に存在するのかどうか真面目に疑いたくなります.(訳注後記) 

この問題は私たちに真剣な内省を求めます.次のようなことがらを仮に考えてみましょう; すなわち,神が存在されること,神はその教会が言うように正しい方であること,誰に対してもその人の同意なしに重荷を押し付け負わせるのは不当・不公平であること,この世の人生ははかなく,永遠に比べれば煙草の煙のようなものであること,人は誰しもひどい罪を犯していると自覚しない限りひどい罰を受けるはずがないことなどについて,考えてみましょう.こう考えた場合,存在されるはずの神がどうして正しいと言えるのでしょうか? もし神が正しいとすれば,論理必然的にもの心ついた人は誰しも自分が永遠なるものを選んだこと,そしてその選択がどういう意味を持つのかが分かる年齢まで生き続けなければならないはずです.だが,そのようなことは,たとえば神がいたるところで無視され,個々人,家庭,国家の日常で未知のものである今日の世界で果たして可能でしょうか? 

その答えは,神は個々人,家庭,国家よりも先におられた(存在される)上位の存在であり( “God comes before individuals, families and States” ),神はあらゆる人間に先立ちどんな人間とも一切かかわることなく無関係に( “prior to all human beings and independently of them all” ),一人ひとりの人の心・霊魂の内部に「語りかける」のであり( “he “speaks” within every soul” ),したがって宗教教育が役に立っていないような霊魂(=人)でも自分が日々選択をしていること,自分だけが自らのために選択していること,そしてその選択が重要な意味を持つことを分かっている( “…still aware that it is making a choice each day of its life, that it alone is making that choice for itself, and that the choice has enormous consequences.” )と考える中でしか見いだせないでしょう.だが,もう一度繰り返しますが,今日私たちが身の周りに見る世界のような神のいない世界( “the godlessness of a world” )で,そのようなことが果たして可能でしょうか?

(それは可能です.)なぜなら,(人々の)心・霊魂への神の「語りかけ」は,いかなる人間による語りかけあるいは世に存在しうるその他のいかなるものによる語りかけよりも,はるかに深く,より絶え間なく続き(=持続し),存在感があり,訴えるものが強い(=〈人の〉心を動かす力が強い)からです.神のみが私たちの霊魂を創造されました.神は無限に存在し続け,その永遠の時空(じくう)の瞬間瞬間に( “for every moment of its never ending existence” )霊魂を創造し続けるでしょう.それゆえに神は一つひとつの瞬間ごとに人の霊魂にとってより親密で近しい存在です.たとえその霊魂の人としての両親と比べたとしても,すなわち単に(肉身を生み出して)霊魂に身体(=肉身) ---身体というものは唯一神のみがその存続を支えられる物質的要素から作り出され(生まれ)るもの( “…body – out of material elements being sustained in existence by God alone.” )ですが--- を合体させ一つに組み立てただけの両親と比べても,神はその両親よりずっと霊魂のより側近(そばちか)くにおられる存在です.同じように,神の善(=善良さ)は魂がその生涯に享受(きょうじゅ)するあらゆる善い物事の背後や内部またそのすぐ下(底)に潜(ひそ)んでおり,霊魂はそれが神の無限なる善(善良さ)( “the infinite goodness of God” )から生じた(=派生〈はせい〉した)副産物にすぎないことを心の奥底で気づいています.「お黙りなさい.私はあなたが誰のことを話しているのか分かっています」と,ロヨラの聖イグナチオ( “St. Ignatius of Loyola” )が小さな花に語りかけました.幼児の笑い声,日々刻々うつろう自然の輝き,音楽,天空の隅々,芸術の傑作(けっさく)などなど --- なおいっそう深い愛情の対象ともなるこのような物事は,それらを愛する人の心(霊魂)に,そのような愛をはるかに超越(ちょうえつ)するより深くて偉大な何ものかが,あるいは --- 何方(どなた)かが --- 存在することを教えてくれます( “even loved with a deep love, these things tell the soul that there is something much more, or – someone.” ).

「おお神よ,私はあなたに望みを託(たく)ました.どうぞ私を狼狽(ろうばい,うろたえ,)させないでください」(詩編・第31篇2節)( “In thee, O God, have I hoped, let me never be confounded” (Ps. XXX, 2). ” )(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


*     *     *


第2パラグラフの訳注:
旧約聖書・詩編:第90篇6節 
BOOK OF PSALMS, PSALM LXXXIX
“Domine, refugium.”
A prayer for the mercy of God: 
recounting the shortness and miseries of the days of man. 
89:6

『朝には花ひらき,のび,
夕べにはしおれて枯れる.』
“In the morning man shall grow up like grass;
in the morning he shall flourish and pass away:
in the evening he shall fall, grow dry, and wither.”

*   *   *

1 第90篇 *神の人モーゼの祈り.
主よ,あなたは代々に,われらの逃れ場だった.
1 PSALM 89 A prayer of Moses the man of God.
Lord, thou hast been our refuge from generation to generation.

2 山々が生まれるより早く,地と世を生むより早く,
神よ,永遠から永遠へとあなたは存在する.
2 Before the mountains were made, or the earth and the world was formed;
from eternity and to eternity thou art God.

3 あなたは人をちりに返らせ,
そしてこう言われる,「人の子らよ,*返れ」.
3 Turn not man away to be brought low:
and thou hast said: Be converted, O ye sons of men.

4 御目には千年すら,過ぎ去った昨日のごとく,
夜の一刻のごとくである.
4 For a thousand years in thy sight are as yesterday, which is past.
And as a watch in the night,

5 *あなたは朝の夢のように,
もえ出る草のように彼らを消し去る.
5 things that are counted nothing,
shall their years be.

6 朝には花ひらき,のび,
夕べにはしおれて枯れる.
6 In the morning man shall grow up like grass; 
in the morning he shall flourish and pass away: 
in the evening he shall fall, grow dry, and wither. 

7 われらは御怒(おんいか)りによって衰(おとろ)え,
憤(いきどお)りによっておじ恐れる.
7 For in thy wrath we have fainted away:
and are troubled in thy indignation.

8 あなたはわれらのとがを御目の前に,
われらのひそかごとをみ顔の光に置かれた.
8 Thou hast set our iniquities before thy eyes:
our life in the light of thy countenance.

9 *われらの日々は御怒りによって過ぎ,
われらの年を一息のように消された.
9 For all our days are spent; and in thy wrath we have fainted away.
Our years shall be considered spider:

10 われらのよわいの日々は七十年,
頑健な人にとっては八十年だが,
その長き間は労苦とむなしさであり,
またたく間にすぎ去り,飛び去っていく.
10 the days of our years in them are threescore and ten years.
But if in the strong they be fourscore years:
and what is more of them is labour and sorrow.
For mildness is come upon us: and we shall be corrected.

11 だれがあなたの御怒りの力を,
あなたの御憤りの恐れを知っていようか.
11 Who knoweth the power of thy anger,
and for thy fear

12 *日々を数えることをわれらに教え,
心を知恵に向かわせ,
12 can number thy wrath? So make thy right hand known:
and men learned in heart, in wisdom.

13 立ちもどり,
あなたのしもべたちをあわれみたまえ.
13 Return, O Lord, how long?
and be entreated in favour of thy servants.

14 *朝はあなたの愛に飽(あ)かせ,
われらの日々をふるい立たせて喜ばせ,
14 We are filled in the morning with thy mercy:
and we have rejoiced, and are delighted all our days.

15 苦しめられた日々,
災いにあわせた年々とてらし合わせて,われらを喜ばせ,
15 We have rejoiced for the days in which thou hast humbled us:
for the years in which we have seen evils.

16 み業(わざ)をしもべたちの上に,
み力をその子らにあらわし,
16 Look upon thy servants and upon their works:
and direct their children.

17 神なる主の慈(いつく)しみを下し,
われらのために手の業(わざ)に力をかし,
われらの手の業を助けたまえ.
17 And let the brightness of the Lord our God be upon us:
and direct thou the works of our hands over us;
yea, the work of our hands do thou direct.

(注釈)

人間のはかなさ

1 人の世のはかなさについて知恵ある者が黙想する歌.人の生は罪によって短くされた
(〈旧約〉創世の書3章).

3 ちりに返ること(創世の書3・19,ヨブの書10・9,34・15,マカバイの書〈上〉2・63).

5 原典に手が入っているらしい.原文,「あなたは彼らを眠りで満たす」とある.眠りは死のこと(エレミア51・39,57).

9 一つの考えが過ぎ去るように,早くも青春は過ぎた.

12 人間のはかなさを知ることから知識が生まれる.すなわち,「神を恐れること」を知る.

13-17 これは全イスラエルに思いをひろげる.


*     *     *     *     *


最後のパラグラフの訳注:
詩編:第31篇2節
PSALM XXX
“In te, Domine, speravi.”
A prayer of a just man under affliction.
30:2

『主よ,私はあなたのうちに逃れる,永遠に恥を受けぬように.
正義をもって私を解き放ちたまえ.』
“In thee, O Lord, have I hoped, let me never be confounded:
deliver me in thy justice.”

*   *   *

1 第31篇 歌の指揮者に.ダビドの詩.
1 Psalm 30 Unto the end, a psalm for David, in an ecstasy.

2 主よ,私はあなたのうちに逃れる,
永遠に恥を受けぬように.
正義をもって私を解き放ちたまえ.
2 In thee, O Lord, have I hoped, 
let me never be confounded: 
deliver me in thy justice. 

3 御耳を私に向け,私を救いに急ぎ,
私の身を隠す岩となり,
逃(のが)れの固き城となられよ.
3 Bow down thy ear to me: make haste to deliver me.
Be thou unto me a God, a protector,
and a house of refuge, to save me.

4 あなたは私の岩,私の砦(とりで)である,
み名のために私を導き,引き連れ,
4 For thou art my strength and my refuge;
and for thy name's sake thou wilt lead me, and nourish me.

5 私に張られた網(あみ)を破(やぶ)りたまえ.
あなたは私の避難所.
5 Thou wilt bring me out of this snare, which they have hidden for me:
for thou art my protector.

6 私は御手に魂をゆだねる.
真実の神よ,あなたはすでに私を救われた.
6 Into thy hands I commend my spirit:
thou hast redeemed me, O Lord, the God of truth.

7 あなたはむなしい偶像のしもべを憎まれるが,
私は主に身をゆだね,
7 Thou hast hated them that regard vanities, to no purpose.
But I have hoped in the Lord:

8 あなたの愛に喜びおどる.
みじめな私を見下(みお)ろし,
私の魂の悩みを知ったあなたは,
8 I will be glad and rejoice in thy mercy.
For thou best regarded my humility,
thou hast saved my soul out of distresses.

9 私を仇(あだ)の手にまかせず,
私の足を広いところに立たせられた.
9 And thou hast not shut me up in the hands of the enemy:
thou hast set my feet in a spacious place.

10 主よ、私をあわれみたまえ,
私は苦悩の中にいる,
涙が私の目と,
のどとはらわたをむしばむ.
10 Have mercy on me, O Lord,
for I am afflicted:
my eye is troubled with wrath,
my soul, and my belly:

11 私の命は悲しみのうちに消え,
年は嘆(なげ)きのうちに去った.
力は悲惨(ひさん)のうちにしぼみ,
骨はとけていった.
11 For my life is wasted with grief:
and my years in sighs.
My strength is weakened through poverty
and my bones are disturbed.

12 私は敵に汚名(おめい)を着せられ,
近くの人には恐れられ,
知人には恐怖となり,
外で私を見た人は逃げだした.
12 I am become a reproach among all my enemies,
and very much to my neighbours;
and a fear to my acquaintance.
They that saw me without fled from me.

13 私は死人のように人の心から忘れられ,
捨てられる瓦礫(がれき)のようになった.
13 I am forgotten as one dead from the heart.
I am become as a vessel that is destroyed.

14 私は他人の讒言(ざんげん)を耳にした,いたるところから私に恐怖が襲(おそ)った.
彼らは私に逆らって謀(はか)り,私の命を奪(うば)おうとした.
14 For I have heard the blame of many that dwell round about.
While they assembled together against me, they consulted to take away my life.

15 だが,主よ,私はあなたによりたのみ,
「あなたは私の神」と言う.
15 But I have put my trust in thee, O Lord:
I said: Thou art my God.

16 私の運命はあなたの御手にある,私を解放し,
敵としいたげる者の手から救いたまえ.
16 My lots are in thy hands. Deliver me
out of the hands of my enemies; and from them that persecute me.

17 あなたのしもべの上にみ顔を輝かし,
愛によって私を救い,
17 Make thy face to shine upon thy servant;
save me in thy mercy.

18 あなたにこいねがう私を辱(はずかし)めたもうな,
罪人は恥辱を受けよ,彼らを黄泉(よみ)で硬(こわ)ばらせ,
18 Let me not be confounded, O Lord, for I have called upon thee.
Let the wicked be ashamed, and be brought down to hell.

19 いつわりのくちびるを,
高慢と侮蔑(ぶべつ)で無礼な口をきく者を黙らせよ.
19 Let deceitful lips
be made dumb. Which speak iniquity against the just, with pride and abuse.

20 あなたの慈しみは深い.
あなたを恐れる人々のためにそれを備え,
あなたによりたのむ人々のために,
人の子らの前でそれを蓄(たくわ)えたもう.
20 O how great is the multitude of thy sweetness, O Lord,
which thou hast hidden for them that fear thee!
Which thou hast wrought for them that hope in thee,
in the sight of the sons of men.

21 あなたは彼らを,み顔の隠れ場に隠し,
人の密謀(みつぼう)から遠ざからせ,
幕屋(まくや)の下におおい隠して,
かむ舌に近づけなかった.
21 Thou shalt hide them in the secret of thy face,
from the disturbance of men.
Thou shalt protect them in thy tabernacle
from the contradiction of tongues.

22 守りの固い町で,
私に豊かにあわれみを示された主を賛美しよう.
22 Blessed be the Lord, for he hath shewn his wonderful mercy to me
in a fortified city.

23 私は不安のうちに,
「あなたの御目の前から断ち切られた」と言ったが,
それなのにあなたは,
私があなたに向かって叫んだとき,
私の願う声を聞かれた.
23 But I said in the excess of my mind:
I am cast away from before thy eyes.
Therefore thou hast heard the voice of my prayer,
when I cried to thee.

24 主を愛せよ,敬虔な者たちよ,
主は忠実な者を守り,
高慢な者にはひときわ厳しく報いられる.
24 O love the Lord, all ye his saints:
for the Lord will require truth,
and will repay them abundantly that act proudly.

25 勇ましくあれ,心を強くもて,
主に希望をおく者たちよ.
25 Do ye manfully, and let your heart be strengthened,
all ye that hope in the Lord.

(注釈)

試練の時の祈り

6 神への信頼は救いによって報いられる.
キリストが十字架上でとなえた祈りの一つがこれである(ルカ聖福音23・46).

16 ヘブライ語では「私のとき」,これは財産や経験なども含む.

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