2011年12月31日土曜日

233 新年 (12/31)

エレイソン・コメンツ 第233回 (2011年12月31日)

そしてまた空が地に落ちることなく1年が終ります.私はもう数十年もの間,たとえば最近では5年か7年ほど前にフランスのある小グループの人たちに空が落ちつつあると話してきました.彼らの中には聖ピオ十世会の司祭で1970年代後半と1980年代初期に私がエコン( “Econe” ,スイス)にある同会の神学院で教授をしていたとき神学生だった人がいました.その彼が,「司教閣下,あなたは25年前にそのことを言っておられませんでしたか?」と言いました.彼はそれを微笑(ほほえ)みながら言っていたので,おそらくいつかは私が正しかったということになるのではないかと考えたのかもしれません.

それでは果(は)たして2012年は空が落ちる年となるでしょうか? 世の多数の評論家たちは2012年は世界経済が崩壊(ほうかい)する年になるかもしれないと考えています.確かに借金は過去数十年と同じように増やし続けることはできません.例えば福祉給付金は多くの西欧民主主義国の予算にとり耐え難い負担なのですが,ほぼ当然のこととはいえ民主主義体制下の政治家は財政の健全性を回復するために必要な厳(きび)しい決定を行う能力を備えていません.なぜなら,再選を望む限り彼は福祉給付金に手をつけられないからです.よく言われる通り,民主主義が続くのは国民が国の現金は結局は自分たちのものだと気づいていない間だけです.

そこで2012年は西欧民主主義国が終局的に崩壊する年となるのでしょうか? そうなるかもしれませんし,そうならないかもしれません.今日多くの人々がなんらかの大災難が迫りつつあるという実感を持っています.その日が到来(とうらい)するのにまだあと30年かかるなどということは到底(とうてい)ありえない,と言う人もいます.だが,これまでそのことは何年も言い続けられてきました.もしかすると人々はリベラリズム(自由主義)にあまりにも深く酔いしれていて深まる一方の混乱の度合いに無関心となっているのでしょう.だが,神の御業(みわざ)はゆっくりでも仕業(しわざ)は完璧,という格言があります.言い換えれば,神が出される請求書はすべて支払われなければならず,計算する日がいつか必ず訪れるでしょう.そして,その支払い額はどう見ても単なる福祉給付金よりはるかに膨大(ぼうだい)なものとなるでしょう.

今年,来年,いつか,それともそんな年は決して来ないのでしょうか? その年は間違いなく来ます.それは神が良しとされる時に来るでしょう.( “It will come in God’s good time.” )その年がいつかはさほど重要ではありません.ハムレット(第5幕第2場)が言うように,「一羽の雀(すずめ)が地に落ちる時機のうちに神の摂理(せつり)( “a Providence”,=神の御心〈御意思,配慮,計らい,導き〉)が在(あ)る.神がその時機の到来を今とお計らいになれば,それは後(のち)に到来することはない.もしその時機が後に到来しないなら,今到来し得る.たとえ今到来しなくても,いつか神が良しと思召(おぼしめ)される時機に必ず到来する.(それがいつであろうと)必ず到来するその時機を常に覚悟し,警戒して弛(たゆ)まず人生を過ごすことに自分の存在のすべてがかかっている).」(訳注・意訳.原文… “As Hamlet says (Act V, 2), “There is a providence in the fall of a sparrow. If it be now, ‘tis not to come; if it be not to come, it will be now; if it be not now, yet it will come: the readiness is all.” ” )(訳注後記・1)どんなことにも神の摂理が存在します.どんなときにも唯一の神が常にそこに関わっておられるのであり,その神の思し召(おぼしめ)されるタイミングが最良なのです.「神の時は最良の時である,」 “Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit” と,ドイツのことわざは言っています.(訳注後記・2)

神が易々(やすやす)と私たちの多くに対し現在破滅(はめつ)へ向かっているカトリック教会と世界を食い止めるべく行動するよう求められることもないでしょう.私は世界の公的指導者たちの多くが内心ではひそかに何もすることができないと無力に感じているに違いないと思っています.また私は,がむしゃらに世界支配を目指(めざ)している世界の秘密の管理者たちでさえ,自分たちに勝算(しょうさん)があると常に確信しているわけではないと思います.「私だけが今のあなたがたを助けられます,」と神の御母( “the Mother of God” ,聖母)は仰(おお)せられます.

神が私たちにお求めになるのは神の恩寵(おんちょう)のうちに生きることと神を信頼することです.崩壊(ほうかい)の起きるのが2012年あるいはそれ以外のいつであっても,人間的な観点からはそれはきっと不愉快(ふゆかい)なものに映(うつ)るでしょう.だが神の観点からは神の懲罰(ちょうばつ,“chastisements” )は慈悲(じひ)行為 “acts of mercy” なのです.聖パウロは格言の書( “Proverbs” 〈旧約聖書〉,3章11–12節)を次のように引用しています.「わが子よ,神の懲(こ)らしめをあなどらず,神の懲らしめを受けて,悪意を抱くな.なぜなら,神は愛する者を懲らしめ,いちばん愛する子を苦しめたもうからである.」( “My son, reject not the correction of the Lord, and do not faint when thou art chastised by him. For whom the Lord loveth, he chastiseth.” )聖パウロはさらに次のように続けます(〈新約聖書〉,ヘブライ人への手紙12章7–8節).「あなたたちが試練を受けるのは懲らしめのためであって,神はあなたたちを子のように扱(あつか)われる.父から懲らしめられない子があろうか.誰にも与えられる懲らしめを受けなかったなら,あなたたちは私生児であって,真実の子ではない.」 ( Heb.XII, 7-8, “Persevere under discipline. God dealeth with you as with his sons. For what son is there whom the father doth not correct ? But if you be without chastisement, whereof all are made partakers, then are you bastards and not sons.” )

すべてはカトリック教に則(のっと)った覚悟(=警戒,準備)のいかんにかかっています,賢い乙女たちのした警戒のように(マテオ聖福音・25章13節)(訳注後記).( “The Catholic readiness is all, as of the wise virgins. (Mt, XXV, 13)” ) 

新年おめでとう.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第4パラグラフの第1の訳注:
英国の劇作家シェイクスピアの悲劇「ハムレット」(第5幕・第2場)

“There is a providence in the fall of a sparrow. If it be now, ‘tis not to come; if it be not to come, it will be now; if it be not now, yet it will come: the readiness is all.” について.

他の邦訳参照:
(河合祥一郎教授訳「新訳 ハムレット」〈角川文庫〉より引用)
「雀一羽落ちるのにも神の摂理がある.無常の風は,いずれ吹く.今吹くなら,あとでは吹かぬ.あとで吹かぬのなら,今吹く.今でなくとも,いずれは吹く.覚悟がすべてだ.」

* * *
第4パラグラフの第2の訳注:
「ハムレット」の悲劇について.

(悲劇「ハムレット」のあらすじ…「父王を毒殺された王子ハムレットは犯人である叔父と,共謀した母に復讐を遂げ,自らも毒刃に倒れる.「生きるべきか,死ぬべきか,それが問題だ.」四大悲劇のひとつであるシェイクスピアの不朽の名作.」〈洋書ペンギン・ブックス-ペンギン・シェイクスピア「ハムレット」の帯・裏面より引用〉)

(補足説明)

・「ハムレット」がなぜ悲劇かといえば,全能の神の愛と正義に全幅(ぜんぷく)の信頼を置くことができなかった人間の行末(ゆくすえ)の悲惨な結末を描いているからである.神の愛と正義は人間のそれらよりもはるかに偉大で完全であり,ハムレットはその神を信頼しすべての裁きを神に委ねるべきだった.それが真の気高い心の持ち方であるはずだった.すなわち,気高さとは神の摂理に信頼しきる心の潔(いさぎよ)さをいう.

・人間の霊魂の幸福のメイン・ステージは来世にあり,そこには完全な愛,光,正義,善しか存在し得ない,そこでの真の生活を目指して生きることが現世での真の人生目標であり,そのように生きるのが真の気高さである.人間はそう生きるべく創造主たる神に命じられている.
その道を踏み外(はず)せば,来世では罰が待ち受け,その罰がどのようなものかは,すでに現世において,自責の念から解放されない苦しみのようなものとも予想し得る.

・その観点においては,現世で遭遇した災難が必ず来世での不幸につながるのではない.人間の真価はその霊魂の良心の正しさにあり,それにより来世において神の祝福のもとで幸福に生きることにある.

・それに比べれば,現世は不正にまみれた者たちが支配する世界である.自分の欲に負け,弱肉強食のような生き方を通すなら,目先の物質と引き換えに,良心という名の自らの霊魂の生命をどんどん失っていくということを警戒すべきである.

・だが,現世で被った損害はすべて神が来世において完全に埋め合わせて下さり,現世において理不尽な不正を耐え忍んだ者には,最終的に神がそれを数倍にも報い返してくださるのである.
生命は本来,祝福に他ならないのであるから,そのように神に祝福された存在である人間は,自(おの)ずからこのような神の善に対する希望をも信じることができるはずである.

・立派な父王の王子だったハムレットはその父王を不正行為により失ったことで気も動転し逆上して,現世で苦難を雄々しく耐えて気高く生きるべきだ→だが復讐(ふくしゅう)により独りよがりの正義を果たして死んでしまえば気が済んで楽になる→しかしその結果,神の掟に背いた罪深い自分に下されるかもしれない漠然とした死後の裁きの恐怖を覚悟せねばならない→それを思うとつらくても我慢して現世に生き続ける方がましかもしれない→それでも被(こうむ)っている不正は耐え難く,報復せずにはいられない…と最期まで葛藤を繰り返しながら堕ちて行った.

・始めから現世とはあからさまに不正のまかる通る場所であり,不正に逐一取り合うことは愚かなことと覚悟を決めて,警戒を怠らずに一生を過ごすなら,このような結末は避け得る,と考えることも一つの教訓になる.

まとめ…「万物の創造主たる神は愛であり,その被造物たる人間は,神に愛されている.」

・全能の神は完全な善であられ,一寸たりとも不正を見逃して済まされることはない.

・神は公平・公正であり,万物を偏(かたよ)り見られることは全くない.

・「不正」とは完全な義であられる神の無限の生命において神が創造された被造物の存在を傷つけ,また滅ぼすことを意味する.

・目に見える被造物を傷つけることにより,人間は自らの行ったその「不正」行為により同時に自らの霊魂をも傷つけることになる.神の完全な生命の法則から自分を排除したのは他ならぬ自分自身なのであり,神ではない.

・こうして被造物たる不完全な人間による復讐は不正でしかないのであり,復讐・報復は万物の創造主たる神のみが行使し得る権限であってそれは人間には許されないことである.

・不正に手を染めることで自らの命を傷つければ,神の無限の生命との祝福に満ちた交わりの関係から自らを断ってしまうことになり,それは神が最もお望みにならない,ぜひとも避けたい事態なのである.だから神は人間が生き永らえるように,その掟(おきて.=神の十戒)によって人間に罪を犯すことを禁じられるのである.

・神は祝福をもって人間を創造されたのであり,人間にお与えになった生命がいかなる理由・方法によっても滅ぼされることを望まれない.復讐に手を染めた人間を罰して滅ぼすのは神ではない.その人間が自分の行った不正により罪の負い目を負い,自らを滅ぼしてしまうのである.

・人間は御父なる神から自分に注がれている愛と生命の祝福に全面的に信頼し,不正な仕打ちを受けたら,それに対する報復はすべて神に委(ゆだ)ね,自分の霊魂を滅ぼしかねない不正の誘惑から護(まも)って下さるよう神に祈願することで,自らの生命(霊魂=良心)を守るべきである.

・光であられる神のうちに一寸の闇(やみ)もないように,(たとえどのような理屈があろうと)少しでも不正に手を染めれば,完全な光,完全な義,完全な善であられる神の無限の生命から,人間は道を外れ,もはや完全な光のうちにはとどまれなくなる.

・旧約聖書の参照(格言の書・第16章32節):
PROVERB XVI, 32

『忍耐ある人は英雄にまさり,怒りをおさえる人は町の征服者にまさる.』
“The patient man is better than the valiant: and he that ruleth his spirit than he that taketh cities. ”

・聖福音書の参照(ヨハネによる聖福音書:第4章 -5章15節):
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. JOHN, 4:1-5:15

偽預言者
『愛する者よ,無差別に霊を信じるな.霊が神から出ているかどうかを試せ.多くの偽預言者が世に出たからである.次のことによって神の霊を認めよ.すなわち,イエズスが肉体をとって下られたキリストであることを宣言する霊はみな神からである.またこのイエズスを宣言しない霊はみな神から出たものではなく,来るだろうと聞いている反キリストの霊である.それはもう世に来ている.

小さな子らよ,あなたたちは神から出たものであって,もはや彼らに打ち勝った.あなたたちにましますのは,この世にいる者より偉大なお方である.
彼らは世の者であるから世について語り,世は彼らの言うことを聞く.
しかし私たちは神からの者である.神を知る者は私たちのことばを聞き,神からでない者は聞かない.これによって真理の霊と誤謬(ごびゅう)の霊とが区別される.

愛する者よ,互いに愛せよ.愛は神よりのものである.愛する者は神から生まれ,神を知るが,愛のない者は神を知らない.神は愛だからである.
私たちに対する神の愛はここに現れた.すなわち,神はその御独り子を世に遣(つか)わされた.それは私たちをみ子によって生かすためである.
私たちが神を愛したのではなく,神が(先に)私たちを愛し,み子を私たちの罪のあがないのために遣わされた,ここに愛がある.
愛する者よ,神がこれほどに愛されたのなら,私たちもまた互いに愛さねばならない.だれも神を見た者はいないが,私たちが互いに愛するなら,神は私たちの中に住まわれ,その愛も私たちの中に完成される.
私たちが神にとどまり神が私たちにとどまられることは,神がご自分の霊に私たちをあずからせたもうたことによって分かる.私たちは御父がみ子を救世主として送られたことを見て,これを証明する.
イエズスが神のみ子であると宣言する者には,神がその中にとどまられ,彼は神にとどまる.

私たちは神の愛を知り,それを信じた.神は愛である.
愛をもつ者は神にとどまり,神は彼にとどまられる.
愛が私たちの内に完成されるのは,審判の日に私たちに信頼をもたせるためである.私たちは地上において,主と同じものだからである.

愛には恐れがない.完全な愛は恐れを取り除く.恐れは罰を予想する(恐れには罰が含まれている)からである.恐れる者は完全な愛をもつ者ではない.

私たちが愛するのは,神が先に私たちを愛したもうたからである
「私は神を愛する」と言いながら兄弟を憎む者は,偽り者である.目で見ている兄弟を愛さない者には,見えない神を愛することができない.
神を愛する者は自分の兄弟も愛せよ.これは私たちが神から受けた掟である.』

第5章

イエズス・キリストへの信仰) 
『イエズスがキリストであることを信じる者は,神から生まれた者である.生んだお方(神)を愛する人々は,また神から生まれた者(神の子ら)をも愛する.神を愛してその掟を行なえば,それによって私たちが神の子らを愛していることがわかる.
神への愛はその掟を守ることにあるが,その掟はむずかしいものではない.
神から生まれた者は,世に勝つ.世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である.イエズスが神の子であると信じる者のほかにだれが世に勝てるであろうか.

水と血によって来られたのはイエズス・キリストである.ただ水だけではなく,水と血によってである.それを証明するのは霊である.霊は真理だからである.実に証明するものは三つある.(天においては御父とみことばと聖霊であり,この三つは一致する.地において証明するのは三つ),霊と水と血である.この三つは一致する.

私たちが人間の証明を受け入れるなら,神の証明はそれにまさっている.神の証明とはそのみ子についてのことである.神の子を信じる者は,自分の内に神の証明をもち,神を信じない者は神を偽り者とする.神がそのみ子についてされた証明を信じないからである.その証明とは神が私たちに永遠の命を与えられたこと,その命がみ子にあることである.み子をもつ者は命を有し,み子をもたぬ者は命をもたぬ.

私が以上のことを神の子の名を信じるあなたたちに書いたのは,あなたたちに永遠の命があることを知らせるためであった
私たちは(神の)み旨に従って願うことを神が必ず聞き入れたもうと確信している.そして,神がすべての願いを聞き入れたもうことを知るなら,また願ったことが受け入れられることもわかる.』


* * *


最後のパラグラフの訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第25章13節(1-13節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. MATTHEW, 25:13 (1-13)

十人の乙女のたとえ(25・1-13)
『*¹天の国は,各自のともしびを持って,*²花婿(はなむこ)を迎えに出る十人の乙女(おとめ)にたとえてよい.そのうちの五人は愚(おろ)か者で,五人は賢(かしこ)い.愚か者はともしび(灯火)を持ったが油を持たず,賢いほうはともしびと一緒に器に入れた油も持っていた.
花婿が遅かったので,一同は居眠りをし,やがて眠りこんでしまった.夜半に,〈さあ,花婿だ.出迎えよ〉と声がかかった.
乙女たちはみな起きて,ともしびをつけたが,愚かな方は賢い方に,〈油を分けてください.火が消えかかっていますので〉と言った.賢い方は,〈私たちとあなたたちとのためには,おそらく足りません.商人のところへ行って買っていらっしゃい〉と答えた.
彼女たちの買いに行っている間に花婿が来たので,用意していた乙女たちは一緒に宴席(えんせき)に入り,そして戸は閉ざされた.やがてほかの乙女たちは帰ってきて,〈主よ,主よ,どうぞ開けてください〉と言ったけれど,〈まことに私は言う.私はおまえたちを知らぬ〉と答えられた.
警戒(けいかい)せよ,あなたたちはその日その時を知らない.』

(注釈)

*¹ 1-13節 花婿(はなむこ)はイエズス,乙女らは信者,ともしびは信仰,油は愛と善業,眠りはイエズス来臨までの期間,婚宴の席は天国である.
その席からは信仰をもっていても愛と善業を行わなかった者が遠ざけられる.

*² ある写本(ブルガタ〈ラテン語〉訳)には「花婿,花嫁」とある.のちの書き入れである.

花婿のキリストが遅くなることはあっても,信者の霊魂はこの世の生活の試練の夜において,いつも警戒し続けなければならぬ.あるいは,弱さのために居眠りすることがあっても,警戒のともしびをすぐともせるように準備していなくてはならぬ(ルカ聖福音12・35−38,13・25).


* * * * * *


旧約聖書・コヘレットの書:第1-5章,11-12章を追加掲載いたします.
ECCLESIASTES I-V, XI-XII.

This Book is called Ecclesiastes, or The Preacher, (in Hebrew, Coheleth,) because in it, Solomon, as an excellent preacher, setteth forth the vanity of the things of this world:
to withdraw the hearts and affections of men from such empty toys
.

第1章
CHAPTER I
The vanity of all temporal things.

『エルサレムの王,ダビドの子,*¹コヘレットのことば.
*²空(むな)しいことの空しさ,とコレヘットはいう,空しいことの空しさ,すべては空しい.この世の労苦から,人はどんな利益を受けるのだろう.

新しいものはない
一代が去り,また一代がくる.しかし,地は永遠に変わらない.日は昇り,日は沈み,そして,また元のところにかえっていく.風は南に吹き,また北に移り,めぐりにめぐり,その往来を続ける.川はみな海に流れ入るが,海は満ちることがない,川は一たん入ったところに,また立ちもどっていく.
*³すべてが物憂(ものう)い.目は飽(あ)きるほど物を見,耳は飽きるほど聞いた,という人はあるまい.すでに起こったことはまた起こるだろうし,すでに行われたことはまた行われるだろう,太陽の下に新しいものはない.これは新しいものだ,ごらん,といえる何かがあったとする.ところが,それも,先の代にすでにあったものだ.ただ,昔のことは記憶に残っていない,私たちののちの人々のすることも,それよりのちの人々の記憶に残らないだろう.

学問の空しさ
*⁴私,コヘレットはエルサレムでイスラエルの王だった.
私は天下に行われることをすべて,知恵で一心に探ろうと努力した.それは,神が人間に与えられたつらい仕事である.私はこの世で行われることをじっと見きわめたが,すべては空しいことで,風を追うに似ていた.

曲がったものをまっすぐにはできない,
足りぬものは数えられない.

私は心のなかでこう言った,「私は私より先にエルサレムに入った人よりも知恵を蓄(たくわ)え,知恵を積んだ.そして,多くの知恵と学問を身につけた.
私は一心に知識と学問,愚かなこと,ばからしいことを調べた.そして,これも風を追うようなものだと悟(さと)った.

なぜなら,知恵のあるところには苦悩も多く,
知識がふえると,苦痛も多くなると知ったからだ.』


(注釈)

*¹ コヘレットは集会の人,それは司会者だったかもしれないし,講演者だったかもしれない.また,集会の代表者だったかもしれない.
ダビドの子といえばソロモンのことだが,これはフィクションらしい.ソロモンは知恵者中の知恵者といわれた.

*² ヘブライ語では湯気のこと,あるいは吐息のことらしい.かげ,煙,水泡のように,この世の空しさを表す形容である.

新しいものはない(1・4-11)
*³「口で表現する以上に,すべては退屈だ,目は,飽きるほど物を見ず,耳は,飽きるほど聞いたことがない」とも訳する.

学問の空しさ(1・12-18)
*⁴ 栄華のきわみにあったソロモン(列王上10・4以下)は,すぐれた知恵をもっていたにもかかわらず,幸福を知らなかった.

* * *

第2章
CHAPTER II
The vanity of pleasures, riches, and worldly labours.

快楽の空しさ
『私は心のなかでこう言った,「さあ,快楽を味わうがよい,幸福を味わうがよい」,だが,これは空しいことだ.笑いについては、「愚かなことだ」と私は言った.快楽については,「それが何の役に立つのか」と言った.*¹私は心を知恵に向けながら,身体を酔いにまかせようとした.人間の幸福を知り,また,生きている間,この世で人間がどんなことをするかを知るために,愚かさを味わってみようと思った.
私は大事業に手をつけた,自分の住む大邸宅を造り,ぶどう畑を植えつけた.庭園と果樹園を作り,あらゆる種類の果樹を植えた,木の生い茂る森をうるおすために,大きな池をつくった.*²また下男下女を買った.私より先にエルサレムに住んだどんな人よりも,私は多くの雇い人,家畜群,牛,羊を持った.銀と金,また王たちと各州の財宝を集めた.歌い男と歌い女,そして,人間のもつあらゆる贅沢なものと,*³数多い姫君たちを手に入れた.

私は偉大な人間になり,私より先にエルサレムに住んだどんな人よりも偉大になった.しかも,私は自分の知恵を保った.私は目の望みをすべて満足させ,心にどんな快楽も拒絶しなかった.私の心は自分のするあらゆる苦労によって喜ばされていた.それが私の苦労の報いだった.
さて,自分がしたあらゆる事業と,それをするために忍んだあらゆる苦労をふりかえった.ところがどうだ.すべては空しいこと,風を追うようなことだった.この世には何一つ利益になるものはない.


知恵の空しさ
私は知恵と愚かさと無知に思いをめぐらした.*⁴王の後継者は何をするのだろう.すでにされていることを彼もするにすぎない.昼が夜にまさるように,知恵は愚かさにまさると私は知った.

知恵者は自分の前を見る,
愚か者は手探りで歩く.

それは事実だ,しかしその二人とも,同じ運命に会うのだということも知った.そして,心のなかで言った,「私も愚か者と同じ運命に至るのだ,とすると,私の知恵が何の役に立つのだろう」.また,自分にいい聞かせた,「それも空しいことだ」.
つまり,知恵者も愚か者も,人の記憶に長くは残らない.ある日二人とも忘れられてしまう.そして,知恵者も愚か者と同じように死んでしまう.だから,私は生きることがいやになった.この世で行われることがいやになった.すべては空しいことだ,風を追うに似ている.

私は自分がこの世でしたこと,後継者に残すそのことがいやだ.その後継者が知恵者か,愚か者かだれにわかろう.それにしても彼は私が生きている間に苦労と知恵で積み重ねたあらゆるものを支配するようになるのだ.ああ,それもばからしいことだ.私はこの世でしたすべての仕事について,がっかりしてしまった.

どんなに知恵と知識と才能をもって働いても,少しも苦労しなかっただれかにそれを残さなくてはならぬ.これも空しいことだ,非常に悪いことだ.この世でした自分の労苦と努力が,その人に何を残すのだろう.
その毎日は苦しみの連続で,その努力はつらく,夜の間もその心は休まらない.これもまた空しいことだ.*⁵

飲み食いして,自分の仕事を楽しみにする以外,よいことは人間にはない.それらが神の手からくるものだと私は知った.だれが神なしに飲み食いすることができよう.*⁶神は自分でよいと思われる人間に,知恵と知識と楽しみをお与えになる.そして,罪人には,神に喜ばれる人のために,拾い集める仕事をさせられる.これも空しいことだ,風を追うに似ている.』

(注釈)

快楽の空しさ(2・1-11)
*¹ コヘレットは知恵の範囲内で(幸福がこの世のどこにあるかを探ろうとする.しかし,その空しさを知るだけだ.

*²「自分の家で生まれた下男下女」と訳する人もある.
*³「数多い姫君」の原文はわかりにくい.「宝箱に宝箱を積み重ねて」という訳もある.また,「ぶどう酒の杯と器」という訳もある.

知恵の空しさ(2・12-26)
*⁴「王の後継者として,すでに定まっているのはだれだろう」という訳もある.

*⁵ エピキュリアン的な表現法であるが,これはコヘレットの考えではない.彼は行動の最終目的を快楽においてはいない.
コヘレットが目的にしているのは,常に「神」である.真の喜びは神から与えられる恵みである

*⁶ 知恵者(ヨブ27・16,格言11・8,13・22)は,罪人が財宝を集めても,いつかそれは正しい人のものになると教えている.しかし,コヘレットは正しい人も死んで財宝をあとに残すという.

* * *

第3章
CHAPTER III
All human things are liable to perpetual changes.
We are to rest on God's providence, and cast away fruitless cares
.


すべてに時がある
『*¹この世には,すべてに時があり,それぞれ時期がある

*²生まれる時,死ぬ時がある,
植える時,抜く時がある.
殺す時,治す時がある.
倒す時,建てる時がある.
泣く時,笑う時がある,
嘆く時,踊る時がある.
*³石を投げる時,拾う時がある,
抱擁(ほうよう)する時,抱擁をやめる時がある.
さがす時,失う時がある,
守る時,捨てる時がある.
裂く時,縫(ぬ)い合わせる時がある,
黙る時,話す時がある.
愛する時,憎む時がある,
戦う時,和睦する時がある.

将来はわからない
働く人の耐えしのぶ労苦が,その人にとって何の役に立とう.私は神が人間の子らに与えて,骨折らせる仕事をながめた.*⁴神のなさることはすべて時に適(かな)っている
神は人の心に,時をすべて見渡せる力を与えられた.だが人間は神のなさることの始終を知ることはできない.

生きている間,*⁵楽しんで安楽に過ごすこと以外,人間にはよいことがないと私は知った.人間が食べ,飲み,仕事を楽しむことは神の恵みである

神のなさることは,永遠に変わらないことを知った.神のなさることには,加えることも切りとることもない.神がそうなさるのは,人間に神を恐れさすためである

今あることは,すでにあったことである,また将来あることは,いますでにあることである.神は追われる者を愛される.


社会の不秩序
私はまた,この世にある他のことに気づいた,正義の席に不正がついており,正しい人の席に罪人がいるのを見た.
私は心のなかで言った,「神は正しい人と罪人をさばかれる.どんなことにも時がありさばきがある」.

私はまた心でいった,「人間の子らとはそんなものだ,神はそれをありのままに見せ,本当に自分は獣(けもの)だと彼らに悟らせるのだ」.

*⁶人間の行末(ゆくすえ)と獣の行末とは同じものだ,人間も死に,獣も死ぬ.二つとも同じ息をしている,人間が獣にまさるというのも空しいことだ.二つとも同じところに行く.二つともちりから出でちりに帰る.

*⁷人間の子らの息が上に上がり,獣の息が地の下に下るのだと知っている者があろうか.そして私は,自分の仕事を楽しむこと以外人の幸福はないと知った.それが人の状態である.後に起こることを見る力を,人に与えるのはだれだろうか.』

(注釈)

すべてに時がある(3・1-8)

人の行いの半ばはつらいことだけで,生命の初めから人は死におびえる

*² ヘブライ語本は「生む時」.しかし,ヘブライ語では他動詞を自動詞の意味でつかうことがある.さらに,次の「死ぬ時」と対照させると,「生まれる時」の方がよいように思わる.

*³ 意味はわかりにくい,敵の畑に石を投げこんで,収穫をふいにさせる意味らしい(列王下3・19,25).石を拾うのは畑の石をとり除くことらしい.

将来はわからない(3・9-15) 

*⁴神はすべてをうまくはからわれる
しかし,人間は時のなかで生きているから,神のみ業(わざ)のすべてを理解することができない.
とはいえ,人の心には神の計画を精神の目でながめようとする傾向がある.
しかしこの努力も空しい,神の計画は結局人間にはわからない

*⁵神の目の下で正しい生活を営むこと.

社会の不秩序(3・16-4・3)

*⁶表面的にはその通りだが,コヘレットは唯物論者ではない.

*⁷「息」(ヘブライ語のルアフ)とは,神が生物をつくる時に入れられる生命の息吹きで(創世2・7,詩篇104・30),霊魂(ネフェシュ)とは違うもの.コヘレットは死の時,霊魂が黄泉(よみ)に下ると考える.
彼は霊魂の不滅を疑ってはいないが,人間と獣との命の息吹きについて疑問をもっている.

* * *

第4章
CHAPTER IV
Other instances of human miseries.

社会の不秩序
『私はまた,この世で行われるしいたげのことを思った.しいたげられている人々は涙にくれ,慰めてくれる人もない.しいたげる人の手は彼らに暴力を加える.彼らを慰める人は一人もいない.そこで私はすでに死んでしまった人の方が,まだ生きている人より幸せだといった.そして,まだ生まれない人,この世の悪行を見ていない人の方がさきの二人よりも幸せだといった.

節度
私はあらゆる努力,あらゆる労苦が人間同士のねたみにすぎないのを知った.これも空しいことだ,風を追うに似ている.

愚か者は手を組んで,
*¹自分の肉を食う.
*²一握りの安楽は,
両手で苦労し,風を追うよりもましだ.

また,私はこの世に空しいことのあるのを見た.ある人がいる,たった一人で仲間もない,彼には兄弟も子もない.それなのに,彼は働き続け,その目は富に飽くことがない.「私はだれのために働き,何のために自分の喜びを犠牲にし続けているのか」ともいわない.これも空しいこと,みじめなことだ.

社会生活のとりえ
一人っ切りより,二人でいるほうがよい.働く場合も能率が上がる.どちらかが倒れれば,片方がそれを助け上げる,だが,一人っ切りで倒れたら不幸なことだ,助け上げてくれる人がいないのだから.*³また,二人いっしょに寝るとどちらも暖(あたた)かいが,一人っ切りで,どうして暖かくなろう.一人の場合は倒(たお)されても,二人でなら抵抗できるし,三本よりの綱は簡単には切れない.

*⁴人の意見を受けつけない年とった愚かな王よりも,貧しいが賢い若者の方がまさっている.たとえ,若者が牢(ろう)から出て王になったとしても,若者が貧しい身分に生まれたとしても.私はこの世のすべての人が,その王位を奪った若者の味方に立つのを見た.
*⁵彼は数知れない人々の先頭に立ったが,後にくる人々は彼を喜び迎えないだろう,これも空しいこと,風を追うようなことだ.

神に対する義務
神の家へいく時には足どりに用心せよ.素直な心で近づくがよい.あなたのいけにえは愚か者の供え物より値打があろう.愚か者が,自分で悪事をしているのだとは知らないにしても.』

(注釈)

社会の不秩序(3・16-4・3)
節度(4・4-8)
*¹ 働かないから今まで蓄えたものを食いこんでいく.

*² この世の悪は節度のない労働に心身を消耗することだ.どんな事をしても節度を守ること,これがコヘレットの考えである.

社会生活のとりえ(4・9-16)
*³ 今でもパレスチナでは,冬になると小さい宿で二人が一枚の毛布にくるまって寝ているのを見かける.

*⁴13-14節 ロボアム,あるいはエジプトのヨゼフのことではないかという人もある.しかし,これが歴史上の人物を暗示しているとは思えない.

*⁵ 民は王座についた若い君主を喜び迎える.しかし,その歓迎も永久的なものではない.
この世の声望の空しさを教えている.

神に対する義務(4・17-5・6)

* * *

第5章
CHAPTER V
Caution in words. Vows are to be paid. Riches are often pernicious:
the moderate use of them is the gift of God
.

神に対する義務
『*¹軽々しく口を開くな,神のみ前でものをいうときには,心であせるな.神は天にあり,あなたはこの世にいる.だからことばを少なくせよ.

*²夢はせわしない生活からくるものだ.
ことばが多いと愚かなことをいってしまう.

あなたが神に願を立てたら,急いでそれを実行するように.神は愚か者を喜ばれない.あなたは願を果たすように.願を立ててそれを実行しないよりは,願を立てない方がましだ.*³口の罪をゆるせば,あなた全体が罪人になるのだ,だからそれをゆるすな.

また,*⁴神の聖職者の前で,「あれは故意でしたことではない」というな.そんなことをしたら,神はあなたに怒り,あなたの手の仕事を滅ぼされる.

夢が多いと幻滅も多い.
ことばが多いと失う時間も多い.

だから神を恐れよ.

社会の不正
*⁵ある国で貧しい人がしいたげられ,権利と正義が無視されているのを見ても驚くな.一人の上役の上には,それも見張っているもう一人の上役がいる.またその上には,もっと高い役の人がある.*⁶それは公益のため,王への奉仕のためだといいわけするかも知れない.

*⁷銀の好きな人は銀をどんなに集めても飽きず,
富を好む人は富で得をすることがない.

それも空しいことだ.

財産がふえると,
寄食者もふえる.

その持ち主は財産を自分の目でながめるだけだ,それが何の得になろう.*⁸働く人は,食事が少なくても多くても,ぐっすり眠るが,満腹した金持ちは寝つかれない.

無駄な苦労
私はこの世に悲惨なことがあるのを見た.財産を守っているその持ち主が,自分の身に害を受けていることだ.
不幸な出来事があると,彼は富を失う,そのとき子どもが生まれる,しかも彼は無一文だ.母の胎内から出てきたときのままの裸にかえって,彼は去ってしまう.働いて得九ものを何一つもっていけない.出てきたときのままで去ってしまうというのもつらいことだ.
自分のもうけを風の中に散じてどんな利益があったろう.その一生はくらやみと,悲哀と,労苦と,病気と,憤(いきどお)りのうちに終わる.

よいこと
私が見たよいこととは,神に与えられた一生の間,この世でする仕事によって安楽に暮らし,食べて飲むことだ,それが彼の行く道である.
神は人間に富と財宝を与え,それを味わい,その分け前をとらせ,自分の仕事によって楽しむようにさせる,それは神の恵みである.
*⁸こういう人はもう,自分の生涯の日々のことをあまり考えなくなる.神が彼の心を喜びで満たされるからである.』

(注釈)

神に対する義務(4・17-5・6)
*¹ 神に喜ばれるのは長い祈りではなく,心の真実とうやまいである(マテオ6・7).

*² 悪夢はせわしない生活や,思いわずらいからくるものだ.

*³「口の罪」とは,祭司のつかっていたことばで,「不注意からの罪」をいう(レビ4・2,22,24,荒野15・22,29).

*⁴七十人訳では「神」とある.「天使」と訳する人もある.

社会の不正(5・7-11)
*⁵ 国家の役人には目下の割前をはねる人が多かった.

*⁶ 解釈はいろいろある.「園家の利益は国民みなのためのもの,王は一州の人々を家来にもっている」というのが原文である.「盛大な国の王はみなに利益を与える」の意味らしい.

*⁷ 当時の財宝には銀が多かったからであろう.

無駄な苦労(5・12-16)

よいこと(5・17-19)
*⁸ 彼の仕事は忙しくて,みじめなこの世のことを考える暇がない.それが,この世における最大の幸福である

* * *

~~~

第11章
CHAPTER XI
Exhortation to works of mercy, while we have time, to diligence in good,
and to the remembrance of death and judgement
.

賢明と節制
『*¹パンを水の上に投げよ.しばらくすると,またそれを見つけるだろう.
財産の一部を七人か八人に分けよ.あなたはこの世にどんな不幸が起こるかを知らないのだ.

雲が雨に満ちると大地に注がれる.木が南か北かに倒れると,倒れたところに横たわる.

風に気をつけている人は種がまけない.
雲を見ている人は刈り入れをしない.

あなたは母の胎内で,骨の中にどうして生命の息吹が入るかを知るまい.同様に,すべてをつかさどる神のみ業を知ることはできない

*²朝から種をまき,
夕方も手を休めるな.

なぜならあなたは,これか,あれか,そのどちらが実るかを知らないからだ,二つともよいかもしれない.

この世の生活法
*³光は快く,目で太陽を見ることは楽しい.
人は長年生きて,すべてを楽しむがよい.だが,暗い日も数多くあることを思い出せ.起こることはみな,空しいものである.

若者よ,若さを楽しめ.
若い日々に,心で幸福を味わえ.
心の望むまま,
目の望むままに従え.

だがそれらすべてについて,あなたは神のさばきを受けることを忘れるな

心から悲しみを遠ざけよ.
体から苦痛を取り除け.

だが,若さも,髪の黒い年も,空しいものだ.』

(注釈)

賢明と節制(10・16-11・6)
*¹「施し」についての話らしく思われるが,4節を見るとそうではないらしい.作者が教えるのは,賢明と大胆の両立である.

「パン」を「魚のえさ」の意味にとる人もある.また「海運業」の意味にとる人もある.しかし,最初にいった解釈の方が正しいように思われる.パンを水に投げるのは無駄な仕事を表す.

だがこの世には運不運があるにしろ,ことをしようとする時には,勇気と大胆がいることを教える.

*² 朝まいた種か,夕べまいた種か,そのどちらが実るかを人は知らない.

この世の生活法(11・7-10)
*³ 7-10節 これから話すのは長寿についてである.知恵ある人はいつも,「徳の報いは長寿だ」といっている.
だがコへレットはれに賛成しない.老いることは幸せなことではなく死への恐怖であり,若さへの哀惜であり,ただ,死を待つことだという.

* * *

第12章
CHAPTER XII
The Creator is to be remembered in the days of our youth:
all worldly things are vain: we should fear God and keep his commandments
.

老いること
『若い内に創造主を記憶するがよい,悪い日がくる前に,
そして,年をとって,「おもしろくない毎日だ」という前に.*¹また,太陽と光,月と星が暗み,雨降ってのちまた雲が広がる前に.

*²そのときになると、家の番人はふるえ,
力持ちは、かがみこみ,
窓に太陽がかげって,
臼(うす)ひき女は仕事を休む.
その時、二つの扉は道を閉ざし,
粉つき場の声は静まり,
小鳥はさえずりをやめ,
歌声はやむ.
*³その時彼らは坂道を恐れ,
道を歩けば息が切れる.
はたんきょうは花をつけ,
いなごは飽きるほど食べ,
風鳥草は実をつける.

だが,人は永遠の家へと歩をすすめ,泣き女は近づく.

そのとき銀の糸は切れ,
黄金のともしびは割れ,
水がめは泉で砕(くだ)け,
滑車(かっしゃ)は井戸で壊(こわ)れる.

*⁴そのとき,塵(ちり)はもとの土(つち)にもどり,生命はそれを下された神にかえる

「空しいことの空しさ,すべては空しいとコヘレットは言った.

作者について
コヘレットは知恵者で人々に知識を授けた.彼は多くの格言を調べ,比較し,整理し,味わいのあることばを書き残し,真理のことばをよく記そうと努めた.

*⁵知恵者のことばは刺し針のようだ,固く打ちつけた杭のようだ.牧者がそれを利用するのは,羊の群れを導くためである.

また,わが子よ,本をつくる仕事というのはきりがないことだと教えたい.それに,勉強しすぎると体は疲れる.

結局のところ,こうだ.

思い合わせて見るに,神を恐れ,そのおきてを守ることだ.これは,人間すべての義務なのだから.
神はすべての行為をさばき,隠されたことの善悪をすべて見ておられる
.』

(注釈)

老いること(12・1-8)
*¹ 暗い光,雨が降る,これは老年の象徴である.

*² 3節,4節は老年の比喩(ひゆ)として解釈されている.「番人」は腕のこと,「力持ち」は腰やひざ,「臼ひき女」は歯,「扉」はくちびるなどである.
しかし,これは,正しい解釈ではなさそうだ.比喩として解釈する理由がないからである.むしろ,文字通りとった方がよい.

老年になるとどんなに強い番人も中風のようにふるえ,どんな力持ちも腰がかがむようになる.老人になると社会活動ができなくなり,家の門が閉じる.耳が遠くなると物音も歌声も聞こえなくなる.

老人は死の世界へと急ぐが,自然界はそれとかかわりなく,楽しい世界をくりひろげる

*⁴この本は,始めたことばで今閉じられようとしている(8節).
コヘレットは,人間のみじめさを思い知らせたが,同時に,この世が人間にふさわしくないこと,人間はかくも偉大なものであると教えた.
利己的でない宗教,礼拝である祈り,神の前に自分の空しさを知ること,それを作者は教えた.

作者について(12・9-14)
*⁵ 原文では,特にこの節の後半(「牧者が…」など)がわかりにくい.この訳では,刺し針や杭をつかうのは羊の群れの善のためだ.
知恵者のことばは,人間への愛から出たものである.


* * * * * *


旧約聖書・詩篇:第139篇すべてを知るもの〈=〉)を追加掲載いたします.
PSALM 138 "Domine, probasti"
-God's special providence over his servants.-


第139篇(138)

『歌の指揮者に.ダビドの詩.
*¹主よ,あなたは私をさぐり,
私を知りたもう.

私が座るのも,立つのも知られるあなたは,
遠くから私を見通され,

私が歩むのも,伏すのも見られる.
私の道はすべてあなたに近い.

私の舌にことばが上らずとも,
主よ,あなたはそのすべてを知られ,

後ろから,前から,私を包み,
私の上に御手を置かれた.

あなたの知識は私には驚異で,
あまりに高く,およびもつかない.

主の霊を遠く離れられようか.
み顔からどこに逃げられようか.

天にかけ上っても,主はそこにおられ,
黄泉(よみ)を床にしても,主はおられる.

私が暁の翼を駆(か)って,
海のはてに住もうとも,

御手は私に置かれ,
御右は私をとらえる.

「やみよ私をおおえ,
私を囲む光が夜となれ」と言っても,

やみさえも,あなたには暗くなく,
夜は昼のように輝く.

あなたは私の腎をつくり,
母の胎内に織りこまれた.

恐るべき驚異のあなたを,
私はたたえる.
そのみ業は不思議で,
あなたは私の魂を知りつくされる.

私の骨はあなたに隠されていない,
私がひそかにつくられ,地の深みでぬいとりされたとき.

あなたの御目はすでに私の行いを見,
それらはあなたの*²書の中にあって,
日々が記され,集められた,
一日さえもまだなかったのに.

神よ,あなたの思いは私には計りがたく,
その総計は数えきれない.

それを数えれば砂よりも多く,
終わるときもまたあなたに出会う.

ああ,主よ,悪人を殺し,
血を好む者を私から遠ざけたまえ.

彼らは敵意をもって背き,
むなしく主に手をのばそうとする.

私は主を憎む者を憎み,
主の敵をきらっているではないか.

私は彼らをまったく憎む,
彼らは私の敵でもある.

主よ,私を探り,心を知り,
私を試し,秘密を見ぬき,

悪の道に走っていないかを見て,
私をもとの道に導きたまえ.』

(注釈)

すべてを知るもの(詩篇・第139篇)
◎〈詩篇139の注釈〉*¹〈旧約〉ヨブの書7・17-20をこの歌と比較すると興味がある.

『(〈苦難に遭遇したヨブの嘆き〉…この苦しみよりも死を望む…)
**¹あなた(=神)がそれほど値打を買われ,
それにみ心を配られる人間とは何者か.

あなたは朝ごとに彼を訪れ,
絶えまなく彼を試される.

いつまであなたは私から目を反(そ)らされないのか.
せめて,私がつばを飲み込むしばしの間許したまえ.

私が罪を犯したにしても,
人の番人であるあなたに何をしたのだろう.
**²なぜ,私をあなたの標的とし,
これほどの重荷を負わされたのか.』

〈ヨブ書の注釈〉**¹詩篇8のことばを皮肉にくり返しているようだ.詩篇139の作者にとって,神が人を見守ってくださることが神への信頼の理由となっていた.ところが,ヨブは自分を看視される神から,自分が敵視されていると感じる.彼は手探りして厳しい神ではなくあわれみの神をさがし求めている.
**¹詩篇8→
創造主の偉大さ(詩篇・第8篇)

『歌の指揮者に.***¹ガトに合わせる,ダビドの詩.

われらの主,神よ,地に満ち満ちるみ名のその偉大さ.
天上にある威光を,

***²子どもと乳のみ児の口がうたう.
あなたは刃向かう者を***³砦(とりで)に迎え撃ち,
敵と謀叛者を鎮められる.

御指(おんゆび)でつくられた天と,
あなたの配られた月と星を眺めるにつけ,

私は思う,あなたがみ心にとめられるこの人間とは何者か.
あなたが心を配られるこの人の子とは何者か


あなたは人を***⁴神よりもやや劣るものとし,
光栄と威厳をきせ,

御手の業をつかさどらせ,
万物をその足の下におかれた,

羊も牛もみな,
野の獣も,

空の鳥,海の魚,
海のみちを走るものも***⁵.

神よ,私の主よ,み名は全地に広まる,その偉大さ.』

(注釈**¹〈詩篇8〉の注釈)
創造主の偉大さ(詩篇・第8篇)
***¹「ジッティト」ともある.竪琴のことか,それともペリシテ人がうたっていた曲のことか.

***² マテオ21・16でイエズスはこの一節を引用する.

***³ これは空のこと,その上に神の住居がある.

***⁴「神」,神の王宮を形づくるもの(天使)のこと(詩篇29・1以下).ギリシア語訳とブルガタでは「天使」となっている.

***⁵ 弱い,だが神に形どってつくられた人間,霊界と物質界の境界に立つ人間が自然界をつかさどる.

* * *

〈ヨブ書の注釈〉**²他の訳では「なぜ,私はあなたの重荷となったのか」.

* * *

◎〈詩篇139篇の注釈〉*² 黙示20・12以下参照.

『****¹私はまた,白い厳(おごそ)かな座とそこに座したもうお方(=神)を見た.天も地もそのみ前からあとを残さぬほど遠くに逃れた.
私はまた,****²小さい者も偉大な者もすべての死者が玉座の前に立つのを見た.
あまたの書が開かれ,またもう一つの書が開かれた.それは命の書であり,死者はこれらの書の内容に従い,おのおのの行いによってさばかれた
そして海はそこにいた死者たちを返し,死も黄泉もそこにいた死者たちを出した.彼らはその行いに従ってさばかれた.
****³すると死と黄泉は火の池に投げこまれた,****⁴火の池は第二の死である.命の書に記されなかった者はみな火の池に投げこまれた.』

(注釈)

最後の審判(ヨハネの黙示録20・11-15)
****¹ 地上の悲劇の最後の場面.「白」は神の正義と慈悲が勝つしるしである.

****² 小さな者も大きな者もみな一人残らず.

****³ 大審判の後には,死もなくなるであろう(〈新約〉コリント人への手紙〈第一〉15・26).

****⁴ 悪の象徴(〈旧約〉ヨブの書7・12)である池は,エジプトから逃れるヘブライ人の目の前で閉じた紅海のように,新しいイスラエル人である聖人たちの前に永遠に閉ざされるであろう.


* * * * * *


使徒聖パウロのローマ人への手紙:第12章,13章1-7節を追加掲載いたします.
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE ROMANS XII; XIII, 1-7.

第12章
CHAPTER XII
Lessons of Christian virtues.

『それでは兄弟たちよ,あなたたちの体を生きた清い神に嘉(よみ)せられるいけにえとしてささげるように,私は神のあわれみによってあなたたちに勧める.*¹それは道理にかなった崇敬である.この世にならわず,かえって神のみ旨は何か,神のみ前に,善いこと,嘉せられること,完全なことは何かをわきまえ知るために,考え方を改めて自分を変えよ.

私は受けた恩寵(おんちょう)によって,あなたたちおのおのに実際以上に自分を評価するなと言いたい.神がおのおのに与えられた信仰のはかりに従ってよろしく評価せよ.
*²一つの体にはいくつもの肢体があるが,すべての肢体は同じ働きをしていない.それと同じように,私たちは数多いがキリストにおける一つの体であって,おのおのは互いに肢体である.
*³そして私たちは与えられた恩寵によって異なる賜(たまもの)をもっている.預言の賜であれば信仰の程度に応じてそれを行い,*⁴奉仕であれば奉仕をし,教師であれば教え,勧めるもの者は勧め,分配者は寛大に与え,上に立つ者は熱心につかさどり,あわれむ人は喜びをもって行え.

*⁵愛には偽りのないようにせよ.悪を憎み善に親しめ.兄弟愛をもって愛し合い,互いにきそって尊敬し合え.
勤(つと)めのことはゆるがせにせず,熱い心をもって主の奴隷となれ.希望の喜びをもち,患難(かんなん)に耐え,祈りに倦(う)まず,聖徒の必要を補(おぎな)い,旅人への愛はねんごろであるように努めよ.

*⁶あなたたちを虐(しいた)げる人を祝福せよ.祝福してのろうな.*⁷喜ぶ人とともに喜び,泣く人とともに泣け.互いに心を一つにせよ.高ぶったことを望まず,低いことに甘んじ,自分を知者だと思うな.
*⁸だれに対しても悪に悪を返すな.すべての人の前で善いことを行おうと努めよ.できればすべての人と平和を保て.愛する者よ,自分で復讐(ふくしゅう)するな,かえって神の怒りにゆずれ.「*⁹主は言われる.仇(あだ)は私がとる,報いるのは私である」と記されている.むしろ「敵が飢えているなら食べさせ,渇(かわ)いているなら飲ませよ.こうしてあなたは*¹⁰彼の頭の上に燃える炭火を積む」.悪に勝たれるままにせず,善をもって悪に勝て.』

(注釈)

まことの宗教(12・1-2)
*¹ 身体は主のためのものだからである(コリント人への手紙〈第一〉6・13).

みなのための善(12・3-8)
*² 4-5節 キリストの神秘体の教理(コリント〈第一〉12・12,27).

*³ 6-8節 これらは特能のすべてではない(コリント〈第一〉12・8-10,28-30,エフェゾ人への手紙4・11)

*⁴7-8節 「奉仕」の役と「上に立つ者」は,意味がはっきりしないが,教会に階級が定まる以前,信者の一団体を指導する任務のあった人のことらしい.

兄弟愛(12・9-21)
*⁵ 愛は特能にまさるものであって,愛がなければ,特能さえも無価値である(コリント〈第一〉13・1以下).

*⁶ マテオ5・44参照.

*⁷ コリント〈第一〉12・25-27参照.

*⁸ この節以下は,キリスト者以外の人々との交わりについて.

*⁹〈旧約〉第二法の書32・35参照.

*¹⁰〈旧約〉格言の書25・21.セム人の言い方である.悪に対して善で報いるのを見て,悪人の良心は呵責(かしゃく)を感じ,たぶん改心するであろう.


* * * * * *

第13章
CHAPTER XIII, 1-7.
Lessons of obedience to superiors.

すべての人は上の権威者に服従せよ.*¹なぜなら,神から出ない権威はなく,存在する権威者は神によって立てられたからである.それゆえ*²権威に背(そむ)く者は神の定めに背く.背く者は神のさばきを招(まね)く.

上に立つ者は善い行いのためではなく,悪い行いのために恐れねばならぬ.あなたは権威を恐れないことを望むか.それなら善を行え.そうすれば彼から賞(ほ)められる.彼はあなたを善に導くために神に仕える者である.

もしあなたが悪を行うなら恐れよ.彼はいたずらに剣を帯(お)びているのではないからである.彼は神に仕える者であって,悪をする者に怒りをもって報いる.

ただ怒りを恐れるためだけではなく,良心のためにも服従しなければならぬ.そのためにあなたたちは貢(みつ)ぎを納(おさ)めている.彼らはその役目に絶えず従事する神の奉仕者だからである.

*³すべての人に与えねばならぬものを与えよ.貢ぎを払うべき人には貢ぎを,税を払うべき人には税を,恐れるべき人には恐れを,尊(とうと)ぶべき人には尊敬を与えよ.

(注釈)

権威者への服従(13・1-7)
*¹ 権威者に服従することの神学上の理由.教会法の基礎はこれである.

*² 権威者の命令が神法に背いていない場合のこと.

*³ 社会も神の定めたことであるから,その理由のために,社会を重んじなければならない.


* * *

2011年12月26日月曜日

232 必要な幼子 (12/24)

エレイソン・コメンツ 第232回 (2011年12月24日)

今日のニュースでは四六時中(しろくじちゅう),世界とりわけユーロランド “Euroland” (訳注・欧州統一通貨ユーロ “Euro” を共通通貨として採用している国々により形成される通貨圏)の金融・経済危機の話で持ちきりです.オランダのコメンテーター(courtfool.info)が自国向けに,バンクスターたち(訳注・ “banksters” 悪徳銀行幹部)の手から国家の貨幣 “State money” を取り戻そうという,古典的な解決策を提案しています.クリスマスのひとときにこのような金銭問題を考えるのは奇妙に思えるかもしれませんが,この問題全体は一見良さそうな解決策がみな本当に役立つ解決策かどうかという点に尽きるのです.

ユーロが多種多様な欧州諸国に政治統合を強制する手段として積極的に設計されたものでない限り,それは非常に異なる国々の経済の共通通貨としては最初から欠陥(けっかん)があったということになります.そもそもユーロ共通通貨制度は確かに貧しい加盟国には借入・支出,すなわち借りては支出するということを可能にし,その一方で豊かな国にとっては輸出・融資,すなわち輸出と融資を重ねることに確実に役立ちました.だが,そのプロセス(過程)が長続きするのは不可能だったのです.貧しい国々が抱(かか)えている借金の利息をもはや遣り繰り(やりくり)することすらできなくなったとき,豊かな国々もまた愚(おろ)かな融資をしてきた自国の主要銀行の倒産によって経済が麻痺(まひ)する危険に脅(おびや)かされる羽目(はめ)に陥(おちい)りました.

現在,欧州委員会 “the European Commission”,欧州中央銀行 “the European Central Bank”,国際通貨基金 “the International Monetary Fund (IMF) ” が協力して緊急資金を提供しようとしています.別な言い方をすれば,負債の問題をさらなる負債で解決しようというわけです.だが,お手上げ状態の負債国が資金を受けるには国際的な管理機構の指示に従うことが条件となっています.統治能力が益々(ますます)弱まってきている各国政府は支出を削減(さくげん)するよう求められるでしょう。財政的に豊かな国はどうかといえば,こちらもまた自国の主要銀行が行った愚かな貸出から生じた損失を補(おぎな)うため歳出削減をして不人気とならざるをえないでしょう,とオランダのコメンテーター,デ・ルイター氏 “Mr.de Ruijter” (訳注・オランダ語読み「デ・ロイトル」)は述べています.

さて,同氏の示す解決策に戻ります.彼はきわめて簡単な解決策だと言います.早晩消える定めにあるユーロに数十億もつぎ込み,国際機関に歳出削減を押しつけさせる代わりに,「私たちは国家の通貨を導入すればいいのです.」これは,いまや世界のほとんどの国で民間の支配下にある中央銀行に国有銀行 “State bank” が取って代わるということです.国有銀行にのみ通貨発行の権限を認めるのです.すべての融資は国家の通貨で提供します.あらゆる私有,非国有銀行には希薄(きはく)な空気から融資残高を造り出すのを禁止します.言い換えれば小額準備金銀行制度 “fractional reserve banking” を禁止するのです(エレイソン・コメンツ第224回をご参照ください).非国有銀行は提供するサービスの手数料を受け取るのは構(かま)いませんが利子を取るのは認めません.これが同氏の解決策の概要(がいよう)です.

では,誰がその国有銀行をコントロールするのでしょう? デ・ルイター氏は「国有銀行は財務大臣の管轄下に置き,議会がコントロールする.適格者で構成する委員会が通貨制度の長期的利益を監視する」と,書いています.

なかなか結構です.だが,デ・ルイターさん,誰が「適格者」の養成にあたるのでしょうか? 彼らはどのような学校で公益を忠実に守ることを学べるでしょうか? バンクスターたちに巧(たく)みに買収されるのを防ぐため彼らにどれほど強力なモチベーション(=動機付け,意欲,やる気,自発性)を与えられるでしょうか? それは民主主義でしょうか? 欧州を現在の惨状(さんじょう)に陥(おとしい)れたのはまさしく民主主義です!

本当に役立つ完璧(かんぺき)な解決策は一つしかありません.それはベトレヘムの飼い葉桶(かいばおけ)に生まれた神の御子 “the divine Child in the Crib of Bethlehem” です.親愛なる読者の皆さま,クリスマスおめでとう.(クリスマスカードを送ってくださったすべての皆さまありがとう.そして,カードを頂けなかった皆さまにもありがとう!).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

* * *

2011年12月22日木曜日

231 ローマ教皇庁の主張 (12/17)

エレイソン・コメンツ 第231回 (2011年12月17日)

ローマ教皇庁は2009年から今年の春まで行われた(聖ピオ十世会との)カトリック教理に関する協議(訳注・原文= “the doctrinal discussions”,〈教理上の論議〉)への反応として「教理に関する序文」 “Doctrinal Preamble” を出しましたが,フェレイ司教 “Bishop Fellay” は聖ピオ十世会 “the SSPX” がこれについて明確な説明を求めると明らかにされました.これとほぼ同じ時期に協議に参加した教皇庁の4名の神学者の一人であるモンシニョール・フェルナンド・オカリス “Monsignore Fernando Ocariz” が「第二バチカン公会議への固執について」 “On Adhesion to the Second Vatican Council” と題する小論を発表しました.このタイミングは同モンシニョールの言われることに反して,私たちが依然として困難を脱していないことを示しています.彼の主張は少なくとも論旨が明確ですので,その内容を見てみましょう.

モンシニョール・オカリスは小論の序論でその「司牧的」公会議 “"the pastoral" Council” (訳注・=第二バチカン公会議) は見かけに反して教理に則(のっと)っていると主張しています.彼によれば,司牧的なもの(こと)は教理に基づくものです.司牧的なもの・事柄は魂を救おうとしているのだから教理に関わるものです.同公会議の諸文書は多くの教理を含むものだというのです.結構です! 少なくとも同モンシニョールは公会議の擁護者(ようごしゃ)の多くと違い,公会議が教理に反するものだと装(よそお)うことで公会議に向けられた教理上の数々の非難をはぐらかそうとはしていません.

ついで,彼はカトリック教会の教導権 “Magisterium” 全般について,第二バチカン公会議を構成するのは「真実のカリスマ,キリストの権威,聖霊の光」(原文・ “the charism of truth, the authority of Christ and the light of the Holy Spirit” )をそなえたカトリックの司教たちだと述べています.彼はこれを否定するのは教会の本質的なものを否定するのに等しいと言います.だが,それではモンシニョールにお尋(たず)ねします.教皇リベリウス(西暦352-355年) “Pope Liberius” の下でアリウス主義の異端 “the Arian heresy” に同調した大多数のカトリック司教たちのことはどう説明されるのでしょうか? 例外的に,カトリック司教たちですらそのほぼ全員が教理を見失ってしまうことがあります.ひとたび起きたことは再び起きえます.それが第二バチカン公会議で起きたことはその諸文書が示しています.

モンシニョール・オカリスはさらに議論を進め,同公会議の教えは教義に反し,定義が不明確に見えても,カトリック信徒はこれに「意思と知性の宗教的服従」( “religious submission of will and intellect” )すなわち「教導権に与えられた神の助力に対する信頼に根ざした忠実な行為」( “an act of obedience well-rooted in confidence in the divine assistance given to the Magisterium” )である賛同を示すことが求められると主張しています.だがモンシニョール,アリウス主義の司教たちと同じように第二バチカン公会議派司教たちに対しても神は間違いなく彼らが必要とするあらゆる助力をお与えになられたのですが,それを拒んだのは彼ら自身です.このことは神の伝統から逸脱(いつだつ)した公会議の諸文書が明示しています.

最後にモンシニョール・オカリスは,カトリックの教導権は継続しており,第二バチカン公会議が教導権を継承しているのだから,その教えは過去のものと繋(つな)がっていると論じることで問題をはぐらかしています.そして,もし同公会議の教えが過去のものから断絶しているように見えるとしても,カトリック的になすべきことは,そのような断絶がないようにその教えを解釈することだとしています.これは例えば教皇ベネディクト16世の言われる「継続性の解釈学(継続という〈聖書原典解釈学的〉解釈)」 “hermeneutic of continuity” と同じです.だがモンシニョール,これら諸々の議論の方向を変えることは可能です.事実,同公会議の諸文書そのものを調べれば明らかなように,教理上の断絶は確かに存在します.(例えば,過(あやま)ちの広がりを阻(はば)まれない(訳注・=過ちの拡散が回避できない)人権が,そこにあるのでしょうか(第二バチカン公会議主義の場合はある),それともそこにないのでしょうか(伝統主義の場合はない)? (訳注・それらの諸文書の中身を調べてみればこれらの答えは一目瞭然〈いちもくりょうぜん〉です.)(原文・ “In fact there is a doctrinal break, as is clear from examining the Conciliar documents themselves. (For instance, is there (Vatican II), or is there not (Tradition), a human right not to be prevented from spreading error ?)” )したがって,第二バチカン公会議はカトリック教会の真の教導権を持っていないのです.カトリック的になすべきことはルフェーブル大司教“Archbishop Lefebvre” がなされたように,伝統の断絶が確かにあることを示すことであって,そのようなことがないと装(よそお)うことではありません.

モンシニョール・オカリスは小論の最後の言葉として教導権のみが教導権を解し得ると主張しています.これでは議論が振り出しに戻ってしまいます.

親愛なる読者の皆さま.ローマ教皇庁は決して難局を脱していません.天よ私たちをお救いください.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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2011年12月15日木曜日

230 国教たるべきか?-2- (12/10)

エレイソン・コメンツ 第230回 (2011年12月10日)

リベラリズム “liberalism” (=自由主義)という宗教によれば - たまにリベラリズムが宗教を代替(だいたい)すると耳にします - 地上のあらゆる国家はカトリック教を支(ささ)えて擁護(ようご)すべきだと主張するのは全くの異端(いたん)だということになります.しかし,もし神が存在するならば,もしイエズス・キリストが神であるならば,もし,国家のように,人類が構成する自然社会が神の被造物 “a creature of God” であるならば,そしてもしイエズス・キリストがカトリック教会を人間を地獄の永遠の炎から救う唯一の手段として築(きず)かれたのだとすれば,国家は人類の敵になろうと望まない限りカトリック教会を擁護する義務を負っています.だが,この結論には複数の反対意見があります.最も共通する反対意見のうち三つを取り上げて見てみましょう.

第1の反対: 私たちの主イエズス・キリスト自らポンティオ・ピラト(ヨハネ聖福音書18章36節参照)(訳注後記)に対し自分の築いた王国はこの世のものではないと告げた.然るに国家はこの世のものである.したがって,国家は神の王国,その教会とは無関係であるべきだ.

解答: 私たちの主はピラトに彼の王国と国家は異なるものだと伝えられましたが,両者を別々(=別個のもの)にすべしとは言っておられません.人間の霊魂と肉体は異なりますが,両者を別々にすることはその人間の死を意味します.親と子供は異なりますが,(現代の児童保護機関がよくするように)両者を別々にすることは家庭の死を意味します.教会と国家が異なるのは現世の命と(来世の)永遠の命が異なるようなものですが,両者を分けるのは先のものと後のもの(訳注・=現世での命と来世での命)との間に溝を作るようなもので,地獄へ墜(お)ちる人の数を増やすことになるでしょう.

第2の反対: カトリック教は真実だが,真実は自ら道を切り開くに任せればいい.したがって,カトリック教は他の宗教の実践を公に抑えるといった教会の威圧(いあつ)的な力など必要としない.

解答: 本質的には(=それ自体では),ラテン人たちが言ったとおり,確かに「真実は力強いもので広く行きわたるもの」です.だが,私たち人間の間では原罪がある故,真実は容易に広まりません.もし,あらゆる人間(私たちの主イエズス・キリストとその聖母マリア “Our Lord and Our Lady” を除き)が無知,悪意,弱さ,不摂生(ふせっせい)の四つの傷で堕落(だらく)して以来(いらい)悩んでいないのであれば,真実がひとりでに行きわたるのを妨げるものは少ないでしょうし,トーマス・ジェファーソン “Thomas Jefferson” (米国第3代大統領)が「真実は市場で開示されるだけで広まる」と言ったのは正しかったかもしれません.だが,カトリック教徒は教会がなにを説いているか知っています.すなわち,人間は洗礼を受けた後でも原罪が下に引きずり降ろそうとする力に弱いので,それなしでは霊魂が救われない真実を探し出すには国家による穏当(おんとう)な助けが必要だということです.この穏当な助けには国家が誰でも手当たり次第カトリック教徒にしてしまうことは含まれません.だが,国家がジェファーソンの言う市場から危険な反真実 “anti-truths” を排除することは含みます.

第3の反対: 強い権力は大いに悪用されうる.今,教会と国家が結び付けば双方(そうほう)の立場を大いに強める.したがって,大きな害が生じうる - このことは,いかに公会議主義の教会と現世的な新世界秩序が互いに力を与えあっているかを見るだけではっきりする!

解答:ラテン人は「悪用は利用を止められない」と言いました.私たちの主イエズス・キリストは悪用されうることを理由に私たちに聖体 “Holy Eucharist” (訳注後記)を授けるのを思いとどまったでしょうか? 公会議主義の教会とリベラルな国家の再結合は教会と国家の結びつきの大いなる悪用です.だが,それが実証するのはリベラリズムの誤りであって,カトリック国家とカトリック教会の結びつきの誤りではありません.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

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第2パラグラフの訳注:
新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第18章36節(28-40節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN, 18:36 (18:28-40)

ピラトの前で(18・28-40)
『(御受難の日の朝)…人々はイエズスをカヤファのもとから総督官邸に引いていった.夜明けだった.ユダヤ人たちは,過ぎ越しの小羊を食べる際に汚れを受けないように,総督官邸に入らなかった.

ピラトが外にいる彼らの方に出て,「あなたたちはこの人について,何を訴えるのか」と言うと,「その人が悪者でなかったなら,あなたにわたさなかったでしょう」と彼らは答えた.ピラトが,「この人を引き取って,あなたたちの律法に従って裁(さば)け」と言うと,ユダヤ人たちは,「私たちには死刑を行う権限がありません」と言った.
それは,イエズスが自分はどんな死に方で死ぬかを示して言われたみことばを実現するためであった.

ピラトはまた官邸に入りイエズスを呼び出し,「あなたはユダヤ人の王か」と聞いた.
イエズスは,「あなたは自分でそう言うのか.あるいは,ほかの人が私のことをそう告げたのか」と言われた.
するとピラトは,「私をユダヤ人だと思うのか.あなたの国の人と司祭長たちがあなたを私にわたしたのだ.あなたは何をしたのか」と聞いた.

イエズスは答えられた,
私の国はこの世のものではない.もし私の国がこの世のものなら,私の兵士たちはユダヤ人に私をわたすまいとして戦っただろう.だが,私の国はこの世からのものではない.」
ピラトが,「するとあなたは王か」と聞いたので,イエズスは,「あなたの言うとおり私は王である.私は真理を証明するために生まれ,そのためにこの世に来た.真理につく者は私の声を聞く」と答えられた.ピラトは「真理とは何か」と言った.

そう言ってふたたびユダヤ人の前に出て,「私はこの人にどんな罪も見いださない.
過ぎ越しの祭りのときにおまえたちに囚人を一人ゆるす慣例であるが,おまえたちはユダヤ人の王をゆるしてほしいと望むか」と言うと,彼らはまた「その人ではなく,バラバを」と叫んだ.バラバとは強盗であった.』

(注釈は後から追記します)

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最後のパラグラフ(第7)の訳注:
御聖体 “Holy Eucharist” について.

= “Corpus Christi” .
真の命,すなわち命そのものたる「キリストの御体」のこと.
=「命の糧〈パン〉」 “The bread of life”

参考となる新約聖書からの引用
ヨハネ聖福音書:第1章1-5節,第6章35節 / John 1:1-5, 6:35

(後から追加いたします)

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2011年12月14日水曜日

229 呪われたリベラル主義者 (12/3)

エレイソン・コメンツ 第229回 (2011年12月3日)

リベラリズム “liberalism” (=自由主義)は恐ろしい病で,何億もの霊魂を地獄に落とします.それは人の精神を客観的な真実から,心(意思や情愛)を客観的な善から「解放し」ます.そこでは主観が君臨します.リベラルな考えでは,神の場にいるのは人間であり,その人間は自分が決めただけ神に重きを置きます.(訳注後記)そして,その度合いはあまり大きくないのが普通です.言ってみれば,全能の神は忠実な子犬のように鎖(くさり)に繋(つな)がれた状態です! 事実,リベラル主義者(=リベラリスト)の「神」は真の神のまがい物です.だが,「神は似せて作るものにあらず」(ガラテア人への手紙6章7節)(訳注後記)です.リベラル主義者は現世ではにせ(偽)の活動家,本物の専制君主,弱々しい(=女性的な)人間になることによって罰を受けます.

ルフェーブル大司教によると,にせ活動家の典型的な例はラテンアメリカに見られる革命的神父たちです.同大司教がよく言われたことですが,教会の近代化運動の影響でカトリック信仰を失った神父が最も恐ろしい革命家になります.というのも,彼らは人々の霊魂の救済のため真の活動 “true crusade” の持つあらゆる力を共産主義に向けてしまうからです.しかも彼らは真の活動のための訓練を受けてきたにもかかわらず,自らのやってきたこと(訳注・真の活動のこと)をもはや信じなくなっているのです.

真実の聖戦 “crusade” (訳注後記)は神,イエズス・キリスト,永遠の救いのためにあるものです.そして,そのような真の意味での聖戦をもはや信じられなくなると,人々の生活にはそれに見合うだけの大きな隙間(すきま)が生じます.そういった人々は他のありとあらゆるものに対する改革を進めることでその隙間を埋めようとします.例えば,タバコの禁止(だがマリファナやヘロインは自由),死刑の廃止(だが有能な右翼主義者の処刑は自由),圧制者〈=暴君〉には反対(だが「民主主義」をもたらすためならいかなる国を爆撃するのも自由),人間の神聖さを強調(だが母の胎内の赤ん坊〈=胎児〉を堕胎〈=人工妊娠中絶〉するのは自由)といった具合で,例を挙げればきりがありません.ここで特に挙げたこうした矛盾の数々は,キリスト教の世界秩序 “Christian world order” に代わるべき新世界秩序を全面的に推(お)し進めようとする “…crusade for a total new world order” リベラル主義者たちにとってはまったく辻(つじ)つまの合うことです.彼らはキリストと戦っていないように装(よそお)っていますが,その化けの皮は剥(は)がれかかっています.

理論的に言えばリベラル主義者たちはまた本物の専制君主にもなります.彼らは自身の上の存在である神,真理,法から自らを「解放」しているので,残るのは自分たちの心,意思の権威だけで,それを誰彼かまわず他の人たちに押し付けます.例えば,教皇パウロ6世です.彼はカトリック教の伝統が自分の権威を制限していることなど忘れてしまって自分の説く新しいミサ典礼の新秩序を1969年にカトリック教会に押しつけました.しかも,そのわずか2年前に相当な数の司教たちが似たようなミサ典礼の試みを拒んだにもかかわらずです.教皇パウロ6世は部下が自分のようにリベラル主義者でなければ,その意見を尊重したでしょうか? 部下たちは自分たちにとって何が良いことなのか分かりませんでした.だが同教皇は分かっていました.

再び理論的に言えば,リベラル主義者は弱々しく(女々しく=感傷的に)なります.なぜなら彼らは何事も個人的なことと受け止めざるを得ない(受け止めずにはいられない)からです.けれども彼らの権威主義に対するどの良識ある反対も彼らが軽蔑(けいべつ)する真理ないし法 “Truth or Law” すなわち全人類の上に君臨するカトリック真理,神の法(十戒)に基づいています.だからこそルフェーブル大司教は教皇パウロ6世の進めたリベラリズムに抵抗したのですが,教皇パウロ6世は単に同大司教が自分に取って代わって教皇になろうとしていると考えました.パウロ6世は自分の権威よりはるかに高い真の神の権威が存在していること,そしてルフェーブル大司教はそのより高い権威に冷静に心を寄せていたのだということを理解できなかったのです.はたして主なる神もいつかは間違いをするのではないかなどと心配する必要があるでしょうか? まったくありません.

イエズスの聖心(みこころ)よ,私たちがあなただけから生まれ得る良き指導者たちに恵まれますように.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

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第1パラグラフの訳注:
新約聖書・ガラテア人への手紙:第6章7節(1-10節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL TO THE GALATIANS, 6:7 (6:1-10)

愛の実践(6・1-10)
『兄弟たちよ,もしある人に過失があったら,*¹霊の人であるあなたたちは柔和な心をもってその人を改めさせよ.そして,自分も誘われぬよう気をつけよ.
互いに重荷を負え.そうすれば,あなたたちはキリストの法をまっとうできる.

何者でもないのに,何者であるかのように思うのは,自分を欺(あざ)むくことである.
おのおの自分の行いを調べよ.*²そうすれば,他人についてでなく,自分についてだけ誇る理由を見いだすだろう.おのおの自分の荷を負っているからである.

*³みことばを教えてもらう人は,教えてくれる人に自分の持ち物を分け与えよ.
自分を欺むいてはならない.神を侮(あなど)ってはならない.人はまくものを収穫するからである.すなわち自分の肉にまく人は肉から腐敗を刈り取り,霊にまく人は霊から永遠の命を刈り取る.
善を行ない続けて倦(う)んではならない.たゆまず続けているなら,時が来て刈り取れる.
だから,まだ時のある間に,すべての人に,特に信仰における兄弟である人々に善を行え.

(注釈)

*¹ 〈新約〉コリント人への手紙(第1)3・1以下参照.

→(第3章1-23節を後から追加します) 

*² 他人の欠点と自分の行いを比べて,誇りたくなる時がある.しかし非難するのは,自分のことだけでなければならない.
パウロの言葉は皮肉であって,真実に自分をかえりみる人は,自分を誇る理由を見つけるはずがない.

*³ 信徒は宣教師の生活を保証せねばならない.

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第3パラグラフの訳注:
真実の聖戦 “The true crusade” について.

(説明)

・救世主たる神の御子イエズス・キリストの教えを地上の人間社会に宣教し,人々を永遠の救霊に導き入れるための戦い.「改革(運動)」はこの意味で,悪に傾きがちな人間に「真理において善に従う人生を送ることが真の生命へと生き延びることだ」と教えることである.

・霊である神はキリストにおいて人間となられ,十字架上の死から復活されたことにより悪(=肉欲・原罪)の力を征服された.したがって神・カトリック真理(救世主たる神の御子キリストへの信仰)・神の法の勝利は決定的であり,それを否定する悪(リベラリズムすなわち利己主義)は滅亡の一途をたどる一方に終わる.

・したがって真実の聖戦とは,厳密には,肉眼で見える世界での人間や人間社会との戦いというより,目に見えない霊的な世界での悪の霊との戦いを指している.

・現世は悪の霊の支配下にあり,悪は「肉欲・我欲」によって人間を堕落させ,その霊魂を永遠の滅びに落とそうとしている.

・「肉欲・我欲」は人間に,人間の五感(視覚,聴覚,触覚,味覚,嗅覚)に触れるあらゆる良いものについて,その創造主たる神に感謝することをさせず,かえってあらゆる良いものによって自らを傲慢(ごうまん)に誇ったり,他者を妬(ねた)んだり貶(おとし)めたりさせる.

・現世は果敢無(はかな)く有限であるが,来世は永遠であり,しかも来世での永福は現世でいかに「我欲を抑(おさ)え・他者を助ける犠牲的精神・他者の幸福を願う善意」などを心がけて過ごしたかにかかっている.

・以上の観点から,「リベラリズム」とは「自由に我欲を追求して生きることを〈人権〉と呼んで正当化し,そのためとあらば平然と他者を否定したりふみつけにすることも許される」ということを意味し,それに基づき現世の人間社会で起こされている様々な不和な現象から,「リベラリズム」がいかに人の霊魂・人の真の幸福を損なわせる危険なものであるかを観察することができる.

(続きを追加いたします)


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2011年12月13日火曜日

228 国教たるべきか? (11/26)

エレイソン・コメンツ 第228回 (2011年11月26日)

カトリック教を擁護(ようご),促進(そくしん)するため国家はどのような役割を果たすべきでしょうか? カトリック教義( “Catholicism”,カトリシズム) が唯一の真の神の唯一の真の宗教だと信じるカトリック教徒なら誰しも,国家もまた(訳注・他のすべての被造物と同様)神が創造された被造物の一つなのだから,その神の唯一の真の宗教のために最善のことをすべきだと答えるでしょう.これに対して,宗教はいずれにせよ個々人の問題なのだから国家はどれを真の宗教とするか判断できないと信じるリベラル主義者は誰でも( “any liberal” =リベラリスト,自由主義者),国家がなすべきは国民が自分で選んだ宗教を実践するか無宗教のままでいるかの権利を擁護することだけだと答えるでしょう.この点についてのカトリック教の見地からの議論をいくつか見てみましょう.

人間は神から生まれたものです.人間の性質は神に根ざしています.人間は生まれつき社会的で,その社会的な性質(=社会性)も神から受けたものです.だが,人間は,その人格の一部だけでなく,人格の全部(訳注・=全人格)を挙(あ)げて(神の十戒の第一戒)(訳注後記),神を崇拝すべく(訳注・創造主たる神により)義務づけられています( “…owes worship to God”.) それゆえに人間の社会性は神を崇拝すべき義務を負うことになるのです.だが国家とは単に国民ひとりひとりの持つ社会性がひとつの政治的統一体に結集した一社会にすぎません.したがって国家は神を崇拝する義務を負うのです.現世には相互にどうしても矛盾する諸々の崇拝がありますが(そうでなければどれも相違なくみな同じということになります),必ず存在するただひとつの完全に真実たり得る崇拝を除いて,その他のすべての崇拝は程度の差こそあれまがい物(=偽物)ということになるでしょう.(訳注・原文= “…, maybe all are more or less false but certainly one alone can be fully true.” どれほど多くの崇拝が存在していようと,完全に真実たり得る崇拝はただひとつしか存在しないことは確かであり,そのほかはすべてほぼ偽物だということになるでしょう.)したがってもしそのような崇拝がひとつ存在し,それが完全に真実なものかつ真実だと認め得るものであれば,それがまさしくあらゆる国家が,国家として,神に対し果たすべき崇拝です.だがカトリック教義こそがその崇拝なのです.したがって,いかなる国家であれ,あらゆる国家が,国家として,神に対しカトリック教義に基づいた崇拝を捧げる義務を負うのであり,たとえそれが今日の英国であれイスラエルであれサウジアラビアですらそこに含まれるのです!

だが,崇拝の本質とは個々人が可能な奉仕 “service” を神に捧げるということです.国家ができる奉仕とはどのようなものでしょうか? それはとても大きなものです! 人間は生まれながらに社会性をそなえているため,人間が形成する社会はその構成員がなにを感じ,考え,信仰するかに大きな影響を持ちます.そして,国家の法律は,その国民の社会形成に決定的な影響を持ちます.例えば,堕胎やポルノが合法化されれば,国民の多くはそれについて,ほとんどもしくはまったく問題がないと考えるようになるでしょう.したがって,すべての国家は原則として法律によりカトリック信仰とその教え説く諸々の道徳を擁護し促進する義務があります.

この原則は明瞭なものです.だが,この原則は警察があらゆる非カトリック教徒を取り押さえ火あぶりの刑に処するべきだということまで意味するでしょうか? それはまったく違います.なぜなら神を崇拝し神に奉仕する目的は神に栄光を与え人々の霊魂を救うことだからです.国家の側による軽率な行動は逆効果を生むだけでしょう.つまり,カトリック教義の信用を落とし人々を遠ざけることになるでしょう.したがって,たとえカトリック国家であってもその国がある公共悪に対して然(しか)るべき措置を講じようと行動を起こす場合,その行動を起こすことが却(かえ)ってより大きな悪を引き起こす要因となったり,もしくはより大きな善を妨げることとなったりする恐れのある場合にはその行動をその公共悪に対して起こすことを実際的に慎(つつし)む権利を有するとカトリック教会は教えています.だが,あらゆる国家にカトリック信仰,道徳を擁護する原理的な義務があることに変わりはありません.

そのことは国民にカトリック信仰を強要することを意味するでしょうか? そのようなことはまったくありません.なぜならカトリック信仰は強要できるものではないからです - 「自らの意に反して信じる者など誰もいない」(聖アウグスティヌスの言葉).この言葉がまさに意味するのは,公共悪に対する行動が逆効果を生むとは限らない,もしくは生むべきではないようなカトリック国家においては,カトリック教以外のあらゆる宗教の公的実践を禁じてもよい,もしくは禁じるべきだということです.この理論的結論を否定したのが第二バチカン公会議です.なぜなら第二バチカン公会議はリベラルな路線を取ったからです.だが,この理論的結論は公会議以前には世界各地のカトリック国家で共通に実践され,それにより多くの人々の霊魂が救われる役に立っていたのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

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第2パラグラフの訳注:
「神の十戒の第一戒」についての聖書からの引用.

新約聖書・マテオによる聖福音書:第22章34-40節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW, 22:34-40

最大のおきて(22・34-40)
『*¹イエズスがサドカイ人の口を封じられたと聞いたファリザイ人は相集まった.そしてそのうちの一人(*²の律法学士)が,イエズスを試みようとして,「先生,律法のうちどの掟(おきて)がいちばん大切(たいせつ)ですか」と尋(たず)ねた.
イエズスは,「〈*³すべての心,すべての霊,すべての知恵をあげて,主なる神を愛せよ〉.これが第一の最大の掟である.第二のもこれと似ている,〈*⁴隣人を自分と同じように愛せよ〉.すべての律法と預言者はこの二つの掟による」と答えられた.』

(注釈)

*¹ 34-40節 ルカ聖福音書10・25-28にあるが,話の状態は異なっている.

*² このことばはルカ(10・25)による書き入れらしい.しかし大部分の写本にのっている.

*³ 〈旧約〉第二法の書6・5参照.

「(〈4節〉**¹イスラエルよ聞け,われらの神なる主こそ唯一の主である.)
〈5節〉**²心を尽くし,魂を尽くし,力を尽くして,神なる主を愛せよ
(〈6節〉私が今日命じることばを心に刻(きざ)みつけよ.
〈7節〉そのことばをおまえの子らに教えよ,家にいても道を歩いていても,横になっていても起きていても,つねにそのことばを繰り返し教えよ.
〈8節〉**³それを自分の手にしるしとして結びつけ,目と目の間の下げ飾りとしておけ.
〈9節〉また,家の**⁴側柱(わきばしら)と扉とにそれを書き記せ.」

(注釈)
**¹ 4・35,〈旧約〉ザカリアの書14・9.唯神論の厳かな宣言であり,この章のはじめのことば「シェマ」(聞け)で話が始まる.バビロンに流されて後おそらくアシダイの人々が命じ,現在でもイスラエル人の信仰厚い人々が朝と夕べにとなえる有名な祈りをシェマという.この祈りは「イスラエルよ聞け」で始まり,6・4-9,11・13-21,〈旧約〉荒野の書15・38-41で成り立っている.

**² 神への愛は十戒(〈旧約〉脱出の書20・6)ですでに語られたけれども,第二法の書(10・12,11・1,13,22,13・4,19・9,30・6,16,20)は律法五書の中でも特に神への愛を人間の働きの土台として扱っている.
愛は神の恵みに対する人間の答えであり(12節,10・12以下),神への恐れと敬(うやま)いとおきての遵守(13節,10・12,11・13,11・1,22,19・3,30・16)をも含むものである.キリストは4節と5節とレビの書の19章18節を新約の律法の第一のおきてとした
(〈新約〉マルコ聖福音書12・18-31,〈新約〉ローマ人への手紙13・8以下).

**³ 8-9節 〈旧約〉脱出の書13・9,16.「しるし」と「下げ飾り」は元来比喩(ひゆ)としてとるべきだったのに後のユダイズムはそれを文字通りとって律法を手に結びつけ額に飾った(〈新約〉マテオ聖福音書23・5).

**⁴ 「側柱」はヘブライ語の「メズザ」で,入口の側にある柱.第二法の書の6・4-9,11・13-21を羊皮紙に書いて小箱に入れ,それを側柱につけていた.これをメズザという.現在でもユダヤ教の信者の中には,入口の右側柱の上にあるメズザに手を触れ,詩篇(121・8)をとなえる人がある.

*⁴ 〈旧約〉レビの書19・18参照.
→「…**¹あだの仕返しをしてはならぬ.民の子らに恨みを含まず,むしろ隣人を自分と同じように愛せよ.私は主である.」

(注釈)
**¹ 当時としては,深い配慮のあるおきてである.マテオ聖福音書(5・43以下),マルコ(12・31),ヨハネ(13・34)において,愛のおきてはまったく一新された.キリストのころ,ユダヤ人の他国人への憎悪はきわめて深かった.

* * *