エレイソン・コメンツ 第228回 (2011年11月26日)
カトリック教を擁護(ようご),促進(そくしん)するため国家はどのような役割を果たすべきでしょうか? カトリック教義( “Catholicism”,カトリシズム) が唯一の真の神の唯一の真の宗教だと信じるカトリック教徒なら誰しも,国家もまた(訳注・他のすべての被造物と同様)神が創造された被造物の一つなのだから,その神の唯一の真の宗教のために最善のことをすべきだと答えるでしょう.これに対して,宗教はいずれにせよ個々人の問題なのだから国家はどれを真の宗教とするか判断できないと信じるリベラル主義者は誰でも( “any liberal” =リベラリスト,自由主義者),国家がなすべきは国民が自分で選んだ宗教を実践するか無宗教のままでいるかの権利を擁護することだけだと答えるでしょう.この点についてのカトリック教の見地からの議論をいくつか見てみましょう.
人間は神から生まれたものです.人間の性質は神に根ざしています.人間は生まれつき社会的で,その社会的な性質(=社会性)も神から受けたものです.だが,人間は,その人格の一部だけでなく,人格の全部(訳注・=全人格)を挙(あ)げて(神の十戒の第一戒)(訳注後記),神を崇拝すべく(訳注・創造主たる神により)義務づけられています( “…owes worship to God”.) それゆえに人間の社会性は神を崇拝すべき義務を負うことになるのです.だが国家とは単に国民ひとりひとりの持つ社会性がひとつの政治的統一体に結集した一社会にすぎません.したがって国家は神を崇拝する義務を負うのです.現世には相互にどうしても矛盾する諸々の崇拝がありますが(そうでなければどれも相違なくみな同じということになります),必ず存在するただひとつの完全に真実たり得る崇拝を除いて,その他のすべての崇拝は程度の差こそあれまがい物(=偽物)ということになるでしょう.(訳注・原文= “…, maybe all are more or less false but certainly one alone can be fully true.” どれほど多くの崇拝が存在していようと,完全に真実たり得る崇拝はただひとつしか存在しないことは確かであり,そのほかはすべてほぼ偽物だということになるでしょう.)したがってもしそのような崇拝がひとつ存在し,それが完全に真実なものかつ真実だと認め得るものであれば,それがまさしくあらゆる国家が,国家として,神に対し果たすべき崇拝です.だがカトリック教義こそがその崇拝なのです.したがって,いかなる国家であれ,あらゆる国家が,国家として,神に対しカトリック教義に基づいた崇拝を捧げる義務を負うのであり,たとえそれが今日の英国であれイスラエルであれサウジアラビアですらそこに含まれるのです!
だが,崇拝の本質とは個々人が可能な奉仕 “service” を神に捧げるということです.国家ができる奉仕とはどのようなものでしょうか? それはとても大きなものです! 人間は生まれながらに社会性をそなえているため,人間が形成する社会はその構成員がなにを感じ,考え,信仰するかに大きな影響を持ちます.そして,国家の法律は,その国民の社会形成に決定的な影響を持ちます.例えば,堕胎やポルノが合法化されれば,国民の多くはそれについて,ほとんどもしくはまったく問題がないと考えるようになるでしょう.したがって,すべての国家は原則として法律によりカトリック信仰とその教え説く諸々の道徳を擁護し促進する義務があります.
この原則は明瞭なものです.だが,この原則は警察があらゆる非カトリック教徒を取り押さえ火あぶりの刑に処するべきだということまで意味するでしょうか? それはまったく違います.なぜなら神を崇拝し神に奉仕する目的は神に栄光を与え人々の霊魂を救うことだからです.国家の側による軽率な行動は逆効果を生むだけでしょう.つまり,カトリック教義の信用を落とし人々を遠ざけることになるでしょう.したがって,たとえカトリック国家であってもその国がある公共悪に対して然(しか)るべき措置を講じようと行動を起こす場合,その行動を起こすことが却(かえ)ってより大きな悪を引き起こす要因となったり,もしくはより大きな善を妨げることとなったりする恐れのある場合にはその行動をその公共悪に対して起こすことを実際的に慎(つつし)む権利を有するとカトリック教会は教えています.だが,あらゆる国家にカトリック信仰,道徳を擁護する原理的な義務があることに変わりはありません.
そのことは国民にカトリック信仰を強要することを意味するでしょうか? そのようなことはまったくありません.なぜならカトリック信仰は強要できるものではないからです - 「自らの意に反して信じる者など誰もいない」(聖アウグスティヌスの言葉).この言葉がまさに意味するのは,公共悪に対する行動が逆効果を生むとは限らない,もしくは生むべきではないようなカトリック国家においては,カトリック教以外のあらゆる宗教の公的実践を禁じてもよい,もしくは禁じるべきだということです.この理論的結論を否定したのが第二バチカン公会議です.なぜなら第二バチカン公会議はリベラルな路線を取ったからです.だが,この理論的結論は公会議以前には世界各地のカトリック国家で共通に実践され,それにより多くの人々の霊魂が救われる役に立っていたのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの訳注:
「神の十戒の第一戒」についての聖書からの引用.
新約聖書・マテオによる聖福音書:第22章34-40節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW, 22:34-40
最大のおきて(22・34-40)
『*¹イエズスがサドカイ人の口を封じられたと聞いたファリザイ人は相集まった.そしてそのうちの一人(*²の律法学士)が,イエズスを試みようとして,「先生,律法のうちどの掟(おきて)がいちばん大切(たいせつ)ですか」と尋(たず)ねた.
イエズスは,「〈*³すべての心,すべての霊,すべての知恵をあげて,主なる神を愛せよ〉.これが第一の最大の掟である.第二のもこれと似ている,〈*⁴隣人を自分と同じように愛せよ〉.すべての律法と預言者はこの二つの掟による」と答えられた.』
(注釈)
*¹ 34-40節 ルカ聖福音書10・25-28にあるが,話の状態は異なっている.
*² このことばはルカ(10・25)による書き入れらしい.しかし大部分の写本にのっている.
*³ 〈旧約〉第二法の書6・5参照.
→
「(〈4節〉**¹イスラエルよ聞け,われらの神なる主こそ唯一の主である.)
〈5節〉**²心を尽くし,魂を尽くし,力を尽くして,神なる主を愛せよ.
(〈6節〉私が今日命じることばを心に刻(きざ)みつけよ.
〈7節〉そのことばをおまえの子らに教えよ,家にいても道を歩いていても,横になっていても起きていても,つねにそのことばを繰り返し教えよ.
〈8節〉**³それを自分の手にしるしとして結びつけ,目と目の間の下げ飾りとしておけ.
〈9節〉また,家の**⁴側柱(わきばしら)と扉とにそれを書き記せ.」
(注釈)
**¹ 4・35,〈旧約〉ザカリアの書14・9.唯神論の厳かな宣言であり,この章のはじめのことば「シェマ」(聞け)で話が始まる.バビロンに流されて後おそらくアシダイの人々が命じ,現在でもイスラエル人の信仰厚い人々が朝と夕べにとなえる有名な祈りをシェマという.この祈りは「イスラエルよ聞け」で始まり,6・4-9,11・13-21,〈旧約〉荒野の書15・38-41で成り立っている.
**² 神への愛は十戒(〈旧約〉脱出の書20・6)ですでに語られたけれども,第二法の書(10・12,11・1,13,22,13・4,19・9,30・6,16,20)は律法五書の中でも特に神への愛を人間の働きの土台として扱っている.
愛は神の恵みに対する人間の答えであり(12節,10・12以下),神への恐れと敬(うやま)いとおきての遵守(13節,10・12,11・13,11・1,22,19・3,30・16)をも含むものである.キリストは4節と5節とレビの書の19章18節を新約の律法の第一のおきてとした(〈新約〉マルコ聖福音書12・18-31,〈新約〉ローマ人への手紙13・8以下).
**³ 8-9節 〈旧約〉脱出の書13・9,16.「しるし」と「下げ飾り」は元来比喩(ひゆ)としてとるべきだったのに後のユダイズムはそれを文字通りとって律法を手に結びつけ額に飾った(〈新約〉マテオ聖福音書23・5).
**⁴ 「側柱」はヘブライ語の「メズザ」で,入口の側にある柱.第二法の書の6・4-9,11・13-21を羊皮紙に書いて小箱に入れ,それを側柱につけていた.これをメズザという.現在でもユダヤ教の信者の中には,入口の右側柱の上にあるメズザに手を触れ,詩篇(121・8)をとなえる人がある.
*⁴ 〈旧約〉レビの書19・18参照.
→「…**¹あだの仕返しをしてはならぬ.民の子らに恨みを含まず,むしろ隣人を自分と同じように愛せよ.私は主である.」
(注釈)
**¹ 当時としては,深い配慮のあるおきてである.マテオ聖福音書(5・43以下),マルコ(12・31),ヨハネ(13・34)において,愛のおきてはまったく一新された.キリストのころ,ユダヤ人の他国人への憎悪はきわめて深かった.
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