2011年12月15日木曜日

230 国教たるべきか?-2- (12/10)

エレイソン・コメンツ 第230回 (2011年12月10日)

リベラリズム “liberalism” (=自由主義)という宗教によれば - たまにリベラリズムが宗教を代替(だいたい)すると耳にします - 地上のあらゆる国家はカトリック教を支(ささ)えて擁護(ようご)すべきだと主張するのは全くの異端(いたん)だということになります.しかし,もし神が存在するならば,もしイエズス・キリストが神であるならば,もし,国家のように,人類が構成する自然社会が神の被造物 “a creature of God” であるならば,そしてもしイエズス・キリストがカトリック教会を人間を地獄の永遠の炎から救う唯一の手段として築(きず)かれたのだとすれば,国家は人類の敵になろうと望まない限りカトリック教会を擁護する義務を負っています.だが,この結論には複数の反対意見があります.最も共通する反対意見のうち三つを取り上げて見てみましょう.

第1の反対: 私たちの主イエズス・キリスト自らポンティオ・ピラト(ヨハネ聖福音書18章36節参照)(訳注後記)に対し自分の築いた王国はこの世のものではないと告げた.然るに国家はこの世のものである.したがって,国家は神の王国,その教会とは無関係であるべきだ.

解答: 私たちの主はピラトに彼の王国と国家は異なるものだと伝えられましたが,両者を別々(=別個のもの)にすべしとは言っておられません.人間の霊魂と肉体は異なりますが,両者を別々にすることはその人間の死を意味します.親と子供は異なりますが,(現代の児童保護機関がよくするように)両者を別々にすることは家庭の死を意味します.教会と国家が異なるのは現世の命と(来世の)永遠の命が異なるようなものですが,両者を分けるのは先のものと後のもの(訳注・=現世での命と来世での命)との間に溝を作るようなもので,地獄へ墜(お)ちる人の数を増やすことになるでしょう.

第2の反対: カトリック教は真実だが,真実は自ら道を切り開くに任せればいい.したがって,カトリック教は他の宗教の実践を公に抑えるといった教会の威圧(いあつ)的な力など必要としない.

解答: 本質的には(=それ自体では),ラテン人たちが言ったとおり,確かに「真実は力強いもので広く行きわたるもの」です.だが,私たち人間の間では原罪がある故,真実は容易に広まりません.もし,あらゆる人間(私たちの主イエズス・キリストとその聖母マリア “Our Lord and Our Lady” を除き)が無知,悪意,弱さ,不摂生(ふせっせい)の四つの傷で堕落(だらく)して以来(いらい)悩んでいないのであれば,真実がひとりでに行きわたるのを妨げるものは少ないでしょうし,トーマス・ジェファーソン “Thomas Jefferson” (米国第3代大統領)が「真実は市場で開示されるだけで広まる」と言ったのは正しかったかもしれません.だが,カトリック教徒は教会がなにを説いているか知っています.すなわち,人間は洗礼を受けた後でも原罪が下に引きずり降ろそうとする力に弱いので,それなしでは霊魂が救われない真実を探し出すには国家による穏当(おんとう)な助けが必要だということです.この穏当な助けには国家が誰でも手当たり次第カトリック教徒にしてしまうことは含まれません.だが,国家がジェファーソンの言う市場から危険な反真実 “anti-truths” を排除することは含みます.

第3の反対: 強い権力は大いに悪用されうる.今,教会と国家が結び付けば双方(そうほう)の立場を大いに強める.したがって,大きな害が生じうる - このことは,いかに公会議主義の教会と現世的な新世界秩序が互いに力を与えあっているかを見るだけではっきりする!

解答:ラテン人は「悪用は利用を止められない」と言いました.私たちの主イエズス・キリストは悪用されうることを理由に私たちに聖体 “Holy Eucharist” (訳注後記)を授けるのを思いとどまったでしょうか? 公会議主義の教会とリベラルな国家の再結合は教会と国家の結びつきの大いなる悪用です.だが,それが実証するのはリベラリズムの誤りであって,カトリック国家とカトリック教会の結びつきの誤りではありません.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

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第2パラグラフの訳注:
新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第18章36節(28-40節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN, 18:36 (18:28-40)

ピラトの前で(18・28-40)
『(御受難の日の朝)…人々はイエズスをカヤファのもとから総督官邸に引いていった.夜明けだった.ユダヤ人たちは,過ぎ越しの小羊を食べる際に汚れを受けないように,総督官邸に入らなかった.

ピラトが外にいる彼らの方に出て,「あなたたちはこの人について,何を訴えるのか」と言うと,「その人が悪者でなかったなら,あなたにわたさなかったでしょう」と彼らは答えた.ピラトが,「この人を引き取って,あなたたちの律法に従って裁(さば)け」と言うと,ユダヤ人たちは,「私たちには死刑を行う権限がありません」と言った.
それは,イエズスが自分はどんな死に方で死ぬかを示して言われたみことばを実現するためであった.

ピラトはまた官邸に入りイエズスを呼び出し,「あなたはユダヤ人の王か」と聞いた.
イエズスは,「あなたは自分でそう言うのか.あるいは,ほかの人が私のことをそう告げたのか」と言われた.
するとピラトは,「私をユダヤ人だと思うのか.あなたの国の人と司祭長たちがあなたを私にわたしたのだ.あなたは何をしたのか」と聞いた.

イエズスは答えられた,
私の国はこの世のものではない.もし私の国がこの世のものなら,私の兵士たちはユダヤ人に私をわたすまいとして戦っただろう.だが,私の国はこの世からのものではない.」
ピラトが,「するとあなたは王か」と聞いたので,イエズスは,「あなたの言うとおり私は王である.私は真理を証明するために生まれ,そのためにこの世に来た.真理につく者は私の声を聞く」と答えられた.ピラトは「真理とは何か」と言った.

そう言ってふたたびユダヤ人の前に出て,「私はこの人にどんな罪も見いださない.
過ぎ越しの祭りのときにおまえたちに囚人を一人ゆるす慣例であるが,おまえたちはユダヤ人の王をゆるしてほしいと望むか」と言うと,彼らはまた「その人ではなく,バラバを」と叫んだ.バラバとは強盗であった.』

(注釈は後から追記します)

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最後のパラグラフ(第7)の訳注:
御聖体 “Holy Eucharist” について.

= “Corpus Christi” .
真の命,すなわち命そのものたる「キリストの御体」のこと.
=「命の糧〈パン〉」 “The bread of life”

参考となる新約聖書からの引用
ヨハネ聖福音書:第1章1-5節,第6章35節 / John 1:1-5, 6:35

(後から追加いたします)

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