2011年12月22日木曜日

231 ローマ教皇庁の主張 (12/17)

エレイソン・コメンツ 第231回 (2011年12月17日)

ローマ教皇庁は2009年から今年の春まで行われた(聖ピオ十世会との)カトリック教理に関する協議(訳注・原文= “the doctrinal discussions”,〈教理上の論議〉)への反応として「教理に関する序文」 “Doctrinal Preamble” を出しましたが,フェレイ司教 “Bishop Fellay” は聖ピオ十世会 “the SSPX” がこれについて明確な説明を求めると明らかにされました.これとほぼ同じ時期に協議に参加した教皇庁の4名の神学者の一人であるモンシニョール・フェルナンド・オカリス “Monsignore Fernando Ocariz” が「第二バチカン公会議への固執について」 “On Adhesion to the Second Vatican Council” と題する小論を発表しました.このタイミングは同モンシニョールの言われることに反して,私たちが依然として困難を脱していないことを示しています.彼の主張は少なくとも論旨が明確ですので,その内容を見てみましょう.

モンシニョール・オカリスは小論の序論でその「司牧的」公会議 “"the pastoral" Council” (訳注・=第二バチカン公会議) は見かけに反して教理に則(のっと)っていると主張しています.彼によれば,司牧的なもの(こと)は教理に基づくものです.司牧的なもの・事柄は魂を救おうとしているのだから教理に関わるものです.同公会議の諸文書は多くの教理を含むものだというのです.結構です! 少なくとも同モンシニョールは公会議の擁護者(ようごしゃ)の多くと違い,公会議が教理に反するものだと装(よそお)うことで公会議に向けられた教理上の数々の非難をはぐらかそうとはしていません.

ついで,彼はカトリック教会の教導権 “Magisterium” 全般について,第二バチカン公会議を構成するのは「真実のカリスマ,キリストの権威,聖霊の光」(原文・ “the charism of truth, the authority of Christ and the light of the Holy Spirit” )をそなえたカトリックの司教たちだと述べています.彼はこれを否定するのは教会の本質的なものを否定するのに等しいと言います.だが,それではモンシニョールにお尋(たず)ねします.教皇リベリウス(西暦352-355年) “Pope Liberius” の下でアリウス主義の異端 “the Arian heresy” に同調した大多数のカトリック司教たちのことはどう説明されるのでしょうか? 例外的に,カトリック司教たちですらそのほぼ全員が教理を見失ってしまうことがあります.ひとたび起きたことは再び起きえます.それが第二バチカン公会議で起きたことはその諸文書が示しています.

モンシニョール・オカリスはさらに議論を進め,同公会議の教えは教義に反し,定義が不明確に見えても,カトリック信徒はこれに「意思と知性の宗教的服従」( “religious submission of will and intellect” )すなわち「教導権に与えられた神の助力に対する信頼に根ざした忠実な行為」( “an act of obedience well-rooted in confidence in the divine assistance given to the Magisterium” )である賛同を示すことが求められると主張しています.だがモンシニョール,アリウス主義の司教たちと同じように第二バチカン公会議派司教たちに対しても神は間違いなく彼らが必要とするあらゆる助力をお与えになられたのですが,それを拒んだのは彼ら自身です.このことは神の伝統から逸脱(いつだつ)した公会議の諸文書が明示しています.

最後にモンシニョール・オカリスは,カトリックの教導権は継続しており,第二バチカン公会議が教導権を継承しているのだから,その教えは過去のものと繋(つな)がっていると論じることで問題をはぐらかしています.そして,もし同公会議の教えが過去のものから断絶しているように見えるとしても,カトリック的になすべきことは,そのような断絶がないようにその教えを解釈することだとしています.これは例えば教皇ベネディクト16世の言われる「継続性の解釈学(継続という〈聖書原典解釈学的〉解釈)」 “hermeneutic of continuity” と同じです.だがモンシニョール,これら諸々の議論の方向を変えることは可能です.事実,同公会議の諸文書そのものを調べれば明らかなように,教理上の断絶は確かに存在します.(例えば,過(あやま)ちの広がりを阻(はば)まれない(訳注・=過ちの拡散が回避できない)人権が,そこにあるのでしょうか(第二バチカン公会議主義の場合はある),それともそこにないのでしょうか(伝統主義の場合はない)? (訳注・それらの諸文書の中身を調べてみればこれらの答えは一目瞭然〈いちもくりょうぜん〉です.)(原文・ “In fact there is a doctrinal break, as is clear from examining the Conciliar documents themselves. (For instance, is there (Vatican II), or is there not (Tradition), a human right not to be prevented from spreading error ?)” )したがって,第二バチカン公会議はカトリック教会の真の教導権を持っていないのです.カトリック的になすべきことはルフェーブル大司教“Archbishop Lefebvre” がなされたように,伝統の断絶が確かにあることを示すことであって,そのようなことがないと装(よそお)うことではありません.

モンシニョール・オカリスは小論の最後の言葉として教導権のみが教導権を解し得ると主張しています.これでは議論が振り出しに戻ってしまいます.

親愛なる読者の皆さま.ローマ教皇庁は決して難局を脱していません.天よ私たちをお救いください.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *