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2010年8月15日日曜日

荒地の救済方法 その2

エレイソン・コメンツ 第161回 (2010年8月14日)

なぜ現代における『大学』はみな揃って紛れもない「民主主義」のごみ箱かくず入れと化しているのでしょうか? その理由は,「民主主義」では誰でもみな平等でなければならず,誰かが他よりも優位に立ってはならないからです.だが,学位を持つ者は持たない者より優位に立つことになります.それで誰もが学位を持つ必要が出てきます.だが,すべての男の子が学位を取得できるほど頭脳明晰で勉強好きというわけではありません.したがって,『大学』はレベルを下げ,すべての男の子が最終的に『学位』を取得できるよう『学位』の対象をあらゆる種類のばかげた科目にまで広げなければならなくなるでしょう.なかにはほとんど証書の紙代にも値しない学位も出てくるでしょう.今日の『大学』システムは「まったくいんちきな偽物である」と,内部事情を知るアメリカ人の大学教授の友人は言っています.

この現代の愚行の根底にあるものは何でしょうか? 重ねて繰り返しますが,そこにあるのは神の存在を認めないということ,すなわち無神論です.人はすべて永遠に神の御前では平等で,死後に立つ神の審判の御座の前でも全く平等なのですが,大事なのはそのことだけで他はどうでもいいことです.然るに,人間社会では人はすべて短い一生の間,人の前では,あらゆる点において不平等なのです.何故かといえば,神は賜物を極めて不平等に人に分配することで,すべてが相互に依存し合い,互いに気を配り合わなければならないように仕向けているからです.そういうわけで,単なる人間社会の『学位』が人を他人より優位に見せかけるのは,神の御前ではなく,神を無視する愚かな人間の前だけでのことにすぎないのです.したがって,神を考慮に入れる両親であれば,『民主主義』,『平等』,『大学』,『学位』などに関心を払うことはないでしょう.

彼ら親たちにとっての第一の関心事は,周囲の至る所で荒廃している非現実的な世界にほとんど注意を払うことなく,自分たちの男の子が,現実に存在する真の神の真の天国にたどり着けるように現実の世界で育てることです.ここで親御さん達に最初の質問です.神は私たちのこの男の子に,他の息子たちとさえ全く異なるような,どんな天資をお与えになったのでしょうか?その息子はどんなことをしたがる傾向があるでしょうか? 神がその子にお与えになっている天資は,彼に対する神の御心を指し示しているのです.明らかに,多くの男の子たちは勉強よりも実務をこなす天資に恵まれています.それに,かつてG・K・チェスタートン “Chesterton” は興味深いことに,たとえば木材であれ金属であれ素材を扱う分野で専門的技能を身につけようと努力することは,現実世界における一定の見習い期間になると言いました.それならば,なんとしてでも男の子を技術専門学校(テクニカル・カレッジ)に通わせ,たとえば腕の良い大工,配管工,電気技師,機械工,整備士などになれるよう本物の技術を習得させましょう.あるいは,男の子に農場経営をする叔父(または伯父)がいるでしょうか? それなら,その子をそこへ送りなさい.動物を扱うことは現実世界で大事な学校へ通うのと等しいことです!

その現実世界を学ぶためは,男の子に『学位』を遠ざけさせましょう.今日の雇用者たちは依然として『学位』を求めるかもしれませんが,明日の雇用者たちはまもなく「あなたは,3年間の学生生活を,ただ酒を飲み,フリスビーを飛ばし,女の子たちと遊び回って無駄に過ごすだけのためにご両親のお金を浪費し,あるいはご両親の借金を大きく増やしたのでなはないですか? あなたには興味がわきません!」と言うでしょう.逆に,もし男の子が実用的な技術に加えて,家庭の中で地道に暮らしかつ勤勉に働くという習慣を身につけておけば,彼は地道な暮らし以上の生活ができるようになるでしょう.彼が提供する役務は非現実的な価値の崩壊で破綻して行く世界において引く手あまたとなるでしょう.

女の子に関しては,いつの世でも変わらない,家庭内のもろもろの実務,たとえば,裁縫,料理,缶詰保存作業,音楽,いろいろな芸術,手短にいえば家庭生活に楽しみや喜びを添えるすべての物事ですが,中でもとりわけ料理を身につけさせましょう.たとえ世の中が荒廃し,何でも好き勝手になるように変わるとしても,男性の心に通じる道は胃袋から,という現実に変わりはないでしょう.これは男性が話していることです!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年8月10日火曜日

荒地の救済方法 その1

エレイソン・コメンツ 第160回 (2010年8月7日)

「わかりました,司教閣下」親たちが言っているのが私に聞こえます.「要するに『大学』はみな荒廃しているわけですね.でも司教閣下がそうおっしゃるなら,そこら中の学校はみな荒廃しているとお認めにならなければなりません.それでは私たちは子供たちをどうすればよいのでしょうか? 神の法(掟)はそれに背く避妊方法を禁じています.それで子供たちは生まれてくるわけです.ではどうすればよいのでしょうか? 」

かつてないほどに悪くなっている世の中では,天国に入りたいと望む霊魂は,これまでにないほどに勇敢にならなければならないでしょうが,与えられる報いはその努力に応じて,かつてないほどに大きなものになる,というのが私の即答です.

教皇ピオ十二世は在位当時の世界がソドマとゴモラ(訳注後記その1)の時代よりも悪い状態だったと仰せられましたが,その彼は1958年に亡くなられています! 教皇が生きておられたら,今日の世界のことを何と仰る(おっしゃる)でしょうか? 同じ問題に直面して,彼の後を継いだ歴代の教皇たちは,第二バチカン公会議で「(カトリック教会が目指すべき)ゴールポストの位置を変えてしまった」のです.そうすることで,悪くなった世の中を糾弾(きゅうだん)し続ける,糾弾し続ける,糾弾し続けることなしに済ませるためです.だが、それは安易な抜け道を通ってお茶を濁(にご)したに過ぎなかったのです.非常ベルを止めるのは,火を消し止めるのと同じではありません.カトリック教会と世界は陽気に燃え盛っています.このようなとき,両親がまず第一にしなければならないことは問題に向き合うことです.その問題とは,子供たちの霊魂の永遠の救済を脅(おびや)かす過度の危険が迫(せま)っているという現実です.

ひとたびその危険が何なのか把握(はあく)してしまえば,親たちは,公会議主義体制の陰険なやり方やその種の他のいかなるやり方も採(と)ってはいけないこと,ただ勇敢で英雄的な王道のみを採るべきことを,自身のカトリック信仰によって教えられるでしょう.「私たちは羽毛ベッドに横たわって天国に入ることはできません」と聖トマス・モアは言いました.私たちの主は,「誰でも私の弟子となろうと思う者は、進んで自分の十字架を負い,その上で私に従いなさい」(新約聖書・マテオによる福音書:第16章24節より)と,また「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マテオ聖福音:第24章13節)と仰せられました.親たちは,子供たちの霊魂を救うためには自らが英雄になる必要があると決意しなければなりせん.そうすれば,その決意通りに英雄となれるでしょう.この点について,「志(こころざし)あるところに道あり(精神一到何事かならざらん)」のことわざ通り,ひとたび親の愛情が志を持ちさえすれば,家庭の内外いずれにおいても,自(おの)ずから最良の道を見出(みいだ)せるでしょう.

家庭外でのことについては,来週の「エレイソン・コメンツ」で『大学』進学の以外の選択肢について述べるつもりです.家庭内のことについては,まともなカトリック司祭なら誰でも次のように指導するでしょう.すなわち,まず家庭で家族全員が揃(そろ)ってロザリオの祈りを唱える習慣を堅実に確立することから始めること,また悪魔と世俗の快楽の世界の神殿であるテレビを家庭から追放したうえで,さらにロザリオの祈りを家族で唱え続けることです.小さいうちから子供たちの心と精神とを,家庭の中での生きた交流とあらゆる物事についての陽の下での生き生きとした会話で満たすべきです.なぜなら,子供たちが『大学』に行く年頃になるまでには,ふつうは善かれ悪しかれ,賽(さい→「さいころ」のこと)は投げられてしまっているからです.もしある男の子が,真に生き生きした家庭で,祈りによって心が天国に向かうように育てられていれば,最悪の『大学』へ進学しても,あまり害を受けることはないでしょう.これに反して,もし彼がテレビばかり見てばかな若者に育ち上がってしまった場合は,最良の大学へ通わせても天国に向わせるにはあまり役立たないでしょう.

EC158(エレイソン・コメンツ第158回)で私は,両親は男の子を大学へ進学させる費用を決して出してはならないとは述べていない点にご留意下さい.学費を支払う前に熟考するように,と述べたのです.両親が自分たちの男の子がまだ小さいうちによく考えておけば,あまりにも手遅れにならないうちに,自らの信仰によって家庭内での生活をいかに変えるべきかを学ぶに違いありません.聖パウロがイザヤの書(第64章4節)(訳注・バルバロ神父訳(日本語)の聖書では第64章3節)を引用して述べているように(コリント人への第一の手紙・第2章9節)(訳注後記その2),天国はあらゆる努力を払ってでも入る価値が無限にあり,人間のいかなる想像をもはるかに凌駕(りょうが)するものなのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教



* * *

(第3パラグラフの訳注その1)

ソドマとゴモラ
ソドマとゴモラは悪行を極めた罪深い町々の名.人々の重い罪は神の怒りを買い,これらの町は天からの硫黄と火の雨で焼き滅ぼし尽された.
「創世の書」(旧約聖書)の第18章-19章29節を参照.

以下は,聖書の引用箇所からの簡単なあらすじと注釈(バルバロ神父訳聖書より).

ソドマは,アブラハムの甥ロトとその家族がその近くに幕屋を張って住みついた町である.

①『…現に,私(神)が彼(アブラハム)を選んだのは,主が約束されたことを,アブラハムを通じて実現するためであり,また彼が自分の子らとその家族に主の道を行わせ,正義と法を守らせるためである.』(旧約聖書・創世の書:第18章19節)
(18章17-19節の注釈)
神がアブラハムに,ソドマの全滅を前もって知らせるその理由である.アブラハムは子孫に,「主の道を守る」ことを教え,子孫は「堕落した町の全滅」を永久の教訓としてとらなければならない.神は天使の姿をとっていて,その話し方も人間の話し方である.

②ある日,神の天使がアブラハムのもとに遣わされた.
『…主は仰せられた,〈ソドマとゴモラに対する叫びはあまりにはげしく,その罪はあまりに重い.私にまでとどいた叫びの,そういう悪をみな,ほんとうに彼らがやったかどうか,私は見たいから,下ってみよう.…〉』(18章20節)
(18章20節の注釈)
ソドマとゴモラの罪は,自然にもとる罪で,神の罰を呼んだ.自然の法則によって表現される神のおきてにそむくことは,人間自身の損害としてはね返ってくる.

③(19章1-29節の「ソドマの滅び」の注釈)
前章で準備された神の計画がここで満たされた.この話の倫理的なねらいは,西洋で「ソドミア」といわれる男色(男性間の同性愛)を打つところにある.のちにヘブライ人の法律(レビの書)では男色者を死刑にすることとなったが,このころ近東では男色の罪が広まっていた.ハムラビ法典では,男色の罪を大してとがめていないどころか,氏子の男色を認めてさえいた.イスラエルでも,こういう悪はかなり広まっていた.

④『…二人(天使)がまだ床につかぬうちに,町の人々つまりソドマの人たちは,若い者も,年寄りも,一人残らずその家にむらがり,ロトを呼び出してわめいた,「今夜,おまえの家に入ったあの男たちはどこにいるのか.あいつらを出せ.あいつらを,おれたちにまかせろ」.』
『…「そこをどけ.こいつは他国人のくせに,裁判官のまねをしている.おまえは,あの男らよりも,もっとひどい目にあうぞ」とどなって,ロトにはげしく襲いかかり,扉を打ち破って入ろうとした.』(19章4-5,9節)
(19章4-9節の注釈)
19章4-5節は集合男色の著しい例であり,9節のソドマ人のロト(アブラハムの甥)への返事は,彼らの男色への好みがどれほどであったかをよく証明している.

⑤『われわれ(神の天使)は,この町(ソドマ)を滅ぼそうとして来たのだ.この町の人々に対する叫びの声が,主のみ前にあまりに大きくなったので,主はこの町を滅ぼすために,われわれをおつかわしになったのだ.』(19章13節)
(2人の男の姿をとった神の天使はこのように言い,光を投げてソドマの住人の目をくらまし,正しく生きていたロトとその家族を離れた町へ逃した.その後で,神はソドマとゴモラの町に天から硫黄と火の雨を降らせて滅ぼし尽くした.)
(19章23-25節の注釈)
天からの火と硫黄とは,大地震のことだと思ってよい.神は罪深い町を滅ぼすために,地震という方法を用いた.大地は震え,アスファルトは燃えだし,あふれて雨のように降り,谷間は地の底となった.地質学的に見ても,死海の南の地帯は時代として若く,現代もなお不安定である.


* * *

(最後のパラグラフの訳注その2)

新約聖書・(聖パウロによる)コリント人への第一の手紙:第2章9節

「書き記されているとおり,「目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心にまだ思い浮かばず,神がご自分を愛する人々のために準備された」ことを私たちは告げるのである.…」


旧約聖書・イザヤの書:第64章3節(1-2節から4節まで記載)

「(水が,火でつきはてるように,火は敵を滅ぼし尽くすがよい.そして,敵の間にみ名は知られ,もろもろの民はみ前でおののくのだ.私たちの思いもよらぬ恐ろしいことを主は果たされた.)そのことについては,昔から話を聞いたこともない.あなた以外の神が,自分によりたのむ者のために,これほどのことをされたと,耳に聞いたこともなく,目で見たこともない.(主は正義を行い,道を思い出す人々を迎えられる.)」

2010年7月25日日曜日

「大学」の荒廃

エレイソン・コメンツ 第158回 (2010年7月24日)

数年前に私が,女の子は大学に行くべきではないと書いたところ,多くの読者がショックを受けました.だが,ある英国の『大学』(真の意味での大学とは全く同じではありません!)で最近6年間にわたり英文学を教えていた若い教授の話を聴いてみると,私は男の子も大学に行ってはならないと付け加えなければならないようです.彼らは大学に行くかどうか決める前に少なくともよくよく考えるべきです.また彼らの両親も高額な学費を支払う前に熟考を重ねるべきです.教授がどのような問題を観察し,何をその原因と見なし,どのような救済策を考えているかを,順を追ってご紹介したいと思います.

その教授が教えていた『大学』では,彼は真理の追求についても真理を追究するための教育についても観察することがなかったそうです.「言語は現実と無関係なゲームであり,独自の人工物を生み出している」と,教授は言っています.学生はあらゆるものが相対的だと感じるように仕向けられています.そこには一定の基準や価値観は一切なく,道徳的枠組みも道徳に関する言及も一切ありません.理科系の学問は,宗教に通じる『科学』に反対する進化論によって汚染されています.『文科系』は,あらゆるものの中心に性( “s-x” )というものをおいて解釈するフロイト(訳注・「ジーグムント・フロイト」“Sigmund Freud (1856-1939) ” 精神分析学者.オーストリア出身のユダヤ教徒.)理論によって堕落しています.大学教授たちは学生らに対し「彼らのためになる」から s-x life を持つよう話します.こういった『諸大学』では,自分たちの night life (夜の快楽的生活)につき,学生たちに対して同様の過ごし方をするよう公然と宣伝し,自然に逆らう罪を犯すことを大いに賞賛しています.彼らは完全にs-x の虜(とりこ)となっています.( “s-x” …訳注後記.)

教授は続けて言います.「教授陣について言えば,多くが根深い問題の存在を認めていますが,そのままゲームを続けているのです.彼らはマルクス主義者でないにしても,みなマルクス主義化しています.彼らはあたかもあらゆる権威が息苦しいものであって,すべての伝統が抑圧的であるかのように学生たちを指導します.すなわち進化論が全てを支配しているのです.学生たちについて言えば,何かを切望したいと考えている者は一人以上いますが,彼らは真理を見出すのにもはや『大学』を当てにはしていません.もし彼らが『学位』が欲しいとすれば,それは職を得るだけのためであり,もし彼らが優れた『学位』が欲しいとすれば,それはもっと給料の高い職に就くためなのです.彼らはいろいろな考えを話し合うことはめったにありません.」

それでは,大学が現代の確立されたシステムに仕えるだけの単なる功利主義的情報処理機関に変貌(へんぼう)してしまった原因は何なのでしょうか? 教授は次のように述べています.「基本的な原因は神の喪失にあります.これは御言葉の御托身(訳注後記)をめぐっての幾世紀にも及ぶ戦いの結果としてもたらされたものです.この結果,教育はもはや人が生きてゆくのに必要な真実や道徳を与えることを意味するものではなくなり,むしろ自分が他人とは異なり,より優れていると感じるよう個々人の潜在的可能性を発展させることを意味するものとなったのです.真理の追放によって生じた真空状態の中に入ってくるのは,全ての権威からの解放を引き連れたポップカルチャー(=大衆文化)とフランクフルト・スクール(=学派)です.神を追放した後に残された真空状態の中に入ってくるのは,『諸大学』をテクノクラートや技術者の供給源と考える国家です.絶対的なものに対する関心は一切失われています.唯一つ例外がありますが,それは絶対的な無神論です.」

この状態の救済策として,教授は次のように語っています.「現代の『諸大学』が陥ってしまった落とし穴から抜け出ることはほとんど不可能でしょう.男の子が本当に役立つことを学ぶには,家で休んだり(訳注・これはすなわち不品行〔不信心〕な者たちの悪行に巻き込まれるのを避けるため〔休日や休暇を家で過ごせるよう〕家〔下宿ではなく親の家〕から通える大学に入学する=寄宿舎〔学生寮〕に入らない,という意味合いを含んでいる.),教会の司祭たちと話したり,カトリックの黙想会(=静修会)に参加したりする方がよりよいでしょう.信心深いカトリック信徒たちは自分たちのために様々な事柄に着手し,団結して自らの施設を再建すべきです.たとえばサマースクール(夏期学校)から始めるのもよいでしょう.人文科学は健全な状態に回復されなければなりません.なぜなら,それは人間の存在の基礎,すなわち何が正しく善良で真実であるかを扱う学科だからです.自然科学は,特定の科目についてもそこから派生する科目についても,二次的なものにとどまるべきです.自然科学を人文科学に優先させることはできません.両親が男の子をこれらの『諸大学』に送る場合は,彼らが職を得るためで,人生に本当に役立つ事柄を学ぶためではないことを承知してかかるべきです.

「神の喪失」 - 結局はそれがすべての原因なのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教



* * *


〔第2パラグラフの( “s-x” )の訳注〕
新約聖書・(使徒聖パウロによる)ローマ人への手紙:第1章26-27節に「恥ずべき欲」とある,いわゆる「自然に逆らう罪」“the sin against nature” に当てはまる類(たぐい)の行為のことを指すと思われる.
参照として,ローマ人への手紙:第1章16節-第2章16節を以下に引用.

ローマ人への手紙:第1章16-32節
使徒として召され,天主(=神)の福音のために選び分けられた,イエズス・キリストの奴隷パウロ,・・・福音は天主があらかじめ聖書の中でその預言者たちによって約束されたものであって,そのみ子に関するものである.み子は,肉としては(=人間として)ダヴィドの子孫から生まれ,聖い霊としては,死者からの*¹復活によって,力強く,天主のみ子とさだめられたもの,すなわち,私たちの主イエズス・キリストである.私たちは,かれによって,そのみ名の光栄のために,すべての異邦人に信仰への従順をつげるために,恩寵と使徒職(=使徒としての使命)とを受けた.その中にイエズス・キリストに召されたあなたたちもいる・・・天主に愛され,聖徳に召された(=召し出しとして聖なるもの),ローマにいるすべての人に手紙をおくる.私たちの父なる天主と主イエズス・キリストからの恩寵と平安が、あなたたちの上にあるように.

・・・私は,福音を恥としない.福音は,すべての信仰者,まずユダヤ人,そしてギリシア人を救う天主の力だからである.天主の正義は,福音のうちにあらわされ,信仰から信仰へとすすむ.「義人は信仰によって生きる」と書きしるされているとおりである.

実に天主の怒りは,不正によって真理をさまたげる人々のすべての不敬と不正にたいして,天からあらわされる.天主について知りうることは,かれらにとっても明白だからである,天主がそれをかれらにあらわされたからである
天主の不可見性,すなわちその永遠の力と天主性とは,世の創造のとき以来,そのみわざについて考える人にとって,見えるものだからである.したがってかれらは言い逃れができない.かれらは天主を知りながらこれを天主として崇めず,感謝しなかったからである.かれらは愚かな思いにふけり,その無知の心はくらんだ.かれらは,みずから知者と称えておろかな者となり,不朽の天主の光栄を,朽ちる人間,鳥,獣,はうものに似た形にかえた.

そこで天主は,かれらの心の欲にまかせ,たがいにその身をはずかしめる淫乱にわたされた.かれらは,天主の真理を偽りに変え,創造主の代りに被造物を拝み,それを尊んだ.天主は世々に賛美されますように.アメン.
ここにおいて天主は,かれらを恥ずべき欲に打ちまかせられた,すなわち,女は自然の関係を,自然にもとった関係に変え,男もまた,女との自然の関係をすてて,たがいに情欲をもやし,男は男とけがらわしいことをおこなって,その迷いに値する報いを身に受けた.
またかれらは,深く天主を知ろうとしなかったので,天主は,かれらのよこしまな心のままに,不当なことをおこなうにまかせられた.かれらは,すべての不正,罪悪,私通,むさぼり,悪意にみちるもの,憎み,殺害,あらそい,狡猾(こうかつ),悪念にみちるもの,そしる者,悪口する者,天主に憎まれる者,暴力をもちいる者,高ぶる者,自慢する者,悪事に巧みな者,親にさからう者,愚かな者,不誠実な者,情のないもの,あわれみのないものである.これらをおこなう者は死に当るという天主の定めを知りながら,かれらはそれをおこなうばかりでなく,それをおこなう人々に賛成するのである

(注釈)
*¹復活はキリストが神であることの証明である.

*²異邦人はユダヤ人の受けた天の示しを受けなくても,天主の真理を教えられたが,それを実行しようとしなかったから,天主の怒りを買った.

第2章1-16節
*³したがって,他人を是非する者よ,何ものであるにせよ,あなたには弁解する余地がない.他人を是非することによって,あなたは自分をさばいている.他人をさばくあなた自身が,同じことをおこなっているからである.こういうことをおこなう人に対する天主の裁きが,真理にあうものであることを,私たちは知っている.それをおこなう人をさばいて,自分も同じことをおこなっている者よ,あなたは天主の裁きをのがれられると思うのか.あるいは,天主の仁慈があなたをくいあらために導くことを知らないで,その仁慈と忍耐と寛容との富を無視するのか.こうすれば,あなたはかたくなさとくいあらためない心とによって,天主の正しい裁きがあらわれる怒りの日に,自分のために怒りを積み重ねるであろう.天主はおのおのの業にしたがって報い,根気よく善業をおこなって,光栄と名誉と不滅とを求める人々には,永遠の生命をお報いになる.真理にしたがわず不義にしたがう反逆者のためには,怒りといきどおりとを返される.悪をおこなって生きる者にはすべて,まずユダヤ人に,そしてギリシア人にも,患難と苦悶があり,善をおこなう者にはすべて,まずユダヤ人に,そしてギリシア人にも,光栄と名誉と平和とがある.天主は人を区別されないからである.
*⁴律法なしに罪を犯した者は,律法なしに亡(ほろ)び,律法の下に罪を犯した者は,律法によって裁かれる.天主のみまえに義とされるのは,律法を聞く人ではなく,律法をまもった人が義とされる.*⁵律法のない異邦人が,自然に律法の掟を実行するなら,律法がなくても自分自身に律法となる.かれら自身,自分の心にきざまれているこの*⁶法の存在を示している.それを証明するのは,かれらの良心である.またかれら同士が相手に対してもつ非難や賞賛の内部的な判断もそれを証明する.*⁷私が福音にいうように,天主がイエズス・キリストによって人間の秘事を裁かれるとき,それがあらわれるであろう.

(注釈)
*³以下は,直接ユダヤ人に向けることば.ユダヤ人は特権があっても,異邦人をさばく権利がない.律法が禁ずる行いをユダヤ人自身が行っているからである.

*⁴律法と自然法に反するユダヤ人と異邦人は,それぞれのおきてによってさばかれる.

*⁵天主は彼らの心に自然法をきざんだからである.

*⁶「法」とは自然法のこと.

*⁷使徒パウロが異邦人に伝える福音.


* * *


(第4パラグラフの「御言葉の御托身」“Incarnation” の訳注)

「御言葉」=イエズス・キリストを指す.「御托身」=「受肉」ともいう.
「托身」(たくしん)“Incarnation”…三位一体の神の第二の位格たるロゴス(=言葉)が人間の肉体をまとわれた,すなわち,キリストにおいて神が顕現されたということを意味する.

→「御言葉は肉体となって,私たち(=人間)のうちに住まわれた」…新約聖書・ヨハネ福音:第1章14節.
〈注釈〉…人に対する神の「無限の愛の奥義」である.御言葉は神性を保ちながら,人性をとられた.)

「ロゴス」の意味:=ここでは「(神の)御言葉」.神の御子キリストを指す.〈「御言葉は神であった.」…新約聖書・ヨハネ福音:第1章1節.〉)

2010年5月31日月曜日

苦闘する男の子たち

エレイソン・コメンツ 第150回 (2010年5月29日)

エレイソン・コメンツ(以下「EC」)第146回では,教師をする修道女たちが今日の女生徒たちを指導する際に経験する難しさについて述べました.EC第147回では、問題の根源を家庭生活に立ち戻って考えました.では,男の子たちの教育はどうすべきか?とお尋(たず)ねになる方もおられるでしょう.カトリック教では,男の子も女の子も,来世で生きるため霊魂の救済が必要である点においては同等と理解していますから,どちらも同様に,何よりもまず天国に入れるよう準備を整えさせる必要があります.だが,男女が平等なのはそこまでです.神は男性と女性が現世において全く異なる役割を果たすよう任命しているのです.その理由で,カトリック教会は今日まで常に男女共学に異を唱えてきたのです.では,男の子たちに具体的に必要とされるのはいったいどんな教育なのでしょうか?

女性が家庭や子供の世話をする心という天賦の才を与えられているように,男性もまた家族を導く理性という天質を与えられ,(訳注・始めの人アダムとエバが)原罪を犯して以来このかた,「額(ひたい)に汗を流して」(旧約聖書・創世の書:第3章19節)労働することによって家族を養わなければなりません.それゆえ,女の子の躾(しつ)けは将来家庭の中で夫と子供に仕えるための準備を軸として成される必要がある一方で,男の子の躾けは家庭外での(1)労働(2)責任を持つことに備えたものでなければなりません.ここで言う家庭外とは,大きな悪い世間のことです.男の子がそこで必要とするのは(3)判断力(4)自制心(5)男らしさです.ここまで述べれば,男の子の躾け計画はほぼ揃い(そろい)ます!

この計画では,父親が男の子に示す手本が極めて重要です!今,現に両親となっている方たちに問います.あなたたちは恐らく20年から30年前,つまり革命的な1960年代以降に躾けを受けたはずです.皆さんはそれが何を意味するかお気づきでしょうか?自分自身が育った時のことを謙虚にふりかえって自覚してください.学校にせよ家庭にせよ,あなたたちが受けた躾けは子供たちを天国に行けるような生きかたをするよう育てるには多分に不向きだったはずです.父たちよ,あなたたち自身の怠惰,無責任,愚かさ,身勝手さ,男らしくない軟弱さの矯正に取り掛かりなさい.それが,あなたたちが息子たちのために出来る最良のことです!

屋外の自然の中での労働が最も男の子の訓練に有益です.男の子には斧を振らせ,木を切り落とさせ,植物を庭に植えさせ,馬に乗らせ,小屋を建てさせなさい.スポーツはよくてもせいぜい男らしい娯楽に過ぎず,その域を超えるものではありません.家族のために本当に必要なことが責任を教えます.責任はまた,男の子が犯した過(あやま)ちを庇う(かばう)より,その結果を悩むように仕向けることによっても教えられます.判断力については,家庭での話し合いや,男の子が自然と英雄視し従う父親の同伴と指導により,自分の心を使って考えるように仕向けることで身につけさせることができるでしょう.このとき,父親は時間をかけて男の子の話を聴き,助言を与えてやらなければいけません.男の子の思春期には特にそうする必要があります.自制心は,朝早く起き,決められた日課を果たし,夜は早寝をして,結婚したいと思う相手と出会うまでは,多かれ少なかれ,女の子とデートをしないことで,身につけることができるでしょう.結婚するつもりのない女の子に気をむけることが少なければ少ないほど,結婚するつもりの女の子ひとりだけにその分多くを与えるようになるでしょう.男らしさは,この計画を最後まで徹底的にやり通した見返りとして男の子の身につくでしょう.

最後に,両親たちよ,電子機器が概して(がいして),いかに男の子を(1)怠惰にし,(2)無責任にし,(3)愚かにし,(4)軟弱にし,(5)駄目(だめ)にさせるかに気づきなさい.

家庭から電子の魔力を取り除け,
もし息子たちを地獄に落としたくなかったら!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教