ラベル 真に強い男性・女性とは の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 真に強い男性・女性とは の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年1月9日土曜日

443 工場生活 1/9

エレイソン・コメンツ 第443回 (2016年1月9日)

(解説付き)

今日,人々は職場で独り苦しんで居るのでしょうか?
(こんにち,ひとびと は しょくば で ひとり くるしんで いる ので しょうか?)
Today's work-places crucify a man ?

何処でも出来る処で
a finger-rosary(仮訳:ロザリオ数珠)で
(神の御母〈聖母〉マリアへの)
ロザリオ祈祷を捧げなさい.(訳注1・1)
(どこ でも できる ところ で
a finger-rosary(ふぃんがー・ろざりー)〈かりやく:ろざりお じゅず〉で
〈かみ の おん はは《せいぼ》まりあ への〉
ろざりお きとう を ささげ なさい.)
(訳注1・2 )
With a finger-rosary pray wherever you can.

先週に続き,エレイソン・コメンツの読者から寄せられた素晴らしい手紙をご紹介します(せんしゅう に つづき,えれいそん・こめんつ の いち どくしゃ から よせられた すばらしい てがみ を ご しょうかい します).彼(読者)は正気とは思えない状況に就いて良識有る見方を為て居ます(かれ〈どくしゃ〉は しょうき とは おもえない じょうきょう に ついて りょうしき ある みかた を して います).読者の皆さんは彼の言う事にがっかり為るか,其れとも励まされるかも知れません(どくしゃ の みなさん は かれ の いうこと に がっかり する か,それとも はげまされる かも しれません).多くの読者は自分達が職場で日々直面して居る事を認識為べきです(おおく の どくしゃ は じぶん たち が しょくば で ひび ちょくめん して いる こと を にんしき すべき です).そうすれば,職場でカトリック教の信仰が何故,何の様に蝕まれて居るかが,もっとはっきり分かるかも知れません(そうすれば,しょくば で かとりっく きょう の しんこう が なぜ,どのように むしばまれて いるか が,もっと はっきり わかる かも しれません).以下は彼の手紙の内容です(いか は かれ の てがみ の ないよう です):-
Here is another good letter from a reader of these “Comments”. He takes a sane view of an insane scene. Readers may be discouraged by what he describes, or they may be encouraged by how he describes it. A number of readers must recognize what they are up against every day when they go to work, and they may see better here than they yet see why and how their place of work is eroding their Catholic faith. He writes: –

私は自動車製造工場で此れ迄二年余り働いてき来ました(わたくし は じどうしゃ せいぞう こうじょう で これまで にねん あまり はたらいて きました).給料は十分ですが,私の職場環境は世界全体の一種の縮図の様な物です(きゅうりょう は じゅうぶん ですが,わたくし の しょくば かんきょう は せかい ぜんたい の いっしゅ の しゅくず の ような もの です).其れが何の様な物か以下に説明します…(それ が どの よう な ものか いか に せつめい します…). 
I have worked in a factory building cars for over two years now and while it does pay well the environment is a sort of microcosm of the world at large. Let me explain...

1)両性の混同(りょうせい の こんどう) - 男性と女性は互いに身近な状態で共同作業をします(だんせい と じょせい は たがい に みぢか な じょうたい で きょうどう さぎょう を します).此の様な仕事環境は女性の女性らしさを完全に壊して終います(このような しごと かんきょう は じょせい の じょせい らしさ を かんぜん に こわして しまいます).勿論,女性の出来ない仕事も有りますが(もちろん,じょせい の できない しごと も ありますが),両性の平等と言う間違った考え方の為に(りょうせい の びょうどう と いう まちがった かんがえ かた の ため に),会社は女性が其処で働く事を認める必要が有ります(かいしゃ は じょせい が そこ で はたらく こと を みとめる ひつよう が あります).だが,十戒第六戒,第九戒(訳注4・1 )(訳注4・2)の違反に就いて私が聞いた話は実に憂慮す(為)べき(冪)物です(だが,じっかい〈じゅっかい〉だい ろっかい,だい きゅうかい の いはん に ついて わたくし が きいた はなし は じつに ゆうりょ すべき もの です).詳しく述べる必要も無いでしょう.実際に起きて居る事は誰もが予測した事です(くわしく のべる ひつよう も ない でしょう.じっさい に おきて いる こと は だれ も が よそく した こと です).女性は何故其の様な所(処)で働く事を望むのでしょうか?(じょせい は なぜ そのような ところ で はたらく こと を のぞむ ので しょうか?)
1) Mixing up of the sexes - men and women work together in close proximity. Such work completely destroys a woman's femininity. Of course, there are certain jobs which women cannot do, but because of this false sense of equality, the company needs to allow women to work there. The stories that I have heard about the transgressions against the 6th and 9th commandments are truly disturbing. I need not elaborate. But what else did anybody expect ? Why would a woman even want to work in such a place?

2)男性の心は道徳的判断ができなくなっている(だんせい の こころ は どうとく てきはんだん が できなく なって いる) - 勿論,私は一般論と為て話して居ます(もちろん,わたくし は いっぱん ろん として はなして います).だが,私が話した殆(ん)どの男性は倫理観(即ち善と悪)では無く(だが,わたくし が はなした ほとんど の だんせいは りんり かん〈すなわち ぜん と あく〉ではなく),如何為たら楽しく過ごせるかを基準に考えて居ます(どうしたら たのしく すごせるか を きじゅん に かんがえて います).私は何人かの同僚と話し(わたくし は なんにん か の どうりょう と はなし),彼等が分かる様な方法で道徳の問題を提起為ようと為ましたが(かれら が わかる よう な ほうほう で どうとく の もんだい を ていき しよう と しました が),彼等に取って,其れは右の耳柄左の耳へ抜けて終った様です(かれら に とって,それ は みぎ の みみ から ひだり の みみ へ ぬけて しまった ようです).男性は肉欲に関(わ)る事に没頭為ると,心に就いて考える事が出来なく為ります(だんせいは にくよく に かかわる こと に ぼっとう すると,こころ に ついて かんがえる ことができなくなります).もっと悪い事に,同僚達は自ら犯した罪を自慢する事を全く恥と考えて居ないのです(もっと わるい こと に,どうりょう たち は みずから おかした つみ を じまん する こと を まったく はじ と かんがえて いない のです).昔は男性達は恥の意識を持って居ました.今や,そんな物は無い様です(むかし は だんせい たち は はじ の いしき を もって いました.いまや,そんな もの は ない よう です)
2) Men's minds are incapable of making moral judgments - I generalize of course, but most of the men I have talked to do not think in terms of morality (i.e. good and evil) but in terms of what pleasures can keep them entertained. I have talked to several co-workers and have tried to bring up questions of morality in a way that they might understand, but it seems to go over their heads. When a man has steeped himself in the things of the flesh, he is incapable of thinking of the soul. Worse, some of these co-workers have absolutely no shame in boasting of their sins. Once upon a time men had shame. No longer, it would seem.

3)私は私自身の神である(わたくし は わたくし じしん の かみ で ある) - 誤った自由が男性の生活指針として称えられています(あやまった じゆう が だんせい の せいかつ ししん と して たたえ られて います).私は同僚の何人かと議論を為ましたが,私が其の都度知らされたのは,真理や倫理は純粋に主観的な事だと言う事です(わたくし は どうりょう の なんにん か と ぎろん を しました が,わたくし が その つど しらされた のは,しんり や りんり は じゅんすい に しゅかん てきな こと だ と いう こと です).自分が真実だと信じる事が素晴らしいので有り,自分の考え方を他人に押し付ける事等出来ないと言うのです(じぶん が しんじつ だ と しんじる こと が すばらしい ので あり,じぶん の かんがえ かた を たにん に おしつける こと など できない というのです).私は上司に,其の様な考え方は馬鹿げて居ると話しました(わたくし は じょうし に,その ような かんがえ かた は ばかげて いる と はなしました).一人以上の妻を持つのは結構な事だと言う者が居たら如何でしょうかと,彼に尋ねました(ひとり いじょう の つま を もつ のは けっこう な こと だ と いう もの が いたら どう でしょうか と,かれ に たずね ました).彼は考え方は人それぞれだと応えました(かれ はかんがえ かた は ひと それぞれ だ と こたえました).真理は主観的な物で無いと言う基本原則を否定する人が居るなら,其の人に話しても無駄でしょう(しんり は しゅかん てき な もの で ない と いう きほん げんそく を ひてい する ひと が いる なら,その ひと に はなしても むだ でしょう).突き詰めると,人はそれぞれ自分以外の何かに従う代わりに自分自身の現実を築きあげるのですから(つきつめる と,ひと は それぞれ じぶん いがい の なにか に したがう かわり に じぶん じしん の げんじつ を きずき あげる の です から),自分が自分自身の神になるということでしょう(じぶん が じぶん じしん の かみ に なる と いう こと で しょう)
3) I am my own god - False liberty is exalted as the guiding principle in men's lives. I have had a few discussions with some of my co-workers and what I get every single time is that truth and morality are purely a subjective affair. What you believe to be truth is fine for you, but you cannot impose your way of thinking on anyone else. I told a supervisor of mine that such thinking is nonsense. I said, what if someone thinks that having more than one wife is fine ? He said, belief is up to the individual. If a man denies such a basic principle as that truth is not subjective, then there is no point in talking to him. In essence, every individual becomes his own god because HE has constructed his own reality instead of submitting to something outside of him.

近代工場の環境は一種の無神状態を作り出します(きんだい こうじょう の かんきょう は いっしゅ の むしん じょうたい を つくり だし ます).私は工場労働者が輝かしい美徳の模範に為る事を期待為て居る訳では有りません(わたくし は こうじょう ろうどう しゃ が かがやかしい びとく の もはん に なる こと を きたい している わけ では ありません).だが,近代工場はチャールズ・ディケンズが彼の時代に就いて書いた事より益々悪く成って居ると言いたく為ります(だが,きんだい こうじょう は ちゃーるず・でぃけんず が かれ の じだい に ついて かいた こと より ますます わるく なって いる と いいたく なります).私の言いたい事は未だ沢山有ります(わたくし の いいたい こと は まだ たくさん あります).だが,要点は次の事です(だが,ようてん は つぎ のこと です).即ち,罪に因って壊われた生活や快楽を貪る生活で神の恩寵が如何働くでしょうか?(すなわち,つみ に よって こわれた せいかつ や かいらく を むさぼる せいかつ で かみ の おんちょう が どう はたらく で しょうか?)道徳の最も基本的な基準さえ分かろうと為ない者と如何心を通わせたら良いのでしょうか?(どうとく の もっとも きほん てき な きじゅん さえ わかろう と しない もの と どう こころ を かよわせ たら いい ので しょうか?) 控え目に言っても、此れは失望的な状況です(ひかえめ に いっても,これ は しつぼう てき な じょうきょう です).溝に嵌(ま)った(填〈ま〉った)私達の為に祈って下さい(みぞ に はまった わたくし たち の ため に いのって ください)
The environment of a modern factory breeds a sort of godlessness. I don't expect factory workers to be examples of stellar virtue but I would say that modern factories are exponentially worse than what Charles Dickens wrote about in his times. I can go on and on, but the point I am trying to make is this: how can grace operate in lives which are destroyed through sin and a life of seeking pleasure ? How does one reach out to men who cannot even grasp the most elementary norms of morality? It is frustrating to say the least. Please pray for us in the trenches.

(手紙の紹介終わり)(てがみ の しょうかい おわり)

女性は女性らしさと家庭から自らを解放する(じょせい は じょせい らしさ と かてい から みずから を かいほう する).男性は客観的な道徳と客観的な真理から自らを解放する(だんせい は きゃっかん てき な どうとく と きゃっかん てき な しんり から みずから を かいほう する).其の様な「信仰心の無い邪悪な世代」(新約聖書・使徒聖ルカによる聖福音書:第九章四十一節)(訳注7・1)に如何遣って手を差し伸べ,話し掛けたら良いのでしょうか?(そのような「しんこう しん の ないじゃあく な せだい」に どうやって て を さしのべ,はなし かけたら いい の で しょうか?)模範,愛徳,祈りに拠る(依る)しか方法は無いでしょう(もはん,あいとく,いのり に よる しか ほうほう は ない でしょう).私は手紙を下さった読者に,ロザリオ(数珠)を職場に持って行き(わたくし は てがみ を くださった どくしゃ に,ろざりお〈じゅず〉を しょくば に もって いき),目立たない様に仕事仲間の為に一連(=天使祝詞 "Ave, Maria" を十回)ずつ祈り(めだたない よう に しごと なかま の ため に いちれん〈=てんし しゅくし "あべまりあ" を じゅっかい〉ずつ いのり),自分の職場環境から自らを霊的(精神的)に守る為祈る様アドバイス為ました(じぶん の しょくば かんきょう から みずから を れいてき〈せいしんてき〉に まもる ため いのる よう あどばいす しました).但し,彼は此れを目立たない様に為る必要が有ります(ただし,かれ は これ を めだたないよう に する ひつよう が あります)
Woman freeing herself from femininity and family, man freeing himself from objective morality and objective truth – how indeed can one reach out to, or even talk with, such a “faithless and perverse generation” (Lk. IX, 41) ? By example, charity and prayer. I advised the writer to take a finger rosary to work to be able to pray discreetly decade after decade to pray for his fellow-workers and to protect himself spiritually from his work environment. But he will need to be discreet.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

訳注1・1

『何処でも出来る処で a finger-rosary (仮訳:ロザリオ数珠)で
(神の御母〈聖母〉マリアへの)ロザリオ祈祷を捧げなさい.』
について:

・「a finger-rosary(仮訳:ロザリオ数珠)」(ふぃんがー・ろざりー)〈かりやく:ろざりお じゅず〉
に就いて:

→片手の指だけで数える事が出来る小さなロザリオ数珠のこと.
(かたて の ゆび だけ で かぞえる こと が できる ちいさな ろざりお じゅず の こと)

・実物の具体例:

周囲に一つの十字架印とロザリオ祈祷一連分を数える事が出来る十個の突起(珠十個分)が付いた指輪を使用して,一人で「ロザリオ祈祷の黙祷」を為る事が出来る
(しゅうい に ひとつ の じゅうじか じるし(いん)と ろざりお きとう いちれん ぶんを かぞえる こと が できる じゅっこ の とっき(たま じゅっこ ぶん)が ついた ゆびわ を しよう して,ひとりで「ろざりお きとう の もくそう」を する こと が できる).

一つの十字架と一連分の数珠(珠十個)だけが付いた小型(ミニサイズ)のロザリオ数珠もある(ひとつ の じゅうじか と いちれん ぶん の じゅず〈たま じゅっこ〉だけ がついた こがた〈みに さいず〉の ろざりお じゅず も ある).

---

訳注1・2

「(神の御母〈聖母〉マリアへの)ロザリオ祈祷」に就いて:
(「(かみ の おん はは〈せいぼ〉まりあ の)ろざりお きとう」
について:)


・解説
「ロザリオ祈祷」の由来・方法についての解説:
(「ろざりお きとう」の ゆらい・ほうほう に ついて の せつめい:)

→参考文献:
(さんこうぶんけん:)

『聖母マリアへのロザリオ九日間の祈り』(ドン・ボスコ社)
(「せいぼ まりあ へ の ろざりお ここのか かん の いのり」〈どん・ぼすこ しゃ〉

*訳注の続き(訳注4・1)(訳注4・2)(訳注 7・1)を続けます.

* * *

(解説無し)

今日,人々は職場で独り苦しんでいるのでしょうか?
どこでもできるところでa finger-rosary(ロザリオの祈り)を捧げなさい.
Today's work-places crucify a man ?
With a finger-rosary pray wherever you can.

先週に続き,エレイソン・コメンツの一読者から寄せられた素晴らしい手紙をご紹介します.彼(読者)は正気とは思えない状況について良識ある見方をしています.読者の皆さんは彼の言う事にがっかりするか,それとも励まされるかもしれません.多くの読者は自分たちが職場で日々直面していることを認識すべきです.そうすれば,職場でカトリック教の信仰がなぜ,どのようにむしばまれているかが,もっとはっきり分かるかもしれません.以下は彼の手紙の内容です:-
Here is another good letter from a reader of these “Comments”. He takes a sane view of an insane scene. Readers may be discouraged by what he describes, or they may be encouraged by how he describes it. A number of readers must recognize what they are up against every day when they go to work, and they may see better here than they yet see why and how their place of work is eroding their Catholic faith. He writes: –

私は自動車製造工場でこれまで二年あまり働いてきました.給料は十分ですが,私の職場環境は世界全体の一種の縮図のようなものです.それがどのようなものか以下に説明します….
I have worked in a factory building cars for over two years now and while it does pay well the environment is a sort of microcosm of the world at large. Let me explain...

1)両性の混同 - 男性と女性は互いに身近な状態で共同作業をします.このような仕事環境は女性の女性らしさを完全に壊してしまいます.もちろん,女性のできない仕事もありますが,両性の平等という間違った考え方のために,会社は女性がそこで働くことを認める必要があります.だが,十戒第6戒,第9戒(訳注:第6戒:姦淫してはならない,第9戒:隣人の妻を欲してはならない)の違反について私が聞いた話は実に憂慮すべきものです.詳しく述べる必要もないでしょう.実際に起きていることは誰もが予測したことです.女性はなぜそのようなところで働くことを望むのでしょうか?
 1) Mixing up of the sexes - men and women work together in close proximity. Such work completely destroys a woman's femininity. Of course, there are certain jobs which women cannot do, but because of this false sense of equality, the company needs to allow women to work there. The stories that I have heard about the transgressions against the 6th and 9th commandments are truly disturbing. I need not elaborate. But what else did anybody expect ? Why would a woman even want to work in such a place? 

2)男性の心は道徳的判断ができなくなっている - もちろん,私は一般論として話しています.だが,私が話したほとんどの男性は倫理観(すなわち善と悪)ではなく,どうしたら楽しく過ごせるかを基準に考えています.私は何人かの同僚と話し,彼らが分かるような方法で道徳の問題を提起しようとしましたが,彼らにとって,それは右の耳から左の耳へ抜けてしまったようです.男性は肉欲にかかわること没頭すると,心について考えることができなくなります.もっと悪いことに,同僚たちは自ら犯した罪を自慢することをまったく恥と考えていないのです.昔は男性たちは恥の意識を持っていました.いまや,そんなものはないようです.
2) Men's minds are incapable of making moral judgments - I generalize of course, but most of the men I have talked to do not think in terms of morality (i.e. good and evil) but in terms of what pleasures can keep them entertained. I have talked to several co-workers and have tried to bring up questions of morality in a way that they might understand, but it seems to go over their heads. When a man has steeped himself in the things of the flesh, he is incapable of thinking of the soul. Worse, some of these co-workers have absolutely no shame in boasting of their sins. Once upon a time men had shame. No longer, it would seem.

3)私は私自身の神である - 誤った自由が男性の生活指針として称えられています.私は同僚の何人かと議論をしましたが,私がその都度知らされたのは,真理や倫理は純粋に主観的なことだということです.自分が真実だと信じることが素晴らしいのであり,自分の考え方を他人に押し付けることなどできないというのです.私は上司に,そのような考え方はばかげていると話しました.一人以上の妻を持つのは結構なことだと言う者がいたらどうでしょうかと,彼に尋ねました.彼は考え方は人それぞれだと応えました.真理は主観的なものでないという基本原則を否定する人がいるなら,その人に話しても無駄でしょう.突き詰めると,人はそれぞれ自分以外の何かに従う代わりに自分自身の現実を築きあげるのですから,自分が自分自身の神になるということでしょう.
3) I am my own god - False liberty is exalted as the guiding principle in men's lives. I have had a few discussions with some of my co-workers and what I get every single time is that truth and morality are purely a subjective affair. What you believe to be truth is fine for you, but you cannot impose your way of thinking on anyone else. I told a supervisor of mine that such thinking is nonsense. I said, what if someone thinks that having more than one wife is fine ? He said, belief is up to the individual. If a man denies such a basic principle as that truth is not subjective, then there is no point in talking to him. In essence, every individual becomes his own god because HE has constructed his own reality instead of submitting to something outside of him.

近代工場の環境は一種の無神状態を作り出します.私は工場労働者が輝かしい美徳の模範になること期待しているわけではありません.だが,近代工場はチャールズ・ディケンズが彼の時代について書いたことより益々悪くなっていると言いたくなります.私の言いたいことはまだ沢山あります.だが,要点は次のことです.罪によって壊れた生活や快楽をむさぼる生活で神の恩寵がどう働くでしょうか? 道徳の最も基本的な基準さえ分かろうとしない者とどう心を通わせたらいいのでしょうか? 控えめに言っても,これは失望的な状況です.溝にはまった私たちのために祈ってください. 
The environment of a modern factory breeds a sort of godlessness. I don't expect factory workers to be examples of stellar virtue but I would say that modern factories are exponentially worse than what Charles Dickens wrote about in his times. I can go on and on, but the point I am trying to make is this: how can grace operate in lives which are destroyed through sin and a life of seeking pleasure ? How does one reach out to men who cannot even grasp the most elementary norms of morality? It is frustrating to say the least. Please pray for us in the trenches.

(手紙の紹介終わり)

女性は女性らしさと家庭から自らを解放する.男性は客観的な道徳と客観的な真理から自らを解放する.そのような「信仰心のない邪悪な世代」(新約聖書・使徒聖ルカによる聖福音書:第9章41節)にどうやって手を差し伸べ,話しかけたらいいのでしょうか? 模範,愛,祈りによるしか方法はないでしょう.私は手紙をくださった読者に,ロザリオを職場に持って行き,目立たないように仕事仲間のために1連(=天使祝詞 "Ave, Maria" を10回)ずつ祈り,自分の職場環境から自らを精神的に守るため祈るようアドバイスしました.ただし,彼はこれを目立たないようにする必要があります.
Woman freeing herself from femininity and family, man freeing himself from objective morality and objective truth – how indeed can one reach out to, or even talk with, such a “faithless and perverse generation” (Lk. IX, 41) ? By example, charity and prayer. I advised the writer to take a finger rosary to work to be able to pray discreetly decade after decade to pray for his fellow-workers and to protect himself spiritually from his work environment. But he will need to be discreet.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教



* * *





* * *
本投稿記事・第443回エレイソン・コメンツ「工場生活」(2016年1月9日付)/ELEISON COMMENTS CDXLII (Jan. 9, 2016) : "FACTORY LIFE" は2016年1月20日05時00分に掲載されました.
* * *

2011年11月29日火曜日

226 トマトの支柱 -2- (11/12)

エレイソン・コメンツ 第226回 (2011年11月12日)

以前「エレイソン・コメンツ」(9月10日付,第217回)で女性と男性の関係をトマトの苗とその苗がよじ登りやがて実を結ぶための支柱になぞらえたロシアのことわざを引用しました.その例えを用いたのは女性の性質と役割を詳しく説明するためでした.その際ある女性読者がその例えが男性にどう当てはまるのか尋(たず)ねてきました.悲しいことに,私たちの住む狂った現代は人間性のあらゆる本質を一掃(いっそう)しようとしています.

神が設計された男性と女性は著(いちじる)しく異なっていながらも崇高(すうこう)なほど相互補完(そうごほかん)的であり,菜園から引き出した単なる例え話などよりはるかに多くを語ってしかるべきものです.いかなるカトリック教会の婚礼ミサ聖祭 “Catholic wedding Mass” でも,そこで読まれる使徒書簡(新約聖書) “the Epistle” は夫と妻の関係( “the relations between husband and wife” )をキリストと彼の(体〈からだ〉たる)教会(=カトリック教会. “ those between Christ and his Church” )の関係に例えています.その書簡の一句(エフェゾ人への手紙,5章22-23節)(訳注後記)で注目に値(あたい)するのは,聖パウロが婚姻(こんいん)の結果生じる夫の責務(せきむ)について長々と記述しているのに対し妻のそれについては手短にしか記していないということです.すでに私たちは,現代の男女関係が健全性を喪失(そうしつ)してしまったのは今日の男性に大きな責任があるのではないかと疑い得るのですが,この超自然的な神秘についての話は別の機会に残すとして菜園の話に戻りましょう.というのも,今日,神と人間にとっての諸々の敵たちが攻撃の対象としているのはまさしく人間性の本質だからです.

トマトの支柱がトマトの苗に役立つためには二つのことが必要です.支柱は高くなければならず “must stand tall”,しかもしっかりと立っていなければなりません “must stand firm”.もし支柱が高くなければ,苗は高くよじ登ることができません.しっかりと揺らがずに立っていなければ,苗はそれにしがみついたり巻きついたりできません.まさしく,男性の堅固(けんこ)さ “The firmness” は彼がどれほど仕事に没頭(ぼっとう)しているかによって決まる( “depends on a man’s wrapping himself around his work” )一方,その高さ “the tallness” は彼がどれほど神の域(いき)に達(たっ)しようとしているか( “depends upon his reaching for God” =より高い理想を見据(す)えているか、目指しているか)によって決まります.

堅固さについて言えば,いつの時代,どの場所にあっても人間性への認識が歪(ゆが)んでいない限り,男性の生活は彼の仕事を中心に展開するのに対し女性の生活は夫をはじめとする家族を中心に展開するものです.もし男性が自分の生活の中心に女性を置くなら,それはちょうど二本のトマトの苗がともにしがみつきあっているようなものです.もし女性が男性の役割を受け入れなければ,二人ともぬかるみにはまって行き詰(ゆきづ)まりに終わるでしょう.それは女性が決してしてはならないことですし,少なくともそうしたいと望むことでもありません.賢(かしこ)い女性は自分の夫が仕事を見つけそれを愛する男性であることを選びます.そうすることで,夫が仕事に没頭している間,妻は夫に巻きついていることができるのです.

高さについて言えば,トマトの支柱が真っ直ぐ(まっすぐ)空に向(むか)っていなければならないように,男性も真っ直ぐ天国を目指していなければなりません.指導者は霊感を与えて元気づけたり先頭に立って導(みちび)くためのビジョン(=先を見通す眼,先見,展望,構想)を持っている必要があります.ルフェーブル大司教は真のカトリック教会の復興というビジョンを持っておられました.同様にピィ枢機卿Cardinal Pie (1815-1880)(訳注・ “Cardinal Louis-Édouard Pie”.フランス・ポワティエの司教.19世紀における聖伝カトリック信仰の熱烈な擁護〈ようご〉者)は,自分を取り巻く19世紀の男性たちの柔弱(にゅうじゃく)さを見たとき,その柔弱さは彼らの信仰の欠如(けつじょ)に起因(きいん)すると考えました.信仰が存在しなければ信念は存在しない,と彼は言いました.信念なしには堅固な人格は存在しません.人格の堅固さなしには男性は男性たり得ません.聖パウロが「すべての男性の頭(かしら)はキリストであり,女性の頭は男性であり,キリストの頭は神である」(コリント人への第一の手紙・第11章3節)(訳注後記)と語ったとき,彼は同じ線に沿(そ)って考えていました.そういうわけですから,男性の男らしさを回復するには男性を神に向かわせ,神の下に従わせることです.そうすれば,妻が夫の下に従い,子供たちが両親の下に従うことがはるかに容易になるでしょう.

だが「下に」という言い方は夫の妻に対する,あるいは両親の子どもたちに対するいかなる種類の暴虐(ぼうぎゃく)とも解(かい)すべきではありません.支柱はトマトのためにこそ存在しているのです.男性がその子供たちのためにできる最良のことは彼らの母親を愛することだと言ったのはある賢明(けんめい)なイエズス会士でした.男性は女性のように愛に走ることはないので,女性がどれほど愛すること,愛されることを必要としているかを簡単に忘れがちです.小さじ一杯分の愛情があれば彼女はさらに百マイル持ちこたえます.聖霊はこのことをもっと優雅(ゆうが)に言い表わしています.「夫たちよ,妻を愛しなさい,妻を苦々しくあしらってはならない」(コロサイ人への手紙・3章19節)(訳注後記).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第2パラグラフの訳注:
新約聖書・使徒聖パウロによるエフェゾ人への手紙:第5章22-23節(太字下線部分)(21-33節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE EPHESIANS, 5:22-23 (21-33)

家族の愛(5・22-33)
『キリストを恐れて互いに従え.

妻よ,主に従うように自分の夫に従え.キリストがその*¹体であり,それを救われた教会のかしらであるように,夫は妻のかしらである.教会がキリストに従うように,妻はすべてにおいて夫に従え.

夫よ,キリストが教会を愛し,そのために命を与えられたように,あなたたちも妻を愛せよ.
キリストが命を捨てられたのは,水を注ぐことと,それに伴(ともな)う*²ことばによって教会を清め聖とするためであり,また汚点(しみ)もしわもすべてそのようなもののない,輝かしく清く汚れのない教会をご自分に差し出させるためであった.
*³(28節)「そのように夫も自分の体のように妻を愛さねばならない.妻を愛する人は自分を愛する人である.(29節)だれも自分の体を憎む者はなく,みなそれを養い育む.
キリストも教会のためにそうされる.(30節)私たちは*⁴キリストの体の肢体だからである.
「*⁵(31節)これがために男は父と母を離れ,妻と合って二人は一体となる」.
*⁶この奥義は偉大なものである.私がそう言うのは,キリストと教会についてである.

あなたたちはおのおの自分の妻を自分のように愛せよ.妻もまたその夫を敬え.』

(注釈)

この「体」は教会である

*² 洗礼文.

(28-31節)自然の愛だけではなく,信仰と愛に満ちたキリストの教える超自然の愛

*³ ブルガタ訳,「その肉と骨で成り立っている」.

*⁴〈旧約〉創世の書2・24参照.

→創世の書からの引用:

『…神はご自分にかたどって,人間をつくりだされた』(1章27節).

2章18節から
『…主なる神は仰せられた,「人間が一人きりでいるのはよくない.私は彼に似合った助け手を与えよう」.
主なる神は,地から野の獣と空の鳥とをつくり,人間のもとに連れてゆかれた.それは,人間がそのものを,どのように呼ぶかを見たいと思われたからだった.その生き物を人間がどう呼ぶか,その呼び方がそれらの名となるはずであった.

さて,人間はすべての家畜と,空の鳥と,野の獣とに名をつけたが,人間に似合った助け手はまだ見つからなかった.
そのとき,主なる神は人間を深い眠りに入らせた.人間は眠りに入った.
神は人間のあばら骨の一本を取りだし,肉をもとのように閉じた.

主なる神は人間から取りだしたあばら骨で女を作って,それを人間のもとに連れてゆかれた.そのとき,人間は言った,
「さて,これこそ,わが骨の骨,わが肉の肉.これを女(ヘブライ語でイシャ)と名づけよう.男(イシュ)から取りだされたものなのだから」.(2章18-23節)
だからこそ,人間は父母を離れて,女とともになり,二人は一体となる(2章24節).

*⁵ 婚姻が「偉大な奥義」なのは,それが教会とキリストの神秘的な関係をかたどるからである


* * *

第5パラグラフの訳注:
同・使徒聖パウロによるコリント人への第一の手紙:第11章3節(太字部分)(1-16節を掲載)
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE CORINTHIANS. 11:3 (1-16)

『私がキリストに倣(なら)っているように,あなたたちは私に倣え.
あなたたちがすべてのことについて私を思い出し,私の伝えたとおり,*¹伝えを守っていることに喜びを言おう.私はあなたたちに次のことを知ってもらいたい.*²すべての男のかしらはキリストである.女のかしらは男である.キリストのかしらは神である

頭にかぶり物をして祈りや預言をする男はみな,その*³かしらを辱(はずかし)める.頭にかぶり物をしないで祈りや預言をする女もみなそのかしらを辱める.その女は剃髪(ていはつ)しているのと同じだからである.女がかぶり物をしないなら髪も切ればよい.神を切ったり剃(そ)ったりするのが女の恥であるなら,かぶり物をするがよい.

男は神のすがたであり光栄であるから,頭にかぶり物をしてはならぬ.女は男の光栄である.
男が女から出たのではなく,女が男から出たのであって,*⁴男が女のために造られたのではなく,女が男のために造られたからである.
そのため女は,*⁵天使たちのために,*⁶権威に服するしるしを頭にかぶらねばならぬ.
といっても*⁷主においては,男なしでは女もなく,女なしでは男もない.
女が男から出たように男は女から生まれ,そしてすべては神から出る.

あなたたちは自ら判断せよ.女がかぶり物なしで神に祈るのはよいことであろうか.
自然そのものも教えているではないか.男が長い髪をしているのは恥であって、女が長い髪をしていれば誇りであることを.女の神はかぶり物として与えられたからである.
だれかこれについて抗弁しようとするなら,私たちにはそういう習慣はなく,神の諸教会にも例がないと答えたい.』

(注釈)

*¹ 「伝え」とは初代教会の聖伝の教えのことである.

*² キリスト教的社会における階級.女性の服従の理由は,神の創造にある.しかし,その順序は,徳ではなく単に権威のことだけである.

*³ かしらの意味にも,頭の意味にもとれる.

*⁴ 〈旧約〉創世の書2・22-23参照.

*⁵ 創世の書6・2.ユダヤ系の偽典書に基づけば,昔のある学者は,この「天使」が天から落ちた天使のことだと言っていた.また,信者の集会のかしらの意味にとった人もあった.
しかしこの天使は,信者の集会のとき,祈りを神の座まで運ぶ(〈新約〉黙示録8・3,エフェゾ人への手紙3・10)よい天使のことと思われる.

*⁶ ここでは自分に対する他人の権利のこと.

*⁷男も女も不完全なもので,主のみ前にあっては平等である. 』


* * *

第6パラグラフの訳注:
同・使徒聖パウロによるコロサイ人への手紙:第3章19節(太字下線部分)(18-21節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE COLOSSIANS, 3:19 (3:18-21)

『*¹妻たちよ,主にふさわしいように自分の夫に従え.
夫たちよ,妻を愛せよ,苦々しくあしらうな
子どもたちよ,すべて両親に従え.それは主に喜ばれることである.
父達よ、子どもを怒らせるな.彼らを落胆させないためである.』

(注釈)

家庭の人たちに(3・18-)
*¹ この節(18節)以下にキリストの愛という見地に立って生きる自然倫理が説かれる(エフェゾ5・22).

(→エフェゾ5章22節)
『妻よ,主に従うように自分の夫に従え.』


* * *

2011年9月22日木曜日

トマトの支柱

エレイソン・コメンツ 第217回 (2011年9月10日)

しばらく前のことですが,ある家庭の妻で母親の女性から夫との意思疎通(そつう)が上手く図れず困っていると打ち明けられました.二人はどこが間違っているのか話し合うのですが,いつもきまってお互いに腹を立て結局は決裂して終わってきたというのです.事の是非はさておき,私は彼女の問題が神の定めた結婚生活における男女の見事なまでに素晴らしい相互補完的な役割を,あちこちの家庭であるように,意図的にひどく否定してしまっていることにその根があると感じました.そこで彼女宛てに私が書き送った手紙の内容を以下にご紹介します.彼女は私の手紙が役立ったと言いました.ほかの方たちにもお役に立てばと思います.ところで,女性の皆さま,私はかならずしも問題がすべて貴方たちにあるとは考えていません

あなたの結婚生活のご苦労にご同情申し上げます. ルールの第: 子供たちの前や子供たちに聞こえる所で決してご主人と口論してはいけません.何よりまず子供たちに配慮しなければなりません.あなたが子供たちの前でご主人の足を引っぱったり言い争ったりしても,家族のために何の助けにもなりません.逆に有害です.

ルールの第: あなたのご主人に敬意を表しなさい.たとえご主人が常にそれに値するわけでなくてもです.女性は愛で動き,男性はエゴ(訳注・=自我・うぬぼれ・自尊心)で動きます.この違いは大きなものです.だからこそ聖パウロ - すなわち神のみことば - は「夫に従い “obey” なさい.夫たちよ,妻を大事に “cherish” しなさい.」と言っています.大きな違いです! (訳注後記) いかなる結婚生活においても,夫が妻に愛情を示し妻が夫を敬うかぎり,普通は満ち足りた結婚の本質がそこにあるのです.そして,もしご主人があなたに愛情を示さないなら,少なくとも愛らしい憎めない妻として振る舞いなさい.ご主人とけんかするとき,あなたがそのように見えることは決してないでしょう.

ご主人を敬うためなら,どんな事や物でも犠牲にしなさい.ご主人はあなたの愛情以上に尊敬を必要とします.あなたはご主人の尊敬以上に愛情を必要とします.ご主人に従いなさい.あなたがご主人に指図していることを決して見せてはいけません.あなたがご主人にしてほしいと望むことをご主人が自分で決心してするようにしなさい.また妻が家庭の外へ働きに出ることは良いことではありません.とくに妻の収入が夫よりも多い場合はなおさらです.もしあなたが稼(かせ)がなければならず,しかもご主人より多く稼いでいる場合は,決してそれを見せてはなりません.その事実を隠(かく)しなさい.男性は,一家の長として,自分が大黒柱なのだと認識している必要があるのです.あなたは一家の心であり,それはちょうど一家の長が欠くことのできない存在であるのと同じくらい,あるいはそれ以上に必要な存在ですが,あなたは一家の長ではないのです.また,もしあなたが一家の長として振る舞わざるを得ないことがあっても,それを面(おもて)に出さず,とにかくその事実を隠しなさい

もし,これであなたの結婚生活が上手く機能しないとしたら驚きです.結婚生活が上手くいくかどうかは通常,女性がいかに男性に順応するかにかかっているのであり,その逆でありません.ロシアに「トマトの苗が支柱(苗がその回りをよじ昇る)に頼(たよ)るように,女性は男性に頼るものだ」ということわざがあります.もし彼が支柱でないなら,彼を支柱にするためにあなたができるすべてのことをしなさい.そして,もしあなたにそれができないなら,その時はもう一度その現実を隠しなさい.神は女性が連れ合う男性に順応するよう,男性より女性を順応性のある性質に造られています.

あなたは以前子供たちの教育のためにご家庭でお金が必要だと話されました.あなたの娘さんたちにとって最良かつ最も重要な教育は母親の台所でできることに気づかれたことがありますか? 母親が家庭にいると仮定した場合の話です.家庭外のどんな学校で受ける教育よりもずっと多くのことをあなたは自分を手本として示すことで娘たちを教育することができるのです.またあらゆることにかかわらず夫に従い夫を敬う妻として母としての貴重な模範を娘さんたちに示してあげなさい.子供たちは非常によく観察するものです.あなたの示す模範は子供たちが将来結婚して家庭を持ったときに幸福になるために非常に重要なのです.

ご主人との喧嘩(けんか)もいいでしょう.ただし静かに,敬意をもって,子供たちから離れてしてください.そして「私だって一日中外で働いてきたのよ,私だって家庭での思いやりが必要だわ」などと言ってはなりません.なぜなら,母親が外で働くのは正常ではないからで,男性たちはそれが自分の不甲斐無さ(ふがいなさ)のためだとしても,そのことを感じているからです.男性は変えようがありません.この人があなたの結婚相手として神が選ばれた男性なのです.あなたの子供たちにご主人を敬う手本を見せなさい.それが,とりわけあなたの娘さんたちに対する貴重な贈物です.

現代はどこの家庭でも多くの祈りを必要としています.神の御母(聖母マリア)よ,お助けください!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第3パラグラフの訳注:
聖パウロのこのことばに該当する聖書からの引用箇所.

①新約聖書・使徒パウロのエフェゾ人への手紙:第5章22-33節(背景を知るため前後の部分も記載します)

②同・コリント人への第一の手紙:第11章1-16節

③以降…(「父なる神と神のみ子キリスト」・「キリストと教会」・「神・キリストと夫」・「夫と妻」の関係について理解を助ける聖書からの引用を追加します)

* * *

①エフェゾ人への手紙

第4章
教会の一致(4・1-6)
『さて,主の囚人となった私(使徒パウロ)はあなたたちに勧める.

あなたたちは召されたお召しにかなうように生き,すべての謙遜と柔和と寛容をもって愛によって忍び合い,平和の結びによって*¹霊の一致を守るように努めよ.

*²体は一つ,霊は一つである,あなたたちが召し出しによって一つの希望に召されたのと同様に.

*³主は一つ,信仰は一つ,洗礼は一つ,神は一つで,すべてのものの父であり,すべてのものの上にあり,すべてのものの上に働き,すべてのものの内にいます.』

(注釈)

*¹ 信者間の心の一致.

*² 「体」は教会.

*³キリスト(〈新約〉コリント人への手紙〈第一〉8・5-6).

それぞれの役目(4・7-24)
『私たちはキリストの賜の秤(はかり)に従って*¹おのおの恩寵を受けた.だから,「*²高く上って多くの奴隷を引き連れ,人々に贈物をした」と書き記されている.しかし*³上ったと言えば,地の低い所にも下ったわけではないか.下った者はすべてのものを満たすために,天のいと高き所に上ったそのお方である.

ある人を使徒とし,ある人を預言者とし,ある人を*⁴福音者,ある人を牧者と教師とされるのもそのお方である.
それは聖徒たちを,*⁵聖職の働きのためキリストの体を建てるために整え,ついに信仰の一致と神のみ子の深い知識に達し,*⁶満ち満ちるキリストの背丈にまで至る完全な人間をつくるためである.

こうして私たちは子どもではなくなり,人を偽善と誤謬(ごびゅう)に迷いこませるたくらみのままに,いろいろな教えの風に吹きまわされ翻弄(ほんろう)されないようになる.
*⁷むしろ真理を宣言し,*⁸かしらであるキリストによって,すべて愛において成長するだろう.

キリストによって,*⁹それぞれの肢体の働きに従い,身体全体は自分を養い生かすすべての*¹⁰節々を通じて調和と統一を受け,こうして成長をとげ,愛によって自分をつくり上げる


私は主においてあなたたちに切に望んで言う.
心のむなしさに従う異邦人のように生活するな.彼らは知恵がくらみ,その中の無知と心のかたくなさによって神の命を離れた者となった.*¹¹彼らの道徳観はうすれ,すべての情欲と汚れを行い,淫乱の生活にふけった

しかしあなたたちは,キリストからそんなことを習ったのではない.
あなたたちが*¹²イエズスにある真理に従って,イエズスにおいて教えられ,それを聞くなら,*¹³人を欺(あざむ)く欲に腐(くさ)った前の生活の古い人を脱ぎ捨て,霊的な思いによって自分を新たにし,正義と真実の聖徳において,神にかたどってつくられた新しい人を着なければならない.』

徳の実行(4・25-32)
『だから,偽善を捨てて,おのおの隣人に真実を語れ.*¹⁴あなたたちは互いに肢体だからである.*¹⁵怒っても罪を犯すな.日が傾くまで怒りを保つな.*¹⁶悪魔に足がかりを与えるな.盗人はもう盗むな.
むしろ,貧しい人々に施すために,自分の手で何かよい仕事をして働け.悪いことばを決して口から出すな.ただ必要な場合,徳に役だち聞く人に恩寵を与えるよいことばだけを言え.

あなたたちがあがないの日のためにしるしを受けたその神の聖霊を悲しませるな.すべての苦さ,憤(いきどお)り,怒り,叫び,ののしり,つまり悪をすべて捨てよ.
互いに情けとあわれみをもち,キリストにおいて神があなたたちをゆるされたように,互いにゆるし合え.』

(注釈)

*¹ 教会の奉仕を目的とする特別な恩寵のこと.特能ともいう.

*² 〈旧約〉詩篇68・19の引用であるが,原文テキストの忠実な引用ではない.

*³ 託身があったから,昇天もなければならなかった.

*⁴ 四人の福音史家のことではなく,福音を伝える人々,伝道者,福音師のこと.

*⁵ 信者は聖徳に近寄れば近寄るほど,聖職の働きにふさわしい者となる.

*⁶ このキリストは完全な背丈(せたけ)のある人間として考えられている.キリストの神秘体,教会の会員である信者はみな,自分に定められている高さにまで伸びなければならない.それは,よく成長したすべての肢体が集まることによって満ち満ちたキリストを実現するためである

*⁷ 1・22,5・23,コロサイ人への手紙1・18,2・19参照.

*⁸ 信じるだけでは足りない.キリスト信者は信仰を喜び,信仰を生かさねばならない

*⁹ 教会内の信者おのおのの活躍と使命.

*¹⁰ 教会に属する者の相互の奉仕.

*¹¹ 〈新約〉ローマ人への手紙1・18以下参照.

*¹² コロサイ人への手紙2・6参照.

*¹³ コロサイ人への手紙3・9,ローマ人への手紙6・6参照.

*¹⁴ コリント人への手紙〈第一〉6・15,ローマ人への手紙12・5参照.

*¹⁵ 〈詩篇〉4・5.心中に怒りが起こっても,それを行いに出して罪を犯すまでになるな.

*¹⁶ 悪魔に誘惑の機会を与えてはならない.


第5章
キリストの模範(5・1-2)
『実に愛される子らとして,神に倣(なら)う者であれ.私たちを愛し,私たちのために芳(かんば)しい香りのいけにえとして神にご自分をわたされたキリストの模範に従って,愛のうちに歩め.』

汚れを棄てよ(5・3-7)
『聖徒にふさわしいように,あなたたちの中では,*¹淫行,いろいろな汚れ,情欲は口にさえもするな.また,汚行(おこう),愚かな話,下品な冗談も言うな.それはよからぬことである.

ただ神に感謝せよ.

淫行の者,好色な者,情欲の者はみな―――これは偶像礼拝者と同じである―――,キリストと神の国を継げない
人のむなしいことばにだまされるな.*³不従順な者の上に神の怒りを呼ぶのはそれらの事柄である.だから彼らと交わるな.』

神の子らの生活(5・8-14)
『元あなたたちはやみであったが,今は主において光である.したがって*⁴光の子として歩め.光の実はすべての善と正しさと真実にある.主に喜ばれることをわきまえ知れ.

*⁵実を結ばぬ闇(やみ)の行いに加わらず,かえってそれを責めよ.彼らがひそかに行っているのは,*⁶口にするのも恥ずかしいことである.

*⁷公に責められることはすべて完全な光の中に現れ,現されたものはみな光である.
これがために,「*⁸眠る者よ,起きよ,死者の中から立ち上がれ.キリストはあなたを照らすだろう」と言われている.』

賢明と節制(5・15-20)
『であるから,愚かな者ではなく,知恵ある者のように慎(つつし)んで歩んでいるかどうかを調べよ.今の時をよく利用せよ,時代は悪いからである.

あなたたちは思慮のない者とならず,主のみ旨を理解せよ.ぶどう酒に酔うな.それは淫乱のもとである.

むしろ霊に満たされよ.ともに詩の歌と賛美の歌と霊の歌をとなえ,心を挙げて主に向かって歌い,そして賛美せよ.主イエズス・キリストのみ名によって,すべてのことについて,絶えず父なる神に感謝せよ.』

家族の愛(5・22-33)
『キリストを恐れて互いに従え.

妻よ,主に従うように自分の夫に従え

キリストがその*⁹体であり,それを救われた教会のかしらであるように,夫は妻のかしらである.教会がキリストに従うように,妻はすべてにおいて夫に従え

夫よ,キリストが教会を愛し,そのために命を与えられたように,あなたたちも妻を愛せよ

キリストが命を捨てられたのは,水を注ぐことと,それに伴(ともな)う*¹⁰ことばによって教会を清め聖とするためであり,また汚点(しみ)もしわもすべてそのようなもののない,輝かしく清く汚れのない教会をご自分に差し出させるためであった.

(28節)「そのように夫も自分の体のように妻を愛さねばならない.妻を愛する人は自分を愛する人である.(29節)だれも自分の体を憎む者はなく,みなそれを養い育む.

キリストも教会のためにそうされる.(30節)*¹¹私たちはキリストの体の肢体だからである
(31節)「*¹²これがために男は父と母を離れ,妻と合って二人は一体となる」.

*¹³この奥義は偉大なものである.
私がそう言うのは,キリストと教会についてである


あなたたちはおのおの自分の妻を自分のように愛せよ.妻もまたその夫を敬え.』

(注釈)

*¹ エフェゾは有名な堕落の町であった.

*² エフェゾのアルテミス女神に属する淫乱の行為を暗示しているようである.

不道徳は神の罰を呼び下す

*⁴ 〈新約〉コロサイ人への手紙1・12,コリント人への手紙〈第二〉4・6参照.

*⁵ 淫祀(いんし),邪教のようなものが行われていて,それを光の教会と対照させている.

*⁶ 偶像の秘教の堕落を暗示する.

*⁷ 異教徒が淫行に属することを公に話すのは,もちろんよいことではない.しかし,悪行を正すために,公に責めることはなされてもよい.そうすれば,光はやみを吹きはらうであろう.それはキリストの光である.

*⁸ 初代教会の典礼の賛美歌の一句らしい.

*⁹ この「体」は教会である.

*¹⁰ 洗礼文.

(28-31節)自然の愛だけではなく,信仰と愛に満ちたキリストの教える超自然の愛

*¹¹ ブルガタ訳,「その肉と骨で成り立っている」.

*¹² 〈旧約〉創世の書2・24参照.
→『…神はご自分にかたどって,人間をつくりだされた(1章27節).

…主なる神は仰せられた,「人間が一人きりでいるのはよくない.私は彼に似合った助け手を与えよう」.
主なる神は,地から野の獣と空の鳥とをつくり,人間のもとに連れてゆかれた.それは,人間がそのものを,どのように呼ぶかを見たいと思われたからだった.その生き物を人間がどう呼ぶか,その呼び方がそれらの名となるはずであった.

さて,人間はすべての家畜と,空の鳥と,野の獣とに名をつけたが,人間に似合った助け手はまだ見つからなかった.
そのとき,主なる神は人間を深い眠りに入らせた.人間は眠りに入った.神は人間のあばら骨の一本を取りだし,肉をもとのように閉じた.

主なる神は人間から取りだしたあばら骨で女を作って,それを人間のもとに連れてゆかれた.そのとき,人間は言った,
さて,これこそ,わが骨の骨,わが肉の肉.これを女(ヘブライ語でイシャ)と名づけよう.男(イシュ)から取りだされたものなのだから」.(2章18-23節)
だからこそ,人間は父母を離れて,女とともになり,二人は一体となる(2章24節).

*¹³ 婚姻が「偉大な奥義」なのは,それが教会とキリストの神秘的な関係をかたどるからである.』


第6章
親と子の義務(6・1-4)
『子どもたちよ,主において両親に従え.それは正しいことである.(父母を敬え)―――これは*¹約束のついている第一のおきてである―――.そうすれば*²あなたの上によいことがあり,地上において長寿を得ることができる.
両親よ,あなたたちの子どもを怒らせることなく、主に従って規律をもって育て戒めよ.』

主人と奴隷の義務(6・5-9)
『*³奴隷よ,キリストに従うように恐れと尊敬と真心をもってこの世の主人に従え.*⁴目の前だけで仕えるのではなく,人の気に入るためでもなく,心から神のみ旨を果たすキリストの奴隷として働け.人ではなく主に仕えるように快く仕えよ.あなたたちの知るとおり,奴隷も自由民もおのおの主から善業の報いを受ける.
主人よ,*⁵あなたたちもしもべに対して同じようにせよ.脅迫をするな.彼らとあなたたちの主は天に在(あ)って,人を区別されない方であることをあなたたちは知っている.』

キリスト信者の武具(6・10-20)
『兄弟たちよ,主において力を受け,その力によって自分を強めよ.悪魔の企(くわだ)てに刃向かうために,神の武具をすべてつけよ

私たちが戦うのは*⁶血肉ではなく,*⁷権勢と能力,この世の闇(やみ)の支配者,天界の悪霊だからである

*⁸神の武具をすべてつけよ.悪の日に抵抗し,すべてを果たしたのちなお立つためである.

では真理を帯にし,正義を胸当てにして立て.平和の福音への熱を足にはき,信仰の盾を取れ.それによって悪者の火矢をすべて消すことができるであろう.さらに,*⁹救いのかぶとと,神のみことばである聖霊の剣をも取れ

*¹⁰すべての祈りと願いをもって心のうちでいつも祈れ.絶えず目を覚まして,忍耐強くすべての聖徒のために祈れ

*¹¹また私のためにも祈れ,福音の奥義を恐れなく告げようとして話すとき,適当なことばが下されますように.私は福音の使者として鎖につながれている.私が語らねばならぬことを恐れなく語れるように祈れ.』

ティキコの派遣(6・21-22)
『あなたたちにも,私の様子と私のしていることを知らせたい.愛する兄弟であり,主において忠実なしもべティキコがそのすべてを伝えるだろう.私はそのために彼をあなたたちのもとに送った.彼が私たちのことを知らせ,あなたたちの心を慰(なぐさ)めるだろう.』

あいさつ(6・23-24)
『父なる神と主イエズス・キリストから,兄弟たちに平和と信仰とともに愛が与えられるように.
*¹²朽ちることなき愛をもって,主イエズス・キリストを愛するすべての人に恩寵があるように.』

(注釈)

*¹ 十戒のうち,報いの約束のついている最初のおきて.

*² 〈旧約〉第二法の書5・16参照.

*³ 〈新約〉コロサイ人への手紙3・22-25,ペトロの手紙〈第一〉3・18,ティトへの手紙2・9-10参照.

*⁴ 労働を聖化すること.

*⁵ パウロは社会革命を勧めるのではない.主人が信仰と愛に基づいてことを行えば,社会の正義は自然に行える.

*⁶ 「血肉は人間の力のこと

*⁷ 「権勢と能力は悪霊のこと

*⁸ 〈旧約〉イザヤの書11・5,52・7,知恵の書5・18参照.

*⁹ イザヤ59・17参照.

*¹⁰ 〈新約〉コロサイ人への手紙4・2-4参照.

*¹¹ パウロは釈放されることを望まない.キリストのために鎖(くさり)につけられることは光栄である.ただ使徒としての使命を果たす力をこい求める.

*¹² パウロの手によるあいさつらしい.

* * *

②コリント人への第一の手紙:第11章1-16節

『私がキリストに倣(なら)っているように,あなたたちは私に倣え.
あなたたちがすべてのことについて私を思い出し,私の伝えたとおり*¹伝えを守っていることに喜びを言おう.私はあなたたちに次のことを知ってもらいたい.

すべての男のかしらはキリストである.女のかしらは男である.キリストのかしらは神である
頭にかぶり物をして祈りや預言をする男はみな,その*³かしらを辱(はずかし)める.頭にかぶり物をしないで祈りや預言をする女もみなそのかしらを辱める.その女は剃髪(ていはつ)しているのと同じだからである.女がかぶり物をしないなら髪も切ればよい.神を切ったり剃(そ)ったりするのが女の恥であるなら,かぶり物をするがよい.

男は神のすがたであり光栄であるから,頭にかぶり物をしてはならぬ.女は男の光栄である.
男が女から出たのではなく,女が男から出たのであって,*⁴男が女のために造られたのではなく,女が男のために造られたからである.
そのため女は,*⁵天使たちのために,*⁶権威に服するしるしを頭にかぶらねばならぬ.
といっても*⁷主においては,男なしでは女もなく,女なしでは男もない.
女が男から出たように男は女から生まれ,そしてすべては神から出る

あなたたちは自ら判断せよ.女がかぶり物なしで神に祈るのはよいことであろうか.
自然そのものも教えているではないか.男が長い髪をしているのは恥であって、女が長い髪をしていれば誇りであることを.女の神はかぶり物として与えられたからである.
だれかこれについて抗弁しようとするなら,私たちにはそういう習慣はなく,神の諸教会にも例がないと答えたい.』

(注釈)

*¹ 「伝え」とは初代教会の聖伝の教えのことである.

*² キリスト教的社会における階級.女性の服従の理由は,神の創造にある.しかし,その順序は,徳ではなく単に権威のことだけである.

*³ かしらの意味にも,頭の意味にもとれる.

*⁴ 〈旧約〉創世の書2・22-23参照.

*⁵ 創世の書6・2.ユダヤ系の偽典書に基づけば,昔のある学者は,この「天使」が天から落ちた天使のことだと言っていた.また,信者の集会のかしらの意味にとった人もあった.
しかしこの天使は,信者の集会のとき,祈りを神の座まで運ぶ(〈新約〉黙示録8・3,エフェゾ人への手紙3・10)よい天使のことと思われる

*⁶ ここでは自分に対する他人の権利のこと.

*⁷男も女も不完全なもので,主のみ前にあっては平等である.

* * *

2010年3月25日木曜日

男性の苦悩

エレイソン・コメンツ 第140回 (2010年3月20日)

私たちは今,深刻な無秩序状態に陥ってしまったため悲惨な時代を生きています.この無秩序について重ねて警鐘を打ち鳴らすため私が再登場することを弁解するつもりはありません.深刻な無秩序というのは,公の場で女性が男性を支配すること(あるいはそうなってきたこと)です.つまり女性 - 母たるもの - は家庭で家事を扱う女王たるべきで,それが何にもまして正常です.しかし,いったん女性が公の場で女王として振舞いだすと,男性連中の人生に深刻な支障が生じてしまいます.つまり,男性は女性をリードしたり神の方向に導いたりしなくなり,その結果,女性は生来の気質から本能的に男性に反発するようになります.

この問題を私に思い起こさせたのは,遠方の国に住む一人の賢明な若い男性です.ある日彼は,自分の周りでは,男性より女性向けの出版物が多いこと,大学に至るまでのあらゆる男女共学の学校で,素直で勤勉な女生徒の方が概して乱雑で集中力に欠ける男子生徒より成績が良いことに気づいたそうです.この若き友人は,男女共学とは果たして良策なのだろうか?と疑問を呈しています.

彼の観察だと,男女共学の結果,学校ではよりよい成績を収める女生徒が新たな「より強い性」として頂点に立ち,今や美貌の虜となって「より弱い性」に転じた男子を意のままに操っているというのです.新興の「女性文明」のあらゆる分野で,女性は男性に取って代わり主導者の地位を占めるようになっています.子どもを持つことでさえ,いまや女性は実験室で男性なしにそれが可能です.もはや男性は何の意味もない存在です.男性は落伍者なのです.我が若き友人は悩み苦しんだ挙げ句,次のような疑問で私への話を締めくくっています.真の男性になるための法則とは何なのだろうか?男らしさの意味は何なのか?男性の力強さと女性の力強さはどう異なるべきなのか?真の「強い女性」とは何か?また「強い男性」とは?

私の親愛なる若き友人よ,君が産まれてきたのは神の教えに背(そむ)こうとしている革命的な世の中であり,神が創造された自然や自然の秩序を転覆しようとしているところなのです.神の基本的な御計画は次に述べる通りです.すなわち,神は男性と女性を天国に住まわせるため,両性に極めて相互補完的な本性を与えて互いに結婚させ,そうして地上に住まい子孫を増やして繁栄していくように人類を創造されたのです.(詳しい解説・後記…1.) 神は女性に対し,子どもを産み育てることで(注釈・たとえ子を産まなくても女性はみな天賦の母性を持つ点で男性にない性質を有する.)家庭の心臓( “heart” )となるための秀でた感情をお与えになりました.男性に対しては,家庭の長(頭(かしら))( “head” )となり家族一家全員を天国に導いて行けるよう,そのための優れた理性をお与えになったのです.女性は家族の中で家庭生活を送るように,男性は社会の中で公的生活を送るようにとの神の御計画のもとに両性は設計されているのです.

したがって,女性,母親はできる限り家族の話に耳を傾け家庭のことによく注意を払うべきで,それはそうするための天賦の才を女性,母親が持つからです(旧約聖書・格言の書:第31章に記される,神の御言葉自らが描写した真に「強い女性」をご覧ください)(注釈・後記…2.).それに対し,女性,母親が元来向いていない(家庭の外での)公共の事柄に携わったり口をはさむのは通常はなるべく控えるべきです.女性,母親は生来そうあるべく神に創造されていないからです.今日の問題は,神を信じないために意気地無しとなった男性が指導力の空白を放置し,女性がそこへ入りこまなければならないということです.しかも,善良な女性は不本意ながらそうしているのです.私の親愛なる若き友人よ,真の男性をお作りになる神の御母の聖なるロザリオの祈りを毎日15連(喜び,悲しみ,栄光の各神秘をそれぞれ5連ずつ)祈りなさい.(注釈・後記…3.)あなた自身を神で,神で,神で,一杯に満たしなさい.そうすれば,あなたは女性が絶対に必要とする三つの l ( “the three l’s” (アルファベットの “ l (エル) ” ))を彼女たちに与えることができるでしょう.それは,耳を傾けること( “to be listened to” ),愛されること( “to be loved” ),リードされること( “to be led” )です.神(への信頼)なしでは,あなたは女性からいいようにあしらわれることになるでしょう.

私は真剣に毎日ロザリオ15連を祈るよう勧めます.それ以下ではだめです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


1.(神の基本的な御計画についての詳しい解説)

神は,最終(究極)的に全人類を天国に住まわせるため,
(1)人を初めから男性と女性とに創造され,その際,両性に極めて相互補完的な性質を生来的にお与えになり,
(2)かかる男女が結婚するようにし,そうして一組の男女が一緒になったときに,男女で異なるそれぞれの特有の性質(男性性と女性性)で互いの弱点を補い合い,相互に助け合うことで完全な存在となるようにし(男性と男性,女性と女性同士でではない),
(3)その関係を通じて子どもを産み育て,もって子孫を増やし(繁殖し)地上に人口を形成するように創造された.
旧約聖書・創世の書:第1~5章,特に第1章26節~31節,第2章18節~24節を参照.(用語集に記載を予定)

(注釈)
神の御計画は,人が唯一の真の神と神が遣わされた神の御子キリストを知ることにより永遠の命を得ること(聖ヨハネ福音17章).
キリストが建てられたカトリック教会において,結婚(婚姻)は秘跡(超自然的な神の恩恵の印)の一つである.カトリック教会では以下の通り教える.
結婚の目的は,(1)子どもを産み育て,(2)男女の夫婦が互いに助け合い完成し合う(互いに愛,堅忍,犠牲を捧げる)ことを通して家庭生活を神に奉献し,家族みなが霊魂の救いに至ること.
独身者は,霊魂の救い(永遠の命)を得るため,同じ奉献生活を個人で神に捧げること.
天国ではみな天使のようになるので,めとったり嫁いだりすることはなくなる.結婚は身体のある地上生活(現世)だけでのことである.
(具体的な「奉献生活」については後日,用語集に記載を予定.)


2.(旧約聖書・格言の書:第31章…用語集に記載.)


3.(「ロザリオの祈り」について)

「ロザリオの祈り」
神の御母(聖母)の御生涯と共に御子キリストの御生涯を辿(たど)る祈り.
救世主たる神の御子キリスト(=人となられた「神の御言葉」=三位一体であられる唯一の神の第二の位格)により唯一の神が顕現されたが,そのキリストの御生涯(生誕の喜び・受難の苦しみ・復活の栄光)の神秘を通じて顕(あら)われた神の救世の御計画(=人の霊魂に永遠の命をお与えになること)を思い起こし,信仰・希望・愛・神への委託・堅忍などの恵みを,聖母の御取り次ぎを通して神に願う祈り.
この祈りは個人で捧げられるほか,教会,修道会等の共同体,家族で共同で(一緒に)唱えて捧げられる.
自分のためのみならず他者のためにも永福と神の御加護を願うために捧げられる.
(1)世の罪の贖いのため,キリストに倣って神に「償いと犠牲」を捧げるために祈る.
(2)罪人の回心のため,改心の恵みを神に願う(罪人のための執り成しの祈り).

(ロザリオの祈りの詳しい構成については,用語集に記載予定.)

(注釈)

人の命は現世で終わって消滅するのではなく,死後に身体(肉体)が腐敗し滅びてもその霊魂は不滅である.しかし,原罪を持つためどの霊魂も神から永遠の命を与えられなければ来世で天国に住まうことはできない.
短く儚(はかな)い現世における真の幸福は,労苦を避け欲を満たし楽を求めて過ごすことではなく,人生の長短に係わらず,神の掟に従って真面目に生活し,来世において神から祝福され永遠の命の報いを受けることにつながる生き方にある.
従って,現世において男女のどちらにとっても真に幸福な人生とは,神が創造された自然の摂理に従い神に祝福されて生活することのうちにある.すなわち,創造主である神を堅く信じ神に深く信頼して生きることが,真の強い男らしさ・真の強い女性らしさを作る.