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2016年6月4日土曜日

464 見捨てられた教会? 6/4

エレイソン・コメンツ 第464回 (2016年6月4日)

絶望のどん底にあっては, 
詩篇作者が救いを示してくれます.神を信じ,祈りなさい. 
In circumstances of wholesale despair 
The Psalmist teaches, trust in God, and prayer.

今日,私たちの周囲のほとんどすべての物事や人々の混乱状態が日増しに深まり,教会内部ではすべての人々がいがみ合っているように見えます.だが,そのような中で,おそらく3千年も前に詩篇作者が,同じように神の敵(かたき・てき)の迫害に苦しむ人々を救ってくださるよう神に懇願(こんがん)したことを知れば,私たちは心強く感じるに違いありません.今と同じように当時,神の敵は傲慢(ごうまん)にも神に立ち向かい,その傲慢さは「日増しに増大し続け」,彼らはあらゆることをして神の神殿,その宗教を破壊し,神は彼らが大いに成功することを許されました.以下に紹介するのは詩篇・第73篇(邦訳聖書〈フェデリコ・バルバロ神父訳・講談社出版〉第74篇)です.最小限の注釈をイタリックで加えてあります.
As day by day the chaos increases in almost everything and everybody around us, and inside the Church it seems as though everybody is against everybody, it is certainly reassuring to find that the Psalmist of maybe 3,000 years ago cried out to God to come to the aid of his people, in similar distress from his enemies. Then as now they rose up in their pride against him, their pride “ascends continually”, they have done their best to wreck his Temple and his religion, and he has allowed them much success. Here is Psalm 73 (74), with minimal notes of explanation in italics:--

A. 神は敵が御自身とその教会に勝つのをどのようにお許しになられたのでしょうか?

(1)ああ神よ,御身はなぜ我らを終局にいたるまで見捨てられたのでしょうか? 御身は,なぜ御身の牧場に群れる羊たちへの怒りに火をつけられたのでしょうか?  (2)御身が初めから保持されてきた御身の聖会(公教会/カトリック教会)( "Thy congregation (Catholic Church) " )(訳注3・1=〈御身の=神の〉信徒会・聖会〈=公教会/カトリック教会 〉・修道会)を思い起こしてください.御身が御救いになった遺産の王笏(おうしゃく= "sceptre" )(訳注3・2),すなわち,御身が御住まいになったシオンの山(公教会/カトリック教会)を思い起こしてください. (3)彼ら(神の敵たち )に対し最後にいたるまで御身の御手を持ち上げてください.敵が(神の)聖域(=至聖所)で行った悪辣(あくらつ)なことをご覧になってください. (4)御身を嫌う彼らは,御身の尊厳を無視して自分たちの行いを自慢しました.彼らは自分たちの旗を自らのシンボルとして掲(かか)げました. (5)彼らは出口でも最上段(神殿の諸々の門〈扉〉と高嶺の極み〈たかね の きわみ〉)( "Temple gates and summit" ) でも(神の神聖さ )( "the holiness of God"  )など知ろうとしませんでした.斧〈おの〉で森の木を切るように, (6)彼らはただちに神殿の諸々の門(扉)を斧と鉈(なた)で割り(第二バチカン公会議),神殿そのものを倒しました. (7)彼らは御身の聖域(=至聖所 "Thy sanctuary" )に放火し,この世における(地上の)御身の御名の住み家(公教会/カトリック教会)を汚(けが)しました. (8)彼らは同類たちと一緒に,地上のあらゆる祝日(公教会/カトリック教会典礼)を廃止しようと心の中で叫びました.(9)以来我らの諸々の証印(シンボル "signs" )は姿を消しました.今では預言者もいません.そして,神はもはや我らのことなど知ろうとなされません(神は諦〈あきら〉めてしまわれ,我らは独力で生きなければならない状態に置かれています ). (10)ああ神よ,敵はいつまで恥辱〈ちじょく〉行為を続けるのでしょうか? 敵は御身の御名に永遠に挑(いど)み続けるのでしょうか? (11)御身はなぜ手を引かれるのでしょうか? なぜ御身は右手をいつまでも引き込めたままでおられるのでしょうか?

A. How can God be allowing the triumph of His enemies against His own Church ? 

[1] O God, why hast Thou cast us off unto the end: why is Thy wrath enkindled against the sheep of Thy pasture? [2] Remember Thy congregation (Catholic Church), which Thou hast possessed from the beginning. The sceptre of Thy inheritance which Thou hast redeemed: Mount Sion (Catholic Church) in which Thou hast dwelt. [3] Lift up Thy hands against their (God's enemies) pride unto the end; see what things the enemy hath done wickedly in the sanctuary. [4] And they that hate Thee have made their boasts, in the midst of Thy solemnity. They have set up their ensigns for signs, [5] and they knew not (the holiness of God) both in the going out and on the highest top ( Temple gates and summit). As with axes in a wood of trees, [6] they have cut down at once the gates thereof, with axe and hatchet (Vatican II) they have brought it down. [7] They have set fire to Thy sanctuary: they have defiled the dwelling place of Thy name (Catholic Church) on the earth. [8] They said in their heart, the whole kindred of them together: Let us abolish all the festival days of God (Catholic liturgy) from the land. [9] Our signs we have not seen, there is now no prophet: and He will know us no more (God has given up. We are on our own.) [10] How long, O God, shall the enemy reproach: is the adversary to provoke thy name for ever ? [11] Why dost thou turn away Thy hand: and Thy right hand out of the midst of thy bosom for ever?

B. だが,神は救い,歴史,万物の主です.

(12)だが,神は古代以前から我らの王です.神はこの世での救いを引き受けてこられました.(13)御身(=神)は御身の御力で海をなだめられました(紅海横断 ),御身はドラゴン(エジプト人たち )を海に沈められました.(14)御身はドラゴンの頭(エジプト王)をお壊しになられました.御身は彼を肉としてエチオピア人の民に与えられました.(15)御身は泉や川を壊されました.御身はイーサン(「イーサンの川」=「激流」(の川)を意味する.たとえば旧約聖書・ヨシュアの書:第3章を参照)の川( "the Ethan rivers" ) を枯らしました.(訳注後記 B-1)(訳注後記 B-2 )(訳注後記 B-3) . (16)御身は昼であられ夜であられます.御身は朝の光と太陽をお造りになりました.(17)御身はこの世のあらゆる境界を造られました.夏,春は御身の創造物です.(訳注後記 B-4)

B. But God is the Master of salvation, of history and of all Nature. 

[12] But God is our king before ages: he hath wrought salvation in the midst of the earth. [13] Thou by Thy strength didst make the sea (Red Sea crossing) firm: Thou didst crush the heads of the dragons (Egyptians) in the waters. [14] Thou hast broken the heads of the dragon (Egyptian king) : thou hast given him to be meat for the people of the Ethiopians. [15] Thou hast broken up the fountains and the torrents: Thou hast dried up the Ethan (running strongly, e.g. Jos. III) rivers. [16] Thine is the day, and Thine is the night: Thou hast made the morning light and the sun. [17] Thou hast made all the borders of the earth: the summer and the spring were formed by Thee.


C. ああ神よ,御身の貧しい民を御忘れにならないでください.そして,御身の傲慢な敵を倒してください.

(18)このことを思い起こしてください.敵は主を咎(とが)め,愚かな民は御身の名声に挑みました.(19)御身に懺悔(ざんげ)する者たちを獣(けだもの)に落とし込まないでください.そして,御身の貧しい民たちの魂を最後まで忘れないでください.(20)御身の御約束(新約聖書 )に御配慮ください.この世でおぼつかない魂が邪悪の住み家にあふれているからです.(21)貧しい民たちを追い払って困らせないでください.貧しき民,愛に飢えた民は御身の御名を讃えるでしょう.(22)ああ神よ,立ち上がり,御身御自身への訴えを御裁きください.御身の叱責から愚かな民が御身の体面(面目)を傷つけてきたことを(訳注5・1・「愚かな民が御身の体面(面目)を傷つけてきたことを」=「神を名誉を汚〈けが〉す・神に恥をかかせる・神の名誉を辱しめる・神の価値を低める」などの意味.)思い起こしてください.(23)御身の敵どもの声を御忘れにならないでください.御身を憎む彼らの傲慢さは日増しに増大します.

C. O God, forget not your own humble people, and crush your proud enemies. 

[18] Remember this, the enemy hath reproached the Lord: and a foolish people hath provoked Thy name. [19] Deliver not up to beasts the souls that confess to Thee: and forget not to the end the souls of Thy poor. [20] Have regard to Thy covenant (New Testament) : for they that are the obscure of the earth have been filled with dwellings of iniquity. [21] Let not the humble be turned away with confusion: the poor and needy shall praise Thy name. [22] Arise, O God, judge thy own cause: remember Thy reproaches with which the foolish man hath reproached Thee all the day. [23] Forget not the voices of Thy enemies: the pride of them that hate Thee ascendeth continually.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教




* * *


第4パラグラフ( B. )の(訳注)(「アルノン川」と「ヨルダン川」=「イーサンの川」=激流の大河.)


・訳注B-1 … 荒野の書:第21章13節

→「アルノン川」=死海に入る川でヨルダン川に次ぐ大きさである.


・訳注B-2 … ヨシュアの書:第3章

→(説明)エジプトを脱出したイスラエルの民は40年間荒野を放浪した末,神の御計画で,前任の預言者モーゼの後を継いだヌンの子ヨシュアの指揮によってカナンの地に入る.

第3章では,「全地の支配者なる主」の「聖櫃(せいひつ)(=〈訳注〉「『神と〈預言者モーゼを代表する〉イスラエルの民との間で交わされた)契約』の箱(櫃)」)」(ヨシュアの書:第3章13節)を運ぶ祭司たちがイスラエルの民の先頭に立って,ヨルダン川の水に足をつける場面.

祭司たちがヨルダン川の水に足をつけると水は分かれて一かたまりになって止まり,民は乾いた所を渡ることが出来た.これは神なる主が起こされた不思議(奇跡)である.

「契約の櫃」を運ぶ祭司たちは,すべての民がヨルダン川を渡りきるまで,ヨルダン川の中央の乾いたところにじっと足を止め,そこを動かなかった.(後述を参照)


・訳注B-3 … ヨシュアの書:第3章15節,16節,17節.

『15 (契約の)櫃(ひつ)を運ぶ人々がヨルダン川に着き,祭司たちの足が水に触れると―― * ヨルダン川は刈り入れどきの間ずっと岸からあふれ出るほどの水があった――

16 水は止まった.川上から流れてくる水はアダムからザルタンの城壁にわたる広い地域に一かたまりになった止まり,アラバの海,つまり塩の海に入る水は流れ終わった.民はイェリコ(これから主なる神がイスラエルに与えようとされる都市の名)に向かう地点から川を渡った.

17 契約の櫃を運ぶ祭司たちは,ヨルダン川の中央の乾いたところにじっと足を止めた.イスラエルの民一同は乾いたところを渡りはじめ,民がすべてヨルダン川を渡りきるまで,祭司たちはそこを動かなかった.』


(注釈)

 「ヨルダン川を渡る」

15. 大麦刈り入れのころ(三 (3),四 (4) 月),ニサンの月にヘルモン山の雪がとけてヨルダン川がよく氾濫(はんらん)した.
歴史を見ると大なだれがあってこの川の流れが止まったことや道を変えたことがあった.
一二六七 (1267) 年,一九二七 (1927) 年にもそういうことがあった.
神はそういう自然現象を利用されたのかもしれぬ.


・訳注B-4 … ヨシュアの書:第4章


詩篇第73(74)篇(日本語)
PSALMUS 73 (latina)

1.『*アサフの歌. 神よ,なぜいつまでもわれらを見捨て, あなたの牧場の羊に怒りを燃やされるのか.
Intellectus Asaph. Ut quid Deus repulisti in finem: iratus est furor tuus super oves pascuæ tuæ? 

2. 昔,あなたが買われた民を, 買いもどされた遺産の民を, 住まいと定められたこのシオンの山をかえりみ,
Memor esto congregationis tuæ, quam possedisti ab initio. Redemisti virgam hereditatis tuæ: mons Sion, in quo habitasti in eo. 

3. 限りなきこの廃墟に御足(おんあし)を向けたまえ. 敵は聖所のすべてを略奪し,
Leva manus tuas in superbias eorum in finem: quanta malignatus est inimicus in sancto!

4. 集会のところでほえ, 自分のしるしをそこにかかげた.
Et gloriati sunt qui oderunt te: in medio solemnitatis tuæ. Posuerunt signa sua, signa:

5. それは深い森に, おのを打ち下ろすに似ていた.
et non cognoverunt sicut in exitu super summum. Quasi in silva lignorum securibus

6. 突如,神殿を まさかりと槌で打ち砕き,
exciderunt ianuas eius in idipsum: in securi, et ascia deiecerunt eam.

7. 聖所に火をつけ, み名の住まいを地まで汚(けが)し
Incenderunt igni Sanctuarium tuum: in terra polluerunt tabernaculum nominis tui.

8. 心のなかで,「一まとめにして滅ぼそう」と言いながら, 国内の礼拝所をみな焼き払った.
Dixerunt in corde suo cognatio eorum simul: quiescere faciamus omnes dies festos Dei a terra.

9. われらのしるしはもう見えず, 預言者ももういない. * それがいつまで続くのか,われらのうちに知る者はない.
Signa nostra non vidimus, iam non est propheta: et nos non cognoscet amplius. 

10. 神よ,仇はいつまで冒涜のことばを吐き, 敵はいつまでみ名をののしるのか.
Usquequo Deus improperabit inimicus: irritat adversarius nomen tuum in finem? 

11. なぜ,あなたは手を引き, 右の手をふところに隠されたのか.
Ut quid avertis manum tuam, et dexteram tuam, de medio sinu tuo in finem?

12. だが,神は昔から私の王であり, 地の中で救いを行われ,
Deus autem rex noster ante sæcula: operatus est salutem in medio terræ.

13. そのみ力で海を分け, 水の上の竜の頭を砕き,
Tu confirmasti in virtute tua mare: contribulasti capita draconum in aquis.

14.*レビアタンの頭を割り, *海の大魚のえさとし,
Tu confregisti capita draconis: dedisti eum escam populis Æthiopum. 

15.*泉とせせらぎを開き, 尽きざる水の川を干上がらせたもうた.
Tu dirupisti fontes, et torrentes: tu siccasti fluvios Ethan.

16. 昼も,夜も,あなたのものである. 月も太陽もあなたが備え,
Tuus est dies, et tua est nox: tu fabricatus es auroram et solem.

17. 地の堺を定め, 夏と冬をつくられた.
Tu fecisti omnes terminos terræ: æstatem et ver tu plasmasti ea.

18. 思いたまえ主よ,敵はあなたをののしり, 愚かなある民はみ名をのろった.
Memor esto huius, inimicus improperavit Domino: et populus insipiens incitavit nomen tuum.

19. あなたの山ばとの命を,はげたかに渡さず, あなたの小さな者の命を,いつまでも忘れ去らず,
Ne tradas bestiis animas confitentes tibi, et animas pauperum tuorum ne obliviscaris in finem.

20. 契約を思い出したまえ,秤(はかり)は満ち, 地の穴は暴力の住まいとなった.
Respice in testamentum tuum: quia repleti sunt, qui obscurati sunt terræ domibus iniquitatum.

21. しいたげられる者が,辱められたままもどらぬように, 貧しい者,不幸な者にみ名をたたえさせよ.
Ne avertatur humilis factus confusus: pauper et inops laudabunt nomen tuum. 

22. 神よ,立ってあなたへの訴えを守り, 日々あなたをののしる愚か者を記憶し,
Exurge Deus, iudica causam tuam: memor esto improperiorum tuorum, eorum quæ ab insipiente sunt tota die.

23. 敵の叫びを, たえまなく高まる仇の騒ぎを忘れたもうな.
Ne obliviscaris voces inimicorum tuorum: superbia eorum, qui te oderunt, ascendit semper.


 (注釈)

神殿略奪後の嘆き

1. タルグムによると,22節の「愚か者」は神殿の門を焼き(マカバイ上4・38,同下1・8),聖所を汚し(同上1・23,39,同下6・5),狂気の王と呼ばれたアンティオコ・エピファネ王を指す.
しかしこの時はカルデア軍の神殿略奪を歌ったともとれる(歴王下25・9,イザヤ64・10).
このとき以来預言者は声をひそめた(9節).

9. エレミア(25・11,29・10)は七十年の流謫(るたく)を告げていた.
七十年とは長い年月をさす象徴的な数である.

14. 伝説的な海の怪魚(イザヤ27・1,ヨブ3・8). 

* ここは紅海を渡ったこと(脱出14・30),エジプト人の敗北を語る.

15. 脱出(17・1-7)の奇跡を暗示する(ヨシュア3章).

19. ホゼアはイスラエルを雌バトにたとえた.





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邦訳文及び訳注の校正を続けます.











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本投稿記事・第464回エレイソン・コメンツ「見捨てられた教会」(2016年6月4日付)/ELEISON COMMENTS CDLXIV (June 4, 2016) : "CHURCH ABANDONED?" は2016年12月17日24時27分に掲載されました.
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2016年2月6日土曜日

447 究極の難題 II 2/6

エレイソン・コメンツ 第447回 (2016年2月6日)

(解説無し)

ハンセン氏病の母から逃げ出す息子たちもいるでしょう.
だが,恐れずに近寄る息子たちもいるでしょう.
A leprous Mother some sons will desert.
Others will get too close, not being alert.

私は先週の「コメンツ」で「地雷原」に再び足を踏み入れ,第二バチカン公会議後に変わったカトリック教会にはまだカトリック教的なものが残っているとする立場を弁護しました.この立場には強い賛否両論があります.たとえば、ピオ十世会( "SSPX" )の現在の指導者たちは,ローマ教皇庁の公式教会は依然としてカトリック教の特質をとどめているのだから, SSPX としてはその正式承認を求めないわけにはいかないとの立場で行動します.他方,カトリック信仰を実際に持ち続けている多くの人たちは,「教皇」フランシスコが率いる「教会」にはカトリック的なものなど一切ないと強く否定します.以下は,いずれの立場にも真実があることを見定めようとする試みです.
Two weeks ago these “Comments” stepped back onto a minefield, and defended the position that there is still something Catholic in what has become of the Catholic Church since Vatican II. That position is highly disputed. For example on the one side the present leaders of the Society of St Pius X act as though the official Church in Rome is still so Catholic that the SSPX cannot do without its official recognition. On the other side many souls that really have the Catholic faith utterly repudiate the idea that there is still anything Catholic whatsoever left in the “Church” now being led by “Pope” Francis. What follows is just one attempt to discern what truth may be on both sides. 

問題の核心にあるのはモダニズム(近現代主義)で,これは第二バチカン公会議の本質的な病魔です.モダニズムはその性格そのもののため,ほかに類を見ないくらい捉えどころのない動物です.これは,モダニズムの原則がカトリック教義を本質的に反カトリック的な世界に順応させようとするからです.これにより,パウロ6世やベネディクト16世といった公会議派教皇たちは,カトリック教の伝統を捨てること,守ることの双方を同時に望みます.正気の人間にとって,これは相反することですから不可能です.だが,公会議派教皇たちは現代世界に適応するために選出されているため,正気な心を持ち合わせておらず,代わりに彼らが血の中に持っているのは現実の矛盾です.そして,彼らが50年近くも教会をその狂気に合わせようとしてきたため,公会議前の教会とはまったく違う教会が現出しました.これは新教会( "Newchurch" )と呼ぶにふさわしい現実です.
At the heart of the problem is modernism, which was the essential disease of Vatican II. Modernism is necessarily, by its very nature, a uniquely slippery animal. This is because its basic principle is to adapt Catholicism to the intrinsically anti-Catholic modern world. Thus Conciliar Popes like Paul VI and Benedict XVI wanted both to break and not to break with Catholic Tradition. For any sane mind this is impossible, because it is contradictory. But since these Popes get elected to correspond to the modern world, then they do not have sane minds, instead they have the contradiction of reality in their bloodstream. And since they have had nearly 50 years to conform the Church to their insanity, from top to bottom, then there has emerged a Church so different from the pre-conciliar Church that it is a reality deserving the name of Newchurch.


その上,たとえば 祝福された秘蹟の祝別のように,今日の新教会で公会議前のカトリック教活動が実践されている場合でも,そこに出席している人々の頭の中にある新教会の精神的基盤は確固としたものからほど遠いものになりがちです.なぜなら,キリストの現存という教理は伝統的でもあり非伝統的でもあり,それは新しく任命された司祭たちにより聖別されてきたものであり,しかも彼らは司祭かどうかはっきりしないからです.彼らはあなたたち次第では司祭であり,同時に,あなたたち次第では単なる司式者にすぎません.あなたたちがそうと感じることすべてが真実です.なぜなら,心は現実から外れているからです.心は諸諸の心地よい主観的感情の中を泳ぎ回っており,すべての人たちが(ほとんど)そうしているので,心は自ら何をしているのか気づいていません.真実の信仰を持っている人にとって,そのような客観性の欠如は心地よいどころか,気分が悪くなるだけでしょう.そのような人たちが新教会のすべてを否定するのはなんら不思議ではありません.
Moreover, even where a pre-conciliar Catholic practice, like for example Benediction of the Blessed Sacrament, is maintained in today's Newchurch, the mental foundation on which it rests in the heads of those attending is liable to be anything but solid, because the doctrine of the Real Presence is both Traditional and not Traditional, it having been consecrated by up-dated priests, who are both priests and not priests. They are priests if you want, but also and at the same time merely presiders if you want. Whatever you feel like is what is true, because the mind is unhooked from objective reality. It is swimming in nice subjective feelings, and unaware of what it is doing, because everybody (almost) is doing it. To anyone having the real Faith, such lack of objectivity is far from nice, it is nauseating. No wonder such souls can repudiate the totality of the Newchurch. 

だが,現実を尊重するとすれば,新教会にも依然として信仰が残っていることを認めないわけにはいかないでしょう.ある平信徒は私に,自分の父は45年も忠実に新式ミサ( "NOM" )に出席してきたが,それでも信仰を持ち続けていると話します.ある司祭は私に,女性の平信徒がルフェーブル大司教に NOM に出席せざるを得ない諸理由を告げたところ,大司教はただ肩をすくめただけだったことを思いだすと語ります.カトリック信仰が NOM のあらゆる誤りによる襲撃を生き延びたという私に寄せられた証言は,この何倍にもおよびます.そうした証言の根拠が真実なのは明白です.主観的で曖昧な宗教の本質的な部分として, NOM はあなたの思い通りのものになりえます.司祭は NOM を「きちんと」執り行えますし,カトリック信徒は NOM に「熱心に」出席できます.私が二つの言葉に括弧を付けたのは, NOM に品位や本物の信仰心などあり得ないという強硬派の気持ちをなだめるためです.だが,強硬派がそのようなことを言う場合,私は彼らが現実を無視しているのだと考えます.ありがたいことに,神が審判を下してくださいます.現状通りの NOM がカトリック教の品性や信仰心を台無しにし,むしばみ続けているのは疑いのないところです.だが,そのようなものは「新教会」に一切残っていないと言い切るのは著しい誇張だと私には思えます.
But if one respects reality, one is bound to admit that there is still faith in the Newchurch. A layman tells me that his father has faithfully attended the NOM for the last 45 years, and still has the faith. A priest tells me that he can remember a laywoman presenting to Archbishop Lefebvre himself her reasons for needing to attend the NOM, and he merely shrugged his shoulders. And I could multiply these testimonies that have come to me of the Catholic faith surviving the onslaught of all that is wrong in the NOM. The reason for these testimonies being real should be obvious. As an essential part of the subjective and ambiguous religion, the NOM can be what you make of it. A priest can celebrate it “decently”, a Catholic can attend it “devoutly”. The inverted commas are to placate the hard-liners who will insist that with the NOM there can be neither true decency nor true devotion, but when they say such things, I think that they are flying in the face of reality. Thank goodness, God is judge ! No doubt the NOM as it stands is undermining and eroding Catholic decency and devotion all the time, but to say that there is by now nothing at all of these left in the “Newchurch” seems to me to be a gross exaggeration. 

私は SSPX 指導者たちが新教会への再編入を望むのが正しいと言っているのではありません.とても正しいとは言えません.まだ主観主義に染まっていない同会の羊たちは恐ろしい危険に晒されたままですし,その牧者たちも免疫を備えているわけではありません.カトリック教会内で主観主義をほしいままにする司教たちに災いあれ.彼らの責任は極めて重大です.
Not that the SSPX leaders are right to be wanting to be re-incorporated in the Newchurch, far from it. Whatever sheep therein are not yet infected by subjectivism are wide open to the terrible danger, nor are shepherds immune. Woe to the bishops who let loose subjectivism inside the Catholic Church. They bear a tremendous responsibility.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教


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本投稿記事・第447回エレイソン・コメンツ「究極の難題 II」(2016年2月6日付)/ELEISON COMMENTS CDXLVII (Feb. 6, 2016) : "CONUNDRUM SUPREME II" (解説無し)は2016年3月21日午前05時00分に掲載されました.
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2015年9月5日土曜日

425 愛徳の順序 9/5


解説付き版

エレイソン・コメンツ 第425回 (2015年9月5日)

私たちの嘘の世界は
往々にして 「黒は白だ」と言います.
(わたくし たちの うその せかいは
おうおう にして 「くろは しろだ」と いいます.)
( "Often our world of lies says, “Black is white.” " )

神を尺度とするなら,
公教徒達(=カトリック教徒達」)は 正しく測ります.
(かみを しゃくど と する なら,
こう きょうと たち〈=かとりっく きょうと たち〉は ただしく はかり ます.)
( "With God for measure, Catholics measure right." )

公教会(=カトリック教会)( "the Catholic Church" )は「人種差別」“racism” に就いて如何考えるでしょうか?(こうきょうかい〈かとりっくきょうかい〉は「じんしゅ さべつ」に ついて どう かんがえる でしょうか?) 「反ユダヤ主義」 “anti-semitism” (訳注後記0・1 )に就いては?(「はん ゆだや しゅぎ」に ついては?) 「(女)性差別」 “sexism” に 就いては?(「(じょ)せい さべつ」に ついては?) 或(い)は「同性愛嫌悪」 “homophobia” に就いては?(あるい は 「どうせい あい けんお」に ついて は?)( "What does the Catholic Church think of “racism”? Or of “anti-semitism”? Or of “sexism”? Or of “homophobia”? " ) 他にも多々在ります(ほか にも たた あり ます.)( "And so on and so on." ).誰もが他の誰に対しても親切だと想定されて居るリベラルな世界で(だれ もが ほか の だれ に たいし ても しんせつ だ と そうてい されて いる りべらる な せかい で)( "In a liberal world where everybody is supposed to be nice to everybody, …" ),私達全てが憎むべき様な新しい階級の人々に就いて「差別語禁止」が定期的に出て来るのは驚くべき事では無いでしょうか?(わたくし たち すべて が にくむ べき ような あたらしい かいきゅう の ひとびと に ついて「さべつ ご きんし」が ていき てき に でて くる のは おどろく べき こと では ない でしょうか?)( "… is it not surprising how “political correctness” seems to come up regularly with a new class of people for all of us to hate? " ) 公教会(カトリック教会)は,(其の創立者で在られる)神授の(=神聖な)真の教師(=神の御独り子主イエズス・キリスト)( "its divine Master" )の聖教(みおしえ)に従い私達は隣人を愛し,誰も憎むべきで無いと説いて居ます(こう きょうかい〈かとりっく きょうかい〉は,〈その そうりつしゃ で あられる〉しんじゅ の〈=しんせい な〉まこと の きょうし〈=かみ の おん ひとりご しゅ いえずす・きりすと〉の みおしえ に したがい わたくし たち は りんじん を あいし,だれ も にくむ べき で ない と といて います)(訳注後記0・2 ).だが教会は,私達に仲間の全てを無差別に愛せとは説いて居ません(だが きょうかい は,わたくし たち に なかま の すべて を むさべつ に あいせ と は といて いません)( "… but it does not say we should love all our fellow-men indiscriminately." ).偉大な公教会(カトリック教会)の神学者( "a great Catholic theologian" )が私達の神や人に対する愛に何の様な順序を付けたか振り返って見ましょう(いだいな こうきょうかい の しんがくしゃ が わたくし たち の かみ や ひと に たいする あい に どのような じゅんじょ を つけたか ふりかえって みましょう)( "Let us see how a great Catholic theologian puts order into our love of God and man." ).以下に紹介為るのは聖トマス・アクィナス( "St Thomas Aquinas" )の「神学大全」( "Summa Theologiae" )に含まれる十三か条の骨子,第二部第二巻,第二十六問(題)(=問26) ( "2a 2ae, Question 26" )です(いかに しょうかい する のは せい とます・あくぃなす の「しんがく たいぜん」に ふくまれる じゅうさん かじょう の こっし,だい に ぶ だい に かん,だい にじゅう ろく もん〈だい〉〈=とい にじゅう ろく〉 です):-- ( "Here are the bare bones of the 13 Articles of St Thomas Aquinas’ Summa Theologiae, 2a 2ae, Question 26:— " )
(訳注後記0・1) 「反ユダヤ主義」“anti-semitism” )
(訳注後記0・2 ) ① (i) 「公教会(カトリック教会)」の創立者すなわち「神授の真の教師」=「キリスト」「メシア(=メサイア)」.(ii) 「キリスト・メシア」の意味=「救世主」.「イエズス・キリスト」とは,即ち「救世主イエズス」の事である.「イエズス」の御名については,後述の「訳注の続き」をご参照下さい.②「公教会の教え」=「神(天主)の十戒」

1 愛徳 "Charity" には一つの真正の順序が在る(あいとく には ひとつの しんせい の じゅんじょ が ある)(訳注後記 1・1「神の十戒」を参照).何故なら,其れは超自然的至福に於ける友情であり(なぜなら,それは ちょう しぜん てき しふく に おける ゆうじょう で あり),其の至福は神を出発点とする物(為る物)だからです(その しふく は かみを しゅっぱつ てん と する もの だから です)( "1 Charity does have an order, because it is a friendship in supernatural bliss, and that bliss has its starting-point in God, …" ).貴方が出発点から物事を辿る場合(あなたが しゅっぱつ てん から ものごと を たどる ばあい),何時でも順番を付けるでしょう(いつでも じゅんばん を つける でしょう)( "… and wherever you have things following from a starting-point, you have an order." ).(公教徒〈=カトリック教徒〉が重要な問題となる(為る)と如何に直ちに神に委ねるかに注目して下さい.リベラル派(=自由主義派)は自分達の「親切さ」“niceness” の出発点に就いて,先ず何に委ねるのでしょうか? ナチスに対する憎悪でしょうか? 真面目な問いです…)〈こうきょうと〈=かとりっく きょうと〉が じゅうよう な もんだい と なると いかに ただちに かみに ゆだねるか に ちゅうもく して ください.りべらるは〈じゆう しゅぎ は〉 は じぶん たちの「しんせつさ」の しゅっぱつ てん に ついて,まず なに に ゆだねる ので しょうか? なちす に たいする ぞうお でしょうか? まじめな とい です…〉( "… (Notice how the Catholic immediately refers a major question to God. What might liberals immediately refer to as the starting-point of their “niceness”? Hatred of Nazis? Seriously… ) " )

2 愛徳に於いては隣人 "neighbour" よりも勝って神を愛さなければ為らない(あいとく に おいては りんじん よりも まさって かみを あいさなければ ならない)( "2 Charity must love God above neighbour, …" )(訳注後記 2・1「隣人とは誰か?」).何故なら,愛徳は至福に於ける友情( "charity is a friendship in bliss" )で有り(なぜなら,あいとく は しふくに おける ゆうじょう であり),私自身や私の隣人の為のあらゆる至福は神を源泉として居るからです(わたくし じしん や わたくし の りんじん の ため の あらゆる しふく は かみ を げんせん と している から です)( "… because charity is a friendship in bliss, and all bliss for myself or my neighbour has its source in God. " )(訳注後記2・2「神の十戒・第一項」を参照).(リベラル派は自らの幸福の源泉を何処に置いて居るのでしょうか? 自己達成感でしょうか? 其れとも自分達の仲間でしょうか? 此れ等は,幸福の形態としては相対的に貧弱な物です.)〈りべらるは は みずから の こうふく の げんせん を どこ に おいて いる ので しょう か? じこ たっせい かん でしょうか? それとも じぶん たち の なかま でしょうか? これら は,こうふく の けいたい と しては そうたい てき に ひんじゃく な もの です.〉( " (Where do liberals place the source of their happiness? In self-fulfilment? In their fellow-men? These are relatively poor forms of happiness.) " )
(訳注後記 2・1 )「隣人とは誰か?」→福音書のキリストによる「善きサマリア人」のたとえ話を参照.

3 神は自己以上に愛されなければ為らない(かみ は じこ いじょう に あいされ なければ ならない)( "3 God must be loved above self, …" ).何故なら,あらゆる(無傷の)生き物は其其(其々)の遣り方で(なぜなら,あらゆる〈む きず の〉いきもの は それぞれ の やりかた で),自分達自身の善より共通の善を自然に愛すからです(じぶん たち じしん の ぜん より きょうつう の ぜんを しぜん に あいす から です)( "… because all (unspoiled) creatures, each in their way, naturally love the common good above their particular good, …" ).神はあらゆる物の中で(かみ は あらゆる もの の なか で),自然的且つ超自然的な共通の善です(しぜん てき かつ ちょう しぜん てき な きょうつう の ぜん です)( "… and God is the natural and supernatural common good of all." ).

4 霊的自己(=自己の霊魂)( "Spiritual self" )は霊的隣人(=隣人の霊魂《=隣人の心・気持ち》)( "spiritual neighbour" )より愛されなければならない(れいてき じこ〈=じこ の れいこん《=じこ の こころ・きもち》〉は れいてき りんじん 〈=りんじん の れいこん《=りんじん の こころ・きもち》〉より あいされ なければ ならない)( "4 Spiritual self must be loved above spiritual neighbour, …" )(訳注後記4・1 , 4・2).何故なら,私は隣人より私自身に近い存在だからです(なぜなら,わたくしは りんじん より わたくし じしん に ちかい そんざい だから です)( "… because I am closer to me than I am to my neighbour …" ).従って,若し私が「霊的に」私自身を愛さないなら(=私自身の霊魂《=私自身の心・気持ち》に対して愛徳を持てないなら),私は隣人を愛せそうもありません〈=私は隣人の霊魂《=隣人の心・気持ち》に対して愛徳を持てそうもありません〉〈したがって,もし わたくしが「れい てきに」わたくし じしんを あいさない なら〈=わたくし じしん の れいこん《=わたくし じしん の りょうしん・きもち》 に たいして あいとく を もてない なら〉,わたくし は りんじん を あいせそう も ありません〈=わたくし は りんじん の れいこん《=りんじん の りょうしん・きもち》に たいして あいとく を もてそう も ありません〉( "… so that if I do not love me (spiritually), I am unlikely to love my neighbour." ).然しながら――(しかしながら――)( "But –" )
(訳注4・1)「霊的自己・霊的隣人(=自己や隣人の霊魂を指す)」=自己や隣人の真の人格的価値や良心(善良な気持ち)を意味する.)〈「れいてき じこ・れいてき りんじん=《じこ や りんじん の れいこん を さす》」=じこ や りんじん の まこと の じんかく てき かち や りょうしん《ぜんりょう な きもち》を いみ する.〉
(訳注後記4・2 )「自己の真の人格的価値」について.

5 霊的な隣人は肉体的な自己(=自己の身体的欲求)より愛されなければ為らない(れい てき な りんじん は にくたいてき な じこ より あいされ なければ ならない)( "5 Spiritual neighbour must be loved above corporal self, …" ).肉体的自己とは即ち(乃ち)私自身の肉体です(にくたい てき じこ とは すなわち わたくし じしんの にくたい です)( "… i.e., my own body, …" ).何故なら霊は肉体以前に来る物で在り(なぜなら れいは にくたい いぜん に くる もの であり)( "… because spirit comes before body, …" ),其の訳は神は至福に直接加わるのに対し(その わけ は かみは しふく に ちょくせつ くわわる のに たいし ),肉体は(霊魂を通して)間接的にだけ加わるものだからです(にくたいは〈れいこんを とおして〉かんせつ てき に だけ くわわる もの だから です)( "… because spirit partakes directly in bliss, while body partakes only indirectly (through spirit)." ).(訳注後記 5・1 ) 
(訳注後記 5・1)「肉の欲・目の欲・生活のおごり」〈新約聖書:使徒ヨハネによる第一の書簡・第2章16節〈12-17節を掲載〉を参照.

6 或る隣人達は,他の隣人達より愛されなければならない(ある りんじん たち は,ほか の りんじん たち より あいされ なければ ならない)( "6 Some neighbours must be loved more than others, …" ).何故なら,全ての隣人達は神に対する客観的な物と私に対する主観的な物という愛徳の両極への近さで,其其(其々)異なる存在だからです(なぜなら,すべて の りんじん たち は かみ に たいする きゃっかん てき な もの と わたくし に たいする しゅかん てき な もの と いう あいとく の りょうきょく への ちかさで,それぞれ ことなる そんざい だからです)( "… because they all vary in their closeness to one of the two poles of charity, objective to God, or subjective to me." ).諸諸の聖人達は神により近く,諸諸の隣人達は私により近い存在です(もろもろの せいじん たち は かみ に より ちかく,もろもろの りんじん たち は わたくし に より ちかい そんざい です)( "Saints are closer to God, neighbours to me." ).

7 客観的に言えば,諸聖人は諸親族(=親戚)より愛されなければならない(きゃっかん てき に いえば,しょ せいじん は しょ しんぞく〈=しんせき〉 より あいされ なければ ならない)( "7 Objectively, Saints will be loved more than relatives, …" ).だが,主観的には諸隣人の方が諸聖人より強く愛されるでしょう(だが,しゅかん てき には しょ りんじん の ほう が しょ せいじん より つよく あいされる でしょう)( "… but subjectively neighbours will be loved more intensely than Saints, …" ).何故なら,諸隣人の方が色々な形で諸聖人より近い存在だからです――「愛徳は家庭から始まる」です(なぜ なら,しょ りんじん の ほう が いろいろ な かたち で しょ せいじん より ちかい そんざい だから です――「あいとく は かてい から はじまる」です)( "… because in a variety of ways they are closer – “Charity begins at home.” " ).

8 基本的には,諸諸の血縁の親族(親戚)達は親族(親戚)で無い者より愛されなければならない(きほん てき には,もろもろ の けつえん の しんぞく〈しんせき〉たち は しんぞく〈しんせき〉 でない もの より あいされ なければ ならない)( "8 Essentially, blood-relatives will be loved above non-relatives, …" ).何故なら,血縁は自然な物で,固定的且つ実体的な物だからです(なぜなら,けつえん は しぜん な もの で,こてい てき かつ じったい てき な もの だから です)( "… because blood-ties are natural, fixed and substantial." ).但し,偶然的に血縁関係で結ばれた親族(親戚)以外の友情の絆の方がより強い事が有ります(ただし,ぐうぜん てき に けつえん かんけい で むすばれた しんぞく〈=しんせき〉いがい の ゆうじょう の きずな の ほう が より つよい こと が あります)( "Accidentally however, other ties of friendship can be more powerful." ).

9 客観的には,両親は子供達より愛されなければならない(きゃっかん てき には,りょうしん は こども たち より あいされ なければ ならない)( "9 Objectively, parents are to be loved more than children, …" ).何故なら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近い存在だからです(なぜなら,せいめい や おおく の りとく の げんせん として,りょうしん は かみ に より ちかい そんざい だから です)( "… because as sources of life and of many benefits, parents are closer to God, …" ).だが,主観的には,幾つかの理由で,子供達の方が私達により近い存在です(だが,しゅかん てき には,いくつか の りゆう で,こども たち の ほう が わたくし たち に より ちかい そんざい です)( "… but subjectively children can be closer to us for several reasons." ).

10 父親は母親より愛されなければならない.此れは字義通りです(ちちおや は ははおや より あいされ なければ ならない.これ は じぎ どおり です)( "10 Father should be loved more than mother, as such, …" ).何故なら,私達に生命を与える時に其其(其々)が果たす役割を見れば(なぜなら,わたくし たち に せいめい を あたえる とき に それぞれ が はたす やくわり を みれば)( "… because by the part each plays in giving us life,ten …" ),父親は形式的で能動的で在るのに対し(ちちおや は けいしき てき で のうどう てき である のに たいし)( "… the father is formal and active whereas …" ),母親は物質的(母系的)( "… the mother is material ( maternal ) " )で受動的だからです(ははおや は ぶっしつ てき〈ぼけい てき〉で じゅどう てき だから です)( "… the mother is material ( maternal ) and passive …" )(聖トマスは,今日見られる様な変性した人間で無く,正常な状態の人間に就いて書きました)(せい とます は ,こんにち みられる ような へんせい した にんげん でなく,せいじょう な じょうたい の にんげん に ついて かきました)( " (St Thomas was writing about human beings who are normal and not de-natured as they are today). " ).

11 客観的には,両親は妻より愛される事に為る(きゃっかん てき には,りょうしんは つま より あいされる こと に なる)( "11 Objectively, parents are to be loved more than wife, …" ).何故なら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近いからです(なぜなら,せいめい や おおく の りとく の げんせん として,りょうしん は かみ に より ちかい から です)( "… because as sources of life and of many benefits they are closer to God, …" ).然し,主観的には,妻は夫と合って「(二人は)一体」である為,両親以上に愛される物です(しかし,しゅかん てき には,つま は おっと と あって「〈ふたり は〉いったい」で ある ため,りょうしん いじょう に あいされる もの です)( "… but subjectively she who is “one flesh” with her husband is to be loved the more." )(訳注後記11・1 )
(訳注後記11・1)エフェゾ人への書簡:第5章31節.〈全章《第1-6章》を掲載〉.

12 客観的には,私達に善行を行う者は私達が善行を与える者より愛される事に為る(きゃっかん てき には,わたくし たち に ぜんこう を おこなう もの は わたくし たち が ぜんこう を あたえる もの より あいされる こと に なる)( "12 Objectively, somebody doing good to us is to be loved more than somebody we do good to, …" ).何故なら,彼等は私達に取って善の源泉だからです(なぜ なら,かれら は わたくし たち に とって ぜん の げんせん だから です)( "… because they are a source of good to us, …" ).然し,主観的な身近かさの為,私達は私達が善行を与える者をより愛する事が有ります(しかし,しゅかん てき な みぢか さ の ため,わたくし たちは わたくし たち が ぜんこう を あたえる もの を より あいする こと が あります)( "… but by subjective closeness we love the more somebody that we do good to, …" ).詰まり(詰り),「受け取るより与える方が恵まれている」と言う訳です(つまり,「うけとる より あたえる ほう が めぐまれて いる」と いう わけ です)( "… for various reasons, e.g . “It is more blessed to give than to receive.” " )(訳注後記12・1).
(訳注後記12・1)「受け取るより与える方が恵まれている」 新約聖書からの引用→使徒行録:第20章35節『…そうして働いて弱い人々を支え,主イエズス自ら言われた*³⁵〈受けるよりも与えることに幸せがある〉ということばを思い出さねばならぬことを,常にあなたたちに示しました」.』(使徒聖パウロのことば(〈注釈〉 *³⁵ このことばは福音書にはない.)

13 天国でも依然として愛徳の順序がある(てんごく でも いぜん として あいとく のじゅんじょ が ある).何にもまして神に対する愛が一番です(なに にも まして かみに たいする あい が いちばん です).また,神への近さに就いての隣人の客観的評価は,此の(地上の)世より天国での方が重視されます(また,かみ へ の ちかさ に ついて の りんじん の きゃっかん てき ひょうか は,この 〈ちじょう の〉よ より てんごく で の ほう が じゅうし されます).
13 There will still be an order of charity in Heaven, especially the loving of God above all. Also the objective grading of neighbour for his closeness to God will count more there than it does here on earth.

「人種差別」に就いては如何でしょうか?(「じんしゅ さべつ」に ついて は どう で しょうか?)何の人種が神若しくは私により近いでしょうか?(どの じんしゅ が かみ もしく は わたくし に より ちかい で しょうか?) 何の人種も同じとは限りません(どの じんしゅ も おなじ とは かぎり ません).「反ユダヤ主義」は? セム人は神の友人でしょうか,其れとも敵でしょうか?(「はん ゆだや しゅぎ」は?せむ じん は かみ の ゆうじん で しょうか,それとも てき〈=かたき〉で しょうか?)(訳注2・1 ) 「(女)性差別」 は?(「〈じょ〉せいさべつ」は?) 今日の女性達は私が神へ向かう時手助けに為るでしょうか,其れとも邪魔を為るでしょうか? (こんにち の じょせい たち は わたくし が かみ へ むかう とき てだすけ に なる でしょうか,それとも じゃま を する でしょうか?),「同性愛嫌悪」は如何でしょう? (「どうせい あい けんお」は どうでしょう?)「ホモ達」は神と如何両立するでしょうか?(「ほも たち」は かみ と どう りょうりつ する でしょうか?)
“Racism”? – which races are closer to God, or to me? They are not all the same. “Anti-semitism”? – are “Semites” friends or enemies of God? “Sexism”? – do today’s women help or hinder me on my way to God? “Homophobia”? – how do “homos” stand with God?

キリエ・エレイソン(主よ憐れみ給え). Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教



* * *


解説無し


私たちの嘘の世界は往々にして「黒は白だ」と言います. 
神を尺度とするなら,カトリック教徒たちは正しく測ります. 
Often our world of lies says, “Black is white.” 
With God for measure, Catholics measure right. 

カトリック教会( "the Catholic Church" )は「人種差別」 “racism” についてどう考えるでしょうか? 「反ユダヤ主義」 “anti-semitism” については? 「性差別」 “sexism” については? あるいは「同性愛嫌悪」 “homophobia” については? ほかにも多々あります.誰もがほかの誰に対しても親切だと想定されているリベラルな世界で,私たちすべてが憎むべきような新しい階級の人々について「差別語禁止」が定期的に出てくるのは驚くべきことではないでしょうか? カトリック教会は,(その創立者であられる)神授の真の教師(=神の御独り子主イエズス・キリスト)( "its divine Master" )の聖教に従い私たちは隣人を愛し,誰も憎むべきでないと説いています(訳注2・2 ).だが教会は,私たちに仲間のすべてを無差別に愛せとは説いていません.偉大なカトリック教の神学者が私たちの神や人に対する愛にどのような順序をつけたか振り返ってみましょう.以下に紹介するのは聖トマス・アクィナス( "St Thomas Aquinas" )の「神学大全」( "Summa Theologiae" )に含まれる13か条の骨子,第2部第2巻,問26です.
What does the Catholic Church think of “racism”? Or of “anti-semitism”? Or of “sexism”? Or of “homophobia”? And so on and so on. In a liberal world where everybody is supposed to be nice to everybody, is it not surprising how “political correctness” seems to come up regularly with a new class of people for all of us to hate? The Catholic Church, following its divine Master, says we are to love our neighbour and to hate nobody, but it does not say we should love all our fellow-men indiscriminately. Let us see how a great Catholic theologian puts order into our love of God and man. Here are the bare bones of the 13 Articles of St Thomas Aquinas’ Summa Theologiae, 2a 2ae, Question 26:— 

1 愛徳 "Charity" には一つの真正の順序がある.なぜなら,それは超自然的至福における友情であり,その至福は神を出発点とするものだからです.あなたが出発点から物事をたどる場合,いつでも順番をつけるでしょう.(公教徒〈=カトリック教徒〉が重要な問題となるといかにただちに神に委ねるかに注目してください.リベラル派は自分たちの「親切さ」 “niceness”  の出発点について,まず何に委ねるのでしょうか?ナチスに対する憎悪でしょうか? 真面目な問いです…)
1 Charity does have an order, because it is a friendship in supernatural bliss, and that bliss has its starting-point in God, and wherever you have things following from a starting-point, you have an order. (Notice how the Catholic immediately refers a major question to God. What might liberals immediately refer to as the starting-point of their “niceness”? Hatred of Nazis? Seriously . . . ) 

2 愛徳においては隣人 "neighbour" より神を愛さなければならない.なぜなら,愛徳は至福における友情であり,私自身や私の隣人のためのあらゆる至福は神を源泉としているからです.(リベラル派は自らの幸福の源泉をどこに置いているのでしょうか? 自己達成感でしょうか? それとも自分たちの仲間でしょうか? これらは,幸福の形態としては相対的に貧弱なものです.)
2 Charity must love God above neighbour, because charity is a friendship in bliss, and all bliss for myself or my neighbour has its source in God. (Where do liberals place the source of their happiness? In self-fulfilment? In their fellow-men? These are relatively poor forms of happiness.) 

3 神は自己以上に愛されなければならない.なぜなら,あらゆる(無傷の)生き物はそれぞれのやり方で,自分たち自身の善より共通の善を自然に愛すからです.神はあらゆるものの中で,自然的かつ超自然的な共通の善です.
3 God must be loved above self, because all (unspoiled) creatures, each in their way, naturally love the common good above their particular good, and God is the natural and supernatural common good of all. 

4 霊的自己 "Spiritual self" は霊的隣人 "spiritual neighbour "より愛されなければならない.なぜなら,私は隣人より私自身に近い存在だからです.したがって,もし私が「霊的に」私自身を愛さないなら,私は隣人を愛せそうもありません.しかしながら――
4 Spiritual self must be loved above spiritual neighbour, because I am closer to me than I am to my neighbour so that if I do not love me (spiritually), I am unlikely to love my neighbour. But – 

5 霊的な隣人は肉体的な "corporal" 自己より愛されなければならない.肉体的自己とはすなわち私自身の肉体です.霊(霊魂)は肉体以前に来るものであり,霊は至福に直接加わるのに対し,肉体は(霊魂を通して)間接的にだけ加わるものです.
5 Spiritual neighbour must be loved above corporal self, i.e., my own body, because spirit comes before body, because spirit partakes directly in bliss, while body partakes only indirectly (through spirit).

6 ある隣人たちは,ほかの隣人たちより愛されなければならない.なぜなら,すべての隣人たちは神に対する客観的なものと私に対する主観的なものという愛徳の両極への近さで,それぞれ異なる存在だからです.聖人は神により近く,隣人は私により近い存在です.
6 Some neighbours must be loved more than others, because they all vary in their closeness to one of the two poles of charity, objective to God, or subjective to me. Saints are closer to God, neighbours to me. 

7 客観的に言えば,聖人は親戚より愛されなければならない.だが,主観的には隣人の方が聖人より強く愛されるでしょう.なぜなら,隣人の方が色々な形で聖人より近い存在だからです.「愛徳は家庭から始まる」です.
7 Objectively, Saints will be loved more than relatives, but subjectively neighbours will be loved more intensely than Saints, because in a variety of ways they are closer – “Charity begins at home.” 

8 基本的には,血縁の親戚は親戚でない者より愛されなければならない.なぜなら,血縁は自然なもので,固定的かつ実体的なものだからです.ただし,偶然的に血縁親戚以外の友情の絆の方がより強いことがあります.
8 Essentially, blood-relatives will be loved above non-relatives, because blood-ties are natural, fixed and substantial. Accidentally however, other ties of friendship can be more powerful. 

9 客観的には,両親は子供たちより愛されなければならない.なぜなら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近い存在だからです.だが,主観的には,いくつかの理由で,子供たちの方が私たちにより近い存在です.
9 Objectively, parents are to be loved more than children, because as sources of life and of many benefits, parents are closer to God, but subjectively children can be closer to us for several reasons. 

10 父親は母親より愛されなければならない.これは字義通りです.なぜなら,私たちに生命をあたえるときにそれぞれが果たす役割を見れば,父親は形式的で能動的であるのに対し,母親は物質的(母系的)で受動的だからです(聖トマスは、今日見られるような変性した人間でなく,正常な状態の人間について書きました).
10 Father should be loved more than mother, as such, because by the part each plays in giving us life, the father is formal and active whereas the mother is material ( maternal ) and passive (St Thomas was writing about human beings who are normal and not de-natured as they are today). 

11 客観的には,両親は妻より愛されることになる.なぜなら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近いからです.しかし,主観的には,妻は夫と「一心同体」であるため,両親以上に愛されるものです.
11 Objectively, parents are to be loved more than wife, because as sources of life and of many benefits they are closer to God, but subjectively she who is “one flesh” with her husband is to be loved the more. 

12 客観的には,私たちに善行を行う者は私たちが善行を与える者より愛されることになる.なぜなら,彼らは私たちにとって善の源泉だからです.しかし,主観的な身近かさのため,私たちは私たちが善行を与える者をより愛することがあります.つまり,「受け取るより与える方が恵まれている」というわけです.
12 Objectively, somebody doing good to us is to be loved more than somebody we do good to, because they are a source of good to us, but by subjective closeness we love the more somebody that we do good to, for various reasons, e.g . “It is more blessed to give than to receive.” 

13 天国でも依然として愛徳の順序がある.何にもまして神に対する愛が一番です.また,神への近さについての隣人の客観的評価は,この世より天国でのほうが重視されます.
13 There will still be an order of charity in Heaven, especially the loving of God above all. Also the objective grading of neighbour for his closeness to God will count more there than it does here on earth.

 「人種差別」についてはどうでしょうか? どの人種が神もしくは私により近いでしょうか? どの人種も同じとは限りません.「反ユダヤ主義」は? セム人は神の友人でしょうか,それとも敵でしょうか? 「性差別 は?」 今日の女性たちは私が神へ向かうとき手助けになるでしょうか,それとも邪魔をするでしょうか? 「同性愛嫌悪」はどうでしょう? 「ホモたち」は神とどう両立するでしょうか?
“Racism”? – which races are closer to God, or to me? They are not all the same. “Anti-semitism”? – are “Semites” friends or enemies of God? “Sexism”? – do today’s women help or hinder me on my way to God? “Homophobia”? – how do “homos” stand with God? 

キリエ・エレイソン.
Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教



 * * *


(訳注の続き)

(訳注後記 0・2 ) ① (i) 「イエズス」の御名の意義について→新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第1章18-25節を参照. 
(訳注後記 1・1)「神の十戒」を参照→「神の十戒」=「天主の十戒」 

『…イエズス・キリストの誕生は次のようであった.*¹⁸母のマリアはヨゼフのいいなずけであったが,同居する前に,聖霊によって身ごもっているのがわかった.*¹⁹夫のヨゼフは正しい人だったので,彼女を公に辱めようとせず,ひそかに離別しようと決心した.彼がこうしたことを思い煩っていたとき,突然夢の中に主の天使が現れて言った,「ダビドの子ヨゼフよ,ためらわずにマリアを妻として迎えよ.マリアは聖霊によって身ごもっている.彼女は子を生むからその子を*²¹イエズスと名づけよ.何故なら彼は罪から民を救う方だからである」.これらのことは預言者によって主が言われたみことばの実現であった,

「処女(おとめ)が身ごもって子を生む.その名はエンマヌエルと呼ばれる」.
その名は「神はわれわれとともにまします」という意味である.

目覚めたヨゼフは主の天使から命ぜられたとおりに妻を迎え入れた.*²⁵そしてマリアは*子を生んだ.だがヨゼフは彼女を知らなかった.彼はその子をイエズスと名づけた.』

(注釈)

イエズスの誕生(1・18-25)

*¹⁸ 嫁はある期間夫の家に入らなかった.それでヨゼフとマリアも,すでに夫婦であったにもかかわらず一緒に住んでいなかった.二人の結婚は正当なものだった.福音史家もすぐあとでヨゼフを夫と呼んでいる.

*¹⁹ ヨゼフは律法を完全に守る「正しい人」であった.彼はマリアを訴える権利があった.しかしまた一方では彼女の貞潔を疑えなかったので,訴えて辱めるに忍びなかった.

*²¹ イエズスとは「ヤベ(神)が救う」という意味の名前である.

*²⁵ イエズスの超自然的誕生を強調する.それゆえマリアの処女性が守られたことを証する.マリアがイエズス誕生前も誕生後も処女であったことは,カトリック教会の信仰箇条である.

*²⁵ ブルガタ訳には「初子」とあるが,これはたぶんルカ(2・7)による後世の書き入れであって,批判テキストにこのことばはない.ただ「子」とある.


(マテオ聖福音書内の該当箇所を追って掲載いたします.)


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訳注の掲載を続けます.
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本投稿記事・第425回エレイソン・コメンツ「愛徳の順序」 "CHARITY'S ORDER"( 2015年9月5日付)は2015年10月30日18時05分に掲載されました.
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2015年8月22日土曜日

423 矛盾するローマ人たち? 8/22

解説付

 エレイソン・コメンツ 第423回 (2015年8月22日) 

教理無しですか? それでは,背教が勝つでしょう.
(きょうり なし ですか?それ では,はいきょうが かつ でしょう.)
( "No doctrine ? Then apostasy will win." )

教理は,厚くても薄くても,保持されなければなりません.
(きょうりは,あつくても うすくても,ほじ されなければ なりません.)
( "Doctrine must be maintained, through thick or thin. " ) 

ローマ教皇庁の二人の聖職者が最近(ろーま きょうこう ちょうの ふたりの せいしょくしゃが さいきん),教皇庁と聖ピオ十世会( 以下,SSPX (The Society of Saint Piux X) と記す.)との関係につ(就)いて発言しましたが(きょうこう ちょうと せい ぴお じゅっせい かい〈いか,えす えす ぴー えくす と しるす.〉との かんけい について はつげん しました が),両者は互いに矛盾している様に見えます(りょうしゃは たがいに むじゅん している ように みえます)( "Two Roman churchmen have seemed to contradict one another in remarks made recently about relations between Rome and the Society of St Pius X, …" ).これについて説明するなら,教皇庁が SSPX に対し,老婆の様な古い警察のトリックを仕掛けているという事でしょう(これに ついて せつめい する なら,きょうこうちょうが えす えす ぴー えくす に たいし,ろうばの ような ふるい けいさつの とりっくを しかけて いると いうこと でしょう)( "… but one explanation of the contradiction may be that Rome is playing on the Society a police trick as old as the hills." ).「善玉警官と悪玉警官」というお定まりの手口だと(「ぜんだま けいかんと あくだま けいかん」という おさだまりの てぐち だと)( "By the “good cop, bad cop” routine, …" ),警察は犯人から自供を引き出すとき(時)(けいさつは はんにん から じきょうを ひきだす とき)( "… when the police want to get a confession out of a criminal, …" ),初めに手荒な警官を送り込み,犯人が惨めな状態になって,お情けを願い出る様になる(成る・為る)まで(迄)痛め付けます(はじめに てあらな けいかんを おくり こみ,はんにんが みじめな じょうたいに なって,おなさけを ねがいでる ように なる まで いため つけ ます)( "… firstly a brutal policeman is sent in to beat up the criminal until he is in a very sorry condition, requiring all kinds of sympathy." ).そこで,優しい警官が現れ,同情を降り注ぎ,犯人が口を割って自白する様仕向けます(そこで,やさしい けいかんが あらわれ,どうじょうを ふりそそぎ,はんにんが くちを わって じはく する よう しむけ ます)( "Then a really nice policeman is sent in, oozing with a sympathy which often makes the criminal open up and confess his crime." ).

今回の場合,「悪玉警官」は他ならぬ教皇庁教理省長官のミュラー枢機卿でしょう(こんかいの ばあい,「あくだま けいかん」は ほか ならぬ きょうこう ちょう きょうり しょう ちょうかんの みゅらー すうききょう でしょう)( "The “bad cop” in this case would be no less than the Prefect for the Congregation of the Doctrine of the Faith, Cardinal Müller, …" ).彼は8月初め,ドイツ司教会の公式ウェブサイト katholisch.de とのインタビューに応じ(かれは はちがつ はじめ,どいつ しきょう かいの こうしき うぇぶさいと katholisch.deとの いんたびゅーに おうじ)( "… who early this month in an interview with katholisch.de, official website of the German Bishops' Conference, …" ),教皇庁とSSPXとの 合意につ(就)いて(次の様に)述べています.(即ち,)「実質的な 新発展は 何も 有りません.教皇は 私達が『執拗 かつ(且つ)根気強く』話し合いを 続ける事を お望み です.全面的な 和解の 前提条件は 信仰の 本質的 問題に ついての 完全な 合意に 向けた 前文の 調印です.過去 数か月の 間,相互信頼を 強める 目的で 異なる 路線の 摺合せが 行われました」 と(きょうこう ちょうと せい ぴお じゅっせい かい との ごういに ついて〈つぎのように〉のべて います.〈すなわち,〉「じっしつ てきな しん はってんは なにも ありません.きょうこうは わたくし たちが『しつよう かつ こんき づよく』はなしあいを つづける ことを おのぞみ です.ぜんめん てきな わかいの ぜんてい じょうけんは しんこうの ほんしつ てき もんだいに ついての かんぜんな ごういに むけた ぜんぶんの ちょういん です.かこ すうかげつの あいだ,そうご しんらいを つよめる もくてきで ことなる ろせんの すりあわせが おこなわれ ました」 と)( "… said about a Rome-SSPX agreement that “There is no substantial new development. The Holy Father wishes that we keep trying: “con tenacia e pazienza” – “with tenacity and patience.” The precondition for a full reconciliation is the signing of a doctrinal preamble in order to guarantee a full agreement in the essential questions of the Faith. In the past months, there were encounters of different ways which are meant to strengthen the mutual trust.” " ).

ここでは, SSPX が教皇庁 との 合意を 望む なら,ネオ・モダニスト〈=新現代主義者〉の 教皇庁が 同意 出来る 教理的 文書に 調印 しなければ ならない だろうと 明示されて います(ここ では,せい ぴお じゅっせい かいが きょうこう ちょう との ごういを のぞむ なら,ねお・もだにすと〈=しん げんだい しゅぎ しゃ〉の きょうこう ちょうが どうい できる きょうり てき ぶんしょ に ちょういん しなければ ならない だろうと めいじ されて います)( "Here it is clearly stated that the SSPX will have to sign a doctrinal text agreeable to neo-modernist Rome if it wishes for an agreement with Rome." ).ミュラー枢機卿は「相互信頼を 強める 目的で」 ローマ教皇庁の人たちと SSPX との間で「異なる 路線の 摺合せが 行われた」 事を 明かす 事で「悪玉警官」の 役を 演じて います(みゅらー すうききょう は「そうご しんらいを つよめる もくてきで 」 ローマ教皇庁の人たちとSSPXとの間で「ことなる ろせんの すりあわせが おこなわれた」 ことを あかす ことで「あくだま けいかん」の やくを えんじて います)( "The Cardinal is also being a “bad cop” when he reveals that there were “encounters of different ways” between Romans and the SSPX “to strengthen mutual trust”." ). SSPX は 枢機卿の 発言が 無かったら 表面化 しなかったと 思われる 両者間の 接触に 教皇庁が 光を 当てた 事に 満足 している でしょうか?(せい ぴお じゅっせい かいは すうききょうの はつげんが なかったら ひょうめん か しなかったと おもわれる りょうしゃ かんの せっしょくに きょうこう ちょうが ひかりを あてた ことに まんぞく している でしょうか?)( "Or is the SSPX happy that Rome is shedding the light of day upon contacts otherwise unknown ? " ) だが,カトリック信仰を 持ち続ける 人々の 中で,一体 誰が ネオ・モダニスト(=新現代主義者)達 との 相互 信頼が 築かれる 事で 安心 する でしょうか?(だが,かとりっく しんこうを もち つづける ひとびとの なかで,いったい だれが ねお もだにすと たち との そうご しんらいが きずかれる ことで あんしん する でしょうか?)( "Yet who that has the Catholic faith is re-assured by mutual trust being established with neo-modernists ? " )それは さておき,次は「善玉警官」に つ(就)いて です(それは さておき,つぎは「ぜんだま けいかん」に ついて です)( "But now comes the “good cop”." ).

今年に なって から,アタナシウス・シュナイダー司教が「 SSPX の 神学者 グループ および フェレー司教 閣下と 特定の 神学的 議題に ついて 討議する 目的で」 SSPX 主催の 二つの 神学校を 訪れ ました(ことしに なって から,あたなしうす・しゅないだー しきょうが「せい ぴお じゅっせい かいの しんがくしゃ ぐるーぷ および ふぇれー しきょう かっかと とくていの しんがく てき ぎだいに ついて とうぎ する もくてきで」 せい ぴお じゅせい かい しゅさいの ふたつの しんがっこうを おとずれ ました)( "Earlier this year Bishop Athanasius Schneider visited two seminaries of the SSPX “in order to conduct a discussion on a specific theological topic with a group of theologians of the SSPX and with His Excellency Bishop Fellay”." ).つい 最近,彼は スペイン語の ウェブサイト "Rorate Caeli"(訳注・5・1)との インタビューに 応じて います.この中で,彼は 多くの 事を 述べて いますが,特に SSPX 訪問に つ(就)いて 前向きな コメントを して います(つい さいきん,かれは すぺいんご の うぇぶ さいと「ろらーて・かえり」〈やくちゅう・ご てん いち〉との いんたびゅーに おうじて います.この なかで,かれは おおくの ことを のべて いますが,とくに せい ぴお じゅっせい かい ほうもんに ついて まえむきな こめんとを して います)( "Just recently he conducted an interview with a Hispanic website, Rorate Caeli en español, in which among other things he commented favourably on these visits." ).彼は SSPX から 厚遇 された 事に 触れ,インタビューの いたる ところ(至る所)で 現職 教皇 フランシスコ への 敬意を 表明 して います(かれは せい ぴお じゅっせい かい から こうぐう された ことに ふれ,いんたびゅーの いたる ところで げんしょく きょうこう ふらんしすこ への けいいを ひょうめい して います)( "He himself was treated with cordial respect, and he observed a respect all around for the reigning Pontiff, Pope Francis." ).彼は 二度の 訪問を 終えた 後「 SSPX の 聖職者や 信徒達 に対し 教皇庁の 正式な 承認を 与える 事を 拒む 大きな 理由は 見当たらない.公式 承認が 出る まで(迄),彼等を 現状 通りの まま 受け入れる べきだ」 と,述べて います(かれは にどの ほうもんを おえたあと〈のち〉「せい ぴお じゅっせい かいの せいしょくしゃや しんとたちに たいし きょうこうちょうの せいしきな しょうにんを あたえる ことを こばむ おおきな りゆうは みあたらない.こうしき しょうにんが でる まで,かれらを げんじょう どおりの まま うけいれる べきだ」 と,のべて います)( "After his visits he could see “no weighty reasons to deny the clergy and faithful of the SSPX the official canonical recognition, and meanwhile they should be accepted as they are.” " ).シュナイダー司教は第二バチカン公会議の重要性を軽視し,合意を妨げる教理上の問題は見当たらない事を確認しました(しゅないだー しきょうは だいに ばちかん こうかいぎの じゅうようせいを けいし し,ごういを さまたげる きょうりじょうの もんだいは みあたらない ことを かくにん しました)( "Bishop Schneider confirmed that he saw no doctrinal problem in the way of an agreement by downplaying the importance of Vatican II: …" ).彼は公会議は主に牧歌的で,過去の出来事だと述べました(かれは こうかいぎは おもに ぼっか てき で,かこの できごと だと のべました)( "… the Council was primarily pastoral, and of its time, he said." ).

では,誰がローマの本当の代表者なのでしょうか?(では,だれが ろーまの ほんとうの だいひょうしゃ なのでしょうか?)( "So who represents the real Rome ? " )ミュラー枢機卿でしょうか,それともシュナイダー司教でしょうか?(みゅらー すうききょう でしょうか,それとも しゅないだー しきょう でしょうか?)( "Cardinal Müller or Bishop Schneider ? " ) 二人とも代表者なのは明白です(ふたり とも だいひょうしゃ なのは めいはく です)( "Certainly both." ).「善玉警官,悪玉警官」の手口が意図されたもの(物)でないなら,明らかに直感的なもの(物)でしょう(「ぜんだま けいかん,あくだま けいかん」の てぐちが いと された もの でない なら,あきらかに ちょっかん てきな もの でしょう)( "If the “good cop, bad cop” routine is not conscious, it is certainly instinctive." ).教皇庁は選択肢をオープンにして置く事で, SSPX を魚の様に扱い続ける事が出来ます(きょうこうちょうは せんたくしを おーぷんに しておく ことで,せいぴお じゅっせい かいを さかな〈うお〉の ように あつかい つづける ことが できます)( "Rome, by keeping its options open, can continue to play the SSPX like a fish, " ).リールを巻き寄せたり緩めたり,希望を持たせたり挫いたり,やがて(軈て)糸が切れるまで(迄)何度もから(絡)めたり伸ばしたり出来ます(りーるを まきよせたり ゆるめたり,きぼうを もたせたり くじいたり,やがて いとが きれる まで なんども からめたり のばしたり できます)( "… reeling it in, letting it out, raising hopes and then dashing them, bending the wire and straightening it again, and again, until finally it snaps." ).悲しいかな(哉),「摺合せ」 とい(言・謂・云)っても, SSPX 指導者達はローマ演出のゲームにおける共謀者なのです(かなしい かな,「すりあわせ」 といっても,せいぴお じゅっせい かい しどうしゃ たちは ろーま えんしゅつの げーむ における きょうぼう しゃ なのです)( "Alas, one may suspect that by “encounters” the leaders of the SSPX are complicit in this game of Rome." ).

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教



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教理無しですか?それでは,背教が勝つでしょう.
教理は厚くても薄くても保持されなければなりません.
No doctrine ? Then apostasy will win.
Doctrine must be maintained, through thick or thin.

ローマ教皇庁の二人の聖職者が最近,教皇庁と聖ピオ十世会("the Society of St Pius X",以下,「SSPX」と記す) との関係について発言しましたが,両者は互いに矛盾しているように見えます.これについて説明するなら,教皇庁が SSPX に対し,老婆のような古い警察のトリックを仕掛けているということでしょう.「善玉警官と悪玉警官」というお定まりの手口だと,警察は犯人から自供を引き出すとき,初めに手荒な警官を送り込み,犯人がみじめな状態になって,お情けを願いでるようになるまで痛めつけます.そこで,優しい警官が現れ,同情を降り注ぎ,犯人が口を割って自白するよう仕向けます.
Two Roman churchmen have seemed to contradict one another in remarks made recently about relations between Rome and the Society of St Pius X, but one explanation of the contradiction may be that Rome is playing on the Society a police trick as old as the hills. By the “good cop, bad cop” routine, when the police want to get a confession out of a criminal, firstly a brutal policeman is sent in to beat up the criminal until he is in a very sorry condition , requiring all kinds of sympathy. Then a really nice policeman is sent in, oozing with a sympathy which often makes the criminal open up and confess his crime.

今回の場合,「悪玉警官」はほかならぬ教皇庁教理省長官のミュラー枢機卿でしょう.彼は8月初め,ドイツ司教会の公式ウェブサイト katholisch.de とのインタビューに応じ,教皇庁と SSPX との合意について「実質的な新発展はなにもありません.教皇は私たちが『執拗かつ根気強く』話し合いを続けることをお望みです.全面的な和解の前提条件は信仰の本質的問題についての完全な合意に向けた前文の調印です.過去数か月のあいだ,相互信頼を強める目的で異なる路線の摺合せが行われました」 と述べています.
The “bad cop” in this case would be no less than the Prefect for the Congregation of the Doctrine of the Faith, Cardinal Müller, who early this month in an interview with katholisch.de, official website of the German Bishops' Conference, said about a Rome-SSPX agreement that “There is no substantial new development. The Holy Father wishes that we keep trying: “con tenacia e pazienza” – “with tenacity and patience.” The precondition for a full reconciliation is the signing of a doctrinal preamble in order to guarantee a full agreement in the essential questions of the Faith. In the past months, there were encounters of different ways which are meant to strengthen the mutual trust.”

ここでは,SSPX が教皇庁との合意を望むなら,ネオ・モダニスト(新現代主義者)の教皇庁が同意できる教理的文書に調印しなければならないだろうと明示されています.ミュラー枢機卿は「相互信頼を強める目的で」 ローマ教皇庁の人たちと SSPX との間で「異なる路線の摺合せが行われた」 ことを明かすことで「悪玉警官」の役を演じています.SSPX は枢機卿の発言がなかったら表面化しなかったとおもわれる両者間の接触に教皇庁が光を当てたことに満足しているでしょうか?だが,カトリック信仰を持ち続ける人々の中で,一体だれがネオ・モダニストたちとの相互信頼が築かれることで安心するでしょうか?それはさておき,次は「善玉警官」についてです.
Here it is clearly stated that the SSPX will have to sign a doctrinal text agreeable to neo-modernist Rome if it wishes for an agreement with Rome. The Cardinal is also being a “bad cop” when he reveals that there were “encounters of different ways” between Romans and the SSPX “to strengthen mutual trust”. Or is the SSPX happy that Rome is shedding the light of day upon contacts otherwise unknown ? Yet who that has the Catholic faith is re-assured by mutual trust being established with neo-modernists ? But now comes the “good cop”.

今年になってから,アタナシウス・シュナイダー司教が「 SSPX の神学者グループおよびフェレー司教閣下と特定の神学的議題について討議する目的で」 SSPX 主催の二つのセミナーを訪れました.つい最近,彼はスペイン語のウェブサイト Rorate Caeli とのインタビューに応じています.この中で,彼は多くの事を述べていますが,特に SSPX 訪問について前向きなコメントをしています.彼は SSPX から厚遇されたことに触れ,インタビューのいたるところで現職フランシスコ教皇への敬意を表明しています.彼は二度の訪問を終えた後「 SSPX の聖職者や信徒たちに対し教皇庁の正式な承認を与えることを拒む大きな理由は見当たらない.公式承認が出るまで,彼らを現状通りのまま受け入れるべきだ」 と,述べています.シュナイダー司教は第二バチカン公会議の重要性を軽視し,合意を妨げる教理上の問題は見当たらないことを確認しました.彼は公会議は牧歌的で,過去の出来事だと述べました.
Earlier this year Bishop Athanasius Schneider visited two seminaries of the SSPX “in order to conduct a discussion on a specific theological topic with a group of theologians of the SSPX and with His Excellency Bishop Fellay”. Just recently he conducted an interview with a Hispanic website, Rorate Caeli en español, in which among other things he commented favourably on these visits. He himself was treated with cordial respect, and he observed a respect all around for the reigning Pontiff, Pope Francis. After his visits he could see “no weighty reasons to deny the clergy and faithful of the SSPX the official canonical recognition, and meanwhile they should be accepted as they are.” Bishop Schneider confirmed that he saw no doctrinal problem in the way of an agreement by downplaying the importance of Vatican II: the Council was primarily pastoral, and of its time, he said.

では,誰がローマの本当の代表者なのでしょうか?ミュラー枢機卿でしょうか,それともシュナイダー司教でしょうか?二人とも代表者なのは明白です.「善玉警官,悪玉警官」の手口が意図されたものでないなら,明らかに直感的なものでしょう.教皇庁は選択肢をオープンにしておくことで,SSPX を魚のように扱い続けることができます.リールを巻き寄せたり緩めたり,希望を持たせたりくじいたり,やがて糸が切れるまで何度もからめたり伸ばしたりできます.悲しいかな,「摺合せ」 といっても,SSPX 指導者たちはローマ演出のゲームにおける共謀者なのです.
So who represents the real Rome ? Cardinal Müller or Bishop Schneider ? Certainly both. If the “good cop, bad cop” routine is not conscious, it is certainly instinctive. Rome, by keeping its options open, can continue to play the SSPX like a fish, reeling it in, letting it out, raising hopes and then dashing them, bending the wire and straightening it again, and again, until finally it snaps. Alas, one may suspect that by “encounters” the leaders of the SSPX are complicit in this game of Rome.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教



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(訳注・5・1 )"Rorate Caeli" について.

・スペイン語のウェブサイト "Rorate Caeli" =ウェブサイト "Rorate Cæli" のスペイン語版.

・"Rorate Cæli" 読み「ロラーテ・カエリ」.

・"Rorate Cæli" はラテン語〈ウルガタ訳〉の「旧約聖書・イザヤ預言書:第45章8節」からの引用で,邦訳聖書(バルバロ神父訳版)では 『天よ,高くから水をしたたらせ,… 』となっており,続いて 『… 雲は,公正を降らせよ.地が開かれて,救いが生え,正義も芽生えよ.主なる私(=神御自身)がそれをつくった.…』となっている.

・「イザヤ預言書:第45章8節」は,クリスマス時節,「降誕節」に入る直前の「待降節」第3週目の「四季の水曜日(断食の曜日)」のミサ聖祭に於ける「入祭文」で誦(よ)まれる.

・「待降節の四季の水曜日のミサ聖祭」は,待降節中でも特に特色がある.〈聖福音〉は,聖母お告げの場面であり,書簡の代わりに,イザイアの予言を語る.それで,この日は,聖母マリアの祝いともいいうるほどである.

・→「待降節第4主日」について.昔は,この日のミサ聖祭は行わなかった.なぜなら,(待降節の)四季の土曜日の典礼と叙品式(現「叙階式」)とが,土曜日の夜から日曜日にかけて行われたからである.それで,この日のミサ典礼のほとんどは,他のミサ聖祭からとったものである(1955年ローマ・ミサ典書).

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BIBLIA SACRA: PROPHETIA ISAIÆ XLV(45), 8 (latine)

LA SAINTE BIBLE SELON LA VULGATE LATINE : ISAÏE (en hébreu, Yescha ’yahu (Jéhova sauve)) XLV, 8 (français)

THE HOLY BIBLE, DOUAY-RHEIMS VERSION TRANSLATED FROM THE LATIN VULGATE : THE PROPHECY OF ISAIAS XLV, 8 (English)

聖書 旧約/新約 Auctor: Federico Barbaro, s. d. b. / NIHIL OBSTAT Dominicus Kaneko s.d.b. Censor Delegatus Die 24 decembris, 1973 / IMPRIMATUR Petrus S. Shirayanagi Archiepiscopus Tokiensis Die 29 decembris 1973(1980年 カトリックサレジオ修道会)(東京司教認可)(「講談社」発行) … 旧約聖書  第45章8節(日本語)


"Rorate cæli desuper, et nubes pluant iustum: aperiatur terra, et germinet salvatorem: et iustitia oriatur simul: ego Dominus creavi eum."

"Cieux, versez votre rosée d’en haut, et les nuées pleuvent un juste ; que la terre s’ouvre, que la justice naisse en même temps ; moi, le Seigneur, je l’ai créé."

"Drop down dew, ye heavens, from above, and let the clouds rain the just: let the earth be opened, and bud forth a saviour: and let justice spring up together: I the Lord have created him."

『天よ,高くから水をしたたらせ,雲は,*公正を降らせよ.地が開かれて,救いが生え,正義も*芽生えよ.主なる私がそれをつくった.』

(注釈)

救い(45・7-8 )
* 8-1 ヘブライ語の「セデク」は,一般に「正義」と訳されている.「勝利」よりもこのほうが近いと思われる.

* 8-2 イザヤは,メシア(=救世主)的な王をダビドから出る新しい「芽生え」にたとえた(6・13,11・1).エレミアの書(23・5,33・15)と,ザカリアの書(3・8,6・12)にもある「芽生え」はメシアを指す.

(解説:1955年ローマ・ミサ典書より抜粋)
・「四季の断食」は,ローマの教会において,使徒の頃から伝わった風習らしい.

・初代教会では元々毎週水・金・土曜に断食を行う風習があった.四世紀にこの風習がなくなり,四季だけにこの断食の風習が残った.

・現在の「四季の日」は教皇聖グレゴリオ七世(1073‐1085)により定められ(四旬節第一週,聖霊降臨の週間,九月の第三週,待降節第三週),季節を主にささげて,各季節の恵みをこい求めること以外に,神から聖なる司祭をこい求めるために断食と祈りをした.

・昔の習慣によると,十二月の四季に,司祭と助祭の叙任式を行っていたので,教皇ジェラジオ一世(492‐496)のころから,四旬節・聖霊降臨・九月の四季にも行われるようになった.

・ローマの公教会が,この日の指定巡礼聖堂を聖マリア大聖堂としたのは,司祭を神の御母の保護の下に置こうとしたからである.

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本投稿記事・第423回エレイソン・コメンツ「矛盾するローマ人たち?」 "CONTRADICTORY ROMANS ? "( 2015年8月22日付)は2015年9月03日05時35分に掲載されました.
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2014年9月13日土曜日

374 教皇も間違う 9/13

エレイソン・コメンツ 第374回 (2014年9月13日)

     リベラル派(カトリック)信徒(りべらるは〈かとりっく〉しんと)たちも教皇空位論を採る信徒(きょうこう くうい ろん〈をとる〉しんと)たちも自分(じぶん)たちがコインの裏表(こいんの ひょうり)のようなものだと言(い)われるのは有難迷惑(ありがた めいわく)でしょうが,事実(じじつ)はその通(とお)りです( "Neither liberals nor sedevacantists appreciate being told that they are like heads and tails of the same coin, but it is true." ).たとえば,どちらの側(がわ)も第3の代替案(だいさんの だいたいあん)を持ち合(もちあ)わせていません( "For instance, neither of them can conceive of a third alternative. " ).そのことは,たとえば2012(にせん じゅうに)年4月14日付け(しがつ じゅうよっか づけ)のフェレイ司教(ふぇれい しきょう)による 3人の司教宛ての書簡 (さんにんの しきょう あての しょかん)を読めば分かり(よめば わかり)ます.同司教(どう しきょう)は教皇空位論以外(きょうこう くういろん いがい)に自ら(みずから)のリベラリズム(りべらりずむ)に対(たい)する代替案(だいたいあん)をなにも示(しめ)していません( "See for instance in his Letter to Three Bishops of April 14, 2012, how Bishop Fellay could see no alternative to his liberalism except sedevacantism." ).逆に言えば(ぎゃくに いえば),多数(たすう)の教皇空位論者の見方(みかた)に従(したが)えば,公会議派の歴代教皇(こうかいぎはの れきだい きょうこう)のなかに本物の教皇が存在したと認める者(ほんものの きょうこうが そんざい したと みとめる もの)がいるなら( "Conversely, for many a sedevacantist if one accepts that any of the Conciliar Popes has really been Pope, …" ),その人(ひと)はリベラル派に過(す)ぎないということになるのでしょうし( "… then one can only be a liberal, …" ),また教皇空位論者を批判する者(ひはん する もの)がいるなら( "… and if one criticises sedevacantism, …" ),その人はリベラリズムを推進(すいしん)しているということになるのでしょう( "… then one is promoting liberalism." ).しかし,本当(ほんとう)はけっしてそうではありません!( "But not at all ! " )

     なぜそうでないのでしょうか?( "Why not ? " ) どちらの側(がわ)も教皇の無謬性(きょうこうの むびゅう せい)を誇張(こちょう)するという同じ間違い(おなじまちがい)をしているからです( "Because both of them are making the same error of exaggerating the Pope's infallibility. " ).どうしてそのような間違い(まちがい)をするのでしょうか?( "Why ? " )両方(りょうほう)とも組織より個人の方(そしき より こじんの ほう)をより強く信じる現代人(つよく しんじる げんだい じん)だからではないでしょうか?( "Might it be because both of them are modern men who believe more in persons than in institutions ? " ) では,そうするのがなぜ現代人の特徴(げんだい じんの とくちょう)なのでしょうか?( "And why should that be a feature of modern men ? " ) それは,程度の差(ていどの さ)こそあれプロテスタント主義の台頭以降(ぷろてすたんと しゅぎの たいとう いこう)( "Because from more or less Protestantism onwards, …" ),公共の善(こうきょうの ぜん)を追及する組織(ついきゅう する そしき)が減り続ける(へり つづける)のに反し(はんし)( "… fewer and fewer institutions have truly sought the common good, …" ),(私があなた方に求めたように〈わたくしが あなたがたに もとめた ように〉)金銭(きんせん)のような何らか(なんらか)の個人的利益(こじんてき りえき)を追求する組織(ついきゅう する そしき)が増え続け(ふえ つづけ)ているためでしょう( "… while more and more seek some private interest such as money (my claim on you), …" ).こうした傾向(けいこう)は当然(とうぜん)のことながら,私たちの組織(わたくし たちの そしき)に対(たい)する尊敬の念(そんけいの ねん)を減らす(へらす)ことになります( "… which of course diminishes our respect for them." ).例を挙げ(れいを あげ)るなら,善意の人々(ぜんいの ひとびと)は現代の銀行(げんだいの ぎんこう)のような腐敗した組織(ふはい した そしき)が直(ただ)ちにその悪い効果を及ぼす(わるい こうかを およぼす)ことがないようしてきましたが( "For instance, good men saved for a while the rotten institution of modern banking from having immediately all its evil effects, …" ),腐敗した銀行屋(ふはい した ぎんこう や)たちは初め(はじめ)から個々(ここ)の準備銀行や中央銀行(じゅんび ぎんこうや ちゅうおう ぎんこう)といった組織(そしき)が実態(じったい)ではどんなものなのかをさらけ出(だ)しています( "… but the rotten banksters are at last showing what the institutions of fractional reserve banking and central banks were, in themselves, from the beginning." ).神や人間(かみや にんげん)の諸々の敵(もろもろの てき)がいるおかげで,悪魔(あくま)が現代の諸機構の中に存在(げんだいの しょきこうの なかに そんざい)しています( "The Devil is in modern structures, thanks to the enemies of God and man." ).

     したがって,現代のカトリック教徒(げんだいの かとりっく きょうと)たちが教皇を強く信じ(きょうこうを つよく しんじ),教会をほとんど信じなくなる傾向(きょうかいを ほとんど しんじなく なる けいこう)にあるのは理解(りかい)できます( "So it is understandable if modern Catholics have tended to put too much faith in the Pope and too little in the Church, …" ).読者の一人(どくしゃの ひとり)から私(わたくし)がなぜ古典的なカトリック教(こてん てきな かとりっく きょう)の神学理論マニュアルと同じやり方(しんがく りろん まにゅあると おなじ やりかた)で無謬性(むびゅう せい)について書(か)かないのかと質問を受け(しつもんを うけ)ました.上に述べた傾向が私の答え(うえに のべた けいこうが わたくしの こたえ)です( "… and here is the answer to that reader who asked me why I do not write about infallibility in the same way that the classic Catholic theology manuals do." ).カトリック教の神学理論マニュアルはそれ自体(じたい)としては素晴(すば)らしいものです( "Those manuals are marvellous in their way, …" ).だが,その中身(なかみ)はすべて第二バチカン公会議以前(だいに ばちかん こうかいぎ いぜん)に書(か)かれたもので( "… but they were all written before Vatican II, …" ),教会に属する無謬性を教皇に付与(きょうかいに ぞくする むびゅうせいを きょうこうに ふよ)しがちでした( "… and they tended to attach to the Pope an infallibility which belongs to the Church." ).たとえば,マニュアルでは無謬性の頂点は教皇(ちょうてんは きょうこう),もしくは公会議支持を得た教皇(こうかいぎ しじを えた きょうこう)の発する厳粛な定義(はっする げんしゅくな ていぎ)( "a solemn definition" )として表(あら)わされることが多(おお)いのですが,これは実際(じっさい)にはいかなる場合(ばあい)も教皇の発する定義(きょうこうの はっする ていぎ)と言(い)うことです( "For instance, the summit of infallibility is liable to be presented in the manuals as a solemn definition by the Pope, or by Pope with Council, but in any case by the Pope." ).リベラル派,教皇空位論者(りべらる は,きょうこう くうい ろん じゃ)が共に直面するジレンマ(ともに ちょくめん する じれんま)はここから出てくる結論の部分(でてくる けつろんの ぶぶん)です( "The liberal-sedevacantist dilemma has been the consequence and, …" ).それは,言うなれば,個人を過大評価し組織を過小評価(こじんを かだい ひょうかし そしきを かしょう ひょうか)する傾向に対する罰(けいこうに たいする ばつ)のようなものです( "… as it were, a punishment of this tendency to overrate the person and underrate the institution, …" ).なぜなら,教会は決して(きょうかいは けっして)単なる人間的組織(たんなる にんげんてき そしき)ではないからです( "… because the Church is no merely human institution." ).

     第一(だいいち)に,普通教導権という山頂(ふつう きょうどう けんと いう さんちょう)に雪に覆われて立つ)(ゆきに おおわれて たつ)教皇の厳粛な教導権(きょうこうの げんしゅくな きょうどう けん)はごく限られた範囲内(かぎられた はんいない)で山の頂上(やまの ちょうじょう)です( "For, firstly, the Solemn Magisterium's snow-cap on the Ordinary Magisterium's mountain is its summit only in a very limited way …" ) - それは雪の下にある岩の頂上(ゆきの したに ある いわの ちょうじょう)に全面的に依存(ぜんめんてきに いぞん)しているにすぎません( "… – it is wholly dependent on the rock summit beneath the snow." ).そして,第二(だいに)に,無謬性に関する(むびゅうせいに かんする)教会の最も権威ある原本(きょうかいの もっとも けんい ある げんぽん),すなわち真のカトリック教公会議(まことの かとりっく きょう こうかいぎ)である第一バチカン公会議(だいいち ばちかん こうかいぎ)(1870年)で発せられた定義(はっせられた ていぎ)により( "And secondly, by the Church's most authoritative text on infallibility, the Definition of the truly Catholic Council of Vatican I (1870), …" ),私たちは教皇の無謬性(きょうこうの むびゅうせい)は教会から来る(きょうかいから くる)ものであり,その逆(ぎゃく)でないことを知(し)っています( "… we know that the Pope's infallibility comes from the Church, and not the other way round." ).この定義は,教皇がその 権威に基づく 教え(けんいに もとづく おしえ)を行うのに必要な4条件(おこなう のに ひつような よん じょうけん)に従っている場合(したがっている ばあい),教皇は「…真の神より遣わされた救世主イエズス・キリスト(まことの かみ より つかわされた いえずす・きりすと)( "the divine Redeemer" )が,(御自身の教会のため〈ごじしんのきょうかいのため〉)際立って優れた教理を定める(きわだって すぐれた きょうりを さだめる)にあたり,教会がその真の教理由来の恩寵に与れる(きょうかいが その まことの きょうり ゆらいの おんちょうに あずかれる)ようキリスト御自らが教会にお与えになった無謬性を(きりすと おんみずからが きょうかいに おあたえに なった むびゅうせいを)…」保持(ほじ)する…と述(の)べています( "When the Pope engages all four conditions necessary for ex cathedra teaching, then, says the Definition, he possesses. .. “...that infallibility which the divine Redeemer willed his Church to enjoy in defining doctrine...” " ).だが,言(い)うまでもないことですが!( "But of course ! " ) 神以外(かみ いがい)のどこから無謬性が生じ(むびゅうせいが しょうじ)うるでしょうか?( "Where else can infallibility come from, ecept from God ? " ) 教皇は人間の中で最良(きょうこうは にんげんの なかで さいりょう)であり,歴代教皇の中(れきだい きょうこうの なか)には極めて善良な人(きわめて ぜんりょうな ひと)たちがいました( "The best of human beings, and some Popes have been very good human beings, …" ).彼らは間違い(まちがい)をしないと言えるかもしれません( "… may be inerrant, i.e. make no mistakes, …" ).しかし,彼らが原罪を持つ限り(げんざいを もつかぎり),神と同じ(かみと おなじ)ように間違い(まちがい)をしないなどということはありえません( "… but as long as they have original sin they cannot be infallible as God alone can be." ).もし,彼らが間違いをしないとすれば,その無謬性(むびゅうせい)は彼らの人間性から生じる(にんげんせい から しょうじる)ものでなく( "If they are infallible, the infallibility must come through, …" ),それ以外(いがい),すなわちカトリック教会を通して無謬性をお与えになる神から生じる(かとりっく きょうかいを とおして むびゅうせいを おあたえに なる かみ から しょうじる)ものであるはずです( "… but from outside, their humanity, from God, who chooses to bestow it through the Catholic Church, …" ).そして,その無謬性は,上に述べた定義の有効期間中(その むびゅうせいは,うえに のべた ていぎの ゆうこう きかん ちゅう)だけのごく一時的な贈り物である必要(いちじ てきな おくりもので ある ひつよう)があります( "… and that infallibility need only be a momentary gift, for the duration of the Definition." ).

     したがって,一教皇(いちきょうこう)が 権威(=命令権)を持っている 瞬間 ( けんい〈=めいれいけん〉をもっている しゅんかん)( "ex cathedra moments" )を除(のぞ)けば,彼(かれ)が第二バチカン公会議の新宗教(だいに ばちかん こうかいぎの しん しゅうきょう)のようなばかげたことを話(はな)すのを止め(やめ・とめ)させるものは何(なに)もありません( "Therefore outside of a Pope's ex cathedra moments, nothing stops him from talking nonsense such as the new religion of Vatican II." ).それ故(ゆえ),リベラル派も教皇空位論者も(りべらるは も きょうこう くうい ろんじゃ も)そのようなばかげたことを気(き)にかける必要(ひつよう)もありませんし,そうすべきでもありません.( "Therefore neither liberals nor sedevacantists need or should heed that nonsense, …" ),なぜなら,ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)が言(い)われたように( "… because, as Archbishop Lefebvre said, …" ),彼らには2千年(にせん ねん)もの間(あいだ)続いた(つづいた)教会の無謬な教え(きょうかいの むびゅうな おしえ)があり,それに基(もと)づいて教皇の話す内容(きょうこうの はなす ないよう)がばかげたことかどうかを判断(はんだん)できるからです( "… they have 2000 years' worth of Ordinarily infallible Church teaching by which to judge that it is nonsense." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教


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(注:本投稿記事〈第374回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月28日23:30に公開されました.)

2014年6月28日土曜日

363 ピィ枢機卿 I 6/28

エレイソン・コメンツ 第363回 (2014年6月28日)

    ピィ枢機卿(ぴぃ すうききょう)( "Cardinal Pie" )(1815-1880年)は19世紀フランスの偉大な聖職者(じゅうきゅうせいき ふらんすの いだいな せいしょくしゃ)で( "Cardinal Pie (1815-1880) was a great churchman of 19th century France, …" ),フランス革命(1789年)以来,世界を悩ませ続けてきた(ふらんす かくめい いらい せかいを なやませ つづけてきた)リベラリズム(=自由主義)から信仰を守ろう(りべらりずむ〈じゆうしゅぎ〉から しんこうを まもろう)とした偉大な擁護者(いだいな ようごしゃ)のひとりです( "… one of the great defenders of the Faith against that liberalism which was eating up the world from the French Revolution (1789) onwards." ).ピオ10世(ぴお じゅっせい)は枢機卿の著作をベッドサイドに置き(ちょさくを べっど さいどに おき),それを繰り返し読んで(くりかえし よんで)いました( "Pope Pius X kept his works by his bedside and read them constantly." ).ピオ10世は絶望的なカトリック教会(=公教会)(ぜつぼうてきな かとりっく〈こう〉きょうかい)に1907年から1958年まで50年間(ごじゅう ねんかん)の一時的救済期間(いちじてき きゅうさい きかん)をもたらしましたが,それを可能(かのう)にするのに,近代世界を動かしてきた主要な考え方(きんだい せかいを うごかして きた しゅような かんがえかた)についての枢機卿の深い理解(ふかい りかい)が重要な役割を果たした(じゅうような やくわりを はたした)ことは疑い(うたがい)のないところです( "No doubt the Cardinal's profound grasp of the key ideas driving the modern world played a major part in enabling Pius X to obtain a 50-year reprieve, say from 1907 to 1958, for the doomed Catholic Church." ).

    絶望的(ぜつぼうてき)とは? 公教会(=カトリック教会)(こうきょうかい〈かとりっくきょうかい〉)が絶望的だなどありえないことです!( "Doomed ? But the Catholic Church cannot be doomed ! " ) 確(たし)かに,教会は神の御保護(かみの ごほご)によってこの世の終わり(このよの おわり)まで続(つづ)くでしょう(新約聖書・マテオ聖福音書:第28章20節)( "True, by God's protection it will last to the end of the world (Mt. XXVIII, 20), …" ).だが,同時に私たちは神の御言葉から(どうじに わたくしたちは かみの おことば から),末世までに信仰がこの世に(まっせ までに しんこうが このよに)ほとんどなくなっているであろうこと(新約聖書・ルカ聖福音書:第18章8節)( "… but at the same time by God's Word we know that by then the Faith will scarcely be found on earth (Lk. XVIII, 8), …" ),信仰が聖人を打ち負かす悪魔軍団に屈服(しんこうが せいじんを うちまかす あくま ぐんだんに くっぷく)してしまっているであろうこと(Apoc. XIII, 7)を知って(しって)います( "… and that it will have been given to the forces of evil to defeat the Saints (Apoc. XIII, 7)." ).この二つの重要な引用(ふたつの じゅうような いんよう)は2014年の今日(にせん じゅうよねんの こんにち),胸に深く刻んで(むねに ふかく きざんで)おかなければなりません( "These are two important quotes to bear in mind in 2014, …" ).なぜなら,キリスト信奉者(きりすと しんぽう しゃ)は聖ピオ十世会( "SSPX" )の堕落(せいぴお じゅっせいかいの だらく)のような見かけの敗北(みかけの はいぼく)に次々に襲われる(つぎつぎに おそわれる)ことへの心の準備(こころの じゅんび)をしておかなければならないことを,私たちの身の回りのあらゆる事(わたくしたちの みのまわりの あらゆること)が私たちに告(つ)げているからです( "… because everything around us today tells us that the followers of Christ must be prepared for one seeming defeat after another, e.g. the fall of the Society of St Pius X." ).ピィ枢機卿はこのことについて次(つぎ)のように述(の)べています.今(いま)からおよそ150年も前(ひゃく ごじゅうねんも まえ)にです!-- ( "Here is what Cardinal Pie had to say on the matter, some 150 years ago ! --" )(訳注後記1)

    「私たちは戦(たたか)いましょう.見込みのない希望を抱き(みこみの ない きぼうをいだき)ながら戦いましょう( " “Let us fight, hoping against hope itself, …" )(訳注後記2).私がこのことを伝えたい相手(つたえたい あいて)は,弱気のキリスト教徒(よわきの きりすと きょうと)たち,人気の奴隷(にんきの どれい)( "slaves to popularity" )となっている人(ひと)たち,成功信奉者(せいこう しんぽう しゃ)たち( "worshippers of successes" ),悪魔(あくま)が少(すこ)しでもはびこると動揺(どうよう)してしまう人たちです( "… which is what I wish to tell faint-hearted Christians, slaves to popularity, worshippers of success and shaken by the least advance of evil." ).こういう人たちがどのように感(かん)じようと,神の思し召し(かみの おぼしめし)さえあれば,彼らはこの世の最後の審判の苦しみ(このよの さいごの しんぱんの くるしみ)を免(まぬが)れるでしょう( "Given how they feel, please God they will be spared the agonies of the world's final trial." ).その審判は間(ま)もないことなのでしょうか,それともまだ先(さき)のことなのでしょうか?( "Is that trial close or is it still far off ? " ) それは誰(だれ)にも分(わ)かりません.私はその時期(じき)についてあえて推測(すいそく)しないことにします( "Nobody knows, and I will not dare to make a guess." ).だが,ひとつだけ確(たし)かなことがあります( "But one thing is certain, …" ).それは,この世の終わり(よの おわり)が近(ちか)づけば近づくほど,この世は益々(ますます)ひどい状態(じょうたい)になり,嘘(うそ)つきが優位に立つ(ゆうい にたつ)ということです( "… namely that the closer we come to the end of the world, the more and more it is wicked and deceitful men who will gain the upper hand." ).信仰(しんこう)はこの世(よ)にほとんど見(み)られなくなるでしょう( "The Faith will hardly be found on earth, …" ).つまり,信仰はこの世の諸々の団体(もろもろの だんたい),組織(そしき)からほぼ姿を消して(すがたを けして)しまうということです( "… meaning that it will almost have disappeared from earthly institutions." ).信者(しんじゃ)は人前や社会の中(ひとまえや しゃかいの なか)で自らの信仰(みずからの しんこう)をあえて告白(こくはく)することはほとんどなくなるでしょう.」( "Believers themselves will hardly dare to profess their belief in public, or in society." )

    「聖パウロ(せい ぱうろ)にとって,この世の終わりを告げる兆候(このよの おわりをつげる ちょうこう)だった国家と神の分裂,分離,絶縁は日増しに進行(こっかと かみの ぶんれつ,ぶんり,ぜつえんは ひましに しんこう)するでしょう( "The splitting, separating and divorcing of States from God which was for St Paul a sign foretelling the end, will advance day by day." ).常に目に見える社会(つねに めに みえる しゃかい)であり続(つづ)けてきた教会(きょうかい)は,その次元(じげん)が個々人や家庭に矮小化(ここじんや かていに わいしょうか)されて行くでしょう( "The Church, while remaining always a visible society, will be reduced more and more to dimensions of the individual and the home." ).教会の開設当初(かいせつ とうしょ),教会は外へ出(そとへ で)しゃばらないと言(い)っていました( "When she started out she said she was being shut in, …" ).それから教会は息をする隙間(いきを する すきま)がもっと欲(ほ)しいと求(もと)めるようになりました( "… and she called for more room to breathe, …" ).だが,教会はこの世の終わり(よの おわり)が近(ちか)づくにつれ,周囲を取り囲まれ(しゅういを とりかこまれ)てしまい,一寸刻みの延命工作(いっすん きざみの えんめい こうさく)をしなければならなくなるでしょう( "… but as she approaches her end on earth, so she will have to fight a rearguard action every inch of the way, being surrounded and hemmed in on all sides." ).過去に規模を広げた教会(かこに きぼを ひろげた きょうかい)ほど,身の程を思い知らされる強い作用(みのほどを おもいしらされる つよい さよう)に晒(さら)されることになるでしょう( "The more widely she spread out in previous ages, the greater the effort will now be made to cut her down to size." ).しまいに教会は紛れもないような敗北を喫し(まぎれも ない ような はいぼくを きっし)( "Finally the Church will undergo what looks like a veritable defeat, …" ),野獣が聖人たちに戦いを挑み打ち負かすことになるでしょう( "… and the Beast will be given to make war on the Saints and to overwhelm them." ).悪魔の横暴は頂点に達するでしょう.」( "The insolence of evil will be at its peak.” " )

    こうした言葉は預言的(ことばは よげんてき)で,日が経つ(ひが たつ)につれ真実味を帯び(しんじつみを おび)ますが,いささかたりとも認めたくない内容(みとめたくない ないよう)です( "These are prophetic words, coming truer by the day, not at all pleasant to admit, …" ).だが,それは聖書に明記(せいしょに めいき)された言葉(ことば)です( "… but anchored in Scripture." ).ある賢明な英国国教会司教(バトラー)(けんめいな えいこく こっきょうかい しきょう〈ばとらー〉)は18世紀(せいき)に( "A wise Anglican Bishop (Butler) said in the 18th century, …" )「物事(ものごと)はあるがまま,その結末(けつまつ)はなるがままにしかならない.それなのに,なぜ私たちは(そんなことはないと)自らを欺こう(みずからを あざむこう)とするのか?」と,述(の)べています( "Things are what they are. Their consequences will be what they will be. Why then should we seek to deceive ourselves ?" ).ピィ枢機卿が信仰を家庭以上の規模で守る(しんこうを かてい いじょうの きぼで まもる)ことがいかに難(むずか)しいかを予見した点(よけんした てん)にとくに注目(ちゅうもく)してください( "Notice especially how the Cardinal foresees the impossibility of defending the Faith on any larger scale than just the home." ).2014年の今日(こんにち),私たちがすでに枢機卿の予期(すうききょうの よき)したところまできていると誰(だれ)もが認(みと)めるわけではないでしょう( "Not everybody agrees that we have already reached that point in 2014." ).私はそれで正しいと信じたい気持ち(ただしいと しんじたい きもち)です( "I might wish they were right, …" ).だが,そのためには,私はばらばらになった人々(ひとびと)がまとまった社会(しゃかい)を作り出せると得心(つくりだせると とくしん)させられなければなりません( "… but I have yet to be persuaded that with disintegrated people one can make an integrated society." ).今日の私たち民主的市民(こんにちの わたくしたち みんしゅてき しみん)を福音書に出てくる(ふくいんしょに でてくる))ローマ時代の百人隊長と対比(ろーまじだいの ひゃくにん たいちょうと たいひ)してみてください( "Contrast with us democratic citizens of today the Roman centurion in the Gospel …" ).彼は指揮系統を正しく理解(かれは しき けいとうを ただしく りかい)し,私たちの主イエズス・キリストの権威(わたくしたち いえずす・きりすとの けんい)を当然(とうぜん)のこととして認(みと)めていました(新約聖書・マテオ聖福音書:第8章5-18節)( "… who understood a chain of command and recognized naturally the authority of Our Lord (Mt. VIII, 5-18) -- …" )―― 私たちの主は彼をいかに称賛(わたくしたちの しゅは かれを いかに しょうさん)したでしょうか!( "… -- how Our Lord praised him ! " )(訳注後記3)

    読者の皆さん(どくしゃの みなさん),我慢(=堅忍,忍耐)(がまん〈けんにん,にんたい〉)してください( "Patience." ).次週のエレイソン・コメンツ(じしゅうの えれいそん・こめんつ)で,ピィ枢機卿が自ら予見(ぴぃ すうききょうが みずから よけん)したことにどのように反論(はんろん)したかをお読(よ)みになってください( "See next week how the Cardinal himself reacted to what he foresaw." ).彼は決(けっ)して敗北主義者(はいぼく しゅぎしゃ)ではありませんでした!( "He was no defeatist ! " )

    キリエ・エレイソン.

    一人の枢機卿が教会はどこまで縮小するかを予見しました.
    (ひとりの すうききょうが きょうかいは どこまで しゅくしょう するかを よけん しました.)
    ( "A Cardinal saw how far the Church must shrink" )

    だが末世に至っても,教会が没落することは決してありません.
    (だが まっせに いたっても,きょうかいが ぼつらく することは けっして ありません.)
    ( "In these end times, yet never will it sink." )


    リチャード・ウィリアムソン司教



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第3パラグラフの訳注2:

「見込みのない(=望み得なくてもなお)希望を抱きながら戦いましょう.」
" Let us fight, hoping against hope itself, …" について.

・“hoping against hope itself”
 →聖書からの引用:

 「信仰の父アブラハム」について.

『望みなきときにもなお望みを捨てず信じた彼は,多くの民の父となった.…』
“Who against hope believed in hope; that he might be made the father of many nations, …” 

『不信仰によって神の約束を疑うことをせず,信仰に強められて神に光栄を帰し,その約束されたことを成し遂げる力があるとまったく信じた.それがために,彼の信仰は義とされた.』
“In the promise also of God he staggered not by distrust; but was strengthened in faith, giving glory to God: Most fully knowing, that whatsoever he has promised, he is able also to perform. And therefore it was reputed to him unto justice. And therefore it was reputed to him unto justice.” 

⇒全能の神は真実な方であり,仰せになった事を必ず成し遂げられると堅く信じて待望する信仰. 自分の存在にかかわる事は,いっさい神の御意思にかかっているから.


使徒聖パウロのローマ人への書簡:第4章18-24節
信仰によって義とされたアブラハム
EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE ROMANS IV, 18-24
Abraham was not justified by works done, as of himself; but by grace, and by faith; and that before he was circumcised. Gentiles, by faith are his children.

『18*望みなきときにもなお望みを捨てず信じた彼は,多くの民の父となった.「あなたの子孫はこうであろう」と言われたとおりである.
Who against hope believed in hope; that he might be made the father of many nations, according to that which was said to him: So shall thy seed be.

19そして,もう百歳ほどになって,死んだような自分の体と死んだようなサラの胎を思ったけれども,その信仰は弱らなかった.
And he was not weak in faith; neither did he consider his own body now dead, whereas he was almost an hundred years old, nor the dead womb of Sara.

20不信仰によって神の約束を疑うことをせず,信仰に強められて神に光栄を帰し,
In the promise also of God he staggered not by distrust; but was strengthened in faith, giving glory to God:

21その約束されたことを成し遂げる力があるとまったく信じた.
Most fully knowing, that whatsoever he has promised, he is able also to perform.

22それがために,彼の信仰は義とされた.
And therefore it was reputed to him unto justice.

23「義とされた」と記されたのはアブラハムのためだけではない,
Now it is not written only for him, that it was reputed to him unto justice,

24私たちのためでもある.*主イエズスを死者からよみがえらせたお方を信じる私たちのためでもある.
But also for us, to whom it shall be reputed, if we believe in him, that raised up Jesus Christ, our Lord, from the dead,

25主は私たちの罪のためにわたされ,私たちを義とするためによみがえられた.』
Who was delivered up for our sins, and rose again for our justification.


(バルバロ神父による注釈)

18 アブラハムは老齢で,子をもうける希望がなかったのに,なお神の約束を信じていた.

24 アブラハムの信仰の土台は,死者を生かす神であった.
キリスト信者の信仰の土台は,イエズスをよみがえらせた神である.



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訳注を続けます.

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2014年6月15日日曜日

360 公会議派教会とは? 6/7

エレイソン・コメンツ 第360回 (2014年6月7日)

     「公会議派教会」( "Conciliar church" )という表現(こうかいぎ きょうかい という ひょうげん)は,一つの現実(ひとつの げんじつ),実在(じつざい)するもの,つまり自身(じしん)をカトリック教徒だと公言(かとりっく きょうと だと こうげん)しながらも実際には第二バチカン公会議(じっさいには だいに ばちかん こうかいぎ)の新しい人間中心主義的な宗教の実践(あたらしい にんげん ちゅうしん しゅぎ てきな しゅうきょう の じっせん)に滑り落ちている人々や団体の総体を表す表現(すべり おちている ひとびとやだんたいの そうたいを あらわす ひょうげん)であるのは明白(めいはく)です( "The expression “Conciliar church” obviously expresses a reality, something real, namely the mass of people and institutions professing themselves to be Catholic but in fact sliding into the practice of the new humanist religion of the Second Vatican Council." ).なぜ「滑り落ちる」( "sliding" )などという言葉を使う(ことばを つかう)かといえば,公会議主義,すなわち新モダニズム(しん もだにずむ)(=新近現代主義〈しん きんげんだい しゅぎ〉)( "neo-modernism" )はまさしく,カトリック教徒たちが見かけだけは信仰を保ち(しんこうを たもち)ながら,その内容を空に(ないようを からに)してしまうことができるように作(つく)られているからです( " “Sliding”, because Conciliarism, or neo-modernism, is precisely designed to enable Catholics to maintain the appearances of the Faith while they empty out the substance." ).カトリック教徒たちは具体的(ぐたい てき)に,このプロセス(ぷろせす)を早(はや)めるか遅(おく)らせるか意(い)のままにできますが,わざわざ結論(けつろん)までたどりつく必要(ひつよう)などありません( "Catholics in the concrete can make this process as fast or as slow as they wish, they need not even take it all the way to its conclusion, …" ).だが,公会議主義(こうかいぎ しゅぎ)( "Conciliarism" )は理論上(りろん じょう),カトリック教義(かとりっく きょうぎ)( "Catholicism" )に真っ向から反対(まっこうから はんたい)するものであり(=全〈まった〉く反対する),そのプロセスの結論(ぷろせすの けつろん)にたどりついて,初めから意図(はじめから いと)していたように信仰と教会を壊して(しんこうと きょうかいを こわして)しまいます( "… but Conciliarism in the abstract is utterly opposed to Catholicism and, taken to its conclusion, it destroys both Faith and Church, as it was meant to do." ).

     このプロセスを観察(かんさつ)し理解(りかい)するのは難(むずか)しいことではありません( "The process is not difficult to observe or to understand, …" ).だが,聖ピオ十世会(SSPX)(せいぴお じゅっせい かい)を率(ひき)いるリベラル派の人(りべらるはの ひとたち)たちはローマ(ろーま)の公会議派の人(ひと)たちとの和解を求める(わかいを もとめる)なかで( "… but liberals at the head of the Society of St Pius X, seeking reconciliation with the Conciliarists in Rome, …" ),公会議派教会(こうかいぎは きょうかい)とカトリック教会(かとりっく きょうかい)の問題を混同(もんだいを こんどう)させるべくベストを尽くし(べすとを つくして)てきました( "… have done their best to confuse the question of the Conciliar church and the Catholic Church." ).彼(かれ)らは,たとえば,カトリック教会は目に見える(めに みえる),公会議派教会も目に見える教会である,だから公会議派教会はカトリック教会であると言います( "For instance the Catholic Church is visible, they will say, and the Conciliar church is the visible church, so the Conciliar church is the Catholic Church, …" ).この論法(ろんぽう)はルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)によって何年も前(なんねんも まえ)に「子供(こども)じみている」( "childish" )と,はねつけられています(目に見える教会は多数〈たすう〉ありますが,それがすべてカトリック教会とは限〈かぎ〉りません)( "… an argument dismissed years ago by Archbishop Lefebvre as “childish” (many churches are visible that are not Catholic)." ).同(おな)じように子供じみた論法は,教会はただ一つ(ひとつ)である,だから公会議派教会とカトリック教会は一つで同じ(ひとつで おなじ)ものでなければならないというものです(偽〈にせ〉の教会は何千〈なんぜん〉もあります)( "Equally childish is the argument that there is only one Church, so the Conciliar church and the Catholic Church must be one and the same (there are thousands of false churches)." ).

     真実(しんじつ)とはさほど複雑難解(ふくざつ なんかい)なものではありません( "The truth is not too complicated." ).カトリック教会は生きた組織(いきた そしき)で( "The Catholic Church is a living organism, …" ),その創設者(そうせつ しゃ)イエズス・キリスト(いえずす・きりすと)のように,神聖な面と人間的な面(しんせいな めんと にんげん てきな めん)を兼ね備え(かね そなえ)ています( "… both divine and human, like its Founder, Jesus Christ." ).神聖な面としては,教会はキリストの汚れなき花嫁(けがれなき はなよめ)( “his Immaculate Bride” )ですから,堕落(だらく)したものではありませんし堕落することもありません( "As divine, as being his Immaculate Bride, it cannot be corrupt or corrupted, …" ).だが,教会は罪深い人間(つみぶかい にんげん)によって構成(こうせい)されているものですから( "… but as being made up of sinful human beings, …" ),ほかの生きた組織と同じ(いきた そしきと おなじ)ように部分的に腐敗(ぶぶん てきに ふはい)することがあります( "… it can partially rot just like any other living organism." ).したがって,公会議派教会とカトリック教会の関係(かんけい)を理解(りかい)するのに役立つ方法(やくだつ ほうほう)は腐った林檎(くさった りんご)を考(かんが)えてみることです( "So one useful way to understand how the Conciliar church relates to the Catholic Church is to think of a rotten apple." ).

     一方の見方(いっぽうの みかた)では,腐食(ふしょく)は林檎(りんご)に所属(しょぞく)します( "On the one hand the rot belongs to the apple." ).その腐った部分(くさった ぶぶん)は,すべて一度(いちど)は林檎でした( "All rot was once apple." ).腐食は林檎を腐敗(ふはい)させるもの,林檎の寄生物(きせいぶつ)で,林檎なしには生存(せいぞん)できず,腐った部分が落(お)ちるまで林檎に固(かた)くしがみついています( "The rot is a corruption of the apple, a parasite on the apple, it could not exist without the apple and it remains firmly attached to the apple unless and until the rotten part falls off. " ).同(おな)じように公会議主義(こうかいぎ しゅぎ)はそのあらゆる部分(ぶぶん)が一度はカトリック(かとりっく)だったという限(かぎ)りにおいてカトリック教会に所属します( "Likewise Conciliarism belongs to the Catholic Church insofar as everything Conciliar was once Catholic, …" ).それはカトリック教会を腐敗させるもの,カトリック教会の寄生物で,カトリック教会なしには生存できず( "… it is a corruption of the Catholic Church, a parasite on the Catholic Church, it could not exist without the Catholic Church, …" ),カトリック教会のどこかの部分に,それを意図(いと)した通(とお)り壊(こわ)してしまわない限(かぎ)り,そこに固くしがみついています( "… and it remains firmly attached to some part of the Catholic Church unless and until it destroys that part, as it was designed to do." ).

     ほかの見方(みかた)では,腐食は林檎に所属(ふしょくは りんごに しょぞく)しません( "On the other hand the rot does not belong to the apple." ).初めから腐る(はじめから くさる)つもりの林檎などありません( "No apple was ever meant to go rotten." ).あらゆる腐食は林檎の一部分を変質(いちぶぶんを へんしつ)させるもの,林檎を腐敗(りんごを ふはい)させるもの,林檎の寄生物(りんごの きせいぶつ)であり,林檎を悪(わる)いものに変質(へんしつ)させ,結果的(けっかてき)に林檎とはまったく異質(いしつ)なものに変(か)えてしまうものです( "All rot is a transformation of some apple, a corruption and parasite of apple, transforming it for the worse, resulting in something quite different from apple, …" ).それは気の確かな者(きの たしかな もの)なら食(た)べたいとか,林檎と少しも変わらない(りんごと すこしも かわらない)じゃないかなどという思い(おもい)にならないものです( "… something which nobody in his right mind would dream of eating or of saying that it was no different from apple." ).同じ(おなじ)ように,公会議主義(こうかいぎ しゅぎ)はカトリック教会(かとりっく きょうかい)に所属(しょぞく)しません( "Likewise Conciliarism does not belong to the Catholic Church, …" ).それはカトリック的(てき)ななにかを腐敗(ふはい)させるもの,カトリック的なものによりかかる寄生物(きせいぶつ)です( "… it is a corruption of something Catholic and is a parasite on whatever is Catholic." ).それはカトリック教会(の人間的な部分〈にんげんてきな ぶぶん〉)を悪いものに変質(わるいものに へんしつ)させ( "It transforms (a human part of) the Catholic Church for the worse, …" ),結果(けっか)としてその部分(ぶぶん)を本質的(ほんしつてき)にカトリック的でない何か(かとりっく てき でない なにか)に変えて(かえて)しまいます( "… resulting in something essentially non-Catholic …" ).気の確かなカトリック信徒(きの たしかな かとりっく しんと)ならだれ一人(ひとり)として,それをカトリック的だと称(しょう)したり自らの信仰(みずからの しんこう)を犠牲(ぎせい)にして,それと付き合い(つきあい)たいなどという思(おも)いにならないものです( "… which no Catholic in his right mind would call Catholic or want to associate with, on pain of losing his faith." ).

     簡潔に言えば(かんけつに いえば)( "In brief, …" ),公会議主義は腐食(こうかいぎ しゅぎは ふしょく)で( "Conciliarism is rot, …" ),「公会議派教会(こうかいぎは きょうかい)」は一つの神聖的・人間的教会(ひとつの しんせいてき・にんげんてき きょうかい)( "the one divine-human Church" )であり,その人間的側面の一部(にんげんてき そくめんの いちぶ)が腐敗した状態(ふはいした じょうたい)にあるものです( "… and the “Conciliar church” is the one divine-human Church being rotted in one or other of its human aspects." ).もちろんカトリック教会(かとりっく きょうかい)は末世まで続く(まっせまで つづく)(訳注後記)でしょう(新約聖書・マテオ聖福音書:第28章20節)( "Of course the Catholic Church will last to the end of the world (Mt. XXVIII, 20), …" ).だが,「公会議派教会」は昔(むかし)からあった数多い寄生教会(かず おおい きせい きょうかい)( "parasite churches" )の一つ(ひとつ)にしかすぎません( "… while the “Conciliar church” is merely one in a long line of parasite churches down the ages, …" ).それは,自ら(みずから)が腐敗(ふかい)させるものによりかかって生き(いき),自らよりかかって生きているものを腐敗させます( "… living on what they rot and rotting what they live on. " ).あらゆるリベラル派の人々(りべらるはの ひとびと),自ら混乱し他人を混乱させる人々に天罰を!(みずから こんらん し たにんを こんらん させる ひとびとに てんばつを!)( "A plague on all liberals, confused and confusing ! " )

     キリエ・エレイソン.

     教会は神と人を分かち,かつ結びつける
     (きょうかいは かみと ひとを わかち,かつ むすび つける)
     ( "The Church does parts from God and man
      combine." )

     人は腐敗するが,神が腐敗することはない
     (ひとは ふはいする が,かみが ふはいする ことはない)
     ( "The human can be rotted, not the divine." )


     リチャード・ウィリアムソン司教



*     *     *


第6パラグラフの訳注:
「…カトリック教会は末世まで続く…」の「末世(まっせ)」について

「末世(まっせ)」( "the end of the world" )の意味=
・道義が衰え乱れた世の中(どうぎが おとろえ みだれた よのなか).

「道義(どうぎ)」=
・人としてふみ行うべき道(ひと として ふみ おこなう べき みち).道徳(どうとく).

(国語〈日本語〉辞書「大辞林」より)


2014年3月25日火曜日

348 抵抗方針 I 3/15

エレイソン・コメンツ 第348回 (2014年3月15日)

     今日,教会と世界(きょうかいと せかい)が破滅状態(はめつ じょうたい)にある中(なか)で,ほかの何(なに)にもまして,二つの主要な原則(ふたつの しゅような げんそく)が働(はたら)いています( "In today’s disastrous state of Church and world there are, amongst others, two central principles in play, …" ).ひとつは恒久的,根本的(こうきゅうてき・こんぽんてき)な原則であり,もうひとつは暫定的,副次的(ざんていてき・ふくじてき)な原則です( "… the one permanent and primary, the other temporary and secondary, …" ).だが,二つはともに中心的な働き(ちゅうしんてき な はたらき)をしています( "… but both are central." ).この二つの原則の相互作用(そうごさよう)が私たちの行動を導く(こうどうを みちびく)のに決定的(けっていてき)な働きをするはずです( "Their interplay should be decisive to guide our actions." ).

     恒久的な原則(こうきゅうてきな げんそく)とは「信仰(しんこう)がなければ神を喜ばす(かみを よろこばす)ことはできない」(新約聖書・使徒聖パウロのヘブライ人への書簡:第11章6節."Heb. XI, 6" )というものです( "The permanent principle is that “Without faith it is impossible to please God” (Heb. XI, 6)." ).なぜなら,人はすべて神から生(う)まれたのであり,死(し)にあたって神のもとへ行き,神の至福の姿(しふくの すがた)に接(せっ)することができるように使(つか)える自由意志(じゆう いし)を与(あた)えられているからです( "This is because all men come from God endowed with a free-will which they are meant so to use as to be able to go to God when they die, and enjoy the beatific vision of God for eternity." ).私たちが現世(げんせ)に存在(そんざい)するためにつけられたこの必須条件(ひっす じょうけん)は神がくださったきわめて寛容な提案(かんような ていあん)であり,私たちから見返り(みかえり)に求(もと)められるものがたとえ相対的(そうたい てき)に少(すく)なくても与えられるものです( "旧約聖書・イザイアの書:第64章4節."Is. LXIV, 4" )( "These obligatory terms of our earthly existence constitute an extremely generous offer on God’s part, given how relatively little is required on our part (Is. LXIV, 4), …" ).だが,私たちが先ず(まず)できることは神の存在を認める(かみの そんざいを みとめる)ことです( "… but the very least that we can do, a bare beginning, is to recognize his existence." ).私たちの身の回り(みの まわり)にあふれる神の創造物(=被造物)(そうぞうぶつ=ひぞうぶつ)( "his Creation" )の素晴(すば)らしさを考えれば,神の存在を認めないのは「許(ゆる)されない」ことであり( "新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第1章20節."Rom. I, 20" )( "Given the goodness of his Creation all around us, it is “inexcusable” not to recognize it (Rom. I, 20), …" ),したがって,私たちは神への初歩的(しょほてき)な信仰さえも持(も)たないようでは神を喜ばすことなどできません( "… and therefore without the most elementary faith in him it is impossible to please him. " ).

     暫定的な原則(ざんていてきな げんそく)とは,牧者が倒れ(ぼくしゃが たおれ),羊が散り散りに(ひつじが ちりぢりに)なったとき働く原則です(旧約聖書・ザカリアの預言書:第13章7節."Zach. XIII, 7" )( "The temporary principle is that the Shepherd is struck and the sheep are scattered (Zach.XIII, 7), …" ).これは私たちの主イエズス・キリストがゲッセマネの園(その)で引用された一文(いんよう された いちぶん)です(新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第26章31節."Mt. XXVI, 31" )( "… text quoted by Our Lord in the Garden of Gethsemane (Mt. XXVI, 31)." )(訳注後記1).人類(じんるい)が4千年(よん せん ねん)にわたって繰り返し(くりかえし)堕落し続けた後(だらく しつづけた あと)( "After 4,000 years of man’s repeated decadence, …" ),神は人間的な姿(にんげんてきな すがた)をおびて(この世に降りて来られて〈おりてこられて〉)(訳注後記2)教会を創設(きょうかいを そうせつ)され( "… God took a human nature to found a Church …" ),その後(ご)2千年(に せん ねん)にわたり諸々の人間(もろもろの にんげん)が自(みずか)らの霊魂(れいこん)を救(すく)えるようにしてくださいました( "… to enable men to save their souls for the last 2,000 years of men’s existence on this earth." ).初めの千年(はじめの せんねん)は堕落(だらく)が著(いちじる)しく食い止め(くい とめ)られました( "For the first thousand of those years the decadence was seriously interrupted, …" ).だが,数世紀(すう せいき)もすると堕落が再び始まり(ふたたび はじまり)( "… but after a few more centuries it picked up again …" ),第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)とともに神の教会の指導者たち本人(かみの きょうかい しどうしゃたち ほんにん),すなわち教会の命運(きょうかいの めいうん)を託(たく)された教皇たち(きょうこう たち)までが( "… to the point that with Vatican II the very leaders of God’s own Church, the Popes on whom it was designed to depend, …" )著しく堕落(いちじるしく だらく)してしまいました( "… became seriously infected by the decadence." ).その結果(けっか),霊魂(れいこん)をどう救(すく)うかについて神が示(しめ)された方法(ほうほう)を人々が理解(ひとびとが りかい)するのがますます難(むずか)しくなってしまいました( "Thereupon it became much more difficult for men to see how God meant them to save their souls." ).

     それ故(ゆえ),一方(いっぽう)では,客観的に言えば(きゃっかんてきに いえば)( "Therefore on the one hand, objectively speaking, …" ),霊魂救済(れいこん きゅうさい)についての恒久的諸真理(こうじょうてき しょ しんり)( "the permanent truths of salvation" )は公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちの堕落(だらく)にかかわらず少(すこ)しも変(か)わっておらず( "… the permanent truths of salvation have not been changed one little bit by the fall of the Conciliar Popes, …" ),救われるべき霊魂が一人(ひとり)でも依然(いぜん)として世に残っているなら(よに のこっているなら)(訳注・=最後の一人の霊魂の救済に至るまで),それら諸真理(しょ しんり)を守り続け(まもり つづけ)なければなりません( "… and these truths must be maintained if any souls at all are still to be saved." ).ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )の誇り(ほこり)は,堕落した聖職者(だらくした せいしょくしゃ)たちに対抗(たいこう)してこれらの諸真理(しんり)を守(まも)ることでしたが( "It was Archbishop Lefebvre’s glory to uphold those truths against the fallen churchmen and world, …" ),彼の後継者(かれの こうけいしゃ)たちは,そのような聖職者たちとその世界(せかい)に加(くわ)わるため,これら諸真理を傷(きず)つけ大司教の顔に泥を塗りました(かおに どろを ぬりました)(訳注・「…顔に泥を塗る」 "disgrace" =恥をかかせる〈はじを かかせる〉・面目を失わせた〈めんぼくを うしなわせる〉・名誉を傷つける〈めいよを きずつける〉)( "… while it is his successors’ disgrace to be compromising them for the sake of rejoining those churchmen and their world." ).

     他方(たほう),主観的に言えば(しゅかんてきに いえば),後継者(こうけいしゃ)たちがおこなった不名誉(ふ めいよ)は教皇たちの堕落によって,その偉大な真理(いだいな しんり)が一時的(いちじ てき)に輝きを失った(かがやきを うしなった)ため幾分(いくぶん)弱(よわ)められています( "On the other hand, subjectively speaking, that disgrace is mitigated by the temporary eclipse of those great truths, due to the fall of the Popes." ).司教(しきょう)たちでさえローマの司教(=教皇,"the Bishop of Rome" )が間違って見えても(まちがってみえても),それを見抜く(みぬく)のは容易(ようい)ではありません( "It is not easy even for bishops to see straight when the Bishop of Rome is seeing crooked." ).したがって,神の恩寵(かみの おんちょう) ― それ以外(いがい)のものではありません ― によって見抜く力(みぬく ちから)を得(え)ている人たちは( "It follows that those who by the grace of God – and by nothing else – see straight, …" ),必(かなら)ずしも自分の誤り(じぶんの ほこり)のためでなく混乱に陥った魂(こんらんに おちいった たましい)のために360度の思(おも)いやり( "a 360-degree compassion" )を持(も)たねばならないということになります( "… must have a 360-degree compassion for souls caught in a confusion not entirely their own fault." ).だから,もしジェームスが自分の霊魂を救う(じぶんの れいこんを すくう)ためには新教会(しん きょうかい)( "the Newchurch" )にとどまらねばならないと信(しん)じているなら,私には彼をそこからむりやり引っ張り出す必要(ひっぱりだす ひつよう)はないだろうと思えます( "Therefore, it seems to me, if James is convinced that to save his soul he must stay in the Newchurch, I need not hammer him to get out of it." ).もしクレアが聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" )内(ない)に深刻な問題(しんこくな もんだい)などなにもないと思(おも)いこまされているなら,私がそのようなことはないだろうと無理(むり)やり彼女を説得(かのじょを せっとく)する必要はないでしょう( "If Clare is persuaded that there is no grave problem within the Society of St Pius X, I need not ram down her throat why there is." ).そして,もしジョンが教皇の座(ざ)が空位(くうい)だと信(しん)じなければ自分の信仰(じぶんの しんこう)を保(たも)てないと考えるなら,私ができることはせいぜい,その考え方(かんがえ かた)は義務(ぎむ)ではないと彼に伝える(かれに つたえる)ことぐらいでしょう( "And if John can see no way to keep the Faith without believing that the See of Rome is vacant, I need urge upon him no more than that that belief is not obligatory." ).

     だが,羊(ひつじ)たちが散り散り(ちりぢり)になっている現代の状況下(げんだいの じょうきょう か)では( "Yet in all this scattering of the sheep, …" ),誰(だれ)かがお粗末な人(おそまつな ひと)たちに代(か)わって,客観的な真理(きゃっかんてきな しんり)を守り抜き(まもり ぬき),それを羊たちに提供(ていきょう)しなければなりません(新約聖書・聖ルカによる聖福音書:第19章40節."Lk. XIX, 40" )( "… somebody must maintain and make available to them the objective Truth if the poor stones are not to have to do it (Lk. XIX, 40), …" ).なぜなら,私たちの霊魂(れいこん)を救(すく)えるかどうかは,最低限(さいてい げん)でもその真理を求(もと)めるかどうかにかかっているからです( "… because upon at least the seeking of that Truth depends the saving of our souls." ).だが,私たちカトリック教徒(きょうと)は,真理を求める(しんりを もとめる)仲間の羊(なかまの ひつじ)たちが盲目(もうもく)であることに十分気を配る(じゅうぶん きを くばる)ようにしましょう( "However, let Catholics seek it with all due regard for the blindness of their fellow-sheep, …" ).少(すく)なくとも牧者(ぼくしゃ)が倒(たお)れているあいだは( "… for at least as long as the Shepherd remains struck." ).

     キリエ・エレイソン.

     要約:牧者が倒れて(ぼくしゃが たおれて)いるときは,救済の真理(きゅうさいの しんり)が破(やぶ)られないよう守(まも)らなければなりません( "Summary -- When the Shepherd is struck, the truths of salvation must be upheld inviolate, …" ). だが,「毛(け)を刈り取られた(かり とられた)羊(ひつじ)たちには風を和らげて(かぜを やわらげて)あげなければなりません.」( "… but "The wind must be tempered to the shorn lambs". Summary -- When the Shepherd is struck, the truths of salvation must be upheld inviolate, but "The wind must be tempered to the shorn lambs". " )


     リチャード・ウィリアムソン司教



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第3パラグラフの訳注1
「私たちの主イエズス・キリストがゲッセマネの園で引用された一文」
(新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第26章31節."Mt. XXVI, 31" )
について

マテオ第26章31節
EVANGELIUM SECUNDUM MATTÆUM XXVI, 31
LE SAINT ÉVANGILE DE JÉSUS-CHRIST
SELON SAINT MATTHIEU XXVI, 31
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST,
ACCORDING TO ST. MATTHEW XXVI, 31

『そのときイエズスは弟子たちに言われた,
「今夜,あなたたちはみな私についてつまずくだろう.
〈*私は牧者を打ち,そして羊の群れは散る〉と書かれているからだ.」』

"Tunc dicit illis Iesus:
Omnes vos scandalum patiemini in me, in ista nocte.
Scriptum est enim: Percutiam pastorem, et dispergentur
oves gregis."

"Alors Jésus leur dit:
Vous tout vous prendrez du scandale à mon sujet pendant cette nuit ;
car il est écrit : Je frapperai le pasteur, et les brebis
du troupeau seront dispersées."

"Then Jesus said to them:
All you shall be scandalized in me this night.
For it is written:
I will strike the shepherd, and the sheep
of the flock shall be dispersed."


この後,
30-35節「ペトロのつまずきの預言」
→36-46節「ゲッセマニにて」
→47-56節「イエズスの捕らわれ」へと続く.

(注釈)
*31節 旧約聖書・ザカリアの書13章7節.
弟子たちはイエズスをメシア(救世主)と信じて勝利の日を待っていた.
そのイエズスが何の抵抗もせず死んで行くことを見ての宗教的つまずき.


牧者〈ぼくしゃ〉
=救世主(メシア)・神の御独子イエズス・キリスト,
また,その代理者たるローマ教皇・諸々の司教.

羊〈ひつじ〉=諸々の司祭.


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第3パラグラフの訳注2

・「全能・唯一(ぜんのう・ゆいいつ)の
*三位一体(聖父+聖子+聖霊)の神」は
また「みことば(御言葉)」と呼ばれる.

・「みことば」は聖霊によって童貞聖マリアの御胎内に宿られ,
人間と同じ肉体を取ってお生まれになった.
(「みことばは人となられた」…新約聖書・ヨハネ聖福音書)

・人「聖マリア」の子となられた「みことば」たる
神の御子イエズス・キリストは,
人間と同じ様に苦難に満ちた人生を生き,
この世の悪〈闇〉の権力に迫害され,「十字架上の死に至るまで」,
神御自身の性質である「無限の愛と真理」に忠実に従った.

*「三位一体の神」=「聖父+聖子+聖霊(ちちと こと せいれい) の神」

・聖マリアは「神の御母」と呼ばれる.

・聖ヨハネ聖福音書,
「使徒信経」("CREDO"),
「御告げの祈り」("ÁNGELUS DÓMINI")
を参照.



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訳注の続きを追補いたします.

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