2014年9月13日土曜日

374 教皇も間違う 9/13

エレイソン・コメンツ 第374回 (2014年9月13日)

     リベラル派(カトリック)信徒(りべらるは〈かとりっく〉しんと)たちも教皇空位論を採る信徒(きょうこう くうい ろん〈をとる〉しんと)たちも自分(じぶん)たちがコインの裏表(こいんの ひょうり)のようなものだと言(い)われるのは有難迷惑(ありがた めいわく)でしょうが,事実(じじつ)はその通(とお)りです( "Neither liberals nor sedevacantists appreciate being told that they are like heads and tails of the same coin, but it is true." ).たとえば,どちらの側(がわ)も第3の代替案(だいさんの だいたいあん)を持ち合(もちあ)わせていません( "For instance, neither of them can conceive of a third alternative. " ).そのことは,たとえば2012(にせん じゅうに)年4月14日付け(しがつ じゅうよっか づけ)のフェレイ司教(ふぇれい しきょう)による 3人の司教宛ての書簡 (さんにんの しきょう あての しょかん)を読めば分かり(よめば わかり)ます.同司教(どう しきょう)は教皇空位論以外(きょうこう くういろん いがい)に自ら(みずから)のリベラリズム(りべらりずむ)に対(たい)する代替案(だいたいあん)をなにも示(しめ)していません( "See for instance in his Letter to Three Bishops of April 14, 2012, how Bishop Fellay could see no alternative to his liberalism except sedevacantism." ).逆に言えば(ぎゃくに いえば),多数(たすう)の教皇空位論者の見方(みかた)に従(したが)えば,公会議派の歴代教皇(こうかいぎはの れきだい きょうこう)のなかに本物の教皇が存在したと認める者(ほんものの きょうこうが そんざい したと みとめる もの)がいるなら( "Conversely, for many a sedevacantist if one accepts that any of the Conciliar Popes has really been Pope, …" ),その人(ひと)はリベラル派に過(す)ぎないということになるのでしょうし( "… then one can only be a liberal, …" ),また教皇空位論者を批判する者(ひはん する もの)がいるなら( "… and if one criticises sedevacantism, …" ),その人はリベラリズムを推進(すいしん)しているということになるのでしょう( "… then one is promoting liberalism." ).しかし,本当(ほんとう)はけっしてそうではありません!( "But not at all ! " )

     なぜそうでないのでしょうか?( "Why not ? " ) どちらの側(がわ)も教皇の無謬性(きょうこうの むびゅう せい)を誇張(こちょう)するという同じ間違い(おなじまちがい)をしているからです( "Because both of them are making the same error of exaggerating the Pope's infallibility. " ).どうしてそのような間違い(まちがい)をするのでしょうか?( "Why ? " )両方(りょうほう)とも組織より個人の方(そしき より こじんの ほう)をより強く信じる現代人(つよく しんじる げんだい じん)だからではないでしょうか?( "Might it be because both of them are modern men who believe more in persons than in institutions ? " ) では,そうするのがなぜ現代人の特徴(げんだい じんの とくちょう)なのでしょうか?( "And why should that be a feature of modern men ? " ) それは,程度の差(ていどの さ)こそあれプロテスタント主義の台頭以降(ぷろてすたんと しゅぎの たいとう いこう)( "Because from more or less Protestantism onwards, …" ),公共の善(こうきょうの ぜん)を追及する組織(ついきゅう する そしき)が減り続ける(へり つづける)のに反し(はんし)( "… fewer and fewer institutions have truly sought the common good, …" ),(私があなた方に求めたように〈わたくしが あなたがたに もとめた ように〉)金銭(きんせん)のような何らか(なんらか)の個人的利益(こじんてき りえき)を追求する組織(ついきゅう する そしき)が増え続け(ふえ つづけ)ているためでしょう( "… while more and more seek some private interest such as money (my claim on you), …" ).こうした傾向(けいこう)は当然(とうぜん)のことながら,私たちの組織(わたくし たちの そしき)に対(たい)する尊敬の念(そんけいの ねん)を減らす(へらす)ことになります( "… which of course diminishes our respect for them." ).例を挙げ(れいを あげ)るなら,善意の人々(ぜんいの ひとびと)は現代の銀行(げんだいの ぎんこう)のような腐敗した組織(ふはい した そしき)が直(ただ)ちにその悪い効果を及ぼす(わるい こうかを およぼす)ことがないようしてきましたが( "For instance, good men saved for a while the rotten institution of modern banking from having immediately all its evil effects, …" ),腐敗した銀行屋(ふはい した ぎんこう や)たちは初め(はじめ)から個々(ここ)の準備銀行や中央銀行(じゅんび ぎんこうや ちゅうおう ぎんこう)といった組織(そしき)が実態(じったい)ではどんなものなのかをさらけ出(だ)しています( "… but the rotten banksters are at last showing what the institutions of fractional reserve banking and central banks were, in themselves, from the beginning." ).神や人間(かみや にんげん)の諸々の敵(もろもろの てき)がいるおかげで,悪魔(あくま)が現代の諸機構の中に存在(げんだいの しょきこうの なかに そんざい)しています( "The Devil is in modern structures, thanks to the enemies of God and man." ).

     したがって,現代のカトリック教徒(げんだいの かとりっく きょうと)たちが教皇を強く信じ(きょうこうを つよく しんじ),教会をほとんど信じなくなる傾向(きょうかいを ほとんど しんじなく なる けいこう)にあるのは理解(りかい)できます( "So it is understandable if modern Catholics have tended to put too much faith in the Pope and too little in the Church, …" ).読者の一人(どくしゃの ひとり)から私(わたくし)がなぜ古典的なカトリック教(こてん てきな かとりっく きょう)の神学理論マニュアルと同じやり方(しんがく りろん まにゅあると おなじ やりかた)で無謬性(むびゅう せい)について書(か)かないのかと質問を受け(しつもんを うけ)ました.上に述べた傾向が私の答え(うえに のべた けいこうが わたくしの こたえ)です( "… and here is the answer to that reader who asked me why I do not write about infallibility in the same way that the classic Catholic theology manuals do." ).カトリック教の神学理論マニュアルはそれ自体(じたい)としては素晴(すば)らしいものです( "Those manuals are marvellous in their way, …" ).だが,その中身(なかみ)はすべて第二バチカン公会議以前(だいに ばちかん こうかいぎ いぜん)に書(か)かれたもので( "… but they were all written before Vatican II, …" ),教会に属する無謬性を教皇に付与(きょうかいに ぞくする むびゅうせいを きょうこうに ふよ)しがちでした( "… and they tended to attach to the Pope an infallibility which belongs to the Church." ).たとえば,マニュアルでは無謬性の頂点は教皇(ちょうてんは きょうこう),もしくは公会議支持を得た教皇(こうかいぎ しじを えた きょうこう)の発する厳粛な定義(はっする げんしゅくな ていぎ)( "a solemn definition" )として表(あら)わされることが多(おお)いのですが,これは実際(じっさい)にはいかなる場合(ばあい)も教皇の発する定義(きょうこうの はっする ていぎ)と言(い)うことです( "For instance, the summit of infallibility is liable to be presented in the manuals as a solemn definition by the Pope, or by Pope with Council, but in any case by the Pope." ).リベラル派,教皇空位論者(りべらる は,きょうこう くうい ろん じゃ)が共に直面するジレンマ(ともに ちょくめん する じれんま)はここから出てくる結論の部分(でてくる けつろんの ぶぶん)です( "The liberal-sedevacantist dilemma has been the consequence and, …" ).それは,言うなれば,個人を過大評価し組織を過小評価(こじんを かだい ひょうかし そしきを かしょう ひょうか)する傾向に対する罰(けいこうに たいする ばつ)のようなものです( "… as it were, a punishment of this tendency to overrate the person and underrate the institution, …" ).なぜなら,教会は決して(きょうかいは けっして)単なる人間的組織(たんなる にんげんてき そしき)ではないからです( "… because the Church is no merely human institution." ).

     第一(だいいち)に,普通教導権という山頂(ふつう きょうどう けんと いう さんちょう)に雪に覆われて立つ)(ゆきに おおわれて たつ)教皇の厳粛な教導権(きょうこうの げんしゅくな きょうどう けん)はごく限られた範囲内(かぎられた はんいない)で山の頂上(やまの ちょうじょう)です( "For, firstly, the Solemn Magisterium's snow-cap on the Ordinary Magisterium's mountain is its summit only in a very limited way …" ) - それは雪の下にある岩の頂上(ゆきの したに ある いわの ちょうじょう)に全面的に依存(ぜんめんてきに いぞん)しているにすぎません( "… – it is wholly dependent on the rock summit beneath the snow." ).そして,第二(だいに)に,無謬性に関する(むびゅうせいに かんする)教会の最も権威ある原本(きょうかいの もっとも けんい ある げんぽん),すなわち真のカトリック教公会議(まことの かとりっく きょう こうかいぎ)である第一バチカン公会議(だいいち ばちかん こうかいぎ)(1870年)で発せられた定義(はっせられた ていぎ)により( "And secondly, by the Church's most authoritative text on infallibility, the Definition of the truly Catholic Council of Vatican I (1870), …" ),私たちは教皇の無謬性(きょうこうの むびゅうせい)は教会から来る(きょうかいから くる)ものであり,その逆(ぎゃく)でないことを知(し)っています( "… we know that the Pope's infallibility comes from the Church, and not the other way round." ).この定義は,教皇がその 権威に基づく 教え(けんいに もとづく おしえ)を行うのに必要な4条件(おこなう のに ひつような よん じょうけん)に従っている場合(したがっている ばあい),教皇は「…真の神より遣わされた救世主イエズス・キリスト(まことの かみ より つかわされた いえずす・きりすと)( "the divine Redeemer" )が,(御自身の教会のため〈ごじしんのきょうかいのため〉)際立って優れた教理を定める(きわだって すぐれた きょうりを さだめる)にあたり,教会がその真の教理由来の恩寵に与れる(きょうかいが その まことの きょうり ゆらいの おんちょうに あずかれる)ようキリスト御自らが教会にお与えになった無謬性を(きりすと おんみずからが きょうかいに おあたえに なった むびゅうせいを)…」保持(ほじ)する…と述(の)べています( "When the Pope engages all four conditions necessary for ex cathedra teaching, then, says the Definition, he possesses. .. “...that infallibility which the divine Redeemer willed his Church to enjoy in defining doctrine...” " ).だが,言(い)うまでもないことですが!( "But of course ! " ) 神以外(かみ いがい)のどこから無謬性が生じ(むびゅうせいが しょうじ)うるでしょうか?( "Where else can infallibility come from, ecept from God ? " ) 教皇は人間の中で最良(きょうこうは にんげんの なかで さいりょう)であり,歴代教皇の中(れきだい きょうこうの なか)には極めて善良な人(きわめて ぜんりょうな ひと)たちがいました( "The best of human beings, and some Popes have been very good human beings, …" ).彼らは間違い(まちがい)をしないと言えるかもしれません( "… may be inerrant, i.e. make no mistakes, …" ).しかし,彼らが原罪を持つ限り(げんざいを もつかぎり),神と同じ(かみと おなじ)ように間違い(まちがい)をしないなどということはありえません( "… but as long as they have original sin they cannot be infallible as God alone can be." ).もし,彼らが間違いをしないとすれば,その無謬性(むびゅうせい)は彼らの人間性から生じる(にんげんせい から しょうじる)ものでなく( "If they are infallible, the infallibility must come through, …" ),それ以外(いがい),すなわちカトリック教会を通して無謬性をお与えになる神から生じる(かとりっく きょうかいを とおして むびゅうせいを おあたえに なる かみ から しょうじる)ものであるはずです( "… but from outside, their humanity, from God, who chooses to bestow it through the Catholic Church, …" ).そして,その無謬性は,上に述べた定義の有効期間中(その むびゅうせいは,うえに のべた ていぎの ゆうこう きかん ちゅう)だけのごく一時的な贈り物である必要(いちじ てきな おくりもので ある ひつよう)があります( "… and that infallibility need only be a momentary gift, for the duration of the Definition." ).

     したがって,一教皇(いちきょうこう)が 権威(=命令権)を持っている 瞬間 ( けんい〈=めいれいけん〉をもっている しゅんかん)( "ex cathedra moments" )を除(のぞ)けば,彼(かれ)が第二バチカン公会議の新宗教(だいに ばちかん こうかいぎの しん しゅうきょう)のようなばかげたことを話(はな)すのを止め(やめ・とめ)させるものは何(なに)もありません( "Therefore outside of a Pope's ex cathedra moments, nothing stops him from talking nonsense such as the new religion of Vatican II." ).それ故(ゆえ),リベラル派も教皇空位論者も(りべらるは も きょうこう くうい ろんじゃ も)そのようなばかげたことを気(き)にかける必要(ひつよう)もありませんし,そうすべきでもありません.( "Therefore neither liberals nor sedevacantists need or should heed that nonsense, …" ),なぜなら,ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)が言(い)われたように( "… because, as Archbishop Lefebvre said, …" ),彼らには2千年(にせん ねん)もの間(あいだ)続いた(つづいた)教会の無謬な教え(きょうかいの むびゅうな おしえ)があり,それに基(もと)づいて教皇の話す内容(きょうこうの はなす ないよう)がばかげたことかどうかを判断(はんだん)できるからです( "… they have 2000 years' worth of Ordinarily infallible Church teaching by which to judge that it is nonsense." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教


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(注:本投稿記事〈第374回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月28日23:30に公開されました.)