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2012年7月22日日曜日

262 弱められる抵抗 7/21

エレイソン・コメンツ 第262回 (2012年7月21日)

(訳注・7月14日の)土曜日に終了した聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" = "SSPX" ) 本部会議(=総会, "General Chapter" )から出てきた朗報は,自殺の瀬戸際(せとぎわ)に追いやられている( "led to the brink of suicide" )同会が,一時的にそれを免(まぬか)れる( "…has been given a reprieve by the Chapter. " )という結論でした.しかし,全世界に公表されたインタビューで語られた次の言葉が,今後さらに6年間在位(ざいい)する "SSPX" 指導者たちの胸の内を示すものだとしたら,自殺の一時延期(いちじえんき)が続くよう増々(ますます)祈らないわけにはまいりません.以下にその言葉を示します.(インターネット上でまだアクセス可能かどうかわかりませんが -- カトリック・ニュース・サービス( "Catholic News Service" )をご覧になってください.):--

「多くの人々は例の公会議(第二バチカン公会議)を理解しているが,その理解は間違っています.そして,今ではそのことをローマ(教皇庁)の人たちが公言しています(“Many people have an understanding of the Council (Vatican II) which is a wrong understanding, and now we have people in Rome who say it.…” ).私が思うに,例の協議(ローマ教皇庁と聖ピオ十世会の間で2009年から2011年まで行われた「教理上の論議」)の席で( "SSPX" 内の)私たちがその公会議から出てきたものだと非難してきた多くのことは実は同公会議からではなく,一般の人々の理解からで出てきたものだと言っても差し支えないでしょう("…We may say, in the Discussions (between Rome and the Society of St Pius X, from 2009 to 2011), I think, we see that many things which we (in the SSPX)would have condemned as coming from the Council are in fact not from the Council, but from the common understanding of it. " ).」

この言葉について論評するとすれば,私たちは第二バチカン公会議に立ち戻らなければなりません.同会議の出した16の文書は真実と誤(あやま)りの両方を含んでおり,きわめて曖昧(あいまい)かつ矛盾(むじゅん)しています( "Containing both truth and error, its 16 documents are profoundly ambiguous and contradictory. " ). "SSPX" はルフェーブル大司教 "Archbishop Lefebvre" の教えに従い,同公会議の諸文書に真実は一切ないなどと主張したことはありませんが,重大な誤りを含んでいるとつねに非難してきました( "Following Archbishop Lefebvre, the SSPX has never said that the documents contain no truth, but it has always accused them of containing serious errors, …" ).一例を挙(あ)げれば,国家にはカトリック以外の宗教を抑制(よくせい)する権限はないとする公会議の原則です( "…for instance the doctrine that the State has no right to repress non-Catholic religions. " ).公会議派ローマ教皇庁( "Conciliar Rome" )は,たとえば諸文書に含(ふく)まれる「人はすべて宗教に関する物事においては真実を探し出しそれを信奉(しんぽう)しなければならない」といった正反対の真実を引き合いにだして,自らの諸文書の正しさをつねに主張してきました( "Conciliar Rome has always defended the documents, for instance by referring to the opposite truths contained in them, such as that every man must in matters religious find out and profess the truth." ).だが,公会議の文書が真実かどうかが問題になったことは一度もありません.問題はその誤りと矛盾です( "But the truths have never been the problem. The problem is the error and the contradiction." ).たとえば,もし,国家などのような,個々人の一集合体が宗教的に中立でよいとするなら,なぜ単独の(ただ一人の)個人は中立であってはいけないのか? といった点です( "For instance, if a mass of individuals, such as the State, may be neutral in religion, why should the single individual not be ? " ).この矛盾 が人間の神からの解放 - すなわちリベラリズム(自由主義) - に門戸(もんこ)を大きく開きます( "The contradiction opens the door wide to the liberation of man from God – liberalism. " ).

2009年から2011年までの教理に関する協議はローマ教皇庁当局者たちの公会議的主観主義と "SSPX" のカトリック的客観主義との間の教理上の対立を検討するために行われました( "…were set up to examine the doctrinal clash between the Romans’ Conciliar subjectivism and the SSPX’s Catholic objectivism. " ).むろん,協議はこの対立の溝(みぞ)が深く和解不能であることを示しました( "They showed, of course, that the clash is profound and irreconcilable,…" ).ここで問題なのは,この対立が公会議のいう真実とカトリックの真実との間のものではなく,むしろ公会議の誤りとカトリックの真実との間のものだということです( "not between Conciliar truth and Catholic truth, but between Conciliar error and Catholic truth,…" ).事実上は人間の宗教と神の宗教との間の対立なのです( "in effect between the religion of man and the religion of God. " ).

ここで引用したインタビューでの話し手は「ローマの人たち」は正しく,「私たち」すなわち "SSPX" は間違っていると言っており( "Now comes the speaker to state that the “people in Rome” are right, and that “we” are wrong, i.e. the SSPX,… " ),その理由として,"SSPX" が第二バチカン公会議から出てきたものとして常(つね)に非難してきた「多くの物事」が実は同公会議についての「一般の人々の理解」から出てきたものだからだと述べています( "…because “many things” the SSPX has constantly condemned as coming from the Council come only from a “common understanding” of the Council. " ).言い換えれば,ルフェーブル大司教も彼の創立した聖ピオ十世会も同公会議を非難し,それに応じて公会議派のローマ教皇庁に抵抗したことがそもそも(初め)から間違いだったというわけです( "In other words, the Archbishop and his Society were wrong from the beginning to accuse the Council, and accordingly to resist Conciliar Rome. " ).その結果として公会議派の諸司教がカトリックの伝統に十分気配りすると信頼できたはずだから,ルフェーブル大司教による1988年の司教聖別は不必要な決断だったのではないかということになります( "It follows that the episcopal consecrations of 1988 must have been an unnecessary decision, because Conciliar bishops could have been trusted to look after Catholic Tradition." ).だが,同大司教は司教聖別を「生き残り作戦」と呼び,公会議派のローマを信じることは「自殺作戦」だと断じました( "Yet the Archbishop called those consecrations “Operation Survival”, and he called trusting Conciliar Rome “Operation Suicide”. " ).

今日その話し手は ― 上に引用した言葉を一貫して守り ― 間違いなくローマと "SSPX" との間の合意に賛同しています( "Today the speaker – consistently with his words quoted above – is certainly favouring a Rome-SSPX agreement." ).報道によると,この合意では "SSPX" の未来の諸司教を選ぶ権限は公会議派ローマに委(ゆだ)ねられます( "There are reports that this agreement would entrust Conciliar Rome with choosing the SSPX’s future bishops. " ).ということは,ルフェーブル大司教の時代から公会議派だったローマがそうでなくなるなどということが幻想に過ぎないのはあらゆる証拠が叫(さけ)び示すとおりですから( "Then unless Rome has stopped being Conciliar since the Archbishop’s day, and all the evidence cries out against such an illusion,…" ),もし同大司教が生きておられれば,その話し手は "SSPX" の「自殺作戦」を推(お)し進めているのだと言われたことでしょう ― その話し手が自分の言葉を取り下げない限りは( "…the Archbishop would have said that the speaker was promoting “Operation Suicide” of the SSPX – unless the speaker has since disowned these words. " ).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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2012年5月27日日曜日

254 むしばまれる教理 5/26

エレイソン・コメンツ 第254回 (2012年5月26日) 

第二バチカン公会議が1965年に出した宣言「人格の尊厳(そんげん)( "Dignitatis Humanae" ) 」(訳注・原題はラテン語,英語では "Of the Dignity of the Human Person" )で説く宗教の自由 "religious liberty" という主題について多くの書物が書かれてきました.この文書の革命的な教えは次に挙(あ)げるとおり明瞭(めいりょう)なものです: すなわち,あらゆる個々人( "every individual human being" )には生来の尊厳( "the natural dignity" )が与えられているのであるから,いかなる国家(=公的機関),社会的団体,人間による権力( "State or social group or any human power" )も個々の人間および団体に対して私的にまた公的に( "in private or in public" ),公序( "public order" )が順守(じゅんしゅ)される(=守られる)限り,各自が選択する宗教的信条(=信念・信仰, "religious beliefs" )に背(そむ)いて行動するよう強要あるいは強制( "coerce or force" )することはできない(=してはならない)(D.H. 第2章)ということです. 

これに対し,第二バチカン公会議以前のカトリック教会はつねに一貫(いっかん)して,すべての国家は,その諸市民の霊魂の救いに資(し)しかつその妨(さまた)げとならない限り( "so long as such coercion is helpful and not harmful to the salvation of souls" ),彼ら市民に対しいかなる偽(いつわ)りの宗教,すなわちあらゆる非カトリック教(=カトリック教以外の諸宗教)を,公的に信仰・実践することをやめさせる権利また義務までも持つと教えてきました.(たとえば2012年の今日,自由・解放( "freedom" )はあまりにも広くあがめられて(=崇拝・賛美されて)いるため,ほとんどあらゆる国々の市民は国家によるそのような強要には愛想(あいそ)を尽(つ)かし,カトリック教を,正当に評価するどころか,冷笑(れいしょう)さえするようになっています.このようなケースでは,カトリック教会がつねに教えてきたように,国家は諸々の偽りの宗教を強要(きょうよう)する権限(けんげん)の行使(こうし)を控(ひか)えてもよさそうなものです.) 

ところで,これら二つの教理がいったいどこで相矛盾(あいむじゅん)するのかということの正確な論点についてはきわめて些細(ささい)なことがらに思われるかもしれません——国家が偽りの宗教の公的実践を強要し得るか否かという点ですから——,だがそこから言外(げんがい)に読み取れる数々の意味合い(=含意〈がんい〉・暗示)は(訳注・けっして小さいものではなくむしろ)次に挙げるように計り知れないほど莫大(ばくだい)なものです: すなわち,神は主か(訳注・「いったい創造主たる神が被造物たる天地万物の主(あるじ)か」の意.原文— "is God the Lord" ),それとも人類の僕(しもべ)か?(訳注・「それとも(創造主たる)神は(神の被造物たる)人類の僕なのか」の意.原文— "or the servant of men ?" )という論点に行き当たります.なぜならもし一方で人間が神の被造物( "man is a creature of God" )で,生まれつき社会的なもの( "is social by nature" )だとすれば(これは人が生来あらゆる種類の組織,とりわけ国家という形でまとまることから明らかです),社会や国家も神の被造物( "are also creatures of God" )であるから,国家が,人々の霊魂の救済の妨げになるよりむしろ資することになる限り,諸々の偽りの宗教をなんとかして公的な場(国家の業務領域)で市民に強要することで,むしろ神と神の唯一の真の宗教に仕(つか)えることになるというなら,それも神の御蔭(おかげ)ということでしょう. 

他方,もし人間の自由は個々人が自ら選ぶ宗教の公的実践や偽りの宗教から改宗させることで(公序が乱〈みだ〉されない限り)他人を堕落(だらく)させるのも自由だというほど価値あるものだとすれば,偽りの宗教は公的な場で繁栄(はんえい)するに任せなければなりません(たとえば,今日のラテンアメリカに見られるプロテスタント諸宗派〈 "Protestant sects" 〉).これだと,偽りの宗教と唯一の真の宗教との違いは人間の尊厳ほど重要ではない,だから真の宗教はさほど重要ではない,ということは神の価値は人間の価値より重要度が低いということになります.こうして,第二バチカン公会議は神を格下げし( "down-grades God" ),人間を格上げする( "up-grades man" )わけです.究極的には同公会議は神の宗教を人間の宗教に置き換えようとしています.ルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )が人間の尊厳で狂って酔ってしまった世界とカトリック教会の中で,神,私たちの主イエズス・キリストの超越(ちょうえつ)的な尊厳と価値を支え続けようと聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" )を創設されたのも不思議ではありません. 

だが,今月初めになって一宗教指導者が人前で次のようなことを公言しました: 「多くの人々は第二バチカン公会議を理解していますが,その理解は間違っています.」彼の発言によれば,宗教の自由は「実に多様に使われています.しっかり調べてみると,同公会議がそれについて実際になにを言っているか知らない人が多いという印象を実に受けます.同公会議が示している宗教の自由とはとても,とても限定的なもの,いたって限定的です…( "a very, very limited one: very limited…" ).」第二バチカン公会議そのものは,つまり全体として見た場合に,カトリックの伝統( "Catholic Tradition" )に属(ぞく)するということなのかどうかと聞かれ,彼は「そうだと思います」と答えています( "Asked whether Vatican II itself, i.e. as a whole, belongs to Catholic Tradition, he replied, “I would hope so” " ). 

彼のインタビューを読者の皆さまご自身でご覧になってください.「(訳注・カトリック教)伝統派リーダー,自らの運動とローマ(教皇庁)について語る」( "Traditionalist leader talks about his movement, Rome" )と題するインタビューは英文でユーチューブ上でアクセス可能です.もし「自らの運動」が現在,その42年間の存続期間中で最大の危機の最中(さなか)にあると聞いたら驚(おどろ)かれるでしょうか?

 キリエ・エレイソン.

 英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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2012年5月20日日曜日

253 教皇ベネディクト16世のエキュメニズム(世界教会主義) -5- 5/19

エレイソン・コメンツ 第253回 (2012年5月19日) 

長い論議を数回に分ける必要があったため,読者の皆さんはエレイソン・コメンツ(EC)が取り上げてきた「教皇ベネディクト16世のエキュメニズム(世界教会主義)」のこれまでの脈絡(みゃくらく)を見失(みうしな)ってしまったかもしれません。前回までの論議を要約してみましょう:-- 

シリーズ最初のEC 第241回では基本的なポイントを何点か立証しました.すなわち,カトリック教会は有機的統一体( "organic whole" )であり,もしその構成している諸々の信仰信条の一部だけを取り出して選び取る人がいるなら,その人は「選択者」( "a chooser" )であり,あるいは異端者(いたんしゃ)となること.さらに,いったん彼がそのカトリック信仰信条の一つでもカトリック教会の外に持ち出せば,水から電気分解(でんきぶんかい)で取り出した酸素(さんそ)が液体(えきたい)の一部でなくなりガスに変わってしまうように,そのカトリック信仰は同じものにとどまらないこと.第二バチカン公会議の唱(とな)えるエキュメニズムは非カトリック信徒とカトリック信徒が共有する信仰があると想定しているが,実際には「私は神を信じる "I believe in God" 」という一言でさえ,それがプロテスタント教式,あるいはカトリック教式の一信仰信念のシステム,もしくは信条(=教義)などに組み込まれると異(こと)なったものになりかねないことなどです( "…is liable to be quite different when it is incorporated in a Protestant or in a Catholic system of belief, or creed".)

EC第247回では別の比喩(ひゆ)を使って,カトリック教全体の一部分がひとたび全体から取り出されると同じではありえないことを例証しました.金貨は山積みの中から取り出しても金貨のままですが,生木(なまき)から切り落とされた枝(えだ)はまったく違ったもの,枯(か)れた木材(もくざい)になってしまいます.教会は金貨より樹木(きき)に似ています.というのも,私たちの主イエズス・キリストは自(みずか)らの教会を葡萄(ぶどう)の木に例(たと)えられました.事実,主は切り取られた枝は火に投げ入れられ燃やされると言われました(ヨハネ聖福音書15・6参照,興味深いことに,生きている枝で葡萄の枝ほど実を結(むす)ぶものはなく,死んだ木で葡萄の木ほど役に立たないものはありません.)(訳注後記)そういうわけで,カトリック教会から切り離(はな)された部分はカトリックのままにはとどまりません.エキュメニズムは切り離された部分もカトリックのままだと偽(いつわ)っています. 

EC第249回では第二バチカン公会議の諸文書がこのような間違(まちが)ったエキュメニズムの考えをどのように推(お)し進めようとしているかを示すつもりでしたが,その前のEC第248回で,同公会議の諸文書が内容の曖昧(あいまい)さで悪評(あくひょう)なことに予備警告(よびけいこく)を出さざるをえませんでした.そこで同公会議文書のひとつ「神の啓示に関する教義憲章( "Dei Verbum" )」(第8項)を例にあげ,いかにこれがモダニストたち(訳注・ "the modernists",現代(文明)主義者たち)の言う「生きた(カトリック)伝統」( "living Tradition" )といった間違(まちが)った考え方に門戸(もんこ)を開いているかを示しました.そのあと,EC第249回で同公会議諸文書のうちの3点,すなわちモダニストたちのエキュメニズムにとって重要な3点を紹介しました.それは "Dei Verbum" のほかに,「教会憲章」第8項 ( "Lumen Gentium #8" )と「エキュメニズムに関する教令」(第3項)( "Unitatis Redintegratio (#3)" )です. "Lumen Gentium" はキリストの真の教会は「狭(せま)い」カトリック教会の先までたどり着くとしています( "Christ 's "true" Church reaches beyond the "narrow" Catholic Church" ).そして "Unitatis Redintegratio" は先(ま)ずはじめに,(金貨が山積(やまづ)みの中でも外でも同じ金貨であるように)教会はカトリック教会の内(うち)でも外(そと)でも同じように見える「諸要素」( "elements" )すなわち部分( "parts" )で成り立っているとし,つぎに,そうした諸要素はカトリック教会の内外(うちそと)を問わず霊魂(れいこん)を救いうると述べています. 

EC第251回ではついに教皇ベネディクト16世の唱えるエキュメニズムに特に触(ふ)れました.ヴォルフガング・シューラー博士( "Dr. Wolfgang Schüler" )が自著「ベネディクト16世と(カトリック)教会の自己認識」( "Benedict XVI and the Church's View of Itself" )で引用(いんよう)しているヨゼフ・ラッツィンガー神父( "Fr. Joseph Ratzinger" )の言葉を読めば,1960年代に若い神学者だった彼が山積みの中でも外でも金貨は同じという考え方とまったく同じ線で考えていたことが分かります.彼の後年の言葉は,枢機卿(すうききょう)となり教皇となった彼がまさしく山積みの金貨としての教会と有機的(ゆうきてき)統一体としての教会との彼なりのバランスを保(たも)とうと絶(た)えず努(つと)めてきたことを示(しめ)しています.しかし,シューラー博士が異議を唱え論じておられるように,このバランスを取ろうとする教皇の行為自体,彼自身の半身がいまだに教会を山積みの金貨だと信じていることを前提(ぜんてい)としています. 

読者の皆さんがヨゼフ・ラッツィンガー神父の言葉を私が曲解(きょっかい)したり文脈(ぶんみゃく)から外(はず)れて取り上げたりしていないかを証明せよと求めないなら,シリーズ最終の EC は結論として,そこから学(まな)んだレッスンをルフェーブル大司教の創設された聖ピオ十世会( "Archbishop Lefebvre's Society of St Pius X (SSPX)" )の現状に当てはめてみます.一方では聖ピオ十世会は真のカトリック教(=公教)全体,すなわち「唯一(ゆいいつ)の,聖なる,普遍(ふへん,=公)的かつ使徒継承」の神のみ教(おし)え(=カトリック教会〈公教会〉)全体の一部です( "On the one hand the SSPX is part of the true Catholic whole, "one, holy, Catholic and apostolic" " ).他方では聖ピオ十世会は病(やまい)にかかっている(第二バチカン)公会議主義体制の下におかれている教会全体の一部になることは避(さ)けたほうがいいとの考えです( "On the other hand it had better avoid making itself part of the diseased Conciliar whole" ).不健康な公会議の木に接ぎ木(つぎき)された健康な枝はどうしても同公会議の病に罹(かか)ってしまうでしょう.小枝(こえだ)にすぎないもの(訳注・ "a mere branch", =聖ピオ十世会)がその病を治すすべなどありません.

 キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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 第3パラグラフの訳注:

新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第15章6節 
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN, XV, 6 

『私にとどまらぬ者は枝のように外に投げ捨てられ,枯れ果ててしまい,
人々に拾い集められ,火に投げ入れられ,焼かれてしまう.』

 "If any one abide not in me, he shall be cast forth as a branch and shall wither:
and they shall gather him up and cast him into the fire: and he burneth".


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2012年5月13日日曜日

252 信仰殺し 5/12

エレイソン・コメンツ 第252回 (2012年5月12日)

だがもしローマ教皇庁が聖ピオ十世会の望むものをすべて提供するとしたら,それでもなお聖ピオ十世会がそれを拒(こば)むべき理由とはなんでしょうか? 聖ピオ十世会の要求をすべて満足させる実務的合意が生まれるならそれを受け入れるべきだとまだ考えているカトリック信徒たちが明らかにいるようです.それなのにどうして拒むべきなのでしょうか? 理由は聖ピオ十世会がルフェーブル大司教によって結成されたのはそれ自体が目的ではなく,第二バチカン公会議によってかつてなかったほどの危険に晒(さら)された真のカトリック信仰を擁護(ようご)するのが目的だったからです.だが,ここでは新教会当局者たち( "Newchurch authorities" )がなぜ聖ピオ十世会が拒まなければならないような実務的合意を求めるのかについて考えてみましょう.

その理由は新教会(訳注・ "Newchurch".=「新しい教会」) が主観論者 "Subjectivist" の集まりであり,いかなる実務的合意も主観主義 "Subjectivism" が真実であると暗示しているからです.第二バチカン公会議の唱える新宗教( "the new Conciliar religion" )によれば,信仰の諸教義( "dogmas of Faith" )は客観的な真実ではなく,主観的なニーズに役立つシンボルにすぎません(回勅パシェンディ "Pascendi", 11-13,21).たとえば,もし私の心理的不安が神が人間になったという信念により鎮(しず)められるなら,その結果御托身( "the Incarnation" )は私にとって真実だということになり,そのことは単なる「真実」という言葉の上で意味を持つだけです.ですからもし伝統主義者たち( "Traditionalists" )が古い宗教( "old religion" )を必要とするなら,それが彼らにとっての真実で,彼らが自らにとっての真実にいかに固執するかは称賛に価するほどでしょう.だが公式には,彼らは第二バチカン公会議の定めた真実をローマ教皇庁当局者たちが持つことを認めざるを得ず,もしそのような妥協を受け入れないとすれば,その結果彼らは我慢がならないほど高慢で許しがたいと言われ,そのような不和など私たちの愛の教会内( "within our Church of luv." )では認められないということになるでしょう.(訳注・ "luv" =「理性や責任(感)を欠いた感覚的愛情」を指している.)

かくして,新近代主義( "Neo-modernist" )のローマにとっては聖ピオ十世会がたとえ暗黙にせよ「自らの」諸真実の普遍性と義務に対する強い主張を諦(あきら)めるような実務的合意ができれば満足でしょう.反対に聖ピオ十世会は20世紀も続いた「自らの」宗教の客観性( "objectivity" )を諸々の言葉以上に雄弁に語るただ一つの行動において否定することになるような合意に満足などできません.事は「自らの」宗教の問題だけに限りません.主観主義者たちと合意に達するには,私は客観性を主張するのを止めなければなりません.そして客観性を主張するためには,私は主観主義者たちが主観主義を捨てない限り,彼らが出すいかなる条件をも受け入れるわけにはいきません.

ローマの当局者たちはそのようなことなどしません.彼らが自分たちの新宗教を推し進めていることを示すもう一つの証拠は,彼らが最近明らかにしたフランスの「良き羊飼い協会への教皇の訪問の結果に関する記録」( "Note on the conclusions of the canonical visit to the Institute of the Good Shepherd" in France" )という形で残っています.エレイソン・コメンツの読者の方々は,この協会がローマ当局の監督下で伝統的なカトリック教が実践できるようにと第二バチカン公会議後に設立されたいくつかの協会の一つだと記憶していることでしょう.ローマはあと数年待ってその包囲網を狭(せば)め,愚かな魚が針にかかるのを確かめるでしょうが,その後は―

上の「記録」は第二バチカン公会議および1992年の新教会要理( "the 1992 Catechism of the Newchurch" )を同協会での学習対象に含めています.協会は「継続性の更新についての解釈学」( "hermeneutic of renewal in cotinuity" )を求めること,さらにトレント式ミサ聖祭( "The Tridentine rite of Mass" ) を「唯一の "exclusive" 」 ミサ聖祭として扱うのを止めることを義務付けられています.協会は「交わりの精神」とともに,公式の教会教区生活に参入する必要があります.別の言い方をすれば,伝統主義の協会は新教会に所属したければあまり伝統的であってはならないのです.協会はこれ以外のなにを期待したでしょうか? 伝統を守るためには協会は新教会の監督下から離れなければならないでしょう.はたしてその機会はあるのでしょうか? 協会は公会議のモンスターに飲み込まれることを望みました.そして今,モンスターは協会を消化している最中です.

そういうわけですから,果たして聖ピオ十世会だけは同じ道をたどらないと言えるでしょうか? 聖ピオ十世会は今回のローマの誘惑を撥(は)ねつけるかもしれません.だが,決して思い違いをしないよう(=幻想を抱かないよう)気をつけましょう.主観主義者たちはなんどでも戻り,また戻り,また戻ってきて,彼らの求める犯罪的ナンセンスを常に戒(いまし)める原動となる客観的真実,客観的信仰( "objective truth and objective Faith" )を一掃(いっそう)しようとするでしょう.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

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2012年5月6日日曜日

251 教皇ベネディクト16世のエキュメニズム(世界教会主義)-4- 5/4

エレイソン・コメンツ 第251回 (2012年5月4日)

カトリック教会は,自らがイエス・キリストの唯一つ真実の教会( “Jesus Christ’s one and only true Church” )であり,世の終わりに(ルカ聖福音書18・8参照)起こるように,たとえ多数の信者が離れて行っても,そのまとまり( “its unity”,=一致(結束) )が失われることはないと常(つね)に教えてきました(訳注後記).したがって,聖キプリアン(キプリアヌス,“St Cyprian” ) は教会のまとまり( “the unity of the Church” )は天与の諸々の秘跡が織りなしてできる神聖な礎(いしずえ)( “divine foundation” )から生まれるものであり,それが「諸々の反対の意思( “contrary wills” )によってばらばらに裂かれることはない」と言いました.人々が自ら抜(ぬ)けたりやむを得ず離れたりしても,彼らが見捨てた教会は変わらずに存続します.この観点に基づく「教会のまとまり( “Church Unity” )」が意味するところは,離れていった人々がひとりまたひとりと真実の教会に戻ってくるということです.

第二バチカン公会議(訳注・以下「当会議」)の教会のとらえ方はこれとは違います.当公会議はキリストの教会はカトリック教会の中に存立する “subsists” と述べ(当公会議文書 “Lumen Gentium” 第8項),両者は別々のものだとする考えにドアを広く開け,キリストの「真の」“true” 教会は「狭(せま)い」 “narrow” カトリック教会より幅広いものだと見なす立場を取っています.この観点に立てば,キリストの真の教会がいくつもカトリック教会の外に点在し,したがって「教会のまとまり」とはそのばらばらの教会を,信徒を一人ずつ改宗させることなしに元通りに合体させることを意味します.これがまさしく当公会議の若くして優れた神学者だったヨゼフ・ラッツィンガー神父 “Fr. Joseph Ratzinger” の見解であり,彼自身が公会議後に述べた驚くべき言葉にはっきり示されています.ヴォルフガング・シューラー博士( “Dr. Wolfgang Schüler” )が,その言葉を自著「ベネディクト16世と(カトリック)教会の自己認識」( “Benedict XVI and How the Church Views Itself” )の中で引用しています.その趣旨を要約すればつぎのようになります.

司教,テーブル,神の御言葉があればどこでも「教会」 “church” は存在する.この真の幅広いキリスト教宗派( “Christian communion” )が数世紀にわたるローマへの権力集中によって著しく狭(せば)められ,結果としてプロテスタントがローマと袂(たもと)を分かつことになった.教理にかかわる諸々の違いは互いにそのまま受け入れるべきものであった.したがって,本来の姿に戻るべきとする( “return-to-the-fold” )エキュメニズムは共存する( “co-existence” )エキュメニズムに後を譲(ゆず)る必要がある.諸々の教会が一つの教会に取って代わらなければならない.カトリック教徒は胸を開かなければならない.改宗はそれを望む個々人に委ねればよい.プロテスタントのした過(あやま)ちはむしろ実質上彼らの権利だといえる.

だが,この一つの教会,諸々の教会という話のなかで(訳注・真の神に対する)信仰( “the Faith” )はどこへ行ってしまったのでしょうか? 教理はどうでしょうか? どこにもないようです.そして,諸カトリック信徒(旧式,昔からの,“old-fashioned” )と諸プロテスタント信徒のそれら(=信念・信条)のようにそれぞれ相いれない信念・信条 “beliefs” を持つ人々の間にどのような一致が存在しうるというのでしょうか? それは当公会議以前にあった教会のまとまりとはまったく異なるもで,新たに生まれる教会とカトリック教会とはまったく別物であるに違いありません.事実,若いころのラッツィンガー神父は新しい教会( “the Newchurch” )設立に向けて活動されました.しかし,その新教会のまとまりが問題となりました.先ず第一に,教会のまとまりとはカトリック教の教義( “a dogma” )の一つです.第二に,枢機卿(すうききょう)および教皇としての,ラッツィンガーは自分よりもっと過激な諸革命派( “Revolutionaries” )(たとえばレオナード・ボフ神父 “Fr. Leonard Boff” )に対し,いたるところに違った形で「存立する」( “subsists” )新教会のまとまりを擁護(ようご)しなければならない立場に置かれました.

そこで,シューラー博士の引用によれば,ラッツィンガー枢機卿はキリストの教会( “the Church of Christ” )はカトリック教会の中に完全な形で実現しているが,ほかの場所にも不完全な形で実現しているものを排除すべきではないと論じます.(だが,もし不完全な形でほかにもあるとすれば,教会のまとまりはどうなるのでしょうか?)同じように,彼はキリストの教会のカトリック教会との同一性( “the identity of the Church of Christ with the Catholic Church” )は相当強いものだが唯一のものではない( “…is substantial but not exclusive” )というのです(同一性とは唯一のもの以外の何なのでしょうか? “but how can identity be anything other than exclusive ?” )繰り返しますが,キリストの教会の完全な姿はカトリック教会の中にあるが,ほかにも不完全な姿で存在するというのです.(だが,ほかにも部分的に存在するものがどうして完全たりうるでしょうか?)( “Again, the complete being of Christ’s Church is in the Catholic Church, but it also has incomplete being elsewhere (but how can a being be complete if part of it is elsewhere ?). ” )同枢機卿による同じような論議はまだ続きます.

簡潔に言えば,ベネディクト16世の目指す新教会はカトリックおよび非カトリックの諸要素( “elements both Catholic and non-Catholic” )を併(あわ)せ持つものです.(だが,たとえ部分的にせよ非カトリックなものは全体としてカトリックではありません.)したがって,ベネディクト16世のいう普遍的(訳注・世界的,エキュメニカル)な新教会( “ecumenical Newchurch” )がそのようなものである限りカトリック教会ではありません.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


 第1パラグラフの訳注:

新約聖書・ルカによる聖福音書:第18章8節(1-8節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. LUKE, XVIII, 8 (1-8)

We must pray always.

不正な裁判官
『またイエズスはうまずたゆまず祈れと教えて,たとえを話された,「ある町に神を恐れず人を人とも思わぬ裁判官があった.またその町に一人のやもめがいて,その裁判官に〈私の敵手(あいて)に対して正邪(せいじゃ)をつけてください〉と頼みに来た.彼は久しい間その願いを聞き入れなかったが,とうとうこう考えた,〈私は神も恐れず人を人とも思わぬが,あのやもめはわずらわしいからさばいてやろう.そうすればもうわずらわしに来ることはあるまい〉」.

主は,「不正な裁判官の言ったことを聞いたか.*¹神が夜昼ご自分に向かって叫ぶ選ばれた人々のために,正邪をさばかれぬことがあろうか,その日を遅れさすであろうか.私は言う.神はすみやかに正邪をさばかれる.とはいえ,人の子(人たる聖母マリアの子でもある神の御子イエズス・キリスト御自身を指す)の来る時,地上に信仰を見いだすだろうか……」と言われた.』

“…I say to you that he will quickly revenge them. But yet the Son of man, when he cometh, shall he find, think you, faith on earth?

(注釈)

不正な裁判官(18・1-8)

2-8節 このたとえは,特に世の終わりの苦しみにあたって不断に祈れと教える.

*¹ 7節 神は選ばれた人々を忘れておられるようにみえても,決してそうではない.ただ待たれる.彼らの正義はやがて証明されるだろう.

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2012年4月29日日曜日

250 「啓蒙主義」のもたらした暗闇 4/28

エレイソン・コメンツ 第250回 (2012年4月28日)

聖ピオ十世会が最終的に教理上の不一致を無視し,ローマ(教皇庁)の第二バチカン公会議主義下の教会当局と純粋に実務的な合意に入ることになるかどうかは別にして,自らの霊魂のとこしえの幸福(=永遠の幸福・永福)を案じる者たちはみな事の核心が一体何なのかをできるかぎり完全に理解しなければなりません.これに関して私の一友人が問題の本質を驚くほど的確に分析して知らせてくれました.以下にご紹介します:--

「2009年から2011年までバチカンの専門家たちと聖ピオ十世会の四人の神学者がいわゆる「教理上の論議」( “Doctrinal Discussions” )を行いました.この論議でローマの当局者たちが第二バチカン公会議の数々の教えにいかに固く執着(しゅうちゃく)しているかがはっきりしました.同公会議はカトリックの教理を18世紀の「啓蒙主義(けいもうしゅぎ)」( “the Enlightenment” )から発展した人間の概念(がいねん)と調和させようと試みました.

このため同公会議は人間の尊厳を理由に( “…by reason of the dignity of his nature…” )人は誰しも自分が選んだ宗教を実践(じっせん,=信奉〈しんぽう〉)する権利を持つと宣言します.したがって社会は宗教の自由を擁護(ようご)し,各種宗教間の共存(きょうぞん)を図(はか)らなければなりません.諸々の宗教はすべて自ら信じる真実の道を持つわけですから,教会一致運動の対話( “ecumenical dialogue” )に参加するよう招(まね)かれます.

実質的には,こうした原則はキリストが真実の神であること( “…that Christ is truly God” )を否定し,またカトリック教会が守る信仰の遺産(=聖書と聖なる伝承)たるキリストの啓示( “Revelation” )は,あらゆる人々,あらゆる社会が受け入れなければならないとする教えをもともに否定(ひてい)します.かくして,同公会議公文書「信教の自由に関する宣言・第2項」( “Dignitatis Humanae #2” )に明記される宗教の自由( “religious liberty” )は, 回勅(かいちょく) “Mirari Vos” (ミラリ・ヴォス)にある教皇グレゴリウス16世( “Gregory XVI” )の教え, 回勅 “Quanta Cura” (クアンタ・クーラ)にある教皇ピウス9世( “Pius IX” )の教え, 回勅 “Immortale Dei” (インモルターレ・デイ)にある教皇レオ13世( “Leo XIII” )の教え, そして回勅 “Quas Primas” (クアス・プリマス)にあるピウス11世( “Pius XI” )の教えにすべて反します.神の摂理(せつり)は非カトリック宗派をも救いの手段として用いるとする同公会議文書「教会(教義)憲章」第8項( “Lumen Gentium #8” )は 回勅 “Syllabus” (シラブス,訳注〈=Syllabus Errorum〉)にあるピウス9世( “Pius IX” )の教え, 回勅 “Satis Cognitum” (サティス・コニトゥム) にあるレオ13世の教え, 回勅 “Mortalium Animos” (モルタリウム・アニモス)にあるピウス11世の教えと相矛盾します.

ここに述べた同公会議による諸々の新しい教理は,公会議以前の歴代の教皇たちによる公式かつ全員一致の諸々の教えと矛盾(むじゅん)するようなそれ以外の諸々の教理とならび同様に矛盾するものであり,カトリック教の教義に照らして異端(いたん)としてしか認めようがありません( “…can only be qualified in the light of Catholic dogma as heretical.” ).

それ以来カトリック教会のまとまり(=一致結束, “the unity of the Church” )は(カトリック)信仰の完全無欠性( “the integrity of the Faith” )にかかっているわけですから,聖ピオ十世会がそのような(異端たる)教理を守る人たちと――たとえ「実務的」にしても――合意に達することなどできないことは明白です.」

私の友人は「啓蒙主義」( “Enlightenment” )として知られる18世紀の知的解放運動( “intellectual emancipation” )が20世紀の聖職者たちの堕落(だらく)の根底にあると非難していますが,この点はルフェーブル大司教( “Archbishop Lefebvre” )が1991年の逝去(せいきょ)の半年前に彼を慕(した)う司祭たちに語ったことと本質的に同じです.大司教は「第二バチカン公会議の諸文書を分析すればするほど,何が問題なのかがますますはっきり実感できます…それは精神の完全な逸脱(いつだつ)であり,現代哲学,主観主義に根差(ねざ)したまったく新しい哲学です…これはキリストによる真の神の啓示,カトリック信仰,哲学とまったく似て非なる型の見解に拠(よ)ったものです…実に恐ろしいことです.」と言われました.( “…The more one analyzes the documents of Vatican II... the more one realizes that what is at stake is... a wholesale perversion of the mind, a whole new philosophy based on modern philosophy, on subjectivism... It is a wholly different version of Revelation, of Faith, of philosophy... It is truly frightening.” )

それでは私たちは神の真実に従(したが)いどうやって心を取り戻せばいいのでしょうか?( “ So how does one get one’s mind back in subjection to God’s reality ?” )ひとつの方法は私の友人が上で述べた歴代教皇の回勅を手にいれ,それについて学ぶことです ( “One way might be to get hold of the papal Encyclicals mentioned by my friend above, and study them.” ).回勅は司教たちに向けて書かれたものです.だが,第二バチカン公会議派の司教たちはあてにできません ( “They were written for bishops, but Conciliar bishops are not reliable.” ).今日の信徒たちは自身の人間形成――そして自身のロザリオを自らコントロールしなければなりません ( “Today’s laity must take in hand their own formation – and their own Rosary.” ).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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2012年4月23日月曜日

249 教皇ベネディクト16世のエキュメニズム(世界教会主義)-3- 4/21

エレイソン・コメンツ 第249回 (2012年4月21日)

二週間前の「エレイソン・コメンツ」で,イエズス・キリストの教会,すなわちカトリック教会を( “…the Church of Jesus Christ, which is the Catholic Church.” ),大いに壊(こわ)してしまった第二バチカン公会議の諸文書(=公文書)から三つの引用を取り出し検討するとお約束しました.そして,一週間前,公会議の諸文書(=テキスト, “the texts of Vatican II” )は意味が曖昧(あいまい)なので誤解(ごかい)が生(しょう)じないよう常に正(ただ)し続けなければならないと指摘しました.同会議の文書は二通りの意味を持つ場合が多いのですが,罪がなく(=邪悪でなく)正しいのはそのうちの一つだけです.もう一方の意味は,過去40年が証明している通りカトリック教会にとってきわめて有害です.

最初の引用は「教会憲章」第8項 “Lumen Gentium #8” からです.以下がその文章です: そこには「キリストの唯一の教会は…世界の中の一つの社会として構成・組織されたもので,カトリック教会の中に存在し”,ペトロおよび彼と一体の司教たちによって統治される」とあります( “The one Church of Christ...constituted and organized in the world as a society, subsists in the Catholic Church, which is governed by Peter and the bishops in communion with him.” ).「存在し “subsists” 」という言葉はここではどういう意味をもつのでしょうか? 第二バチカン公会議前まで教会が説いてきたように,キリストの教会は主としてかつ唯一ローマ・カトリック教会内にだけ存在すると解釈できますが,それとは別に,主としてカトリック教会内に存在するがそこだけではない,つまり,カトリック教会の外(そと,ほか)にも一部存在するとも解釈できるわけで,この点が曖昧です( “The ambiguity is that it can mean either that Christ’s Church exists mainly and only in the Roman Catholic Church, which is what the Church always taught up to Vatican II, or it can mean that Christ’s Church exists mainly but not only in the Catholic Church, in which case Christ’s Church also exists partly outside the Catholic Church.” ).これが公会議のいうエキュメニズムに門戸(もんこ)を開き,カトリック教会だけが救いの箱舟であるとする教義上の主張すなわち, “Extra ecclesiam nulla salus” (教会の外に救いはない)との(カトリック教会の教義上の)主張を台無しにしています( “This opens the door to the Conciliar ecumenism which breaks down the Catholic Church’s dogmatic claim to be the exclusive ark of salvation: “Extra ecclesiam nulla salus.” ).

ここで問題となるのは,カトリック教会は唯一の存在であるというのが教会教義の一つでもある点です( “…it is also a dogma that the Church is one.” ).毎週の主日ミサ聖祭で私たちは「唯一(ゆいいつ,ただひとつ)の,聖なる,普遍(ふへん,公〈おおやけ〉)的かつ使徒継承の教会」( “one, holy, catholic and apostolic Church” )を信じると聞いたり歌ったりします.それならばキリストの教会を多かれ少なかれ教会もどきのいくつかの組織にどうやって分割できるでしょうか? 教会が唯一の存在だとすれば,それがいくつか存在するなどありえません.いくつか存在するとすれば,それは唯一の存在たりえません.ヴォルフガング・シューラー博士 “Dr. Wolfgang Schüler” は著書「ベネディクト16世と(カトリック)教会の自己認識」( “Benedict XVI and How the Church Views Itself” )の中で,ヨゼフ・ラッツィンガー “Joseph Ratzinger” の一連の言葉を引用しながら,彼が一神学者 “a theologian” としていかにカトリック教会の排他性 “exclusivity” の排除を熱心に押し進めたかを示しています.だが,彼は枢機卿,教皇になると一転して教会が一つであること(教会の唯一性, “the Church’s oneness” )をもまた維持しようと奮闘(ふんとう)しています.

第2の引用は「エキュメニズムに関する教令」第3項( “Unitatis Redintegratio #3” )からです.ここには「教会自体を作り上げそれに命を与える諸々の要素や素質の多くはカトリック教会の目に見える境界線外にも存在しうる」と書いてあります( “Very many of the significant elements and endowments which together go to build up and give life to the Church itself, can exist outside the visible boundaries of the Catholic Church.” ).これが意味するところは明らかに,山積みの金貨から取り出した個々の金貨が金貨であると同じように,第二バチカン公会議が列挙(れっきょ)する「信仰,希望,慈悲やその他の聖霊の賜物」といった教会の諸要素はカトリック教会の外にも存在すると認識できるということでしょう.だが,私たちの主イエズス・キリストは自らの葡萄(ぶどう)の木から切り取られた枝は枯(か)れて死ぬ(ヨハネ聖福音書15・6)と言われました.葡萄の木が主の教会でなければほかの何でしょうか?( “What is his vine if not his Church ?” )(訳注後記)

第3の引用は理論的結論を引き出すものです.同じ公文書( U.R. #3 )の後段に「(カトリック教会)から離れた諸々の教会・団体はけっして救いの神秘における意義と重要性を失ってはいない.なぜならキリストの霊 “the Spirit of Christ” はそうした教会・団体を救いの諸手段として用(もち)いるのを手控(てびか)えていないから…」とあります( “The churches and communities separated (from the Catholic Church) have been by no means deprived of significance and importance in the mystery of salvation. For the Spirit of Christ has not refrained from using them as means of salvation...” ).しかし,ルフェーブル大司教 “Archbishop Lefebvre” がかつて言われたとおりたるべきです.すなわち:「いかなる団体もカトリック教会から分離したからには,分離自体が聖霊( “the Holy Ghost” )への抵抗を意味するのだから聖霊の助力を享受(きょうじゅ)することはもはやできない.聖霊は分離のそぶりを見せない霊魂たちや諸手段に対してのみ直(じか)に働きかけその霊験(れいげん)を示すことができるのである.」( “But as Archbishop Lefebvre said: ”No community insofar as it is separated from the Catholic Church can enjoy the support of the Holy Ghost since its separation means resistance to the Holy Ghost. He can work directly only on souls, he can use directly only means, that show no sign of separation.” )

第二バチカン公会議は教会を本質的に誤(あやま)って理解しました.次回はシューラー博士の助けを借りて,教皇ベネディクト16世がいかにその誤った理解にブレーキアクセルの両方を適用しそれらを踏(ふ)んできたかを見ましょう.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第4パラグラフの訳注:

新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第15章6節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN, XV, 6


『私にとどまらぬ者は枝のように外に投げ捨てられ,枯れ果ててしまい,人々に拾い集められ,火に投げ入れられ,焼かれてしまう.』

"If any one abide not in me, he shall be cast forth as a branch and shall wither: and they shall gather him up and cast him into the fire: and he burneth".

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2012年4月22日日曜日

248 公会議の曖昧さ 4/14

エレイソン・コメンツ 第248回 (2012年4月14日)

強くて装備十分な歩兵が敵を追尾しているうちに泥沼(どろぬま)に足を踏み入れた場面を想像してみてください.真実(=真理)で身を固めた勇敢なカトリック信徒が第二バチカン公会議の諸文書を敢(あ)えて批判しようとするとまさに同じ状態にはまります.同会議の文書は曖昧(あいまい)さに満ちた泥沼で ( “quicksand of ambiguity” ),意図的(いとてき)にそのように書かれています.仮に文書が人間の宗教( “religion of man” )をあからさまに押し進めるものだったとしたら,当公会議を構成する神父たち(“the Council Fathers” ,=公会議教父たち)は恐ろしさのあまりその受け入れを拒んだでしょう.だが,新しい宗教は反対者の解釈も受け入れうるように書かれた文書で巧みに偽装されました( “…the new religion was skilfully disguised by the documents being so drawn up that they are open to opposite interpretations.” ).それを示す明快かつ重要な例を見てみましょう.

教皇ヨハネ・パウロ2世が1988年にルフェーブル大司教 “Archbishop Lefebvre” を非難する際に用いたカトリックの伝統に関するテキストは以下の「神の啓示に関する教義憲章」( “Dei Verbum” )第8項から由来しています.「A:伝統 “Tradition” …は聖霊の助力により(カトリック)教会内の使徒たちや諸々(もろもろ)の進歩から生まれる.B:そこでは諸々の現実や伝えられた諸々の言葉を見抜(みぬ)く能力(=洞察力)における成長( “…a growth in insight into the realities and words” )が存在している.この成長はさまざまな形で引き起こされる.C:それ(成長)はそうした物事を心の中で考える信者たちの沈思(ちんし),学習を通じてもたらされる.D:それは信者たちが経験する諸々の霊的現実を深く実感することから生まれる.E:そしてその成長は使徒職を引き継ぐ権利とともに,確かな真理のカリスマを受けた者たちによる説教から生まれる.」

ところで,真のカトリックの伝統( “true Catholic Tradition” )は徹底的に客観的なもの( “…is radically objective” )です.常識が真実 “reality” は客観的なものであり,あらゆる物事は私たちの外部に存在し如何(いか)なる主体とも無縁のものであると言うように,真の教会( “the true Church” )はカトリックの伝統( “Catholic Tradition”.訳注・Catholic=universal,公,普遍)は神から来たもの,神の創造によるものであり “…came from God, and is what he made it,…”,いかなる人間もそれをほんのわずかすらも変えることはできない “…so that no human being can in the least little bit change it.” と教えます.したがって,上に引用したテキストのカトリック的解釈は次のようになります:「A:時の経過とともにカトリック信徒たちが(カトリック)信仰の不変の諸真実 “the unchanging truths of the Faith” をどう理解するかに進歩がある.B:カトリック信徒たちはこれらの諸真実をますます深く理解(考察)することができるようになるが,それは C:それら諸真実を熟考し学習することにより,D:それら諸真実にますます深く突き進むことにより,かつE:その同じ諸真実に関する諸々(もろもろ)の新しい(=新鮮な)側面を説教する司教たちの助けにより( “by the bishops” ),なされる.」 この解釈は完全にカトリック的なものです.なぜならあらゆる変化を時の流れにつれて変わる人間に置いており,信仰の鉱脈( 訳注・(=信仰の遺産) “Deposit of Faith” .「聖書とカトリック聖伝〈=聖なる伝承〉」を指す )すなわち伝統( “Tradition” )を形成する諸真実を少しも変えていないからです.( “This interpretation is perfectly Catholic because all the change is placed in the people who do change down the ages, while no change is placed in the truths revealed that make up the Deposit of Faith, or Tradition.” )

だがここで次に,「神の啓示に関する教義憲章」( “Dei Verbum” )の同じ文言が客観的ではなく,主観的に( “…not objectively, but subjectively,” )解釈され,真実の内容が主観的なカトリック信徒( “the subjective Catholics” )しだいでどのように変えられるかを見てみましょう.「A:カトリックの真実( “Catholic truth” )は時の流れとともに生き,かつ成長する,なぜならB:(現在)生きているカトリック信徒は過去のカトリック信徒が決して持たなかった諸々の洞察力(どうさつりょく)を持っているから,C:彼らは心の中に,自らの内部に,新しく成長した諸真実を見出す,D:すなわち彼らは自分に内在する霊的経験の果実を見出す,そしてまたE:カトリックの真実は司教たちがこれまで未知だったことを説くたびに成長する.なぜなら司教たちは真実でないことを話すはずがないのだから(!)( “…because bishops can tell no untruth (!).” ).」(言い方を変えれば,あなたを気分よくする宗教を持ちなさい.ただし,必ず私たちモダニスト(=現代主義者)に「献金し,祈り,従いなさい」 ( “…but make sure that you “pay, pray and obey” us modernists.” )というわけです.)

ここに大きな問題があります:すなわち,もし誰かが上に引用した「神の啓示に関する教義憲章」( “Dei Verbum” )のテキストをモダニズムを助長するものだと非難するとすれば,(信仰心のない聖職者たちへの信頼以外にほとんど保守しない)「保守的 “conservative” 」カトリック信徒たちは即座にテキストの本当の意味は最初に示した伝統的な意味( “the Traditional meaning” )だと応(こた)えるでしょう.しかしながら,前教皇ヨハネ・パウロ2世が “Ecclesia Dei Adflicta” (の中でこのテキストを用いてルフェーブル大司教を,そして1988年の司教叙階を非難したとき,教皇はテキストをモダニスト的意味あいで解釈したのは明白です(訳注後記).そのような諸々の行為はいかなる言葉よりはるかに多くを語ります.

親愛なる読者の皆さま,あの哀(あわ)れな公会議( “wretched Council” )の不快な曖昧さが分かるまでこのテキスト自体を繰り返しお読みくださり,そしてその二通(ふたとお)りの解釈( “the two interpretations” )をも繰り返しお読みください.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第5パラグラフの訳注:
Ecclesia Dei Adflicta” について.

・教皇ヨハネ・パウロ2世が,1988年7月2日当時,発表した自発教令( “motu proprio” ).

・自発教令=教皇自身が自発的に発令する教令.

バチカン(ローマ教皇庁=ROMAN CURIA)の公式ウェブサイトより:

・APOSTOLIC LETTER /
"ECCLESIA DEI"
/ OF THE SUPREME PONTIFF 
JOHN PAUL II
/ GIVEN MOTU PROPRIO (英語)

“With great affliction the Church has learned of the unlawful episcopal ordination conferred on 30 June last by Archbishop Marcel Lefebvre, which has frustrated all the efforts made during the previous years to ensure the full communion with the Church of the Priestly Fraternity of St. Pius X founded by the same Mons. Lefebvre. … ”

IOANNIS PAULI II 
SUMMI PONTIFICIS / ECCLESIA DEI / LITTERAE APOSTOLICAE /
MOTU PROPRIO DATAE (ラテン語)

ECCLESIA DEI adflicta illegitimam cognovit episcopalem ordinationem ab Archiepiscopo Marcello Lefebvre die tricesimo mensis Iunii collatam, unde ad nihilum sunt omnes conatus redacti horum superiorum annorum ut nempe in tuto collocaretur ipsa cum Ecclesia communio Fraternitatis Sacerdotalis a Sancto Pio Decimo quam idem condidit Reverendissimus Dominus Lefebvre. … ”

(直訳)神の教会(は苦痛とともに…)

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2012年4月11日水曜日

247 教皇ベネディクト16世のエキュメニズム(世界教会主義) -2- (4/7)

エレイソン・コメンツ 第247回 (2012年4月7日)

第二バチカン公会議の恐るべき曖昧性(あいまいせい)に関するいかなる論議についても言えることですが,ヴォルフガング・シューラー博士 “Dr. Wolfgang Schüler” が2008年の著書「ベネディクト16世と(カトリック)教会の自己認識」 “Benedict XVI and How the Church Views Itself” の中で述べられている内容の当否を論じるには長文の学術論文が必要かもしれません.だが,シューラー博士の主な論点はきわめて明快です.第二バチカン公会議をめぐる混迷が続く中,「エレイソン・コメンツ」の読者の皆さまがその内容に接し正しく理解する価値は十分にあると考えます.

物事はたいてい全体と部分から成り立ちますが,その構成の仕組みは例えば一本の樹木(きき)とか積み重ねた硬貨といったように二つの異なる方法に分けて考えることができます.樹木では全体が主要で部分は第2次的です.積み上げた硬貨の場合,部分が主要で全体はさほど重要ではありません.樹木の場合なぜ全体が主要かといえば,枝(えだ)のような部分を切り取っても木はいぜん生き続け新しい枝を生みます.ところが切り取られた枝は生命を失(うしな)い,材木(ざいもく)とか椅子(いす)などといったまったく異なったものに姿(すがた)を変えます.反対に,積み上げた硬貨の中から取り出された個々の硬貨は依然として積み重ねの中にあった硬貨の価値を持ち続けます.何枚も取り出せば,失われるのは硬貨の山であって硬貨の価値そのものではありません.

さて,このことをカトリック教会に当てはめてみます.教会を全体とした場合,それは樹木に当たるのでしょうか,それとも積み上げた硬貨の山にあたるのでしょうか? カトリック教会は三つのもの,すなわち信仰,諸々の秘蹟,ローマの階層(かいそう,=階級)制度によって結ばれた人たちが構成する特別な社会です.この三つの生命はいずれも神ご自身がお与えになったものです.信仰は心の超自然的な徳であり,神だけが与えうるものです.秘蹟には水や油のような物質的要素を用いますが,それを秘跡たらしめるものはそれに込められた超自然的恩寵(おんちょう) “supernatural grace” であり,これも神だけが与えうるものです.同じように階層は自然界の人間から成り立つものですが,それを成す個々は神の導(みちび)きなしには人の霊魂を天国に導くことなど決してできません.

したがって,カトリック教会は,たとえ金貨であっても積み上げた硬貨というより生きている樹木に例(たと)えるべきものです.なぜなら,生命を宿(やど)すあらゆる有機体(ゆうきたい)がそれに存在を与える生命の原理を自らの中に持ち備えているように,カトリック教会は先(ま)ず第1義的に神ご自身を持ち,第2義的に神から与えられた階層を持つことによってその存在と結束(けっそく)を保っているからです.教会の部分を構成するものが分裂により階層から離れたり,異端により信仰から離れたりすれば,その部分はカトリックでなくなり,分離派のギリシア正教や異端のプロテスタント教のように別物(べつもの)になってしまいます.ギリシア正教の信者たちが有効な秘蹟を保持してきたのは事実かもしれませんが,ローマにおける神の代理人 “Christ's Vicar in Rome” との結びつきを絶っている以上,正しい心の持ち主なら誰でも彼らをカトリック教徒とは呼ばないでしょう.

本題の第二バチカン公会議に触れます.同公会議は上述(じょうじゅつ)の比喩(ひゆ)によれば,教会の見方を樹木もしくは葡萄(ぶどう)の木(私たちの主ご自身が用〈もち〉いられた比喩:(新約聖書)ヨハネによる聖福音書・第15章1-6節)から積み上げた金貨に変えました.教会を現代世界に開放したいとの願望から,公会議派の聖職者たちは先ず手始めにカトリック教の境界線を曖昧にしました( L.G. 8 ).そうすることで,彼らはカトリック教会の目に見える境界線の外にも,例えば山積みから取り出された金貨のようなカトリック教会的要素が存在すると振舞(ふるま)うようになりました( U.R. 3 ).そして彼らはさらに,金貨は取り出されても金貨なのだからとの論法(ろんぽう)から,カトリック教会内の救いの要素 “elements of salvation” は教会の外にあっても変わらないと取り繕(つくろ)うようになりました( U.R. 3 ).無数の人々がこの考え方から引き出した当然の結論は「私は天国にたどり着くためにカトリック信者で居続(いつづ)ける必要はない」というものです.これこそが,第二バチカン公会議のいうエキュメニズム(世界教会主義)から生まれる災難(さいなん)です.

私たちは,教皇ベネディクト16世が教会を二分(にぶん)するエキュメニズムと教会を統一するカトリック教理とを結び付けようと努力されていることに話を転(てん)じる前に,上に触れた第二バチカン公会議の諸文書をもう少し詳(くわ)しく検討(けんとう)する必要があります.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第5パラグラフの訳注:
新約聖書・ ヨハネによる聖福音書:第15章1-6節 (太字部分)(15章全章を掲載いたします).
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN XV, 1-6 (XV, 1-27)

ぶどうの木と枝
『「私はほんとうのぶどうの木で,私の父は栽培する者である.*¹父は私にあって実を結ばぬ枝をすべて切り取り,実を結ぶ枝をすべて,もっと豊かに結ばせるために刈り込まれる.あなたたちは,私の語ったことばを聞いたことによってすでに刈り込まれた者である.

*²私にとどまれ,私があなたたちにとどまっているように.木にとどまらぬ枝は自分で実を結べぬが,あなたたちも私にとどまらぬならそれと同じである.
私はぶどうの木で,あなたたちは枝である.私がその人の内にいるように私にとどまる者は多くの実を結ぶ.私がいないとあなたたちには何一つできぬからである.
私にとどまらぬ者は枝のように外に投げ捨てられ、枯れ果ててしまい,人々に拾い集められ,火に投げ入れられ,焼かれてしまう


あなたたちが私にとどまり,私のことばがあなたたちにとどまっているなら,あなたたちは望みのままにすべてを願え.そうすればかなえられるだろう.*³あなたたちが多くの実をつけることは,私の父の光栄であり,そして,あなたたちは私の弟子になる.
父が私を愛されるように私はあなたたちを愛した.私の愛にとどまれ.私が父のおきてを守り,その愛にとどまったように,私のおきてを守るなら,あなたたちは私の愛にとどまるだろう.
私がこう話したのは,*⁴私の喜びがあなたたちにあり,あなたたちに完全な喜びを受けさせるためである.』

まことの愛
『私が愛したようにあなたたちが互いに愛し合うこと,これが私のおきてである.
友人のために命を与える以上の大きな愛はない.
私の命じることを守れば私の友人である.これからもう私はあなたたちをしもべとは言わない.しもべは主人のしていることを知らぬものである.私は父から聞いたことをみな知らせたから,あなたたちを友人と呼ぶ.
あなたたちが私を選んだのではなく,私があなたたちを選んだ.私があなたたちを立てたのは,あなたたちが行って実を結び,その実を残すためである.私の名によってあなたたちが父に求めるものをすべて父は与えられる.
私があなたたちに命じるのは互いに愛し合うことである.』

世の憎しみ
『*⁵この世があなたたちを憎むとしても,あなたたちより先に私を憎んだことを忘れてはならぬ.
あなたたちがこの世のものなら,この世はあなたたちを自分のものとして愛するだろう.しかしあなたたちはこの世のものではない.私があなたたちを選んでこの世から取り去った.だからこの世はあなたたちを憎む.
〈*⁶奴隷は主人より偉大ではない〉と先に私が言ったことを思い出せ.彼らが私を迫害したなら,あなたたちにも迫害を加えるだろう.彼らが私のことばを守ったなら,あなたたちのことばも守るだろう.しかし彼らは,私を遣わされたお方を知らぬから,私の名のために,あなたたちにそうするだろう.
もし私が来なかったなら,また語らなかったなら,彼らには罪はなかった.しかし今彼らは自分たちの罪の言い逃れができぬ.私を憎む者は私の父をも憎む.
今までだれ一人したことのない業を私が彼らの間で行わなかったなら,彼らには罪がなかった.しかし今彼らは,それを見ながら私たちを,私と私の父を憎んだ.それは〈*⁷彼らは理由なく私を憎んだ〉という律法のことばを実現するためだった.
私が父からあなたたちに送る弁護者,父から出る真理の霊が来るとき,それが私について証明されるであろう.あなたたちも私を証明するだろう.あなたたちは初めから私とともにいたからである」.』

(注釈)

ぶどうの木と枝(15・1-11)
弟子は恩寵によって,イエズス自身の生命に生きる.
神は善業を行わぬ者を捨て,真実に神を愛するものに苦しみと迫害を送ってその愛を清められる

おきてに忠実な実,聖徳の実のことをいう(15・12-17,〈旧約〉イザヤの書5・7,エレミアの書2・21).

霊的な命の泉はイエズスである
信仰と愛をもってイエズスに一致しない人に救いはない.聖霊がなければ,人は永遠の救いを得るに足ることを何もなしえない

*³ 御父は「み子」によって光栄を受けられる(14・13,21・19).

*⁴ 神のみ子,メシアとしての喜び.

まことの愛(15・12-17)

世の憎しみ(15・18-27)
*⁵ 弟子たちの愛に対立するものは,世の憎しみである.弟子たちの生活は,先生と同じ道をたどるであろう.
弟子たちを迫害することによって,世が迫害するのは,イエズス自身である(〈新約〉使徒行録9・5,コロサイ人への手紙1・24).

*⁶ 13・16,マテオ10・24参照.

*⁷ 詩篇25・19参照.

* * *

2010年11月1日月曜日

糾弾を先延ばしにすべきか?

エレイソン・コメンツ 第172回 (2010年10月30日)

教義の重要性を強調したここ数回分の「エレイソン・コメンツ」(EC 162, 165-167, 169)を受け,ある読者が,教義の重要性は分かるが,第二バチカン公会議を糾弾(きゅうだん)するのは先延ばしにする方が賢明ではないだろうか,と聞いてきました.この読者の根拠は,ローマ(教皇庁)のカトリック教会当局者たち,一般のカトリック信者たちのいずれもが,公会議のことを教理上ルフェーブル大司教に従う聖ピオ十世会が言うほど悪いと受けとめる心構えが出来ていないからというものです.だが現実には,同公会議ははるかに悪いのです.

第二バチカン公会議の諸々の公文書(訳注・原語 “the documents of Vatican II”.以下,「諸文書」)に関する教理上の問題は,主として,それが公然かつ疑いもないほど明瞭に異端的であるという点にあるのではありません.事実,それらの文書で使われている「文言」は,その「精神」とは逆に,一見してカトリック教に則しているように見えます.同公会議の四回の会合すべてに直接参加したルフェーブル大司教が,諸文書のうち最悪だった最後の2点「 現代世界憲章」“Gaudium et Spes” と「信教の自由に関する宣言」“Dignitatis Humanae” を除く全ての文書に署名し承諾してしまったほどです.だが,その「文言」は,公会議主義の神父たちが傾倒していた新しい人間中心の宗教の「精神」によって微妙に汚染されており,それによって当時から今日に至るまでカトリック教会を堕落させ続けているのです.もし,ルフェーブル大司教がこれら当時の16点の文書について今日再び投票をすることができたら,今となっては後の祭りですが,そのうちの1点の文書にさえ賛成票を投じたかどうか疑いたくなるほどです.

第二バチカン公会議の諸文書は曖昧(あいまい)で,外見上,大部分はカトリック教的と解釈できますが,中身は近代主義 “modernism” の毒で汚染されており,カトリック教会内のあらゆる異端の中でも最も致命的な悪影響を及ぼすものであると,教皇聖ピオ十世が回勅「パッシェンディ」 “Pascendi” の中で指摘しています.例えば「保守的な」カトリック信者たちが,カトリック教会への忠実心から同公会議の諸文書を擁護(ようご)しようとするとき,彼らはいったい何を保守しようとしているのでしょうか?それら諸文書が持つ毒,そして何百万人にも及ぶ無数の人々の霊魂のカトリック信仰を堕落させ永遠の地獄へ至る破滅の道に導き続けるその毒が持つ力を保守しようというのでしょうか.このことはまさしく,私に第二次世界大戦中の連合諸国に必需品を届けるため大西洋を横断した連合船団を思い起こさせます.ドイツ軍の潜水艦が一隻(いっせき),船団の防御水域の真っただ中に浮上することに成功し,船を手当たり次第に魚雷で撃沈したのです.船団の護衛にあたった連合軍の駆逐艦(くちくかん)は防御水域の外側で潜水艦を追尾していて,よもや潜水艦が自分たちのど真ん中にいるとは想像もしなかったからです!悪魔は第二バチカン公会議の諸文書の真ん中にいて,何百万もの人々の霊魂の永遠の救いを魚雷攻撃しています.なぜなら悪魔はそれら諸文書の中で実に巧みに変装しているからです.

さて,その船団の中の商船の一隻に目敏(めざと)い水夫が一人乗っていて,潜水艦の吸排気装置(シュノーケル)が残すかすかな航跡に気づいたと想像してください.彼は「潜水艦が内側にいるぞ!」と叫びますが,誰一人本気にしません.その水夫はそのまま待機して黙っているでしょうか?それとも「やられるぞ!」と声を張り上げ,船長が致命的な危機を認めるまで叫び続けるでしょうか?

聖ピオ十世会は第二バチカン公会議について警告の叫びを止むことなく上げ続けねばなりません.なぜなら,何百万もの人々の霊魂が致命的かつ絶え間のない危機にさらされているからです.その危機がいかに重大かを認識するには,理論的には難解だと認めざるを得ませんが,アルバロ・カルデロン神父 “Fr. Alvaro Calderon” の第二バチカン公会議の諸文書についての深遠な著書 “Prometeo: la Religion del Hombre” (訳注・「プロメテウス:人間の宗教」の意)を原著か自国語の翻訳でぜひ読んでみてください.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教