エレイソン・コメンツ 第254回 (2012年5月26日)
第二バチカン公会議が1965年に出した宣言「人格の尊厳(そんげん)( "Dignitatis Humanae" ) 」(訳注・原題はラテン語,英語では "Of the Dignity of the Human Person" )で説く宗教の自由 "religious liberty" という主題について多くの書物が書かれてきました.この文書の革命的な教えは次に挙(あ)げるとおり明瞭(めいりょう)なものです: すなわち,あらゆる個々人( "every individual human being" )には生来の尊厳( "the natural dignity" )が与えられているのであるから,いかなる国家(=公的機関),社会的団体,人間による権力( "State or social group or any human power" )も個々の人間および団体に対して私的にまた公的に( "in private or in public" ),公序( "public order" )が順守(じゅんしゅ)される(=守られる)限り,各自が選択する宗教的信条(=信念・信仰, "religious beliefs" )に背(そむ)いて行動するよう強要あるいは強制( "coerce or force" )することはできない(=してはならない)(D.H. 第2章)ということです.
これに対し,第二バチカン公会議以前のカトリック教会はつねに一貫(いっかん)して,すべての国家は,その諸市民の霊魂の救いに資(し)しかつその妨(さまた)げとならない限り( "so long as such coercion is helpful and not harmful to the salvation of souls" ),彼ら市民に対しいかなる偽(いつわ)りの宗教,すなわちあらゆる非カトリック教(=カトリック教以外の諸宗教)を,公的に信仰・実践することをやめさせる権利また義務までも持つと教えてきました.(たとえば2012年の今日,自由・解放( "freedom" )はあまりにも広くあがめられて(=崇拝・賛美されて)いるため,ほとんどあらゆる国々の市民は国家によるそのような強要には愛想(あいそ)を尽(つ)かし,カトリック教を,正当に評価するどころか,冷笑(れいしょう)さえするようになっています.このようなケースでは,カトリック教会がつねに教えてきたように,国家は諸々の偽りの宗教を強要(きょうよう)する権限(けんげん)の行使(こうし)を控(ひか)えてもよさそうなものです.)
ところで,これら二つの教理がいったいどこで相矛盾(あいむじゅん)するのかということの正確な論点についてはきわめて些細(ささい)なことがらに思われるかもしれません——国家が偽りの宗教の公的実践を強要し得るか否かという点ですから——,だがそこから言外(げんがい)に読み取れる数々の意味合い(=含意〈がんい〉・暗示)は(訳注・けっして小さいものではなくむしろ)次に挙げるように計り知れないほど莫大(ばくだい)なものです: すなわち,神は主か(訳注・「いったい創造主たる神が被造物たる天地万物の主(あるじ)か」の意.原文— "is God the Lord" ),それとも人類の僕(しもべ)か?(訳注・「それとも(創造主たる)神は(神の被造物たる)人類の僕なのか」の意.原文— "or the servant of men ?" )という論点に行き当たります.なぜならもし一方で人間が神の被造物( "man is a creature of God" )で,生まれつき社会的なもの( "is social by nature" )だとすれば(これは人が生来あらゆる種類の組織,とりわけ国家という形でまとまることから明らかです),社会や国家も神の被造物( "are also creatures of God" )であるから,国家が,人々の霊魂の救済の妨げになるよりむしろ資することになる限り,諸々の偽りの宗教をなんとかして公的な場(国家の業務領域)で市民に強要することで,むしろ神と神の唯一の真の宗教に仕(つか)えることになるというなら,それも神の御蔭(おかげ)ということでしょう.
他方,もし人間の自由は個々人が自ら選ぶ宗教の公的実践や偽りの宗教から改宗させることで(公序が乱〈みだ〉されない限り)他人を堕落(だらく)させるのも自由だというほど価値あるものだとすれば,偽りの宗教は公的な場で繁栄(はんえい)するに任せなければなりません(たとえば,今日のラテンアメリカに見られるプロテスタント諸宗派〈 "Protestant sects" 〉).これだと,偽りの宗教と唯一の真の宗教との違いは人間の尊厳ほど重要ではない,だから真の宗教はさほど重要ではない,ということは神の価値は人間の価値より重要度が低いということになります.こうして,第二バチカン公会議は神を格下げし( "down-grades God" ),人間を格上げする( "up-grades man" )わけです.究極的には同公会議は神の宗教を人間の宗教に置き換えようとしています.ルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )が人間の尊厳で狂って酔ってしまった世界とカトリック教会の中で,神,私たちの主イエズス・キリストの超越(ちょうえつ)的な尊厳と価値を支え続けようと聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" )を創設されたのも不思議ではありません.
だが,今月初めになって一宗教指導者が人前で次のようなことを公言しました: 「多くの人々は第二バチカン公会議を理解していますが,その理解は間違っています.」彼の発言によれば,宗教の自由は「実に多様に使われています.しっかり調べてみると,同公会議がそれについて実際になにを言っているか知らない人が多いという印象を実に受けます.同公会議が示している宗教の自由とはとても,とても限定的なもの,いたって限定的です…( "a very, very limited one: very limited…" ).」第二バチカン公会議そのものは,つまり全体として見た場合に,カトリックの伝統( "Catholic Tradition" )に属(ぞく)するということなのかどうかと聞かれ,彼は「そうだと思います」と答えています( "Asked whether Vatican II itself, i.e. as a whole, belongs to Catholic Tradition, he replied, “I would hope so” " ).
彼のインタビューを読者の皆さまご自身でご覧になってください.「(訳注・カトリック教)伝統派リーダー,自らの運動とローマ(教皇庁)について語る」( "Traditionalist leader talks about his movement, Rome" )と題するインタビューは英文でユーチューブ上でアクセス可能です.もし「自らの運動」が現在,その42年間の存続期間中で最大の危機の最中(さなか)にあると聞いたら驚(おどろ)かれるでしょうか?
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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