エレイソン・コメンツ 第229回 (2011年12月3日)
リベラリズム “liberalism” (=自由主義)は恐ろしい病で,何億もの霊魂を地獄に落とします.それは人の精神を客観的な真実から,心(意思や情愛)を客観的な善から「解放し」ます.そこでは主観が君臨します.リベラルな考えでは,神の場にいるのは人間であり,その人間は自分が決めただけ神に重きを置きます.(訳注後記)そして,その度合いはあまり大きくないのが普通です.言ってみれば,全能の神は忠実な子犬のように鎖(くさり)に繋(つな)がれた状態です! 事実,リベラル主義者(=リベラリスト)の「神」は真の神のまがい物です.だが,「神は似せて作るものにあらず」(ガラテア人への手紙6章7節)(訳注後記)です.リベラル主義者は現世ではにせ(偽)の活動家,本物の専制君主,弱々しい(=女性的な)人間になることによって罰を受けます.
ルフェーブル大司教によると,にせ活動家の典型的な例はラテンアメリカに見られる革命的神父たちです.同大司教がよく言われたことですが,教会の近代化運動の影響でカトリック信仰を失った神父が最も恐ろしい革命家になります.というのも,彼らは人々の霊魂の救済のため真の活動 “true crusade” の持つあらゆる力を共産主義に向けてしまうからです.しかも彼らは真の活動のための訓練を受けてきたにもかかわらず,自らのやってきたこと(訳注・真の活動のこと)をもはや信じなくなっているのです.
真実の聖戦 “crusade” (訳注後記)は神,イエズス・キリスト,永遠の救いのためにあるものです.そして,そのような真の意味での聖戦をもはや信じられなくなると,人々の生活にはそれに見合うだけの大きな隙間(すきま)が生じます.そういった人々は他のありとあらゆるものに対する改革を進めることでその隙間を埋めようとします.例えば,タバコの禁止(だがマリファナやヘロインは自由),死刑の廃止(だが有能な右翼主義者の処刑は自由),圧制者〈=暴君〉には反対(だが「民主主義」をもたらすためならいかなる国を爆撃するのも自由),人間の神聖さを強調(だが母の胎内の赤ん坊〈=胎児〉を堕胎〈=人工妊娠中絶〉するのは自由)といった具合で,例を挙げればきりがありません.ここで特に挙げたこうした矛盾の数々は,キリスト教の世界秩序 “Christian world order” に代わるべき新世界秩序を全面的に推(お)し進めようとする “…crusade for a total new world order” リベラル主義者たちにとってはまったく辻(つじ)つまの合うことです.彼らはキリストと戦っていないように装(よそお)っていますが,その化けの皮は剥(は)がれかかっています.
理論的に言えばリベラル主義者たちはまた本物の専制君主にもなります.彼らは自身の上の存在である神,真理,法から自らを「解放」しているので,残るのは自分たちの心,意思の権威だけで,それを誰彼かまわず他の人たちに押し付けます.例えば,教皇パウロ6世です.彼はカトリック教の伝統が自分の権威を制限していることなど忘れてしまって自分の説く新しいミサ典礼の新秩序を1969年にカトリック教会に押しつけました.しかも,そのわずか2年前に相当な数の司教たちが似たようなミサ典礼の試みを拒んだにもかかわらずです.教皇パウロ6世は部下が自分のようにリベラル主義者でなければ,その意見を尊重したでしょうか? 部下たちは自分たちにとって何が良いことなのか分かりませんでした.だが同教皇は分かっていました.
再び理論的に言えば,リベラル主義者は弱々しく(女々しく=感傷的に)なります.なぜなら彼らは何事も個人的なことと受け止めざるを得ない(受け止めずにはいられない)からです.けれども彼らの権威主義に対するどの良識ある反対も彼らが軽蔑(けいべつ)する真理ないし法 “Truth or Law” すなわち全人類の上に君臨するカトリック真理,神の法(十戒)に基づいています.だからこそルフェーブル大司教は教皇パウロ6世の進めたリベラリズムに抵抗したのですが,教皇パウロ6世は単に同大司教が自分に取って代わって教皇になろうとしていると考えました.パウロ6世は自分の権威よりはるかに高い真の神の権威が存在していること,そしてルフェーブル大司教はそのより高い権威に冷静に心を寄せていたのだということを理解できなかったのです.はたして主なる神もいつかは間違いをするのではないかなどと心配する必要があるでしょうか? まったくありません.
イエズスの聖心(みこころ)よ,私たちがあなただけから生まれ得る良き指導者たちに恵まれますように.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第1パラグラフの訳注:
新約聖書・ガラテア人への手紙:第6章7節(1-10節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL TO THE GALATIANS, 6:7 (6:1-10)
愛の実践(6・1-10)
『兄弟たちよ,もしある人に過失があったら,*¹霊の人であるあなたたちは柔和な心をもってその人を改めさせよ.そして,自分も誘われぬよう気をつけよ.
互いに重荷を負え.そうすれば,あなたたちはキリストの法をまっとうできる.
何者でもないのに,何者であるかのように思うのは,自分を欺(あざ)むくことである.
おのおの自分の行いを調べよ.*²そうすれば,他人についてでなく,自分についてだけ誇る理由を見いだすだろう.おのおの自分の荷を負っているからである.
*³みことばを教えてもらう人は,教えてくれる人に自分の持ち物を分け与えよ.
自分を欺むいてはならない.神を侮(あなど)ってはならない.人はまくものを収穫するからである.すなわち自分の肉にまく人は肉から腐敗を刈り取り,霊にまく人は霊から永遠の命を刈り取る.
善を行ない続けて倦(う)んではならない.たゆまず続けているなら,時が来て刈り取れる.
だから,まだ時のある間に,すべての人に,特に信仰における兄弟である人々に善を行え.
(注釈)
*¹ 〈新約〉コリント人への手紙(第1)3・1以下参照.
→(第3章1-23節を後から追加します)
*² 他人の欠点と自分の行いを比べて,誇りたくなる時がある.しかし非難するのは,自分のことだけでなければならない.
パウロの言葉は皮肉であって,真実に自分をかえりみる人は,自分を誇る理由を見つけるはずがない.
*³ 信徒は宣教師の生活を保証せねばならない.
* * *
第3パラグラフの訳注:
真実の聖戦 “The true crusade” について.
(説明)
・救世主たる神の御子イエズス・キリストの教えを地上の人間社会に宣教し,人々を永遠の救霊に導き入れるための戦い.「改革(運動)」はこの意味で,悪に傾きがちな人間に「真理において善に従う人生を送ることが真の生命へと生き延びることだ」と教えることである.
・霊である神はキリストにおいて人間となられ,十字架上の死から復活されたことにより悪(=肉欲・原罪)の力を征服された.したがって神・カトリック真理(救世主たる神の御子キリストへの信仰)・神の法の勝利は決定的であり,それを否定する悪(リベラリズムすなわち利己主義)は滅亡の一途をたどる一方に終わる.
・したがって真実の聖戦とは,厳密には,肉眼で見える世界での人間や人間社会との戦いというより,目に見えない霊的な世界での悪の霊との戦いを指している.
・現世は悪の霊の支配下にあり,悪は「肉欲・我欲」によって人間を堕落させ,その霊魂を永遠の滅びに落とそうとしている.
・「肉欲・我欲」は人間に,人間の五感(視覚,聴覚,触覚,味覚,嗅覚)に触れるあらゆる良いものについて,その創造主たる神に感謝することをさせず,かえってあらゆる良いものによって自らを傲慢(ごうまん)に誇ったり,他者を妬(ねた)んだり貶(おとし)めたりさせる.
・現世は果敢無(はかな)く有限であるが,来世は永遠であり,しかも来世での永福は現世でいかに「我欲を抑(おさ)え・他者を助ける犠牲的精神・他者の幸福を願う善意」などを心がけて過ごしたかにかかっている.
・以上の観点から,「リベラリズム」とは「自由に我欲を追求して生きることを〈人権〉と呼んで正当化し,そのためとあらば平然と他者を否定したりふみつけにすることも許される」ということを意味し,それに基づき現世の人間社会で起こされている様々な不和な現象から,「リベラリズム」がいかに人の霊魂・人の真の幸福を損なわせる危険なものであるかを観察することができる.
(続きを追加いたします)
* * *
2011年12月14日水曜日
2010年6月14日月曜日
公会議主義の「神学者」その2
エレイソン・コメンツ 第152回 (2010年6月12日)
先週の「エレイソン・コメンツ」で第二バチカン公会議の草分け的な神学者であるマリー=ドミニク・シュニュ神父のおかした6つの誤りを示した際,私は Si Si No No が挙げた6つの誤りの順番を変え,それに関連したお話を改めて別の「エレイソン・コメンツ」でしたいと示唆しました.そのお話とは,現代が人間の心を悲惨なまでに失墜させたことについてのものです.
Si Si No No は,6つの誤りのうち感傷主義を1位に挙げています.そのあとに主観主義,歴史的相対主義(=歴史主義),人間の方を向き人間に頼ること(訳注・=人間に救いを求める,人間を当てにする.)(人間中心主義),進化論そして背徳主義が続きます.感傷主義から始めるということは,今日わたしたちが見かける人間,言い換えれば,人間が様々な感情にどっぷり漬かって溺れている状態から始めるということです.その例は数百,数千ありますが,ここでは2つだけ挙げます:まず宗教について「神はきわめて寛容なので一人の人間の霊魂も地獄に送ることはない」という考え方です.また;政治では「誰が背後で9・11事件を仕組んだかを問うのは愛国的でない」という考えです.
「エレイソン・コメンツ」では,6つの誤りをそれぞれの即時性よりむしろ深さの順に並べる選択をしました.その結果,神に背を向けるという意味で人間中心主義を1番目に置きました.なぜなら,神を拒むことがあらゆる罪と過ちの根源だからです.次に来るのは人の心を襲う3つの誤り,すなわち主観主義,歴史的相対主義,そしてその帰結である進化論です.これら4つの誤りはいずれも感傷主義より前に来ます.なぜなら - ここが興味深い点ですが - 正当な王を失脚させ退位させないかぎり強奪者は王位を奪えないからです.同じように,心が無能力にされない限り感情が心に取って代わることはあり得ません.いずれの順位表でも最後に来るのは背徳主義すなわち善悪の否定です.なぜなら,霊魂と心のあらゆる無秩序が最終的には行動の無秩序に行き着くからです.
感情に対する心の自然な優位性 - この優位性は多くの現代人には顕著でありませんが - を理解するため,私たちは航海中の船と比較してみましょう.もし船長が故意に舵(かじ)から手を放し,船が風と波に流され難破するまで操縦を止めてしまったとしても,再び舵を取ることを選択すれば,彼に船の操縦を可能にし,風と波を上手(うま)く活用しながら港にたどり着かせるのは,舵の特質がなせることなのです.同様に,人間が故意に理性を捨て,心を感情や熱情にゆだね,永遠の地獄に向って漂流し続けることになったとしても,再び心を蘇らせる選択をすれば,初めのうちは熱情や感情を抑える理性が心許(こころもと)ないにしても,やがて天国に導かれるようになるのは心の特質によるものなのです.
では,人はどうやって自分の心を取り戻し,それを再び玉座に座らせることができるでしょうか?それは,神に立ち戻る(=神に立ち帰る)ことです.なぜなら,人が心を玉座から退位させてしまったのは,先ず(まず)はじめに神を拒(こば)んだからであり,いったん神を拒むと直(ただ)ちに理性を取り壊し始めなければならなくなったからです.それでは,人が最も容易に神に立ち戻る方法は何でしょうか?まず「アヴェマリア(めでたし,マリア)」(訳注・“Ave, Maria” 祈祷文「天使祝詞」の冒頭のところ)を1度だけ唱えることから始めてみましょう.少し進んで,その言葉をあと数回繰り返して唱えてみましょう.それからさらに進んでロザリオの祈りを1連(アヴェマリアを10回),最終的には毎日5連唱えてみましょう.こうすれば人は誰でも再び思考し始めるでしょう.
神の御母よ,私たちの心をお救いください.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
先週の「エレイソン・コメンツ」で第二バチカン公会議の草分け的な神学者であるマリー=ドミニク・シュニュ神父のおかした6つの誤りを示した際,私は Si Si No No が挙げた6つの誤りの順番を変え,それに関連したお話を改めて別の「エレイソン・コメンツ」でしたいと示唆しました.そのお話とは,現代が人間の心を悲惨なまでに失墜させたことについてのものです.
Si Si No No は,6つの誤りのうち感傷主義を1位に挙げています.そのあとに主観主義,歴史的相対主義(=歴史主義),人間の方を向き人間に頼ること(訳注・=人間に救いを求める,人間を当てにする.)(人間中心主義),進化論そして背徳主義が続きます.感傷主義から始めるということは,今日わたしたちが見かける人間,言い換えれば,人間が様々な感情にどっぷり漬かって溺れている状態から始めるということです.その例は数百,数千ありますが,ここでは2つだけ挙げます:まず宗教について「神はきわめて寛容なので一人の人間の霊魂も地獄に送ることはない」という考え方です.また;政治では「誰が背後で9・11事件を仕組んだかを問うのは愛国的でない」という考えです.
「エレイソン・コメンツ」では,6つの誤りをそれぞれの即時性よりむしろ深さの順に並べる選択をしました.その結果,神に背を向けるという意味で人間中心主義を1番目に置きました.なぜなら,神を拒むことがあらゆる罪と過ちの根源だからです.次に来るのは人の心を襲う3つの誤り,すなわち主観主義,歴史的相対主義,そしてその帰結である進化論です.これら4つの誤りはいずれも感傷主義より前に来ます.なぜなら - ここが興味深い点ですが - 正当な王を失脚させ退位させないかぎり強奪者は王位を奪えないからです.同じように,心が無能力にされない限り感情が心に取って代わることはあり得ません.いずれの順位表でも最後に来るのは背徳主義すなわち善悪の否定です.なぜなら,霊魂と心のあらゆる無秩序が最終的には行動の無秩序に行き着くからです.
感情に対する心の自然な優位性 - この優位性は多くの現代人には顕著でありませんが - を理解するため,私たちは航海中の船と比較してみましょう.もし船長が故意に舵(かじ)から手を放し,船が風と波に流され難破するまで操縦を止めてしまったとしても,再び舵を取ることを選択すれば,彼に船の操縦を可能にし,風と波を上手(うま)く活用しながら港にたどり着かせるのは,舵の特質がなせることなのです.同様に,人間が故意に理性を捨て,心を感情や熱情にゆだね,永遠の地獄に向って漂流し続けることになったとしても,再び心を蘇らせる選択をすれば,初めのうちは熱情や感情を抑える理性が心許(こころもと)ないにしても,やがて天国に導かれるようになるのは心の特質によるものなのです.
では,人はどうやって自分の心を取り戻し,それを再び玉座に座らせることができるでしょうか?それは,神に立ち戻る(=神に立ち帰る)ことです.なぜなら,人が心を玉座から退位させてしまったのは,先ず(まず)はじめに神を拒(こば)んだからであり,いったん神を拒むと直(ただ)ちに理性を取り壊し始めなければならなくなったからです.それでは,人が最も容易に神に立ち戻る方法は何でしょうか?まず「アヴェマリア(めでたし,マリア)」(訳注・“Ave, Maria” 祈祷文「天使祝詞」の冒頭のところ)を1度だけ唱えることから始めてみましょう.少し進んで,その言葉をあと数回繰り返して唱えてみましょう.それからさらに進んでロザリオの祈りを1連(アヴェマリアを10回),最終的には毎日5連唱えてみましょう.こうすれば人は誰でも再び思考し始めるでしょう.
神の御母よ,私たちの心をお救いください.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2010年6月9日水曜日
公会議主義の「神学者」その1
エレイソン・コメンツ 第151回 (2010年6月5日)
第二バチカン公会議は1960年代に多くのカトリック司教たちを崩壊させるという大混乱を起こしましたが,それが世界中の霊魂に及ぼした影響は計り知れません.従って,わたしたちはその本質的な問題についていくら考えても考え過ぎということはありません.なぜなら,問題は依然として,かなりの度合いでまだ私たちの身の回りに存在しており,それによる被害の度合いは過去にもましてますます強まってきているからです.第二バチカン公会議の行ったことは私たちすべての霊魂を地獄へ落とそうとしています.去年,イタリアの隔週刊行誌「シ・シ・ノ・ノ」 “Si Si No No” (訳注:「然り・然り・ 否・否」の意味.→新約聖書・マテオによる福音書第5章37節参照.…「〈はい〉なら〈はい〉,〈いいえ〉なら〈いいえ〉とだけ言え.それ以上のことは悪魔から出る.」…イエズス・キリストの御言葉.)が、第二バチカン公会議の草分け的「神学者」であるドミニコ会(訳注・1215年,聖ドミニコによって設立されたローマ・カトリックの修道会)所属のフランス人神父,マリ-=ドミニク・シュニュ神父 (Fr. Marie-Dominique Chenu ) のおかした主要な誤(あやま)りをまとめた記事を発表しました.以下はそれをさらに簡潔に要約したものです.ここで指摘された同神父の6つの誤りとは,神の場に人間を置くという問題の核心に触れるものです.(私は6つの誤りについて記述の順番を変えました.関連したお話を改めて別の「エレイソン・コメンツ」でしたいと考えたからです.)
1.人間に目を向けること.すなわち,あたかも神が現代人に適合すべきで,現代人が神に適合するのではないというふうに人間に目を向けることです.しかし,カトリック信仰とは常に人間を神に合わせようと努めるものであり,その逆ではありません.
2.神の啓示を現代的な考え方の下に置くこと.現代的な考え方とは,例えば,デカルト,カント,ヘーゲルの考え方です.そこにはもはや絶対的かつ客観的な真理は全く存在しません.あらゆる宗教上の見解は単なる相対的かつ主観的なものにすぎなくなります.
3.神の啓示を歴史的手法の下に置くこと.これは,真理はすべて,単に歴史的な背景から生じたものであり,歴史的な状況はいずれも変化してきたか現在も変化しているのだから,不変の,あるいは変え得ない(=変更不能な)真理など存在しない(訳注・原文 “so no truth is unchanging or unchangeable”. )という意味です.
4.汎神論的な進化を信じること.これが意味するところは,神はもはや地上の生物とは本質的に異なる創造主ではないということです.神は地上の生き物,すなわち動植物や人間となんら異なるものではなく,彼らと同じように進化によって生まれ,進化によって絶えず変化している,という考え方です.
5.宗教のことでは感情を最優先させること.たとえば,心における超自然的なカトリック信仰または意志における超自然的な神の慈愛のいずれよりも,宗教的な感傷体験を上位に置いて重視するということです.
6.善悪の相違を否定すること.すなわち,単なる人の行為の存在だけが世の中を良くすると主張することによって善悪の相違を否定します.今では,実際に行われるあらゆる人間の行為につき,その存在自体は善であるとし,それぞれの行為についてはその最終目的,すなわち究極的には神の御意思にそぐう(=合う)場合だけに限り道徳的な善となり得るにすぎず,神の御意思にそぐわない人間の行為のみが道徳的な悪となるにすぎないとする,とするのが事実です.
この6つの誤りは明らかに相互に関連しています.もし(1)宗教が私中心だとするなら,そのときは(2 と 3),私は神中心の宗教という現実から自分の心を隔てなければなりません.そして心が機能しなくなると,今度は(4)「どうしたってなにもないのだから」ということになり (訳注後記),その結果,すべてのものは進化すると考えるようになり,かくして(5)感情が支配することになります.(すると,宗教は人々が女性化されるという過(あやま)ちによって支配されることになります.なぜなら感情は女性の特権だからです.)こうして最終的には,感情が真理に取って代わり(6)道徳が崩壊するのです.
第二バチカン公会議の文書自体は,こうした誤りを明白に示しておらず,むしろ間接的に曖昧に(あいまいに)ぼかして表現しています.その理由は,同公会議に出席してはいたものの実情を十分に知らされていなかった多くのカトリック司教たちの支持票を得るために彼らの目を誤魔化(ごまか)す必要があったからです.だが,ここに挙(あ)げた誤りは,公会議が目指している最新の「第二バチカン公会議精神」そのものです.そしてそれが理由で過去45年間にもわたり,すなわち1965年から2010年まで,公的なカトリック教会が自壊の道をたどり続けているのです.この状態は今後あと何年続くのでしょうか?
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(下から2番目のパラグラフの(4)の訳注と解説)
(4)… 原文 “nothing is but what is not”. シェイクスピア作悲劇「マクベス」第1幕第3場におけるマクベスの傍白(ぼうはく・観客に向かってしゃべる内心のつぶやきを表すセリフ)より引用されている.
自分の心に抱く欲望を恐ろしいものだと認識しながらも,その感情に支配されてしまい,神からの良心の声は全く封殺され,心はその欲望で一杯に支配されてしまう.
つまり,人間がその心に「神」ではなく「私」を中心に置いて生きるなら,たとえば反道徳的な欲望という感情(激情)にかられたとき,その欲望を抑制する客観的基準(つまり神による勧善懲悪の基準)を自分の中心に行動の判断基準として持たないため,激情に理性や良心が簡単に屈服してしまい,感情の赴(おもむ)くままにその欲望を実行に移そうとし,その際に神という客観的基準を全面否定しようとすることになる.しかし,良心に反して反道徳的な欲望を実行に移すならば,結局は自分自身で欲望に取りつかれ発狂するなどして精神に異常をきたし,社会的にも身の破滅を招き,心身ともにわが身を滅ぼすことになる,ということ.
* * *
(以下は,新訳『マクベス』 シェイクスピア・原作/河合祥一郎・訳 (角川文庫)15-21頁を参照.)
(前提のあらすじ)
(スコットランド国王ダンカンに仕える将軍マクベスに対する3人の魔女の3つの挨拶(①「万歳,マクベス,グラームズの領主!」(マクベスの)現在の名誉に挨拶. ②「…コーダーの領主!」(マクベスの)未来の出世を予言. ③「…やがて王となるお方!」(マクベスの)王になる望みを予言.)の②が実現した時,③の「王となる」という予言に対する野望がマクベスの心に芽生えてしまった.)
…
(マクベス)
〔傍白〕グラームズ,そしてコーダーの領主.
最大のものがそのあとに控えている.〔ロスらに〕ご苦労であった.
〔バンクォー(スコットランドの将軍)に〕君の子供も王になるかも知れぬな,
俺をコーダーの領主にしてくれた連中(3人の魔女)は,
君にそう約束したのだから.
(バンクォー)
あまり信じすぎると,
コーダーの領主のみならず,王冠にまで
手を伸ばしたくなるぞ.〔傍白〕だが,不思議だ.
暗闇の使い手は人を破滅させるために,
しばしば真実を告げ,
つまらぬご利益で信頼させ,土壇場で裏切るという.
〔ロスらに〕お二人に話がある.
(マクベス)
〔傍白〕二つの真実が語られた.
壮大な芝居にはうってつけの幕開けだ.
主題は王になること.〔ロスらに〕――ありがとう,君たち,――
〔傍白〕この自然ならざる誘い(いざない)は,
悪いはずはない.よいはずもない.
悪いなら,なぜ,まず真実を語り,
成功の手付けをくれるのだ? 俺はコーダーの領主となった.
よいなら,なぜ,俺は王殺しの誘惑に屈しようとする?
その恐ろしい光景を思い描くだけで総毛立ち,
いつもの自分に似合わず,心臓が激しく鼓動し,
肋骨にぶつかるようだ.目の前にある恐怖など,
恐ろしい想像と比べたら大したことはない.
まだ殺人を想像しただけなのに,その思いは
この体をがたつかせる.思っただけで
五感の働きがとまってしまう.あると思えるものは,
実際にはありもしないものだけだ(注).
(バンクォー)
わが友はすっかり上の空だな.
(マクベス)
〔傍白〕運が俺を王にするなら,運が王冠をくれよう,
自分で動かずとも.
(バンクォー)
新たな名誉を賜ったが,
着慣れぬ服同様,なじまぬうちは,
しっくりこぬ,か.
(マクベス)
〔傍白〕どうなろうとも,
時は過ぎる,どんなひどい日でも.
…
(注)訳者(河合祥一郎教授)による注釈:
Nothing is, but what is not. 原意は「何も存在しない,ないもの以外は」=「存在するのは実在しないものだけだ」.存在=非存在.
『ジュリアス・シーザー』第二幕第一場で「恐ろしいことを行うことと,それを最初に思いつくことのあいだは,まるで幻か悪夢だ….そのとき人間という小さな国は,小王国のように,叛乱に遭う」というブルータスの台詞で示された想像世界の脅威というテーマが,『ハムレット』を経て『マクベス』に至る.人間の世界は人間の頭から生まれるというシェイクスピアの発想に基づいている.
* * *
(悲劇マクベス・英原文)
MACBETH.
[Aside.] Glamis, and Thane of Cawdor:
The greatest is behind.----Thanks
for your pains.----
Do you not hope your children
shall be kings,
When those that gave the
Thane of Cawdor to me
Promis’d no less to them?
BANQUO.
That, trusted home,
Might yet enkindle you unto
the crown,
Besides the Thane of Cawdor.
But ‘tis strange:
And oftentimes to win us to
our harm,
The instruments of darkness tell
us truths;
Win us with honest trifles, to
betray’s
In deepest consequence.----
Cousins, a word, I pray you.
MACBETH
[Aside.] Two truths are told,
As happy prologues to the swelling act
Of the imperial theme.----I thank you,
gentlemen.----
[Aside.] This supernatural soliciting
Cannot be ill; cannot be good:
----if ill,
Why hath it given me earnest of success,
Commencing in a truth? I am Thane of Cawdor:
If good, why do I yield to that suggestion
Whose horrid image doth unfix my hair,
And make my seated heart knock at my ribs,
Against the use of nature? Present fears
Are less than horrible imaginings:
My thought, whose murder yet is but fantastical,
Shakes so my single state of man, that function
Is smother’d in surmise; and
nothing is
But what is not.
BANQUO.
Look, how our partner’s rapt.
MACBETH.
[Aside.] if chance will have me
king, why, chance may crown me
Without my stir.
BANQUO.
New honors come upon him,
Like our strange garments,
cleave not to their mould
But with the aid of use.
MACBETH.
[Aside.] Come what come may,
Time and the hour runs
through the roughest day.
* * *
(この後,マクベスはダンカン王を殺して王位についたが,王位を失うことを恐れるあまり狂気に陥り次々と殺戮を重ね続け,遂にスコットランドの貴族マクダフ(イングランドに逃亡していたダンカン王の長男である王子マルカムの軍に加わった)に殺され,マルカムが正当に王位についた.)
第二バチカン公会議は1960年代に多くのカトリック司教たちを崩壊させるという大混乱を起こしましたが,それが世界中の霊魂に及ぼした影響は計り知れません.従って,わたしたちはその本質的な問題についていくら考えても考え過ぎということはありません.なぜなら,問題は依然として,かなりの度合いでまだ私たちの身の回りに存在しており,それによる被害の度合いは過去にもましてますます強まってきているからです.第二バチカン公会議の行ったことは私たちすべての霊魂を地獄へ落とそうとしています.去年,イタリアの隔週刊行誌「シ・シ・ノ・ノ」 “Si Si No No” (訳注:「然り・然り・ 否・否」の意味.→新約聖書・マテオによる福音書第5章37節参照.…「〈はい〉なら〈はい〉,〈いいえ〉なら〈いいえ〉とだけ言え.それ以上のことは悪魔から出る.」…イエズス・キリストの御言葉.)が、第二バチカン公会議の草分け的「神学者」であるドミニコ会(訳注・1215年,聖ドミニコによって設立されたローマ・カトリックの修道会)所属のフランス人神父,マリ-=ドミニク・シュニュ神父 (Fr. Marie-Dominique Chenu ) のおかした主要な誤(あやま)りをまとめた記事を発表しました.以下はそれをさらに簡潔に要約したものです.ここで指摘された同神父の6つの誤りとは,神の場に人間を置くという問題の核心に触れるものです.(私は6つの誤りについて記述の順番を変えました.関連したお話を改めて別の「エレイソン・コメンツ」でしたいと考えたからです.)
1.人間に目を向けること.すなわち,あたかも神が現代人に適合すべきで,現代人が神に適合するのではないというふうに人間に目を向けることです.しかし,カトリック信仰とは常に人間を神に合わせようと努めるものであり,その逆ではありません.
2.神の啓示を現代的な考え方の下に置くこと.現代的な考え方とは,例えば,デカルト,カント,ヘーゲルの考え方です.そこにはもはや絶対的かつ客観的な真理は全く存在しません.あらゆる宗教上の見解は単なる相対的かつ主観的なものにすぎなくなります.
3.神の啓示を歴史的手法の下に置くこと.これは,真理はすべて,単に歴史的な背景から生じたものであり,歴史的な状況はいずれも変化してきたか現在も変化しているのだから,不変の,あるいは変え得ない(=変更不能な)真理など存在しない(訳注・原文 “so no truth is unchanging or unchangeable”. )という意味です.
4.汎神論的な進化を信じること.これが意味するところは,神はもはや地上の生物とは本質的に異なる創造主ではないということです.神は地上の生き物,すなわち動植物や人間となんら異なるものではなく,彼らと同じように進化によって生まれ,進化によって絶えず変化している,という考え方です.
5.宗教のことでは感情を最優先させること.たとえば,心における超自然的なカトリック信仰または意志における超自然的な神の慈愛のいずれよりも,宗教的な感傷体験を上位に置いて重視するということです.
6.善悪の相違を否定すること.すなわち,単なる人の行為の存在だけが世の中を良くすると主張することによって善悪の相違を否定します.今では,実際に行われるあらゆる人間の行為につき,その存在自体は善であるとし,それぞれの行為についてはその最終目的,すなわち究極的には神の御意思にそぐう(=合う)場合だけに限り道徳的な善となり得るにすぎず,神の御意思にそぐわない人間の行為のみが道徳的な悪となるにすぎないとする,とするのが事実です.
この6つの誤りは明らかに相互に関連しています.もし(1)宗教が私中心だとするなら,そのときは(2 と 3),私は神中心の宗教という現実から自分の心を隔てなければなりません.そして心が機能しなくなると,今度は(4)「どうしたってなにもないのだから」ということになり (訳注後記),その結果,すべてのものは進化すると考えるようになり,かくして(5)感情が支配することになります.(すると,宗教は人々が女性化されるという過(あやま)ちによって支配されることになります.なぜなら感情は女性の特権だからです.)こうして最終的には,感情が真理に取って代わり(6)道徳が崩壊するのです.
第二バチカン公会議の文書自体は,こうした誤りを明白に示しておらず,むしろ間接的に曖昧に(あいまいに)ぼかして表現しています.その理由は,同公会議に出席してはいたものの実情を十分に知らされていなかった多くのカトリック司教たちの支持票を得るために彼らの目を誤魔化(ごまか)す必要があったからです.だが,ここに挙(あ)げた誤りは,公会議が目指している最新の「第二バチカン公会議精神」そのものです.そしてそれが理由で過去45年間にもわたり,すなわち1965年から2010年まで,公的なカトリック教会が自壊の道をたどり続けているのです.この状態は今後あと何年続くのでしょうか?
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(下から2番目のパラグラフの(4)の訳注と解説)
(4)… 原文 “nothing is but what is not”. シェイクスピア作悲劇「マクベス」第1幕第3場におけるマクベスの傍白(ぼうはく・観客に向かってしゃべる内心のつぶやきを表すセリフ)より引用されている.
自分の心に抱く欲望を恐ろしいものだと認識しながらも,その感情に支配されてしまい,神からの良心の声は全く封殺され,心はその欲望で一杯に支配されてしまう.
つまり,人間がその心に「神」ではなく「私」を中心に置いて生きるなら,たとえば反道徳的な欲望という感情(激情)にかられたとき,その欲望を抑制する客観的基準(つまり神による勧善懲悪の基準)を自分の中心に行動の判断基準として持たないため,激情に理性や良心が簡単に屈服してしまい,感情の赴(おもむ)くままにその欲望を実行に移そうとし,その際に神という客観的基準を全面否定しようとすることになる.しかし,良心に反して反道徳的な欲望を実行に移すならば,結局は自分自身で欲望に取りつかれ発狂するなどして精神に異常をきたし,社会的にも身の破滅を招き,心身ともにわが身を滅ぼすことになる,ということ.
* * *
(以下は,新訳『マクベス』 シェイクスピア・原作/河合祥一郎・訳 (角川文庫)15-21頁を参照.)
(前提のあらすじ)
(スコットランド国王ダンカンに仕える将軍マクベスに対する3人の魔女の3つの挨拶(①「万歳,マクベス,グラームズの領主!」(マクベスの)現在の名誉に挨拶. ②「…コーダーの領主!」(マクベスの)未来の出世を予言. ③「…やがて王となるお方!」(マクベスの)王になる望みを予言.)の②が実現した時,③の「王となる」という予言に対する野望がマクベスの心に芽生えてしまった.)
…
(マクベス)
〔傍白〕グラームズ,そしてコーダーの領主.
最大のものがそのあとに控えている.〔ロスらに〕ご苦労であった.
〔バンクォー(スコットランドの将軍)に〕君の子供も王になるかも知れぬな,
俺をコーダーの領主にしてくれた連中(3人の魔女)は,
君にそう約束したのだから.
(バンクォー)
あまり信じすぎると,
コーダーの領主のみならず,王冠にまで
手を伸ばしたくなるぞ.〔傍白〕だが,不思議だ.
暗闇の使い手は人を破滅させるために,
しばしば真実を告げ,
つまらぬご利益で信頼させ,土壇場で裏切るという.
〔ロスらに〕お二人に話がある.
(マクベス)
〔傍白〕二つの真実が語られた.
壮大な芝居にはうってつけの幕開けだ.
主題は王になること.〔ロスらに〕――ありがとう,君たち,――
〔傍白〕この自然ならざる誘い(いざない)は,
悪いはずはない.よいはずもない.
悪いなら,なぜ,まず真実を語り,
成功の手付けをくれるのだ? 俺はコーダーの領主となった.
よいなら,なぜ,俺は王殺しの誘惑に屈しようとする?
その恐ろしい光景を思い描くだけで総毛立ち,
いつもの自分に似合わず,心臓が激しく鼓動し,
肋骨にぶつかるようだ.目の前にある恐怖など,
恐ろしい想像と比べたら大したことはない.
まだ殺人を想像しただけなのに,その思いは
この体をがたつかせる.思っただけで
五感の働きがとまってしまう.あると思えるものは,
実際にはありもしないものだけだ(注).
(バンクォー)
わが友はすっかり上の空だな.
(マクベス)
〔傍白〕運が俺を王にするなら,運が王冠をくれよう,
自分で動かずとも.
(バンクォー)
新たな名誉を賜ったが,
着慣れぬ服同様,なじまぬうちは,
しっくりこぬ,か.
(マクベス)
〔傍白〕どうなろうとも,
時は過ぎる,どんなひどい日でも.
…
(注)訳者(河合祥一郎教授)による注釈:
Nothing is, but what is not. 原意は「何も存在しない,ないもの以外は」=「存在するのは実在しないものだけだ」.存在=非存在.
『ジュリアス・シーザー』第二幕第一場で「恐ろしいことを行うことと,それを最初に思いつくことのあいだは,まるで幻か悪夢だ….そのとき人間という小さな国は,小王国のように,叛乱に遭う」というブルータスの台詞で示された想像世界の脅威というテーマが,『ハムレット』を経て『マクベス』に至る.人間の世界は人間の頭から生まれるというシェイクスピアの発想に基づいている.
* * *
(悲劇マクベス・英原文)
MACBETH.
[Aside.] Glamis, and Thane of Cawdor:
The greatest is behind.----Thanks
for your pains.----
Do you not hope your children
shall be kings,
When those that gave the
Thane of Cawdor to me
Promis’d no less to them?
BANQUO.
That, trusted home,
Might yet enkindle you unto
the crown,
Besides the Thane of Cawdor.
But ‘tis strange:
And oftentimes to win us to
our harm,
The instruments of darkness tell
us truths;
Win us with honest trifles, to
betray’s
In deepest consequence.----
Cousins, a word, I pray you.
MACBETH
[Aside.] Two truths are told,
As happy prologues to the swelling act
Of the imperial theme.----I thank you,
gentlemen.----
[Aside.] This supernatural soliciting
Cannot be ill; cannot be good:
----if ill,
Why hath it given me earnest of success,
Commencing in a truth? I am Thane of Cawdor:
If good, why do I yield to that suggestion
Whose horrid image doth unfix my hair,
And make my seated heart knock at my ribs,
Against the use of nature? Present fears
Are less than horrible imaginings:
My thought, whose murder yet is but fantastical,
Shakes so my single state of man, that function
Is smother’d in surmise; and
nothing is
But what is not.
BANQUO.
Look, how our partner’s rapt.
MACBETH.
[Aside.] if chance will have me
king, why, chance may crown me
Without my stir.
BANQUO.
New honors come upon him,
Like our strange garments,
cleave not to their mould
But with the aid of use.
MACBETH.
[Aside.] Come what come may,
Time and the hour runs
through the roughest day.
* * *
(この後,マクベスはダンカン王を殺して王位についたが,王位を失うことを恐れるあまり狂気に陥り次々と殺戮を重ね続け,遂にスコットランドの貴族マクダフ(イングランドに逃亡していたダンカン王の長男である王子マルカムの軍に加わった)に殺され,マルカムが正当に王位についた.)
2009年12月28日月曜日
クリスマスの怖さ
エレイソン・コメンツ 第129回(2009年12月26日)
またクリスマス・デー(キリスト御降誕祭ミサの日)が今年も訪れ,私たちの主がその受肉(“Incarnation”.人と同じように肉の身体を身にまとわれた神の御言葉(=神の御子キリスト)という意味.)と御降誕によって全世界,とくに聖母に大きな喜びをもたらされたことを私たちに思い起こさせて過ぎ去りました.聖母は私たちの主を腕の中に安らかに抱き,母親のように気を配り世話をするのですが,同時に聖母は主を自らの神として崇敬もしているのです,悲しいかな,多少なりとも宗教心を持ち合わせている者なら,私たちの周りの世界がクリスマスの喜びにつけ込み利用はしても肝心の神のことをほとんど忘れてしまっている有様を見て嘆かずにいられるでしょうか?
この点について言えば,今日のクリスマスの喜びはチェシャーキャットの笑顔(“Cheshire Cat”.「不思議の国のアリス」に登場する猫.訳もなく笑う.)と似ています.とくに,資本主義の国々においてそうです.(遡って1931年にローマ教皇ピオ11世は資本主義が世界中に拡大しつつある点に注目しています - 「クアドラジェジモ・アンノ」 “Quadragesimo Anno” 103~104ページ).「不思議の国のアリス」を読んだことがある人は,猫のほかの部分が見えなくなってもその笑顔だけ残っていたことを覚えているでしょう.実体は消えてもその効果は少なくともしばらくの間残るのです.とりわけ第二バチカン公会議のおかげで「神の御子」 “Divine Child” への信心は全滅しつつありますが,クリスマスの喜びだけが残っているというわけです.これは,ひとつには最高に寛大で惜しみなくお与えになる神が,その御子の誕生を毎年人々の間で祝われるときに現実の恵みを洪水のように注がれるので,人々が一年のどの時期よりも少しいい人になってそれに答えるからです.またひとつには喜びは楽しめるからです.だが,こちらの方にはむしろ不安なところがあります.
なぜなら,神に対する真の崇拝は失われ続け,それとともに,私たちの永遠の幸福のために必要不可欠である,救い主の到来が持つ意味についての真の理解もすべて失われ続け,挙句の果てにクリスマスの喜びが私たちすべてが知る通りの商業主義とばか騒ぎに化しているからです.チェシャーキャットの笑顔は猫自体がいなくなったあといつまでも存続することはできません.たとえ最良の「内面の快い感覚 “NIFs” - “Nice Internal Feelings”」でも,その対象物なしにいつまでも存続することはあり得ません.もしイエズス・キリストが神でないのなら,まして人類の唯一の救い主でないのなら,どうして彼の誕生を祝うのでしょうか?私は自分の “NIFs” を愛しますが,もしその感覚がそれ自体だけに基づいて生まれるものだとすれば,それは遅かれ早かれ崩れ去り,苦い幻滅感だけが後に残ることでしょう.私はクリスマス気分にすっかり浸りきる( “feeling all “Christmassy” )ことを愛するかもしれませんが,その気分の基になっているものの代わりに自分の感覚に反応しているのだとしたら,私は感情的な崩壊か何かに向かって進んでいるのだということになります.
これは感傷と感情との違いです.例えば,ひとり息子が墓に運ばれていくのを見てひどく取り乱したナイン(ブルガタ(ラテン語)訳では「ナイム」“Naim” )のやもめに会われたとき(聖書・聖ルカ福音書7.11-15.イエズスは大勢の人々が見ている前で,死んでいたそのひとり息子の若者を生き返らせて母親に渡された.),私たちの主には深い憐れみの感情が心一杯に満ちていました.しかし,そのときの主の心には何の感傷もなかったのです(あえて言えば「人となられた神の詩」“The Poem of the Man-God” においても然りです).(訳注・「エレイソン・コメンツ 第108回」でこの本のことが取り上げられています.E.C.-アーカイブ参照.)なぜなら,どんな感情もそれ自体を目的に求められることは決してないからです.主の感情は常に現実の対象物によって直にかきたてられました.たとえば,ナインのやもめの悲嘆は主御自身が墓に運ばれる時の聖母のやるせない孤独感がどんなものかを主の心に鮮明に浮かび上がらせました.
主観主義( “Subjectivism” )は私たちの時代の厄介者です.すなわち,客観的な現実を締め出し,それを自分の内面で主観的に自分の気に入るように再配置するからです.主観主義は現在カトリック教会を荒廃させている新現代主義( “Neo-modernism” )の核心です.また精神をその外側にある対象物から切り離す主観主義は必然的に心に感傷を抱かせます.なぜなら,それは人の心から感情のためのすべての外面的な対象物を取り去ってしまうからです.資本主義的クリスマスは最終的には感傷によって殺されるでしょう.人々は真の神に,私たち人類の主であるイエズス・キリストに,またその御降誕(=生誕)の真の重要性に立ち返るべきです.さもないと自らの最良の“NIFs”である「クリスマス気分 “NIFs”」(“Christmassy” NIFs )の一部が崩れ去り,「西洋文明」の数少ない遺物に自滅的な不快感の種をまたひとつ残しかねません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
またクリスマス・デー(キリスト御降誕祭ミサの日)が今年も訪れ,私たちの主がその受肉(“Incarnation”.人と同じように肉の身体を身にまとわれた神の御言葉(=神の御子キリスト)という意味.)と御降誕によって全世界,とくに聖母に大きな喜びをもたらされたことを私たちに思い起こさせて過ぎ去りました.聖母は私たちの主を腕の中に安らかに抱き,母親のように気を配り世話をするのですが,同時に聖母は主を自らの神として崇敬もしているのです,悲しいかな,多少なりとも宗教心を持ち合わせている者なら,私たちの周りの世界がクリスマスの喜びにつけ込み利用はしても肝心の神のことをほとんど忘れてしまっている有様を見て嘆かずにいられるでしょうか?
この点について言えば,今日のクリスマスの喜びはチェシャーキャットの笑顔(“Cheshire Cat”.「不思議の国のアリス」に登場する猫.訳もなく笑う.)と似ています.とくに,資本主義の国々においてそうです.(遡って1931年にローマ教皇ピオ11世は資本主義が世界中に拡大しつつある点に注目しています - 「クアドラジェジモ・アンノ」 “Quadragesimo Anno” 103~104ページ).「不思議の国のアリス」を読んだことがある人は,猫のほかの部分が見えなくなってもその笑顔だけ残っていたことを覚えているでしょう.実体は消えてもその効果は少なくともしばらくの間残るのです.とりわけ第二バチカン公会議のおかげで「神の御子」 “Divine Child” への信心は全滅しつつありますが,クリスマスの喜びだけが残っているというわけです.これは,ひとつには最高に寛大で惜しみなくお与えになる神が,その御子の誕生を毎年人々の間で祝われるときに現実の恵みを洪水のように注がれるので,人々が一年のどの時期よりも少しいい人になってそれに答えるからです.またひとつには喜びは楽しめるからです.だが,こちらの方にはむしろ不安なところがあります.
なぜなら,神に対する真の崇拝は失われ続け,それとともに,私たちの永遠の幸福のために必要不可欠である,救い主の到来が持つ意味についての真の理解もすべて失われ続け,挙句の果てにクリスマスの喜びが私たちすべてが知る通りの商業主義とばか騒ぎに化しているからです.チェシャーキャットの笑顔は猫自体がいなくなったあといつまでも存続することはできません.たとえ最良の「内面の快い感覚 “NIFs” - “Nice Internal Feelings”」でも,その対象物なしにいつまでも存続することはあり得ません.もしイエズス・キリストが神でないのなら,まして人類の唯一の救い主でないのなら,どうして彼の誕生を祝うのでしょうか?私は自分の “NIFs” を愛しますが,もしその感覚がそれ自体だけに基づいて生まれるものだとすれば,それは遅かれ早かれ崩れ去り,苦い幻滅感だけが後に残ることでしょう.私はクリスマス気分にすっかり浸りきる( “feeling all “Christmassy” )ことを愛するかもしれませんが,その気分の基になっているものの代わりに自分の感覚に反応しているのだとしたら,私は感情的な崩壊か何かに向かって進んでいるのだということになります.
これは感傷と感情との違いです.例えば,ひとり息子が墓に運ばれていくのを見てひどく取り乱したナイン(ブルガタ(ラテン語)訳では「ナイム」“Naim” )のやもめに会われたとき(聖書・聖ルカ福音書7.11-15.イエズスは大勢の人々が見ている前で,死んでいたそのひとり息子の若者を生き返らせて母親に渡された.),私たちの主には深い憐れみの感情が心一杯に満ちていました.しかし,そのときの主の心には何の感傷もなかったのです(あえて言えば「人となられた神の詩」“The Poem of the Man-God” においても然りです).(訳注・「エレイソン・コメンツ 第108回」でこの本のことが取り上げられています.E.C.-アーカイブ参照.)なぜなら,どんな感情もそれ自体を目的に求められることは決してないからです.主の感情は常に現実の対象物によって直にかきたてられました.たとえば,ナインのやもめの悲嘆は主御自身が墓に運ばれる時の聖母のやるせない孤独感がどんなものかを主の心に鮮明に浮かび上がらせました.
主観主義( “Subjectivism” )は私たちの時代の厄介者です.すなわち,客観的な現実を締め出し,それを自分の内面で主観的に自分の気に入るように再配置するからです.主観主義は現在カトリック教会を荒廃させている新現代主義( “Neo-modernism” )の核心です.また精神をその外側にある対象物から切り離す主観主義は必然的に心に感傷を抱かせます.なぜなら,それは人の心から感情のためのすべての外面的な対象物を取り去ってしまうからです.資本主義的クリスマスは最終的には感傷によって殺されるでしょう.人々は真の神に,私たち人類の主であるイエズス・キリストに,またその御降誕(=生誕)の真の重要性に立ち返るべきです.さもないと自らの最良の“NIFs”である「クリスマス気分 “NIFs”」(“Christmassy” NIFs )の一部が崩れ去り,「西洋文明」の数少ない遺物に自滅的な不快感の種をまたひとつ残しかねません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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