2009年12月28日月曜日

クリスマスの怖さ

エレイソン・コメンツ 第129回(2009年12月26日)

またクリスマス・デー(キリスト御降誕祭ミサの日)が今年も訪れ,私たちの主がその受肉(“Incarnation”.人と同じように肉の身体を身にまとわれた神の御言葉(=神の御子キリスト)という意味.)と御降誕によって全世界,とくに聖母に大きな喜びをもたらされたことを私たちに思い起こさせて過ぎ去りました.聖母は私たちの主を腕の中に安らかに抱き,母親のように気を配り世話をするのですが,同時に聖母は主を自らの神として崇敬もしているのです,悲しいかな,多少なりとも宗教心を持ち合わせている者なら,私たちの周りの世界がクリスマスの喜びにつけ込み利用はしても肝心の神のことをほとんど忘れてしまっている有様を見て嘆かずにいられるでしょうか?

この点について言えば,今日のクリスマスの喜びはチェシャーキャットの笑顔(“Cheshire Cat”.「不思議の国のアリス」に登場する猫.訳もなく笑う.)と似ています.とくに,資本主義の国々においてそうです.(遡って1931年にローマ教皇ピオ11世は資本主義が世界中に拡大しつつある点に注目しています - 「クアドラジェジモ・アンノ」 “Quadragesimo Anno” 103~104ページ).「不思議の国のアリス」を読んだことがある人は,猫のほかの部分が見えなくなってもその笑顔だけ残っていたことを覚えているでしょう.実体は消えてもその効果は少なくともしばらくの間残るのです.とりわけ第二バチカン公会議のおかげで「神の御子」 “Divine Child” への信心は全滅しつつありますが,クリスマスの喜びだけが残っているというわけです.これは,ひとつには最高に寛大で惜しみなくお与えになる神が,その御子の誕生を毎年人々の間で祝われるときに現実の恵みを洪水のように注がれるので,人々が一年のどの時期よりも少しいい人になってそれに答えるからです.またひとつには喜びは楽しめるからです.だが,こちらの方にはむしろ不安なところがあります.

なぜなら,神に対する真の崇拝は失われ続け,それとともに,私たちの永遠の幸福のために必要不可欠である,救い主の到来が持つ意味についての真の理解もすべて失われ続け,挙句の果てにクリスマスの喜びが私たちすべてが知る通りの商業主義とばか騒ぎに化しているからです.チェシャーキャットの笑顔は猫自体がいなくなったあといつまでも存続することはできません.たとえ最良の「内面の快い感覚 “NIFs” - “Nice Internal Feelings”」でも,その対象物なしにいつまでも存続することはあり得ません.もしイエズス・キリストが神でないのなら,まして人類の唯一の救い主でないのなら,どうして彼の誕生を祝うのでしょうか?私は自分の “NIFs” を愛しますが,もしその感覚がそれ自体だけに基づいて生まれるものだとすれば,それは遅かれ早かれ崩れ去り,苦い幻滅感だけが後に残ることでしょう.私はクリスマス気分にすっかり浸りきる( “feeling all “Christmassy” )ことを愛するかもしれませんが,その気分の基になっているものの代わりに自分の感覚に反応しているのだとしたら,私は感情的な崩壊か何かに向かって進んでいるのだということになります.

これは感傷と感情との違いです.例えば,ひとり息子が墓に運ばれていくのを見てひどく取り乱したナイン(ブルガタ(ラテン語)訳では「ナイム」“Naim” )のやもめに会われたとき(聖書・聖ルカ福音書7.11-15.イエズスは大勢の人々が見ている前で,死んでいたそのひとり息子の若者を生き返らせて母親に渡された.),私たちの主には深い憐れみの感情が心一杯に満ちていました.しかし,そのときの主の心には何の感傷もなかったのです(あえて言えば「人となられた神の詩」“The Poem of the Man-God” においても然りです).(訳注・「エレイソン・コメンツ 第108回」でこの本のことが取り上げられています.E.C.-アーカイブ参照.)なぜなら,どんな感情もそれ自体を目的に求められることは決してないからです.主の感情は常に現実の対象物によって直にかきたてられました.たとえば,ナインのやもめの悲嘆は主御自身が墓に運ばれる時の聖母のやるせない孤独感がどんなものかを主の心に鮮明に浮かび上がらせました.

主観主義( “Subjectivism” )は私たちの時代の厄介者です.すなわち,客観的な現実を締め出し,それを自分の内面で主観的に自分の気に入るように再配置するからです.主観主義は現在カトリック教会を荒廃させている新現代主義( “Neo-modernism” )の核心です.また精神をその外側にある対象物から切り離す主観主義は必然的に心に感傷を抱かせます.なぜなら,それは人の心から感情のためのすべての外面的な対象物を取り去ってしまうからです.資本主義的クリスマスは最終的には感傷によって殺されるでしょう.人々は真の神に,私たち人類の主であるイエズス・キリストに,またその御降誕(=生誕)の真の重要性に立ち返るべきです.さもないと自らの最良の“NIFs”である「クリスマス気分 “NIFs”」(“Christmassy” NIFs )の一部が崩れ去り,「西洋文明」の数少ない遺物に自滅的な不快感の種をまたひとつ残しかねません.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教