2009年12月15日火曜日

混乱収拾に向けて

エレイソン・コメンツ第127回(2009年12月12日)

リエナール枢機卿が臨終の床で行ったとされる証言内容(エレイソン・コメンツ第121回)は,第二バチカン公会議の後で導入された公会議考案の秘跡授与の典礼によってカトリックの諸典礼の有効性がいかに危険にさらされてきたかということと正確に符節が合うので,容易に真実であると受け入れ得るのではないかという点を解明するのにエレイソン・コメンツ3回分を要しました(エレイソン・コメンツ第124,125,126各回).ある親切な批評家は私が公会議式の諸秘跡を過度に擁護していると考えています.しかし私はその無効性,有効性のいずれも誇張したいと考えていません.

真理を愛する理性的な人間であれば誰しも自分の精神を現実に合わせる以外のことをしようとは望まないからです.なぜなら,真理とは「精神と現実との一致」と定義されるからです.もし状況が黒なら私はそれを黒と呼びたいですし,白なら白と呼びたいです.もしそれが中間で色合いが微妙に変わる灰色であれば,私は心の中でその灰色を実際に見えている以上に灰黒色でも灰白色でもなく実際通りの正確な灰色に認識したいと思います.

さて,実生活において執行されたある一つの秘跡が有効もしくは無効たりえたことは事実です.有効と無効との違いは妊娠と不妊の違いとさして変わりません.しかし,もし公会議式の諸秘跡が常に世界中の「新しい教会」全体(訳注・ウィリアムソン司教の言われる「新しい教会」( “Newchurch” )とは,第二バチカン公会議で取り決められた新しい体制に則って運営される新形態の,すなわち1962年以降から今日に至るまで存続している,第二バチカン公会議下の新体制に則った「新しい形態のカトリック教会」を指している.)執行されると私たちが見なすなら,私たちはただ,その一部は有効で一部は無効だとだけ言えば済むでしょう.しかし,それら公会議式の諸秘跡はどれもすべて神の宗教を人間の宗教に置き換えることを全面的に押し進める公会議考案の諸典礼によって神の秘跡が無効となるようひっそりと滑り込ませられてきたのです.このことがなぜ「新しい教会」が完全に消滅する過程にあるかということの理由であり,聖ピオ十世会が決してそこに吸収されるわけにはいかないことの理由なのです.

だが,たとえば司祭たちが滑り落ちる道筋のどの地点で教会とは何かについての正確な認識を失ってしまい,もはや教会のなすべきことを行う意向を持つこともできないほどに変わってしまったのでしょうか.このことを知るのは神のみです.多分その地点にたどり着くには私がエレイソン・コメンツ第125回でお示ししたより時間がかかるでしょう.親切な批評家が暗に言っているように,さほど時間がかからないかもしれません.いずれにしても,確かなことを知り得るのは神のみなのですから,私が知る必要はないわけです.私が心の中ではっきりと理解する必要があるのは,公会議考案の諸典礼が神の諸秘跡を神から遠ざける方向に運んだということです.かかる(公会議式の)典礼がカトリック教会の破壊を助長しているということ,それどころかむしろカトリック教会を破壊する目的で考案されたとすら言えることがいったん私にはっきりとわかったからには,私はそうした典礼を避けるべきでしょう.

その一方で,あちこちの司祭が,あるいはそれどころか「新しい教会」全体がどれほど滑り落ちているかについては,私は次の聖アウグスティヌスの偉大な原則に従って判断するつもりです.「(私たちの間では)必然確実なことでは一致(結束)を,(必然性につき)疑わしいことにおいては自由を,あらゆることに慈愛( “charity” )を.」そして,たとえば「新しい教会」内部では,既にすべてがカトリックでなくなってしまったわけでもすべてが依然としてカトリックのまま残っているわけでもないといったような確実なことについて,私は,同じカトリック信徒としての同胞である皆さんに対して不確かなものは何かを判断する自由を認めるつもりです.そして皆さんからも私に対して同じ自由を認めてほしいと望んでいます.神の御母よ,カトリック教会を救出する恵みを神に取り次いで下さい!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教