エレイソン・コメンツ 第341回 (2014年1月25日)
教皇フランシスコが昨年3月選出(せんしゅつ)いらい示(しめ)してきた言動(げんどう)はあまりにも非(ひ)カトリック的で常軌(じょうき)を逸(いっ)しているため( "The words and deeds of Pope Francis since his election earlier last year have been so little Catholic and so outrageous, …" ),最近の教皇は実は教皇ではないのではないか(「教皇空位論」 "sedevacantism" )(きょうこう くうい ろん)といった考え方があらためて息を吹き返(いきを ふきかえ)しています( "… that the idea that recent popes have not really been Popes( “sedevacantism” )has been given a new lease of life." ).同教皇が5人の前任者(ぜんにんしゃ)以上に第二バチカン公会議の狂気(きょうき)をあからさまに語(かた)っている点(てん)だけでも注目してください( "Notice that Pope Francis merely expresses more blatantly than his five predecessors the madness of Vatican II." ).6名の公会議派教皇たち(教皇ヨハネ・パウロ1世は例外と見ていいかもしれません)の中で本当にキリストの代理者(だいりしゃ)( "Vicars of Christ" )だったものがはたしていただろうかという疑問(ぎもん)が残(のこ)ります( "The question remains whether any of the six Conciliar Popes (with the possible exception of John-Paul I) can really have been Vicars of Christ." ).
この疑問はさほど重要(じゅうよう)ではありません( "The question is not of prime importance." ).6名のうち誰も教皇でなかったとしても,私が「恐(おそ)れおののいて自助努力(じじょ どりょく)しなければならない(=自分の救いをまっとうせねばならない)」(新約聖書・使徒聖パウロのフィリッピ人への手紙:2章12節)(訳注後記1)規範(きはん)となるカトリック教の信仰と倫理(しんこうと りんり)はみじんも変(か)わっていません( "If they have not been Popes, still the Catholic Faith and morals by which I must “work out my salvation in fear and trembling” (Phil. II, 12) have not changed one iota." ).逆(ぎゃく)に,6名がすべて教皇だったとしても,彼らがその信仰と倫理から外(はず)れたら私は彼らに従(したが)うわけにはいきません( "And if they have been Popes, still I cannot obey them whenever they have departed from that Faith and those morals, …" ).なぜなら,「私たちは人間(にんげん)でなく神に従うべき」(新約聖書・使徒行録:5章29節)(訳注後記2)だからです( "… because “we ought to obey God rather than men” (Acts, V, 29)." ) .しかし,私は教皇空位論者(きょうこう くうい ろんしゃ)たちの主張(しゅちょう)の一部(いちぶ)に私なりの答えを出してもいいのではないかと考えています( "However I believe in offering answers to some of the sedevacantists’ arguments, …" ).その理由は,教皇空位論者たちの中に,ローマ(教皇庁)の司教(=教皇)聖座 ( "See of Rome" ) における教皇空位をカトリック教徒が信じるべき教義(きょうぎ)( "a dogma" )にしたいと願っているように見える者たちがいるからです( "… because there are sedevacantists who seem to wish to make the vacant See of Rome into a dogma which Catholics must believe." ).私の見解(けんかい)では,教皇空位はそのようなものではありません( "In my opinion it is no such thing." ). 「勝手気まま(かってきまま)がはびこるのは物事(ものごと)が疑(うたが)わしいとき」( "In things doubtful, liberty" )とアウグスティヌス(Augustine)は述(の)べています( " “In things doubtful, liberty” (Augustine)." ).
教皇空位論のどの部分をとらえて単なる一表現(たんなる いちひょうげん)( "merely one expression" )とみなすか,問題(もんだい)のカギを握(にぎ)るのは,第二バチカン公会議がイエズス・キリストの教会の歴史(きょうかいの れきし)の中で前例(ぜんれい)のない惨事(さんじ)だったこと( "I think that the key to the problem of which sedevacantism is merely one expression is that Vatican II was a disaster without precedent in all the history of the Church of Jesus Christ, …" ),同時(どうじ)にそれは中世末期(ちゅうせい まっき)にさかのぼるカトリック聖職者たちの長期にわたる堕落(だらく)の理論的帰結(りろんてき きけつ)だったことの2点です( "… while at the same time it was the logical conclusion of a long decadence of the Catholic churchmen reaching back to the late Middle Ages." ).一方(いっぽう)で,カトリック教会の神聖(しんせい)な性格と公会議危機(こうかいぎ きき)を含(ふく)む教会の諸々の危機を抑制(よくせい)する諸原則(しょ げんそく)は変(か)えようがありません( "On the one hand the divine nature of the Catholic Church and the principles governing any of its crises, including the Conciliar crisis, cannot change." ).他方(たほう),そうした諸原則の適用(てきよう)に当(あ)たっては,それが運用(うんよう)される人的環境(じんてき かんきょう)に絶えず変化が起きる(たえず へんかが おきる)ことを考慮(こうりょ)に入(い)れなければなりません( "On the other hand the application of those principles must take into account the ever changing human circumstances within which those principles operate." ).今日(こんにち)の人間の腐敗(にんげんの ふはい)は前例のないほどです( "The degree of human corruption today has no precedent." ).
さて,諸原則のなかに不変(ふへん)のものが二(ふた)つあります( "Now two of the unchanging principles are that …" ).一方で,私たちの主イエズス・キリストが地獄の門(じごくの もん)は教会に打ち勝つ(うちかつ)ことはない(新約聖書・マテオ聖福音書:16章18節)(訳注後記3)と約束(やくそく)されているので,教会は無謬(むびゅう)( "indefectible" )です( "… on the one hand the Church is indefectible because Our Lord promised that the gates of Hell would not prevail against it (Mt.XVI, 18)." ).他方,私たちの主イエズス・キリストは自(みずか)らの再臨(さいりん)(訳注後記4)にあたってこの世に信仰を見出(みいだ)せるだろうかともお尋(たず)ねになられました(新約聖書・ルカ聖福音書18章8節)(訳注後記5)( "On the other hand Our Lord also asked if he would find faith on earth at his Second Coming (Lk. XVIII, 8), …" ).これは重要な引用(じゅうような いんよう)です( "… an important quotation …" ).なぜなら,教会が2014年にほぼ完全(かんぜん)に背信(はいしん)しつつあると見えるように,世の終わり(=世界の終末〈しゅうまつ〉)(訳注後記6)にはほぼ完ぺきに背信するであろうことをはっきり示唆(しさ)しているからです( "… because it clearly suggests that the Church will almost completely have defected at the end of the world, just as it seems to be almost completely defecting in 2014." ).というのも,私たちはいまの時点で世の終わりの時を生きていないとしても( "For indeed if we are not today living through the end of the world, …" ),私たちは確かに世の終末時のドレスリハーサル( "the dress rehearsal" )(訳注・実際や本番と同じドレス〈衣装〉をつけて行う予行演習〈よこう えんしゅう〉)の最中(さなか)に生きています( "… we are surely living through the dress rehearsal for that end of the world, …" ).ラ ・ サレットの聖母( "Our Lady of Salette" ),尊者(そんじゃ)ホルツハウザー( "the Venerable Holzhauser" ),それにビィユー枢機卿(すうききょう)( "Cardinal Billot" )がことごとく示唆(しさ)しているように( "… as Our Lady of Salette, the Venerable Holzhauser and Cardinal Billot all suggest." ).
したがって,世の終わりと同じように,今日,教会の背信(きょうかいの はいしん)はさらに遠くへ進み得(すすみ え)ます( "Therefore today, as at world’s end, the defection can go very far." ).教会は完全に消滅(かんぜんに しょうめつ)するとか役立(やくだ)たなくなることはないと保証(ほしょう)する全能の神の力(ぜんのうの かみの ちから)を超(こ)えるほど背信が進むことはないでしょうが( "It cannot reach beyond the power of Almighty God to guarantee that his Church will never altogether disappear or fail, …" ),神がお許(ゆる)しになるところまで進み得ます( "… but it can reach as far as God will allow, …" ).言い換(いいか)えれば,神の教会がほぼ完全に背信するのを止(と)めるのに必要(ひつよう)なものはなにもありません( "… in other words nothing need stop his Church from defecting almost completely." ).では,「ほぼ完全に」とはどこまでなのでしょうか? ( "And just how far is that “almost completely”? " ) それは神のみが知(し)るです( "God alone knows, …" ).時(とき)だけがその問(と)いに答(こた)えられるでしょう( "… and so time alone can tell, …" ).なぜなら,私たちは誰(だれ)も神の御心(かみの みこころ)のなかにいるわけではなく,諸々の事実(もろもろの じじつ)だけが事が起きた後(ことが おきた あと)に神の御心の中身(なかみ)がなんであるかを私たちに明(あ)かすことができるからです( "… because none of us men are in the mind of God, and only the facts can reveal to us after the event the contents of the divine mind." ).ただし,神は確かに聖書の中に御心の一部(みこころの いちぶ)を明(あき)らかにされています( "But God does partly reveal his mind in Scripture." ).
世の終わりについていえば,新約聖書・聖ヨハネの黙示録:13章11-17節(訳注後記7)を解釈(かいしゃく)する人々の多数(たすう)は,キリストの敵(てき)に仕(つか)える羊(ひつじ)に似(に)た第2の野獣(やじゅう)( "the lamb-like Second Beast" )が教会当局者(とうきょくしゃ)であると考(かんがえ)えます( "Now as to the end of the world, many interpreters of Chapter XIII, 11-17 of the Apocalypse think that the lamb-like Second Beast serving the Antichrist is the authorities of the Church, …" ).なぜなら,そのような当局者がキリストの敵と争(あらそ)うとすれば,聖書には敵が勝(か)つとありますが,敵は決(けっ)して勝てないからです( "… because if those authorities resisted the Antichrist he could never prevail, as Scripture says he will." ).では,世の終わりのドレスリハーサルでキリストの代理者たちがキリストの敵のように話(はな)し行動(こうどう)するとしたら,それはきわめて異常(いじょう)なことでしょうか?( "Then is it so extraordinary if in the dress rehearsal for the end of the world the Vicars of Christ talk and behave like enemies of Christ ? " ) このことを必要な背景(はいけい)として,私は来週(らいしゅう)のエレイソン・コメンツで教皇空位論者たちの主要な主張の何点かに答えを提案(ていあん)するつもりです( "Against this necessary background, next week’s “Comments” will propose answers to some of the sedevacantists’ main arguments." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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訳注を追加掲載いたします.
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2014年1月31日金曜日
2013年12月31日火曜日
337 ビィユー II 12/28
エレイソン・コメンツ 第337回 (2013年12月28日)
枢機卿(すうききょう)ビィユーが文字(もじ)と教会史(きょうかいし)の主要(しゅよう)な7(なな)つの時代(じだい)との関連性(かんれんせい)を立証(りっしょう)している,単(たん)にアジアの7つの教会(あじあの ななつの きょうかい)の各(かく)名称(めいしょう)( "names" )(エレイソン・コメンツ第336回を参照〈さんしょう〉)( " (cf. “Comments” # 336) " )だけでなく,それら各教会(かく きょうかい)に当(あ)てられた7つの文字(ななつの もじ)の中身(なかみ)に( "contents" )基(もと)づくものです(ヨハネの黙示録〈もくしろく〉第2章および第3章)( "It is not only by the names of the seven Churches of Asia (cf. “Comments”# ) but also by the contents of the seven Letters addressed to them (Apoc. II and III) that Cardinal Billot establishes the connection between the Letters and seven main periods of Church history. " ).ここでとくに興味(きょうみ)をひくのは私たちの現代(げんだい),第5の背教の時代(はいきょうの じだい)に符節(ふせつ)するサルデスSardis( 新約聖書・ヨハネの黙示録:第3章1-6節 Apoc. III, 1-6 )の教会に当てられた文字(もじ)です( "Especially interesting in this respect is the Letter to the church of Sardis (Apoc. III, 1-6) which would correspond to our own Age, the fifth, the Age of Apostasy. " ).ビィユーはサルデスの有名(ゆうめい)な支配者(しはいしゃ)クロイソスにまつわる富(とみ),贅沢(ぜいたく),物質的繁栄(ぶっしつてき はんえい)を想起(そうき)した後(あと)で,つぎのように書(か)いています:-- ( "After evoking the wealth, luxury and material prosperity associated with Croesus, famous ruler of Sardis, Billot writes:-- " )
「人々(ひとびと)が想像(そうぞう)するように,この教会(きょうかい)は精神的衰退(せいしんてき すいたい)の状態(じょうたい)にあるように見(み)えます( " “As one might expect, this church seems to be in a state of spiritual decline." ).背教(はいきょう)や脱落(だつらく)がはびこっていますが( "Apostasy and falling away are on all sides, …" ),多数の人々(たすうの ひとびと)が宗教(しゅうきょう)を見捨(みす)てる一方(いっぽう)で( "… but while the majority of souls abandon religion, …" ),少数の人々(しょうすうの ひとびと)はキリスト(きりすと)への忠誠(ちゅうせい)を守り続(まもり つづ)けています( "… there are a few who remain faithful to Christ." ).天使は 「サルデスには衣(ころも)を汚して(けがして)いない名前(名目=人)(なまえ〈めいもく=ひと〉)がいくつかある(=サルデスであなたの中にも衣を汚していない少数の人〈しょうすうの ひと〉がいる.)」 が: 「汝(なんじ)は名前(=名目)で生きて(なまえ〈めいもく=ひと〉で いきて)いようと,実体では死んで(じったいでは しんで)いる!」 と告(つ)げます( "The angel says, ‘Thou hast a few names in Sardis which have not defiled their garments.’ But: ‘Thou hast the name of being alive: and thou art dead !’ " ). 名目(実体のない)(めいもく〈じったいのない〉)( "The name (but not the reality) …" )だけの生活(せいかつ),知識(ちしき),自由(じゆう),文明(ぶんめい),進歩(しんぽ)があっても( "… of life, knowledge, freedom, civilization, progress; …" ),命の光明(いのちの こうみょう),すなわち我が主(わが しゅ)イエズス・キリストを拒(こば)んだため,暗黒と死の影(あんこくと しの かげ)に坐(ざ)しているというわけです( "… and thou art dead, sitting in darkness and the shadow of death, because the light of life, which is Our Lord Jesus Christ, has been rejected." )(訳注後記1). かくして,天使(てんし)はサルデスの司教(しきょう)に 「目を見開き(めを みひらき),残りし者(のこりし もの),死(し)をいとわぬ者(もの)を助け強めよ(たすけ つよめよ)(=警戒して〈けいかい して〉,死(し)にかけている残りの者(のこりの もの)を強(つよ)めよ」 と告(つ)げます ( "Hence the bishop of Sardis is told, ‘Be watchful and strengthen the things that remain, which are ready to die.’ " ). とりわけ,司教は聖なる使徒(せいなる しと)たちのあらゆる伝統(でんとう)を忠実に守り(ちゅうじつに まもり),彼(かれ)らが教会の父たち(きょうかいの ちちたち)(=教父たち〈きょうふ たち〉)( "the Church Fathers" )のために守(まも)ってきた意味(いみ)から,言い訳(いいわけ)したり,深く理解(ふかく りかい)したふりをして,逸脱(いつだつ)しないよう勧告(かんこく)され: ( "And he is above all recommended to cleave unfailingly to all the traditions of the holy Apostles, without in the least way departing from the meaning they held for the Church Fathers, with the excuse or under the appearance of a deeper understanding: …" ) 「それゆえ,汝(なんじ)は自(みずか)らが受け入(うけい)れ,聞(き)いたことを心に留め(こころに とどめ),そして観察(かんさつ)し,罪の償い(つみの つぐない)をせよ」 と告(つ)げられます( " ‘Have in mind therefore what thou hast received and heard: and observe, and do penance.’ " ).これで第5の時代(じだい)のことは終(お)わりです.次に続く(つぎに つづく)のはもう少(すこ)し喜(よろこ)ばしいことでしょう.」( "So much for the Fifth Age. But what follows is a little more rejoicing.” " ) そこで,(ビイユー)枢機卿(すうききょう)は話(はなし)を第6,第7の時代(じだい)に進(すす)めます.( "And the Cardinal goes on to the Sixth and Seventh Ages. " )
エレイソン・コメンツの読者(どくしゃ)のなかで,私たちの時代(わたしたちの じだい)とのからみで ヨハネ黙示録 (もくしろく) 第3章 ( "Apocalypse III" ) の初(はじ)めの6節を読(よ)んだことがない方(かた)は,一度お読み(いちど およみ)になれば今の時(いまの とき)にその個所(かしょ)を読(よ)むのは興味深い(きょうみ ぶかい)ことだと感(かん)じるでしょう( "Readers who have never read the first six verses of Apocalypse III in connection with our own times should be interested to do so." ).両者(りょうしゃ)の関連性(かんれんせい)は驚(おどろ)くばかりで,決(けっ)して偶然の一致(ぐうぜんのいっち)ではありません( "The connection is remarkable, and not co-incidental." ).
なぜ驚(おどろ)くばかりかと言(い)えば,「残りし者(のこりし もの),死(し)をいとわぬ者(もの)を助け強(たすけ つよ)めよ(=警戒して〈けいかい して〉,死〈し〉にかけている残りの者〈のこりの もの〉を強〈つよ〉めよ)」 ( " “Strengthen the things that remain, which are ready to die” " ) は,カトリック教(きょう)をプロテスタント主義(しゅぎ)から救(すく)った反宗教改革(はん しゅうきょう かいかく)に( " to the Counter-reformation saving Catholicism from Protestantism" ),フランス革命(かくめい)から生き残った教会(いき のこった きょうかい)を救(すく)った反自由主義の教皇(はん じゆうしゅぎの きょうこう)たちに( "to the anti-liberal Popes saving what remained of the Church from the French Revolution" ),バチカン第二公会議(だいに こうかいぎ)から伝統(でんとう)を救(すく)ったルフェーブル大司教(だいしきょう)(および他の方々〈ほかの かたがた〉たち)に( "to Archbishop Lefebvre (and others) rescuing Tradition from Vatican II" ),そして今や聖ピオ十世会が自由主義に陥(おちい)るのを救(すく)おうと戦(たたか)っている抵抗運動(ていこう うんどう)に( " and now to a Resistance battling to save what can be saved from his Society collapsing into liberalism." ),そのままあてはまるからです( "It is remarkable because “Strengthen the things that remain, which are ready to die” corresponds exactly to the Counter-reformation saving Catholicism from Protestantism, to the anti-liberal Popes saving what remained of the Church from the French Revolution, to Archbishop Lefebvre (and others) rescuing Tradition from Vatican II, and now to a Resistance battling to save what can be saved from his Society collapsing into liberalism." ). 必(かなら)ずやカトリック教徒(きょうと)たちはこのような展望(てんぼう)から勇気を得る(ゆうきを える)でしょう(=勇気を得るに違〈ちが〉いありません)( "Surely Catholics may take heart from this perspective, …" ),すなわち,長く続いた(ながく つづいた)希望の持てない(きぼうの もてない)ような後方守備行動(こうほう しゅび こうどう)( "long and seemingly hopeless rearguard action" )(訳注・遠い過去〈とおい かこ〉にカトリック教会に生(しょう)じていらい今日に至る(こんにちに いたる)までカトリック教徒がずっと引き継(ひきつ)いできた〈 "comes from a distant past" 〉希望の持てないような後方守備行動) が,本当(ほんとう)に (=現実的〈げんじつてき〉に) 遠い過去(とおい かこ)から抜け出して(ぬけだして) 最終的(さいしゅうてき)に勝利する未来(しょうりする みらい)に移(うつ)るのだ ( "and does fit into an ultimately triumphant future." )という展望(てんぼう)から勇気(ゆうき)づけられるでしょう ( "… that their long and seemingly hopeless rearguard action comes from a distant past and does fit into an ultimately triumphant future." ). これこそが,私たちにヨハネ黙示録(もくしろく)が与(あた)えられた所以(ゆえん)です ( "That is why we were given the book of the Apocalypse." ).
上(うえ)に述(の)べた両者(りょうしゃ)の関連性(かんれんせい)は決(けっ)して偶然の一致(ぐうぜんのいっち)ではありません( "Nor is the connection co-incidental." ) .私たちの主イエズス・キリスト( "Our Lord" )は彼の使徒(しと)( "Apostles" )たちに対し,彼の霊(れい),聖霊(せいれい)( "his Spirit, the Holy Ghost" )は彼らおよび彼らの後継者(こうけいしゃ)と共(とも)にあり,時代(じだい)を下(くだ)って彼らが知る必要(しる ひつよう)のあることだけを啓示(けいじ)するだろうと約束(やくそく)されました(新約聖書・ヨハネ聖福音書:第16章12-14節〈 "Jn. XVI, 12-14" 〉)( "Our Lord promised his Apostles (Jn. XVI, 12-14) that his Spirit, the Holy Ghost, would be with them and with their successors down the ages to reveal to them what they would only then need to know." ).尊者(そんしゃ)ホルツハウザーがアジアの7つの教会(ななつの きょうかい)を表す文字(あらわす もじ)に秘(ひ)められた7つの時代(ななつの じだい)を理解(りかい)したのは,30年戦争(30ねん せんそう(1618-1648年)がドイツを荒廃(こうはい)させているときのことでした( "It was only when the Thirty Years War (1618-1648) was ravaging Germany that the Venerable Holzhauser was given his understanding of the Seven Ages hidden within the Letters to the seven churches of Asia." ).同(おな)じように,ロシア革命(かくめい)が勃発(ぼっぱつ)しようとしている時(とき),私たちは聖母(せいぼ)がファティマで,最後(さいご)は聖母自(みずか)らの汚(けが)れなき(=純潔〈じゅんけつ〉な)御心(みこころ)( "her Immaculate Heart" )が勝利(しょうり)を収(おさ)めると保証(ほしょう)してくださることを必要(ひつよう)としました( "Similarly it was only when the Russian Revolution was just about to break out that we needed Our Lady to assure us at Fatima that in the end her Immaculate Heart would triumph." ).教会(きょうかい)が今(いま)まさしく輝(かがや)きを失(うしな)おうとしているのは事実(じじつ)です (最近〈さいきん〉ブラジルで白衣〈はくい〉をまとった聖職者が執り行った(せいしょくしゃが とりおこなった)公(おおやけ)のミサの画像(がぞう)をインターネット上でご覧(らん)になってください)( "True, the Church is right now being eclipsed (see on the Internet the film-clips of the public Mass celebrated recently in Brazil by the churchman in white), …" ).だが,私たちが自由主義者(じゆうしゅぎ しゃ)になる必要性(ひつよう せい)もなければ,それを正当化(せいとう か)する何もの(なにもの)も存在(そんざい)しません( "… but there is still no need or justification for us to become liberals." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第2パラグラフの訳注1:
(説明)
命の光である主イエズス・キリストに属(ぞく)していない人は,暗闇(くらやみ)の中に生きており,自分がどこへ行くのかを知らない.
新約聖書(しんやくせいしょ)の参照(さんしょう)
ヨハネの第一の手紙,第一章
FIRST EPISTLE OF ST. JOHN THE APOSTLE, CHAPTER I
PREMIÈRE ÉPÎTRE DE SAINT JEAN, CHAPITRE PREMIER
EPISTOLA BEATI IOANNIS APOSTOLI PRIMA, CAPUT I
『神は光であって,すこしのやみもない.』(5節)
『主が光のうちにましますように,私たちも光のうちを歩んでいるなら,私たちは互いに一致し,み子イエズスの血は私たちの罪をすべて清める.』(7節)
『罪がないと言うなら,それは自分を偽っているのであって,真理は私たちの中にはない.
自分の罪を告白するなら,真実な正しい神は私たちの罪をゆるし,すべての不義を清めてくださる.』(9節)
ヨハネの第一の手紙,第二章
FIRST EPISTLE OF ST. JOHN THE APOSTLE, CHAPTER II
PREMIÈRE ÉPÎTRE DE SAINT JEAN, CHAPITRE II
EPISTOLA BEATI IOANNIS APOSTOLI PRIMA, CAPUT II
『みことばを守る者はその人の内に神の愛が全(まっと)うされ,それによって私たちは主の中にいることがわかる.
また,主の中にいると言う者は,自分も主が歩まれたように歩まねばならぬ.』(5節)
『兄弟を愛する人は光にとどまる者であって,彼はつまずく恐れがない.兄弟を憎む人はやみの中にいてやみを歩み,やみに目をくらまされて自分がどこに行くかも知らない.』(11節)
『小さな子らよ,最後の時である.あなたたちは反キリストが来ると聞いていたが,今や多くの反キリストが現れた.これによって私たちは最後の時が来たことを知る.』(18節)
ヨハネの第一の手紙,第5章
FIRST EPISTLE OF ST. JOHN THE APOSTLE, CHAPTER V
PREMIÈRE ÉPÎTRE DE SAINT JEAN, CHAPITRE V
EPISTOLA BEATI IOANNIS APOSTOLI PRIMA, CAPUT V
『イエズスがキリスト(=救世主・メシア〈=メサイア〉)であることを信じる者は,神から生まれた者である.生んだお方を愛する人々は,また神から生まれた者をも愛する.
神を愛してそのおきてを行えば,それによって私たちが神の子らを愛していることがわかる.
神への愛はそのおきてを守ることにあるが,そのおきてはむずかしいものではない.
神から生まれた者は世に勝つ.世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である(4節).
イエズスが神の子であると信じる者のほかにだれが世に勝てるであろうか.
水と血によって来られたのはイエズス・キリストである.ただ水だけでなく,水と血によってである.それを証明するのは霊である.霊は真理だからである.
実に証明するものは三つある.(天においては御父とみことばと聖霊であり,この三つは一致する.
地において証明するのは三つ),霊と水と血である.この三つは一致する.
私たちが人間の証明を受け入れるなら,神の証明はそれにまさっている.神の証明とはそのみ子についてのことである.
神の子を信じる者は,自分のうちに神の証明をもち,神を信じない者は神を偽(いつわ)り者とする.神がそのみ子についてされた証明を信じないからである.
その証明とは神が私たちに永遠の命を与えられたこと,その命がみ子にあることである(11節).
み子をもつものは命を有し,み子をもたぬ者は命をもたぬ(12節).
私が以上のことを神の子の名を信じるあなたたちに書いたのは,あなたたちに永遠の命があることを知らせるためであった.
私たちはみ旨に従って願うことを神が必ず聞き入れたもうと確信している.
そして,神がすべての願いを聞き入れたもうことを知るなら,また願ったことが受け入れられることもわかる.
自分の兄弟が死に至らぬ罪を犯しているのを見たなら,彼のために祈れ.そうすれば命が帰るだろう.これは死に至らぬ罪を犯す人々のために言ったことである.死に至る罪がある.私はこれについて祈れとは言わぬ.
すべての不義は罪である.しかし死に至らぬ罪がある.
神から生まれた人はすべて罪を犯さないと私たちは知っている.神から生まれたお方がその人を守られるから,悪者はその人に触れることができない.
私たちが神から出た者であり,世がすべての悪者の配下にあることも私たちは知っている.
また神のみ子がすでに来られ真実のお方を知るための知恵を私たちに授けられたことも知っている.私たちはそのみ子イエズス・キリストによって真実のお方のうちにいる.それは真実の神であって,永遠の命である(20節).
小さな子らよ,偶像を警戒せよ.』
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1・ 訳注の追加を続けます.
2・ ヨハネの黙示録の続きを追加掲載いたします.
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枢機卿(すうききょう)ビィユーが文字(もじ)と教会史(きょうかいし)の主要(しゅよう)な7(なな)つの時代(じだい)との関連性(かんれんせい)を立証(りっしょう)している,単(たん)にアジアの7つの教会(あじあの ななつの きょうかい)の各(かく)名称(めいしょう)( "names" )(エレイソン・コメンツ第336回を参照〈さんしょう〉)( " (cf. “Comments” # 336) " )だけでなく,それら各教会(かく きょうかい)に当(あ)てられた7つの文字(ななつの もじ)の中身(なかみ)に( "contents" )基(もと)づくものです(ヨハネの黙示録〈もくしろく〉第2章および第3章)( "It is not only by the names of the seven Churches of Asia (cf. “Comments”# ) but also by the contents of the seven Letters addressed to them (Apoc. II and III) that Cardinal Billot establishes the connection between the Letters and seven main periods of Church history. " ).ここでとくに興味(きょうみ)をひくのは私たちの現代(げんだい),第5の背教の時代(はいきょうの じだい)に符節(ふせつ)するサルデスSardis( 新約聖書・ヨハネの黙示録:第3章1-6節 Apoc. III, 1-6 )の教会に当てられた文字(もじ)です( "Especially interesting in this respect is the Letter to the church of Sardis (Apoc. III, 1-6) which would correspond to our own Age, the fifth, the Age of Apostasy. " ).ビィユーはサルデスの有名(ゆうめい)な支配者(しはいしゃ)クロイソスにまつわる富(とみ),贅沢(ぜいたく),物質的繁栄(ぶっしつてき はんえい)を想起(そうき)した後(あと)で,つぎのように書(か)いています:-- ( "After evoking the wealth, luxury and material prosperity associated with Croesus, famous ruler of Sardis, Billot writes:-- " )
「人々(ひとびと)が想像(そうぞう)するように,この教会(きょうかい)は精神的衰退(せいしんてき すいたい)の状態(じょうたい)にあるように見(み)えます( " “As one might expect, this church seems to be in a state of spiritual decline." ).背教(はいきょう)や脱落(だつらく)がはびこっていますが( "Apostasy and falling away are on all sides, …" ),多数の人々(たすうの ひとびと)が宗教(しゅうきょう)を見捨(みす)てる一方(いっぽう)で( "… but while the majority of souls abandon religion, …" ),少数の人々(しょうすうの ひとびと)はキリスト(きりすと)への忠誠(ちゅうせい)を守り続(まもり つづ)けています( "… there are a few who remain faithful to Christ." ).天使は 「サルデスには衣(ころも)を汚して(けがして)いない名前(名目=人)(なまえ〈めいもく=ひと〉)がいくつかある(=サルデスであなたの中にも衣を汚していない少数の人〈しょうすうの ひと〉がいる.)」 が: 「汝(なんじ)は名前(=名目)で生きて(なまえ〈めいもく=ひと〉で いきて)いようと,実体では死んで(じったいでは しんで)いる!」 と告(つ)げます( "The angel says, ‘Thou hast a few names in Sardis which have not defiled their garments.’ But: ‘Thou hast the name of being alive: and thou art dead !’ " ). 名目(実体のない)(めいもく〈じったいのない〉)( "The name (but not the reality) …" )だけの生活(せいかつ),知識(ちしき),自由(じゆう),文明(ぶんめい),進歩(しんぽ)があっても( "… of life, knowledge, freedom, civilization, progress; …" ),命の光明(いのちの こうみょう),すなわち我が主(わが しゅ)イエズス・キリストを拒(こば)んだため,暗黒と死の影(あんこくと しの かげ)に坐(ざ)しているというわけです( "… and thou art dead, sitting in darkness and the shadow of death, because the light of life, which is Our Lord Jesus Christ, has been rejected." )(訳注後記1). かくして,天使(てんし)はサルデスの司教(しきょう)に 「目を見開き(めを みひらき),残りし者(のこりし もの),死(し)をいとわぬ者(もの)を助け強めよ(たすけ つよめよ)(=警戒して〈けいかい して〉,死(し)にかけている残りの者(のこりの もの)を強(つよ)めよ」 と告(つ)げます ( "Hence the bishop of Sardis is told, ‘Be watchful and strengthen the things that remain, which are ready to die.’ " ). とりわけ,司教は聖なる使徒(せいなる しと)たちのあらゆる伝統(でんとう)を忠実に守り(ちゅうじつに まもり),彼(かれ)らが教会の父たち(きょうかいの ちちたち)(=教父たち〈きょうふ たち〉)( "the Church Fathers" )のために守(まも)ってきた意味(いみ)から,言い訳(いいわけ)したり,深く理解(ふかく りかい)したふりをして,逸脱(いつだつ)しないよう勧告(かんこく)され: ( "And he is above all recommended to cleave unfailingly to all the traditions of the holy Apostles, without in the least way departing from the meaning they held for the Church Fathers, with the excuse or under the appearance of a deeper understanding: …" ) 「それゆえ,汝(なんじ)は自(みずか)らが受け入(うけい)れ,聞(き)いたことを心に留め(こころに とどめ),そして観察(かんさつ)し,罪の償い(つみの つぐない)をせよ」 と告(つ)げられます( " ‘Have in mind therefore what thou hast received and heard: and observe, and do penance.’ " ).これで第5の時代(じだい)のことは終(お)わりです.次に続く(つぎに つづく)のはもう少(すこ)し喜(よろこ)ばしいことでしょう.」( "So much for the Fifth Age. But what follows is a little more rejoicing.” " ) そこで,(ビイユー)枢機卿(すうききょう)は話(はなし)を第6,第7の時代(じだい)に進(すす)めます.( "And the Cardinal goes on to the Sixth and Seventh Ages. " )
エレイソン・コメンツの読者(どくしゃ)のなかで,私たちの時代(わたしたちの じだい)とのからみで ヨハネ黙示録 (もくしろく) 第3章 ( "Apocalypse III" ) の初(はじ)めの6節を読(よ)んだことがない方(かた)は,一度お読み(いちど およみ)になれば今の時(いまの とき)にその個所(かしょ)を読(よ)むのは興味深い(きょうみ ぶかい)ことだと感(かん)じるでしょう( "Readers who have never read the first six verses of Apocalypse III in connection with our own times should be interested to do so." ).両者(りょうしゃ)の関連性(かんれんせい)は驚(おどろ)くばかりで,決(けっ)して偶然の一致(ぐうぜんのいっち)ではありません( "The connection is remarkable, and not co-incidental." ).
なぜ驚(おどろ)くばかりかと言(い)えば,「残りし者(のこりし もの),死(し)をいとわぬ者(もの)を助け強(たすけ つよ)めよ(=警戒して〈けいかい して〉,死〈し〉にかけている残りの者〈のこりの もの〉を強〈つよ〉めよ)」 ( " “Strengthen the things that remain, which are ready to die” " ) は,カトリック教(きょう)をプロテスタント主義(しゅぎ)から救(すく)った反宗教改革(はん しゅうきょう かいかく)に( " to the Counter-reformation saving Catholicism from Protestantism" ),フランス革命(かくめい)から生き残った教会(いき のこった きょうかい)を救(すく)った反自由主義の教皇(はん じゆうしゅぎの きょうこう)たちに( "to the anti-liberal Popes saving what remained of the Church from the French Revolution" ),バチカン第二公会議(だいに こうかいぎ)から伝統(でんとう)を救(すく)ったルフェーブル大司教(だいしきょう)(および他の方々〈ほかの かたがた〉たち)に( "to Archbishop Lefebvre (and others) rescuing Tradition from Vatican II" ),そして今や聖ピオ十世会が自由主義に陥(おちい)るのを救(すく)おうと戦(たたか)っている抵抗運動(ていこう うんどう)に( " and now to a Resistance battling to save what can be saved from his Society collapsing into liberalism." ),そのままあてはまるからです( "It is remarkable because “Strengthen the things that remain, which are ready to die” corresponds exactly to the Counter-reformation saving Catholicism from Protestantism, to the anti-liberal Popes saving what remained of the Church from the French Revolution, to Archbishop Lefebvre (and others) rescuing Tradition from Vatican II, and now to a Resistance battling to save what can be saved from his Society collapsing into liberalism." ). 必(かなら)ずやカトリック教徒(きょうと)たちはこのような展望(てんぼう)から勇気を得る(ゆうきを える)でしょう(=勇気を得るに違〈ちが〉いありません)( "Surely Catholics may take heart from this perspective, …" ),すなわち,長く続いた(ながく つづいた)希望の持てない(きぼうの もてない)ような後方守備行動(こうほう しゅび こうどう)( "long and seemingly hopeless rearguard action" )(訳注・遠い過去〈とおい かこ〉にカトリック教会に生(しょう)じていらい今日に至る(こんにちに いたる)までカトリック教徒がずっと引き継(ひきつ)いできた〈 "comes from a distant past" 〉希望の持てないような後方守備行動) が,本当(ほんとう)に (=現実的〈げんじつてき〉に) 遠い過去(とおい かこ)から抜け出して(ぬけだして) 最終的(さいしゅうてき)に勝利する未来(しょうりする みらい)に移(うつ)るのだ ( "and does fit into an ultimately triumphant future." )という展望(てんぼう)から勇気(ゆうき)づけられるでしょう ( "… that their long and seemingly hopeless rearguard action comes from a distant past and does fit into an ultimately triumphant future." ). これこそが,私たちにヨハネ黙示録(もくしろく)が与(あた)えられた所以(ゆえん)です ( "That is why we were given the book of the Apocalypse." ).
上(うえ)に述(の)べた両者(りょうしゃ)の関連性(かんれんせい)は決(けっ)して偶然の一致(ぐうぜんのいっち)ではありません( "Nor is the connection co-incidental." ) .私たちの主イエズス・キリスト( "Our Lord" )は彼の使徒(しと)( "Apostles" )たちに対し,彼の霊(れい),聖霊(せいれい)( "his Spirit, the Holy Ghost" )は彼らおよび彼らの後継者(こうけいしゃ)と共(とも)にあり,時代(じだい)を下(くだ)って彼らが知る必要(しる ひつよう)のあることだけを啓示(けいじ)するだろうと約束(やくそく)されました(新約聖書・ヨハネ聖福音書:第16章12-14節〈 "Jn. XVI, 12-14" 〉)( "Our Lord promised his Apostles (Jn. XVI, 12-14) that his Spirit, the Holy Ghost, would be with them and with their successors down the ages to reveal to them what they would only then need to know." ).尊者(そんしゃ)ホルツハウザーがアジアの7つの教会(ななつの きょうかい)を表す文字(あらわす もじ)に秘(ひ)められた7つの時代(ななつの じだい)を理解(りかい)したのは,30年戦争(30ねん せんそう(1618-1648年)がドイツを荒廃(こうはい)させているときのことでした( "It was only when the Thirty Years War (1618-1648) was ravaging Germany that the Venerable Holzhauser was given his understanding of the Seven Ages hidden within the Letters to the seven churches of Asia." ).同(おな)じように,ロシア革命(かくめい)が勃発(ぼっぱつ)しようとしている時(とき),私たちは聖母(せいぼ)がファティマで,最後(さいご)は聖母自(みずか)らの汚(けが)れなき(=純潔〈じゅんけつ〉な)御心(みこころ)( "her Immaculate Heart" )が勝利(しょうり)を収(おさ)めると保証(ほしょう)してくださることを必要(ひつよう)としました( "Similarly it was only when the Russian Revolution was just about to break out that we needed Our Lady to assure us at Fatima that in the end her Immaculate Heart would triumph." ).教会(きょうかい)が今(いま)まさしく輝(かがや)きを失(うしな)おうとしているのは事実(じじつ)です (最近〈さいきん〉ブラジルで白衣〈はくい〉をまとった聖職者が執り行った(せいしょくしゃが とりおこなった)公(おおやけ)のミサの画像(がぞう)をインターネット上でご覧(らん)になってください)( "True, the Church is right now being eclipsed (see on the Internet the film-clips of the public Mass celebrated recently in Brazil by the churchman in white), …" ).だが,私たちが自由主義者(じゆうしゅぎ しゃ)になる必要性(ひつよう せい)もなければ,それを正当化(せいとう か)する何もの(なにもの)も存在(そんざい)しません( "… but there is still no need or justification for us to become liberals." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第2パラグラフの訳注1:
(説明)
命の光である主イエズス・キリストに属(ぞく)していない人は,暗闇(くらやみ)の中に生きており,自分がどこへ行くのかを知らない.
新約聖書(しんやくせいしょ)の参照(さんしょう)
ヨハネの第一の手紙,第一章
FIRST EPISTLE OF ST. JOHN THE APOSTLE, CHAPTER I
PREMIÈRE ÉPÎTRE DE SAINT JEAN, CHAPITRE PREMIER
EPISTOLA BEATI IOANNIS APOSTOLI PRIMA, CAPUT I
『神は光であって,すこしのやみもない.』(5節)
『主が光のうちにましますように,私たちも光のうちを歩んでいるなら,私たちは互いに一致し,み子イエズスの血は私たちの罪をすべて清める.』(7節)
『罪がないと言うなら,それは自分を偽っているのであって,真理は私たちの中にはない.
自分の罪を告白するなら,真実な正しい神は私たちの罪をゆるし,すべての不義を清めてくださる.』(9節)
ヨハネの第一の手紙,第二章
FIRST EPISTLE OF ST. JOHN THE APOSTLE, CHAPTER II
PREMIÈRE ÉPÎTRE DE SAINT JEAN, CHAPITRE II
EPISTOLA BEATI IOANNIS APOSTOLI PRIMA, CAPUT II
『みことばを守る者はその人の内に神の愛が全(まっと)うされ,それによって私たちは主の中にいることがわかる.
また,主の中にいると言う者は,自分も主が歩まれたように歩まねばならぬ.』(5節)
『兄弟を愛する人は光にとどまる者であって,彼はつまずく恐れがない.兄弟を憎む人はやみの中にいてやみを歩み,やみに目をくらまされて自分がどこに行くかも知らない.』(11節)
『小さな子らよ,最後の時である.あなたたちは反キリストが来ると聞いていたが,今や多くの反キリストが現れた.これによって私たちは最後の時が来たことを知る.』(18節)
ヨハネの第一の手紙,第5章
FIRST EPISTLE OF ST. JOHN THE APOSTLE, CHAPTER V
PREMIÈRE ÉPÎTRE DE SAINT JEAN, CHAPITRE V
EPISTOLA BEATI IOANNIS APOSTOLI PRIMA, CAPUT V
『イエズスがキリスト(=救世主・メシア〈=メサイア〉)であることを信じる者は,神から生まれた者である.生んだお方を愛する人々は,また神から生まれた者をも愛する.
神を愛してそのおきてを行えば,それによって私たちが神の子らを愛していることがわかる.
神への愛はそのおきてを守ることにあるが,そのおきてはむずかしいものではない.
神から生まれた者は世に勝つ.世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である(4節).
イエズスが神の子であると信じる者のほかにだれが世に勝てるであろうか.
水と血によって来られたのはイエズス・キリストである.ただ水だけでなく,水と血によってである.それを証明するのは霊である.霊は真理だからである.
実に証明するものは三つある.(天においては御父とみことばと聖霊であり,この三つは一致する.
地において証明するのは三つ),霊と水と血である.この三つは一致する.
私たちが人間の証明を受け入れるなら,神の証明はそれにまさっている.神の証明とはそのみ子についてのことである.
神の子を信じる者は,自分のうちに神の証明をもち,神を信じない者は神を偽(いつわ)り者とする.神がそのみ子についてされた証明を信じないからである.
その証明とは神が私たちに永遠の命を与えられたこと,その命がみ子にあることである(11節).
み子をもつものは命を有し,み子をもたぬ者は命をもたぬ(12節).
私が以上のことを神の子の名を信じるあなたたちに書いたのは,あなたたちに永遠の命があることを知らせるためであった.
私たちはみ旨に従って願うことを神が必ず聞き入れたもうと確信している.
そして,神がすべての願いを聞き入れたもうことを知るなら,また願ったことが受け入れられることもわかる.
自分の兄弟が死に至らぬ罪を犯しているのを見たなら,彼のために祈れ.そうすれば命が帰るだろう.これは死に至らぬ罪を犯す人々のために言ったことである.死に至る罪がある.私はこれについて祈れとは言わぬ.
すべての不義は罪である.しかし死に至らぬ罪がある.
神から生まれた人はすべて罪を犯さないと私たちは知っている.神から生まれたお方がその人を守られるから,悪者はその人に触れることができない.
私たちが神から出た者であり,世がすべての悪者の配下にあることも私たちは知っている.
また神のみ子がすでに来られ真実のお方を知るための知恵を私たちに授けられたことも知っている.私たちはそのみ子イエズス・キリストによって真実のお方のうちにいる.それは真実の神であって,永遠の命である(20節).
小さな子らよ,偶像を警戒せよ.』
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1・ 訳注の追加を続けます.
2・ ヨハネの黙示録の続きを追加掲載いたします.
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