2010年8月30日月曜日

まん延する非現実性

エレイソン・コメンツ 第163回 (2010年8月28日)

先週、私は2008年以来初めて私的目的でアメリカを訪れました.私は,問題なく出入国できましたが,友人の誘いで最近のアメリカ経済の低迷により荒廃した主要都市のひとつを2時間かけて周るツアーに出かけたとき,圧倒されるような難問をいくつか目の当たりにしました:--

私たちは車でその都市に向う途中,郊外の小ぎれいな住宅街を通過しました.以下は友人の話です.「いかにも値の張りそうな高級住宅に見えるでしょう?でも実際は,どれも安普請の家ばかりです.似たり寄ったりの家ばかりで,実際の価値をはるかに上回る価格で売り出されたものです.こうした住宅は,クリントン大統領時代(1992年-2000年)の物質主義,膨張したクレジット,過度の浪費の上に築かれた偽の楽園で給料ぎりぎりの生活をしながらも夢を見ていた人たちが,どこからともなく調達したお金で購入したものです.彼らは失職すると,いま実際多くの人がそうなっていますが,買った家の価格の半分でも取り戻せれば幸運なほうです.こうした人たちは実際に役立つ能力も商売も持ち合わせていません.彼らの住む世界は口先滑らかな無意味なたわごとしか存在しない世界なのです・・・」

「彼らの多くは,私たちが今到着したこの場所,すなわち都心に近い住宅地から逃げ出した白人たちです.ご覧の通り,板で打ち付けられたり,放棄されたり,荒廃した家々の間に取り壊された家の後にできた空き地があり,あたかも繁栄を錯覚させるようです.しかし,失われた雇用は回復しませんから,繁栄に復帰する現実的な基盤は何もないのです.ご覧になっている小ぎれいな家並みは,財政破綻した市が住宅計画に従って連邦政府から借り入れた資金で修繕あるいは再築したものです.それがなされる理由は,小ぎれいにしておけばあまり手入れの必要がないからですが,それでもこうした家はじきに再び老朽化するでしょう.政府助成の中には,対象となる人々にとり害あって益なしというものがあります.人々を支援するかのように思われて実は助成に依存しなければ生きていけない状況に彼らを追い込むからです・・・」

「いよいよ私たちは下町に入ってきました.ご覧の通り立派な高層ビルがいくつも並んでいますが,人通りはほとんど途絶えています.これらの高層ビル街は,この都市がかつて巨大な産業中心地だった1920年代に建てられたものです.第二次世界大戦後,アメリカ合衆国は産業界での優位な地位を失い始めました.私が見るところ,レーガン大統領時代(1980年-1988年)の頃,一般市民がクレジットカードを使えるようになったことによる誤った景気刺激策が始まりました.1990年代には,この都市で非白人の市長が選出され,彼は景気回復に全力で取り組みました.この立派なビル街のいくつかのビルは彼の業績で建てられたものです.しかし彼は落選してしまいました.その理由は彼が有権者たちとは異質だったからです・・・」

「経済は危機一髪の状態ですが,人々は一年もすれば万事がうまく解決し良くなると思っています.彼らは,政府がもっと多くの紙幣を印刷するかデジタル化しさえすればうまく行くと考えています.国の事態がいかに深刻で重大な局面に陥っているかを理解している人々は5パーセントかそれ以下で,自国の破綻の局面で宗教が何らかの役割を果たすと考える人々は1パーセント以下です.人々は問題の根本的あるいは現実的な解決方法ではなく,ただ応急処置としてのバンドエイドを探し求めるだけです.白人は大きな後ろめたさを感じており,そのことを認めないまま没落しています.巨大な問題が存在しており,誰もが気づきかつ承知しているのに誰一人そのことを語ろうとしません・・・」

それでも,この都市から50マイルの範囲内では聖ピオ十世会の教区と学校とが,その荒廃から立ち直る一つの解決策を具現するように力強く育っています.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年8月24日火曜日

協議の盲点

エレイソン・コメンツ 第162回 (2010年8月21日)

ローマ教皇庁と聖ピオ十世会の間で行われている協議(訳注・「教理上の論議」“Doctrinal Discussions” を指す)は双方どちらの話を聞いても,教理上の理由から行き詰っていますが,フランスやドイツから入ってくる情報とローマから流れてくる噂を考え合わせると,カトリック教徒は危険に直面していると言わざるを得ません.その危険とは,協議を行き詰らせている教理上の閉塞状況をあっさりと迂回するある種の政治的取引です.

数週間前,フランス,ドイツからの報告で私は,聖ピオ十世会のミサに与(あずか)るカトリック教徒の多くがローマ教皇庁と聖ピオ十世会の協議から何らかの合意が得られることをひたすら待望していると聞かされました.もし - 繰り返しますが,もし - これが事実だとすれば,それは大変深刻な問題です.そのようなカトリック教徒は,ローマ教皇庁らしきものから絶縁されたくないという点については満点を得られるかもしれません.だが,この協議があくまで教理上の論議である限り,第二バチカン公会議下のネオ・モダニスト(新現代主義者)の教えが真の教会(訳注・“Church”.カトリック教会を指す)のカトリック教義と調和しえないことを理解していない,という点については落第点しか取れません.そのようなカトリック教徒は,ルフェーブル大司教の人となりを見て,彼を尊敬し敬愛するかもしれませんが,大司教にとって最も大切なことについてはまるで理解していません.彼らカトリック教徒は,まず自分たちがローマ教皇庁のネオ・モダニストの術中に陥っているのではないかと目覚めるべきです.

教義をさて置く合意とは,宗教より政治を優先すること,真理より(人間の間の意見や利害の)一致を優先すること,神より人間を優位に置くことを意味します.人間より神を優位に置くことは,一致より真理,政治より宗教を優先し,教義が他のいかなる非教義的合意より重要であることを意味します.夢想家たちだけが,ローマ教皇庁と聖ピオ十世会の協議が行き詰まることを見越せなかったにすぎません.この協議から何らかの非教義的合意が生まれることを願い得るのは政治屋たちだけです.

悲しいかな,外から見る限りでは,教皇ベネディクト16世はカトリック信仰の唯一の真の教義への信仰を問わず,あらゆる人々を第二バチカン公会議の “Newchurch” (訳注・第二バチカン公会議体制下の新教会のこと)の懐の下に一体化するのが正しいと心から信じているようです.したがって,教皇は聖ピオ十世会をも取り込みたいと心から願っています.普通なら教皇もこの先それほど長くは生き続けられないでしょう!ですから,彼は教理上の論議の閉塞状況を必要以上に心配することもないわけです.彼は聖ピオ十世会を他の “Newchurch” の構成員と合体させる政治的合意を聖ピオ十世会との間で取り付けようと目指しているに違いありません.このことが意味するのは次のようなことです.教皇は聖ピオ十世会に過度の要求を出さないでしょう.もしそうすれば,聖ピオ十世会は政治的合意を拒否するでしょうから.同じように教皇は聖ピオ十世会への要求を過小にとどめないでしょう.なぜなら,その場合,“Newchurch” の残りの者たちが抗議して決起するからです.

ローマからの噂は,まさしく教皇が「モトゥ・プロプリオ」(訳注・“Motu Proprio”「自発教令」)を念頭に置いているというものです.この自発教令とは,聖ピオ十世会が第二バチカン公会議もしくは同公会議下の新典礼(新しいミサ “New Mass” )を明確に受け入れる必要はないが,ただ,たとえば,静かな目立たない方法であっても実質的にモダニスト(現代主義的)である教皇ヨハネ・パウロ2世が1992年に発表した「カトリック教会のカテキズム(公教要理)」を受け入れさえすれば,今回に限り聖ピオ十世会の「教会(現ローマ教皇庁体制のカトリック教会)復帰」を認めることを意味するものです.このやり方だと,聖ピオ十世会が,その信奉者の目に,同公会議やその新典礼を受け入れたかのように映ることはないでしょう.しかしそのやり方により,聖ピオ十世会は静かに,静かに,ネオ・モダニズムの本質に同調し始めることになるでしょう.

こうして,すべての統一追求者は満足するでしょう.だが,カトリック教義の信者だけは満足することはないでしょう.

危険なことです!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年8月15日日曜日

荒地の救済方法 その2

エレイソン・コメンツ 第161回 (2010年8月14日)

なぜ現代における『大学』はみな揃って紛れもない「民主主義」のごみ箱かくず入れと化しているのでしょうか? その理由は,「民主主義」では誰でもみな平等でなければならず,誰かが他よりも優位に立ってはならないからです.だが,学位を持つ者は持たない者より優位に立つことになります.それで誰もが学位を持つ必要が出てきます.だが,すべての男の子が学位を取得できるほど頭脳明晰で勉強好きというわけではありません.したがって,『大学』はレベルを下げ,すべての男の子が最終的に『学位』を取得できるよう『学位』の対象をあらゆる種類のばかげた科目にまで広げなければならなくなるでしょう.なかにはほとんど証書の紙代にも値しない学位も出てくるでしょう.今日の『大学』システムは「まったくいんちきな偽物である」と,内部事情を知るアメリカ人の大学教授の友人は言っています.

この現代の愚行の根底にあるものは何でしょうか? 重ねて繰り返しますが,そこにあるのは神の存在を認めないということ,すなわち無神論です.人はすべて永遠に神の御前では平等で,死後に立つ神の審判の御座の前でも全く平等なのですが,大事なのはそのことだけで他はどうでもいいことです.然るに,人間社会では人はすべて短い一生の間,人の前では,あらゆる点において不平等なのです.何故かといえば,神は賜物を極めて不平等に人に分配することで,すべてが相互に依存し合い,互いに気を配り合わなければならないように仕向けているからです.そういうわけで,単なる人間社会の『学位』が人を他人より優位に見せかけるのは,神の御前ではなく,神を無視する愚かな人間の前だけでのことにすぎないのです.したがって,神を考慮に入れる両親であれば,『民主主義』,『平等』,『大学』,『学位』などに関心を払うことはないでしょう.

彼ら親たちにとっての第一の関心事は,周囲の至る所で荒廃している非現実的な世界にほとんど注意を払うことなく,自分たちの男の子が,現実に存在する真の神の真の天国にたどり着けるように現実の世界で育てることです.ここで親御さん達に最初の質問です.神は私たちのこの男の子に,他の息子たちとさえ全く異なるような,どんな天資をお与えになったのでしょうか?その息子はどんなことをしたがる傾向があるでしょうか? 神がその子にお与えになっている天資は,彼に対する神の御心を指し示しているのです.明らかに,多くの男の子たちは勉強よりも実務をこなす天資に恵まれています.それに,かつてG・K・チェスタートン “Chesterton” は興味深いことに,たとえば木材であれ金属であれ素材を扱う分野で専門的技能を身につけようと努力することは,現実世界における一定の見習い期間になると言いました.それならば,なんとしてでも男の子を技術専門学校(テクニカル・カレッジ)に通わせ,たとえば腕の良い大工,配管工,電気技師,機械工,整備士などになれるよう本物の技術を習得させましょう.あるいは,男の子に農場経営をする叔父(または伯父)がいるでしょうか? それなら,その子をそこへ送りなさい.動物を扱うことは現実世界で大事な学校へ通うのと等しいことです!

その現実世界を学ぶためは,男の子に『学位』を遠ざけさせましょう.今日の雇用者たちは依然として『学位』を求めるかもしれませんが,明日の雇用者たちはまもなく「あなたは,3年間の学生生活を,ただ酒を飲み,フリスビーを飛ばし,女の子たちと遊び回って無駄に過ごすだけのためにご両親のお金を浪費し,あるいはご両親の借金を大きく増やしたのでなはないですか? あなたには興味がわきません!」と言うでしょう.逆に,もし男の子が実用的な技術に加えて,家庭の中で地道に暮らしかつ勤勉に働くという習慣を身につけておけば,彼は地道な暮らし以上の生活ができるようになるでしょう.彼が提供する役務は非現実的な価値の崩壊で破綻して行く世界において引く手あまたとなるでしょう.

女の子に関しては,いつの世でも変わらない,家庭内のもろもろの実務,たとえば,裁縫,料理,缶詰保存作業,音楽,いろいろな芸術,手短にいえば家庭生活に楽しみや喜びを添えるすべての物事ですが,中でもとりわけ料理を身につけさせましょう.たとえ世の中が荒廃し,何でも好き勝手になるように変わるとしても,男性の心に通じる道は胃袋から,という現実に変わりはないでしょう.これは男性が話していることです!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年8月10日火曜日

荒地の救済方法 その1

エレイソン・コメンツ 第160回 (2010年8月7日)

「わかりました,司教閣下」親たちが言っているのが私に聞こえます.「要するに『大学』はみな荒廃しているわけですね.でも司教閣下がそうおっしゃるなら,そこら中の学校はみな荒廃しているとお認めにならなければなりません.それでは私たちは子供たちをどうすればよいのでしょうか? 神の法(掟)はそれに背く避妊方法を禁じています.それで子供たちは生まれてくるわけです.ではどうすればよいのでしょうか? 」

かつてないほどに悪くなっている世の中では,天国に入りたいと望む霊魂は,これまでにないほどに勇敢にならなければならないでしょうが,与えられる報いはその努力に応じて,かつてないほどに大きなものになる,というのが私の即答です.

教皇ピオ十二世は在位当時の世界がソドマとゴモラ(訳注後記その1)の時代よりも悪い状態だったと仰せられましたが,その彼は1958年に亡くなられています! 教皇が生きておられたら,今日の世界のことを何と仰る(おっしゃる)でしょうか? 同じ問題に直面して,彼の後を継いだ歴代の教皇たちは,第二バチカン公会議で「(カトリック教会が目指すべき)ゴールポストの位置を変えてしまった」のです.そうすることで,悪くなった世の中を糾弾(きゅうだん)し続ける,糾弾し続ける,糾弾し続けることなしに済ませるためです.だが、それは安易な抜け道を通ってお茶を濁(にご)したに過ぎなかったのです.非常ベルを止めるのは,火を消し止めるのと同じではありません.カトリック教会と世界は陽気に燃え盛っています.このようなとき,両親がまず第一にしなければならないことは問題に向き合うことです.その問題とは,子供たちの霊魂の永遠の救済を脅(おびや)かす過度の危険が迫(せま)っているという現実です.

ひとたびその危険が何なのか把握(はあく)してしまえば,親たちは,公会議主義体制の陰険なやり方やその種の他のいかなるやり方も採(と)ってはいけないこと,ただ勇敢で英雄的な王道のみを採るべきことを,自身のカトリック信仰によって教えられるでしょう.「私たちは羽毛ベッドに横たわって天国に入ることはできません」と聖トマス・モアは言いました.私たちの主は,「誰でも私の弟子となろうと思う者は、進んで自分の十字架を負い,その上で私に従いなさい」(新約聖書・マテオによる福音書:第16章24節より)と,また「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マテオ聖福音:第24章13節)と仰せられました.親たちは,子供たちの霊魂を救うためには自らが英雄になる必要があると決意しなければなりせん.そうすれば,その決意通りに英雄となれるでしょう.この点について,「志(こころざし)あるところに道あり(精神一到何事かならざらん)」のことわざ通り,ひとたび親の愛情が志を持ちさえすれば,家庭の内外いずれにおいても,自(おの)ずから最良の道を見出(みいだ)せるでしょう.

家庭外でのことについては,来週の「エレイソン・コメンツ」で『大学』進学の以外の選択肢について述べるつもりです.家庭内のことについては,まともなカトリック司祭なら誰でも次のように指導するでしょう.すなわち,まず家庭で家族全員が揃(そろ)ってロザリオの祈りを唱える習慣を堅実に確立することから始めること,また悪魔と世俗の快楽の世界の神殿であるテレビを家庭から追放したうえで,さらにロザリオの祈りを家族で唱え続けることです.小さいうちから子供たちの心と精神とを,家庭の中での生きた交流とあらゆる物事についての陽の下での生き生きとした会話で満たすべきです.なぜなら,子供たちが『大学』に行く年頃になるまでには,ふつうは善かれ悪しかれ,賽(さい→「さいころ」のこと)は投げられてしまっているからです.もしある男の子が,真に生き生きした家庭で,祈りによって心が天国に向かうように育てられていれば,最悪の『大学』へ進学しても,あまり害を受けることはないでしょう.これに反して,もし彼がテレビばかり見てばかな若者に育ち上がってしまった場合は,最良の大学へ通わせても天国に向わせるにはあまり役立たないでしょう.

EC158(エレイソン・コメンツ第158回)で私は,両親は男の子を大学へ進学させる費用を決して出してはならないとは述べていない点にご留意下さい.学費を支払う前に熟考するように,と述べたのです.両親が自分たちの男の子がまだ小さいうちによく考えておけば,あまりにも手遅れにならないうちに,自らの信仰によって家庭内での生活をいかに変えるべきかを学ぶに違いありません.聖パウロがイザヤの書(第64章4節)(訳注・バルバロ神父訳(日本語)の聖書では第64章3節)を引用して述べているように(コリント人への第一の手紙・第2章9節)(訳注後記その2),天国はあらゆる努力を払ってでも入る価値が無限にあり,人間のいかなる想像をもはるかに凌駕(りょうが)するものなのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教



* * *

(第3パラグラフの訳注その1)

ソドマとゴモラ
ソドマとゴモラは悪行を極めた罪深い町々の名.人々の重い罪は神の怒りを買い,これらの町は天からの硫黄と火の雨で焼き滅ぼし尽された.
「創世の書」(旧約聖書)の第18章-19章29節を参照.

以下は,聖書の引用箇所からの簡単なあらすじと注釈(バルバロ神父訳聖書より).

ソドマは,アブラハムの甥ロトとその家族がその近くに幕屋を張って住みついた町である.

①『…現に,私(神)が彼(アブラハム)を選んだのは,主が約束されたことを,アブラハムを通じて実現するためであり,また彼が自分の子らとその家族に主の道を行わせ,正義と法を守らせるためである.』(旧約聖書・創世の書:第18章19節)
(18章17-19節の注釈)
神がアブラハムに,ソドマの全滅を前もって知らせるその理由である.アブラハムは子孫に,「主の道を守る」ことを教え,子孫は「堕落した町の全滅」を永久の教訓としてとらなければならない.神は天使の姿をとっていて,その話し方も人間の話し方である.

②ある日,神の天使がアブラハムのもとに遣わされた.
『…主は仰せられた,〈ソドマとゴモラに対する叫びはあまりにはげしく,その罪はあまりに重い.私にまでとどいた叫びの,そういう悪をみな,ほんとうに彼らがやったかどうか,私は見たいから,下ってみよう.…〉』(18章20節)
(18章20節の注釈)
ソドマとゴモラの罪は,自然にもとる罪で,神の罰を呼んだ.自然の法則によって表現される神のおきてにそむくことは,人間自身の損害としてはね返ってくる.

③(19章1-29節の「ソドマの滅び」の注釈)
前章で準備された神の計画がここで満たされた.この話の倫理的なねらいは,西洋で「ソドミア」といわれる男色(男性間の同性愛)を打つところにある.のちにヘブライ人の法律(レビの書)では男色者を死刑にすることとなったが,このころ近東では男色の罪が広まっていた.ハムラビ法典では,男色の罪を大してとがめていないどころか,氏子の男色を認めてさえいた.イスラエルでも,こういう悪はかなり広まっていた.

④『…二人(天使)がまだ床につかぬうちに,町の人々つまりソドマの人たちは,若い者も,年寄りも,一人残らずその家にむらがり,ロトを呼び出してわめいた,「今夜,おまえの家に入ったあの男たちはどこにいるのか.あいつらを出せ.あいつらを,おれたちにまかせろ」.』
『…「そこをどけ.こいつは他国人のくせに,裁判官のまねをしている.おまえは,あの男らよりも,もっとひどい目にあうぞ」とどなって,ロトにはげしく襲いかかり,扉を打ち破って入ろうとした.』(19章4-5,9節)
(19章4-9節の注釈)
19章4-5節は集合男色の著しい例であり,9節のソドマ人のロト(アブラハムの甥)への返事は,彼らの男色への好みがどれほどであったかをよく証明している.

⑤『われわれ(神の天使)は,この町(ソドマ)を滅ぼそうとして来たのだ.この町の人々に対する叫びの声が,主のみ前にあまりに大きくなったので,主はこの町を滅ぼすために,われわれをおつかわしになったのだ.』(19章13節)
(2人の男の姿をとった神の天使はこのように言い,光を投げてソドマの住人の目をくらまし,正しく生きていたロトとその家族を離れた町へ逃した.その後で,神はソドマとゴモラの町に天から硫黄と火の雨を降らせて滅ぼし尽くした.)
(19章23-25節の注釈)
天からの火と硫黄とは,大地震のことだと思ってよい.神は罪深い町を滅ぼすために,地震という方法を用いた.大地は震え,アスファルトは燃えだし,あふれて雨のように降り,谷間は地の底となった.地質学的に見ても,死海の南の地帯は時代として若く,現代もなお不安定である.


* * *

(最後のパラグラフの訳注その2)

新約聖書・(聖パウロによる)コリント人への第一の手紙:第2章9節

「書き記されているとおり,「目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心にまだ思い浮かばず,神がご自分を愛する人々のために準備された」ことを私たちは告げるのである.…」


旧約聖書・イザヤの書:第64章3節(1-2節から4節まで記載)

「(水が,火でつきはてるように,火は敵を滅ぼし尽くすがよい.そして,敵の間にみ名は知られ,もろもろの民はみ前でおののくのだ.私たちの思いもよらぬ恐ろしいことを主は果たされた.)そのことについては,昔から話を聞いたこともない.あなた以外の神が,自分によりたのむ者のために,これほどのことをされたと,耳に聞いたこともなく,目で見たこともない.(主は正義を行い,道を思い出す人々を迎えられる.)」

2010年8月1日日曜日

協議の有益性 その2

エレイソン・コメンツ 第159回 (2010年7月31日)

「エレイソン・コメンツ(EC)」の筆者が3週間前(EC第156回で),現在ローマ教皇庁と聖ピオ十世会との間で行われている教理上の論議(=協議)を支持するデ・ガラレタ司教の論点を引用したのは,何らかの圧力を受けてのことではないかと案じた読者の方々がおられました.圧力は一切なかったというのがその答えです.ではEC筆者の頭が柔軟に変わったのでしょうか?その答えは,何も変わっていない,ということです.

読者のご不審の理由は当然のことながら,筆者が「EC」の中で,油と水を混ぜることは不可能であることを根拠として,ローマ教皇庁と聖ピオ十世会の協議が合意に至る望みはほとんどないと再三主張してきたからです.油と水が入った瓶(びん)を激しく振れば,瓶を振り続けている間は混ざり合っていても,振るのを止めたとたんに,両者はまた分離してしまいます.それは水と油が混ざり合わない性質で出来ているからです.油は水より軽いので,必ず水の上に浮いてしまいます.

それと同じ性質上の違いから,真のカトリック教会における神授の教義と新近代主義(=ネオ・モダニズム)による人間中心の教義を混ぜ合わせることはできても,融合させることは不可能です.第二バチカン公会議の「文字」すなわち諸文書は両者を混ぜ合わせましたが,その最高傑作ともいえる,例えば信教の自由に関する「信教の自由に関する宣言」(訳注・ラテン語原文“Dignitatis Humanae”,英語で “Declaration on Religious Freedom” )でさえ,両者を融合させることはできませんでした.公会議後の影響は,その「精神」にしたがって,このことを実証しています.その「公会議精神」は依然としてカトリック教会を分裂させています.教皇ベネディクト16世の「(聖書)解釈学的継続性」とは,両者を激しく,というより決然としてというべきでしょうか,混ぜ合わせ続けるための処方箋なのです.だが神の宗教と人間の宗教は依然として混ぜても溶け合うことはないのです.両者はいつまで経ってもバラバラに飛び散ったままです.

では「EC」の筆者がローマ教皇庁と聖ピオ十世会の協議に賛同するデ・ガラレタ司教を引用したのはなぜでしょうか?二つ理由があります.まず第一に,司教は自らの論議のどの部分においても - 彼の主張を注意深く読んでみてください - 油と水を融合できると期待しても願ってもいません.むしろ逆です.司教は来年の春までに協議が終わることを期待すると述べていますが,このことは,瓶を振り続ければ油と水がいずれは融合するのではないかとの期待を人の心に助長させかねないことに特に配慮し,いつまでも瓶を振り続けるべきではないと明確に示唆(しさ)したものです.第二に,司教の主張は全般にわたって,同協議がもたらすいくつかの副作用に言及しています.これは,協議がもたらす両者間の接触が不凍液の役割を果たすことを言っているのです.すなわち,聖ピオ十世会の凍結を望むローマ教皇庁とローマ教皇庁の凍結を望む聖ピオ十世会の双方のラジエータ(冷却器)が凍結するのを防ぐ不凍液とういう意味です.

エレイソン・コメンツの筆者は,聖ピオ十世会が,明日のローマ教皇庁がカトリック信徒としての良識に復帰してくるだろうその時まで,カトリック信仰の保証を今日のローマ教皇庁から護衛するという神意の使命を怠(おこた)るに至るような問題が起きない限りは,ローマ教皇庁と聖ピオ十世会の接触は普遍教会(訳注後記)にとって有益だという点でデ・ガラレタ司教と一致することを光栄に思います.私たちの主は仰せられます.「天地は過ぎ去るが,しかし私のことばは過ぎ去らぬ」(新約聖書・ルカによる福音書:第21章33節).神は聖ピオ十世会が,神である油と人間である水を混ぜようとするローマ公会議体制に参加することを絶対に禁じておられるのです!

神の御母よ,私たちが使命に忠実であり続けられるようお守りください!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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(最後のパラグラフの訳注)

「普遍教会」…原英文 “Universal Church”.“Church”(=カトリック教会)と同意義.

神の御子イエズス・キリストは,使徒ペトロを地上におけるキリストの教会の牧者(代理者)として任命し教会の全権を委ねられた.それにより使徒ペトロは初代のローマ司教(=ローマ教皇)となり,いらい歴代のローマ司教によりその座(「ローマ聖座」“Holy See” )は継承され現ローマ教皇ベネディクト16世に至っている.このように,ローマ教皇の権威は「天地の創造主,全能の父である神」(使徒信経より)の御意思に基づいたものである.

“Church” の定義は,①唯一の②聖なる③普遍(公)の④使徒的(使徒継承の)教会( “…unam, sanctam, catholicam et apostolicam Ecclesiam”〈ラテン語の使徒信経「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」より抜粋〉)である.

神はこのようにして,神を信じる人々に対し,互いに欠点のある不完全な存在ではあっても,御子イエズス・キリストの愛をもとにして一致するということを命じておられる.(「私(キリスト)は新しいおきてを与える.あなたたちは互いに愛し合え.私があなたたちを愛したように,あなたたちも互いに愛し合え.互いに愛し合うなら,それによって人はみな,あなたたちが私の弟子であることを認めるだろう.」〈新約聖書・ヨハネによる福音書:第13章34,35節〉)

イエズス・キリストにおける唯一の真の神を信じる信徒たちは本来,キリストの命じられた隣人愛(=キリストのように,人のために自分を犠牲にする愛)のおきてに従い,その愛において上述のようにキリストの代理者たるローマ教皇の下に「一つの群れ」(すなわち一人の牧者と一つの羊の群れ)たるべきであり,かくあるべき信徒たちの総体を “Church” すなわち「カトリック教会」と呼ぶ.