2010年8月24日火曜日

協議の盲点

エレイソン・コメンツ 第162回 (2010年8月21日)

ローマ教皇庁と聖ピオ十世会の間で行われている協議(訳注・「教理上の論議」“Doctrinal Discussions” を指す)は双方どちらの話を聞いても,教理上の理由から行き詰っていますが,フランスやドイツから入ってくる情報とローマから流れてくる噂を考え合わせると,カトリック教徒は危険に直面していると言わざるを得ません.その危険とは,協議を行き詰らせている教理上の閉塞状況をあっさりと迂回するある種の政治的取引です.

数週間前,フランス,ドイツからの報告で私は,聖ピオ十世会のミサに与(あずか)るカトリック教徒の多くがローマ教皇庁と聖ピオ十世会の協議から何らかの合意が得られることをひたすら待望していると聞かされました.もし - 繰り返しますが,もし - これが事実だとすれば,それは大変深刻な問題です.そのようなカトリック教徒は,ローマ教皇庁らしきものから絶縁されたくないという点については満点を得られるかもしれません.だが,この協議があくまで教理上の論議である限り,第二バチカン公会議下のネオ・モダニスト(新現代主義者)の教えが真の教会(訳注・“Church”.カトリック教会を指す)のカトリック教義と調和しえないことを理解していない,という点については落第点しか取れません.そのようなカトリック教徒は,ルフェーブル大司教の人となりを見て,彼を尊敬し敬愛するかもしれませんが,大司教にとって最も大切なことについてはまるで理解していません.彼らカトリック教徒は,まず自分たちがローマ教皇庁のネオ・モダニストの術中に陥っているのではないかと目覚めるべきです.

教義をさて置く合意とは,宗教より政治を優先すること,真理より(人間の間の意見や利害の)一致を優先すること,神より人間を優位に置くことを意味します.人間より神を優位に置くことは,一致より真理,政治より宗教を優先し,教義が他のいかなる非教義的合意より重要であることを意味します.夢想家たちだけが,ローマ教皇庁と聖ピオ十世会の協議が行き詰まることを見越せなかったにすぎません.この協議から何らかの非教義的合意が生まれることを願い得るのは政治屋たちだけです.

悲しいかな,外から見る限りでは,教皇ベネディクト16世はカトリック信仰の唯一の真の教義への信仰を問わず,あらゆる人々を第二バチカン公会議の “Newchurch” (訳注・第二バチカン公会議体制下の新教会のこと)の懐の下に一体化するのが正しいと心から信じているようです.したがって,教皇は聖ピオ十世会をも取り込みたいと心から願っています.普通なら教皇もこの先それほど長くは生き続けられないでしょう!ですから,彼は教理上の論議の閉塞状況を必要以上に心配することもないわけです.彼は聖ピオ十世会を他の “Newchurch” の構成員と合体させる政治的合意を聖ピオ十世会との間で取り付けようと目指しているに違いありません.このことが意味するのは次のようなことです.教皇は聖ピオ十世会に過度の要求を出さないでしょう.もしそうすれば,聖ピオ十世会は政治的合意を拒否するでしょうから.同じように教皇は聖ピオ十世会への要求を過小にとどめないでしょう.なぜなら,その場合,“Newchurch” の残りの者たちが抗議して決起するからです.

ローマからの噂は,まさしく教皇が「モトゥ・プロプリオ」(訳注・“Motu Proprio”「自発教令」)を念頭に置いているというものです.この自発教令とは,聖ピオ十世会が第二バチカン公会議もしくは同公会議下の新典礼(新しいミサ “New Mass” )を明確に受け入れる必要はないが,ただ,たとえば,静かな目立たない方法であっても実質的にモダニスト(現代主義的)である教皇ヨハネ・パウロ2世が1992年に発表した「カトリック教会のカテキズム(公教要理)」を受け入れさえすれば,今回に限り聖ピオ十世会の「教会(現ローマ教皇庁体制のカトリック教会)復帰」を認めることを意味するものです.このやり方だと,聖ピオ十世会が,その信奉者の目に,同公会議やその新典礼を受け入れたかのように映ることはないでしょう.しかしそのやり方により,聖ピオ十世会は静かに,静かに,ネオ・モダニズムの本質に同調し始めることになるでしょう.

こうして,すべての統一追求者は満足するでしょう.だが,カトリック教義の信者だけは満足することはないでしょう.

危険なことです!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教