2012年4月29日日曜日

250 「啓蒙主義」のもたらした暗闇 4/28

エレイソン・コメンツ 第250回 (2012年4月28日)

聖ピオ十世会が最終的に教理上の不一致を無視し,ローマ(教皇庁)の第二バチカン公会議主義下の教会当局と純粋に実務的な合意に入ることになるかどうかは別にして,自らの霊魂のとこしえの幸福(=永遠の幸福・永福)を案じる者たちはみな事の核心が一体何なのかをできるかぎり完全に理解しなければなりません.これに関して私の一友人が問題の本質を驚くほど的確に分析して知らせてくれました.以下にご紹介します:--

「2009年から2011年までバチカンの専門家たちと聖ピオ十世会の四人の神学者がいわゆる「教理上の論議」( “Doctrinal Discussions” )を行いました.この論議でローマの当局者たちが第二バチカン公会議の数々の教えにいかに固く執着(しゅうちゃく)しているかがはっきりしました.同公会議はカトリックの教理を18世紀の「啓蒙主義(けいもうしゅぎ)」( “the Enlightenment” )から発展した人間の概念(がいねん)と調和させようと試みました.

このため同公会議は人間の尊厳を理由に( “…by reason of the dignity of his nature…” )人は誰しも自分が選んだ宗教を実践(じっせん,=信奉〈しんぽう〉)する権利を持つと宣言します.したがって社会は宗教の自由を擁護(ようご)し,各種宗教間の共存(きょうぞん)を図(はか)らなければなりません.諸々の宗教はすべて自ら信じる真実の道を持つわけですから,教会一致運動の対話( “ecumenical dialogue” )に参加するよう招(まね)かれます.

実質的には,こうした原則はキリストが真実の神であること( “…that Christ is truly God” )を否定し,またカトリック教会が守る信仰の遺産(=聖書と聖なる伝承)たるキリストの啓示( “Revelation” )は,あらゆる人々,あらゆる社会が受け入れなければならないとする教えをもともに否定(ひてい)します.かくして,同公会議公文書「信教の自由に関する宣言・第2項」( “Dignitatis Humanae #2” )に明記される宗教の自由( “religious liberty” )は, 回勅(かいちょく) “Mirari Vos” (ミラリ・ヴォス)にある教皇グレゴリウス16世( “Gregory XVI” )の教え, 回勅 “Quanta Cura” (クアンタ・クーラ)にある教皇ピウス9世( “Pius IX” )の教え, 回勅 “Immortale Dei” (インモルターレ・デイ)にある教皇レオ13世( “Leo XIII” )の教え, そして回勅 “Quas Primas” (クアス・プリマス)にあるピウス11世( “Pius XI” )の教えにすべて反します.神の摂理(せつり)は非カトリック宗派をも救いの手段として用いるとする同公会議文書「教会(教義)憲章」第8項( “Lumen Gentium #8” )は 回勅 “Syllabus” (シラブス,訳注〈=Syllabus Errorum〉)にあるピウス9世( “Pius IX” )の教え, 回勅 “Satis Cognitum” (サティス・コニトゥム) にあるレオ13世の教え, 回勅 “Mortalium Animos” (モルタリウム・アニモス)にあるピウス11世の教えと相矛盾します.

ここに述べた同公会議による諸々の新しい教理は,公会議以前の歴代の教皇たちによる公式かつ全員一致の諸々の教えと矛盾(むじゅん)するようなそれ以外の諸々の教理とならび同様に矛盾するものであり,カトリック教の教義に照らして異端(いたん)としてしか認めようがありません( “…can only be qualified in the light of Catholic dogma as heretical.” ).

それ以来カトリック教会のまとまり(=一致結束, “the unity of the Church” )は(カトリック)信仰の完全無欠性( “the integrity of the Faith” )にかかっているわけですから,聖ピオ十世会がそのような(異端たる)教理を守る人たちと――たとえ「実務的」にしても――合意に達することなどできないことは明白です.」

私の友人は「啓蒙主義」( “Enlightenment” )として知られる18世紀の知的解放運動( “intellectual emancipation” )が20世紀の聖職者たちの堕落(だらく)の根底にあると非難していますが,この点はルフェーブル大司教( “Archbishop Lefebvre” )が1991年の逝去(せいきょ)の半年前に彼を慕(した)う司祭たちに語ったことと本質的に同じです.大司教は「第二バチカン公会議の諸文書を分析すればするほど,何が問題なのかがますますはっきり実感できます…それは精神の完全な逸脱(いつだつ)であり,現代哲学,主観主義に根差(ねざ)したまったく新しい哲学です…これはキリストによる真の神の啓示,カトリック信仰,哲学とまったく似て非なる型の見解に拠(よ)ったものです…実に恐ろしいことです.」と言われました.( “…The more one analyzes the documents of Vatican II... the more one realizes that what is at stake is... a wholesale perversion of the mind, a whole new philosophy based on modern philosophy, on subjectivism... It is a wholly different version of Revelation, of Faith, of philosophy... It is truly frightening.” )

それでは私たちは神の真実に従(したが)いどうやって心を取り戻せばいいのでしょうか?( “ So how does one get one’s mind back in subjection to God’s reality ?” )ひとつの方法は私の友人が上で述べた歴代教皇の回勅を手にいれ,それについて学ぶことです ( “One way might be to get hold of the papal Encyclicals mentioned by my friend above, and study them.” ).回勅は司教たちに向けて書かれたものです.だが,第二バチカン公会議派の司教たちはあてにできません ( “They were written for bishops, but Conciliar bishops are not reliable.” ).今日の信徒たちは自身の人間形成――そして自身のロザリオを自らコントロールしなければなりません ( “Today’s laity must take in hand their own formation – and their own Rosary.” ).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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2012年4月23日月曜日

249 教皇ベネディクト16世のエキュメニズム(世界教会主義)-3- 4/21

エレイソン・コメンツ 第249回 (2012年4月21日)

二週間前の「エレイソン・コメンツ」で,イエズス・キリストの教会,すなわちカトリック教会を( “…the Church of Jesus Christ, which is the Catholic Church.” ),大いに壊(こわ)してしまった第二バチカン公会議の諸文書(=公文書)から三つの引用を取り出し検討するとお約束しました.そして,一週間前,公会議の諸文書(=テキスト, “the texts of Vatican II” )は意味が曖昧(あいまい)なので誤解(ごかい)が生(しょう)じないよう常に正(ただ)し続けなければならないと指摘しました.同会議の文書は二通りの意味を持つ場合が多いのですが,罪がなく(=邪悪でなく)正しいのはそのうちの一つだけです.もう一方の意味は,過去40年が証明している通りカトリック教会にとってきわめて有害です.

最初の引用は「教会憲章」第8項 “Lumen Gentium #8” からです.以下がその文章です: そこには「キリストの唯一の教会は…世界の中の一つの社会として構成・組織されたもので,カトリック教会の中に存在し”,ペトロおよび彼と一体の司教たちによって統治される」とあります( “The one Church of Christ...constituted and organized in the world as a society, subsists in the Catholic Church, which is governed by Peter and the bishops in communion with him.” ).「存在し “subsists” 」という言葉はここではどういう意味をもつのでしょうか? 第二バチカン公会議前まで教会が説いてきたように,キリストの教会は主としてかつ唯一ローマ・カトリック教会内にだけ存在すると解釈できますが,それとは別に,主としてカトリック教会内に存在するがそこだけではない,つまり,カトリック教会の外(そと,ほか)にも一部存在するとも解釈できるわけで,この点が曖昧です( “The ambiguity is that it can mean either that Christ’s Church exists mainly and only in the Roman Catholic Church, which is what the Church always taught up to Vatican II, or it can mean that Christ’s Church exists mainly but not only in the Catholic Church, in which case Christ’s Church also exists partly outside the Catholic Church.” ).これが公会議のいうエキュメニズムに門戸(もんこ)を開き,カトリック教会だけが救いの箱舟であるとする教義上の主張すなわち, “Extra ecclesiam nulla salus” (教会の外に救いはない)との(カトリック教会の教義上の)主張を台無しにしています( “This opens the door to the Conciliar ecumenism which breaks down the Catholic Church’s dogmatic claim to be the exclusive ark of salvation: “Extra ecclesiam nulla salus.” ).

ここで問題となるのは,カトリック教会は唯一の存在であるというのが教会教義の一つでもある点です( “…it is also a dogma that the Church is one.” ).毎週の主日ミサ聖祭で私たちは「唯一(ゆいいつ,ただひとつ)の,聖なる,普遍(ふへん,公〈おおやけ〉)的かつ使徒継承の教会」( “one, holy, catholic and apostolic Church” )を信じると聞いたり歌ったりします.それならばキリストの教会を多かれ少なかれ教会もどきのいくつかの組織にどうやって分割できるでしょうか? 教会が唯一の存在だとすれば,それがいくつか存在するなどありえません.いくつか存在するとすれば,それは唯一の存在たりえません.ヴォルフガング・シューラー博士 “Dr. Wolfgang Schüler” は著書「ベネディクト16世と(カトリック)教会の自己認識」( “Benedict XVI and How the Church Views Itself” )の中で,ヨゼフ・ラッツィンガー “Joseph Ratzinger” の一連の言葉を引用しながら,彼が一神学者 “a theologian” としていかにカトリック教会の排他性 “exclusivity” の排除を熱心に押し進めたかを示しています.だが,彼は枢機卿,教皇になると一転して教会が一つであること(教会の唯一性, “the Church’s oneness” )をもまた維持しようと奮闘(ふんとう)しています.

第2の引用は「エキュメニズムに関する教令」第3項( “Unitatis Redintegratio #3” )からです.ここには「教会自体を作り上げそれに命を与える諸々の要素や素質の多くはカトリック教会の目に見える境界線外にも存在しうる」と書いてあります( “Very many of the significant elements and endowments which together go to build up and give life to the Church itself, can exist outside the visible boundaries of the Catholic Church.” ).これが意味するところは明らかに,山積みの金貨から取り出した個々の金貨が金貨であると同じように,第二バチカン公会議が列挙(れっきょ)する「信仰,希望,慈悲やその他の聖霊の賜物」といった教会の諸要素はカトリック教会の外にも存在すると認識できるということでしょう.だが,私たちの主イエズス・キリストは自らの葡萄(ぶどう)の木から切り取られた枝は枯(か)れて死ぬ(ヨハネ聖福音書15・6)と言われました.葡萄の木が主の教会でなければほかの何でしょうか?( “What is his vine if not his Church ?” )(訳注後記)

第3の引用は理論的結論を引き出すものです.同じ公文書( U.R. #3 )の後段に「(カトリック教会)から離れた諸々の教会・団体はけっして救いの神秘における意義と重要性を失ってはいない.なぜならキリストの霊 “the Spirit of Christ” はそうした教会・団体を救いの諸手段として用(もち)いるのを手控(てびか)えていないから…」とあります( “The churches and communities separated (from the Catholic Church) have been by no means deprived of significance and importance in the mystery of salvation. For the Spirit of Christ has not refrained from using them as means of salvation...” ).しかし,ルフェーブル大司教 “Archbishop Lefebvre” がかつて言われたとおりたるべきです.すなわち:「いかなる団体もカトリック教会から分離したからには,分離自体が聖霊( “the Holy Ghost” )への抵抗を意味するのだから聖霊の助力を享受(きょうじゅ)することはもはやできない.聖霊は分離のそぶりを見せない霊魂たちや諸手段に対してのみ直(じか)に働きかけその霊験(れいげん)を示すことができるのである.」( “But as Archbishop Lefebvre said: ”No community insofar as it is separated from the Catholic Church can enjoy the support of the Holy Ghost since its separation means resistance to the Holy Ghost. He can work directly only on souls, he can use directly only means, that show no sign of separation.” )

第二バチカン公会議は教会を本質的に誤(あやま)って理解しました.次回はシューラー博士の助けを借りて,教皇ベネディクト16世がいかにその誤った理解にブレーキアクセルの両方を適用しそれらを踏(ふ)んできたかを見ましょう.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第4パラグラフの訳注:

新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第15章6節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN, XV, 6


『私にとどまらぬ者は枝のように外に投げ捨てられ,枯れ果ててしまい,人々に拾い集められ,火に投げ入れられ,焼かれてしまう.』

"If any one abide not in me, he shall be cast forth as a branch and shall wither: and they shall gather him up and cast him into the fire: and he burneth".

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2012年4月22日日曜日

248 公会議の曖昧さ 4/14

エレイソン・コメンツ 第248回 (2012年4月14日)

強くて装備十分な歩兵が敵を追尾しているうちに泥沼(どろぬま)に足を踏み入れた場面を想像してみてください.真実(=真理)で身を固めた勇敢なカトリック信徒が第二バチカン公会議の諸文書を敢(あ)えて批判しようとするとまさに同じ状態にはまります.同会議の文書は曖昧(あいまい)さに満ちた泥沼で ( “quicksand of ambiguity” ),意図的(いとてき)にそのように書かれています.仮に文書が人間の宗教( “religion of man” )をあからさまに押し進めるものだったとしたら,当公会議を構成する神父たち(“the Council Fathers” ,=公会議教父たち)は恐ろしさのあまりその受け入れを拒んだでしょう.だが,新しい宗教は反対者の解釈も受け入れうるように書かれた文書で巧みに偽装されました( “…the new religion was skilfully disguised by the documents being so drawn up that they are open to opposite interpretations.” ).それを示す明快かつ重要な例を見てみましょう.

教皇ヨハネ・パウロ2世が1988年にルフェーブル大司教 “Archbishop Lefebvre” を非難する際に用いたカトリックの伝統に関するテキストは以下の「神の啓示に関する教義憲章」( “Dei Verbum” )第8項から由来しています.「A:伝統 “Tradition” …は聖霊の助力により(カトリック)教会内の使徒たちや諸々(もろもろ)の進歩から生まれる.B:そこでは諸々の現実や伝えられた諸々の言葉を見抜(みぬ)く能力(=洞察力)における成長( “…a growth in insight into the realities and words” )が存在している.この成長はさまざまな形で引き起こされる.C:それ(成長)はそうした物事を心の中で考える信者たちの沈思(ちんし),学習を通じてもたらされる.D:それは信者たちが経験する諸々の霊的現実を深く実感することから生まれる.E:そしてその成長は使徒職を引き継ぐ権利とともに,確かな真理のカリスマを受けた者たちによる説教から生まれる.」

ところで,真のカトリックの伝統( “true Catholic Tradition” )は徹底的に客観的なもの( “…is radically objective” )です.常識が真実 “reality” は客観的なものであり,あらゆる物事は私たちの外部に存在し如何(いか)なる主体とも無縁のものであると言うように,真の教会( “the true Church” )はカトリックの伝統( “Catholic Tradition”.訳注・Catholic=universal,公,普遍)は神から来たもの,神の創造によるものであり “…came from God, and is what he made it,…”,いかなる人間もそれをほんのわずかすらも変えることはできない “…so that no human being can in the least little bit change it.” と教えます.したがって,上に引用したテキストのカトリック的解釈は次のようになります:「A:時の経過とともにカトリック信徒たちが(カトリック)信仰の不変の諸真実 “the unchanging truths of the Faith” をどう理解するかに進歩がある.B:カトリック信徒たちはこれらの諸真実をますます深く理解(考察)することができるようになるが,それは C:それら諸真実を熟考し学習することにより,D:それら諸真実にますます深く突き進むことにより,かつE:その同じ諸真実に関する諸々(もろもろ)の新しい(=新鮮な)側面を説教する司教たちの助けにより( “by the bishops” ),なされる.」 この解釈は完全にカトリック的なものです.なぜならあらゆる変化を時の流れにつれて変わる人間に置いており,信仰の鉱脈( 訳注・(=信仰の遺産) “Deposit of Faith” .「聖書とカトリック聖伝〈=聖なる伝承〉」を指す )すなわち伝統( “Tradition” )を形成する諸真実を少しも変えていないからです.( “This interpretation is perfectly Catholic because all the change is placed in the people who do change down the ages, while no change is placed in the truths revealed that make up the Deposit of Faith, or Tradition.” )

だがここで次に,「神の啓示に関する教義憲章」( “Dei Verbum” )の同じ文言が客観的ではなく,主観的に( “…not objectively, but subjectively,” )解釈され,真実の内容が主観的なカトリック信徒( “the subjective Catholics” )しだいでどのように変えられるかを見てみましょう.「A:カトリックの真実( “Catholic truth” )は時の流れとともに生き,かつ成長する,なぜならB:(現在)生きているカトリック信徒は過去のカトリック信徒が決して持たなかった諸々の洞察力(どうさつりょく)を持っているから,C:彼らは心の中に,自らの内部に,新しく成長した諸真実を見出す,D:すなわち彼らは自分に内在する霊的経験の果実を見出す,そしてまたE:カトリックの真実は司教たちがこれまで未知だったことを説くたびに成長する.なぜなら司教たちは真実でないことを話すはずがないのだから(!)( “…because bishops can tell no untruth (!).” ).」(言い方を変えれば,あなたを気分よくする宗教を持ちなさい.ただし,必ず私たちモダニスト(=現代主義者)に「献金し,祈り,従いなさい」 ( “…but make sure that you “pay, pray and obey” us modernists.” )というわけです.)

ここに大きな問題があります:すなわち,もし誰かが上に引用した「神の啓示に関する教義憲章」( “Dei Verbum” )のテキストをモダニズムを助長するものだと非難するとすれば,(信仰心のない聖職者たちへの信頼以外にほとんど保守しない)「保守的 “conservative” 」カトリック信徒たちは即座にテキストの本当の意味は最初に示した伝統的な意味( “the Traditional meaning” )だと応(こた)えるでしょう.しかしながら,前教皇ヨハネ・パウロ2世が “Ecclesia Dei Adflicta” (の中でこのテキストを用いてルフェーブル大司教を,そして1988年の司教叙階を非難したとき,教皇はテキストをモダニスト的意味あいで解釈したのは明白です(訳注後記).そのような諸々の行為はいかなる言葉よりはるかに多くを語ります.

親愛なる読者の皆さま,あの哀(あわ)れな公会議( “wretched Council” )の不快な曖昧さが分かるまでこのテキスト自体を繰り返しお読みくださり,そしてその二通(ふたとお)りの解釈( “the two interpretations” )をも繰り返しお読みください.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第5パラグラフの訳注:
Ecclesia Dei Adflicta” について.

・教皇ヨハネ・パウロ2世が,1988年7月2日当時,発表した自発教令( “motu proprio” ).

・自発教令=教皇自身が自発的に発令する教令.

バチカン(ローマ教皇庁=ROMAN CURIA)の公式ウェブサイトより:

・APOSTOLIC LETTER /
"ECCLESIA DEI"
/ OF THE SUPREME PONTIFF 
JOHN PAUL II
/ GIVEN MOTU PROPRIO (英語)

“With great affliction the Church has learned of the unlawful episcopal ordination conferred on 30 June last by Archbishop Marcel Lefebvre, which has frustrated all the efforts made during the previous years to ensure the full communion with the Church of the Priestly Fraternity of St. Pius X founded by the same Mons. Lefebvre. … ”

IOANNIS PAULI II 
SUMMI PONTIFICIS / ECCLESIA DEI / LITTERAE APOSTOLICAE /
MOTU PROPRIO DATAE (ラテン語)

ECCLESIA DEI adflicta illegitimam cognovit episcopalem ordinationem ab Archiepiscopo Marcello Lefebvre die tricesimo mensis Iunii collatam, unde ad nihilum sunt omnes conatus redacti horum superiorum annorum ut nempe in tuto collocaretur ipsa cum Ecclesia communio Fraternitatis Sacerdotalis a Sancto Pio Decimo quam idem condidit Reverendissimus Dominus Lefebvre. … ”

(直訳)神の教会(は苦痛とともに…)

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2012年4月11日水曜日

247 教皇ベネディクト16世のエキュメニズム(世界教会主義) -2- (4/7)

エレイソン・コメンツ 第247回 (2012年4月7日)

第二バチカン公会議の恐るべき曖昧性(あいまいせい)に関するいかなる論議についても言えることですが,ヴォルフガング・シューラー博士 “Dr. Wolfgang Schüler” が2008年の著書「ベネディクト16世と(カトリック)教会の自己認識」 “Benedict XVI and How the Church Views Itself” の中で述べられている内容の当否を論じるには長文の学術論文が必要かもしれません.だが,シューラー博士の主な論点はきわめて明快です.第二バチカン公会議をめぐる混迷が続く中,「エレイソン・コメンツ」の読者の皆さまがその内容に接し正しく理解する価値は十分にあると考えます.

物事はたいてい全体と部分から成り立ちますが,その構成の仕組みは例えば一本の樹木(きき)とか積み重ねた硬貨といったように二つの異なる方法に分けて考えることができます.樹木では全体が主要で部分は第2次的です.積み上げた硬貨の場合,部分が主要で全体はさほど重要ではありません.樹木の場合なぜ全体が主要かといえば,枝(えだ)のような部分を切り取っても木はいぜん生き続け新しい枝を生みます.ところが切り取られた枝は生命を失(うしな)い,材木(ざいもく)とか椅子(いす)などといったまったく異なったものに姿(すがた)を変えます.反対に,積み上げた硬貨の中から取り出された個々の硬貨は依然として積み重ねの中にあった硬貨の価値を持ち続けます.何枚も取り出せば,失われるのは硬貨の山であって硬貨の価値そのものではありません.

さて,このことをカトリック教会に当てはめてみます.教会を全体とした場合,それは樹木に当たるのでしょうか,それとも積み上げた硬貨の山にあたるのでしょうか? カトリック教会は三つのもの,すなわち信仰,諸々の秘蹟,ローマの階層(かいそう,=階級)制度によって結ばれた人たちが構成する特別な社会です.この三つの生命はいずれも神ご自身がお与えになったものです.信仰は心の超自然的な徳であり,神だけが与えうるものです.秘蹟には水や油のような物質的要素を用いますが,それを秘跡たらしめるものはそれに込められた超自然的恩寵(おんちょう) “supernatural grace” であり,これも神だけが与えうるものです.同じように階層は自然界の人間から成り立つものですが,それを成す個々は神の導(みちび)きなしには人の霊魂を天国に導くことなど決してできません.

したがって,カトリック教会は,たとえ金貨であっても積み上げた硬貨というより生きている樹木に例(たと)えるべきものです.なぜなら,生命を宿(やど)すあらゆる有機体(ゆうきたい)がそれに存在を与える生命の原理を自らの中に持ち備えているように,カトリック教会は先(ま)ず第1義的に神ご自身を持ち,第2義的に神から与えられた階層を持つことによってその存在と結束(けっそく)を保っているからです.教会の部分を構成するものが分裂により階層から離れたり,異端により信仰から離れたりすれば,その部分はカトリックでなくなり,分離派のギリシア正教や異端のプロテスタント教のように別物(べつもの)になってしまいます.ギリシア正教の信者たちが有効な秘蹟を保持してきたのは事実かもしれませんが,ローマにおける神の代理人 “Christ's Vicar in Rome” との結びつきを絶っている以上,正しい心の持ち主なら誰でも彼らをカトリック教徒とは呼ばないでしょう.

本題の第二バチカン公会議に触れます.同公会議は上述(じょうじゅつ)の比喩(ひゆ)によれば,教会の見方を樹木もしくは葡萄(ぶどう)の木(私たちの主ご自身が用〈もち〉いられた比喩:(新約聖書)ヨハネによる聖福音書・第15章1-6節)から積み上げた金貨に変えました.教会を現代世界に開放したいとの願望から,公会議派の聖職者たちは先ず手始めにカトリック教の境界線を曖昧にしました( L.G. 8 ).そうすることで,彼らはカトリック教会の目に見える境界線の外にも,例えば山積みから取り出された金貨のようなカトリック教会的要素が存在すると振舞(ふるま)うようになりました( U.R. 3 ).そして彼らはさらに,金貨は取り出されても金貨なのだからとの論法(ろんぽう)から,カトリック教会内の救いの要素 “elements of salvation” は教会の外にあっても変わらないと取り繕(つくろ)うようになりました( U.R. 3 ).無数の人々がこの考え方から引き出した当然の結論は「私は天国にたどり着くためにカトリック信者で居続(いつづ)ける必要はない」というものです.これこそが,第二バチカン公会議のいうエキュメニズム(世界教会主義)から生まれる災難(さいなん)です.

私たちは,教皇ベネディクト16世が教会を二分(にぶん)するエキュメニズムと教会を統一するカトリック教理とを結び付けようと努力されていることに話を転(てん)じる前に,上に触れた第二バチカン公会議の諸文書をもう少し詳(くわ)しく検討(けんとう)する必要があります.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第5パラグラフの訳注:
新約聖書・ ヨハネによる聖福音書:第15章1-6節 (太字部分)(15章全章を掲載いたします).
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN XV, 1-6 (XV, 1-27)

ぶどうの木と枝
『「私はほんとうのぶどうの木で,私の父は栽培する者である.*¹父は私にあって実を結ばぬ枝をすべて切り取り,実を結ぶ枝をすべて,もっと豊かに結ばせるために刈り込まれる.あなたたちは,私の語ったことばを聞いたことによってすでに刈り込まれた者である.

*²私にとどまれ,私があなたたちにとどまっているように.木にとどまらぬ枝は自分で実を結べぬが,あなたたちも私にとどまらぬならそれと同じである.
私はぶどうの木で,あなたたちは枝である.私がその人の内にいるように私にとどまる者は多くの実を結ぶ.私がいないとあなたたちには何一つできぬからである.
私にとどまらぬ者は枝のように外に投げ捨てられ、枯れ果ててしまい,人々に拾い集められ,火に投げ入れられ,焼かれてしまう


あなたたちが私にとどまり,私のことばがあなたたちにとどまっているなら,あなたたちは望みのままにすべてを願え.そうすればかなえられるだろう.*³あなたたちが多くの実をつけることは,私の父の光栄であり,そして,あなたたちは私の弟子になる.
父が私を愛されるように私はあなたたちを愛した.私の愛にとどまれ.私が父のおきてを守り,その愛にとどまったように,私のおきてを守るなら,あなたたちは私の愛にとどまるだろう.
私がこう話したのは,*⁴私の喜びがあなたたちにあり,あなたたちに完全な喜びを受けさせるためである.』

まことの愛
『私が愛したようにあなたたちが互いに愛し合うこと,これが私のおきてである.
友人のために命を与える以上の大きな愛はない.
私の命じることを守れば私の友人である.これからもう私はあなたたちをしもべとは言わない.しもべは主人のしていることを知らぬものである.私は父から聞いたことをみな知らせたから,あなたたちを友人と呼ぶ.
あなたたちが私を選んだのではなく,私があなたたちを選んだ.私があなたたちを立てたのは,あなたたちが行って実を結び,その実を残すためである.私の名によってあなたたちが父に求めるものをすべて父は与えられる.
私があなたたちに命じるのは互いに愛し合うことである.』

世の憎しみ
『*⁵この世があなたたちを憎むとしても,あなたたちより先に私を憎んだことを忘れてはならぬ.
あなたたちがこの世のものなら,この世はあなたたちを自分のものとして愛するだろう.しかしあなたたちはこの世のものではない.私があなたたちを選んでこの世から取り去った.だからこの世はあなたたちを憎む.
〈*⁶奴隷は主人より偉大ではない〉と先に私が言ったことを思い出せ.彼らが私を迫害したなら,あなたたちにも迫害を加えるだろう.彼らが私のことばを守ったなら,あなたたちのことばも守るだろう.しかし彼らは,私を遣わされたお方を知らぬから,私の名のために,あなたたちにそうするだろう.
もし私が来なかったなら,また語らなかったなら,彼らには罪はなかった.しかし今彼らは自分たちの罪の言い逃れができぬ.私を憎む者は私の父をも憎む.
今までだれ一人したことのない業を私が彼らの間で行わなかったなら,彼らには罪がなかった.しかし今彼らは,それを見ながら私たちを,私と私の父を憎んだ.それは〈*⁷彼らは理由なく私を憎んだ〉という律法のことばを実現するためだった.
私が父からあなたたちに送る弁護者,父から出る真理の霊が来るとき,それが私について証明されるであろう.あなたたちも私を証明するだろう.あなたたちは初めから私とともにいたからである」.』

(注釈)

ぶどうの木と枝(15・1-11)
弟子は恩寵によって,イエズス自身の生命に生きる.
神は善業を行わぬ者を捨て,真実に神を愛するものに苦しみと迫害を送ってその愛を清められる

おきてに忠実な実,聖徳の実のことをいう(15・12-17,〈旧約〉イザヤの書5・7,エレミアの書2・21).

霊的な命の泉はイエズスである
信仰と愛をもってイエズスに一致しない人に救いはない.聖霊がなければ,人は永遠の救いを得るに足ることを何もなしえない

*³ 御父は「み子」によって光栄を受けられる(14・13,21・19).

*⁴ 神のみ子,メシアとしての喜び.

まことの愛(15・12-17)

世の憎しみ(15・18-27)
*⁵ 弟子たちの愛に対立するものは,世の憎しみである.弟子たちの生活は,先生と同じ道をたどるであろう.
弟子たちを迫害することによって,世が迫害するのは,イエズス自身である(〈新約〉使徒行録9・5,コロサイ人への手紙1・24).

*⁶ 13・16,マテオ10・24参照.

*⁷ 詩篇25・19参照.

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