2012年4月22日日曜日

248 公会議の曖昧さ 4/14

エレイソン・コメンツ 第248回 (2012年4月14日)

強くて装備十分な歩兵が敵を追尾しているうちに泥沼(どろぬま)に足を踏み入れた場面を想像してみてください.真実(=真理)で身を固めた勇敢なカトリック信徒が第二バチカン公会議の諸文書を敢(あ)えて批判しようとするとまさに同じ状態にはまります.同会議の文書は曖昧(あいまい)さに満ちた泥沼で ( “quicksand of ambiguity” ),意図的(いとてき)にそのように書かれています.仮に文書が人間の宗教( “religion of man” )をあからさまに押し進めるものだったとしたら,当公会議を構成する神父たち(“the Council Fathers” ,=公会議教父たち)は恐ろしさのあまりその受け入れを拒んだでしょう.だが,新しい宗教は反対者の解釈も受け入れうるように書かれた文書で巧みに偽装されました( “…the new religion was skilfully disguised by the documents being so drawn up that they are open to opposite interpretations.” ).それを示す明快かつ重要な例を見てみましょう.

教皇ヨハネ・パウロ2世が1988年にルフェーブル大司教 “Archbishop Lefebvre” を非難する際に用いたカトリックの伝統に関するテキストは以下の「神の啓示に関する教義憲章」( “Dei Verbum” )第8項から由来しています.「A:伝統 “Tradition” …は聖霊の助力により(カトリック)教会内の使徒たちや諸々(もろもろ)の進歩から生まれる.B:そこでは諸々の現実や伝えられた諸々の言葉を見抜(みぬ)く能力(=洞察力)における成長( “…a growth in insight into the realities and words” )が存在している.この成長はさまざまな形で引き起こされる.C:それ(成長)はそうした物事を心の中で考える信者たちの沈思(ちんし),学習を通じてもたらされる.D:それは信者たちが経験する諸々の霊的現実を深く実感することから生まれる.E:そしてその成長は使徒職を引き継ぐ権利とともに,確かな真理のカリスマを受けた者たちによる説教から生まれる.」

ところで,真のカトリックの伝統( “true Catholic Tradition” )は徹底的に客観的なもの( “…is radically objective” )です.常識が真実 “reality” は客観的なものであり,あらゆる物事は私たちの外部に存在し如何(いか)なる主体とも無縁のものであると言うように,真の教会( “the true Church” )はカトリックの伝統( “Catholic Tradition”.訳注・Catholic=universal,公,普遍)は神から来たもの,神の創造によるものであり “…came from God, and is what he made it,…”,いかなる人間もそれをほんのわずかすらも変えることはできない “…so that no human being can in the least little bit change it.” と教えます.したがって,上に引用したテキストのカトリック的解釈は次のようになります:「A:時の経過とともにカトリック信徒たちが(カトリック)信仰の不変の諸真実 “the unchanging truths of the Faith” をどう理解するかに進歩がある.B:カトリック信徒たちはこれらの諸真実をますます深く理解(考察)することができるようになるが,それは C:それら諸真実を熟考し学習することにより,D:それら諸真実にますます深く突き進むことにより,かつE:その同じ諸真実に関する諸々(もろもろ)の新しい(=新鮮な)側面を説教する司教たちの助けにより( “by the bishops” ),なされる.」 この解釈は完全にカトリック的なものです.なぜならあらゆる変化を時の流れにつれて変わる人間に置いており,信仰の鉱脈( 訳注・(=信仰の遺産) “Deposit of Faith” .「聖書とカトリック聖伝〈=聖なる伝承〉」を指す )すなわち伝統( “Tradition” )を形成する諸真実を少しも変えていないからです.( “This interpretation is perfectly Catholic because all the change is placed in the people who do change down the ages, while no change is placed in the truths revealed that make up the Deposit of Faith, or Tradition.” )

だがここで次に,「神の啓示に関する教義憲章」( “Dei Verbum” )の同じ文言が客観的ではなく,主観的に( “…not objectively, but subjectively,” )解釈され,真実の内容が主観的なカトリック信徒( “the subjective Catholics” )しだいでどのように変えられるかを見てみましょう.「A:カトリックの真実( “Catholic truth” )は時の流れとともに生き,かつ成長する,なぜならB:(現在)生きているカトリック信徒は過去のカトリック信徒が決して持たなかった諸々の洞察力(どうさつりょく)を持っているから,C:彼らは心の中に,自らの内部に,新しく成長した諸真実を見出す,D:すなわち彼らは自分に内在する霊的経験の果実を見出す,そしてまたE:カトリックの真実は司教たちがこれまで未知だったことを説くたびに成長する.なぜなら司教たちは真実でないことを話すはずがないのだから(!)( “…because bishops can tell no untruth (!).” ).」(言い方を変えれば,あなたを気分よくする宗教を持ちなさい.ただし,必ず私たちモダニスト(=現代主義者)に「献金し,祈り,従いなさい」 ( “…but make sure that you “pay, pray and obey” us modernists.” )というわけです.)

ここに大きな問題があります:すなわち,もし誰かが上に引用した「神の啓示に関する教義憲章」( “Dei Verbum” )のテキストをモダニズムを助長するものだと非難するとすれば,(信仰心のない聖職者たちへの信頼以外にほとんど保守しない)「保守的 “conservative” 」カトリック信徒たちは即座にテキストの本当の意味は最初に示した伝統的な意味( “the Traditional meaning” )だと応(こた)えるでしょう.しかしながら,前教皇ヨハネ・パウロ2世が “Ecclesia Dei Adflicta” (の中でこのテキストを用いてルフェーブル大司教を,そして1988年の司教叙階を非難したとき,教皇はテキストをモダニスト的意味あいで解釈したのは明白です(訳注後記).そのような諸々の行為はいかなる言葉よりはるかに多くを語ります.

親愛なる読者の皆さま,あの哀(あわ)れな公会議( “wretched Council” )の不快な曖昧さが分かるまでこのテキスト自体を繰り返しお読みくださり,そしてその二通(ふたとお)りの解釈( “the two interpretations” )をも繰り返しお読みください.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第5パラグラフの訳注:
Ecclesia Dei Adflicta” について.

・教皇ヨハネ・パウロ2世が,1988年7月2日当時,発表した自発教令( “motu proprio” ).

・自発教令=教皇自身が自発的に発令する教令.

バチカン(ローマ教皇庁=ROMAN CURIA)の公式ウェブサイトより:

・APOSTOLIC LETTER /
"ECCLESIA DEI"
/ OF THE SUPREME PONTIFF 
JOHN PAUL II
/ GIVEN MOTU PROPRIO (英語)

“With great affliction the Church has learned of the unlawful episcopal ordination conferred on 30 June last by Archbishop Marcel Lefebvre, which has frustrated all the efforts made during the previous years to ensure the full communion with the Church of the Priestly Fraternity of St. Pius X founded by the same Mons. Lefebvre. … ”

IOANNIS PAULI II 
SUMMI PONTIFICIS / ECCLESIA DEI / LITTERAE APOSTOLICAE /
MOTU PROPRIO DATAE (ラテン語)

ECCLESIA DEI adflicta illegitimam cognovit episcopalem ordinationem ab Archiepiscopo Marcello Lefebvre die tricesimo mensis Iunii collatam, unde ad nihilum sunt omnes conatus redacti horum superiorum annorum ut nempe in tuto collocaretur ipsa cum Ecclesia communio Fraternitatis Sacerdotalis a Sancto Pio Decimo quam idem condidit Reverendissimus Dominus Lefebvre. … ”

(直訳)神の教会(は苦痛とともに…)

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