エレイソン・コメンツ 第269回 (2012年9月8日)
4月中旬に聖ピオ十世会からローマ教皇庁に教理に関する機密文書が提出されました.この文書は聖ピオ十世会の当局者全員が同意しうるカトリック教の原則を明示したものだと言われています( "In mid-April there was submitted to Rome on behalf of the Society of St Pius X a confidential document, doctrinal in nature, of which it was said that it laid out Catholic principles that all the SSPX authorities could subscribe to." ).6月中旬,ローマはこの文書を聖ピオ十世会と教皇庁との間の合意のベースとして受け入れることを拒否しました( "In mid-June Rome rejected the document as basis for a Rome-SSPX agreement." ).これは結果として良かったとおもいます.なぜなら,この文書は以下に述べるようにきわめて危険な曖昧(あいまい)さを含んでいたからです.すなわち,手短に言えば,文書の中の「あらゆる時代のカトリック教会の教導権」( "The Magisterium of all time" )という表現が1962年までのものか,それとも2012年までのものを意味するのかが問題です.果たしていずれを意味するのでしょうか? ( "Thank goodness, because it contained a supremely dangerous ambiguity: in brief, does an expression like “The Magisterium of all time” mean up until 1962, or up until 2012 ? " )この違いは神の宗教と現代人によって変えられた神の宗教,すなわち人間の宗教( "the religion of man" )との違いです.以下に聖ピオ十世会当局者が要約した原則をいくつか示します:-- ( "It is all the difference between the religion of God, and the religion of God as changed by modern man, i.e. the religion of man. Here are some of the principles, as summarized for SSPX authorities:-- " )
「(1) 第二バチカン公会議の教えを理解するための基準,指針はカトリック教会の伝統(英語原文= "the Tradition". =「聖なる伝承(でんしょう)」 )でなくてはならない( "“1/ ...Tradition must be the criterion and guide for understanding the teachings of Vatican II." ), (2) したがって,エキュメニズム(=教会統一),宗教間の対話,宗教の自由などについての第二バチカン公会議の諸声明および公会議後のローマ教皇の教えは完全にして中断のないカトリック教会の伝統に照らしてのみ理解しうる( "2/ So the statements of Vatican II and of the post-conciliar papal teaching with regard to ecumenism and interreligious dialogue or religious liberty can only be understood in the light of Tradition complete and uninterrupted, …" ), (3) その理解のし方はカトリック教会の教導権(きょうどうけん)が以前から教えてきた諸々の真実と対立するものであってはならない( "3/ in a manner that does not clash with the truths previously taught by the Church’s Magisterium, …" ), (4) カトリック教会の伝統および教導権に反したり逸脱(いつだつ)するようないかなる解釈も受け入れてはならない… ( "4/ without accepting any interpretation opposed to, or breaking with, Tradition and that Magisterium...”. " )」
1962年か2012年かをめぐる曖昧さは「カトリック教会の伝統」と「カトリック教会の教導権」という言葉に潜在しています( "The 1962 or 2012 ambiguity lurks here in the words “Tradition” and “Magisterium”. " ).いったいこの二つの言葉が使われているのは第二バチカン公会議(1962-1965年)およびその後に出された諸教理を排除するためでしょうか,それともそれらを包含しているのでしょうか( "Are these two words being taken to exclude doctrines of the Council (1962-1965) and its aftermath, or are they including them? " )? カトリック教会の伝統を信奉(しんぽう)する者はだれでも排除すると解釈します.なぜなら,彼らはカトリック教会と新教会( "the Church and the Newchurch" )との間にはとても大きな違いがあることを知っているからです( "Any follower of Tradition will read the passage so as to exclude them, because he knows that there is a huge difference between the Church and the Newchurch." ).だが,第二バチカン公会議の信奉者はだれでも公会議以前のカトリック教会とそれ以後のカトリック教会との間には切れ目のない継続(けいぞく)性があると装(よそお)えるように二つの言葉を解釈するでしょう( "But any believer in Vatican II can so read the passage as to be able to pretend that there is a seamless continuity between the Church before and after the Council." ).カトリック教伝統派と公会議派が問題の個所をそれぞれどのように読むか,もう少し詳しく見てみましょう( "Let us take a closer look at how the Traditionalist and the Conciliarist can each read the passage in his own way." ).
先ず,カトリック教伝統派の読み方です.「(1) 公会議以前のカトリック教会の伝統が公会議の教えの尺度,判断基準でなくてなならない(逆であってはならない)( "Firstly, the Traditional reading:-- “1/ Pre-conciliar Tradition has got to be the measure and judge of Council teachings (and not the other way round). " ),(2) ゆえに,公会議および公会議後の教えは公会議に先立(さきだ)つカトリック教伝統派の教えに従い変更されなければならない( "2/ So Conciliar and post-conciliar teaching must all be sifted according to the whole of Traditional teaching prior to the Council, …" ),(3) 公会議に先立ってカトリック教導権が説いてきたいかなることとも対立してはならない( "3/ so as not to clash with anything that the Magisterium taught prior to the Council, …" ),(4) 公会議以前のカトリック教会の伝統および教導権から逸脱するような解釈や文章を受け入れてはならない( "4/ accepting no interpretation or text that breaks with the pre-conciliar Tradition or Magisterium.”" ).」
つぎに,公会議派の読み方(確かに今日のカトリック教会を監督しているローマ教皇庁当局者の読み方)です.-- 「(1) 公会議より前およびそれ以後のカトリック教会の伝統が公会議にとっての判断基準でなくてはならない(なぜなら両者の間に違いがないから)( "Secondly, the Conciliar reading (certainly that of the Romans in charge of today’s Church) :-- “1/ Tradition from before and after the Council (because there is no difference) must be judge of the Council. " ), (2) ゆえに,争点となる諸々の主題についての公会議派の教えは公会議以前および以後のカトリック教会の一つの完全なカトリック伝統に従って変更されなければならない(なぜなら,それ以外に伝統の「完全さ」はないのだから)( "2/ So Conciliar teaching on controversial subjects must be sifted according to the Church’s one complete pre- and post-conciliar Tradition (because that alone is the “completeness” of Tradition), …" ), (3) 公会議以前および以後のカトリック教会教導権の教えと対立してはならない(なぜならは両者は同じものだから)( "3/ so as not to clash with the Church’s pre- or post-conciliar Magisterium (because they teach the same), …" ), (4) 公会議以前またそれ以後のカトリック教会の伝統あるいは教導権から逸脱するいかなる解釈も受け入れてはならない(なぜならこれら四者間になんら逸脱はないのだから)( "4/ accepting no interpretation that breaks with pre- or post-conciliar Tradition or Magisterium (because there is no break between all four of them).”" ).」
この公会議派の読み方が意味するところは,公会議は公会議によって裁かれるということで,公会議はむろん無罪となることを意味します( "This Conciliar reading means that the Council will be judged by the Council, which means of course that it will be acquitted. " ).これに対し,カトリック伝統派の読み方では公会議は完全に有罪です( "On the contrary by the Traditional reading the Council is utterly condemned." ).曖昧さはカトリック信仰にとって致命的なことです.ここに紹介した文書では誰かが私たちカトリック教徒の心をもて遊んでいます( "Ambiguity is deadly for the Faith. Somebody here is meaning to play games with our Catholic minds." ).それが誰であれのろわれるべきです( "Let whoever it is be anathema ! " )!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
2012年9月9日日曜日
2010年2月10日水曜日
教皇の誤り(2)
エレイソン・コメンツ 第134回 (2010年2月6日)
聖ピオ十世会のティシエ・ドゥ・マルレ司教がフランス語で著した 100ページにおよぶ貴重な論文がこのほど英訳されました(truerestoration.blogspot.com 参照). 論文は教皇ベネディクト16世の教理理論について書かれたもので,「理性に脅かされるカトリック信仰」と題されています.論文の趣旨は標題がすべてを言い尽くしています.教皇ベネディクト16世は人間の理性がカトリック信仰を質的に低下させるのを許容している,というのがティシエ司教の主張です.ここでは問題の核心をつくティシエ司教の結論から以下の一節を引用しご説明します(以下引用).
「教皇ベネディクト16世は「継続という(聖書原典解釈学的)解釈」をしばしば主張されます.その意味するところは第二バチカン公会議とカトリック伝統派の立場を解釈すれば,両者の間に断絶はなく,むしろ継続性があることが分かるというものです.教皇の教えを吟味してみて,彼の言う「解釈」には私が当初考えたよりはるかに含蓄が深いものがあると実感しています.それは単にカトリック信仰と理性の新たな解釈ではなく,両者の新しい誕生を意味するもので,そのことは普遍的に当てはまるものだというのです.まず第一に,カトリック信仰と理性は相互を浄化させる作用を持つという解釈です:これによると,理性はカトリック信仰が耐えがたい状態に陥るのを食い止め,カトリック信仰は理性の持つ盲目的な自立を癒します.第二に,カトリック信仰と理性は相互を再生する作用を持つという解釈です:これによると,理性は啓発という考え方から生まれる寛大な価値観でカトリック信仰を一層豊かなものにします.カトリック信仰は今の時代に合うようにうまく再表現され,理性から耳を貸してもらえるようになります.そして,この一連の過程はあらゆる宗教,あらゆる論理方法にあまねく当てはまるというのです.単一の価値体系が万人に押しつけられなければ、世の中を動かし続ける豊かなもろもろの価値観はさらに強められるとしています.」
ここで注目していただきたいのは,ティシエ司教が自分でも認めておられるように,彼がいかに教皇の考え方の幅,深さを過小評価していたかということです.伝統主義を是とするカトリック教徒は,カトリック信仰を現代に合わせようとする第二バチカン公会議の試み(特に上述の太字体の部分)は誤りであり Church を滅ぼすものだと知っています.だが同時に彼らは,そうした公会議による試みは,たとえ誤り導かれたものだとしても,知性をもって考え出されたものであって,公会議がそれに信念を置いているのだと認めなければならないことも知っています.教皇は古い信仰のしかた( 訳注・原文= “the old way of believing” ),新しい考え方(訳注・原文= “the new way of thinking” )のいずれも正しいと深く信じています.そして,教皇は両者の間に横たわるように見えるあらゆる問題も自らの方法で解決すれば,人々はすべてまとまることができると確信しています.この「解決」こそが教皇が職務を続ける原動力となっています.
だが,悲しいことに,私は2+2=4と2+2=5を「4は4.5とあまり違わない(訳注・正確にはより少ない)」し「5も4.5とさほど違わない(訳注・正確にはより多い)」などと言ってひとまとめにすることはできません(訳注・原文…four is “more or less than four and a half”, while five is “more or less than four and a half”).なぜなら,四個のリンゴはあくまでも四個ですし,五個のオレンジはどう見ても五個でしかないからです.このように,真のカトリック信仰は誤った人は許せても,誤りそのものを許すことはできないでしょう.この場合,現代の理性はどうしたものか様子を見ようとするかもしれません.だが,理性が現代的であるかぎり,どうしても独自の視点,心眼(カント)(訳注・ドイツの哲学者 “Immanuel Kant”による理論.)を前面に押し出すことを強く主張(要求)するでしょう.ティシエ司教は論文の随所で,神が啓示された永遠不変のカトリック信仰は人間が編み出した現代の理性と共存できないことを明示しておられます.現代の理性は神そのものか少なくとも人々への神の要求(信教の自由)を締め出すよう意図され考案されているからです.
ティシエ司教閣下( “your Excellency” ),あなたに感謝します!なぜなら,教皇が抱く「私たちの時代における平和」への見通しがいかに魅力的であっても,私たちを天国へ導くのは魅力ではなく神の慈愛における真実(訳注・原語 “ truth in charity” )だからです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
聖ピオ十世会のティシエ・ドゥ・マルレ司教がフランス語で著した 100ページにおよぶ貴重な論文がこのほど英訳されました(truerestoration.blogspot.com 参照). 論文は教皇ベネディクト16世の教理理論について書かれたもので,「理性に脅かされるカトリック信仰」と題されています.論文の趣旨は標題がすべてを言い尽くしています.教皇ベネディクト16世は人間の理性がカトリック信仰を質的に低下させるのを許容している,というのがティシエ司教の主張です.ここでは問題の核心をつくティシエ司教の結論から以下の一節を引用しご説明します(以下引用).
「教皇ベネディクト16世は「継続という(聖書原典解釈学的)解釈」をしばしば主張されます.その意味するところは第二バチカン公会議とカトリック伝統派の立場を解釈すれば,両者の間に断絶はなく,むしろ継続性があることが分かるというものです.教皇の教えを吟味してみて,彼の言う「解釈」には私が当初考えたよりはるかに含蓄が深いものがあると実感しています.それは単にカトリック信仰と理性の新たな解釈ではなく,両者の新しい誕生を意味するもので,そのことは普遍的に当てはまるものだというのです.まず第一に,カトリック信仰と理性は相互を浄化させる作用を持つという解釈です:これによると,理性はカトリック信仰が耐えがたい状態に陥るのを食い止め,カトリック信仰は理性の持つ盲目的な自立を癒します.第二に,カトリック信仰と理性は相互を再生する作用を持つという解釈です:これによると,理性は啓発という考え方から生まれる寛大な価値観でカトリック信仰を一層豊かなものにします.カトリック信仰は今の時代に合うようにうまく再表現され,理性から耳を貸してもらえるようになります.そして,この一連の過程はあらゆる宗教,あらゆる論理方法にあまねく当てはまるというのです.単一の価値体系が万人に押しつけられなければ、世の中を動かし続ける豊かなもろもろの価値観はさらに強められるとしています.」
ここで注目していただきたいのは,ティシエ司教が自分でも認めておられるように,彼がいかに教皇の考え方の幅,深さを過小評価していたかということです.伝統主義を是とするカトリック教徒は,カトリック信仰を現代に合わせようとする第二バチカン公会議の試み(特に上述の太字体の部分)は誤りであり Church を滅ぼすものだと知っています.だが同時に彼らは,そうした公会議による試みは,たとえ誤り導かれたものだとしても,知性をもって考え出されたものであって,公会議がそれに信念を置いているのだと認めなければならないことも知っています.教皇は古い信仰のしかた( 訳注・原文= “the old way of believing” ),新しい考え方(訳注・原文= “the new way of thinking” )のいずれも正しいと深く信じています.そして,教皇は両者の間に横たわるように見えるあらゆる問題も自らの方法で解決すれば,人々はすべてまとまることができると確信しています.この「解決」こそが教皇が職務を続ける原動力となっています.
だが,悲しいことに,私は2+2=4と2+2=5を「4は4.5とあまり違わない(訳注・正確にはより少ない)」し「5も4.5とさほど違わない(訳注・正確にはより多い)」などと言ってひとまとめにすることはできません(訳注・原文…four is “more or less than four and a half”, while five is “more or less than four and a half”).なぜなら,四個のリンゴはあくまでも四個ですし,五個のオレンジはどう見ても五個でしかないからです.このように,真のカトリック信仰は誤った人は許せても,誤りそのものを許すことはできないでしょう.この場合,現代の理性はどうしたものか様子を見ようとするかもしれません.だが,理性が現代的であるかぎり,どうしても独自の視点,心眼(カント)(訳注・ドイツの哲学者 “Immanuel Kant”による理論.)を前面に押し出すことを強く主張(要求)するでしょう.ティシエ司教は論文の随所で,神が啓示された永遠不変のカトリック信仰は人間が編み出した現代の理性と共存できないことを明示しておられます.現代の理性は神そのものか少なくとも人々への神の要求(信教の自由)を締め出すよう意図され考案されているからです.
ティシエ司教閣下( “your Excellency” ),あなたに感謝します!なぜなら,教皇が抱く「私たちの時代における平和」への見通しがいかに魅力的であっても,私たちを天国へ導くのは魅力ではなく神の慈愛における真実(訳注・原語 “ truth in charity” )だからです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2010年1月31日日曜日
教皇の誤り(1)
エレイソン・コメンツ 第133回 (2010年1月30日)
教皇ベネディクト16世はニ週間前,第二バチカン公会議下のローマと聖ピオ十世会( “SSPX, Society of St. Pius X” )の関係について演説されましたが,その中で公会議のおかした過失がいかに巧妙かつ多大な影響力を持つものであるかを再度示されました.教皇の演説は1月15日に開催されたバチカン・ローマ教皇庁内の教理省(かつての「検邪聖省(聖務聖省)」“ Holy Office ” )の総会で行われました.(訳注・教理省…元は1542年に教皇パウロ3世によりカトリック信仰の維持・擁護を主任務とし異端裁判の終審裁判所として創設された “Supreme Sacred Congregation of the Roman and Universal Inquisition” .ローマ教皇庁( “Roman Curia”(英語),“Curia Romana”(ラテン語))の9つの省のうちで最も古い.1908年に教皇聖ピオ10世により “Supreme Sacred Congregation of the Holy Office” と改称され,単に “Holy Office” とも呼ばれた.その後第二バチカン公会議後の1965年に「教理聖省」“Sacred Congregation for the Doctrine of the Faith” と名称変更され,さらに1983年のカトリック教会法典の改正により「聖-」“Sacred” が省略されて現在の名称となった.) 演説を構成する12パラグラフの初めの3パラグラフについては全文を引用する必要があるでしょう.だが,ここではスペースの関係で原文をできるだけ正確に要約したものとせざるを得ません.
(1) 教理省は,カトリック教義の擁護を通じて “Church” (訳注・意味を正確に表しうる適当な日本語訳が見当たらないため,原語 “Church” のまま記す.この大文字で始まる “Church” は、キリスト→使徒聖ペトロ→今日に至るまでの歴代の教皇+司教へと継承(使徒継承)される伝統のカトリック教会を指す.つまり宗教改革以前からの,すなわち初めに神の御子イエズス・キリスト御自身がその代理者としての全権を使徒聖ペトロに委ねて地上に創設された,伝統の “聖なる(=神による,神の)・普遍の(=カトリック=万人万代を包括する)・使徒的(=使徒聖ペトロ(初代ローマ教皇)から現教皇に至るまで使徒継承の)・唯一の(キリストによる祈り…後記.) ” 「ローマ・カトリック教会」のことを指している.以下同旨.) の一致を確かなものにするという教皇の特別な聖職を共有しています.ここでいう一致とはカトリック信仰のもとでの一致であり,その信仰の最高位の擁護者はローマ教皇です.信仰において兄弟たる信徒のカトリック信仰を確固たるものとし,信徒の一致を維持していくことが教皇の第一の任務です.(2)教理省の指導権威は,教皇のそれと同様にカトリック信仰への従順を必要条件として伴うものです.それにより,一人の羊飼い(訳注・「よき羊飼い(牧者)キリスト」とその代理者(後継者)としての教皇を指す.)の下に一つの羊の群れ(訳注・ “Church” (=司教・司祭を含む全信徒の総体)を指す.)が存在するようにするためです.(3) “Church” は常にすべてのキリスト教信者が一体となってカトリック信仰の証人となるようにしなければなりません.(以下全文引用)「この精神に基づき私(教皇)は,聖ピオ十世会が “Church” との完全な交わりを達成する上で障害として残るいかなる教理上の問題をも克服するという(約束事に対する)教理省の深い関与に特別な信頼を置きます.」
ここでの問題は,単に聖ピオ十世会が「 “Church” との完全な交わり」を実現するかどうかということをはるかに超えるものです.問題は一致とカトリック信仰との関係全体に関わることです.事実,カトリック(教会)の一致(訳注・原語は “Catholic unity”. 「万人万世におよび(=普遍的に)キリストにおける唯一の神を信じる者が一致するという意味.」)は本質的にカトリック信仰を拠り所とするものです.カトリック信徒はまず第一にその人が何を信仰するかによって定義されます.したがって,カトリック信仰がなければ一致すべきカトリック信徒の存在はあり得ませんし,カトリック信仰があれば,カトリック(教会)の一致の本質的な土台が存在するのです.さて教皇は確かに(1)「一致とは事実,カトリック信仰のもとでの一致を指す」と述べておられますが,概して言えば(上述1,2,3項)一致とカトリック信仰があたかも対等な立場にあり,相互依存関係にあるかのように両者を結びつけておられます.だが,真の一致はひとえに真のカトリック信仰を拠り所とするものです.教皇は,上に全文を引用した(3項)で,ローマと聖ピオ十世会の一致を実現するため教理省に対し両者間の教理上の問題を克服するよう指示しているかの印象を与えていますが,真の一致は真のカトリック信仰を拠り所とすること以外の他のどのような方法でその結論に到達し得るのでしょうか?
そもそも,キリストの代理者たる教皇の責務はいわば,やみくもにローマと聖ピオ十世会を一致させることではなく,キリストが私たちにお与えになったのと同じとおりのカトリック信仰のもとで両者を一致させることなのです.したがって,もしローマと聖ピオ十世会の間に教理上の相違が存在するならば(相違は存在しており,しかもきわめて大きな相違です!),教皇にとっての最重要問題は両者のうちどちらがカトリック信仰を持っておりどちらが持っていないかということなのです.その上で,教皇は “Church” 全体をカトリック信仰を持っている方を中心に一致させなければなりません.たとえ,たまたまそれが哀れな小さい聖ピオ十世会( “poor li’l SSPX !” )だったとしてもです!「小さい」( “Li’l, or little” )というのは,カトリック信仰を持っていることを除けば聖ピオ十世会は取るに足らない存在だからです.
悲しいかな,教皇ベネディクト16世はカトリック信者である以上に公会議主義者です.しかし神の前に人を置く公会議は,全世界的な人類の一致の名のもとに神が自ら啓示された神の教義を絶えず弱体化させ台無しにしてきたのです.教皇ベネディクト16世が,奇跡でも起きないかぎり,聖ピオ十世会のよって立つ教義上の立場の重要性を理解する能力に欠けているのはこのためです.だが,教皇がカトリックの真理に大いに立脚しているところ(1,2項)から逸脱(3項)へ転じるあざやかさに騙(だま)されないカトリック信徒がどれほどいるでしょうか?ほとんどいないでしょう!その誤りは,それが微妙に着想されかつ表現されているのと同じくらいに影響力の強いものなのです!私たちは奇跡が起こるように祈らなければなりません.
* * *
(訳文のみ)
教皇ベネディクト16世はニ週間前,第二バチカン公会議下のローマと聖ピオ十世会の関係について演説されましたが,その中で公会議のおかした過失がいかに巧妙かつ多大な影響力を持つものであるかを再度示されました.教皇の演説は1月15日に開催されたバチカン・ローマ教皇庁内の教理省(かつての「検邪聖省(聖務聖省)」“ Holy Office ” )の総会で行われました.演説を構成する12パラグラフの初めの3パラグラフについては全文を引用する必要があるでしょう.だが,ここではスペースの関係で原文をできるだけ正確に要約したものとせざるを得ません.
(1) 教理省は,カトリック教義の擁護を通じて “Church” の一致を確かなものにするという教皇の特別な聖職を共有しています.ここでいう一致とはカトリック信仰のもとでの一致であり,その信仰の最高位の擁護者はローマ教皇です.信仰において兄弟たる信徒のカトリック信仰を確固たるものとし,信徒の一致を維持していくことが教皇の第一の任務です.(2)教理省の指導権威は,教皇のそれと同様にカトリック信仰への従順を必要条件として伴うものです.それにより,一人の羊飼い(牧者)の下に一つの羊の群れが存在するようにするためです.(3)“Church” は常にすべてのキリスト教信者が一体となってカトリック信仰の証人となるようにしなければなりません.(以下全文引用)「この精神に基づき私(教皇)は,聖ピオ十世会が “Church” との完全な交わりを達成する上で障害として残るいかなる教理上の問題をも克服するという(約束事に対する)教理省の深い関与に特別な信頼を置きます.」
ここでの問題は,単に聖ピオ十世会が「 “Church” との完全な交わり」を実現するかどうかということをはるかに超えるものです.問題は一致とカトリック信仰との関係全体に関わることです.事実,カトリック(教会)の一致は本質的にカトリック信仰を拠り所とするものです.カトリック信徒はまず第一にその人が何を信仰するかによって定義されます.したがって,カトリック信仰がなければ一致すべきカトリック信徒の存在はあり得ませんし,カトリック信仰があれば,カトリック(教会)の一致の本質的な土台が存在するのです.さて教皇は確かに(1)「一致とは事実,カトリック信仰のもとでの一致を指す」と述べておられますが,概して言えば(上述1,2,3項)一致とカトリック信仰があたかも対等な立場にあり,相互依存関係にあるかのように両者を結びつけておられます.だが,真の一致はひとえに真のカトリック信仰を拠り所とするものです.教皇は,上に全文を引用した(3項)で,ローマと聖ピオ十世会の一致を実現するため教理省に対し両者間の教理上の問題を克服するよう指示しているかの印象を与えていますが,真の一致は真のカトリック信仰を拠り所とすること以外の他のどのような方法でその結論に到達し得るのでしょうか?
そもそも,キリストの代理者たる教皇の責務はいわば,やみくもにローマと聖ピオ十世会を一致させることではなく,キリストが私たちにお与えになったのと同じとおりのカトリック信仰のもとで両者を一致させることなのです.したがって,もしローマと聖ピオ十世会の間に教理上の相違が存在するならば(相違は存在しており,しかもきわめて大きな相違です!),教皇にとっての最重要問題は両者のうちどちらがカトリック信仰を持っておりどちらが持っていないかということなのです.その上で,教皇は “Church” 全体をカトリック信仰を持っている方を中心に一致させなければなりません.たとえ,たまたまそれが哀れな小さい聖ピオ十世会だったとしてもです!「小さい」というのは,カトリック信仰を持っていることを除けば聖ピオ十世会は取るに足らない存在だからです.
悲しいかな,教皇ベネディクト16世はカトリック信者である以上に公会議主義者です.しかし神の前に人を置く公会議は,全世界的な人類の一致の名のもとに神が自ら啓示された神の教義を絶えず弱体化させ台無しにしてきたのです.教皇ベネディクト16世が,奇跡でも起きないかぎり,聖ピオ十世会のよって立つ教義上の立場の重要性を理解する能力に欠けているのはこのためです.だが,教皇がカトリックの真理に大いに立脚しているところ(1,2項)から逸脱(3項)へ転じるあざやかさに騙されないカトリック信徒がどれほどいるでしょうか?ほとんどいないでしょう!その誤りは,それが微妙に着想されかつ表現されているのと同じくらいに影響力の強いものなのです!私たちは奇跡が起こるように祈らなければなりません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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( “Church” の訳注中「唯一の」の補足解説)
イエズス・キリストによる祈り (新約聖書・聖ヨハネ福音書17章)
「あなた(御父なる神)が子(神の御子イエズス・キリスト)に授けられた万民を治める力によって,子に与えられたすべての人に永遠の命を与えたもうように.
永遠の命とは,唯一のまことの神であるあなたと,あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります.(…キリストによる神の啓示.)
…彼ら(使徒たち)のことばによって私を信じる人々のためにも祈ります.父(神)よ,あなたが私の中にましまし,私があなたの中にあるように,みな(キリスト信者)が一つになりますように.彼らも私たちにおいて一つになりますように.それは,あなたが私を遣わされたことを世に信じさせるためであります.私はあなたの与えたもうた光栄を彼らに与えました.私たちが一つであるように彼らも一つでありますように.私は彼らの中にあり,あなたは私の中においでになります.彼らが完全に一つになりますように.あなたが私を遣わし,私を愛されるように,彼らをも愛しておいでになることを,この世に知らせるためであります.
父よ,あなたの与えたもうた人々が,私のいる所に,私とともにいることを望みます.それはあなたが私に与えたもうた光栄を,彼らに見せるためであります.あなたは世の始まるよりも前に,私を愛したまいました.正しい父よ,この世はあなたを知りませんが,私はあなたを知り,この人たちもあなたが私を遣わされたことを知るに至りました.あなたが私を愛されたその愛が,彼らにもありますように.また,私が彼らの中にいるように,私はみ名を知らせ,また知らせましょう.」
教皇ベネディクト16世はニ週間前,第二バチカン公会議下のローマと聖ピオ十世会( “SSPX, Society of St. Pius X” )の関係について演説されましたが,その中で公会議のおかした過失がいかに巧妙かつ多大な影響力を持つものであるかを再度示されました.教皇の演説は1月15日に開催されたバチカン・ローマ教皇庁内の教理省(かつての「検邪聖省(聖務聖省)」“ Holy Office ” )の総会で行われました.(訳注・教理省…元は1542年に教皇パウロ3世によりカトリック信仰の維持・擁護を主任務とし異端裁判の終審裁判所として創設された “Supreme Sacred Congregation of the Roman and Universal Inquisition” .ローマ教皇庁( “Roman Curia”(英語),“Curia Romana”(ラテン語))の9つの省のうちで最も古い.1908年に教皇聖ピオ10世により “Supreme Sacred Congregation of the Holy Office” と改称され,単に “Holy Office” とも呼ばれた.その後第二バチカン公会議後の1965年に「教理聖省」“Sacred Congregation for the Doctrine of the Faith” と名称変更され,さらに1983年のカトリック教会法典の改正により「聖-」“Sacred” が省略されて現在の名称となった.) 演説を構成する12パラグラフの初めの3パラグラフについては全文を引用する必要があるでしょう.だが,ここではスペースの関係で原文をできるだけ正確に要約したものとせざるを得ません.
(1) 教理省は,カトリック教義の擁護を通じて “Church” (訳注・意味を正確に表しうる適当な日本語訳が見当たらないため,原語 “Church” のまま記す.この大文字で始まる “Church” は、キリスト→使徒聖ペトロ→今日に至るまでの歴代の教皇+司教へと継承(使徒継承)される伝統のカトリック教会を指す.つまり宗教改革以前からの,すなわち初めに神の御子イエズス・キリスト御自身がその代理者としての全権を使徒聖ペトロに委ねて地上に創設された,伝統の “聖なる(=神による,神の)・普遍の(=カトリック=万人万代を包括する)・使徒的(=使徒聖ペトロ(初代ローマ教皇)から現教皇に至るまで使徒継承の)・唯一の(キリストによる祈り…後記.) ” 「ローマ・カトリック教会」のことを指している.以下同旨.) の一致を確かなものにするという教皇の特別な聖職を共有しています.ここでいう一致とはカトリック信仰のもとでの一致であり,その信仰の最高位の擁護者はローマ教皇です.信仰において兄弟たる信徒のカトリック信仰を確固たるものとし,信徒の一致を維持していくことが教皇の第一の任務です.(2)教理省の指導権威は,教皇のそれと同様にカトリック信仰への従順を必要条件として伴うものです.それにより,一人の羊飼い(訳注・「よき羊飼い(牧者)キリスト」とその代理者(後継者)としての教皇を指す.)の下に一つの羊の群れ(訳注・ “Church” (=司教・司祭を含む全信徒の総体)を指す.)が存在するようにするためです.(3) “Church” は常にすべてのキリスト教信者が一体となってカトリック信仰の証人となるようにしなければなりません.(以下全文引用)「この精神に基づき私(教皇)は,聖ピオ十世会が “Church” との完全な交わりを達成する上で障害として残るいかなる教理上の問題をも克服するという(約束事に対する)教理省の深い関与に特別な信頼を置きます.」
ここでの問題は,単に聖ピオ十世会が「 “Church” との完全な交わり」を実現するかどうかということをはるかに超えるものです.問題は一致とカトリック信仰との関係全体に関わることです.事実,カトリック(教会)の一致(訳注・原語は “Catholic unity”. 「万人万世におよび(=普遍的に)キリストにおける唯一の神を信じる者が一致するという意味.」)は本質的にカトリック信仰を拠り所とするものです.カトリック信徒はまず第一にその人が何を信仰するかによって定義されます.したがって,カトリック信仰がなければ一致すべきカトリック信徒の存在はあり得ませんし,カトリック信仰があれば,カトリック(教会)の一致の本質的な土台が存在するのです.さて教皇は確かに(1)「一致とは事実,カトリック信仰のもとでの一致を指す」と述べておられますが,概して言えば(上述1,2,3項)一致とカトリック信仰があたかも対等な立場にあり,相互依存関係にあるかのように両者を結びつけておられます.だが,真の一致はひとえに真のカトリック信仰を拠り所とするものです.教皇は,上に全文を引用した(3項)で,ローマと聖ピオ十世会の一致を実現するため教理省に対し両者間の教理上の問題を克服するよう指示しているかの印象を与えていますが,真の一致は真のカトリック信仰を拠り所とすること以外の他のどのような方法でその結論に到達し得るのでしょうか?
そもそも,キリストの代理者たる教皇の責務はいわば,やみくもにローマと聖ピオ十世会を一致させることではなく,キリストが私たちにお与えになったのと同じとおりのカトリック信仰のもとで両者を一致させることなのです.したがって,もしローマと聖ピオ十世会の間に教理上の相違が存在するならば(相違は存在しており,しかもきわめて大きな相違です!),教皇にとっての最重要問題は両者のうちどちらがカトリック信仰を持っておりどちらが持っていないかということなのです.その上で,教皇は “Church” 全体をカトリック信仰を持っている方を中心に一致させなければなりません.たとえ,たまたまそれが哀れな小さい聖ピオ十世会( “poor li’l SSPX !” )だったとしてもです!「小さい」( “Li’l, or little” )というのは,カトリック信仰を持っていることを除けば聖ピオ十世会は取るに足らない存在だからです.
悲しいかな,教皇ベネディクト16世はカトリック信者である以上に公会議主義者です.しかし神の前に人を置く公会議は,全世界的な人類の一致の名のもとに神が自ら啓示された神の教義を絶えず弱体化させ台無しにしてきたのです.教皇ベネディクト16世が,奇跡でも起きないかぎり,聖ピオ十世会のよって立つ教義上の立場の重要性を理解する能力に欠けているのはこのためです.だが,教皇がカトリックの真理に大いに立脚しているところ(1,2項)から逸脱(3項)へ転じるあざやかさに騙(だま)されないカトリック信徒がどれほどいるでしょうか?ほとんどいないでしょう!その誤りは,それが微妙に着想されかつ表現されているのと同じくらいに影響力の強いものなのです!私たちは奇跡が起こるように祈らなければなりません.
* * *
(訳文のみ)
教皇ベネディクト16世はニ週間前,第二バチカン公会議下のローマと聖ピオ十世会の関係について演説されましたが,その中で公会議のおかした過失がいかに巧妙かつ多大な影響力を持つものであるかを再度示されました.教皇の演説は1月15日に開催されたバチカン・ローマ教皇庁内の教理省(かつての「検邪聖省(聖務聖省)」“ Holy Office ” )の総会で行われました.演説を構成する12パラグラフの初めの3パラグラフについては全文を引用する必要があるでしょう.だが,ここではスペースの関係で原文をできるだけ正確に要約したものとせざるを得ません.
(1) 教理省は,カトリック教義の擁護を通じて “Church” の一致を確かなものにするという教皇の特別な聖職を共有しています.ここでいう一致とはカトリック信仰のもとでの一致であり,その信仰の最高位の擁護者はローマ教皇です.信仰において兄弟たる信徒のカトリック信仰を確固たるものとし,信徒の一致を維持していくことが教皇の第一の任務です.(2)教理省の指導権威は,教皇のそれと同様にカトリック信仰への従順を必要条件として伴うものです.それにより,一人の羊飼い(牧者)の下に一つの羊の群れが存在するようにするためです.(3)“Church” は常にすべてのキリスト教信者が一体となってカトリック信仰の証人となるようにしなければなりません.(以下全文引用)「この精神に基づき私(教皇)は,聖ピオ十世会が “Church” との完全な交わりを達成する上で障害として残るいかなる教理上の問題をも克服するという(約束事に対する)教理省の深い関与に特別な信頼を置きます.」
ここでの問題は,単に聖ピオ十世会が「 “Church” との完全な交わり」を実現するかどうかということをはるかに超えるものです.問題は一致とカトリック信仰との関係全体に関わることです.事実,カトリック(教会)の一致は本質的にカトリック信仰を拠り所とするものです.カトリック信徒はまず第一にその人が何を信仰するかによって定義されます.したがって,カトリック信仰がなければ一致すべきカトリック信徒の存在はあり得ませんし,カトリック信仰があれば,カトリック(教会)の一致の本質的な土台が存在するのです.さて教皇は確かに(1)「一致とは事実,カトリック信仰のもとでの一致を指す」と述べておられますが,概して言えば(上述1,2,3項)一致とカトリック信仰があたかも対等な立場にあり,相互依存関係にあるかのように両者を結びつけておられます.だが,真の一致はひとえに真のカトリック信仰を拠り所とするものです.教皇は,上に全文を引用した(3項)で,ローマと聖ピオ十世会の一致を実現するため教理省に対し両者間の教理上の問題を克服するよう指示しているかの印象を与えていますが,真の一致は真のカトリック信仰を拠り所とすること以外の他のどのような方法でその結論に到達し得るのでしょうか?
そもそも,キリストの代理者たる教皇の責務はいわば,やみくもにローマと聖ピオ十世会を一致させることではなく,キリストが私たちにお与えになったのと同じとおりのカトリック信仰のもとで両者を一致させることなのです.したがって,もしローマと聖ピオ十世会の間に教理上の相違が存在するならば(相違は存在しており,しかもきわめて大きな相違です!),教皇にとっての最重要問題は両者のうちどちらがカトリック信仰を持っておりどちらが持っていないかということなのです.その上で,教皇は “Church” 全体をカトリック信仰を持っている方を中心に一致させなければなりません.たとえ,たまたまそれが哀れな小さい聖ピオ十世会だったとしてもです!「小さい」というのは,カトリック信仰を持っていることを除けば聖ピオ十世会は取るに足らない存在だからです.
悲しいかな,教皇ベネディクト16世はカトリック信者である以上に公会議主義者です.しかし神の前に人を置く公会議は,全世界的な人類の一致の名のもとに神が自ら啓示された神の教義を絶えず弱体化させ台無しにしてきたのです.教皇ベネディクト16世が,奇跡でも起きないかぎり,聖ピオ十世会のよって立つ教義上の立場の重要性を理解する能力に欠けているのはこのためです.だが,教皇がカトリックの真理に大いに立脚しているところ(1,2項)から逸脱(3項)へ転じるあざやかさに騙されないカトリック信徒がどれほどいるでしょうか?ほとんどいないでしょう!その誤りは,それが微妙に着想されかつ表現されているのと同じくらいに影響力の強いものなのです!私たちは奇跡が起こるように祈らなければなりません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
( “Church” の訳注中「唯一の」の補足解説)
イエズス・キリストによる祈り (新約聖書・聖ヨハネ福音書17章)
「あなた(御父なる神)が子(神の御子イエズス・キリスト)に授けられた万民を治める力によって,子に与えられたすべての人に永遠の命を与えたもうように.
永遠の命とは,唯一のまことの神であるあなたと,あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります.(…キリストによる神の啓示.)
…彼ら(使徒たち)のことばによって私を信じる人々のためにも祈ります.父(神)よ,あなたが私の中にましまし,私があなたの中にあるように,みな(キリスト信者)が一つになりますように.彼らも私たちにおいて一つになりますように.それは,あなたが私を遣わされたことを世に信じさせるためであります.私はあなたの与えたもうた光栄を彼らに与えました.私たちが一つであるように彼らも一つでありますように.私は彼らの中にあり,あなたは私の中においでになります.彼らが完全に一つになりますように.あなたが私を遣わし,私を愛されるように,彼らをも愛しておいでになることを,この世に知らせるためであります.
父よ,あなたの与えたもうた人々が,私のいる所に,私とともにいることを望みます.それはあなたが私に与えたもうた光栄を,彼らに見せるためであります.あなたは世の始まるよりも前に,私を愛したまいました.正しい父よ,この世はあなたを知りませんが,私はあなたを知り,この人たちもあなたが私を遣わされたことを知るに至りました.あなたが私を愛されたその愛が,彼らにもありますように.また,私が彼らの中にいるように,私はみ名を知らせ,また知らせましょう.」
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