2010年5月31日月曜日

苦闘する男の子たち

エレイソン・コメンツ 第150回 (2010年5月29日)

エレイソン・コメンツ(以下「EC」)第146回では,教師をする修道女たちが今日の女生徒たちを指導する際に経験する難しさについて述べました.EC第147回では、問題の根源を家庭生活に立ち戻って考えました.では,男の子たちの教育はどうすべきか?とお尋(たず)ねになる方もおられるでしょう.カトリック教では,男の子も女の子も,来世で生きるため霊魂の救済が必要である点においては同等と理解していますから,どちらも同様に,何よりもまず天国に入れるよう準備を整えさせる必要があります.だが,男女が平等なのはそこまでです.神は男性と女性が現世において全く異なる役割を果たすよう任命しているのです.その理由で,カトリック教会は今日まで常に男女共学に異を唱えてきたのです.では,男の子たちに具体的に必要とされるのはいったいどんな教育なのでしょうか?

女性が家庭や子供の世話をする心という天賦の才を与えられているように,男性もまた家族を導く理性という天質を与えられ,(訳注・始めの人アダムとエバが)原罪を犯して以来このかた,「額(ひたい)に汗を流して」(旧約聖書・創世の書:第3章19節)労働することによって家族を養わなければなりません.それゆえ,女の子の躾(しつ)けは将来家庭の中で夫と子供に仕えるための準備を軸として成される必要がある一方で,男の子の躾けは家庭外での(1)労働(2)責任を持つことに備えたものでなければなりません.ここで言う家庭外とは,大きな悪い世間のことです.男の子がそこで必要とするのは(3)判断力(4)自制心(5)男らしさです.ここまで述べれば,男の子の躾け計画はほぼ揃い(そろい)ます!

この計画では,父親が男の子に示す手本が極めて重要です!今,現に両親となっている方たちに問います.あなたたちは恐らく20年から30年前,つまり革命的な1960年代以降に躾けを受けたはずです.皆さんはそれが何を意味するかお気づきでしょうか?自分自身が育った時のことを謙虚にふりかえって自覚してください.学校にせよ家庭にせよ,あなたたちが受けた躾けは子供たちを天国に行けるような生きかたをするよう育てるには多分に不向きだったはずです.父たちよ,あなたたち自身の怠惰,無責任,愚かさ,身勝手さ,男らしくない軟弱さの矯正に取り掛かりなさい.それが,あなたたちが息子たちのために出来る最良のことです!

屋外の自然の中での労働が最も男の子の訓練に有益です.男の子には斧を振らせ,木を切り落とさせ,植物を庭に植えさせ,馬に乗らせ,小屋を建てさせなさい.スポーツはよくてもせいぜい男らしい娯楽に過ぎず,その域を超えるものではありません.家族のために本当に必要なことが責任を教えます.責任はまた,男の子が犯した過(あやま)ちを庇う(かばう)より,その結果を悩むように仕向けることによっても教えられます.判断力については,家庭での話し合いや,男の子が自然と英雄視し従う父親の同伴と指導により,自分の心を使って考えるように仕向けることで身につけさせることができるでしょう.このとき,父親は時間をかけて男の子の話を聴き,助言を与えてやらなければいけません.男の子の思春期には特にそうする必要があります.自制心は,朝早く起き,決められた日課を果たし,夜は早寝をして,結婚したいと思う相手と出会うまでは,多かれ少なかれ,女の子とデートをしないことで,身につけることができるでしょう.結婚するつもりのない女の子に気をむけることが少なければ少ないほど,結婚するつもりの女の子ひとりだけにその分多くを与えるようになるでしょう.男らしさは,この計画を最後まで徹底的にやり通した見返りとして男の子の身につくでしょう.

最後に,両親たちよ,電子機器が概して(がいして),いかに男の子を(1)怠惰にし,(2)無責任にし,(3)愚かにし,(4)軟弱にし,(5)駄目(だめ)にさせるかに気づきなさい.

家庭から電子の魔力を取り除け,
もし息子たちを地獄に落としたくなかったら!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年5月26日水曜日

父権の回復

エレイソン・コメンツ 第149回 (2010年5月22日)

子供の育て方が分かっていないと今日の親たちを非難するのは簡単なことです.だが非難するよりましなことは,自分たちと疎遠になってしまった子供たちの問題がどこに原因があるのか理解したいと願っている親たちに救いの手を差し出すことです.子供たちの問題は,ある意味で,神と同じように荘重なものです.なぜなら,問題の根底には神の存在を全く拒み否定する現代世界の風潮があるからです.

人間の家族は小さな社会であり,基本的に父母と子供で構成されています.いかなる人間社会でも,そのリーダーがきちんと機能する必要があることは誰もが常識で知るところです.もし方向性を示し指揮をとるリーダーがいなければ,その社会は方向を見失いバラバラになってしまいます.サッカー・チームには主将が,会社には最高経営責任者が,国には国王もしくは大統領が,町には町長が,消防隊には隊長が,陸軍には将軍が,大学には学長が,裁判所には判事が必要です.そのほか挙げればきりがありません.

とりわけ,家族には父親が必要です.なぜなら家族とは単なる人間社会であるにとどまらず,あらゆる人間社会の中で最も基本的で自然な形だからです.事実,家族は他のあらゆる形の社会の基本モデルです.なぜなら,夫を妻に結びつける絆,両親を子供たちに結びつける絆ほど深く自然な絆は他のいかなる社会にも存在しないからです.また,リーダーが構成員を導き愛を注(そそ)がなければならないことが家族ほどはっきりしている社会は他にないからです.もし父親が愛情に欠けた指揮のとり方をするなら,家族はその厳格さの犠牲になります.もし父親が指揮することなく愛情だけを示すなら - 今日ではこの方がむしろより頻繁に見られるケースですが - 家族はその軟弱さの犠牲になります.このように,家族の父性はあらゆる人間的権威のモデルなのです.だからこそ神の十戒の第四戒(エレイソン・コメンツ(EC)145を参照ください)における父と母を敬うべしとの掟は,社会における人間関係を律する七つの掟の筆頭に置かれているのです.

家族の父権はあらゆる父権もしくは権威と同じように,御父なる神に由来します.聖パウロは次のように述べています.「さて私は(主イエズス・キリストの)父のみ前にひざまずこう ―― 父から天と地のすべての*家族が起こったからである ――.」(新約聖書・(聖パウロによる)エフェゾ人への手紙第3章14,15節.)(訳注・バルバロ神父訳聖書における本節「*家族」の注釈…〈ギリシア語の「パトリア」は,父性のことであるが,ここでは,「父の権威下にある家族」のことである.地上の人間の家族は,天の天使たちの階級に相対する.これらはみな神の子らである.〉)言い換えれば,人間家族における父権,人間社会におけるあらゆるリーダーシップの特質は,御父なる神の父性に由来していると,神の御言葉は告げておられます.なぜなら,父権という「名」あるいは言葉は,それが持つ特質もしくは物を意味するからです.したがって,現に今私たちの世界がしているように,御父なる神を蹴(け)り出すような世界においてはどこでも,父権という名と特質が私たちの心の中から流れ出てしまい,かくしてあらゆる父権,あらゆる権威が私たちの生活から消え去ってしまうというのは理にかなっています.

家庭の父親たちよ,家族一人ひとりを神のもとに導きなさい!あなたたち自身がまず神の下に服従しなさい.そうすれば,妻や子供たちもそれ相応にあなたたちに服従するようになるでしょう.「すべての男のかしらはキリストである.女のかしらは男である.キリストのかしらは神である.」聖パウロはこう述べています(新約聖書・(聖パウロによる)コリント人への第一の手紙11章3節).妻と子供たちに男らしく潔い信心深さの模範を示しなさい.それが「超自然的」であるのと同じくらい自然にそうしなさい.そうすれば私たちの狂った世界がどんなに(あなたたちの家庭生活の中にまで)蔓延って(はびこって)こようと,あなたたちは少なくとも神から自分に委ねられた一家のために最善を尽くすようになるでしょう.

もし神のご意思であれば,男の子がとるべき態度の詳細について別の「エレイソン・コメンツ」で述べることになるでしょう.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年5月18日火曜日

眠れない教皇

エレイソン・コメンツ 第148回 (2010年5月15日)

カトリック伝統主義運動とは何かについて公会議主義下のローマがいかにひどく誤解しているかが,先週水曜日にパリで他のキリスト教会およびユダヤ人との宗教関係についてのバチカンの関連部門の長(訳注・「キリスト教一致推進評議会」議長兼「ユダヤ人との宗教関係委員会」委員長)であるカスパー枢機卿(訳注・Walter Kasper(ヴァルター・カスパー).ドイツ人)が記者会見を行った際に再度明らかになりました.ロイター通信社の記事からできるだけ忠実に,5項目に要約された同枢機卿の考えを引用し,その後で所感を述べさせていただきます.

(1)現在ローマ側の神学者四人と聖ピオ十世会の司教一人ならびに司祭三人との間で二カ月ごとに行われている教理上の論議は難航している. 2)主な問題点は伝統についての概念である.「私たちが求めるのは生きた伝統でしょうか,それとも石化した伝統でしょうか?」と,同枢機卿は(記者会見で)疑問を呈した.3)枢機卿は聖ピオ十世会との対話そのものには賛成だが,対話はローマが提示する条件の下で行われるべきであり,聖ピオ十世会の条件下で行われるべきではないと述べた. 4)仮に両者が合意に達するとすれば,聖ピオ十世会が譲歩しなければならず,同会が公会議の行った改革を受け入れなければならない. 5)もし合意に至らなければ,聖ピオ十世会は何ら公的地位を持たないこととなり,同会の司祭はカトリック司祭として認められず,聖職を執行することも許されないこととなる.

(1)2+2=4(カトリック伝統と聖ピオ十世会のよって立つ命題)と2+2=4または5(第二バチカン公会議と公会議主義のローマのよって立つ命題)を調整して一致させるのはむろん容易ではないでしょう.私たちは二つの極めて異なる算術概念に直面しており,それと同じくらいに相異なる二つのカトリック真理についての観念に直面しているのです.
(2)2+2=4は真理であり,その真理は不変かつ変更不可であり,それゆえに「伝統的」なのです.2+2=4または5というのは新しい算術です.人によっては「生きている」ととらえるでしょうが,それは全く実存しないものであり,したがって伝統的とはまるでかけ離れたものです.
(3)真の算術について議論するなら,議論は真の算術の条件に基づいてなされるはずで,議論しているいずれかの当事者による条件に基づいてなされるものではありません.それは,たとえ当事者のいずれかが条件について一定の立場を持っているとしてもです.
(4)誰が2+2=4または5(第二バチカン公会議による命題)という合意に達することを欲し,あるいは必要としているのでしょうか?真の算術など,もはやどうでもお構いなしという空想上の商人だけです!
(5)もし「公的地位」,「司祭としての承認」そして「聖職執行を許可されること」がすべて2+2=4または5の命題を受け入れるかどうかで決まるのであれば,そのような「地位」,「承認」および「許可」は,すべてカトリック真理という代価を払って買い取られたものだということになります.しかし,もし私がそのカトリック真理を売り払うとすれば,私はどうやってその真理を持ち続け人々にそれを語ることができるでしょうか? そして,もしカトリック真理を語ることができなくなってしまったら,私は(訳注・ローマ側の「司祭としての承認」付きで)どのような司祭になり得,(訳注・その結果)どのような聖職を執行することになるのでしょうか?

従って結論としては,彼らローマ側の者たちと聖ピオ十世会が別々の道を歩むのは,ただ「伝統」のみならず真理の本質そのものについて相違が存在するためなのです.真理の定義を変えることで,彼らローマの者たちはカトリック真理を失ってしまっており,少なくとも客観的に言えば,事実上彼らは,マクベスの「殺された眠り」((訳注・英国の戯作家シェイクスピア(William Shakespeare(1564(受洗礼年.正確な生年月日は不明)-1616)作の悲劇「マクベス」“Macbeth”におけるセリフ(“Methought I heard a voice cry “Sleep no more! Macbeth does murder sleep”,…「叫び声が聞こえた気がした,〈もう眠りは無しだ!マクベスは眠りを殺した〉…」― 《マクベス》第二幕第二場より)から引用.)) のように、カトリック真理を殺しているのです.同じロイターの記事によれば,教皇は,聖ピオ十世会の問題が「彼(教皇)から眠りを奪っている」(訳注・=聖ピオ十世会の問題が気がかりで「夜も眠れない」)と言ったと伝えられています.

教皇聖下,カトリック真理は聖ピオ十世会をはるかに上回って人知を超える高みに臨在(りんざい)しており(訳注・臨在=現存=presence.原文…“…the Truth is far above the SSPX,”),聖ピオ十世会はそれを守ろうとする束の間の小さな存在のひとつにすぎないことをどうか信じてください.私たち聖ピオ十世会会員の誰もが,聖下が万事良好で,とくに熟睡されるよう願っております.聖下を夜の安眠から妨げているのは聖ピオ十世会ではなく,抹殺されたカトリック真理なのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年5月10日月曜日

苦闘する両親たち

エレイソン・コメンツ 第147回 (2010年5月8日)

先週の「エレイソン・コメンツ」でご紹介した一修道女の言葉は依然として私の心に残り気がかりとなっています.「私たちの学校の女生徒たちをとりまく世間の状況は厳しいです.」わずか三年が経過しただけで「彼女たちの精神構造の変化が顕著に現れております.私たちは原則や品行を維持するのに苦闘しています.」それどころか,少女たちに対する世間の圧力は一向に和らぐ気配もありません.では,果たして私たちのカトリック信仰は「この世に対する私たちの勝利」(新約聖書・聖ヨハネの第一の手紙:第5章4節…“神から生まれた者は世に勝つ.世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である.”)に役立たなくなってしまったのか,それともこの修道女の言葉は,私たちすべてのカトリック教徒に対しカトリック信仰をより活性化させる必要があることを警告する赤信号なのか,あるいは私たちはカトリックの伝統を再び転換する必要がある,ということなのでしょうか?

子供の躾け(しつけ)における家庭と学校の関係について,仮に学校側に責任があるとしても,それは七分の二ほどについて言えることであり,少なくとも七分の五については家庭に責任があると言えます.したがって,先週ここで示唆(しさ)した通り,もし両親が子女を信用できる良い学校に入学させ,学校に預けさえすればそれで自分たちの義務は果たしたと考えるなら,それは重大な過ちだということなのです.子供の躾けにおける第一の責任は常に家庭にあります.先週ご紹介したシスターは決して自分自身に責任のあることを子供の家庭に転嫁しようとしているのではありません.そうではなく,彼女の主(おも)な望みは,神の憐れみに次(つ)いで,善良な家庭だということなのです.

今日では道理をわきまえた人なら両親に同情しない人は誰もいません.例えば,父親は通勤,満足感の得られない仕事,カトリックの教えにもとるような職場のためにくたくたに疲れてしまいがちです.一方で,母親は,もし彼女とその夫がカトリック教に則(のっと)った結婚の掟に従っていれば神が授け得る子供たちを次々に持ち,もし外部の学校がどこも堕落しきっていれば家庭の中でその子供たちを躾け、もし堕落していない清廉な学校があれば子供たちをそこに通わせる費用を稼ぐため家の内外で働かなければならず,またもし専業主婦として家に留(とど)まっていれば今度は人々の軽蔑の的になったりして疲れきっています.このような最悪の状況のいずれの場合にも,神は私たちの誰に対しても不可能なことを果たすよう期待してはおられません.しかし神は私たちに対し自らの十字架を背負い出来ることを果たすようにとは期待しておられるのです.

父親たちよ,あなたは家族の長として男らしく - 暴君的でなく!- 振る舞っていますか?あなたは家族を金銭より優先していますか,それとも家族より金銭を重視していますか?あなたは娘たちに母親を愛するよう模範を示していますか?あなたは妻の話によく耳を傾けていますか?あなたは自分自身の満足のため妻に,娘たちに悪い模範を与えかねないような装い,振る舞いをすることを求めていませんか?娘たちは母親の言うことよりずっと多く母親の行うことを見倣(みなら)うものです.あなたは娘たちと過ごす時間を取っていますか?娘たちが強く必要とする父親としての賢明な配慮と保護を彼女たちに与えていますか?母親たちよ,あなたたちへの質問はただ一つだけです.あなたは娘たちに,父親を尊敬し従うよう模範を示していますか(たとえ父親が常にそうされるにふさわしくなくてもです.)それとも娘たちの前で父親がつまらない狭量な人物に見えるようしゃべり倒していませんか?あなたがた夫婦はともに司祭に敬意を払うよう娘たちに模範を示していますか?

父親,母親たちに最後の質問が一つあります.あなたたちは今までに第二バチカン公会議前後のカトリック教徒の両親が,子供たちの躾けをする時期にうっかり任務を怠って眠ってしまい,目覚めてみたら時すでに遅しで,今となってはカトリック信仰の外で生きて死んでゆく子供たちを見てただ涙を流すしかないと話すのを聞いたことがありますか?あなたたちの家庭からテレビを追放しなさい(=追っ払いなさい,捨ててしまいなさい)! 司祭仲間や修道女の皆さん,嫌われ者になることを恐れないようにしましょう!そして私たちはみな,私たち自身のために主なる神が第二バチカン公会議のやり直しを私たちにさせなければならなくなるほどカトリックの伝統が和気あいあいと居心地の良いだけの生温(なまぬる)いものに落ちぶれてしまわないよう用心しましょう!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年5月3日月曜日

苦闘する修道女たち

エレイソン・コメンツ 第146回 (2010年5月1日)

最近,私は同じ女学校で教師をしている二人の修道女から手紙をいただきました.一人の方は自分の抱える問題を前に怯(ひる)んでいる様子でしたが,もう一人の方は前向きな希望に満ちた様子でした.だが,“シスター怯み”さん(訳注・“ Sister daunted ” 悲観的)が同時に前向きな希望も持っているように,“シスター望み”さん(訳注・“ Sister hopeful ”楽観的)も同時に怯んでいるに違いありません.なぜなら,カトリック教徒はみな,自分たちにひそかに忍び寄るほのかな背教に怯むことがないよう自分の目を閉じていなければならないからであり,かといって,カトリック信仰がもたらす希望を失えばカトリック信仰までも失ないかねないことになってしまうからです.

“シスター怯み”さんは「私たちの学校の子供たちをとりまく世間の状況は厳しいです.」と書いています.自分の出身国を離れて三年後,帰国した彼女が目の当たりにしたのは「女生徒たちの精神構造に顕著な変化が現れており,私たちは原則や品行を維持するのに苦闘しています.」という状況でした.念のために書きますが,この学校は伝統的な教義を守るカトリック教徒の両親たちによって支えられていて,入学者は絶えず増加し続けており,多くの両親たちは娘たちがそこで教育を受けられるよう並々ならぬ犠牲を払っています.それなのに,このような学校でも「精神構造」上の問題が増大しつつあるという報告を内部から私たちに伝えてきている一修道女がここにいるのです.

これは,私たちの西洋社会全体が神に対する信仰を棄(す)てつつあるからであり,また,アリストテレスが言った通り,人は社会的動物であり単に個々あるいは家族所属の動物ではないからです.したがって子供たちは,男子でも女子でも良い両親,良い家族また良い学校さえも持てるかもしれませんが,家庭や学校の内部でどれほど懸命にカトリック教育を徹底してみても,外部社会が同じカトリック教の価値を共有しない限り,その状況下に置かれた子供たちは,特に青年期以降,外部社会の反カトリック教的攻勢を感知して「時流に従う」ということに対して多かれ少なかれ厳しい圧力の下に置かれることになるのです.今日その圧力は深刻で,善良な修道女を怖気(おじけ)づけさせるところまで来ています.なぜなら,今日では真の教育者であれば誰もが,あたかも人一人が海岸に立って押し寄せてくる波を止めようとしているばかりのような気がしているからです.だが,少なくともこの修道女は目を見開いて洞察しており,女子教育があらゆる問題を解決してくれるだろうと考えて済ませがちな両親たちとは違って,自分を欺(あざむ)いて都合のよい思い違いをするということはしていません.

しかし,疑いなく彼女は“シスター望み”さんの持つ相対的な楽観主義も共有しています.“シスター望み”さんは,女生徒たちが学校で演劇をする時,それを見に来る世間の人々はみな「女生徒たちがセリフの一行一行を暗唱できていること,また客席の残りの生徒たちが携帯電話で遊んだりせずに劇に耳を傾けて観賞している姿に驚いています.」と,私に書いています.彼女は続けて「あなたがこのような感想をお聞きになれば,私たちが自分たちの活動の場で何とか成し遂げようとしている事を実感され,そのことに感謝したいお気持ちになられるのではないでしょうか」と記しています.

要するに,聖ジャンヌ・ダルクが言った通り,戦うのは私たちで,勝利を与えるのは神です.神は,私たちにいつも気に入るカードをお配りになるとは限りません.だが,与えられたカードを最大限に生かすかどうかは私たち次第です.私はまた,イヴリン・ウォー(訳注・“Evelyn Waugh (1903-1966)”.英国の小説家.1930年にカトリックに改宗.)が,彼のカトリック教徒らしからぬ不快極まる振る舞いを批判した一女性に臆さず返答した話を思い出します.彼はその女性に答えたものです.「マダム,もし私がカトリック教徒でなかったら今よりどれだけ不快な人間になり得たか,あなたは何も分かっておられません.超自然の助け(訳注・“ Supernatural aid ”=神の恵み)がなければ私はとてもまともな人間ではいられないでしょう.」
 
キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教