2010年5月3日月曜日

苦闘する修道女たち

エレイソン・コメンツ 第146回 (2010年5月1日)

最近,私は同じ女学校で教師をしている二人の修道女から手紙をいただきました.一人の方は自分の抱える問題を前に怯(ひる)んでいる様子でしたが,もう一人の方は前向きな希望に満ちた様子でした.だが,“シスター怯み”さん(訳注・“ Sister daunted ” 悲観的)が同時に前向きな希望も持っているように,“シスター望み”さん(訳注・“ Sister hopeful ”楽観的)も同時に怯んでいるに違いありません.なぜなら,カトリック教徒はみな,自分たちにひそかに忍び寄るほのかな背教に怯むことがないよう自分の目を閉じていなければならないからであり,かといって,カトリック信仰がもたらす希望を失えばカトリック信仰までも失ないかねないことになってしまうからです.

“シスター怯み”さんは「私たちの学校の子供たちをとりまく世間の状況は厳しいです.」と書いています.自分の出身国を離れて三年後,帰国した彼女が目の当たりにしたのは「女生徒たちの精神構造に顕著な変化が現れており,私たちは原則や品行を維持するのに苦闘しています.」という状況でした.念のために書きますが,この学校は伝統的な教義を守るカトリック教徒の両親たちによって支えられていて,入学者は絶えず増加し続けており,多くの両親たちは娘たちがそこで教育を受けられるよう並々ならぬ犠牲を払っています.それなのに,このような学校でも「精神構造」上の問題が増大しつつあるという報告を内部から私たちに伝えてきている一修道女がここにいるのです.

これは,私たちの西洋社会全体が神に対する信仰を棄(す)てつつあるからであり,また,アリストテレスが言った通り,人は社会的動物であり単に個々あるいは家族所属の動物ではないからです.したがって子供たちは,男子でも女子でも良い両親,良い家族また良い学校さえも持てるかもしれませんが,家庭や学校の内部でどれほど懸命にカトリック教育を徹底してみても,外部社会が同じカトリック教の価値を共有しない限り,その状況下に置かれた子供たちは,特に青年期以降,外部社会の反カトリック教的攻勢を感知して「時流に従う」ということに対して多かれ少なかれ厳しい圧力の下に置かれることになるのです.今日その圧力は深刻で,善良な修道女を怖気(おじけ)づけさせるところまで来ています.なぜなら,今日では真の教育者であれば誰もが,あたかも人一人が海岸に立って押し寄せてくる波を止めようとしているばかりのような気がしているからです.だが,少なくともこの修道女は目を見開いて洞察しており,女子教育があらゆる問題を解決してくれるだろうと考えて済ませがちな両親たちとは違って,自分を欺(あざむ)いて都合のよい思い違いをするということはしていません.

しかし,疑いなく彼女は“シスター望み”さんの持つ相対的な楽観主義も共有しています.“シスター望み”さんは,女生徒たちが学校で演劇をする時,それを見に来る世間の人々はみな「女生徒たちがセリフの一行一行を暗唱できていること,また客席の残りの生徒たちが携帯電話で遊んだりせずに劇に耳を傾けて観賞している姿に驚いています.」と,私に書いています.彼女は続けて「あなたがこのような感想をお聞きになれば,私たちが自分たちの活動の場で何とか成し遂げようとしている事を実感され,そのことに感謝したいお気持ちになられるのではないでしょうか」と記しています.

要するに,聖ジャンヌ・ダルクが言った通り,戦うのは私たちで,勝利を与えるのは神です.神は,私たちにいつも気に入るカードをお配りになるとは限りません.だが,与えられたカードを最大限に生かすかどうかは私たち次第です.私はまた,イヴリン・ウォー(訳注・“Evelyn Waugh (1903-1966)”.英国の小説家.1930年にカトリックに改宗.)が,彼のカトリック教徒らしからぬ不快極まる振る舞いを批判した一女性に臆さず返答した話を思い出します.彼はその女性に答えたものです.「マダム,もし私がカトリック教徒でなかったら今よりどれだけ不快な人間になり得たか,あなたは何も分かっておられません.超自然の助け(訳注・“ Supernatural aid ”=神の恵み)がなければ私はとてもまともな人間ではいられないでしょう.」
 
キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教