エレイソン・コメンツ 第147回 (2010年5月8日)
先週の「エレイソン・コメンツ」でご紹介した一修道女の言葉は依然として私の心に残り気がかりとなっています.「私たちの学校の女生徒たちをとりまく世間の状況は厳しいです.」わずか三年が経過しただけで「彼女たちの精神構造の変化が顕著に現れております.私たちは原則や品行を維持するのに苦闘しています.」それどころか,少女たちに対する世間の圧力は一向に和らぐ気配もありません.では,果たして私たちのカトリック信仰は「この世に対する私たちの勝利」(新約聖書・聖ヨハネの第一の手紙:第5章4節…“神から生まれた者は世に勝つ.世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である.”)に役立たなくなってしまったのか,それともこの修道女の言葉は,私たちすべてのカトリック教徒に対しカトリック信仰をより活性化させる必要があることを警告する赤信号なのか,あるいは私たちはカトリックの伝統を再び転換する必要がある,ということなのでしょうか?
子供の躾け(しつけ)における家庭と学校の関係について,仮に学校側に責任があるとしても,それは七分の二ほどについて言えることであり,少なくとも七分の五については家庭に責任があると言えます.したがって,先週ここで示唆(しさ)した通り,もし両親が子女を信用できる良い学校に入学させ,学校に預けさえすればそれで自分たちの義務は果たしたと考えるなら,それは重大な過ちだということなのです.子供の躾けにおける第一の責任は常に家庭にあります.先週ご紹介したシスターは決して自分自身に責任のあることを子供の家庭に転嫁しようとしているのではありません.そうではなく,彼女の主(おも)な望みは,神の憐れみに次(つ)いで,善良な家庭だということなのです.
今日では道理をわきまえた人なら両親に同情しない人は誰もいません.例えば,父親は通勤,満足感の得られない仕事,カトリックの教えにもとるような職場のためにくたくたに疲れてしまいがちです.一方で,母親は,もし彼女とその夫がカトリック教に則(のっと)った結婚の掟に従っていれば神が授け得る子供たちを次々に持ち,もし外部の学校がどこも堕落しきっていれば家庭の中でその子供たちを躾け、もし堕落していない清廉な学校があれば子供たちをそこに通わせる費用を稼ぐため家の内外で働かなければならず,またもし専業主婦として家に留(とど)まっていれば今度は人々の軽蔑の的になったりして疲れきっています.このような最悪の状況のいずれの場合にも,神は私たちの誰に対しても不可能なことを果たすよう期待してはおられません.しかし神は私たちに対し自らの十字架を背負い出来ることを果たすようにとは期待しておられるのです.
父親たちよ,あなたは家族の長として男らしく - 暴君的でなく!- 振る舞っていますか?あなたは家族を金銭より優先していますか,それとも家族より金銭を重視していますか?あなたは娘たちに母親を愛するよう模範を示していますか?あなたは妻の話によく耳を傾けていますか?あなたは自分自身の満足のため妻に,娘たちに悪い模範を与えかねないような装い,振る舞いをすることを求めていませんか?娘たちは母親の言うことよりずっと多く母親の行うことを見倣(みなら)うものです.あなたは娘たちと過ごす時間を取っていますか?娘たちが強く必要とする父親としての賢明な配慮と保護を彼女たちに与えていますか?母親たちよ,あなたたちへの質問はただ一つだけです.あなたは娘たちに,父親を尊敬し従うよう模範を示していますか(たとえ父親が常にそうされるにふさわしくなくてもです.)それとも娘たちの前で父親がつまらない狭量な人物に見えるようしゃべり倒していませんか?あなたがた夫婦はともに司祭に敬意を払うよう娘たちに模範を示していますか?
父親,母親たちに最後の質問が一つあります.あなたたちは今までに第二バチカン公会議前後のカトリック教徒の両親が,子供たちの躾けをする時期にうっかり任務を怠って眠ってしまい,目覚めてみたら時すでに遅しで,今となってはカトリック信仰の外で生きて死んでゆく子供たちを見てただ涙を流すしかないと話すのを聞いたことがありますか?あなたたちの家庭からテレビを追放しなさい(=追っ払いなさい,捨ててしまいなさい)! 司祭仲間や修道女の皆さん,嫌われ者になることを恐れないようにしましょう!そして私たちはみな,私たち自身のために主なる神が第二バチカン公会議のやり直しを私たちにさせなければならなくなるほどカトリックの伝統が和気あいあいと居心地の良いだけの生温(なまぬる)いものに落ちぶれてしまわないよう用心しましょう!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教