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2015年9月5日土曜日

425 愛徳の順序 9/5


解説付き版

エレイソン・コメンツ 第425回 (2015年9月5日)

私たちの嘘の世界は
往々にして 「黒は白だ」と言います.
(わたくし たちの うその せかいは
おうおう にして 「くろは しろだ」と いいます.)
( "Often our world of lies says, “Black is white.” " )

神を尺度とするなら,
公教徒達(=カトリック教徒達」)は 正しく測ります.
(かみを しゃくど と する なら,
こう きょうと たち〈=かとりっく きょうと たち〉は ただしく はかり ます.)
( "With God for measure, Catholics measure right." )

公教会(=カトリック教会)( "the Catholic Church" )は「人種差別」“racism” に就いて如何考えるでしょうか?(こうきょうかい〈かとりっくきょうかい〉は「じんしゅ さべつ」に ついて どう かんがえる でしょうか?) 「反ユダヤ主義」 “anti-semitism” (訳注後記0・1 )に就いては?(「はん ゆだや しゅぎ」に ついては?) 「(女)性差別」 “sexism” に 就いては?(「(じょ)せい さべつ」に ついては?) 或(い)は「同性愛嫌悪」 “homophobia” に就いては?(あるい は 「どうせい あい けんお」に ついて は?)( "What does the Catholic Church think of “racism”? Or of “anti-semitism”? Or of “sexism”? Or of “homophobia”? " ) 他にも多々在ります(ほか にも たた あり ます.)( "And so on and so on." ).誰もが他の誰に対しても親切だと想定されて居るリベラルな世界で(だれ もが ほか の だれ に たいし ても しんせつ だ と そうてい されて いる りべらる な せかい で)( "In a liberal world where everybody is supposed to be nice to everybody, …" ),私達全てが憎むべき様な新しい階級の人々に就いて「差別語禁止」が定期的に出て来るのは驚くべき事では無いでしょうか?(わたくし たち すべて が にくむ べき ような あたらしい かいきゅう の ひとびと に ついて「さべつ ご きんし」が ていき てき に でて くる のは おどろく べき こと では ない でしょうか?)( "… is it not surprising how “political correctness” seems to come up regularly with a new class of people for all of us to hate? " ) 公教会(カトリック教会)は,(其の創立者で在られる)神授の(=神聖な)真の教師(=神の御独り子主イエズス・キリスト)( "its divine Master" )の聖教(みおしえ)に従い私達は隣人を愛し,誰も憎むべきで無いと説いて居ます(こう きょうかい〈かとりっく きょうかい〉は,〈その そうりつしゃ で あられる〉しんじゅ の〈=しんせい な〉まこと の きょうし〈=かみ の おん ひとりご しゅ いえずす・きりすと〉の みおしえ に したがい わたくし たち は りんじん を あいし,だれ も にくむ べき で ない と といて います)(訳注後記0・2 ).だが教会は,私達に仲間の全てを無差別に愛せとは説いて居ません(だが きょうかい は,わたくし たち に なかま の すべて を むさべつ に あいせ と は といて いません)( "… but it does not say we should love all our fellow-men indiscriminately." ).偉大な公教会(カトリック教会)の神学者( "a great Catholic theologian" )が私達の神や人に対する愛に何の様な順序を付けたか振り返って見ましょう(いだいな こうきょうかい の しんがくしゃ が わたくし たち の かみ や ひと に たいする あい に どのような じゅんじょ を つけたか ふりかえって みましょう)( "Let us see how a great Catholic theologian puts order into our love of God and man." ).以下に紹介為るのは聖トマス・アクィナス( "St Thomas Aquinas" )の「神学大全」( "Summa Theologiae" )に含まれる十三か条の骨子,第二部第二巻,第二十六問(題)(=問26) ( "2a 2ae, Question 26" )です(いかに しょうかい する のは せい とます・あくぃなす の「しんがく たいぜん」に ふくまれる じゅうさん かじょう の こっし,だい に ぶ だい に かん,だい にじゅう ろく もん〈だい〉〈=とい にじゅう ろく〉 です):-- ( "Here are the bare bones of the 13 Articles of St Thomas Aquinas’ Summa Theologiae, 2a 2ae, Question 26:— " )
(訳注後記0・1) 「反ユダヤ主義」“anti-semitism” )
(訳注後記0・2 ) ① (i) 「公教会(カトリック教会)」の創立者すなわち「神授の真の教師」=「キリスト」「メシア(=メサイア)」.(ii) 「キリスト・メシア」の意味=「救世主」.「イエズス・キリスト」とは,即ち「救世主イエズス」の事である.「イエズス」の御名については,後述の「訳注の続き」をご参照下さい.②「公教会の教え」=「神(天主)の十戒」

1 愛徳 "Charity" には一つの真正の順序が在る(あいとく には ひとつの しんせい の じゅんじょ が ある)(訳注後記 1・1「神の十戒」を参照).何故なら,其れは超自然的至福に於ける友情であり(なぜなら,それは ちょう しぜん てき しふく に おける ゆうじょう で あり),其の至福は神を出発点とする物(為る物)だからです(その しふく は かみを しゅっぱつ てん と する もの だから です)( "1 Charity does have an order, because it is a friendship in supernatural bliss, and that bliss has its starting-point in God, …" ).貴方が出発点から物事を辿る場合(あなたが しゅっぱつ てん から ものごと を たどる ばあい),何時でも順番を付けるでしょう(いつでも じゅんばん を つける でしょう)( "… and wherever you have things following from a starting-point, you have an order." ).(公教徒〈=カトリック教徒〉が重要な問題となる(為る)と如何に直ちに神に委ねるかに注目して下さい.リベラル派(=自由主義派)は自分達の「親切さ」“niceness” の出発点に就いて,先ず何に委ねるのでしょうか? ナチスに対する憎悪でしょうか? 真面目な問いです…)〈こうきょうと〈=かとりっく きょうと〉が じゅうよう な もんだい と なると いかに ただちに かみに ゆだねるか に ちゅうもく して ください.りべらるは〈じゆう しゅぎ は〉 は じぶん たちの「しんせつさ」の しゅっぱつ てん に ついて,まず なに に ゆだねる ので しょうか? なちす に たいする ぞうお でしょうか? まじめな とい です…〉( "… (Notice how the Catholic immediately refers a major question to God. What might liberals immediately refer to as the starting-point of their “niceness”? Hatred of Nazis? Seriously… ) " )

2 愛徳に於いては隣人 "neighbour" よりも勝って神を愛さなければ為らない(あいとく に おいては りんじん よりも まさって かみを あいさなければ ならない)( "2 Charity must love God above neighbour, …" )(訳注後記 2・1「隣人とは誰か?」).何故なら,愛徳は至福に於ける友情( "charity is a friendship in bliss" )で有り(なぜなら,あいとく は しふくに おける ゆうじょう であり),私自身や私の隣人の為のあらゆる至福は神を源泉として居るからです(わたくし じしん や わたくし の りんじん の ため の あらゆる しふく は かみ を げんせん と している から です)( "… because charity is a friendship in bliss, and all bliss for myself or my neighbour has its source in God. " )(訳注後記2・2「神の十戒・第一項」を参照).(リベラル派は自らの幸福の源泉を何処に置いて居るのでしょうか? 自己達成感でしょうか? 其れとも自分達の仲間でしょうか? 此れ等は,幸福の形態としては相対的に貧弱な物です.)〈りべらるは は みずから の こうふく の げんせん を どこ に おいて いる ので しょう か? じこ たっせい かん でしょうか? それとも じぶん たち の なかま でしょうか? これら は,こうふく の けいたい と しては そうたい てき に ひんじゃく な もの です.〉( " (Where do liberals place the source of their happiness? In self-fulfilment? In their fellow-men? These are relatively poor forms of happiness.) " )
(訳注後記 2・1 )「隣人とは誰か?」→福音書のキリストによる「善きサマリア人」のたとえ話を参照.

3 神は自己以上に愛されなければ為らない(かみ は じこ いじょう に あいされ なければ ならない)( "3 God must be loved above self, …" ).何故なら,あらゆる(無傷の)生き物は其其(其々)の遣り方で(なぜなら,あらゆる〈む きず の〉いきもの は それぞれ の やりかた で),自分達自身の善より共通の善を自然に愛すからです(じぶん たち じしん の ぜん より きょうつう の ぜんを しぜん に あいす から です)( "… because all (unspoiled) creatures, each in their way, naturally love the common good above their particular good, …" ).神はあらゆる物の中で(かみ は あらゆる もの の なか で),自然的且つ超自然的な共通の善です(しぜん てき かつ ちょう しぜん てき な きょうつう の ぜん です)( "… and God is the natural and supernatural common good of all." ).

4 霊的自己(=自己の霊魂)( "Spiritual self" )は霊的隣人(=隣人の霊魂《=隣人の心・気持ち》)( "spiritual neighbour" )より愛されなければならないれいてき じこ〈=じこ の れいこん《=じこ の こころ・きもち》〉は れいてき りんじん 〈=りんじん の れいこん《=りんじん の こころ・きもち》〉より あいされ なければ ならない)( "4 Spiritual self must be loved above spiritual neighbour, …" )(訳注後記4・1 , 4・2).何故なら,私は隣人より私自身に近い存在だからです(なぜなら,わたくしは りんじん より わたくし じしん に ちかい そんざい だから です)( "… because I am closer to me than I am to my neighbour …" ).従って,若し私が「霊的に」私自身を愛さないなら(=私自身の霊魂《=私自身の心・気持ち》に対して愛徳を持てないなら),私は隣人を愛せそうもありません〈=私は隣人の霊魂《=隣人の心・気持ち》に対して愛徳を持てそうもありません〉〈したがって,もし わたくしが「れい てきに」わたくし じしんを あいさない なら〈=わたくし じしん の れいこん《=わたくし じしん の りょうしん・きもち》 に たいして あいとく を もてない なら〉,わたくし は りんじん を あいせそう も ありません〈=わたくし は りんじん の れいこん《=りんじん の りょうしん・きもち》に たいして あいとく を もてそう も ありません〉( "… so that if I do not love me (spiritually), I am unlikely to love my neighbour." ).然しながら――(しかしながら――)( "But –" )
(訳注4・1)「霊的自己・霊的隣人(=自己や隣人の霊魂を指す)」=自己や隣人の真の人格的価値や良心(善良な気持ち)を意味する.)〈「れいてき じこ・れいてき りんじん=《じこ や りんじん の れいこん を さす》」=じこ や りんじん の まこと の じんかく てき かち や りょうしん《ぜんりょう な きもち》を いみ する.〉
(訳注後記4・2 )「自己の真の人格的価値」について.

5 霊的な隣人は肉体的な自己(=自己の身体的欲求)より愛されなければ為らない(れい てき な りんじん は にくたいてき な じこ より あいされ なければ ならない)( "5 Spiritual neighbour must be loved above corporal self, …" ).肉体的自己とは即ち(乃ち)私自身の肉体です(にくたい てき じこ とは すなわち わたくし じしんの にくたい です)( "… i.e., my own body, …" ).何故なら霊は肉体以前に来る物で在り(なぜなら れいは にくたい いぜん に くる もの であり)( "… because spirit comes before body, …" ),其の訳は神は至福に直接加わるのに対し(その わけ は かみは しふく に ちょくせつ くわわる のに たいし ),肉体は(霊魂を通して)間接的にだけ加わるものだからです(にくたいは〈れいこんを とおして〉かんせつ てき に だけ くわわる もの だから です)( "… because spirit partakes directly in bliss, while body partakes only indirectly (through spirit)." ).(訳注後記 5・1 ) 
(訳注後記 5・1)「肉の欲・目の欲・生活のおごり」〈新約聖書:使徒ヨハネによる第一の書簡・第2章16節〈12-17節を掲載〉を参照.

6 或る隣人達は,他の隣人達より愛されなければならない(ある りんじん たち は,ほか の りんじん たち より あいされ なければ ならない)( "6 Some neighbours must be loved more than others, …" ).何故なら,全ての隣人達は神に対する客観的な物と私に対する主観的な物という愛徳の両極への近さで,其其(其々)異なる存在だからです(なぜなら,すべて の りんじん たち は かみ に たいする きゃっかん てき な もの と わたくし に たいする しゅかん てき な もの と いう あいとく の りょうきょく への ちかさで,それぞれ ことなる そんざい だからです)( "… because they all vary in their closeness to one of the two poles of charity, objective to God, or subjective to me." ).諸諸の聖人達は神により近く,諸諸の隣人達は私により近い存在です(もろもろの せいじん たち は かみ に より ちかく,もろもろの りんじん たち は わたくし に より ちかい そんざい です)( "Saints are closer to God, neighbours to me." ).

7 客観的に言えば,諸聖人は諸親族(=親戚)より愛されなければならない(きゃっかん てき に いえば,しょ せいじん は しょ しんぞく〈=しんせき〉 より あいされ なければ ならない)( "7 Objectively, Saints will be loved more than relatives, …" ).だが,主観的には諸隣人の方が諸聖人より強く愛されるでしょう(だが,しゅかん てき には しょ りんじん の ほう が しょ せいじん より つよく あいされる でしょう)( "… but subjectively neighbours will be loved more intensely than Saints, …" ).何故なら,諸隣人の方が色々な形で諸聖人より近い存在だからです――「愛徳は家庭から始まる」です(なぜ なら,しょ りんじん の ほう が いろいろ な かたち で しょ せいじん より ちかい そんざい だから です――「あいとく は かてい から はじまる」です)( "… because in a variety of ways they are closer – “Charity begins at home.” " ).

8 基本的には,諸諸の血縁の親族(親戚)達は親族(親戚)で無い者より愛されなければならない(きほん てき には,もろもろ の けつえん の しんぞく〈しんせき〉たち は しんぞく〈しんせき〉 でない もの より あいされ なければ ならない)( "8 Essentially, blood-relatives will be loved above non-relatives, …" ).何故なら,血縁は自然な物で,固定的且つ実体的な物だからです(なぜなら,けつえん は しぜん な もの で,こてい てき かつ じったい てき な もの だから です)( "… because blood-ties are natural, fixed and substantial." ).但し,偶然的に血縁関係で結ばれた親族(親戚)以外の友情の絆の方がより強い事が有ります(ただし,ぐうぜん てき に けつえん かんけい で むすばれた しんぞく〈=しんせき〉いがい の ゆうじょう の きずな の ほう が より つよい こと が あります)( "Accidentally however, other ties of friendship can be more powerful." ).

9 客観的には,両親は子供達より愛されなければならない(きゃっかん てき には,りょうしん は こども たち より あいされ なければ ならない)( "9 Objectively, parents are to be loved more than children, …" ).何故なら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近い存在だからです(なぜなら,せいめい や おおく の りとく の げんせん として,りょうしん は かみ に より ちかい そんざい だから です)( "… because as sources of life and of many benefits, parents are closer to God, …" ).だが,主観的には,幾つかの理由で,子供達の方が私達により近い存在です(だが,しゅかん てき には,いくつか の りゆう で,こども たち の ほう が わたくし たち に より ちかい そんざい です)( "… but subjectively children can be closer to us for several reasons." ).

10 父親は母親より愛されなければならない.此れは字義通りです(ちちおや は ははおや より あいされ なければ ならない.これ は じぎ どおり です( "10 Father should be loved more than mother, as such, …" ).何故なら,私達に生命を与える時に其其(其々)が果たす役割を見れば(なぜなら,わたくし たち に せいめい を あたえる とき に それぞれ が はたす やくわり を みれば)( "… because by the part each plays in giving us life,ten …" ),父親は形式的で能動的で在るのに対し(ちちおや は けいしき てき で のうどう てき である のに たいし)( "… the father is formal and active whereas …" ),母親は物質的(母系的)( "… the mother is material ( maternal ) " )で受動的だからです(ははおや は ぶっしつ てき〈ぼけい てき〉で じゅどう てき だから です)( "… the mother is material ( maternal ) and passive …" )(聖トマスは,今日見られる様な変性した人間で無く,正常な状態の人間に就いて書きました)(せい とます は ,こんにち みられる ような へんせい した にんげん でなく,せいじょう な じょうたい の にんげん に ついて かきました)( " (St Thomas was writing about human beings who are normal and not de-natured as they are today). " ).

11 客観的には,両親は妻より愛される事に為る(きゃっかん てき には,りょうしんは つま より あいされる こと に なる)( "11 Objectively, parents are to be loved more than wife, …" ).何故なら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近いからです(なぜなら,せいめい や おおく の りとく の げんせん として,りょうしん は かみ に より ちかい から です)( "… because as sources of life and of many benefits they are closer to God, …" ).然し,主観的には,妻は夫と合って「(二人は)一体」である為,両親以上に愛される物です(しかし,しゅかん てき には,つま は おっと と あって「〈ふたり は〉いったい」で ある ため,りょうしん いじょう に あいされる もの です)( "… but subjectively she who is “one flesh” with her husband is to be loved the more." )(訳注後記11・1 )
(訳注後記11・1)エフェゾ人への書簡:第5章31節.〈全章《第1-6章》を掲載〉

12 客観的には,私達に善行を行う者は私達が善行を与える者より愛される事に為る(きゃっかん てき には,わたくし たち に ぜんこう を おこなう もの は わたくし たち が ぜんこう を あたえる もの より あいされる こと に なる)( "12 Objectively, somebody doing good to us is to be loved more than somebody we do good to, …" ).何故なら,彼等は私達に取って善の源泉だからです(なぜ なら,かれら は わたくし たち に とって ぜん の げんせん だから です)( "… because they are a source of good to us, …" ).然し,主観的な身近かさの為,私達は私達が善行を与える者をより愛する事が有ります(しかし,しゅかん てき な みぢか さ の ため,わたくし たちは わたくし たち が ぜんこう を あたえる もの を より あいする こと が あります)( "… but by subjective closeness we love the more somebody that we do good to, …" ).詰まり(詰り),「受け取るより与える方が恵まれている」と言う訳です(つまり,「うけとる より あたえる ほう が めぐまれて いる」と いう わけ です)( "… for various reasons, e.g . “It is more blessed to give than to receive.” " )(訳注後記12・1)
(訳注後記12・1)「受け取るより与える方が恵まれている」 新約聖書からの引用→使徒行録:第20章35節『…そうして働いて弱い人々を支え,主イエズス自ら言われた*³⁵〈受けるよりも与えることに幸せがある〉ということばを思い出さねばならぬことを,常にあなたたちに示しました」.』(使徒聖パウロのことば(〈注釈〉 *³⁵ このことばは福音書にはない.)

13 天国でも依然として愛徳の順序がある(てんごく でも いぜん として あいとく のじゅんじょ が ある).何にもまして神に対する愛が一番です(なに にも まして かみに たいする あい が いちばん です).また,神への近さに就いての隣人の客観的評価は,此の(地上の)世より天国での方が重視されます(また,かみ へ の ちかさ に ついて の りんじん の きゃっかん てき ひょうか は,この 〈ちじょう の〉よ より てんごく で の ほう が じゅうし されます)
13 There will still be an order of charity in Heaven, especially the loving of God above all. Also the objective grading of neighbour for his closeness to God will count more there than it does here on earth.

「人種差別」に就いては如何でしょうか?(「じんしゅ さべつ」に ついて は どう で しょうか?)何の人種が神若しくは私により近いでしょうか?(どの じんしゅ が かみ もしく は わたくし に より ちかい で しょうか?) 何の人種も同じとは限りません(どの じんしゅ も おなじ とは かぎり ません).「反ユダヤ主義」は? セム人は神の友人でしょうか,其れとも敵でしょうか?(「はん ゆだや しゅぎ」は?せむ じん は かみ の ゆうじん で しょうか,それとも てき〈=かたき〉で しょうか?)(訳注2・1 ) 「(女)性差別」 は?(「〈じょ〉せいさべつ」は?) 今日の女性達は私が神へ向かう時手助けに為るでしょうか,其れとも邪魔を為るでしょうか? (こんにち の じょせい たち は わたくし が かみ へ むかう とき てだすけ に なる でしょうか,それとも じゃま を する でしょうか?),「同性愛嫌悪」は如何でしょう? (「どうせい あい けんお」は どうでしょう?)「ホモ達」は神と如何両立するでしょうか?(「ほも たち」は かみ と どう りょうりつ する でしょうか?)
“Racism”? – which races are closer to God, or to me? They are not all the same. “Anti-semitism”? – are “Semites” friends or enemies of God? “Sexism”? – do today’s women help or hinder me on my way to God? “Homophobia”? – how do “homos” stand with God?

キリエ・エレイソン(主よ憐れみ給え). Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教



* * *


解説無し


私たちの嘘の世界は往々にして「黒は白だ」と言います. 
神を尺度とするなら,カトリック教徒たちは正しく測ります. 
Often our world of lies says, “Black is white.” 
With God for measure, Catholics measure right. 

カトリック教会( "the Catholic Church" )は「人種差別」 “racism” についてどう考えるでしょうか? 「反ユダヤ主義」 “anti-semitism” については? 「性差別」 “sexism” については? あるいは「同性愛嫌悪」 “homophobia” については? ほかにも多々あります.誰もがほかの誰に対しても親切だと想定されているリベラルな世界で,私たちすべてが憎むべきような新しい階級の人々について「差別語禁止」が定期的に出てくるのは驚くべきことではないでしょうか? カトリック教会は,(その創立者であられる)神授の真の教師(=神の御独り子主イエズス・キリスト)( "its divine Master" )の聖教に従い私たちは隣人を愛し,誰も憎むべきでないと説いています(訳注2・2 ).だが教会は,私たちに仲間のすべてを無差別に愛せとは説いていません.偉大なカトリック教の神学者が私たちの神や人に対する愛にどのような順序をつけたか振り返ってみましょう.以下に紹介するのは聖トマス・アクィナス( "St Thomas Aquinas" )の「神学大全」( "Summa Theologiae" )に含まれる13か条の骨子,第2部第2巻,問26です.
What does the Catholic Church think of “racism”? Or of “anti-semitism”? Or of “sexism”? Or of “homophobia”? And so on and so on. In a liberal world where everybody is supposed to be nice to everybody, is it not surprising how “political correctness” seems to come up regularly with a new class of people for all of us to hate? The Catholic Church, following its divine Master, says we are to love our neighbour and to hate nobody, but it does not say we should love all our fellow-men indiscriminately. Let us see how a great Catholic theologian puts order into our love of God and man. Here are the bare bones of the 13 Articles of St Thomas Aquinas’ Summa Theologiae, 2a 2ae, Question 26:— 

1 愛徳 "Charity" には一つの真正の順序がある.なぜなら,それは超自然的至福における友情であり,その至福は神を出発点とするものだからです.あなたが出発点から物事をたどる場合,いつでも順番をつけるでしょう.(公教徒〈=カトリック教徒〉が重要な問題となるといかにただちに神に委ねるかに注目してください.リベラル派は自分たちの「親切さ」 “niceness”  の出発点について,まず何に委ねるのでしょうか?ナチスに対する憎悪でしょうか? 真面目な問いです…)
1 Charity does have an order, because it is a friendship in supernatural bliss, and that bliss has its starting-point in God, and wherever you have things following from a starting-point, you have an order. (Notice how the Catholic immediately refers a major question to God. What might liberals immediately refer to as the starting-point of their “niceness”? Hatred of Nazis? Seriously . . . ) 

2 愛徳においては隣人 "neighbour" より神を愛さなければならない.なぜなら,愛徳は至福における友情であり,私自身や私の隣人のためのあらゆる至福は神を源泉としているからです.(リベラル派は自らの幸福の源泉をどこに置いているのでしょうか? 自己達成感でしょうか? それとも自分たちの仲間でしょうか? これらは,幸福の形態としては相対的に貧弱なものです.)
2 Charity must love God above neighbour, because charity is a friendship in bliss, and all bliss for myself or my neighbour has its source in God. (Where do liberals place the source of their happiness? In self-fulfilment? In their fellow-men? These are relatively poor forms of happiness.) 

3 神は自己以上に愛されなければならない.なぜなら,あらゆる(無傷の)生き物はそれぞれのやり方で,自分たち自身の善より共通の善を自然に愛すからです.神はあらゆるものの中で,自然的かつ超自然的な共通の善です.
3 God must be loved above self, because all (unspoiled) creatures, each in their way, naturally love the common good above their particular good, and God is the natural and supernatural common good of all. 

4 霊的自己 "Spiritual self" は霊的隣人 "spiritual neighbour "より愛されなければならない.なぜなら,私は隣人より私自身に近い存在だからです.したがって,もし私が「霊的に」私自身を愛さないなら,私は隣人を愛せそうもありません.しかしながら――
4 Spiritual self must be loved above spiritual neighbour, because I am closer to me than I am to my neighbour so that if I do not love me (spiritually), I am unlikely to love my neighbour. But – 

5 霊的な隣人は肉体的な "corporal" 自己より愛されなければならない.肉体的自己とはすなわち私自身の肉体です.霊(霊魂)は肉体以前に来るものであり,霊は至福に直接加わるのに対し,肉体は(霊魂を通して)間接的にだけ加わるものです.
5 Spiritual neighbour must be loved above corporal self, i.e., my own body, because spirit comes before body, because spirit partakes directly in bliss, while body partakes only indirectly (through spirit).

6 ある隣人たちは,ほかの隣人たちより愛されなければならない.なぜなら,すべての隣人たちは神に対する客観的なものと私に対する主観的なものという愛徳の両極への近さで,それぞれ異なる存在だからです.聖人は神により近く,隣人は私により近い存在です.
6 Some neighbours must be loved more than others, because they all vary in their closeness to one of the two poles of charity, objective to God, or subjective to me. Saints are closer to God, neighbours to me. 

7 客観的に言えば,聖人は親戚より愛されなければならない.だが,主観的には隣人の方が聖人より強く愛されるでしょう.なぜなら,隣人の方が色々な形で聖人より近い存在だからです.「愛徳は家庭から始まる」です.
7 Objectively, Saints will be loved more than relatives, but subjectively neighbours will be loved more intensely than Saints, because in a variety of ways they are closer – “Charity begins at home.” 

8 基本的には,血縁の親戚は親戚でない者より愛されなければならない.なぜなら,血縁は自然なもので,固定的かつ実体的なものだからです.ただし,偶然的に血縁親戚以外の友情の絆の方がより強いことがあります.
8 Essentially, blood-relatives will be loved above non-relatives, because blood-ties are natural, fixed and substantial. Accidentally however, other ties of friendship can be more powerful. 

9 客観的には,両親は子供たちより愛されなければならない.なぜなら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近い存在だからです.だが,主観的には,いくつかの理由で,子供たちの方が私たちにより近い存在です.
9 Objectively, parents are to be loved more than children, because as sources of life and of many benefits, parents are closer to God, but subjectively children can be closer to us for several reasons. 

10 父親は母親より愛されなければならない.これは字義通りです.なぜなら,私たちに生命をあたえるときにそれぞれが果たす役割を見れば,父親は形式的で能動的であるのに対し,母親は物質的(母系的)で受動的だからです(聖トマスは、今日見られるような変性した人間でなく,正常な状態の人間について書きました).
10 Father should be loved more than mother, as such, because by the part each plays in giving us life, the father is formal and active whereas the mother is material ( maternal ) and passive (St Thomas was writing about human beings who are normal and not de-natured as they are today). 

11 客観的には,両親は妻より愛されることになる.なぜなら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近いからです.しかし,主観的には,妻は夫と「一心同体」であるため,両親以上に愛されるものです.
11 Objectively, parents are to be loved more than wife, because as sources of life and of many benefits they are closer to God, but subjectively she who is “one flesh” with her husband is to be loved the more. 

12 客観的には,私たちに善行を行う者は私たちが善行を与える者より愛されることになる.なぜなら,彼らは私たちにとって善の源泉だからです.しかし,主観的な身近かさのため,私たちは私たちが善行を与える者をより愛することがあります.つまり,「受け取るより与える方が恵まれている」というわけです.
12 Objectively, somebody doing good to us is to be loved more than somebody we do good to, because they are a source of good to us, but by subjective closeness we love the more somebody that we do good to, for various reasons, e.g . “It is more blessed to give than to receive.” 

13 天国でも依然として愛徳の順序がある.何にもまして神に対する愛が一番です.また,神への近さについての隣人の客観的評価は,この世より天国でのほうが重視されます.
13 There will still be an order of charity in Heaven, especially the loving of God above all. Also the objective grading of neighbour for his closeness to God will count more there than it does here on earth.

 「人種差別」についてはどうでしょうか? どの人種が神もしくは私により近いでしょうか? どの人種も同じとは限りません.「反ユダヤ主義」は? セム人は神の友人でしょうか,それとも敵でしょうか? 「性差別 は?」 今日の女性たちは私が神へ向かうとき手助けになるでしょうか,それとも邪魔をするでしょうか? 「同性愛嫌悪」はどうでしょう? 「ホモたち」は神とどう両立するでしょうか?
“Racism”? – which races are closer to God, or to me? They are not all the same. “Anti-semitism”? – are “Semites” friends or enemies of God? “Sexism”? – do today’s women help or hinder me on my way to God? “Homophobia”? – how do “homos” stand with God? 

キリエ・エレイソン.
Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教



 * * *


(訳注の続き)

(訳注後記 0・2 ) ① (i) 「イエズス」の御名の意義について→新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第1章18-25節を参照. 
(訳注後記 1・1)「神の十戒」を参照→「神の十戒」=「天主の十戒」 

『…イエズス・キリストの誕生は次のようであった.*¹⁸母のマリアはヨゼフのいいなずけであったが,同居する前に,聖霊によって身ごもっているのがわかった.*¹⁹夫のヨゼフは正しい人だったので,彼女を公に辱めようとせず,ひそかに離別しようと決心した.彼がこうしたことを思い煩っていたとき,突然夢の中に主の天使が現れて言った,「ダビドの子ヨゼフよ,ためらわずにマリアを妻として迎えよ.マリアは聖霊によって身ごもっている.彼女は子を生むからその子を*²¹イエズスと名づけよ.何故なら彼は罪から民を救う方だからである」.これらのことは預言者によって主が言われたみことばの実現であった,

「処女(おとめ)が身ごもって子を生む.その名はエンマヌエルと呼ばれる」.
その名は「神はわれわれとともにまします」という意味である.

目覚めたヨゼフは主の天使から命ぜられたとおりに妻を迎え入れた.*²⁵そしてマリアは*子を生んだ.だがヨゼフは彼女を知らなかった.彼はその子をイエズスと名づけた.』

(注釈)

イエズスの誕生1・18-25)

*¹⁸ 嫁はある期間夫の家に入らなかった.それでヨゼフとマリアも,すでに夫婦であったにもかかわらず一緒に住んでいなかった.二人の結婚は正当なものだった.福音史家もすぐあとでヨゼフを夫と呼んでいる.

*¹⁹ ヨゼフは律法を完全に守る「正しい人」であった.彼はマリアを訴える権利があった.しかしまた一方では彼女の貞潔を疑えなかったので,訴えて辱めるに忍びなかった.

*²¹ イエズスとは「ヤベ(神)が救う」という意味の名前である.

*²⁵ イエズスの超自然的誕生を強調する.それゆえマリアの処女性が守られたことを証する.マリアがイエズス誕生前も誕生後も処女であったことは,カトリック教会の信仰箇条である

*²⁵ ブルガタ訳には「初子」とあるが,これはたぶんルカ(2・7)による後世の書き入れであって,批判テキストにこのことばはない.ただ「子」とある.


(マテオ聖福音書内の該当箇所を追って掲載いたします.)


* * *
訳注の掲載を続けます.
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本投稿記事・第425回エレイソン・コメンツ「愛徳の順序」 "CHARITY'S ORDER"( 2015年9月5日付)は2015年10月30日18時05分に掲載されました.
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2011年12月13日火曜日

228 国教たるべきか? (11/26)

エレイソン・コメンツ 第228回 (2011年11月26日)

カトリック教を擁護(ようご),促進(そくしん)するため国家はどのような役割を果たすべきでしょうか? カトリック教義( “Catholicism”,カトリシズム) が唯一の真の神の唯一の真の宗教だと信じるカトリック教徒なら誰しも,国家もまた(訳注・他のすべての被造物と同様)神が創造された被造物の一つなのだから,その神の唯一の真の宗教のために最善のことをすべきだと答えるでしょう.これに対して,宗教はいずれにせよ個々人の問題なのだから国家はどれを真の宗教とするか判断できないと信じるリベラル主義者は誰でも( “any liberal” =リベラリスト,自由主義者),国家がなすべきは国民が自分で選んだ宗教を実践するか無宗教のままでいるかの権利を擁護することだけだと答えるでしょう.この点についてのカトリック教の見地からの議論をいくつか見てみましょう.

人間は神から生まれたものです.人間の性質は神に根ざしています.人間は生まれつき社会的で,その社会的な性質(=社会性)も神から受けたものです.だが,人間は,その人格の一部だけでなく,人格の全部(訳注・=全人格)を挙(あ)げて(神の十戒の第一戒)(訳注後記),神を崇拝すべく(訳注・創造主たる神により)義務づけられています( “…owes worship to God”.) それゆえに人間の社会性は神を崇拝すべき義務を負うことになるのです.だが国家とは単に国民ひとりひとりの持つ社会性がひとつの政治的統一体に結集した一社会にすぎません.したがって国家は神を崇拝する義務を負うのです.現世には相互にどうしても矛盾する諸々の崇拝がありますが(そうでなければどれも相違なくみな同じということになります),必ず存在するただひとつの完全に真実たり得る崇拝を除いて,その他のすべての崇拝は程度の差こそあれまがい物(=偽物)ということになるでしょう.(訳注・原文= “…, maybe all are more or less false but certainly one alone can be fully true.” どれほど多くの崇拝が存在していようと,完全に真実たり得る崇拝はただひとつしか存在しないことは確かであり,そのほかはすべてほぼ偽物だということになるでしょう.)したがってもしそのような崇拝がひとつ存在し,それが完全に真実なものかつ真実だと認め得るものであれば,それがまさしくあらゆる国家が,国家として,神に対し果たすべき崇拝です.だがカトリック教義こそがその崇拝なのです.したがって,いかなる国家であれ,あらゆる国家が,国家として,神に対しカトリック教義に基づいた崇拝を捧げる義務を負うのであり,たとえそれが今日の英国であれイスラエルであれサウジアラビアですらそこに含まれるのです!

だが,崇拝の本質とは個々人が可能な奉仕 “service” を神に捧げるということです.国家ができる奉仕とはどのようなものでしょうか? それはとても大きなものです! 人間は生まれながらに社会性をそなえているため,人間が形成する社会はその構成員がなにを感じ,考え,信仰するかに大きな影響を持ちます.そして,国家の法律は,その国民の社会形成に決定的な影響を持ちます.例えば,堕胎やポルノが合法化されれば,国民の多くはそれについて,ほとんどもしくはまったく問題がないと考えるようになるでしょう.したがって,すべての国家は原則として法律によりカトリック信仰とその教え説く諸々の道徳を擁護し促進する義務があります.

この原則は明瞭なものです.だが,この原則は警察があらゆる非カトリック教徒を取り押さえ火あぶりの刑に処するべきだということまで意味するでしょうか? それはまったく違います.なぜなら神を崇拝し神に奉仕する目的は神に栄光を与え人々の霊魂を救うことだからです.国家の側による軽率な行動は逆効果を生むだけでしょう.つまり,カトリック教義の信用を落とし人々を遠ざけることになるでしょう.したがって,たとえカトリック国家であってもその国がある公共悪に対して然(しか)るべき措置を講じようと行動を起こす場合,その行動を起こすことが却(かえ)ってより大きな悪を引き起こす要因となったり,もしくはより大きな善を妨げることとなったりする恐れのある場合にはその行動をその公共悪に対して起こすことを実際的に慎(つつし)む権利を有するとカトリック教会は教えています.だが,あらゆる国家にカトリック信仰,道徳を擁護する原理的な義務があることに変わりはありません.

そのことは国民にカトリック信仰を強要することを意味するでしょうか? そのようなことはまったくありません.なぜならカトリック信仰は強要できるものではないからです - 「自らの意に反して信じる者など誰もいない」(聖アウグスティヌスの言葉).この言葉がまさに意味するのは,公共悪に対する行動が逆効果を生むとは限らない,もしくは生むべきではないようなカトリック国家においては,カトリック教以外のあらゆる宗教の公的実践を禁じてもよい,もしくは禁じるべきだということです.この理論的結論を否定したのが第二バチカン公会議です.なぜなら第二バチカン公会議はリベラルな路線を取ったからです.だが,この理論的結論は公会議以前には世界各地のカトリック国家で共通に実践され,それにより多くの人々の霊魂が救われる役に立っていたのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

* * *

第2パラグラフの訳注:
「神の十戒の第一戒」についての聖書からの引用.

新約聖書・マテオによる聖福音書:第22章34-40節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW, 22:34-40

最大のおきて(22・34-40)
『*¹イエズスがサドカイ人の口を封じられたと聞いたファリザイ人は相集まった.そしてそのうちの一人(*²の律法学士)が,イエズスを試みようとして,「先生,律法のうちどの掟(おきて)がいちばん大切(たいせつ)ですか」と尋(たず)ねた.
イエズスは,「〈*³すべての心,すべての霊,すべての知恵をあげて,主なる神を愛せよ〉.これが第一の最大の掟である.第二のもこれと似ている,〈*⁴隣人を自分と同じように愛せよ〉.すべての律法と預言者はこの二つの掟による」と答えられた.』

(注釈)

*¹ 34-40節 ルカ聖福音書10・25-28にあるが,話の状態は異なっている.

*² このことばはルカ(10・25)による書き入れらしい.しかし大部分の写本にのっている.

*³ 〈旧約〉第二法の書6・5参照.

「(〈4節〉**¹イスラエルよ聞け,われらの神なる主こそ唯一の主である.)
〈5節〉**²心を尽くし,魂を尽くし,力を尽くして,神なる主を愛せよ
(〈6節〉私が今日命じることばを心に刻(きざ)みつけよ.
〈7節〉そのことばをおまえの子らに教えよ,家にいても道を歩いていても,横になっていても起きていても,つねにそのことばを繰り返し教えよ.
〈8節〉**³それを自分の手にしるしとして結びつけ,目と目の間の下げ飾りとしておけ.
〈9節〉また,家の**⁴側柱(わきばしら)と扉とにそれを書き記せ.」

(注釈)
**¹ 4・35,〈旧約〉ザカリアの書14・9.唯神論の厳かな宣言であり,この章のはじめのことば「シェマ」(聞け)で話が始まる.バビロンに流されて後おそらくアシダイの人々が命じ,現在でもイスラエル人の信仰厚い人々が朝と夕べにとなえる有名な祈りをシェマという.この祈りは「イスラエルよ聞け」で始まり,6・4-9,11・13-21,〈旧約〉荒野の書15・38-41で成り立っている.

**² 神への愛は十戒(〈旧約〉脱出の書20・6)ですでに語られたけれども,第二法の書(10・12,11・1,13,22,13・4,19・9,30・6,16,20)は律法五書の中でも特に神への愛を人間の働きの土台として扱っている.
愛は神の恵みに対する人間の答えであり(12節,10・12以下),神への恐れと敬(うやま)いとおきての遵守(13節,10・12,11・13,11・1,22,19・3,30・16)をも含むものである.キリストは4節と5節とレビの書の19章18節を新約の律法の第一のおきてとした
(〈新約〉マルコ聖福音書12・18-31,〈新約〉ローマ人への手紙13・8以下).

**³ 8-9節 〈旧約〉脱出の書13・9,16.「しるし」と「下げ飾り」は元来比喩(ひゆ)としてとるべきだったのに後のユダイズムはそれを文字通りとって律法を手に結びつけ額に飾った(〈新約〉マテオ聖福音書23・5).

**⁴ 「側柱」はヘブライ語の「メズザ」で,入口の側にある柱.第二法の書の6・4-9,11・13-21を羊皮紙に書いて小箱に入れ,それを側柱につけていた.これをメズザという.現在でもユダヤ教の信者の中には,入口の右側柱の上にあるメズザに手を触れ,詩篇(121・8)をとなえる人がある.

*⁴ 〈旧約〉レビの書19・18参照.
→「…**¹あだの仕返しをしてはならぬ.民の子らに恨みを含まず,むしろ隣人を自分と同じように愛せよ.私は主である.」

(注釈)
**¹ 当時としては,深い配慮のあるおきてである.マテオ聖福音書(5・43以下),マルコ(12・31),ヨハネ(13・34)において,愛のおきてはまったく一新された.キリストのころ,ユダヤ人の他国人への憎悪はきわめて深かった.

* * *

2011年4月4日月曜日

なぜ苦難があるのか?

エレイソン・コメンツ 第192回 (2011年3月19日)

最近,日本の東海岸沖合でプレート移動による激しい地殻変動が,内陸部で観測史上最大の地震を,沿岸部で壊滅的な津波を引き起こしました.この天災は多くの人の心に古くからある疑問を投げかけたに違いありません.もし神が存在し,その神が全能かつ限りなき善意の持ち主であるなら,人間がこれほどの大きな苦難を被(こうむ)ることをどうしてお許しになるのだろうか? 人々が自ら苦難に直面していない平時なら,この疑問に対し昔からある答えを理解するのは理屈の上ではそう難しいことではありません!--

まず第一に,苦難は往々にして罪に対する罰です.神は確かに存在し,罪は神の怒りを招きます.罪が霊魂を地獄に落とすものである一方で神は霊魂を天国に向けるよう創造されました.もし地上での苦難が罪にブレーキをかけ霊魂が天国を選ぶ助けになるなら,そのために必要とあらば地殻変動プレートを支配される神は不本意ながらもそれを用いて罪を罰することがおできになるのです.では日本の人々が他国の人々に比べ殊(こと)のほか罪深かったのでしょうか? 私たちの主イエズス・キリスト御自身は私たちに対してこう言われます.すなわち,そのような問いかけをするのではなく,むしろ私たちが自らを振り返って犯した数々の罪のことを思い巡(めぐ)らし,その償いを果しなさい,さもなければ「あなたたちもみな同様に滅びるだろう」(ルカ13章4節)と.西洋式(欧米流)物質主義とそれがもたらす快適さが本当の人生といえるかどうか疑問に思っている日本人が現在誰一人いないとしてもさほど驚くことではないのではないでしょうか?(訳注後記)

第二に,人間の苦難は警告(けいこく)となり得るのであり,人々に悪から目を背け自惚(うぬぼ)れを避けるよう仕向けます.たった今,神の存在を認めない罪深き西洋諸国全体が自身の物質主義と繁栄に疑問を投げかけるべきです(訳注後記).過去数年間にわたり世界各地で着実に高まりつつある地震その他の自然災害の発生率により,主なる神は確かに私たち人間すべての注意を喚起(かんき)しておられるのです.おそらく神が,1973年に日本の秋田で神の御母を通し警告されたように世界中で私たち人間に「火の雨」を降らせるという罰を下さずに済むようにと望まれているからです(訳注後記).だが,たった今現実に苦難を受けている日本の人々の方が,遠く隔(へだ)たった西洋諸国の人々に比べ被った災害からより多くの利益を得ている公算が大きい(可能性が高い)と言えるのではないでしょうか? これら諸国のいずれの国にとっても実のところ,差し迫った神の懲罰の前触(まえぶ)れ(予兆)を予(あらかじ)め味わっているというだけで運がいいということなのかもしれません.

第三に,神は人間の苦難を用いて神の僕たちの善徳を浮き彫り(うきぼり)にされるのかもしれません.ちょうどヨブ(訳注・旧約聖書に登場する善人の名)やキリスト教の昔からのあらゆる殉教者たちの場合がその例にあたります.今日の日本において超自然的な神への信仰( “supernatural faith” )を持つ人は少ないかもしれませんが,今回の事態においてもし日本の人々が漠然(ばくぜん)とでも強力な神の御手(の業(わざ),力)を感じさせる何らかの偉大な存在の下に自らを低くし慎(つつし)むなら,(神の支配される)自然の賜物に与(あずか)るようになり,少なくとも自然レベルで自らの身をもって神に栄光をもたらすことになるでしょう(訳注後記).

最後に,旧約聖書のヨブの書第36章に記されてあるとおり,ヨブがなぜ苦難に襲われたかについてヨブ自身や彼の家族や友人たちが思いついた説明にどうしても満足しないヨブに対して,ついに神御自身が答えられます.神の御言葉を分かりやすいように言い換えてみます:「ヨブよ,私(神)が地に基(もとい)をおいた時,あなたはどこにいたのか? あなたが地殻変動プレートを造ったのか? あなたは誰が平時には海の水をその境界内に留(とど)め,乾いた土地に押し寄せぬようにしていると思っているのか? この度,海水が日本の東北地方沿岸に打ち寄せるままにした私自身に然(しか)るべき理由がなかったと,あなたには本気で思えるのか?」ヨブの書の第38章と39章を読んでみて下さい.ヨブはようやく屈服し神に服従したのです.ヨブは神の答えに満足し,神の上智(知恵・叡智)と善意に疑問を差し挟(はさ)んだ自らの過(あやま)ちを認めました(ヨブ42,1-7)(訳注後記).

世界中の私たち一人ひとりが神に対しこれまでに犯した自らの罪の償いをしましょう.一人ひとりが日本で起きたこの大震災を自らへの警告と受け止め自分自身を戒(いまし)めましょう.やがて私たち自身にふりかかる様々な試練のなかで,(神の御前に正しく慎ましく生活することにより)神に栄光をもたらすことができるよう望みをかけましょう.そして,とりわけ,神のみが唯一の神(永遠の全知全能の存在なる方)であることを認めましょう!(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


(訳注)のリスト:

(1)第2パラグラフの訳注:新約聖書・ルカ聖福音書:第13章4節

(2)第3パラグラフの2番目の訳注:「秋田の聖母」について.

(3)第5パラグラフの2番目の訳注:旧約聖書・ヨブの書:第42章1-7節

(4)第5パラグラフの初めの訳注:旧約聖書・ヨブの書:第38,39章→38章-40章を部分的に抜粋して記載します(後から全部を別の場所に記載します).

(5)第2,第3,第4パラグラフについての訳注:聖書の引用
・「西洋式物質主義の快適さが本当の人生と言えるか?」について.
・「罪深き西洋諸国全体の物質主義と繁栄に疑問を投げかけるべき」について.
・「超自然的な神への信仰」( “supernatural faith” )について.

(6)第4,6パラグラフについての訳注:
・「神に栄光をもたらす」…原文 “give Him glory”, “to give glory to God.” の意味について.

(注・引用した聖書の(注釈)の一部については後から追加します)

* * *

(1)第2パラグラフの訳注:
新約聖書・ルカ聖福音書:第13章4節(太字部分)(1-5節を記載)

『そのとき,ピラトがあるガリラヤ人たちの血を彼らのいけにえに混ぜたという知らせを告げに来た人々があった.
イエズスは答えられた,「ガリラヤ人がそんな目に会ったからといって,彼らが他のガリラヤ人以上に大きな罪人だったと思うか.私は言う.そうではない.あなたたちも悔い改めないなら,みな同じように滅びるだろう.
また,*¹シロアムの塔が倒れて押しつぶされた十八人が,エルサレムのほかの人々よりも大きな負い目をもっていたと思うか.私は言う.そうではない.*²悔い改めないなら,あなたたちもみな同じように滅びる」.』

(注釈)

(悔い改め)
*¹ユダヤ人は,災(わざわ)いは罪の罰であると考えていた.しかしそうではない.義人(正しい人)も災いにあうことがある.

²このことばはエルサレム滅亡のとき実現した.

* * *

(2)第3パラグラフの訳注:
「秋田の聖母」 “Our Lady of Akita” について.

日本よりも海外でよく知られており,「日本の聖母マリア」として大変有名である.巡礼者も毎年世界各地から多くの人が訪れている.

(出来事の簡単な説明)
日本の秋田県で1973年から1982年まで続いた聖母マリア御出現の奇跡.
・1973年夏,秋田県秋田市にあるカトリックの女子在俗修道会「聖体奉仕会」所属の修道女シスター・アグネス笹川の左掌に十字架の形の傷が現れ激しく痛み出血した(「聖痕」と呼ばれる奇跡的な現象).
・また修道院の聖堂の木彫りの聖母像の目から涙が流れ出,その右掌からも血が流れた.
・そして聖母御出現当時,神の御旨により全く耳が聞えなくされていたシスターの耳に聖母の非常に美しいみ声が聞えた.
・聖母は3回シスターに出現され,世界人類の罪に対する神の悲しみと怒り,来たるべき神の人類への重い罰,悪魔の誘惑によるカトリック教会の堕落,多くの失われる霊魂に対する聖母の悲しみなどについて警告された.
・また世界を破滅から救うことが出来るのはキリストの残された印(御聖体)と聖母のロザリオの祈りのみであることを訴えられ,人々の改心のため,またカトリック教会の聖職者(司教・司祭)たちのために償いと犠牲の業とロザリオの祈りを熱心にすることの必要性を告げられた.
・他に,香しい芳香が感じられるなどの奇跡も数回起きている.
・シスター笹川の耳は聖母の出現から数年後(1982年)神の奇跡により癒(いや)され完全に聞えるようになった.
・聖母像の目から涙が流れ出た回数は数年間に101回に及び,この間に延べ約500人の人が訪れその涙を目撃している.
・秋田に訪れて聖母に祈りを捧げた多くの人が聖母の取り次ぎにより病気の治癒や改心に導かれるなどの人生の奇跡的な転換を体験している.

(参考文献)
・「秋田の聖母マリア」安田貞治神父・著 聖体奉仕会・発行(1987年)
・「日本の奇跡『 聖母マリア像の涙』- 秋田のメッセージ」安田貞治神父・著 エンデルレ書店・発行(2001年)
・ロザリオの祈りはダイノスコプス・エレイソン・コメンツ用語集に記載されています.

* * *

(3)第5パラグラフの訳注:
旧約聖書・ヨブの書:第42章1-7節

『そのときヨブは主(神)に答えて言った,
「あなたにはすべてができると,私は知っています.あなたは企(くわだ)てたことを実行されます.
思慮のない言葉で,あなたの企てをかき乱したのは私です.
私は自分で分からぬこと,自分の知らぬ不思議について,向こうみずにも語りました.
(聞きたまえ,私に言わせたまえ.私は尋(たず)ねます.教えたまえ).
*私は耳で聞いてあなたを知っていました.だが今,私はこの目であなたを見ました.
そのために私は自分の愚かさにあきれ,ちりと灰の上で悔やみます.」 』

(注釈)

*神の出現のことをいっているのではない.ただ,神の実在について新しい知識を受けた.ヨブは神の神秘を知りその全能を礼拝する.正義についてヨブがした質問に神からの返事はなかった.しかし,神がなさったことを人間に神自身が説明する義務のないこと,神の知恵は苦しみと死という事実にも,人間の考え及ばぬ意味を持たせうることをヨブは悟った.

(注記)

エレイソン・コメンツ第180回の「第2パラグラフの訳注」と「『正しい人の苦しみ』について」をご参照ください.

* * *

(4)第5パラグラフの初めの訳注:

旧約聖書・ヨブの書:第38,39章
→38章-40章を部分的に抜粋して記載します(後から全部を別の場所に記載します).

『そのとき,主は,嵐の中からヨブに話しかけられた,
「思慮のないことばで,私のはかりごとをかきまぜるのはだれか.
おまえは勇士のように腰に帯せよ,私が尋(たず)ねるから教えてくれ.

私が地に基(もとい)をおいたとき,おまえはどこにいたのか.
知っているなら言え.
だれがその尺度を決めたか知っているのか.だれがそこに綱を引いたのか.
その土台は何の上に立ち,だれが隅石をおいたのか.
朝の星がともに歌い,神の子らが喜びおどっていたそのとき.
だれが海に戸を閉ざしたのか.
それが胎からあふれ出たときのことだ.
私がその上に雲をまとわせ,黒雲を産衣(うぶぎ)としたときのことだ.

私はそれに境を定め,扉とかんぬきをおいて,
〈これを越えてはならぬ〉と言った.
〈ここでおまえの波の高ぶりはとどまる〉と.・・・
おまえは海の源にいき,淵の底をまわったことがあるのか.
死の門を示し,影(黄泉)の国の門を見たことがあるのか.
また,地の広さを幾分でも知っているのか.
言え,知っているのなら.
光はどちらの方に住み,やみのところはどこにあるのか.
おまえはそれらを迎えにいき,おのおのの家に連れもどせるのか.・・・

おまえは雪の倉にも入り,
雹(ひょう)の蓄(たくわ)えどころを見たことがあるのか.
それは苦悩のときのために,戦いといくさの日のために蓄えてある.
稲妻はどの方角にひらめき,地に火花を散らすのか.
にわか雨に堀を開き,雷鳴に道を明けるのはだれか.
無人の地にも,人住まぬ荒野にも雨を降らし,
すたれた寂しいところに水を与え,荒れ地に草を生えさせる.・・・

おまえにスバルの鎖が結べるのか.あるいはオリオンの綱が解けるのか.・・・
天の法則を知り,地へのその影響を定めるのはおまえか.
声を雲にあげ,水の集まりを従えることができるのか.
稲妻が〈はい,ここにいます〉とやってきて出かけるのは,
おまえが命令を下すからなのか.・・・

雌じしのためにえさを狩り,子じしの飢えを満たすのはおまえか.
かれらが穴にうずくまり,茂みに待ち伏せしているときに,
からすの子が神に向って鳴き,えさもなくさまようとき,
からすに食べ物を与えるのはだれか.・・・

・・・そのとき,ヨブは主に答えて言った,
「私は軽率なことを申しました.あなたに何の口答えができましょう.
私は口に手をあてます.一度話しましたが,もうくり返しません.
二度話しましたが,もう続けられません」.

だが主は,ヨブに言われた,
「勇士のように腰に帯をせよ,私が問えばおまえが教えよ.
おまえは本当に私の権利を踏みにじりたいのか.
自分を正しいとしたいがために私を非とするのか.
おまえは神のような腕を持ち,神のような声でとどろきわたれるのか.
では,威厳と偉大さをもってみずから語り,華麗と光栄を身につけよ.
怒りといきどおりを吐き出し,
おまえの見る高慢な者どもを卑しめ,高慢な者どもをかがませ,
悪人をそのところで踏みつぶし,
彼らをともに土の中にうずめ,その隠れ家に顔を閉じこめよ.
そうすれば私もおまえをほめよう.その右の手は勝利を得たのだから.・・・ 』

* * *

(5)第2,3,4パラグラフについての訳注:
・「西洋式物質主義の快適さが本当の人生と言えるか?」について.
・「罪深き西洋諸国全体の物質主義と繁栄に疑問を投げかけるべき」について.
・「超自然的な神への信仰」( “supernatural faith” )について.

(理解の手助けのための聖書の引用)

① 旧約聖書・脱出の書:第20章3-6節

(神の十戒)
『*¹私(真の神)以外のどんなものも,神とするな. *²刻んだ像をつくってはならぬ,高く天にあるもの,低く地にあるもの,*³地の下にあるもの,水の中にあるもの,どんな像をもつくってはならぬ.*⁴その像の前にひれ伏してはならぬ.それを礼拝してはならぬ.
おまえの神なる主,私は,私を憎む者に対しては,父の罪を三代,四代の子にまでおよぼして罰する,*⁵ねたみ深い神である.しかし,私を愛して,おきてを守る者には,千代までも,慈しみを示す神である.』

(注釈)

*¹イスラエル(=真の神を信仰する者)の唯神論が,強く主張される.
神と人間との間に,仲介のような神々は存在しない.

*²まことの神の像をつくることも禁止する.

*³ヘブライ人の宇宙論によれば,地は,大洋の上に浮かんでいるように考えていた.

*⁴偶像崇拝の禁じられる理由である.中近東諸国の昔の儀式の本を見ると,神の像を神自身と考え,崇敬の対象としていた(バビロン,アッシリア,ヒッタイトの文明ではそうであった.エジプトもそうである.)

*⁵真理そのものである神は,いつわりのものを耐え忍ぶことができない
「父の罪を三代,四代の子にまでおよぼして」人間を,個人としてより,家族あるいは民族の一員として考える中近東の国々の考え方による.

(解説)

・人間の内心の正しい良心よりも外見の美や強さを優先して称賛したり(目の欲),持ち物の多少や衣食住の贅沢さで人間の価値を量(はか)ろうとすること(肉の欲,生活の奢(おご)り,富の誇り,過度の身なりの洒落,物質欲,美食など)は,神が禁じる「偶像(アイドル)崇拝」と同意義のものである.人を「まことの信仰」と「神への愛」から遠ざけるすべてのものが「偶像崇拝」に当たる.
・節度が必要なのは,欲を追求し過ぎて慢心すると正しい良心を喪失し,そこからあらゆる人間の不幸が始まるからである.
・悪魔は人間の五感に訴えるあらゆる美しさや強さ(権力)を悪用して人間を誘惑するのであり,真の神への信仰を持たない人間は,たやすくそのような神の宿らない虚しい力(しばしば悪徳を宿していることが多い)を称賛するのであって,人間はそれにかまけて「神(正義と愛)への信仰に立つこと」や「正しい良心の声に従うべきこと」を忘れてしまいがちである.欲を張り過ぎる人間は,気づかぬうちに自分で自分の身を滅ぼし永遠の破滅へと追いやることになり,気づいた時には後の祭りとなってしまう.

* * *

② 新約聖書・(使徒)ヨハネの第一の手紙

第1章 

『*¹初めからあったこと,私たちの聞いたこと,目で見たこと,ながめて手で触れたこと,すなわち命のみことば(=キリスト)について - そうだ,*²この命は現れた,私たちはそれを見て証明する.御父のみもとにあって今私たちに現われた永遠の命(=キリスト)をあなたたちに告げる - ,あなたたちを私たちに一致させるために,私たちは見たこと聞いたことを告げる.私たちのこの一致は,御父とみ子イエズス・キリストのものである.*³私たちの喜びを全うするために私はこれらのことを書き送る.』

(注釈)

*¹みことばすなわちキリスト(ヨハネ聖福音書1・14以下,15・27,ヨハネ(第一手紙)5・20).

*²十二使徒の証明の対象は,福音書に書かれている歴史上のキリストである.

*³「あなたたち」と書く写本もある.

(神は光である)
『私たちがキリストから聞いてあなたたちに告げる便りはこうである.
神は光であって,少しの闇(やみ)もない.
*²私たちが闇の中を歩いているのにキリストと一致していると言うなら,それは偽(いつわ)りで,真理を行っていない.
*³主が光のうちにましますように,私たちも光のうちを歩んでいるなら,私たちは互いに一致し,み子イエズスの血は私たちの罪をすべて清める.』

(注釈)

*¹無限の真と善と美と聖を光という.闇(やみ)は無知と罪.

*²ヨハネ聖福音書3・20参照

*³原文は「彼」で神のこと.


(罪を避けよ)
『*¹罪がないというなら,それは自分を偽っているのであって,真理は私たちの中にはない.自分の罪を告白するなら,真実な正しい神は,私たちの罪をゆるし,すべての不義を清めてくださる. *²罪を犯さなかったと言うなら,それは神を偽り者とするのであって,みことば(=命)は私たちの中にはない.』

(注釈)

*¹自分に罪がないと考えるのは,真理に導かれていない証拠である.

*²神は聖書を通じて,人間はすべて悪人だと言われた.

* * *

第2章

(罪を避けよ)
『小さな子らよ,私がこれらのことを書くのは,あなたたちに罪を犯させないためである.だが罪を犯す人があるなら,私たちは*¹御父のみ前に一人の弁護者をもっている.それは義人のイエズス・キリストである.
*²キリストは私たちの罪のためのとりなしをされるいけにえである.いや,ただ私たちの罪のためではなく,全世界の罪のためである.』

(注釈)

*¹ローマ8・34,ヘブライ7・25,ヨハネ14・16,使徒3・14参照. *²使徒4・10,ローマ3・25参照.

(おきてへの忠実)
『私たちが掟(おきて)を守るなら,それによってキリストを知っていることがわかる.
「*¹私は主を知っている」といいながら掟を守らぬ人は偽(いつわ)り者であって,真理は彼の中にはない.みことばを守る者はその人のうちに神の愛が全(まっと)うされ,それによって私たちは主の中にいることがわかる。 *²また主の中にいると言う者は,自分も主が歩まれたように歩まねばならぬ
愛する者よ,私があなたたちに書くのは*³新しい掟ではなく,あなたたちが初めから受けていた古い掟であって,その古い掟はあなたたちが聞いたみことばである.しかし私が書き送るのは*⁴新しい掟である.それは,キリストにとっても,またあなたたちにとってもそうである.闇(やみ)は過ぎ去り,まことの光がすでに輝いているからである.
「私は光にいる」と言いながら,兄弟を憎む者はまだ闇の中にいる. *⁵兄弟を愛する人は光にとどまる者であって,彼はつまずく恐れがない.兄弟を憎む人は闇の中にいて闇を歩み,闇に目を暗(くら)まされて自分がどこに行くかも知らない.』

(注釈)

善業を伴わない信仰は,救霊に役立たない(ティト1・16,コリント(第一)8・1-3,ティモテオ(第二)3・5).

*²ローマ6・11,13-14,ペトロ(第一)2・21参照.

*³イエズスは隣人愛を「新しいおきて」といった(ヨハネ13・34).

*⁴しかし利己的な人間の中にあって,キリスト教の愛のおきては常に新しくふさわしいものである.

*⁵隣人愛の実行は,恩寵の光に生き自分の宗教をよく理解する人々のしるしである

(世の危険)
(「世」とは「地上」すなわち神の正義や善を見下す罪深い人たちの社会を指す)

『小さな子らよ,私があなたたちに書き送るのは,主のみ名によってあなたたちが罪をゆるされたからである.父たちよ,私があなたたちに書き送るのは,あなたたちが初めからましますお方を知ったからである.若者よ,私があなたたちに書き送るのは,あなたたちが悪者に勝ったからである.子らよ,私があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが御父を知ったからである.(父たちよ,私があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが初めからましますお方を知ったからである.)若者よ,私があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが強い者であり,(神の)みことばをその中に保ち,そして悪者(悪魔)に勝ったからである.

世と世にあるものを愛するな.
世を愛するなら御父の愛はその人の中にはない.
世にあるもの,すなわち肉の欲,目の欲,生活のおごり(富の誇り)などはすべて御父(真の神)から出るのではなく世から出る
世と世の欲は過ぎ去るが,神のみ旨を行う者は永遠にとどまる
.』

(反キリスト)
『小さな子らよ,*¹最後の時である.あなたたちは反キリストが来ると聞いていたが,今や多くの*²反キリストが現れた.これによって私たちは最後の時が来たことを知る.彼らは私たちの間から出たけれども,*³私たちに属する者ではなかった.私たちに属する者であったなら私たちとともに残ったであろう.しかし彼らが出ていったのは,みな私たちに属していない人々であることを示すためであった.

あなたたちは,*⁴聖なるお方の注油を受けて,みな知識をもっている.私(使徒ヨハネ)があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが真理を知らないからではなく,真理を知り,真理からはどんな偽りも出ないことを知っているからである.
*⁵偽り者はだれか.イエズスがキリスト(救世主たる神の子)であることを否定する者ではないか.御父(真の神)とみ子(=主キリスト)を否(いな)む者,それこそ反キリストである.み子を否む者は御父をもたず,*⁶み子を宣言する者は父を持っている.あなたたちは,初めから聞いたことにとどまれ.初めから聞いたことにとどまるなら,あなたたちは御父とみ子の中にとどまる. *⁷そして主(=神のみ子キリスト)自身が私たちに約束されたことは,すなわち永遠の命である.

私はあなたたちを惑わす人々についてこう書いた. *⁸あなたたちには主から受けた注油が残るのであるから,だれにも教えを受ける必要がない.その注油はあなたたちにすべてを教えるもので,偽りのない真実のものである.それが教えるとおりあなたたちは主にとどまれ. *⁹だから小さな子らよ,主にとどまれ.そうすれば,み子の現れの時,信頼を失わず,その来臨の時,主から離れる恥を味わわないであろう.主が正しいと知っているなら,正義を行う者はみな主から生まれるのだと知るであろう.』

(注釈)

*¹イエズスの誕生から審判までの期間(ガラツィア4・4,エフェゾ1・10,ミカヤ(旧約)4・1).

*²異端者と棄教者.

*³公に教会を離れる前に,異端者は信仰と恩寵の上でもはや教会に属していない者である. *⁴洗礼または堅振(信)の秘跡の暗示がある.

*⁵イエズスが神の子であり,救世主であることは,キリスト教の基礎的な信仰告白であって,これを否定するのは御父を否定するのと同じである.

*⁶ヨハネ聖福音書1・18,5・23,10・30参照.

*⁷ヨハネ聖福音書5・24,6・40,17・2参照.

*⁸信仰の教えを受けたからには,異端の教えに従うなと注意する.

*⁹テサロニケ(第二)1・9,マテオ聖福音書24・3,コリント(第一)15・23参照.

* * *

第3章

(神の子ら)
考えよ,神の子と称されるほど,御父から,計りがたい愛を受けたことを.私たちは神の子である
この世が私たちを認めないのは,御父を認めないからである.愛する者たちよ,私たちはいま神の子である.後にどうなるかはまだ示されていないが,それが示されるとき(キリストが現れる時),私たちは神に似た者になることを知っている.私たちは,神をそのまま見るであろうから. 主が清いお方であるように、主にたいするこの希望をもつ者は清くなる.罪を犯す者はそれによって法に背(そむ)く.罪は法に背くこと(神への敵対行為)である.あなたたちの知っているとおり,イエズスが現れたのは,罪を除くためであり,イエズス自身には罪はない.主(=神イエズス)にとどまるものは罪を犯さない.罪を犯す者はまだ主を見ず,主を知らないのである.

小さな子らよ,人に惑(まど)わされるな.主が正義のお方であるように,正義を行う者は,義人である
罪を犯す者は悪魔に属する.悪魔は初めから罪を犯しているからである
神の子が現れたのは,悪魔の業を破るためである.神から生まれた者は罪を犯さない.神の種(成聖の恩寵)がその人のうちにとどまり,その人は神から生まれた者であるから罪を犯すことができないのである. これによって,神の子と悪魔の子を区別することができる正義を行わぬ人は,兄弟を愛さぬ人と同様に神からの者ではない.あなたたちが初めから聞いた便りは,愛し合うことである.
悪魔に属していたから自分の兄弟を殺したカインには倣(なら)うな.なぜ殺したかと言うと,自分の行いが悪くて,兄弟の行いが正しかったからである

兄弟たちよ,世があなたたちを憎んでも驚くな. 私たちが死から命に移ったのは,兄弟を愛するからであって,愛さない人は死の中にとどまっていることを私たちは知っている.
兄弟を憎む者は人殺しであって,人殺しはその中に永遠の命をとどめていないことをあなたたちは知っている.

主が私たちのために命をささげられたことによって,私たちは愛を知った.私たちもまた,兄弟のために命をささげねばならぬ
世の宝を持ちながら兄弟の乏(とぼ)しさを見てあわれみの心を閉じる人の中に,どうして神の愛が住もうか?

子らよ,ことばと口先だけではなく,行いと真実をもって愛そう.それによって私たちは,自分が真理についていることを知り,神のみ前に安んじられる.
自分の心にとがめを感じるにしても,神は私たちの心よりも大きく,すべてのことを知りたもう.愛する者よ,もし心にとがめるところがなければ,私たちは神に信頼をもつことができる.また神の掟を守って,神に嘉(よみ)されることを行っているからこそ,私たちは求めることをすべて神から受ける.
その掟とは,神の子イエズス・キリストのみ名を信じ,神が掟を定められたように互いに愛すること,これである.その掟を守る人は神にとどまり,神も彼にとどまられる.私たちは神主が中にとどまりたもうことを,与えられた霊によって知る.』

第4章

(偽預言者)
『愛する者よ,無差別に霊を信じるな.霊が神から出ているかどうかを試せ.多くの偽預言者が世に出たからである.次のことによって神の霊を認めよ.すなわち,イエズスが肉体をとって下られたキリストであることを宣言する霊はみな神からである.またこのイエズスを宣言しない霊はみな神から出たものではなく,来るだろうと聞いている反キリストの霊である.それはもう世に来ている.

小さな子らよ,あなたたちは神から出たものであって,もはや彼らに打ち勝った.あなたたちにましますのは,この世にいる者より偉大なお方である.
彼らは世の者であるから世について語り,世は彼らの言うことを聞く.
しかし私たちは神からの者である.神を知る者は私たちのことばを聞き,神からでない者は聞かない.これによって真理の霊と誤謬(ごびゅう)の霊とが区別される.

愛する者よ,互いに愛せよ.愛は神よりのものである.愛する者は神から生まれ,神を知るが,愛のない者は神を知らない.神は愛だからである
私たちに対する神の愛はここに現れた.すなわち,神はその御独り子を世に遣(つか)わされた.それは私たちをみ子によって生かすためである.
私たちが神を愛したのではなく,神が(先に)私たちを愛し,み子を私たちの罪のあがないのために遣わされた,ここに愛がある.
愛する者よ,神がこれほどに愛されたのなら,私たちもまた互いに愛さねばならない.だれも神を見た者はいないが,私たちが互いに愛するなら,神は私たちの中に住まわれ,その愛も私たちの中に完成される

私たちが神にとどまり神が私たちにとどまられることは,神がご自分の霊に私たちをあずからせたもうたことによって分かる.私たちは御父がみ子を救世主として送られたことを見て,これを証明する.
イエズスが神のみ子であると宣言する者には,神がその中にとどまられ,彼は神にとどまる.

私たちは神の愛を知り,それを信じた神は愛である
愛をもつ者は神にとどまり,神は彼にとどまられる.愛が私たちの内に完成されるのは,審判の日に私たちに信頼をもたせるためである.私たちは地上において,主と同じものだからである.

愛には恐れがない.完全な愛は恐れを取り除く.恐れは罰を予想する(恐れには罰が含まれている)からである.恐れる者は完全な愛をもつ者ではない.

私たちが愛するのは,神が先に私たちを愛したもうたからである.
「私は神を愛する」と言いながら兄弟を憎む者は,偽り者である.目で見ている兄弟を愛さない者には,見えない神を愛することができない.
神を愛する者は自分の兄弟も愛せよ.これは私たちが神から受けた掟である
.』

第5章

(イエズス・キリストへの信仰) 
『イエズスがキリストであることを信じる者は,神から生まれた者である.生んだお方(神)を愛する人々は,また神から生まれた者(神の子ら)をも愛する.神を愛してその掟を行なえば,それによって私たちが神の子らを愛していることがわかる.
神への愛はその掟を守ることにあるが,その掟はむずかしいものではない.
神から生まれた者は,世に勝つ.世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である.イエズスが神の子であると信じる者のほかにだれが世に勝てるであろうか.

水と血によって来られたのはイエズス・キリストである.ただ水だけではなく,水と血によってである.それを証明するのは霊である.霊は真理だからである.実に証明するものは三つある.(天においては御父とみことばと聖霊であり,この三つは一致する.地において証明するのは三つ),霊と水と血である.この三つは一致する.

私たちが人間の証明を受け入れるなら,神の証明はそれにまさっている.神の証明とはそのみ子についてのことである.神の子を信じる者は,自分の内に神の証明をもち,神を信じない者は神を偽り者とする.神がそのみ子についてされた証明を信じないからである.その証明とは神が私たちに永遠の命を与えられたこと,その命がみ子にあることである.み子をもつ者は命を有し,み子をもたぬ者は命をもたぬ

私が以上のことを神の子の名を信じるあなたたちに書いたのは,あなたたちに永遠の命があることを知らせるためであった.
私たちは(神の)み旨に従って願うことを神が必ず聞き入れたもうと確信している.そして,神がすべての願いを聞き入れたもうことを知るなら,また願ったことが受け入れられることもわかる.』

(罪の種類)
『自分の兄弟が死に至らぬ罪を犯しているのを見たなら,彼のために祈れ.そうすれば命が帰るだろう.
これは死に至らぬ罪を犯す人々のために言ったことである.死に至る罪がある.私はこれについて祈れとは言わぬ.すべての不義は罪である.しかし死に至らぬ罪がある.』

(悪魔に対して)
『神から生まれた人はすべて罪を犯さないと私たちは知っている.神から生まれたお方(キリスト)がその人を守られるから,悪者はその人に触れることができない.私たちが神から出た者であり,世がすべて悪者の配下にあることも私たちは知っている.また神のみ子がすでに来られ,真実のお方(神)を知るための知恵を私たちに授けられたことも知っている.
私たちはそのみ子イエズス・キリストによって真実のお方のうちにいる.それは真実の神であって,永遠の命である.小さな子らよ,偶像を警戒せよ.』

* * *

(6)第4,6パラグラフについての訳注:
・「神に栄光をもたらす」…原文 “give Him glory”, “to give glory to God.” の意味について.

「神に栄光を帰す」とも言われる.
〈神は万物の創造主であり,人間はその被造物である.〉
人間が神に服従し,神の正義と愛徳に適(かな)う生活をすることによって,天上の神の栄光を地上で示すことになるという意味.

① 神を愛し,
(天地の創造主,全能の父なる神に服従すること)

② 隣人を自分と同じように愛する
(隣人愛の実践)

2011年1月13日木曜日

アッシジイズムはノー!

エレイソン・コメンツ 第182回 (2011年1月8日)

ルフェーブル大司教の聖ピオ十世会が教皇ベネディクト16世下のローマ教皇庁との間で,よからぬ合意をまとめようとしているのではないかといぶかっている人たちがいぜんいらっしゃるようです.だが,色々ある中でもアッシジイズム(訳注・原文“Assisi-ism”.注釈後記)についていえば,教皇ベネディクト16世ご自身はそのようなことが起きないよう最善を尽くしておられると言えるのではないでしょうか.

六日前,教皇は世界の「偉大な諸宗教」は人類の平和と結束(一致)の「重要な要素」たり得ると論じられました.その翌日,教皇は1986年,前教皇ヨハネ・パウロ2世によりイタリア・アッシジで開催された世界諸宗教合同祈祷集会の25周年を祝うため今年10月に同地へ「巡礼として」赴(おもむ)くと発表しました.しかし,「世界の偉大な諸宗教」が世界平和に貢献するといった論議はルフェーブル大司教が断固受け入れを拒んだことですし,この1986年のアッシジ祈祷会の実践(実行)は(神の十戒の)第一戒(律)に対する公然たる違反だと同大司教が断じたことです(訳注後記).後者のほうは,キリストの代理者たる教皇から発した出来事だけにカトリック教会の全歴史のなかでも前代未聞のスキャンダルでした.ルフェーブル大司教はあまり何度も蒸(む)し返すのは逆効果になりかねないと考え,アッシジイズムに対する激しい非難を差し控えました.

だが,ルフェーブル大司教は当時,このスキャンダルの重大さを理解しているカトリック信者がほんの一握りしかいなかったことを認識していました.というのも,近代世界全体が神を過小評価し,私たちの主イエズス・キリストの神性を一括(ひとくく)りとして扱い,宗教を自由選択の対象物とみなし,カトリックの伝統を単なる感性,感情の問題とすり変えてしまっていたからです.こうした考え方は,教皇たちにまで影響を及(およ)ぼしてしまい,私たちの身の周りではあまりにも正常なこととなってしまっているため,私たち一人一人にとって脅威となっているほどです.基本に立ち戻りましょう.--

万物は第一原因 “a First Cause” を必要とします.その原因が第一たるためには存在自体が不可欠で “must be Being Itself” それは完全無欠の存在 “all-perfect being” でなければなりません.なぜなら第二の神は第一の神とは異なり,完全さにおいてどこかで劣るはずだからです.この唯一真実の神はかつてある時にただ一度だけ私たちの主イエズス・キリストの神の位格 “the divine Person” において人性(=人間性)という形をとられ(人の姿をお取りになり),いらい神の教会すなわちローマ・カトリック教会を除けば,ほかの誰しもがなしえなかった質量とも数多くの信頼に足る優れた奇跡を地上で行なうことによって,その神性を証明されました.この(真の神の)教会の会員(信者)となる資格は信仰に基づくもので,万人に開かれています.信じるならば,その信じるという行為が,誰にとっても永遠の救いに至(いた)るために欠くことのできない出発点です.信じることを拒(こば)めば,人は永遠の破滅(地獄)へ向かう道をたどります(新約聖書・マルコ聖福音書:第16章16節参照)(訳注・該当箇所のキリストの御言葉→「信じて洗礼を受ける者は救われ,信じない者は滅ぼされる.」).

従って,もし過去および将来のアッシジでの行事により,ベネディクト16世,ヨハネ・パウロ2世の両教皇がカトリック教は永遠の至福に至る唯一の道ではなく,(それが最善だとしても)ほかに数多くある人類の「平和,結束」へ通じる道の単なるひとつにすぎないと人々が考えるよう奨励(しょうれい)したのだとすれば,両教皇とも無数の人々が来世で恐ろしい地獄に墜(お)ちる手助けをしたことになります.ルフェーブル大司教はそのような背信に与(くみ)するのを潔(いさぎよ)しとせず,敢(あ)えて冷笑され,排斥(はいせき)され,軽蔑(けいべつ)され,過小評価され(主流からはずされ),口を封じられ,「破門」される道を選びました.ほかにもありとあらゆる冷遇に甘んじました.

真実(原語 “the Truth” )を頑(かたく)なに守ることは代償を伴います.何人のカトリック信者にその代償を払う心づもりができているでしょうか?(訳注・ “the Truth” …真の神〈カトリックの真理〉のこと.)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

最初のパラグラフ「アッシジイズム」 “Assisi-ism” についての訳注:
アッシジ主義.
“the 1986 Prayer Meeting of World Religions in Assisi” 「1986年アッシジ諸宗教合同祈祷集会」(1986年に前教皇ヨハネ・パウロ2世が,世界の諸宗教の指導者たちを呼び集めて開催した世界平和を祈る合同祈祷集会)を指している.

第二パラグラフの訳注「(神の十戒の)第一戒」 “the First Commandment” について:
旧約聖書時代の預言者モーゼによる「神の十戒」(または「主の十戒」)の第一戒…
「われはなんじの主なり.われを唯一の天主として礼拝すべし」(公教会祈祷文)
→「…私以外のどんなものも,神とするな.」(旧約聖書・脱出の書:第20章3節.神と人との関係についての神の命令.神と人間との間に,仲介のような神々は存在しない.(バルバロ神父による注釈より.))

2010年4月26日月曜日

道徳の枠組み

エレイソン・コメンツ 第145回 (2010年4月24日)

その総体的な簡潔さと神授の掟として公布されたという点において,神の十戒(旧約聖書・第二法の書:第5章6-21)は,万人が生来有する良心を通して認識する自然法の極めて優れた提示です.人がこの自然法を否認し違反する場合には,自分に危険が及ぶことを覚悟すべきものです.先週の「エレイソン・コメンツ」で,私はこの自然法が近代芸術の病弊の診断を容易にすると述べました.実際には,この自然法は多くの現代的な問題について診断を下しています.今週はこの(自然法たる)十戒の組み立てについて,聖トマス・アクィナスがその著書「神学大全」第1部第2章100・第6項及び7項でどう分析しているか見てみましょう.

法とは,指導者による社会の秩序化を意味するものです.自然法とは,神による人間社会の秩序化を意味します. ここでの秩序化には二通りあり,ひとつは人間社会を神御自身のおきてに従って秩序立てる(=規律する)こと(訳注・すなわち「人と人との関係=人間関係」…人同士〈横〉の関係を神のおきてのもとに従わせること.),もうひとつは神御自身と人間との間における親しい交わりの関係を秩序立てること(訳注・すなわち「神と個人との間で結ばれる直接的・個人的な相互関係」…主従〈縦〉の関係のもとに人を置くこと.)です(注釈後記).人間社会の中心的な存在かつその主たる目的は神御自身です.したがって,「自然法の表」のうち第一の表が示すのは,神に対する人間の義務(第一戒…偶像崇拝の禁止,第二戒…神に対する冒とくの禁止,第三戒…安息日の順守)であり,それに続き第二の表(第四戒-第十戒)で人間の同胞(隣人)に対する義務が詳細に説かれています.

初めの三つのおきては忠誠,尊重,奉仕の義務を重要な順に示しています.聖トマスの言うところによれば,軍隊における一兵卒の場合,将官に対する不忠義あるいは謀反は無礼よりも悪く,無礼は将官に仕えるのを怠るより悪いとされています.したがって,神と人間との関係では,まず第一に,神以外の神々(訳注・すなわち偶像)を礼拝してはなりません(第一戒).第二に,決して神あるいは神の御名を侮辱(=冒涜(ぼうとく))してはならず(第二戒),第三には,神が要求される礼拝を神に捧げなければなりません(第三戒).

同胞(隣人)に対する人の義務(第四戒-第十戒)についていえば,最も大切なのは自分に命を与えてくれた父と母との関係です.したがって,自然法の第二の表はまず父母を敬う義務から始まります(第四戒).この父母に対する敬意は人間社会の基本ですから,これが欠けると社会はバラバラに崩れてしまいます.それはまさに私たちが「西洋文明」(「西洋崩壊」と呼んだほうがよいでしょう)のいたるところで起きているのを目にしているのと同じ状態です.

十戒のうち残る六つについて,聖トマスは重要な順に分析を続けます.隣人に対する行為による害悪(第五-第六戒)は,単に言葉だけによる害悪(第八戒)よりも悪く,言葉だけによる害悪は思いだけによる害悪よりも悪いのです(第九-十戒).行為による害悪に関していえば,隣人の身体に対する害悪(第五戒,殺すな)は身内に対する害悪(第六戒,姦通を犯すな)より重大であり,身内に対する姦通の害悪は単なる財産に対する害悪(第七戒,盗むな)より重大です.言葉による諸々の害悪(第八戒,偽りの証言をするな)は単に心で思うだけの害悪よりも重大であり,その中では隣人の結婚や家族をうらやむこと(第九戒,隣人の妻を欲しがるな=肉の欲)は,単に彼の財産をうらやむ(第十戒,隣人のものをむさぼるな=目の欲)よりも重大です.

しかし,十戒のいずれの戒律を破ることにも人間の高慢さが関わっています.古代ギリシャ人はそれを「フブリス“hubris”」(訳注・=“arrogance” 思い上がり・不遜・傲慢・自信過剰)と呼びました.高慢さゆえに私は(=人間は)神の命令すなわち神に逆らって立ち上がるのです.ギリシャ人にとって「フブリス」は人の転落のもとでした.今日の私たちにとっては,万人に共通する高慢が現代世界の恐るべき諸問題のもととなっており,その解決は神がおられなければ,つまり神の御顕現(訳注・“Incarnation”.神の御言葉=神の御子イエズス・キリストが人の子として地上にお生まれになった(=肉体を身にまとわれた神=三位一体の神の第二の位格)ということを意味する.)以来,私たちの主イエズス・キリストが仲介されることなしには不可能なのです.イエズスの聖心(みこころ)よ,私たちをお救いください!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

* * *


(第二パラグラフの注釈)

-日本における国家の基礎法「日本国憲法」に見る「自然法(神による人間社会の秩序化)」の実例-

神の支配=法の支配 “Rule of Law” =自然法 “Natural Law” の支配(ここでいう「法」とはすなわち「神の法(おきて)」を指す.)…「自然法」によって万物の創造主たる「神」が人間社会を規律する.

人の支配(人の権力による支配)=国家権力…「実定法(=実証法.自然法の反対概念)」すなわち,人によって(人為的に)経験的事実に基づいて定められる法すなわち「法律」(制定法,慣習法,判例法など)によって被造物たる「人間」が人間社会における個人を規律する

→日本国憲法・前文:2項「日本国民は,恒久の平和を念願し,人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって,平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持しようと決意した.…われらは,全世界の国民が,ひとしく恐怖と欠乏から免かれ,平和のうちに生存する権利を有することを確認する.」“We, the Japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship, and we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.…We recognize that all peoples of the world have the right to live in peace, free from fear and want.”

→第98条1項「この憲法は国の最高法規であって,その条規に反する法律,命令,詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は,その効力を有しない.」

→第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員,裁判官その他の公務員は,この憲法を尊重し擁護する義務を負う.」

・第97条は,日本国憲法が日本国の最高法規であることの実質的な根拠を示す.

→第97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は,人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって,これらの権利は,過去幾多の試練に堪え,現在及び将来の国民に対し,侵すことのできない永久の権利として信託されたものである.」

→「自由」…憲法でいう「自由」とは,「自然法(神の真理・正義=生命,存在 “being” )に適う自由」を意味する.「道理や自分の分(ぶ)をわきまえずにしたいことを何でもできる」という意味ではない(権利は義務を伴う).

→「侵すことのできない永久の権利」…神の真理・正義は永遠(=永久)の存在であり(=永遠の命 “eternal life” ),そこから(神により)創造された人間一人ひとりの価値は,人間の権力によっては絶対不可侵のものである(→個人の尊重=基本的人権の尊重).

→つまり,97条は「生来の自然権(神の真理・正義)に基づいた個人の自由」対「人間による不当な“時の権力”」という戦いの歴史を経て現在の「基本的人権の保障」にまで至っていることを示している.

・第12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は,国民の不断の努力によって,これを保持しなければならない.」

→この「自由(=個人の生来の自然権)」は常に時の権力者による理不尽・恣意的な権力濫用(らんよう)により都合よく曲解され侵害されやすいので,国民は不断の努力によってその保持に努める必要がある.(真の意味の「自由(神の真理・正義に基づいた生来の自然権)」についての知識を学び,社会に生かす義務がある.)

・ここでいう「憲法」は,人による支配(権力)から,国民一人ひとり(の生来の権利(=自然権))を個人として守る(擁護する)ことを理念とする法であるということを意味する(近代立憲主義憲法・法の支配).

・第二パラグラフで述べられる通り,「神と人との関係」に次いで「人と人との関係」も重要な戒めである(→神の十戒で最も重要な戒め:「①あなたは…主なる神を愛せよ.(第一戒-第三戒)②また隣人を自分と同じように愛せよ.(第四戒-第十戒)」(聖ルカ福音書10章25-37参照)).したがって,「個人の人権」は無制限に許されるものではなく,他人に害悪(心の思い・言葉・行い・怠りによる害悪)を加えるほどに(=他人の権利を侵害するほどに)他者に向かって主張したり,社会で押し通したりしてはならない.

・旧約聖書の「十戒」の個所を後日用語集に記載予定.