エレイソン・コメンツ 第192回 (2011年3月19日)
最近,日本の東海岸沖合でプレート移動による激しい地殻変動が,内陸部で観測史上最大の地震を,沿岸部で壊滅的な津波を引き起こしました.この天災は多くの人の心に古くからある疑問を投げかけたに違いありません.もし神が存在し,その神が全能かつ限りなき善意の持ち主であるなら,人間がこれほどの大きな苦難を被(こうむ)ることをどうしてお許しになるのだろうか? 人々が自ら苦難に直面していない平時なら,この疑問に対し昔からある答えを理解するのは理屈の上ではそう難しいことではありません!--
まず第一に,苦難は往々にして罪に対する罰です.神は確かに存在し,罪は神の怒りを招きます.罪が霊魂を地獄に落とすものである一方で神は霊魂を天国に向けるよう創造されました.もし地上での苦難が罪にブレーキをかけ霊魂が天国を選ぶ助けになるなら,そのために必要とあらば地殻変動プレートを支配される神は不本意ながらもそれを用いて罪を罰することがおできになるのです.では日本の人々が他国の人々に比べ殊(こと)のほか罪深かったのでしょうか? 私たちの主イエズス・キリスト御自身は私たちに対してこう言われます.すなわち,そのような問いかけをするのではなく,むしろ私たちが自らを振り返って犯した数々の罪のことを思い巡(めぐ)らし,その償いを果しなさい,さもなければ「あなたたちもみな同様に滅びるだろう」(ルカ13章4節)と.西洋式(欧米流)物質主義とそれがもたらす快適さが本当の人生といえるかどうか疑問に思っている日本人が現在誰一人いないとしてもさほど驚くことではないのではないでしょうか?(訳注後記)
第二に,人間の苦難は警告(けいこく)となり得るのであり,人々に悪から目を背け自惚(うぬぼ)れを避けるよう仕向けます.たった今,神の存在を認めない罪深き西洋諸国全体が自身の物質主義と繁栄に疑問を投げかけるべきです(訳注後記).過去数年間にわたり世界各地で着実に高まりつつある地震その他の自然災害の発生率により,主なる神は確かに私たち人間すべての注意を喚起(かんき)しておられるのです.おそらく神が,1973年に日本の秋田で神の御母を通し警告されたように世界中で私たち人間に「火の雨」を降らせるという罰を下さずに済むようにと望まれているからです(訳注後記).だが,たった今現実に苦難を受けている日本の人々の方が,遠く隔(へだ)たった西洋諸国の人々に比べ被った災害からより多くの利益を得ている公算が大きい(可能性が高い)と言えるのではないでしょうか? これら諸国のいずれの国にとっても実のところ,差し迫った神の懲罰の前触(まえぶ)れ(予兆)を予(あらかじ)め味わっているというだけで運がいいということなのかもしれません.
第三に,神は人間の苦難を用いて神の僕たちの善徳を浮き彫り(うきぼり)にされるのかもしれません.ちょうどヨブ(訳注・旧約聖書に登場する善人の名)やキリスト教の昔からのあらゆる殉教者たちの場合がその例にあたります.今日の日本において超自然的な神への信仰( “supernatural faith” )を持つ人は少ないかもしれませんが,今回の事態においてもし日本の人々が漠然(ばくぜん)とでも強力な神の御手(の業(わざ),力)を感じさせる何らかの偉大な存在の下に自らを低くし慎(つつし)むなら,(神の支配される)自然の賜物に与(あずか)るようになり,少なくとも自然レベルで自らの身をもって神に栄光をもたらすことになるでしょう(訳注後記).
最後に,旧約聖書のヨブの書第36章に記されてあるとおり,ヨブがなぜ苦難に襲われたかについてヨブ自身や彼の家族や友人たちが思いついた説明にどうしても満足しないヨブに対して,ついに神御自身が答えられます.神の御言葉を分かりやすいように言い換えてみます:「ヨブよ,私(神)が地に基(もとい)をおいた時,あなたはどこにいたのか? あなたが地殻変動プレートを造ったのか? あなたは誰が平時には海の水をその境界内に留(とど)め,乾いた土地に押し寄せぬようにしていると思っているのか? この度,海水が日本の東北地方沿岸に打ち寄せるままにした私自身に然(しか)るべき理由がなかったと,あなたには本気で思えるのか?」ヨブの書の第38章と39章を読んでみて下さい.ヨブはようやく屈服し神に服従したのです.ヨブは神の答えに満足し,神の上智(知恵・叡智)と善意に疑問を差し挟(はさ)んだ自らの過(あやま)ちを認めました(ヨブ42,1-7)(訳注後記).
世界中の私たち一人ひとりが神に対しこれまでに犯した自らの罪の償いをしましょう.一人ひとりが日本で起きたこの大震災を自らへの警告と受け止め自分自身を戒(いまし)めましょう.やがて私たち自身にふりかかる様々な試練のなかで,(神の御前に正しく慎ましく生活することにより)神に栄光をもたらすことができるよう望みをかけましょう.そして,とりわけ,神のみが唯一の神(永遠の全知全能の存在なる方)であることを認めましょう!(訳注後記)
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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(訳注)のリスト:
(1)第2パラグラフの訳注:新約聖書・ルカ聖福音書:第13章4節
(2)第3パラグラフの2番目の訳注:「秋田の聖母」について.
(3)第5パラグラフの2番目の訳注:旧約聖書・ヨブの書:第42章1-7節
(4)第5パラグラフの初めの訳注:旧約聖書・ヨブの書:第38,39章→38章-40章を部分的に抜粋して記載します(後から全部を別の場所に記載します).
(5)第2,第3,第4パラグラフについての訳注:聖書の引用
・「西洋式物質主義の快適さが本当の人生と言えるか?」について.
・「罪深き西洋諸国全体の物質主義と繁栄に疑問を投げかけるべき」について.
・「超自然的な神への信仰」( “supernatural faith” )について.
(6)第4,6パラグラフについての訳注:
・「神に栄光をもたらす」…原文 “give Him glory”, “to give glory to God.” の意味について.
(注・引用した聖書の(注釈)の一部については後から追加します)
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(1)第2パラグラフの訳注:
新約聖書・ルカ聖福音書:第13章4節(太字部分)(1-5節を記載)
『そのとき,ピラトがあるガリラヤ人たちの血を彼らのいけにえに混ぜたという知らせを告げに来た人々があった.
イエズスは答えられた,「ガリラヤ人がそんな目に会ったからといって,彼らが他のガリラヤ人以上に大きな罪人だったと思うか.私は言う.そうではない.あなたたちも悔い改めないなら,みな同じように滅びるだろう.
また,*¹シロアムの塔が倒れて押しつぶされた十八人が,エルサレムのほかの人々よりも大きな負い目をもっていたと思うか.私は言う.そうではない.*²悔い改めないなら,あなたたちもみな同じように滅びる」.』
(注釈)
(悔い改め)
*¹ユダヤ人は,災(わざわ)いは罪の罰であると考えていた.しかしそうではない.義人(正しい人)も災いにあうことがある.
²このことばはエルサレム滅亡のとき実現した.
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(2)第3パラグラフの訳注:
「秋田の聖母」 “Our Lady of Akita” について.
日本よりも海外でよく知られており,「日本の聖母マリア」として大変有名である.巡礼者も毎年世界各地から多くの人が訪れている.
(出来事の簡単な説明)
日本の秋田県で1973年から1982年まで続いた聖母マリア御出現の奇跡.
・1973年夏,秋田県秋田市にあるカトリックの女子在俗修道会「聖体奉仕会」所属の修道女シスター・アグネス笹川の左掌に十字架の形の傷が現れ激しく痛み出血した(「聖痕」と呼ばれる奇跡的な現象).
・また修道院の聖堂の木彫りの聖母像の目から涙が流れ出,その右掌からも血が流れた.
・そして聖母御出現当時,神の御旨により全く耳が聞えなくされていたシスターの耳に聖母の非常に美しいみ声が聞えた.
・聖母は3回シスターに出現され,世界人類の罪に対する神の悲しみと怒り,来たるべき神の人類への重い罰,悪魔の誘惑によるカトリック教会の堕落,多くの失われる霊魂に対する聖母の悲しみなどについて警告された.
・また世界を破滅から救うことが出来るのはキリストの残された印(御聖体)と聖母のロザリオの祈りのみであることを訴えられ,人々の改心のため,またカトリック教会の聖職者(司教・司祭)たちのために償いと犠牲の業とロザリオの祈りを熱心にすることの必要性を告げられた.
・他に,香しい芳香が感じられるなどの奇跡も数回起きている.
・シスター笹川の耳は聖母の出現から数年後(1982年)神の奇跡により癒(いや)され完全に聞えるようになった.
・聖母像の目から涙が流れ出た回数は数年間に101回に及び,この間に延べ約500人の人が訪れその涙を目撃している.
・秋田に訪れて聖母に祈りを捧げた多くの人が聖母の取り次ぎにより病気の治癒や改心に導かれるなどの人生の奇跡的な転換を体験している.
(参考文献)
・「秋田の聖母マリア」安田貞治神父・著 聖体奉仕会・発行(1987年)
・「日本の奇跡『 聖母マリア像の涙』- 秋田のメッセージ」安田貞治神父・著 エンデルレ書店・発行(2001年)
・ロザリオの祈りはダイノスコプス・エレイソン・コメンツ用語集に記載されています.
* * *
(3)第5パラグラフの訳注:
旧約聖書・ヨブの書:第42章1-7節
『そのときヨブは主(神)に答えて言った,
「あなたにはすべてができると,私は知っています.あなたは企(くわだ)てたことを実行されます.
思慮のない言葉で,あなたの企てをかき乱したのは私です.
私は自分で分からぬこと,自分の知らぬ不思議について,向こうみずにも語りました.
(聞きたまえ,私に言わせたまえ.私は尋(たず)ねます.教えたまえ).
*私は耳で聞いてあなたを知っていました.だが今,私はこの目であなたを見ました.
そのために私は自分の愚かさにあきれ,ちりと灰の上で悔やみます.」 』
(注釈)
*神の出現のことをいっているのではない.ただ,神の実在について新しい知識を受けた.ヨブは神の神秘を知りその全能を礼拝する.正義についてヨブがした質問に神からの返事はなかった.しかし,神がなさったことを人間に神自身が説明する義務のないこと,神の知恵は苦しみと死という事実にも,人間の考え及ばぬ意味を持たせうることをヨブは悟った.
(注記)
エレイソン・コメンツ第180回の「第2パラグラフの訳注」と「『正しい人の苦しみ』について」をご参照ください.
* * *
(4)第5パラグラフの初めの訳注:
旧約聖書・ヨブの書:第38,39章
→38章-40章を部分的に抜粋して記載します(後から全部を別の場所に記載します).
『そのとき,主は,嵐の中からヨブに話しかけられた,
「思慮のないことばで,私のはかりごとをかきまぜるのはだれか.
おまえは勇士のように腰に帯せよ,私が尋(たず)ねるから教えてくれ.
私が地に基(もとい)をおいたとき,おまえはどこにいたのか.
知っているなら言え.
だれがその尺度を決めたか知っているのか.だれがそこに綱を引いたのか.
その土台は何の上に立ち,だれが隅石をおいたのか.
朝の星がともに歌い,神の子らが喜びおどっていたそのとき.
だれが海に戸を閉ざしたのか.
それが胎からあふれ出たときのことだ.
私がその上に雲をまとわせ,黒雲を産衣(うぶぎ)としたときのことだ.
私はそれに境を定め,扉とかんぬきをおいて,
〈これを越えてはならぬ〉と言った.
〈ここでおまえの波の高ぶりはとどまる〉と.・・・
おまえは海の源にいき,淵の底をまわったことがあるのか.
死の門を示し,影(黄泉)の国の門を見たことがあるのか.
また,地の広さを幾分でも知っているのか.
言え,知っているのなら.
光はどちらの方に住み,やみのところはどこにあるのか.
おまえはそれらを迎えにいき,おのおのの家に連れもどせるのか.・・・
おまえは雪の倉にも入り,
雹(ひょう)の蓄(たくわ)えどころを見たことがあるのか.
それは苦悩のときのために,戦いといくさの日のために蓄えてある.
稲妻はどの方角にひらめき,地に火花を散らすのか.
にわか雨に堀を開き,雷鳴に道を明けるのはだれか.
無人の地にも,人住まぬ荒野にも雨を降らし,
すたれた寂しいところに水を与え,荒れ地に草を生えさせる.・・・
おまえにスバルの鎖が結べるのか.あるいはオリオンの綱が解けるのか.・・・
天の法則を知り,地へのその影響を定めるのはおまえか.
声を雲にあげ,水の集まりを従えることができるのか.
稲妻が〈はい,ここにいます〉とやってきて出かけるのは,
おまえが命令を下すからなのか.・・・
雌じしのためにえさを狩り,子じしの飢えを満たすのはおまえか.
かれらが穴にうずくまり,茂みに待ち伏せしているときに,
からすの子が神に向って鳴き,えさもなくさまようとき,
からすに食べ物を与えるのはだれか.・・・
・・・そのとき,ヨブは主に答えて言った,
「私は軽率なことを申しました.あなたに何の口答えができましょう.
私は口に手をあてます.一度話しましたが,もうくり返しません.
二度話しましたが,もう続けられません」.
だが主は,ヨブに言われた,
「勇士のように腰に帯をせよ,私が問えばおまえが教えよ.
おまえは本当に私の権利を踏みにじりたいのか.
自分を正しいとしたいがために私を非とするのか.
おまえは神のような腕を持ち,神のような声でとどろきわたれるのか.
では,威厳と偉大さをもってみずから語り,華麗と光栄を身につけよ.
怒りといきどおりを吐き出し,
おまえの見る高慢な者どもを卑しめ,高慢な者どもをかがませ,
悪人をそのところで踏みつぶし,
彼らをともに土の中にうずめ,その隠れ家に顔を閉じこめよ.
そうすれば私もおまえをほめよう.その右の手は勝利を得たのだから.・・・ 』
* * *
(5)第2,3,4パラグラフについての訳注:
・「西洋式物質主義の快適さが本当の人生と言えるか?」について.
・「罪深き西洋諸国全体の物質主義と繁栄に疑問を投げかけるべき」について.
・「超自然的な神への信仰」( “supernatural faith” )について.
(理解の手助けのための聖書の引用)
① 旧約聖書・脱出の書:第20章3-6節
(神の十戒)
『*¹私(真の神)以外のどんなものも,神とするな. *²刻んだ像をつくってはならぬ,高く天にあるもの,低く地にあるもの,*³地の下にあるもの,水の中にあるもの,どんな像をもつくってはならぬ.*⁴その像の前にひれ伏してはならぬ.それを礼拝してはならぬ.
おまえの神なる主,私は,私を憎む者に対しては,父の罪を三代,四代の子にまでおよぼして罰する,*⁵ねたみ深い神である.しかし,私を愛して,おきてを守る者には,千代までも,慈しみを示す神である.』
(注釈)
*¹イスラエル(=真の神を信仰する者)の唯神論が,強く主張される.
神と人間との間に,仲介のような神々は存在しない.
*²まことの神の像をつくることも禁止する.
*³ヘブライ人の宇宙論によれば,地は,大洋の上に浮かんでいるように考えていた.
*⁴偶像崇拝の禁じられる理由である.中近東諸国の昔の儀式の本を見ると,神の像を神自身と考え,崇敬の対象としていた(バビロン,アッシリア,ヒッタイトの文明ではそうであった.エジプトもそうである.)
*⁵真理そのものである神は,いつわりのものを耐え忍ぶことができない.
「父の罪を三代,四代の子にまでおよぼして」人間を,個人としてより,家族あるいは民族の一員として考える中近東の国々の考え方による.
(解説)
・人間の内心の正しい良心よりも外見の美や強さを優先して称賛したり(目の欲),持ち物の多少や衣食住の贅沢さで人間の価値を量(はか)ろうとすること(肉の欲,生活の奢(おご)り,富の誇り,過度の身なりの洒落,物質欲,美食など)は,神が禁じる「偶像(アイドル)崇拝」と同意義のものである.人を「まことの信仰」と「神への愛」から遠ざけるすべてのものが「偶像崇拝」に当たる.
・節度が必要なのは,欲を追求し過ぎて慢心すると正しい良心を喪失し,そこからあらゆる人間の不幸が始まるからである.
・悪魔は人間の五感に訴えるあらゆる美しさや強さ(権力)を悪用して人間を誘惑するのであり,真の神への信仰を持たない人間は,たやすくそのような神の宿らない虚しい力(しばしば悪徳を宿していることが多い)を称賛するのであって,人間はそれにかまけて「神(正義と愛)への信仰に立つこと」や「正しい良心の声に従うべきこと」を忘れてしまいがちである.欲を張り過ぎる人間は,気づかぬうちに自分で自分の身を滅ぼし永遠の破滅へと追いやることになり,気づいた時には後の祭りとなってしまう.
* * *
② 新約聖書・(使徒)ヨハネの第一の手紙
第1章
『*¹初めからあったこと,私たちの聞いたこと,目で見たこと,ながめて手で触れたこと,すなわち命のみことば(=キリスト)について - そうだ,*²この命は現れた,私たちはそれを見て証明する.御父のみもとにあって今私たちに現われた永遠の命(=キリスト)をあなたたちに告げる - ,あなたたちを私たちに一致させるために,私たちは見たこと聞いたことを告げる.私たちのこの一致は,御父とみ子イエズス・キリストのものである.*³私たちの喜びを全うするために私はこれらのことを書き送る.』
(注釈)
*¹みことばすなわちキリスト(ヨハネ聖福音書1・14以下,15・27,ヨハネ(第一手紙)5・20).
*²十二使徒の証明の対象は,福音書に書かれている歴史上のキリストである.
*³「あなたたち」と書く写本もある.
(神は光である)
『私たちがキリストから聞いてあなたたちに告げる便りはこうである.
*¹神は光であって,少しの闇(やみ)もない.
*²私たちが闇の中を歩いているのにキリストと一致していると言うなら,それは偽(いつわ)りで,真理を行っていない.
*³主が光のうちにましますように,私たちも光のうちを歩んでいるなら,私たちは互いに一致し,み子イエズスの血は私たちの罪をすべて清める.』
(注釈)
*¹無限の真と善と美と聖を光という.闇(やみ)は無知と罪.
*²ヨハネ聖福音書3・20参照
*³原文は「彼」で神のこと.
(罪を避けよ)
『*¹罪がないというなら,それは自分を偽っているのであって,真理は私たちの中にはない.自分の罪を告白するなら,真実な正しい神は,私たちの罪をゆるし,すべての不義を清めてくださる. *²罪を犯さなかったと言うなら,それは神を偽り者とするのであって,みことば(=命)は私たちの中にはない.』
(注釈)
*¹自分に罪がないと考えるのは,真理に導かれていない証拠である.
*²神は聖書を通じて,人間はすべて悪人だと言われた.
* * *
第2章
(罪を避けよ)
『小さな子らよ,私がこれらのことを書くのは,あなたたちに罪を犯させないためである.だが罪を犯す人があるなら,私たちは*¹御父のみ前に一人の弁護者をもっている.それは義人のイエズス・キリストである.
*²キリストは私たちの罪のためのとりなしをされるいけにえである.いや,ただ私たちの罪のためではなく,全世界の罪のためである.』
(注釈)
*¹ローマ8・34,ヘブライ7・25,ヨハネ14・16,使徒3・14参照. *²使徒4・10,ローマ3・25参照.
(おきてへの忠実)
『私たちが掟(おきて)を守るなら,それによってキリストを知っていることがわかる.
「*¹私は主を知っている」といいながら掟を守らぬ人は偽(いつわ)り者であって,真理は彼の中にはない.みことばを守る者はその人のうちに神の愛が全(まっと)うされ,それによって私たちは主の中にいることがわかる。 *²また主の中にいると言う者は,自分も主が歩まれたように歩まねばならぬ.
愛する者よ,私があなたたちに書くのは*³新しい掟ではなく,あなたたちが初めから受けていた古い掟であって,その古い掟はあなたたちが聞いたみことばである.しかし私が書き送るのは*⁴新しい掟である.それは,キリストにとっても,またあなたたちにとってもそうである.闇(やみ)は過ぎ去り,まことの光がすでに輝いているからである.
「私は光にいる」と言いながら,兄弟を憎む者はまだ闇の中にいる. *⁵兄弟を愛する人は光にとどまる者であって,彼はつまずく恐れがない.兄弟を憎む人は闇の中にいて闇を歩み,闇に目を暗(くら)まされて自分がどこに行くかも知らない.』
(注釈)
*¹善業を伴わない信仰は,救霊に役立たない(ティト1・16,コリント(第一)8・1-3,ティモテオ(第二)3・5).
*²ローマ6・11,13-14,ペトロ(第一)2・21参照.
*³イエズスは隣人愛を「新しいおきて」といった(ヨハネ13・34).
*⁴しかし利己的な人間の中にあって,キリスト教の愛のおきては常に新しくふさわしいものである.
*⁵隣人愛の実行は,恩寵の光に生き自分の宗教をよく理解する人々のしるしである.
(世の危険)
(「世」とは「地上」すなわち神の正義や善を見下す罪深い人たちの社会を指す)
『小さな子らよ,私があなたたちに書き送るのは,主のみ名によってあなたたちが罪をゆるされたからである.父たちよ,私があなたたちに書き送るのは,あなたたちが初めからましますお方を知ったからである.若者よ,私があなたたちに書き送るのは,あなたたちが悪者に勝ったからである.子らよ,私があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが御父を知ったからである.(父たちよ,私があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが初めからましますお方を知ったからである.)若者よ,私があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが強い者であり,(神の)みことばをその中に保ち,そして悪者(悪魔)に勝ったからである.
世と世にあるものを愛するな.
世を愛するなら御父の愛はその人の中にはない.
世にあるもの,すなわち肉の欲,目の欲,生活のおごり(富の誇り)などはすべて御父(真の神)から出るのではなく世から出る.
世と世の欲は過ぎ去るが,神のみ旨を行う者は永遠にとどまる.』
(反キリスト)
『小さな子らよ,*¹最後の時である.あなたたちは反キリストが来ると聞いていたが,今や多くの*²反キリストが現れた.これによって私たちは最後の時が来たことを知る.彼らは私たちの間から出たけれども,*³私たちに属する者ではなかった.私たちに属する者であったなら私たちとともに残ったであろう.しかし彼らが出ていったのは,みな私たちに属していない人々であることを示すためであった.
あなたたちは,*⁴聖なるお方の注油を受けて,みな知識をもっている.私(使徒ヨハネ)があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが真理を知らないからではなく,真理を知り,真理からはどんな偽りも出ないことを知っているからである.
*⁵偽り者はだれか.イエズスがキリスト(救世主たる神の子)であることを否定する者ではないか.御父(真の神)とみ子(=主キリスト)を否(いな)む者,それこそ反キリストである.み子を否む者は御父をもたず,*⁶み子を宣言する者は父を持っている.あなたたちは,初めから聞いたことにとどまれ.初めから聞いたことにとどまるなら,あなたたちは御父とみ子の中にとどまる. *⁷そして主(=神のみ子キリスト)自身が私たちに約束されたことは,すなわち永遠の命である.
私はあなたたちを惑わす人々についてこう書いた. *⁸あなたたちには主から受けた注油が残るのであるから,だれにも教えを受ける必要がない.その注油はあなたたちにすべてを教えるもので,偽りのない真実のものである.それが教えるとおりあなたたちは主にとどまれ. *⁹だから小さな子らよ,主にとどまれ.そうすれば,み子の現れの時,信頼を失わず,その来臨の時,主から離れる恥を味わわないであろう.主が正しいと知っているなら,正義を行う者はみな主から生まれるのだと知るであろう.』
(注釈)
*¹イエズスの誕生から審判までの期間(ガラツィア4・4,エフェゾ1・10,ミカヤ(旧約)4・1).
*²異端者と棄教者.
*³公に教会を離れる前に,異端者は信仰と恩寵の上でもはや教会に属していない者である. *⁴洗礼または堅振(信)の秘跡の暗示がある.
*⁵イエズスが神の子であり,救世主であることは,キリスト教の基礎的な信仰告白であって,これを否定するのは御父を否定するのと同じである.
*⁶ヨハネ聖福音書1・18,5・23,10・30参照.
*⁷ヨハネ聖福音書5・24,6・40,17・2参照.
*⁸信仰の教えを受けたからには,異端の教えに従うなと注意する.
*⁹テサロニケ(第二)1・9,マテオ聖福音書24・3,コリント(第一)15・23参照.
* * *
第3章
(神の子ら)
『考えよ,神の子と称されるほど,御父から,計りがたい愛を受けたことを.私たちは神の子である.
この世が私たちを認めないのは,御父を認めないからである.愛する者たちよ,私たちはいま神の子である.後にどうなるかはまだ示されていないが,それが示されるとき(キリストが現れる時),私たちは神に似た者になることを知っている.私たちは,神をそのまま見るであろうから. 主が清いお方であるように、主にたいするこの希望をもつ者は清くなる.罪を犯す者はそれによって法に背(そむ)く.罪は法に背くこと(神への敵対行為)である.あなたたちの知っているとおり,イエズスが現れたのは,罪を除くためであり,イエズス自身には罪はない.主(=神イエズス)にとどまるものは罪を犯さない.罪を犯す者はまだ主を見ず,主を知らないのである.
小さな子らよ,人に惑(まど)わされるな.主が正義のお方であるように,正義を行う者は,義人である.
罪を犯す者は悪魔に属する.悪魔は初めから罪を犯しているからである.
神の子が現れたのは,悪魔の業を破るためである.神から生まれた者は罪を犯さない.神の種(成聖の恩寵)がその人のうちにとどまり,その人は神から生まれた者であるから罪を犯すことができないのである. これによって,神の子と悪魔の子を区別することができる. 正義を行わぬ人は,兄弟を愛さぬ人と同様に神からの者ではない.あなたたちが初めから聞いた便りは,愛し合うことである.
悪魔に属していたから自分の兄弟を殺したカインには倣(なら)うな.なぜ殺したかと言うと,自分の行いが悪くて,兄弟の行いが正しかったからである.
兄弟たちよ,世があなたたちを憎んでも驚くな. 私たちが死から命に移ったのは,兄弟を愛するからであって,愛さない人は死の中にとどまっていることを私たちは知っている.
兄弟を憎む者は人殺しであって,人殺しはその中に永遠の命をとどめていないことをあなたたちは知っている.
主が私たちのために命をささげられたことによって,私たちは愛を知った.私たちもまた,兄弟のために命をささげねばならぬ.
世の宝を持ちながら兄弟の乏(とぼ)しさを見てあわれみの心を閉じる人の中に,どうして神の愛が住もうか?
子らよ,ことばと口先だけではなく,行いと真実をもって愛そう.それによって私たちは,自分が真理についていることを知り,神のみ前に安んじられる.
自分の心にとがめを感じるにしても,神は私たちの心よりも大きく,すべてのことを知りたもう.愛する者よ,もし心にとがめるところがなければ,私たちは神に信頼をもつことができる.また神の掟を守って,神に嘉(よみ)されることを行っているからこそ,私たちは求めることをすべて神から受ける.
その掟とは,神の子イエズス・キリストのみ名を信じ,神が掟を定められたように互いに愛すること,これである.その掟を守る人は神にとどまり,神も彼にとどまられる.私たちは神主が中にとどまりたもうことを,与えられた霊によって知る.』
第4章
(偽預言者)
『愛する者よ,無差別に霊を信じるな.霊が神から出ているかどうかを試せ.多くの偽預言者が世に出たからである.次のことによって神の霊を認めよ.すなわち,イエズスが肉体をとって下られたキリストであることを宣言する霊はみな神からである.またこのイエズスを宣言しない霊はみな神から出たものではなく,来るだろうと聞いている反キリストの霊である.それはもう世に来ている.
小さな子らよ,あなたたちは神から出たものであって,もはや彼らに打ち勝った.あなたたちにましますのは,この世にいる者より偉大なお方である.
彼らは世の者であるから世について語り,世は彼らの言うことを聞く.
しかし私たちは神からの者である.神を知る者は私たちのことばを聞き,神からでない者は聞かない.これによって真理の霊と誤謬(ごびゅう)の霊とが区別される.
愛する者よ,互いに愛せよ.愛は神よりのものである.愛する者は神から生まれ,神を知るが,愛のない者は神を知らない.神は愛だからである.
私たちに対する神の愛はここに現れた.すなわち,神はその御独り子を世に遣(つか)わされた.それは私たちをみ子によって生かすためである.
私たちが神を愛したのではなく,神が(先に)私たちを愛し,み子を私たちの罪のあがないのために遣わされた,ここに愛がある.
愛する者よ,神がこれほどに愛されたのなら,私たちもまた互いに愛さねばならない.だれも神を見た者はいないが,私たちが互いに愛するなら,神は私たちの中に住まわれ,その愛も私たちの中に完成される.
私たちが神にとどまり神が私たちにとどまられることは,神がご自分の霊に私たちをあずからせたもうたことによって分かる.私たちは御父がみ子を救世主として送られたことを見て,これを証明する.
イエズスが神のみ子であると宣言する者には,神がその中にとどまられ,彼は神にとどまる.
私たちは神の愛を知り,それを信じた.神は愛である.
愛をもつ者は神にとどまり,神は彼にとどまられる.愛が私たちの内に完成されるのは,審判の日に私たちに信頼をもたせるためである.私たちは地上において,主と同じものだからである.
愛には恐れがない.完全な愛は恐れを取り除く.恐れは罰を予想する(恐れには罰が含まれている)からである.恐れる者は完全な愛をもつ者ではない.
私たちが愛するのは,神が先に私たちを愛したもうたからである.
「私は神を愛する」と言いながら兄弟を憎む者は,偽り者である.目で見ている兄弟を愛さない者には,見えない神を愛することができない.
神を愛する者は自分の兄弟も愛せよ.これは私たちが神から受けた掟である.』
第5章
(イエズス・キリストへの信仰)
『イエズスがキリストであることを信じる者は,神から生まれた者である.生んだお方(神)を愛する人々は,また神から生まれた者(神の子ら)をも愛する.神を愛してその掟を行なえば,それによって私たちが神の子らを愛していることがわかる.
神への愛はその掟を守ることにあるが,その掟はむずかしいものではない.
神から生まれた者は,世に勝つ.世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である.イエズスが神の子であると信じる者のほかにだれが世に勝てるであろうか.
水と血によって来られたのはイエズス・キリストである.ただ水だけではなく,水と血によってである.それを証明するのは霊である.霊は真理だからである.実に証明するものは三つある.(天においては御父とみことばと聖霊であり,この三つは一致する.地において証明するのは三つ),霊と水と血である.この三つは一致する.
私たちが人間の証明を受け入れるなら,神の証明はそれにまさっている.神の証明とはそのみ子についてのことである.神の子を信じる者は,自分の内に神の証明をもち,神を信じない者は神を偽り者とする.神がそのみ子についてされた証明を信じないからである.その証明とは神が私たちに永遠の命を与えられたこと,その命がみ子にあることである.み子をもつ者は命を有し,み子をもたぬ者は命をもたぬ.
私が以上のことを神の子の名を信じるあなたたちに書いたのは,あなたたちに永遠の命があることを知らせるためであった.
私たちは(神の)み旨に従って願うことを神が必ず聞き入れたもうと確信している.そして,神がすべての願いを聞き入れたもうことを知るなら,また願ったことが受け入れられることもわかる.』
(罪の種類)
『自分の兄弟が死に至らぬ罪を犯しているのを見たなら,彼のために祈れ.そうすれば命が帰るだろう.
これは死に至らぬ罪を犯す人々のために言ったことである.死に至る罪がある.私はこれについて祈れとは言わぬ.すべての不義は罪である.しかし死に至らぬ罪がある.』
(悪魔に対して)
『神から生まれた人はすべて罪を犯さないと私たちは知っている.神から生まれたお方(キリスト)がその人を守られるから,悪者はその人に触れることができない.私たちが神から出た者であり,世がすべて悪者の配下にあることも私たちは知っている.また神のみ子がすでに来られ,真実のお方(神)を知るための知恵を私たちに授けられたことも知っている.
私たちはそのみ子イエズス・キリストによって真実のお方のうちにいる.それは真実の神であって,永遠の命である.小さな子らよ,偶像を警戒せよ.』
* * *
(6)第4,6パラグラフについての訳注:
・「神に栄光をもたらす」…原文 “give Him glory”, “to give glory to God.” の意味について.
「神に栄光を帰す」とも言われる.
〈神は万物の創造主であり,人間はその被造物である.〉
人間が神に服従し,神の正義と愛徳に適(かな)う生活をすることによって,天上の神の栄光を地上で示すことになるという意味.
① 神を愛し,
(天地の創造主,全能の父なる神に服従すること)
② 隣人を自分と同じように愛する
(隣人愛の実践)