2011年3月27日日曜日

司祭服の軽重

エレイソン・コメンツ 第191回 (2011年3月12日)

先週の「エレイソン・コメンツ」(第190回,3月5日付)で触れたことですが,カトリック真理の完全性を有する者なら誰でもカトリック教会の運転席に座る資格があると認めることは,うまくいっても危険を伴うし,最悪の場合は過ちのもとになると思われるかもしれません.結局のところ,このことに対する疑問は:(1)運転手 - カトリック教会の権威者 - が私たちの主によって認められそこに置かれないかぎり誰がカトリック教会の運転席に座りうるというのでしょうか?(2)いつから私たちの主はカトリック真理を持つと主張する者に彼のカトリック教会を導くことをお認めになられたのでしょうか?(3)カトリック教会の方向性は,真理を有すると主張する者に教会の混乱をもたらすレシピを与えることにならないでしょうか?-の3点に集約できます.

この疑問への最良の答えは聖書の中にあります.聖パウロがガラツィア(今日のトルコと考えてください)の人たちにイエズス・キリストの真の福音を説いたとき,彼らは喜んでその福音を受け入れ彼らの信仰はその後大きく結実しました(ガラツィア2章14-15節,3章5節).だが,その後まもなく聖パウロが他の場所へ宣教するためガラツィアを去ると,神の敵がその地の人々の間に入り込み,イエズス・キリストへの信仰によってではなく古い律法,とりわけ割礼(同5章2,11節)儀式によって神の救いを説くようになりました.この真の福音の曲解にはめられたことにより(同1章6節,3章1節),ガラツィア人たちは,栄えある「ガラツィア人への書簡」に記されている通り,聖パウロから厳しく非難されました.この書簡の第1章から鍵となる数節を以下に記します:-- (訳注後記)

「(第6節)キリストの恩寵によって召されたあなたたちが,これほど早くその御者を離れてほかの福音に移ったことに,私は驚いている.(第7節)それは福音というべきものではない.ある人々があなたたちを惑(まど)わし,キリストの福音を変えようとしている.(第8節)私たちや天からの天使以外に,私たちがあなたたちに伝えたものとは異なる福音を説く者があれば,その者にはのろい “Anathema” あれ.(第9節)私たちが前に言ったことを私は今また繰り返す.あなたたちが受けたのとは異なる福音を説く者にはのろいあれ.」( “Anathema” とは徹底的に忌み嫌われること,破門されることを意味します.)

ガラツィア人たちの前に現われるいかなる天使も天からの真の使者としてのあらゆる権威を身に帯びて現れるだろうということは疑いのないところです.そして,もし聖パウロ自身が彼らの中に戻ってくるならば,彼はきっと前に異邦人たちの博士として彼らに福音を説いたときと同じ権威を身に帯びて現れるにちがいありません.どちらの場合にも権威の現われ方に優劣はないでしょう.だが,聖パウロは繰り返し言います.次のように言うかもしれません.「ガラツィア人は使者のまとう司祭服より彼が説く中身を重視しなければならない.そうすれば使者が説教の中身を変えたとしても,戻ったとき彼が身につけていた司祭服の色に惑わされることなく,その言葉の一つたりとも信じずに済むから」と!

したがって,最初に並べた3つの疑問に対する答えは次のようになります.(1)私たちの主イエズス・キリストが,究極的に,カトリック教会の運転席に置くのは真理を語る使者であり司祭服ではない.(2)運転者たちは真理を語る使者であり,単にカトリック真理を有すると主張する者ではない.主張が真理をつくり出すことはなく,真理が自(おの)ずから真理を説くのです.(このことを分かっている現代人はあまりいません.)(3)真理は唯一のものであり,真実を説く使者たちはその真理のもとに結合され,混乱はその真理を拒(こば)み歪(ゆが)める霊魂からのみ生じます.

ルフェーブル大司教の偉大さは,第二バチカン公会議がイエズス・キリストあるいは聖パウロとは「別の」福音,すなわち近代人の所作(しょさ)で正当化された福音に陥(おちい)りつつあること,使者が白い司祭服をまとってその福音を説いてもだれも従わないようになることを見定めていたところにあります.いったい今日の白い司祭服にどれほどの違いがあるでしょうか?

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教



* * *

第2パラグラフの訳注・引用されている新約聖書(バルバロ神父訳)の該当箇所:

聖パウロによるガラツィア人への手紙(書簡)

・第2章14-16節
『私は彼らが福音の真理に従って正しく歩んでいないのを見て,みなの前でケファ(=使徒ペトロ)に言った,
「あなたはユダヤ人であるのにユダヤ人のようにせず,*異邦人のように生活している.それならどうして異邦人にユダヤ人のようにせよと強いるのか」.
私たちは生まれながらのユダヤ人であって,罪人の異邦人ではないが,人間が義とされるのは律法の行いではなく,ただキリスト・イエズスへの信仰によることを知って,私たちもキリスト・イエズスを信じた.
律法の行いではなく,キリストへの信仰によって義とされるためである.生きる人はだれも律法によって義とされない.』

(注釈)

*ユダヤの律法のこまかいおきてを守らないで生活すること.ペトロはカイザリアで百夫長のコルネリオ(使徒行録10・24以下参照)に対してそうした.彼はその態度をエルサレムの信徒の前で弁明した.ペトロはこまかいおきてを守ることが,改心したユダヤ人にとって義務ではないにしろ,して悪いことではないと考えていた.パウロもその意見だった.

・第3章5節
『あなたたちに霊を与えられ,あなたたちの中で不思議な業を行われたお方は,律法の行いのためか,それとも信仰を承知したためにそうなされたのか.』

・第5章2節
『見よ,私パウロはあなたたちに言う.あなたたちが割礼を受けるなら,キリストは何の役にも立たなくなる.』

・第5章11節
『兄弟たちよ,*私が今なお割礼を宣教しているなら,なぜ迫害されるのだろうか.それなら十字架のつまずきはやんだわけである.』

(注釈)

*割礼をまだ守らねばならないとパウロが宣教していたら,ユダヤの信者から迫害されるはずはない.

・第1章6節
『キリストの恩寵によって召されたあなたたちが,これほど早く*その御者を離れてほかの福音に移ったことに,私は驚いている.』

(注釈)

*神のこと.

・第3章1節
『ああ,愚かなガラツィア人,イエズス・キリストは十字架につけられた者として目の前に描かれたのに,あなたたちはだれに惑わされたのか.』