エレイソン・コメンツ 第190回 (2011年3月5日)
一部の人たちはほっとし,ほかの人たちはがっかりするかもしれませんが,ローマ教皇庁の神学者たちと聖ピオ十世会の代表者たちとの間で過去一年半にわたって開催されてきた教理上の協議(論議)は,主要論点の検討がすべて終了するため,結局のところ合意への真の展望がなんら開けないままこの春に終結することになりそうです.これが聖ピオ十世会総長フェレイ司教の2月17日のインタビュー発言から暫定(ざんてい)的に引き出される結論です.
失望した人たちは,第二バチカン公会議とカトリック伝統派との間に橋を架ける努力を諦(あきら)めない教皇庁側の人たちと聖ピオ十世会の有力な司祭たちが存在することを信じてください.ただ,あらゆる善意のカトリック信徒を結束(一致)させようとするそのような努力,すなわち,昨日,今日そして明日へと盛衰(せいすい)を重ねる努力がどのようなものであろうと,頼みの綱(つな)(=拠り所〈よりどころ〉)となるのは私たちの主イエズス・キリストの次の御言葉です.「天地は過ぎ去るだろう,しかし私の言葉は過ぎ去らない」(マテオ24・35)(訳注後記).なぜなら,カトリック教会の生命は彼キリストの生涯を模範(もはん)としているのであり,そのキリスト御自身が彼の人生において私たち同様に,最終的に恐ろしい十字架刑に至るほどの数々の人間的な努力や苦悩による盛衰を体験しているからです.だが私たちの主であるイエズス・キリストは,彼の天の御父の御旨(みむね)である十字架刑を避けたいという人間的な衝動(しょうどう)にかられ尻込みするたび「父よ,できることならば,この杯(さかずき)を私から取り去りたまえ…」と神に祈りつつ - 持ち合わせた人間としての理性や心情においてなおも神の御旨を拠り所とし - 次のように祈り続けました,「…けれども,私の思うままではなく,あなたの御旨のままに」(マテオ26・39)(訳注後記).
私たちの主イエズス・キリストの人間的な精神と意志の方向性を導きかつ固く支えた同じ不変の神の御旨は,彼の建てられたカトリック教会の生命を同じように固く支えるに違いありません.したがって,歴代のローマ教皇,公会議,宗教的修道会,信徒会は時とともに去来(きょらい)するでしょうが,彼らがカトリックであるためには,私たちの主が服従した神の御旨に彼らもまた服従しなければならず,私たちの主が御父から彼のカトリック教会へと伝達したのと全く同じあらゆる真理を彼らもまた語らなければなりません.地上に存在する他のいかなる機関とも異なり,カトリック教会はカトリックの真理の上に築(きず)かれており,その存続如何(いかん)はそれがカトリック真理に対してどれだけ忠実かどうかに比例(ひれい)しています.公会議派の教会は神聖なカトリック真理の場に人間の利益を置いているため崩壊(ほうかい)しているのであり,同じことをする他のいかなるカトリック修道会や信徒会もバラバラに崩壊するでしょう.
顕示(けんじ)されたカトリック真理に完全に忠実なものは誰でも事実上 - 原理上ではなく実際上 - カトリック教会の運転席に座っているということになります(「神学校長への手紙」第4巻の164ページをご覧ください).(訳注・原文 “See “Letters from the Rector”, Vol. IV, p.164”. 〈該当箇所を後日記載します〉.)さらに,私たちの主の御言葉によれば,カトリック真理を持ちながらその運転席に座っていないふりをする者は誰でも主イエズス・キリストの敵と同じように「うそつき」(ヨハネ8・55)(訳注後記)ということになります.それは,神から預かった託宣(たくせん)の神聖さについて自分に責任がないとふるまうような使者は誰でも,自分が言うほどに同胞を真に愛しているわけではなく,うその父(悪魔)を自らの父としているからです(ヨハネ8・44).(訳注後記)
カトリック真理は確かに存在します.たとえそう考える人がほとんどいなくてもです.カトリック教会を支配するローマ(教皇庁)の聖職者たちの権利と能力は,そのカトリック真理にいかに忠実かどうかによって成り立つのです.不誠実なローマの聖職者たちに立ち向かう聖ピオ十世会の権利と能力は,同会自身のカトリック真理に対する忠実性にかかっているのです.聖ピオ十世会は忠実であり続けてきているので,当面の間は存続するでしょう.だが願わくば,ローマがカトリック真理に立ち戻ることにより,聖ピオ十世会の存続が不必要なものとなりますように!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
引用されている新約聖書の御言葉:
・第2パラグラフ最初の訳注:
(マテオ聖福音書・第24章35節)
『天地は過ぎ去る,だが私のことばは過ぎ去らぬ…』
“Heaven and earth will pass away, but my words will not pass away” (Matthew XXIV, 35).
・第2パラグラフ最後の訳注:
(マテオ聖福音書・第26章39節)
『(イエズスは)少し進んでひれ伏し,「父よ,できればこの杯を私から取り去りたまえ.けれども私の思うままではなく,み旨のままに」と祈られた.』
“And going a little further, He (Jesus) fell upon His face, praying and saying: My Father, if it be possible, let this chalice pass from me. Nevertheless, not as I will, but as thou wilt” (Mt. XXVI, 39).
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・第4パラグラフの2番目の訳注:
(ヨハネ聖福音書・第8章55節)
『あなたたちはそのお方を知らぬが私は知っている.知っていないと言えば,私もあなたたちのようにうそつきになってしまう.だが私はそのお方を知り,そのみことばを守っている.』
“And you (the Jews) have not known Him (God): but I (Jesus) know Him. And if I shall say that I know Him not, I shall be like you, a liar. But I do know Him and do keep His word” (John VIII, 55).
・第4パラグラフの最後の訳注:
(ヨハネ聖福音書・第8章44節)
『あなたたちは悪魔を父にもち,その父の望みを実行したがっている.彼は始めから人殺しだった.彼は真理において固まっていなかった.彼の中には真理がないからである.彼はうそをつくとき心底からうそを言う.彼はうそつきで,うその父だからである.』(この後に続く御言葉…『私が真理を話すからあなたたちは私を信じないのだ.*だが,私に罪があると確認できる人がいるか.私が真理を知らせているのになぜ信じようとしないのか.神からの者は神のみことばを聞くが,あなたたちは神からの者ではないから,私のことばを聞こうとしない』〈45-47節〉)
“You are of your father the devil: and the desires of your father you will do. He was a murderer from the beginning: and he stood not in the truth, because truth is not in him. When he speaketh a lie, he speaketh of his own: for he is a liar, and the father thereof”.
( “…But if I say the truth, you believe me not. Which of you shall convince me of sin? If I say the truth to you, why do you not believe me: He that is of God heareth the words of God. Therefore you hear them not, because you are not of God”.)
・「あなたたち」=ユダヤ人.
・「そのお方」=(イエズス・キリストの御父なる)神.
・「私」=イエズス・キリスト.
(注釈)
*神から受けた使命に忠実でなかったと証明しうる者があるか.