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2012年7月2日月曜日

259 二つの誤り 6/30

エレイソン・コメンツ 第259回 (2012年6月30日)

聖ピオ十世会が現在の厳しい試練を乗り越えられるかどうかにかかわらず,リベラリスト(自由主義者)たちは聖ピオ十世会を自殺に追い込もうと誤(あやま)った議論を仕掛け続けるでしょう.その類(たぐい)の議論を2点ご紹介します.

最初の議論は,聖ピオ十世会が第二バチカン公会議下のローマ教皇庁とのなんらかの実務的合意(教理に関しないもの)( “some practical (non-doctrinal) agreement with Conciliar Rome” )を受け入れるべきかをめぐる最近の論争に絶えず出てきます.単純な議論です.つまり,カトリック教の指導者(もしくは指導者たち)は神から生じる職責上の品格( =諸々の恩寵.“graces of state” )を備えているのだから,その人のことを批判せず自動的に信頼すべきだというのです.これに対する答え:むろん神は常に指導者たちだけでなく私たちのすべてに職責( 訳注・=すべての人間が人として生きていく上で守るべき義務.“duty of state” )を果たすのに必要な自然的援助や超自然的恩寵( “the natural assistance and/or supernatural grace” )を与え続けておられますが,私たちにはそれを受け入れるか拒(こば)むかを決める自由意思があります.もし,すべての教会指導者がその天与(てんよ)の職責を受け入れて恊働(きょうどう)してきたとすれば,どうして裏切り者ユダ( “Judas Iscariot” )が現れることなどあったでしょうか? なかったはずです.また同様に,それならどうして第二バチカン公会議などが出現していたでしょうか? そんなことがあったはずがありません.職務上の品位に基づく議論はそれが単純なのと同じくらい愚かで馬鹿(ばか)げたものです.

2番目の議論はもっと深刻です.これは先月(訳注・2012年5月を指す.)にJ.L.さんという男性が英国で発行されているカトリック伝統派の定期刊行物に寄稿した10ページの記事の中で提唱しているもので( “It was put forward last month in a ten-page article by a Mr. J.L. in a conservative Catholic periodical in England,…” ),ローマと聖ピオ十世会との間の合意に好意的な立場をとっています.以下,もちろん短縮はされていますが,論旨は曲げずにその要点をご紹介します.いまカトリック教会は外部(たとえばアメリカ政府),内部(たとえば善良な生活を愛するが神学理論など知らない司教たち),そして最上位レベルではスキャンダルや内紛(ないふん)にまみれたバチカン当局からの猛攻撃を受けています.教皇は四囲を包囲されており,たとえ第二バチカン公会議を信頼しているにしても,自分が信じる教会の過去のまっとうな影響力を再建しようと聖ピオ十世会の助けを求めています.ブクス閣下 (=モンシニョール・ブクス.“Monsignor Bux”.)(訳注・「モンシニョール」は高位の聖職にある司祭〈=神父〉に対する尊称〈そんしょう〉.) が教皇自身の呼びかけを以下のように口にしています.すなわち,もし聖ピオ十世会が実務的な合意を受け入れるなら,教会全体だけでなく聖ピオ十世会をも大いに利することになるだろうと.以前,聖ピオ十世会で高い地位にあったオラニエ神父( “Fr Aulagnier, a former high-up SSPX priest” )も明らかに同じ考えです.

J.L.様.あなたの教会への愛とその問題に対する認識,教皇へのご心配,彼を助けたいというお気持ちには満点を差し上げます( “…full marks for…” ).だが,教会の問題がどこから生じているのか,聖ピオ十世会とはどういうものなのかについてのあなたのご理解には低い点しかあげられません( “…but low marks for…” ).オラニエ神父を含め,今日の教会内や世界中のおびただしい(=膨大な,無数の)数の人たちと同じように,あなたは教理の根本的な重要性を見落としています( “Like one zillion souls in today’s Church and world, including Fr. Aulagnier, you miss the absolutely basic importance of the doctrine of the Faith.” ).

アメリカ政府がカトリック教会を攻撃するのは教会が弱体だからです.教会が弱体なのは,司祭たちのお粗末(そまつ)な行動(言動・挙行・振る舞い)が天国,地獄,罪,天罰,贖罪(しょくざい),ご加護(かご),真のミサ聖祭で捧げられる絶え間のない購(あがな)い主(=イエズス・キリスト)の犠牲などについての貧弱(ひんじゃく)な理解に基づくものだからです( “…the bishops’ poor behavior follows on their poor grasp of the doctrine of Heaven, Hell, sin, damnation, redemption, saving grace and the Redeemer’s ever-present sacrifice in the true Mass.” )(訳注後記).司教たちが,そうした諸々の世を救う真理について貧弱な理解しかしていないのは,なかんずく諸司教の中の主たる司教( “the Bishop of bishops” )(訳注・ローマ教皇のこと〈=ローマの司教〉.)がそれを半分程度しか信じていないからです.教皇ご自身は半分しか信じていません.なぜなら,ご自身の残り半分は第二バチカン公会議を信じているからです.第二バチカン公会議は(あなたもお認めのように)神の位置に人間を置く目的でその文書類に埋(う)め込んだ恐ろしいほどの曖昧(あいまい)さをもって神の真の宗教を台無しにしています( “Vatican II undermines all the true religion of God by the deadly ambiguities planted throughout its documents (as you recognize), and designed to put man in the place of God.” ).

J.L.様.誤った教理が根本的な問題なのです.神のご加護により聖ピオ十世会はこれまでイエズス・キリストの真の教えを守ってきました.だが,もし聖ピオ十世会がその教えの半分しか信じていない教会当局者たちの影響下に身を寄せるなら,彼らの過(あやま)ちに対する攻撃をやめることになるでしょう(それはすでに起きつつあります).そして聖ピオ十世会は終(つい)には過ちを推(お)し進めることになるでしょう.また過ちとともにあなたの言うあらゆる恐怖がやってくるでしょう.それはとんでもないことです!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第5パラグラフの訳注:
「真のミサ聖祭で捧げられる絶え間のない購(あがな)い主(=救世主イエズス・キリスト)の犠牲(ぎせい)」 “the Redeemer’s ever-present sacrifice in the true Mass” について.

(補足)

ルフェーブル大司教 “Archbishop Lefebvre” のお言葉より

①“THE MASS OF ALL TIME” (英語)
“La messe de toujours” (フランス語)
「いつの世も変わらぬミサ聖祭」

②“The Mass of All Time Versus The Mass of Our Time”
「永遠に変わらないキリストの犠牲のミサ聖祭(聖伝)」対「私たちの新しい(現代の)時流に合わせた新しいミサ聖祭(第二バチカン公会議)」


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補足の続きを後から追加します.
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2012年3月25日日曜日

245 ニコラ・ブクス閣下 “MGR. NICOLA BUX” の公開書簡への公開返書 (3/22)

エレイソン・コメンツ 第245回  (2012年3月22日)
 
(2012年3月24日・複製許諾付掲載見込み)

ロンドン,2012年3月22日.

閣下,

閣下貴殿はフェレイ司教 “Bishop Fellay” および聖ピオ十世会のすべての司祭に宛てられた3月19日の公開書簡の中で,ローマ教皇庁(以下,「ローマ」)と聖ピオ十世会の間の長年の断絶を解くため教皇ベネディクト16世が聖ピオ十世会に寄せた誠実かつ心温まる和解の申し出を私たちが受け入れるよう呼びかけられました.呼びかけを受けた聖ピオ十世会所属の諸司祭のひとりとして,私は「偉大な聖職者」であったルフェーブル大司教( “…“great churchman”, Archbishop Lefebvre.” )なら出されただろうと思えるお返事についてあえて私見を述べさせていただきます.

貴殿は書簡の冒頭で「結束(けっそく)の名の下にあらゆる犠牲」を捧げるよう訴えておられます.しかしながら,真のカトリック信仰に基づかない真のカトリックの結束などあり得ません( “…there can be no true Catholic unity that is not grounded in the true Catholic Faith.” ).偉大なルフェーブル大司教は(訳注・カトリック)信仰の真の教理( “in the true doctrine of the Faith” )に基づく結束のためにあらゆる犠牲をいけにえとして神に捧げられました.残念なことに,2009年から2011年にかけて行われた教理に関する協議( “the Doctrinal Discussions of 2009-2011”.=教理上の論議 )は第二バチカン公会議体制下のローマと聖ピオ十世会との亀裂(きれつ)( “the doctrinal rift between the Rome of Vatican II and the SSPX” )がこれまでにも増して深いことを証明しただけでした.

貴殿はこの亀裂に言及され,それは単に「残された難問で深く掘り下げもしくは詳述すべき論点」( “…remaining perplexities, points to be deepened or detailed” )にすぎないと言われました.だが,3月16日にレヴェイダ枢機卿 “Cardinal Levada” はフェレイ司教が1月12日に明らかにした立場について「教理上の問題を克服するには不十分だ」と断定されました.フェレイ司教はかつてローマの聖職者たちの間でも互いに見解に隔(へだ)たりがあると指摘されました.その方たちが言われる結束がいかなるものであるにせよ,結束のために(訳注・カトリック)信仰を犠牲にするのは信仰のない結束というものでしょう.( “…but be their unity what it may, in any case Faith sacrificed for unity would be a faithless unity.” )

ご指摘の通り,むろん教会( “the Church”,=カトリック教会を指す)は神性(=神聖)と人性(=人間性)の双方( “both divine and human” )の性格を持つ機構です.むろん,その神性の要素が崩(くず)れることは決してあり得ませんから,その当然の成りゆきとして教会が最終的に崩れ落ちるということも決してあり得ず,陽は必ずまた昇(のぼ)るでしょう.貴殿は夜明けが近いと言われましたが,その点に異論を唱える者もいるのではないでしょうか.なぜなら,教理に関する協議で聖ピオ十世会が堅持(けんじ)した真のカトリック信仰( “true Faith” )は第二バチカン公会議体制下のローマから輝き出ているものではないからです( “…is not shining out from the Rome of Vatican II,” ).聖ピオ十世会は(訳注・第二バチカン公会議体制下の)ローマでは無事安全たり得ません.また,もし聖ピオ十世会が自ら公会議の闇( やみ,“the Councilar darkness” )を受け入れるなら光をもたらすことなどできません.

聖ピオ十世会を(訳注・ローマへ)呼び戻し再び「完全な教会の交わり」に迎え入れたいという教皇の願望( “…the Pope’s wish to welcome back the SSPX into “full ecclesial communion”,” )が誠実なものであることは,一連の好意的なジェスチャーが示すとおり疑う余地はありません.しかし,聖ピオ十世会と第二バチカン公会議の信奉者が「信仰を共に宣言」( “common profession of faith” )するのは,聖ピオ十世会が協議の席上で擁護(ようご)した信仰を見捨てない限り不可能です( “…but “a common profession of faith” between the SSPX and believers in Vatican II is not possible, unless the SSPX were to desert that Faith which it defended in the Discussions.” ).そして聖ピオ十世会がいかなる形であれそのように信仰を見捨てることなど「とんでもない!(訳注・〈決してあってはならないことだ,神が禁じられる,決してお許しにならない〉の意味を含む)」と叫ぶとき,聖ピオ十世会の声は封(ふう)じ込められるどころか世界の至るところに行きわたり “And when the SSPX cries “God forbid!” to any such desertion, far from its voice being stifled, it is heard all over the world, …” ),教会のためにカトリックの果実(かじつ, “Catholic fruits” )を結実(けつじつ)させています.ただ,いまのところその果実は規則というよりは例外にとどまっています( “…and it bears for the Church Catholic fruits which today are the exception rather than the rule.” ).

貴殿が言われる通り,確かに今が教会と世界が抱える苦渋(くじゅう)に満ちた諸問題( “…the agonizing problems of Church and world.” )を解決する「適切な時」であり,確かに「好機の到来」でしょう.だが,その問題解決とは(訳注・今日に至るまで)もう長年の期間にわたり天の御母 “the Heavenly Mother” (訳注後記)が(訳注・全カトリック信者に)呼びかけてこられ,(今もなお)叫び求めつつお望みになり続けておられることで,聖父 “the Holy Father” (訳注後記)によってのみもたらすことができるものです( “…depends upon the Holy Father alone.” )事実,私たちの主 “Our Lord” (訳注後記)がその御母(=聖母)のみ手にその解決を委(ゆだ)ねられたとき,聖母は(訳注・聖母のみ手を通す〈聖母による〉以外の)ほかの解決はどれもみな役立たないだろうと言われました.そこで,主は聖母を嘘(うそ)つきにすることなしに(訳注・聖母を通さない〈聖母によらない〉)ほかのどんな解決も役立つようにすることができなくなりました! (聖母を嘘つきにするなど)考えられないことです.

ここに言う問題解決とは長い間知れ渡っているものです.というのも,どうして天が世界を過去百年に起きたと同じような困窮(こんきゅう)状態に置きながら,預言者エリシャ( 訳注・バルバロ訳「エリゼオ」.英語原文= “prophet Elisha” )がらい病( “leprosy” )を患(わずら)うシリアの将軍ナーマン( “the Syrian General Naaman” )に施したと同じような治療(=救済策)を与えないまま放置することがあり得るでしょうか? 人間的な言い方をすれば,ヨルダン川で水浴びをする(“…bathing in the River Jordan seemed ridiculous,…”)など馬鹿げたことに思えたかもしれません( “…bathing in the River Jordan seemed ridiculous,…” ).だが,誰も無理だとは言いませんでした.そうするには,ただ多少の信仰と謙虚さを必要としただけでした( “It required merely some faith and humility.” ).異教徒の将軍は神の人( “the man of God”,預言者エリシャのこと. )にありったけの信仰と信頼を置き,天が彼に求めたことを行いました.むろん,将軍は立ちどころに完治しました( “The pagan General gathered together enough faith and trust in the man of God to do what Heaven asked for, and of course he was cured instantaneously.” ).(訳注後記)

聖父が天の御母のお約束にありったけの信仰と信頼を置くのに任せましょう! 世界経済が崩壊して廃墟(はいきょ)と化し,狂人どもが中東で第3次世界大戦を引き起こすことに成功する前に聖父がこの「適切な時(好機)」をとらえるのに任せましょう! 聖父がただ一つだけ,すなわち天の御母のお望みになられることだけを行うことで,教会と世界をお救いくださるよう,私たちは聖父にお任せ(委託)し,聖父に懇願(こんがん)し,聖父に切望(せつぼう)しましょう.それは不可能なことではありません.天の御母は聖父の行く手を邪魔するあらゆる障害(物)を聖父の仕方を通じて打開されるでしょう( “She would overcome all obstacles in his way.” ).天の御母がお求めになることを為(な)すことにより,私たちを想像を絶する――そして不必要な――苦痛から救うことができるのはただ一人聖父だけです.

そして,もし聖父が,天の御母(=聖母)が呼び集めるであろう世界中のすべてのカトリック司教たちが一致結束する中でロシアを天の御母の汚れなき御心( “Immaculate Heart” )に奉献するにあたり,( “to consecrate Russia to her Immaculate Heart in union with all the bishops of the world, whom the Heavenly Mother would rally,” ),卑(いや)しき聖ピオ十世会による祈りや行動の支援をお望みであれば( “…if he wishes for any support in prayer or action with which the humble SSPX could help him,” )フェレイ司教をはじめ聖ピオ十世会の他の3名の司教の支援を真っ先に当てにできることは聖父ご自身がご存じでしょう.その末席(まつせき)に連(つら)なる

キリストにおける貴殿の献身的なしもべ,  

+リチャード・ウィリアムソン.



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第6パラグラフの訳注:

天の御母 “the Heavenly Mother”
神(すなわちキリスト)とその信者の御母なる「聖母マリア」を指す.

聖父 “the Holy Father”
キリストは使徒ペトロに教会の首位権をお与えになった(新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第21章17節参照).
その聖ペトロの正統な後継者たる「ローマ教皇(ローマの司教)」を指す(=Papa, Pope).

私たちの主 “Our Lord”
神の御子,救世主「イエズス・ キリスト」のこと.

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第7パラグラフの訳注:
預言者エリゼオとシリアの将軍ナアマンについて(旧約聖書からの引用).
The prophet “Elisha (In English via Hebrew), Eliseus (via Greek and Latin)”

旧約聖書・列王の書下:第5章1-27節
THE FOURTH BOOK OF KINGS V, 1-27

Naaman the Syrian is cleansed of his leprosy. He professeth his belief in one God, promising to serve him. Giezi taketh gifts of Naaman, and is struck with leprosy.

第5章

ナアマンは治る
アラム王の軍隊の長ナアマンは,王の前に勢力もあり大いに尊敬もされていた.*¹主はこの人によってアラムを救われたからである.ところが,この人*²はらい病にかかっていた.さてアラム人は略奪に出て,イスラエルの地から一人の娘を奪い去った.この娘はナアマンの妻に仕えるようになった.ある日この娘はナアマン夫人に言った,「ご主人がもしサマリアにいる預言者にお会いになれたら,きっとらい病は治るでしょう」.

ナアマンはそのことを王に告げて,「イスラエルの地からきた娘がこう言いました」と知らせた.アラム王は,「では行くがよい,私もイスラエル王に手紙を書いてやる」と答えた.そこでナアマンは銀十タレントと黄金六千シェケルと,着替え十着を携えて出発した.また,イスラエル王には,「……あなたがこの手紙を受け取られたら,私が家来ナアマンをそちらに送ったのはらい病を治していただくためであるとご了承ください」という意味の手紙も持っていた.

イスラエル王はその手紙を読むと服を裂いて叫んだ,「らい病を治してくれるように人を送ったというが,私は人の生死をつかさどる神ではない.よく考えてみれば,彼は私を攻める言いがかりを見つけようとしているのだ」.

神の人エリゼオはイスラエル王が服を裂いたと聞き,王に使いを送って言った,「なぜ服を裂かれたのですか.その人を私のところにこさせればよろしい.イスラエルには預言者のあることを知らせられます」.

ナアマンは馬と車を従えてきてエリゼオの門前に止まった.
エリゼオは人を送ってナアマンに告げた,「ヨルダン川の水で七たび身を洗え.そうすればあなたの体はもとのようになり,病気は清められる」.

それを聞いてナアマンは腹を立てた.「私はこう思っていた,彼は私を出迎えてそばに立ち,患部に*³手をあてて主なる神にこいねがうだろう.そうして私の病気を治してくれるだろうと.ダマスコのアバナ川やパルパ川のほうが,イスラエルの川の水より効き目があるのだ.身を清めるためならその川で洗ったほうがましだ」と言って立ち去り,怒りに燃えて帰途についた.

けれども彼の家来たちが主人に近づいて言った,「あの預言者がむずかしいことをあなたに命じたら,きっとそのとおりにされたでしょう.〈身を洗えば清くなる〉と彼は言ったのですから,そんなやさしいことなら,なおさらやって見ればよろしいでしょう」.そう言われてナアマンはヨルダン川に下り,神の人に命じられたように,七たびその水に入って身を洗った.すると彼の体は子どもの体のように清くなった.

ナアマンは供の者を連れて神の人のところに引き返し,家に入り,エリゼオの前に立って言った,「この世にはイスラエルの神のほかには神はないと知りました.どうぞこのしもべの贈り物を受けてください」.エリゼオは,「私の仕(つか)える主の命に誓(ちか)って,あなたの贈り物を受け取れません」と言った.ナアマンは受け取ってくれと何度も頼んだが,エリゼオは聞かなかった.

そこでナアマンは言った,「あなたは何も受け取ってくださいませんけれども,このしもべに二頭のらばにつめるだけの土を少し譲(ゆず)ってください.これから私は,もう主のほかの神々には燔祭(はんさい)もいけにえもささげないつもりです.
ただ主におゆるし願いたいことがあります.主人が私の腕にもたれてリムモン神殿に参拝にいくとき,主人がひれ伏せば私もリムモン神(がみ)の前にひれ伏さぬわけにはいきません.主がこのことをおゆるしくださるようにお願いします」.エリゼオは「安心するがよい」と答えた.

ナアマンがかなりの道のりを進んだころ,神の人エリゼオのしもベゲハジはこう思った,「ご主人はアラム人ナアマンの贈り物を一つも受け取らなかった.主のお命(いのち)に誓って言う,私は彼を追いかけて何かもらってこよう」.

ゲハジはナアマンのあとを追った.ゲハジが追いかけてくるのを見たナアマンは,車を下りて彼を待ち,「すべては無事か」と尋(たず)ねた.ゲハジは,「無事です.ご主人が私をこうして送られたのは,エフライムの山地からちょうど今日,預言者たちの若い弟子二人がきたからです.もしよければ銀一タレントと服二着をやってくださいませんか」.ナアマンは「いやどうぞ二タレントを受け取ってください」と言った.無理にそう頼み銀二タレントと服二着を二つの袋に入れ,召使い二人にそれを持たせてゲハジに贈ることにした.

*⁴丘に着くとゲハジは彼らの手から袋を受け取り,家に納(おさ)めてから彼らを送り出した.二人は去った.そして主人の前に出ると,エリゼオは,「ゲハジ,どこに行ったのか」と聞いた.ゲハジは私はどこにも行きませんでした」と答えた.だがエリゼオは重ねて言った,「ある男がおまえを出迎えようと車を下りたとき,私の心は騒いだ.おまえは金を受け取ったろう,庭園,オリーブ畑,ぷどう畑,大小の家畜,男女のしもべなどを買えるだろう.だがおまえとその子孫には,いつまでもナアマンのらい病がふりかかるのだ」.こうしてゲハジはらい病にかかり,雪のように白くなったままエリゼオのもとを去った.

(注釈)

ナアマンは治る(5・1-27)

この出来事の年代は確実でないがベン・ハダド(8・7)(前八四六年ごろ)の晩年だとすると、このナアマンはサルマナサル三世の侵入を防ごうとしたカルカル(前八五三年),カルケミス(前八四九年),ハマト(前八四八年)の戦いに戦功を立てた人であろう.

*¹ まことの神なる主はアラム人も助けたもうたのであろう.

*² ヘブライ人は一般の皮膚病も,らい病と呼んでいた.

*³ 祝福の動作をいう(〈旧約〉脱出の書29・24,レビ7・30).ナアマンは魔法の手ぶりのことでも考えていたのだろう.

*⁴ ヘブライ語原文には「オフェル」とある.エルザレムにも同じ名の丘があった(歴代下27・3).


* * *